水戸侯斉昭の内寵 三田村鳶魚 棺を蓋うて定った斉昭論  当時にあって毀誉《きよ》紛々たる前様《さきさま》(前中納言の略)も、常磐神社の殿宇に古色が着く ままに、群譏《ぐんき》ようやく消えて、衆訟もほとんど絶え、また、倒幕の巨魁、功名のため に心事を二三にする権略家、宗家に対する野望家と見る者もなく、中興の大功臣、維 新の大権威と指目されるようになった。これが棺を蓋うて定った斉昭《なりあき》論であろうか。 明治中興の史料は、薩長氏及びその一味に多く、幕府もしくはその方面に少い。いう までもなく、時勢のしからしむるところである、烈公の京都入説が、幕勢挫折の骨頂 となり、ようやく幕閣の政策と背馳した運動をきたしたのは、薩長氏の大便宜であっ たので、御返礼の意味でもあろうか、現今の斉昭論は、すこぶるお陰を蒙っていると 思う。それは、職として材料たる文書伝説が、薩長本位であるから、自然にそうした 帰着になる上に、早く流布した『弘道館記』や『上書建白』の文章は、いよいよ衣冠 儼然たる中納言殿を瞻仰《せんぎよう》させる。我等は新しそうに政治上の隠居(烈公は水隠士と自 称し、外間にても水戸の隠居といえり)を研究して、その畢生の行動が、時世に対して、 はた宗家に対して、何等の意味を有し、若干の価値があるかを商量するのではない。 英雄でも豪傑でも、凡人でも愚物でも、野心家でも非望家でも、人間と生れた以上は、 飲食男女の欲がある限り、厠上枕頭《しじようちんとう》の語なき能わず、堅い屎には、斉昭卿といえども、 渋面せざるを得まい。この可否すべからざる場所から観察したい。 此節明君評判頻  この句が、天保四年の狂詩にある。『甲子夜話』は「明君とは水戸当君斉昭殿なり、 嗣家の御頃(文政七年)は、世に屡ー賢明の聞えありしかば、此語あり、今稽≧其評 憶」と注した。烈公の令名は、相続の後十四年にして衰えたか、いやそうでもあるま い。徳川十二世から賞美されたのは、天保十四年である。諦視するに、爾後の称誉は、 阿部閣老の作略に由来する者らしい。しからば裸々たる烈公の品驚《ひんしつ》は、天保十四年に 決したのであろうか。  水戸中納言斉昭卿(源烈公)は夙《つと》に藩政の改革を挙行し、実に水野越前守が幕政の  改革に先ちて著手せられしを以て、天保十四年には、家慶公親しく斉昭卿を引見し、  是を賞するに、鞍鐙および黄金百枚を以てし、自から毛抜形の太刀を以てせられ、  越前守が御側に侍坐して執達する所ありしに、翌弘化元年に至りて、是を謎責して  曰く、   水戸中納言殿、御家政向、近年追々御気随の趣相聞え、御驕慢募らせられ、都て   御一己の御了簡を以て、御制度に触させられ候事も有レ之、御三家方は、国持始   め、諸大名の模範たるべきの所、御遠慮も在らせられざる儀、御不興の御事に思   召され候、依レ之、御隠居仰出され、駒込屋敷に御住居、急度御慎可レ有レ之候^   御家督の儀は、相違なく、鶴千代麿殿へ仰出され候、此段相達すべき旨上意有   レ之。  僅に一年を経ざる間に、斯の如く賞罰の反覆、掌を翻すが如きは、実に不可思議の  次第ならずや、或史論家は之を評して、是れ水野越前守が烈公の功業を忌み、陽《あらは》に は之を賞して国に就かしめ、尋て之を陥れて退隠せしめたるなりと云ふと錐も、 は之を肯諾すること能はざるなり。     おのれ既に黙けられて、 水戸中納言を隠居せしむるを得んや、 守の所為なりと云はん乎、是以て其儀に非ずと思はるるなり、 が始終巧に八方美人の策を施すに円熟なるや、 るが如き、果敢の断行を為すの人に非ざればなり 卿が水戸藩政の改革たる、内外の物議を招くに足るもの、 と同時に、幕府は越前守首相となりて、  天保十四年五月四日  同   年九月十一日  同   年九月十七日  弘化元年五月六日  同  年六月十四日  同 二年二月廿二日          しりぞ 越前守、 余 水戸中納言御賞賜 阿部伊勢守閣老 水野越前守免職 水戸中納言御讃責 水野越前守再任 水野越前守免職  責罰|将《まさ》に其身に及ばんとするに当り、之を如何ぞ、    然らば、則ち、水戸老公の誕責は、専ら伊勢              何となれば、伊勢守        幕府宗室の驚親《いしん》を、斯の如く厳罰す         、蓋し当時の跡を察するに、斉昭             頗る多かりしかども、是     改革を行へるを以て、露言未だ幕府に達す  るの機なかりしに、越前守已に什れて、改革議、幕府の採らざる所となりしに付き、  此時なりとて斉昭卿を露するの声は、将軍家の耳に達せしならん。  以上は『幕末政治家』の節抄で、幕事に精通ナる福地桜痴の記述である。斉昭卿議 責を政治上に懸断しようとしては、何人といえども、解決し得べくもない。それはそ のはず、事由はおのずから政治以外にある、『墳、前一睡夢』(大谷木忠醇)に従えば、  水戸前黄門景山公(斉昭)は、弘化年中初め'η、謁見して、其骨相を窺ふに、所謂清  平の好賊擾乱の英傑と皮相し、世を欺くの英雄と洞察せしゆゑ、祖翁(嘉永二年  『武鑑』峰寿院様御用人小石川春日町大谷木藤左衛門)に就て窃に其履歴を糺すに(原  注、祖翁は御守殿公主の博《ふ》たるを以て、小石川の御館には日々出勤して、内外の事  つまびらかに知れり)、この公が十二代大樹公(家慶)の御勘気(弘化元年五月六日)  を蒙りしは、御養母にあたらせたまふ峰寿院御方御入輿の時、大城より附添まゐら  せし宮女に通ぜしをもつて也(原注、御守殿、御住居の制度に、上薦年寄といふも  の一人あつて、この任に当るもの、大半京都堂上方の息女也、公主の万機を裁制す  るものなり、生涯奉公終身不犯を誓て奉職する者と云ふ)、此公主の縢《よヤつ》として来り  し宮女(原注、高松三位の娘なり)、顔色美麗なるを以て、大城に在りし日、十一 代公(家斉)すでに専房の寵あらむとして、喩慰せられしを拒んで命に随はず、辞 を放つて謝せしかば、文恭公(十一代将軍の論号)またこれを如何ともする能はず、 然るに、公主に縢《トマつ》して小石川の御館に在るの日、景山公(斉昭の号)これに迫り好 して懐孕《くわいよう》させぬるを以て、公主大に怒りたまふて、この事を大御所(家斉をいう) へ言上なしたまひけるに、大御所の御言に、女は経水滝滞して血塊など成る事ある ものなれば、医に診せしめて療養せよ、との御事にて、内実は堕胎せしめ快復を侯 て、京都へ差戻しけるに、景山公なほこれに恋慕し、黄金及び諸品を贈送して、乞 うて呼戻したれども、公辺を揮り茨城へおくりて囲ひ置たり、ゆゑに定府の御家格 にて不都合なるが為に、追鳥狩《おいとりがり》、調錬、海防杯と名をつけて、国籠りのみしたまひ、 つひに駒込へ禁鋼せらる、に至りぬ。 この女其名を呼で、唐橋と称せり、当時尾紀の両公にも此女の容色を賞せられ、小 石川の御館へ御入来の時も、此唐橋御酒宴の御取持に出れば、深更までも快よく御 遊びあり、若し故ありて宴席へ不参なれば、た父ちに帰御ありしと云ふ程也、景山 公この女の為に乱行に及ばれしと聞て、両公ともに、それは尤の事也、我々もあの 女に迷ひし、と云はれ、しとぞ。 のごとき非行のためであった。こうした事柄は、大奥が贈《やかま》しいもので、「露言の源泉 は幕閣にあらずして、水戸藩内の守旧党に起りて、或は幕府の後宮に及ぽしたるが如 し、就中、寺院を制限し、淫祠を破殿したるの処置は、僧侶と後宮の連衡運動を助け たること、蓋《けだ》し争う可からざるの実情なるべしjと桜痴居士が断じたのは、唐橋迫好 一件について、峰寿院が先頭に立って倣訴され、それに千代田城の大奥が響応した形 跡だけを伝えたものである。  水戸侯|治紀《はるとし》に男子二人あって、斉修《なりなが》は小池氏(名は五百、陪臣松永与左衛門女)の出 で、斉昭は外山氏(補子、烏丸大納言光祖の次f中務資輔女)の出である。この二寵姫 が各々勢いを競ったから、治紀の亮後、長子斉修が相続し、十一世家斉の女峰姫(美 子)を迎えても、水戸家の奥には春風が吹かなかった。いうまでもなく、小池派と外 山派と対時していた。斉修の巌弱《るいじやく》は小池派の命数を盛《ちぢ》めるものと考えて、峰姫夫人の 縁故を辿り、君公千秋の後は、嗣子を宗家から迎える計画を定めた。これが斉修掲館 の朝に有名なる継嗣問題となって、東湖等の見せ場になったのである。時あたかも水 戸相続の内命を受けた清水斉朋の卒去後であったから、江戸家老が第二の迎立を策す る暇なきに乗じて、斉昭はからくも兄の跡を継いだのである。故に、国に当るその初 めより、先君閨政の余映を受け、剰え寡捜峰寿院と快くない。峰寿院は一度大御所 (家斉)に訴え、当主の妄状を匡《ただ》そうとして果さなかったが、婦女の性は執拗なもの、 まして不快な者に対しては、久しく怨みを宿《とど》め、怒りを蔵《おさ》めている。阿部伊勢守は、 大奥の歓心を得た閣老の随一で、前後比倫のない女援を持った人物、いかでか峰寿院 及び大奥の意を迎えなかろう。それ故に、一方では終始斉昭卿の慰安を策して、多年 御機嫌を取り繕うのに勉めたのである。阿部伊勢守は、前後二十年閣老を勤めた、江 戸幕府に二人とない手腕家だけに、遂に世間から烈公を阿部の提燈持ちといわさせる ほどに利用した。大奥のために他動的に隠居させた代償を、十分にするとともに、そ の御馳走の喰い逃げをさせぬところが、阿部閣老である。  阿部伊勢守は窃に憂苦して、老公と将軍家(家慶公)との間を調停するに従事した  り……此間、後宮に在りて、伊勢守に同意して、将軍家を動かしたるは、蓋し姉小  路なるが如し、姉小路は堂上某の女にして、京都より来りて後宮に仕え、上鴉と称  して大に勢力を占めたる婦人なりけるが、此姉小路は尋常婦人に異りて、才幹頗る  衆に秀でたるを以て、将軍家にも、其言上する所には、往々耳を傾けられたりと云  へり、且つ老公も亦、姉小路の妹某が水戸の館に在るを縁として、姉小路と直接に  文通せられたること、屡々ありき、現に小金原御鹿狩(嘉永二年)の節に、老公よ  り姉小路に送られて、其事を論ぜられたる自筆の書翰を、一覧したる事あり。(故  千村玄庵翁の所蔵と記憶す)  これも『幕末政治家』中の節取である。姉小路は名を伊予子《いよこ》といい、橋本権中納言 実誠の女にして、同大納言実久の妹、水戸邸にその妹がいたとは、誰のことでもない 唐橋を指すので、烈公は禍を転じて福と作《な》し得た。唐橋迫好一件のゆえに、厳諮《げんけん》をも 獲たが、その同胞に大奥の権威たる姉小路がいで、、牽引して徳川十二世との連絡を付 けられた。姉小路も三家の尤物斉昭という最大外援を捉えるのに、勇んだであろう。 それに、十二世家慶の御台所|楽宮《ささのみや》は、烈公の御簾中|登美宮《とみのみや》の御姉妹で、ともに有栖川 織仁《ありすがわおりひと》親王の御女であった。故に、姉小路が水幕の間を弥縫《びほう》するのに、針線いよいよ快 く運ばれたのである。『醇堂叢稿』はいう。  景山公の罪|宥《なだ》められしは、嘉永二己酉年十月.一十五日、慎徳公(家慶)水府の上邸  へ御立寄被レ為レ在時、御妹君峰寿院御方より御願にて、景山公(斉昭)を予《かね》て駒込  の邸より呼寄せ置て、席上の御対顔を御周旋ありしより、赦すともなく宥《なだ》むるとも  なく、ずるくべつたりに済たり、ゆゑに、世上へ、隠居の答をゆるし遣はしたり  との御触は、無かりし也、又この時、御簾中にも御同席にて、御対顔をゆるされし  と云々。  この時、予が祖翁なるもの、現に公主の御附にて御館に伺候しけるゆゑ、翁より聞  く実事也。  伊勢守は、その執政の初めに当って、大奥の騒心《かんしん》を迎合するために、水野越前守が 不問に付した烈公の陰科に向って、一度厳誕を加えて、しかる後に、姉小路と内外か ら相呼応して、峰寿院の宿怨積怒を解き、その後に、烈公を政治の舞台に誘う運動は、 着々成功した。さきに伊勢守が慰籍する辞色あるを見て、身上の巨細を披渥《ひれき》して、握 救《じようきゆう》を求めるだけの雅量のある烈公は、姉小路との連絡を取るにも、伊勢守を通じた迂 回線でなく、唐橋からの直通線を取った。この後は、伊勢守・姉小路・烈公と、互い に利用競べの体である。しかし、姉小路は知らず、伊勢守正弘の心事は、烈公をして 自家の政策の障碍たらしめずというのを、原則とした。烈公の佃島における造艦が、 功程弥久、費途多端なるや、閣僚ことごとく事業の廃罷に同じた時に、  予聞く、獣中に獅子なる者あり、其猛属なる、能く之を制し得る者無し、故に、之  をして怒らしむれば、奮迅庖障、必らず多く人を傷けて猶ほ止まず、唯一術の之を  制する在り、之に投ずるに球丸を以てすれば、宛転旋滑、終極する所なきより、獅  子怒て之を賜し、之を蹴り、之を咬み、之を爬《は》すと難も、其如何す可からざるを以  て、終に怒を止めて、終日終夜玩弄し、害を他に及ぽすに暇あらず、恐入たる事な  がら、老侯に負はするに造艦の任を以てするは、其好む所の物を授けて、其怒を殺  ぐなり、去れば、老侯の騒心を失なはざるは、十万二十万金に替難き所以なり。  (『飽庵遺稿』) といったのでも知れよう。阿部閣老は、烈公のすでに有利有害なるを知れり、これを 有利無害にするのは、その技量である。故に、造艦竣功して厄介丸と潭呼《こんこ》され、「動 かざる御世は動きて動くべき船は動かずみともなき哉」と唄われても、すでに獅子渡 丸の喩えをもって、よく無害にした活作用を認めなければならぬ。また、烈公を幕府 の最高顧問としながら、たちまちに隔日の登城を促し、たちまちに随時登城に改める 等、功妙に即《つ》かず離れざる処置に出たのも、阿部閣老が、有利無害、無利無害、その 選ぶに任かせて、膀を曲げさせずに推移した器用を感服せしめる。嘉永六年六月八日、 「水戸前中納言殿御用有レ之、当分隔日御登城たされべく」という最高顧問の任命に ついては、『幕府衰亡論』が、  余が伝聞せる所にては、水戸殿は曾て幕府の誕責を蒙つて隠居せられしと錐も、将  軍家慶公は常に其人となりを識り、徳川家一門親戚の中にて頼母しき人物は水戸殿  なりと、密かに信用を置き玉ひしに付き、今度亜国軍艦渡来、和戦の大事に臨み、  我を補弼して此難局に当らんものは、水戸の外にはあらじと思召し、是を阿部に諮《はか》  らせ玉ひしに、阿部も心には左までとは思はざる迄も、抗拒すべき訳もなければ、  然るべしと答へて、扱は水戸殿御登城とは定まりしなり。 と説明している。十二世が斉昭卿を特に信任されたというのは、姉小路と結託した効 験である。さきに失った大奥の罐心を、回復したためである。十二世を動かしたのは この力が多い。逆取順行とは、斉昭卿の境涯に看取される熟語である。  唐橋に耽溺した結果が、烈公の水戸通いとなり、惚れて通えば千里も一里、まして 七十三哩、追鳥狩《おいとりがり》や調練が頻繁になる。空砲は禁裏の睡を驚かさず、硝薬の煙は巫山《ふざん》 の夢を軍《こ》め、江戸から眺めた筑波山嶺の雲々雨々、お安くない光景がすなわち憂国の 至誠、心を武備に潜められたお顔付は、眉毛が下って屑端緩し、勿論女が好きでは、 国家のために働けないはずもない、迫好と強姦と文字が違うから、意味も同じではあ るまい。そんなら法禁の外にある行為でもあろう。唐橋唐橋、ついに故郷に帰らずに、 |駒籠《こまごめ》の水戸邸で死んだ唐橋(花野井と改む)、佳人は烈公の運命を与奪した。 のも、出頭したのも、皆唐橋が襖子《けつし》になっている、      水戸侯斉昭生子表 烈公の年齢 二十五 二十八 三十 三十五 三十六 三十七 三十八 同 同 三十九 四十 子女の名 佐加姫 色許姫 本岐姫 慶 篤 二郎麿 比呂姫 以以姫 三郎麿 四郎麿 松 姫 庸 姫 生 母 萩原氏 同 前 同 前 登美宮 同 前 山野辺氏 登美宮 松波氏 山野辺氏 松波氏 山野辺氏 年 号 文政五年 同 八年 同 十庄 天保三年 同 四年 同 五年 同 六午 同 同 同 ヒ年 同 八年 没頭した 同 同 同 四十二 同 四十三 四十四 四十五 四L⊥ハ 四十七 同 同 五十一 五十二 五十三 五郎麿 六郎麿 七郎麿 八郎麿 九郎麿 一棄姫 八代姫 十郎麿 静 姫 余一麿 余二麿 余三麿 余四麿 余五麿 茂 姫 松波氏 柳原氏 登美宮 山野辺氏 松波氏 山野辺氏 松波氏 山野辺氏 立原氏 同 前 松波氏 山野辺氏 万里小路氏 高丘氏 万里小路氏 同 同 同 同 十年 同 同十一年 天保十二年 同十三年 同十四年 弘化元年 同 同 嘉永元年 同 二年 同 三年  五十四  五十五  同  五十六  同  五十八  五十九  同  六十  六十一  同 すなわち、 廿正寧廿廿余余久愛余余 二   - 九八   七六 麿姫姫麿麿麿麿姫姫麿麿 高丘氏 万里小路氏 高丘氏 庵原氏 万里小路氏 高橋氏 万里小路氏 高丘氏 高橋氏 同 前 万里小路氏       十腹、三十七子を算える。 五十五子を除いて、他に匹敵する者がない かろう。家斉将軍は、十七歳から五十五歳まで四十年間、 し、二十四、三十七、四十、四十三の四年は、 同 四年 同 五年 同 同 六年 同 安政二年 同 三年 同 同 四年 同 五年 同 江戸三百年間に、十一代将軍家斉の二十一妾  。生殖力の上からも、烈公と申してよろし         毎年平均一人三二五を生殖    各々三児を挙げ、三十一には四児を挙 げている。これに対して水戸侯は、二十五歳から六十一歳に至る三十六年間、平均一 人零五七強で、三児を挙げたのは三十八、四十七の二度で、甚だ遜色がある。しかし、 四児を生産したのは、将軍よりも九歳闘けた四十歳の時である。我等は水戸侯の晩年 の精力が、十一代将軍よりも盛んであったように思う。それは単に四児を生殖した年 歯からみてのみいうのではない、その死前生殖から考えていうのである。十一代将軍 は、天保十二年に六十九で亮去されたが、その生殖力は五十五歳、莞去の前十四年に 底止した。水戸侯は、万延元年に六十四歳で莞去されたのに、安政五年(六十一歳) まで持続し、特に最後の所出が二児であったのみならず、それが亮去の前一年十一箇 月にあるのは、刮目すべき事実ではないか。水戸侯斉昭は二男であったから、長く部 屋住みの境涯におられて、ようやく三十歳で長兄斉修の跡を継いだのである。もしか くのごとき事情なく、その天縦の生殖力を、夙歳《しゆくさい》からほしいままにし得たならば、た しかに十一代将軍を凌駕し、江戸における第一人者たるに、何の造作もなかったろう と信ずる。  江戸時代としては、正室、側室、嫡母、庶母という名称は、道学先生にさえ承認さ れておった。今日でも、自分の妾に庶子を何程産ませたところで、毫も悔吝《かいりん》すべきと ころはない。兼好が、塵塚のちり、文車の文と多子を嫌ったのも、畢寛人間を骨董扱 いにするのであって、そんな遠慮は僕不肖といえどもしないと、異口同音にいうであ ろう。嗣子のないのは御不幸でござる。大名でも旗本でも、子がなければ除封される 世の中、性欲これをしからしめて妾を蓄えるわけではない。一家一門の繁昌ほど、お めでたいことはない。特に婚姻政略は戦国伝来とあって、効能すこぶる顕著な世界に、 嫁御でなくて婿殿を供給するのは、勢力拡張の第一義で、有為な人は勉強して男子を 製造すべき理由がある。決して、荒淫漁色などといわれるはずがない。恋に憧れるな どは、平安朝のヒョロヒョロ公卿のこと、攻城野戦に換える活作用、天下の諸侯を駆 壌するのに、兵馬の力を要せずして、その領土を旦夕の間に奪掠しおわる養子縁組、 恋愛神聖論に実利は伴わぬ。生殖はかつて崇拝された。所因《いわれ》ある哉、これには大効が 付随している。水侯の男子二十二人、長子慶篤のほか、天折せる十人を除き、出でて 諸侯たる者十人、所生のことごとくが侵略に効験のあったのは、いうまでもない。特 に、七郎麿(慶喜)の、出でて一橋家を襲い、転じて十五代将軍に備わるに至って、 いよいよ烈公が盛んに生殖に努力されたゆえんも明白になる。  こうした弁明が道理あるらしく聞えて、一切の大名等の内行を荘厳するのである。 すでに子女を表示しおわったから、その所出を考えなければならない。  夫人吉子(登美宮) 有栖川昭仁親王妹   萩原氏(豊子称二古与一) 御持筒同心庄左衛門女   山野辺氏(忠子称レ直)  家臣外記姉   松波氏(春)  家臣造酒之介女(実仙洞御所北面侍越前守光寧女)   柳原氏(登聞) 大納言隆光女   立原氏(利子称レ夏)  家臣甚太郎女   万里小路氏(睦子) 大納言達房女   高丘氏(徳子)  宰相永季女   庵原氏(道) 家臣某女(実幕臣高橋駿河守重賢女)   高橋氏(里瀬)  幕臣七右衛門高明女  九妾の四は京都の人である。側室任用の手続きが知れないから、断言は出来ないが、 遠く阿矯《あさよう》を買われたのか、それとも、夫人に従行した女磨を員に備えたのか。土浦侯 の養子になって相模守|挙直《しげなお》と申された余七麿の生母万里小路氏は、登美宮降嫁の東向 をお送り申して来たので、すぐにも京都へ帰るはずの人であった。それを烈公が強談 に引き止め、ついに故園に帰られないようにしてしまった(土浦藩士某談)とも聞い ている。一体、系譜から見た侍姫は、いずれも所出のある者のみで、子女のない者は 挙げて記載されぬ。『実歴史伝』(海江田信義述)に、藤田東湖の語を記して、「公(斉 昭)平生|柳《いささ》か女色に過ぐるものあり、余|窃《ひそか》に公(旧、為めに之を憂ふ、一日直諌して曰く、 公の齢既に高し、若し色に過るものあらば、恐らくは賢体を害するならん、臣願くば、 少く之を節し給はんことを、公曰く、汝の忠告|太《はなは》だ可なり、寡人必ず諌に従はんと欲 す」というのは、嘉永六年の記事である。烈公|方《まさ》に五十六歳。東湖の直諌も寸効なく、 その後も新しい内寵が絶えなかった。安政初年に、半胎か死産か、ともかくも妊娠し たものがあった。その女は小石川伝通院表門前の紺屋山半(山形屋某)の娘で、水戸 家の奥に勤めるお使番であったとやら。お使番は進御の員ではない。しかるに、その 女が妊娠した。それが後年に、老女として小梅邸におった(水戸藩士某談)。こうした 女さえ記載されないのだから、かつて妊娠しない女は、すべて秘せられてしまう。系 譜は職員録でない。職員録にも内人を掲げない。到底、殊寵の女儀は、当時といえど も、外間に発表されるものでない。札の付いたお妾は、すなわちお腹様である。それ を産んだ子女とともに、内分にすることも多いから、容易に閨政の真相は分らぬ。さ て、家門繁昌のため、勢力扶植のために、植大名を策する雄図があったならば、発表 はせずとも、生殖事務員の増加を忌揮せずともよろしいと同時に、あえて員外の女に 触れて、閨門の政を乱すにも及ばない。しかるに、毎年二度ずつある僧楽園拝観の際 には、藩中の娘等、一同に丸髭に結って出掛けた。未婚者も、当日だけは、婦妻のご とき髪飾りをしたという。何故に娘が女房の姿をしたのか。烈公以前には、借楽園の 拝観ということもなければ、藩中の娘が、特に丸髭に結って、君公の辺りにゆくこと もなかった。ある者は、この際第一日に娘達を呼び、第二日に家臣の武装を検閲した。 甲冑は損じていたが、家族は満艦飾であったので、閨藩《こうはん》の平生を戒飾《かいちよく》されたなどと、 備前の新太郎少将の故事を、そのままに持ち出そうとする。そんな甘い献立は失敬せ ざるを得ない。晋の挑允仲《ようよくちゆう》は四十二子、その妾の居室の旛《まど》の外に厩を設け、馬の華尾《じび》 するごとに縦観させて、それを求嗣の秘訣としたと『五雑姐』にあるが、斉昭卿は挑 を学んで、しばしば女員と共に邸厩に萢《のぞ》まれたと聞く、果して故人恥しい成功をして おられる。この成功が畢生の波瀾|藍揺《とヤつトミつ》を伴う。  先づ御養女降嫁の内議を達せられ(嘉永元年のこと)、其の御方は有栖川宮の姫君に  て、線姫《いとひめ》君(幟子《たかこ》、有栖川幟仁親王女)と申し、御方なりけるが、扱、此姫君江戸へ 御下向ありて、幕府後宮の女房たち是に接したるに、実に稀代の美人にてぞましま しける、此時に当り、将軍家の御台所は已に甲く亮じ給ひて、将軍家には側室あり しのみ、而して世子右大将家(十三世家定)の御簾中も、前後とも打続きて莞ぜら れたれば(有君《ありざみ》、鷹司関白政通女、天保十二年十一月二十一日婚儀、嘉永元年六月十日 莞。寿姫、一条前関白忠香女、嘉永二年十一月二十二日婚儀、同三年六月二十四日莞)、 独居の御身柄なり、然るに、此線姫君の姿色、世に勝れ給へるを、目のあたり見参 らせてより、後宮の女房達は、何とかして水..パの婚約を破り、此の線姫を以て、世 子右大将家の御簾中に立て申さんとの望を起し、その密計に及びたり、其主謀者は |蓋《けだ》し姉小路ならん、他の勢力ある女房等も、呪近の御側衆本郷丹波守の如きも同意 にして、内々は将軍家も御同意にてありしやも知れざりき、扱、この破約の策とし て、姉小路は大胆にも、書を老公に送り奉りて、右大将家は現時御独身なれば、此 線姫君を御簾中に立てられて然るべしと、老公より御発議ありては如何、必らず御 聞入ありて御満足なるべし、此事心附たるまゝ、内稟《ないひん》する旨を述べたり、老公は此 書を得て大に怒り、此事たる、将軍家の御内意に出でたる歎、誰の発議なる歎、と 反問ありければ、姉小路は再び書を寄せて、此事たる、将軍家には夢にだも御存知 なき事にて、唯妾が一個の所存より内稟したる迄なり、老公に於て御同意なき上は、 勿論御取消を望み奉るなり、と答へて、飽までもおのれ一個の所存なりと弁疏した り、是にて老公の方は相済みたれども、君側後宮にては、猶も破約談の盛にして、 頻に将軍家を動かし、為に一場の葛藤をも惹起すべかりしを、阿部伊勢守は、此密 計の行はる上を聞き、こは以ての外の事どもなり、斯る事より老公の不満を招きて は、幕府に取りて由々しき大事なるべしと、後宮の密計を排斥し、断然、線姫君水 戸御入輿の事を実行せしめたり。(『幕末政治家』阿部伊勢守と水戸老公) 密計破れて入輿  かくて、水戸侯|慶篤《よしあつ》(斉昭の長子)は、嘉永五年十二月十五日をもって、婚儀を行 われた。嚢日《のうじつ》、唐橋に対する家斉と斉昭との錯綜を、今はまた慶篤と家定との間に繰 り返そうとする。事体は前後相異なるが、事情は全く同一で、失恋させたことは疑い もなく、鞘当の勝利者が、ともに水戸侯であったのも奇である。幸いに慶篤卿は、資 性温厚なお方であったから、辣手《らつしゆ》をもって有力な大奥の才媛に結ばずとも、援引する 阿部正弘の摂護なくとも、これがために事端を敢、目くようなこともなかった。しかし、 烈公の運命は、新夫人|幟子《たかこ》によって拗戻《ようれい》するのを禁じ得なかった。そもそも姉小路の 内稟を斥《しりぞ》けられたのは、大奥との連鎖を断絶されたのである。この時とても、大奥で は烈公の内行を知って、甚しく毛嫌いをしていた。ただ姉小路の敏腕慧心にのみ頼っ て、庇護調摂されたものを、とみに破壊してしまった。決して姉小路一人を失ったの でない。全然内部からの好意を失うことになったのみならず、安政三年十一月七日、 入輿の第五年に、二十歳で他界された。徳川「二世の養女、有栖川宮の御女、水戸殿 の御簾中、かくも顕貴な御身柄であらせられる一縁姫御方は、何故か変死されたのであ る、自裁されたのである。すでに随姫《ままひめ》(安政元年七月五日生)をも挙げておられた。 愛子を残しての自殺、それは御舅斉昭卿に関係、9ることという。この時烈公は五十九 歳、英気勃々として、厄介丸の建造に尽捧せられ、今春その功程を了せるのみか、安 政の大獄に到達すべき経路たる京都入説は、実に前年に諮開《かつかい》せられ、闇中の飛躍凄じ く、烈公の身上甚だ繁劇である。中にも、万里小路氏に二十麿、内人高丘氏に二十一 麿と、公子を連発させて、老健絶倫の観がある.、さりながら、藤田虎之助●戸田忠太 夫は、前年の震災に圧死し、今や烈公の羽翼は殺がれている。天狗・書生の二党は宿 構であって、一事件のために発生したものではないが、後来水戸殿御父子の間に阻隔 の生じたのは、藤田・戸田の両人が存生でも、防遇《ぽうあつ》し得なかったかもしれぬ。書生派 が慶篤卿を奉じて前中納言殿に同じないのも、天狗に反抗する気概があったばかりで もあるまい。彼等が君公御父子の間を距たのは、実に前様に対する反情である、遵従 するに忍びないのである。ああ幟子《たかこ》夫人の自裁、書生派は幕府に媚びるのでもなかろ う。僥倖を先途とする俗論者でもなかろう。彼等にも苦衷の存せるを見る。