間男成敗 さわり三百、間男七両二分  そういう時世になったに就いて、姦夫姦婦の処分がどうなっているかと考えて見ますと、明暦 元年十月の江戸町中|定《さだめ》には、他人の妻に通じた者は、その場に於て男女ともに討留めてもよろし い、またそれを訴え出れば、取調べの上で男女とも同罪にする、という規定がある。「寝髪を押 へる」という言葉は、姦通の現場を押える事なので、「重ねて置いて四つにする」というのも、 その場で殺して差支ない、という諺なのです。享保九年の法令を見ますと、人殺しの条に、たし かな証拠があって密通している男女を斬り殺した本夫、密通を申かけられた相手を斬り殺した女、 これらは無罪と規定してある。それが今度は元文度になりますと、直ちにその場を押えて斬って しまうことは差支ないが、訴え出た場合には、姦夫姦婦は非人の手下にする、良民たる分限を停 止する、ということになって、大変軽くなっている。然るに寛保の定めで見ると、姦夫姦婦を殺 した本夫は無罪、姦夫姦婦は死罪にする、主人の妻に通じた男は獄門、女は死罪、夫のある女に 強いて不義をした者は死罪11これは強姦ですが、夫のない娘や何かであった場合は重追放で、 夫のある女の場合の方が罪が重い。これで見ると、後の方が罪が重くなって居ります。 けれども元来姦通は親告罪ですから、法律の規定はとにかく、実際とかけ離れる虞れがある。 刑罰は次第に重くなって来ると共に、内済は益々多くなる。幕府がだんだん罪を重くして行くと いうことは、そういう罪を犯すことを恐れさせるためなのですが、惜しいことにその効果はあま りなかった。何故なかったといえば、内済が多くなったからで、それがために間男の首代という ようなことが起って来た。過銭首代と続けていう、罪の|贖《あがな》い-罰金のことです。これは法律に は書いてありません。江戸の法律としては、姦通罪は何としても罰金では済まない。鎌倉時代の 定めでは、三十貫文乃至五貫文の過料ということになって居りまして、間男の死罪ということは なかった。江戸時代になってこの罪が重くなったのですが、実行の方は一向になく、上方では 「さはり三百」ということが云われて居りました。享保度には間男が流行物の一つのようになっ ていて、如何にも造作ない、「さはり三百」という諺が出来るほどであったのです。 この三百は三百匁ということで、銀相場が六十匁一両とすると、三百匁で五両という勘定にな る。だから「勘忍五両」という諺もありますが、江戸ではそれを「間男七両二分」と申します。 大判一枚七両二分ということは、享保十年の法令に規定されている、それから来ているのです。 銀遣いの上方では三百匁といい、江戸は金遣いだから、金一枚で七両二分という。どっちにして も造作なく金で済むので、全く法律離れのした事柄に見ていたのであります。それほど当時は、 上方も江戸も風俗が乱れて居った。この首代ということに就いては、諸大名が自分の領分の者に 対する刑罰を行う時、打首が一つあれば高野へ金一枚奉納する、それで間男の首代ということが 起った、という伝説がありますが、どういう根拠があるか存じません。蜀山人は、江戸で姦婦の 償いを七両二分といい、大坂では五両二分という、如何にもおかしい、と書いて居りますが、上 方の三百匁は何故か存じませんけれども、江戸のは金一枚ということなのです。 また享保度の姦通事件があまり多いので、大岡越前守が工夫して、男から過怠金として金一枚 出させ、内済にさせるようにした、ところが却って密通が多くなったので、早速そういう事をや めさせた、という伝えもある。これは首が飛ばないと思って、安心したから殖えたのでしょう。 この根拠もまたたしかでありません。享保度の金一枚、即ち七両二分は、化政度には三十両にも 当るわけです。明和、安永になりますと、愈々不義密通の成敗ということがなく、専ら内済ばか りになって来ましたが、化政度には更にひどくなり、御留場内で魚を捕った者と、間男に裁断の ないのは御政事の秘密である、とさえ云われて居ったくらいであります。 こういう成行きになった、そのもとを考えて参ります時分に、大低の議論では、五代将軍が生 類御憐愍の法度を出されて、あらゆる生物の命を取らぬようになされた、その時何事によらず、 手討にすることは御嫌いであるというので、不義密通の成敗などといって、人を殺すようなこと は宜しくない、それがために罰する者もなく、またたまにそういう事をやると首尾が悪いので、 出世することが出来ない、という風でありましたから、それ以来癖がついて、間男の処置なんか も穏便にして、内証で片付けるようになった、家族の不義に就いても、沙汰なしにするようにな ったのだ、とのみ云って居りますが、これは決してそればかりじゃない、時世がおのずからそこ に到ったので、風俗がだんだん壊敗していることを云わないのは、甚だ物足らぬように思われま す。 旗本の娘の出奔 元文二年の春にたりますと、旗本の娘達が一時に三十人余も出奔しました。こんなに旗本衆の 娘や何かが大勢駈落したのは、これより前には全くなかったことで、その重立った者の名を挙げ てあるのを見ると、北条新蔵の娘、堀田孫太郎の娘、内田頼母の娘、竹田法印の娘が二人、花房 |戌《まもる》の娘、青木新五兵衛の娘、稲生下野守の娘、なんていうのがある。北条新蔵の娘というのは、 軍学者の北条氏長の曽孫に当るのですが、これは若党と家出をして、雑司谷の法明寺で情死をし ている。稲生下野守は当時名高い町奉行で、この時分は勘定奉行になっていた筈です。ただ旗本 であるのみならず、当時としては顕官の娘までが、こういうような身持をしていたのであります。 それに対して例話とすべきものが、松崎観瀾の「窓のすさみ」に書いてありますから、それをこ こへ出して置きましょう。 或旗本中の息女、家中の|若士《ざむらい》と密通し、彼士、息女をつれて出奔しける、主人御城に宿直の 夜なりければ、そのむね書中にて達しけるに、帰りて後申付べし、随分穏便にして居よと返 答ありけり、翌朝退出後、立退たるものは知れければ、|愉《ひそか》に居所を聞付べしと穏便に云付、 さて気分勝れず候程に、保養のため、今日難子申付べしとて、客を招きて終夜まで遊び、三 日続てその如くせられしかば、世上によもや異変はあるまじとて、沙汰するものもなくて止 みけり、かくてつれ退きたるもの行方知れければ、金五十両遣はし、まづともかくも凌ぎ居 よ、追て安く暮しぬる様にして遣すべしとて云やられける、か」りしゆえ世の風説なくてや みぬ、近頃あしく取なして恥をひろげぬるも有りし、総て近年貴人の娘、又は妻女など不義 の出奔時々ありて、珍しからぬ様になりぬ。 こういう処分をするのが、御|情御《なさけ》慈悲の御勘当というやつで、有難く御礼を云いながら、その 屋敷から忍び出る。その後主人の子が貧窮で困っているのを引取って大いに世話をする、という ようなことで、例の報恩美談ということまで出て来る。また一般にこういう風に表向でなく、内 内に隠して処置するのを、賞美するような気味合いにもなっている。それですから中には取隠せ ないで、飛んでもないボロを出しているのもあります。 享保九年の冬の話で、甲州勤番を命ぜられた小普請三百俵、本間権三郎という人がありました。 年もまだ若い、当年十九歳、牛込の|相坂《おうさか》に住んで居りましたが、この人は御婿さんで、奥様とい うのが家付の娘で十六、若い御夫婦なのです。十一月一日に江戸を発足して、甲州へ行かれる筈 になったので、若い本間権三郎は、もうこれから先幾年たって江戸へ来られるかわからぬ、とい うところから、十月二十八日の晩に、吉原の馴染の女郎のところヘ暇乞に行った。その頃の若い 旗本衆などというものは、こういう工合式になっていたのです。二十九日の朝になって、屋敷ヘ 帰って来て見ると、その晩のうちに若党が奥様を誘い出して、どこかへ駈落してしまった。江戸 にはいないのですから、家作や何かはすっかり売払い、引越料も取纏めて奥様へ預けて置いた、 その金を持って駈落されてしまったから、本間権三郎はひどく困りました。方々捜索しているけ れども、なかなか行方がわからない。そのうちには|頭《かしら》の耳にも入る、というわけになって来る。 然るに十二月二日の朝になりまして、品川の仕置場のところに、若い女が一人しょんぼり立って いるのが見付かった。土地の者が大勢寄って来まして、だんだん調べて見ると、それが牛込相坂 の小普請、本間権三郎の妻である、ということがわかりました。そこでその晩にたってから、品 川から屋敷へ駕籠で送り届けましたが、これは誘い出した若党が持っている金を奪って逃げてし まい、奥様は置去りにたったのです。併し本間家は遂にこれがために改易になってしまった。 -こういう事件もあったのであります。 それですから旗本衆たんていう立派な士でない、もっと身分の軽い武士、乃至は浪人老であり ましても、不義密通の処分はなかなかむずかしい。荒立てていい結果になるか、悪い結果になる か、そこのところがわからないので、先ず穏便に片付けるのが何よりの事になったのです。本所 に住んで謡の師匠をしていた浪人が、妻女が若い弟子と密通しているという噂を立てられた時、 狐を斬ってその噂を消した上でその妻を離縁したのを、如何にも手際のいいこととして、「窓の すさみ」は伝えて居ります。一体浪人はさまでの事もないのですが、母親が不義した場合には、 その子供は家を相続することが出来ない。それが士としてはまことに困ったことになるのです。 この人などは浪人ですから、禄を受継ぐこともなし、そういう心配はないけれども、二人あった 娘が大きくなって縁組するような場合には、大変な邪魔になるに相違ない。その辺の事を考えて こんな処置を執ったのでしょう。 逆に出る姦夫姦婦 そういう風でありましたから、この頃としましては、犯した老よりも犯された者の方が恥にな るのです。犯した者はいい事をしても、ひどい目に遭うことがないので、何か手柄でもしたよう に、世間で思いもすれば云いもする。被害者としては外聞を気遣って、外へ聞えぬようにしなけ ればならない。もしそうでなくて、表向にして処分しようとする場合でも、頭支配というものが ありまして、先ずこれに申立てなければならない。大名、旗本の家来としては、主人に申立てる。 主人から頭支配に申立てるので、その間には手間もかかるし、人も入って来る。結局姦夫姦婦は 勿論悪いが、そういう者を自分の家庭から出したのは、家事不取締じゃないか、と云われる。だ から訴えようとしても、自分の手前どうしても控え目になる。大体の考えが控え目になるところ へ、家事不取締を振廻されるから、甚だ訴えにくい。一時の憤りからその場で成敗することも、 後の事を考えて見ると、不体裁であるのは勿論、家事不取締であることに変りはありません。そ ういう不心得者を妻にして置いたのも恥かしい、という妙なものが出て来て、武士である以上は、 どうしても引込思案にさせられてしまうのです。 町人どもはそういうことがないから、無遠慮に騒ぎ立てて差支ないわけですが、中から下の町 人でありますと、間男騒動などをやって、出るの引くのと云っているうちに、身上が大抵なくな ってしまう。そういう世間一帯の有様でありましたから、家主や町役人に相談して見ても、身上 のために宜しくあるまいから、差控えたらよかろう、という異見ばかり食う。士でも町人でも、 おし黙っていることになるわけです。そこを押切ってやるにしたところが、世間一般がそういう 風でありますから、奉行所などへ持出しても、鼻毛が伸びているとか、間抜けだとか、物数寄だ とか、どちらも愚弄されるだけで、はかばかしい処分はしてくれない。なるべく内済にするよう に仕向けられますから、結局同じことになって、この方からも表向になることがなくなるのであ ります。 文化、文政なんていう後の話ではない、享保十一年にこういう話がある。麹町二丁目に御番所 足軽の津右衛門という者が住んで居りましたが、もう四十余の男で、その女房というのは三十五 六になっている女です。何の縁があったか知らないが、同じ御番所足軽の利介という者を同居さ せて置いた。然るにこの利介に津右衛門の女房が姦通しているという評判が立ちましたので、津 右衛門も、だんだん気を付けて居りますと、七月の中頃になってたしかな証拠を押えた。そこで 津右衛門は利介に向って、わしが女房はお前にやるから、どこへでも連れて行くがいいと云い、 女房にも、今日只今暇を遣すから、利介と一緒にどこへでも行け、と云った。そうするとその女 房が大変に腹を立てて、わたしはどこへも行くところはない、腹が立つなら斬るとも殺すとも、 心次第になさい、といって悶著している。利介はこれを見て逐電してしまいましたが、肝腎の女 房が動かないものですから、今度は津右衛門の方が駈落してしまった。町内の者は、あまり亭主 が人がいいから、甘く見られてこんなザマになったのだ、と申しましたが、これが明和か安永あ たりの出来事だったら、面白い小咄にでも仕組まれるところでありましたろう。  またその頃の話に、町人が間男をされたので、それでは女房をくれてやる、併し同じ町内には 住んでくれるな、と云ったところが、姦夫姦婦は平気で出て行って、二三軒置いた隣に借家をし て住っている。本夫が大いに怒って居りますと、あべこべに本夫の家へ火札を貼った。これはそ の時分に|流行《はや》ったことで、意趣があるから火をかけて焼払う、という札を貼らせるのです。それ を見て家主は、これは容易ならぬことだから、引越して貰いたい、と云い出した。火事が出来て は迷惑だから、こういったのでしょう。併し亭主は口惜しくって堪らないので、遂に訴訟になり まして、姦夫姦婦は所払いになった、という話もあります。姦通しても罪に問われぬばかりでは ない、その本夫を居所に置かぬように、あべこべに火札を貼って恐喝するような者まで出て参り ました。 処分の鈍る傾向  こういう空気でありますから、どうも女が悪くなっている。延享度に重い刑罰を受けた女の話 があります。これは神田辺の町人の娘で、一度婿を貰ったのですが、不幸にして死別しまして、 二度目の婿を迎えた。この女が手に余る乱暴者で、母親にも当りが悪い。先夫の時にもそうであ ったのですが、今度の夫になっても大勢密夫があって、なかなか盛に間男をする。二度目の婿と は殆ど一っ寝もしないくらいである。けれどもこの婿は母親の気に入って居りますので、或時女 房がこういうことを云った。あなたと夫婦になって心易くしたいのだが、何分にも母親というの が|猛《たけだけ》々しい人で、近所でも皆憎んでいるくらいのものである、先の夫とも仲よくしたところが、 母親が大変に不機嫌で、いじめていじめ殺してしまった。あなたとも睦まじくしたいのは山々で あるが、そういうわけで|疎《さつとちつと》々しくしているのです、だからこれは思いきって、母親を人知れず殺 して下さい——。婿の方は間男のあることも承知しているし、変なことを頼まれましたので、思 案に余って再応断りましたが、女房はなかなか承知しない。そのうちに自分で思いついたことが あったので、それではお前の望み通り殺すことにしよう、といって承知しました。 それから浅草へ御参りに行くといって、母親を連出しまして、日が暮れてから一人で帰って来 た。母親はどうしてくれたか、といって聞くと、たしかに人知れず殺して来た、証拠はこの通り だ、脇差を見るがいい、といって血のりのついたのを見せましたので、女房は大変に喜んで、こ れで本意を遂げて嬉しい、今後は快く夫婦暮しが出来ます、といったが、翌日忽ち亭主が母親を 殺した、という訴えを致しました。婿は直ちに奉行所へ引立てられて行きましたが、母親を殺し たのでも何でもない、実は自分の親類に預けて、脇差には魚の腸をくッつけて帰ったのでござい ます、という申立をした。奉行所でいろいろ調べて見ると、それに相違ないことがわかりまして、 婿は家に戻され、女房は重い刑罰を受けた。この話は「窓のすさみ」に出ている話ですが、これ がそっくり「神稲水滸伝」の中に取入れられて居ります。 こういう太い女、姦通罪を大目に見られただけでは満足せず、その上にも勝手のいいことをし ようとする風を生じて居ります。そういうような時ではありますが、中にはなかなかテキパキし たのもある。享保十年の四月十日、五百石取の御小姓で、長田新右衛門の弟に三郎次郎という人 がありまして、これが嫂の里方である寄合の服部右衛門七という人のところへ泊りに行った。か ねて出来ていたものと見えて、服部の用人森田源五右衛門の妻が、路地から三郎次郎の泊ってい る部屋へ忍び込んだ。それを本夫の森田があとをつけて来まして、二人ともその場で斬り殺して しまった。これはその斬り殺したことに対しては、別に処分はないけれども、そのまま服部の家 に仕えているわけに往かず、やっばり浪人しなければならなくなっている。思いきってやって見 ても、あとの事を考えると、どうしてもその処分がにぶるのです。 もう一つ思いきってやってもにぶる例は、八官町の裏店に住んでいる軽い町人の女房が密通を 働いた。これが武士とか、重立った町人の作法であるとすれば、訴え出て御処分を願うのですが、 そういうことをすると物入りが多くなって、自分の身上が立ち行かない。そこで女房に、お前は 以来そういう不都合を改めて貰いたい、そうすれば自分も不面目を歌われるようなこともなく、 身上も立って行くから、と云った。こうなると妻が可愛いのではない、身上の方が大事だ、とい うことになる。その頃の町人はこういう気持になっていたのです。そういって聞かされたので、 女房は如何にも恐れ入って承知したのですが、何分相手方が承知しない。まことに困るものです から、麻布の方へ移ろうということになって、引越の支度にかかった。そこへ間男がやって来て、 まだ女房に搦まるので、もう勘忍が出来なくなって、その場で斬り殺した。姦婦の方は手負いの まま隣へ逃げましたが、遂にこれが表沙汰になって、死刑になったそうであります。 これは享保度の法律に、本夫が姦夫を成敗して、姦婦が死ななかった場合には死罪にする、と いう規定がある。一方を生して置いてはならぬから、処分したのが例になったのだろうと思いま す。こういうところを見ますと、間男の処分というものは、享保の末から寛保の頃まで、 随分いろいろなことになって居りまして、決して一様ではありません。 反省、抑制を欠いた世相 寛保に死罪と決しましたのは、この間にいろいろな判決例があったのを整理して、明暦の昔に 返したのだ、といってもいいでしょう。享保十一年の判決例を見ますと、上野黒門前に小間物を 売る藤田屋武助という者が、手習師匠をしている浪人山田左内という者を同居に置いた。二三年 も世話をして、弟子も集って来るようになりましたが、その時分に女房と密通していることを知 ったのです。その年の四月二十五日の夜に、武助が外出して不時に帰って来て、現場を見付けま したから、名主五人組立合の上で、寺杜奉行の小出信濃守へ訴え出ました。この時は姦夫姦婦を 死刑にせず、左内は厚恩ある者の妻に密通したのは不都合である、というので、これは非人の手 下にされ、姦婦の方は新吉原へ|奴《やつこ》に下されて居ります。それですから、この時分にはまだ法令が きまっていない。漸く寛保になりまして、明暦の昔に還って、姦夫姦婦は死罪ということになっ たのです。この間にいろいろと処分法を考えて見たが、如何にも時世として間男出入りが多かっ たので、遂にはそういうことは殆ど打棄って置かたければならぬようになり行きました。自然内 済に導くようにもなり、被害者としてはどうしても埒が明かない、どういう風にしても自分の疵 の癒えぬものだ、ということを悟ったのです。  そこで首代七両二分ということにもなり、あやまり証文を取るとか、坊主にするとかいうこと にもなって行くのですが、中には訴える力もなければ、あやまらせるというような気持になれぬ 者もある。鳴子の蒔絵職人が、姦夫姦婦を近所の墓地へ連れて行って、残酷極る仕置をしたこと が「半日閑話」に書いてありますが、こういう事をするやつも出て来れば、また姦夫姦婦を現場 のまま縛り上げて、往来に棄てて置いた、なんていう話も出て来るのであります。 併しだんだんに人心が太平に慣れて、安穏かぶれをして危殆になって参ります。自重とか耐忍 とかいう心持はたくたって、ただ快楽の一路を辿る、その心持がいろいろな形で現れて参ります が、何にしても節制によることが鈍くなって来る。腹は減ってもひもじくない、というような心 持、武士は食わねど高楊枝、というようなことも、延宝度までの話でありまして、その後になる と、武士でもそんなことは云わない。これは今日の言葉で申せば、目ざめたとでもいうことにな るんでしょう。享保以来、際立って生活が変りましたのは、単に制度、法律、経済というものの みによって説明して行くことが、果して尽している事柄であるかどうか。人間が性能のままに動 いて、何の反省もなくなっているという証拠が、一つでも半分でも、この時代から見付けられま すならば、それが時世のいい説明になるだろうと思います。 吉宗将軍がこの時代に恐ろしく慌てて、従来坊主の手にゆだねて、顧みられていなかった教育 を、儒者の方に移して、急いで推し拡めようとされたのは、それを眺めてじっとしていられなく なったのではないかと思う。性能のままに動いて、何の反省もないことは、武門武士の立て前を 破るばかりではありません。もし武士の立て前を破って行くだけなら、単に武門だけの滅亡で済 みますが、それが世間一般の事であるとするならば、遂には人間の滅亡ということにもなって参 ります。この変化は大変大きいものでありまして、武門武士が武の力を恃んで、武断的にやって 行く。それに抵抗し、それを押えつけ、それに打克って行くということは、町人の発達、即ち富 の力でありました。が、その外に性能によって、武門武士の立て前が壊れて行ったのは、最も注 意すべきことだと思います。第一番に壊れたのは武門武士の生活ですが、それに続いて、これま で武門武士に有力な抵抗をして、だんだんに押えつけて来た町人をはじめ、農人も工人も性能の ために、それに就いての反省、抑制というものがありませんから、勢い世の中が変って来る。彼 等の生活に著しい変化を来していると思います。  それでありますから、ここに挙げる二つの事柄には、それがひどく光って眺められる。二つの 事柄と申しますのは、一つは享保四年七月の話、安藤対馬守の大塚の下屋敷に在る稲荷の別当の 子供でありますが、当年二十五歳、それが去年の秋に婚礼した。然るにその母親なるものが、常 に新夫婦を一緒のところに置ぎません。夜になると|在明《ありあけ》をつけて、父母の傍に寝かす。そこで遂 にこの若夫婦は、高田馬場の麦畑の中で、刺し違えて死んだ。これは母親の致し方がよろしくな いということで、安藤家では屋敷を追払ってしまった、というのです。  もう一つは享保八年六月の話で、神田三河町の質屋の女房、年齢三十ばかりになる女でありま すが、これがその店にいる十六ばかりの雇人と通じた。本夫がそれを知って異見を加えますと、 あんな年若な者と不義などを致すことは決してありません、といって弁解して居りましたが、そ の後|三囲《みめぐり》辺へこの若者を連れて行って情死を遂げた。というよりも若者が逃げにかかったのを刺 し殺して、自分もあとから死んだらしいのです。どうしてそういうことになったかといいますと、 この女房は難産なので、本夫がそれを気の毒がって、久しいこと一っ寝もしなかった。それがた めに姦通するに至ったのであります。  これらの者どもが夫婦というものを何と考えて居ったかということは、これでよくわかる。こ れほど露骨に餓えたところを暴露している話というものは、これより前にはありません。僅かに 二つの例ですが、実に驚き入った事柄だと思います。もしこうした暴露のないように、産児調節 などが行われるならば、人間は鳥獣よりも気の毒なものになるといわなければなりますまい。