牧野備後守の献妻 三田村鳶魚 一切経蔵の施主本姫様  四谷|杉大門《すぎだいもん》の全勝寺に、一切経の倉庫があって、お経ばかりでなく、多様多種の書 冊が納めてあった。そして誰にでも貸してくれる。借覧者は、返還する際に、必ず何 なりとも一冊子を寄付する例で、ほとんど図書館の体裁をなしておった。今日では、 経蔵を撤廃し、蔵書は本山へ上納したとやらで、遺祉は空しく冢間《ちようかん》の蔓草に鎖されて、 崖下の新開道路のみいたずらに賑わしく、活動写真がみだりに繁昌するだけである。  昔は、経蔵の施主本姫様という女性が、一切経を二度まで通読したほどの読書家で、 自己の遺体を痙埋《えいまい》した上に、この書庫を建させた。それ故に、冢中《ちようちゆう》から■唔《いご》の声が漏 れる、と伝説した。そもそも、本姫様とはいかなる女性なのか。寺僧の話では、笠間 侯の女で、牧野氏が八千石の身上から大名になったのは、実に本姫様が将軍の殊寵を 得たためである、この寺の九世泉長和尚が、大奥へ説教に出た、それに帰依されて、 身後のことを遺嘱された、本姫様の姉君の墓は、新宿南町の天竜寺にあるという。そ うすると、この    好個の読書家はお妾 なのである。塋域《えいいき》について経蔵の跡を看ると、そこには、「玉心院殿葬所」と彫った 小石柱がある。その勇らに、巨碑も立っている。碑の正面には、「玉心院殿正顔貞本 大姉」とあって、左右労らと側面とに彫鏑された文は、  牧野氏、備之後州大守、源成貞之婦人某、賦質淳厚、不レ事二粉飾→専帰二三宝→  潅二如於世味一夷、命レエ彫レ仏、登二三千躯一施レ財護レ僧、不レ知二幾員一為二股肱之  妻→錐下蒙二上君之寵顧一歯中干公室い敢以二勢位一不レ介二其意一謙恭以レ是為レ常、  曾謂レ予、妾而今若レ斯者、宿福余慶、然所三以天二於二女→蓋天示下藺二我盈^益中我  不占足也、唯所レ期修善是已、聴有為也、奔有利、必行焉、予欣然日、夫住持三宝  中、仏僧二宝、先己足突、惟婦人所レ欠者法宝耳、因告以二蔵経之事^婦人歓諾、  似レ恨二聞之晩一遂揮レ金請二方冊蔵→建二堂於玉心院墳上→移二塔於其西→予重二蕨  功(欲レ伝二之変葉→乃係レ之以レ銘、銘日、三宝住世、儒人挑照、群玉之府、海蔵  之経、律二干言動'範二於視聴→万古慧命、百代遇齢、増二施者福'添二護神霊一波  旬潜レ跡、舜若現レ形、化風維祐、天寧地寧。   時元禄四稔竜集辛未九月吉日    雄峰山全勝幻住伝法比丘仙仏山晶誌 というので、具《つぶさ》に経蔵建立の次第が書いてある。経蔵を建てるについて、玉心院の塔 を西の方へ移したという。その玉心院とは誰か。碑文に従えば、家中の人たる玉心院 の本願によって、この経蔵が建立されたのでないことがたしかめられる。碑文の穿撃 をして経蔵の建立者を論じる前に、まず玉心院とは何人のことであるかを知りたい。 木像があるのを幸いに、すぐに古籠を開いて点検する。それは尼僧の座形で、別に典 拠にはならぬ。ただ寵中に、「玉心院殿正顔貞本大姉、貞享四年五月三日」と題した 位牌があった。これを「牧野系図」に照すと、長女、松、永井十郎左衛門貞清室のこ とで、二十一歳で没した人である。これで、玉心院と経蔵建立者とは、同人でないの が明白になる。そして、碑文の初めに、牧野備後守源成貞の夫人とある。経蔵建立老 は玉心院の母で、家中の人はその長女松子なの.℃ある。「一切経」を二度読んだとい う伝説については、考拠すべきものがない。碑文には、成貞の夫人が後生願いであっ たことはみえるが、二切経」耽読の話はない。従って、本姫様の伝説は、すこぶる 怪しくなってくる。のみならず、本姫様とは松了のことか、その母のことか、これも 一寸決着しない。本姫様の姉さんの墓力 天竜寺 にあるとい)。天竜寺は、成貞夫人の生家大戸氏 の香火院イ\夫人の実父大戸玄蕃、実兄大戸半弥 の墓もある`、ここからいえば、本姫様とは成貞夫 人のことらしい。しかし、成貞夫人の墓は、本所 の弥勒寺にあって、杉大門《すぎだいもん》にはない。我等は、本 姫様が何人、しあるかを知ろうとして、全勝寺の螢 域に一面の碑文を読み、はしなく徳川五世の陰科 を論知《しんち》した、、哀れ元禄の史秘を発《あぱ》いて、綱吉将軍 に対する衆議を大定しよう。さるにても、徳川五 世は、天和二年に「主忠信」の三大字を書して、人もあろうに、関宿侯牧野成貞に与 えた。その鉄面皮には驚かざるを得ない。  かりそめにも、将軍の陰科を証すべき文書などが、幕府時代にあるべきものではな い。全勝寺の碑は実に希有《けう》の文字で、愚劣な文章であっても、この点から、真に貴重 な史料である。全勝寺は牧野家の古い香火所で、成貞が元禄四年に本所松井町へ要津 寺を草創するまでは、世を累ねて、ここに墳墓を築いていた。その埜域にある碑文で みれば、住持が任意に記述したとはいわれたい。牧野家は碑文を肯定したものと見倣 すのに、異議はなかろう。果してしからば、 綱吉将軍の有夫姦 を黙認したのであろうか。碑文を見よ、「股肱之妻と為り」、奇態な語ではあるが、別 に読み方もない。妻の字が臣の字の誤りでない証拠は、「上君の寵顧を蒙り、公室に |歯《よはひ》すと難《いえど》も」とあるではないか。いかに言語の上に姿態を粧っても、妾たり権妻《ごんさい》たる を蔽うには足らぬ。その綱吉の寵顧を蒙る股肱の妻、直裁にいえば、成貞の妻にして、 綱吉の妾である。成貞の妻は、譜代の家来大戸ム蕃の女で、名を阿久里《あぐり》といった。慶 安元年の生れだから、綱吉よりは二歳若い。いつから寵顧を蒙ることになったのか、 それは明確に知れないけれども、おそらく、寛文十二年以後、御用を承ったのであろ う。成貞と阿久里との間には、三人の女があった。それは、寛文七年生の長女松子、 すなわち玉心院、同九年生の次女|安《やす》、同十一年生の三女亀である。季女出生の際は、 成貞が三十八、阿久里が二十五、一この後に出生がない。夫妻の健康に異状のない以上 は、頻年盛んに出生のあったものが、まだ壮齢なのに、とみに生殖作用を廃止するは ずがない。成貞のごときは、隠居の後、七十七歳になって、幸之助・貞通という庶子 を挙げているのをみても、夫妻の健康を疑う必姜はない。故に、そも馴初《なれそめ》を季女出生 の後と認定したい。この時において、成貞は妻女献納のやむを得ざるに至ったの一であ ろう。献納してしまったから出生がなくなる。あれば綱吉の児子で、成貞のではない。 ところが、その後阿久里に産出がない。これは人いに説明を要する。阿久里は、献納 とはいえ、実際は奪掠したのであるから、『将軍御外戚伝』『柳営婦女伝』等にも、掲 記することの出来ない事情の権妻で、碑文には、「公室に歯す」などと特筆してある が、ごくごく秘密にされておったものと思う。そうならば、綱吉の父家光の妾お万の 方について、好個の例証がある。「十六歳、慶光院継目の御礼……お万の方と改め、 有髪の形と成て侍二枕席(然れども、老中より内証有て懐胎禁ずる故、御君達はな し」(『将軍外戚伝』)、いかに幕府の威勢が盛んにもせよ、懐胎禁止という命令 が行われたのには、驚かざるを得ない。何故に、かくのごとき不自然千万な命令を与 えて、新妾を薦めたのか、理由は毫も知れぬ。これでは、全く婦女を玩弄するのであ る。公然任用するお万の方に対してさえ、都合次第に懐胎禁止令を実行する幕府だも のを、秘密に蓄える阿久里には、避妊を強行するのを揮ることはない。故に、綱吉の 妾としては出生がなくても、不審するには及ばぬ。こう考えると、健康な成貞夫婦が、 とみに出生を廃した時をもって、綱吉に阿久里を占有された時、と認定する理由にな ろう。当時は綱吉も二十七歳、まだ館林侯で神田の邸におった。成貞の父牧野越中守 成儀は、早く館林侯の博《ふ》となり、成貞は垂髪《すいちよう》より綱吉に仕え、三十七歳の寛文十年十 二月、備後守に叙任し、館林の家老になった。妻の阿久里は、綱吉の生母桂昌院本庄 氏の侍女で、桂昌院の懇命で、牧野家へ嫁したのである。綱吉は夙《つと》に好学の聞えあり、 「初め公の少き時、桂昌君これに語げて曰く、昔時大猷公に給事せしや、公の曰く、 予は国家を治めむと欲し、夙夜《しゆくや》心を労せり、素と作《はづ》る所なし、恨むべきは学問を為 さ!りしのみ、予子孫あらば必ず書を読ましめむと、公此の父君の言を思へと、故に 公は少きより学を好み、統を承くるに及び、益〜勤む」(『翁草』)、本庄氏は盛んに綱 吉の好学を吹聴する。一方には、施与を警しくーoて、しきりに人気を煽るのであった。 「常憲公綱吉、性克忌喜怒常ならず、左右近侍多〜旨に杵《さから》ひ罪を得、或は斥逐《せきちく》せられ、 或は幽死す、甚しきは親《みづか》ら之を刃殺す、侍中牧野成貞之を憂ひ、以為《おもへ》らく、人主間居 すべからずと、乃《すなは》ち公に勧め、儒を召し書を講じ、僧を召し法を説き、猿楽人を召し 技を演ず、林信篤諸博士に論なく、日に講莚に片一一す、都下の名僧|更《こもごも》ー進見し、及び猿 楽人数輩、日夕技を奏し、並に消日の具と為す,(『三王外記』)、綱吉が褒既《ほうへん》の急なる は、愛憎の変じやすきを証し、儒仏並進せしめしは、中心の空虚なるを験す、『三王 外記』のこの一段は、すこぶる後日に左券たるものである。この間に処して、成貞は、 本庄氏とともに綱吉の賢明を製造し、これを広告するに尽力した功績は、偉大なもの である。彼は献身的に働き、献妻的に勉めた。彼は、儒者も、坊主も、猿楽も勧奨し た。自己の妻さえ進上して惜しまないのみか、有名な五の丸殿、お伝の方を推薦 した。お伝の方の父は、小谷権兵衛といって、中間頭(八十俵高)だとも、黒鍬(十 二俵一人扶持)だともいう。いずれにしても軽輩に相違ない。お伝の方は、十九歳の 延宝五年に、白山邸で鶴姫を産み、二十一歳の延宝七年に、神田邸で徳松を産んだ。 この女は万治二年生で、綱吉より十三歳若く、阿久里よりも十一歳若い。小山田弥市 がお伝の実兄を殺した、その捜捕のために、全日本を騒がせた、それほどに君寵を得 たお妾さんであった。『牧野家譜』に、「女初姫、戸田淡路守氏成室、実瑞春院殿御姪、 正徳四年八月廿二日離縁」とある。瑞春院とはお伝の方の法名で、初姫は妹婿白須才 兵衛の女なのだから、御姪というのだ。『実紀』に、「美濃国郡上城主遠藤岩松常久、 十歳にだにみたずしてうせけるにより……戸田弾正氏成がかねて養ひをきし子数馬胤 親に、新に一万石たまひ、遠藤の家をつがしめらる」とのみでは、事態分明でないが、 『藩翰譜続編』には、「胤親、実は白須才兵衛源政安が子なり、此の日しも、俄に戸田 氏成が養《やしな》ひになりて、また岩松が後となりしかぼ、さだめて故ある事なるべし」とあ る。白須と遠藤とは血統の関係もない。白須才丘衛は、増山弾正少弼の家来であった のを、お伝の方の妹婿たる縁由をもって、天和一一一年十一月四日に召し出だされ、康米《くらまい》 三百俵を与えて、御側用人牧野備後守の属吏にぎれた。その三百俵取の長男が、一万 石の大名になる。『実紀』では、戸田氏成がかね、養っておいたというけれども、『藩 翰譜』の方では、「此の日しも、俄に戸田氏成が養ひになり」といっている。初姫は 戸田氏成の妻である。遠藤家を継いだ数馬胤親(旧同胞で、牧野が養女にして、戸田ヘ 嫁入りをさせたのである。数馬が大名になるに(「いて、三百俵の家から一足飛びには ゆかれない、あたかも縁戚を利用して、戸田淡玖.…守を持ち出し、大名の養子になって、 遠藤の相続者に坐り込んだのである。この一目養子の説明は、『過眼録《かがんろく》』が悉《つく》してい る。「其頃、美濃国領主遠藤右衛門佐病死、家督を石松へ被二仰付一けるに、四歳にて 早世す、依て其家断絶に可レ及処、五の丸様(お伝の方)御願にて白須殿男子御取立 有レ之、同州にて新地一万石賜り、遠藤の遺跡を被二仰付一」、君恩甚だ優渥《ゆうあく》で、お伝 の方の一族はしきりに栄達する。才兵衛の子数馬は、元禄五年五月九日、遠藤主膳正 胤親といって、一万石の大名になり、その同胞初姫は、牧野の養女になって、早く大 名の奥方になっている。栄達の経路は、ことごとく牧野を通じて拓開されている。 『元宝荘子《げんぽうそうじ》』に、小山田弥市が荒川平蔵を殺した、荒川は柳沢の養女の実父だ、と書 いたのは、まさしく小谷権兵衛の外孫たる白須才兵衛の女を養った牧野のことを、誤 伝したものと思われる。一体、柳沢に関する伝記は、多分牧野の話を持ち込んで、二 皿掛けになっている。我等はお伝の方の寵春かくのごときを見て、その推薦者たる牧 野成貞が、二千石から七万三千石に陞進《しようしん》するのを怪しまぬ。年代を算えて、お伝の方 が最初の出産の時には、阿久里が三十、すでに散り残る花もない姥桜、若葉青葉の影 偲ぶありさま、その以前において、お伝の方を推薦した成貞が、いかに御機嫌を取り 繕ろうのに油断しなかったかが知れる。また、妻女を献納した上に、その古くなるの を見計らって、更に新しいところを呈上に及ぶなどは、ほとんど感服に堪えぬ。成貞 は重々感服すべき人物だが、献納された阿久里夫人 は、 淫女姦婦として論ずべきであろうか。主従の誼重き時代において、主人の横恋慕 を『忠臣蔵』の顔世御前のように、重きが上の小夜衣《さよごろも》とお断り申しても、なお承知さ れなかった時には、是非なくなくも、御詫に任すよりほかはない。すでに三人の愛児 まである妹背の仲を、主命なればこそ、家を棄てて殿様の閨門に入ったのである。む しろ、悲しむべき命数に同情すべきであろう。プての憐れな阿久里夫人を、いよいよ絶 望させ、うたた人生の落奥を感ぜしめたのは、愛女二人の早世である。全勝寺の建碑 は、実に元禄四年の九月で、「天二於二女一」というのが、それである。長女松子は貞 享四年五月三日、二女安子は元禄二年九月三日、ともに二十一歳の女盛りで病死した。 二女の没した時には、阿久里夫人も四十四歳であった。碑文にあえて「勢位を以て其 の意に介せず」というのも、元来、綱吉のお妾になっても得意でなかった様子が、よ く読める。「有為や奔《すつ》るに利あり」というのも、夫に生別し子に死別して、そぞろに 無常を感じるようになったためで、全勝寺の住僧がいうように、大奥へ説教に出た泉 長に帰依したのでも何でもない。碑文の作者|仏山晶《ぶりがん》に勧められて、経蔵を建立したので ある。阿久里夫人が全勝寺へ建碑した元禄四年九月は、次女安子の三忌辰に当る。成 貞が本所松井町へ要津寺を創建したのも、同年てある。そして、隠居したのが七年忌 の元禄八年であった。牧野氏夫妻が深く安子を悲しんだことは、この三件に徴すべき である。  かくて、双親をして痛悼禁ぜざらしめた二女安子は、世嗣美濃守成時の妻である。 成時は黒田信濃守|直相《なおすけ》の二男で、過ぐる天和二年十二月、二十歳の時に牧野家ヘ附賛《ふぜい》 して、初めは成住といった。『改選諸家系譜』に、「天和三年十二月十四日、叙二従五 位下一任二美濃守'後年有レ故蟄居」とある。成時が婿入りの次年に叙任されたのはよ ろしいが、その蟄居した理由が、ただ有故とだけでは、到底済まされるわけのもので ない。それに、成時は二十五で、貞享四年九月二十七日に死んだ、叙任と逝去の間は、 四箇年に足らぬ日子であるのに、しかも、漠然後年と書いたのも不審に思われる。戸 田茂睡の『御当代記』に、「同廿七日、牧野美濃守病死、夜前食傷に依て也」とある。 かりそめにも関宿侯の世子たるものが、食傷などすべきはずがない。大名の生活では、 決してあるまじき病症である。何にせよ、成時が頓死したのは疑いもない。成時の卒 去について、『三王外記』を訳出して、考究を試みたい。『三王外記』は、不確無実の 書として信用の乏しいものであるが、厳に取捨すれば、必ずしも棄つべきものでもあ るまい。当時の遺聞は、多分に招掠《くんせき》されているらしくもある。  成貞の妻は、若きより桂昌院に仕え、桂昌院の指図で嫁婚したのであるが、男子は  なくて、女子が一人あった(これは誤なり、止に女子三人とすべし)。その娘に、館  林家の家老黒田直相の男を婿に取って、成住(家譜に成時の届名成住とあり)といわ  せた。綱吉が牧野の屋敷へ往かれた時、成住の妻がお目に留って、お戯れなされた。  それを聞いて、成住は自殺した。成住の妻む、その後病死をした。成貞は綱吉の仕  方を怨んだ。それ故に、夫妻相談して養子をしない。綱吉は桂昌院とともにしきり  に養子を勧めた。成貞は、折角養子をいたしイ、も、あえなく没し、娘も病死をいた  したのは、自然と手前の家を滅すように成り行きますので、台命を蒙りましても、  手前の運命を取り替えまするわけにはなりませぬから、養子の儀は御免を願う、と  ばかり言上する。桂昌院から、しばしば成貞(旧'妻ヘ、養子のお話があっても、成貞  と同様のお返辞を申し上げる。成貞の妻の兄(大戸半弥)の子が、護持院隆光の弟  子になっている。それがいまだ得度していな∵のを幸いに、桂昌院が召し寄せて、  綱吉共々、成貞の養子にさせた。これが成春である。  成春の素性については、『改選諸家系譜』、及び『牧野家譜』が、たしかに『三王外 記』を証明する。それに、『御当代記』「(元禄六年四月)十八日、牧野備後守宅へ御成、 式部を養子に被二仰付一候、是は初廿一日知足院に而周寿丸と云児に而候つる人也」、 成貞がいかに寵臣であっても、将軍が駕《が》を柾《ま》げてその邸に臨み、親しく養子の命を伝 えるは、前例のない破格なことで、実に希有の沙汰、非常の恩典である。『三王外記』 が養子を強要したという、いかにも『御当代記』のごとくならば、成貞は辞退するこ とが出来まい。しかし、養子を強要するのに、何故に将軍が強要したか、 養子強要の必要 が那辺にあるのか。成貞もまた、養子を峻拒する事情があるか、前者にしては君威の 重からざるを示し、後者にしては人情に惇《もと》った行為である。すでに強要の事実があっ た。それは、成貞の態度が、「天、我が後を絶っ、君命も天に惇るを得ず」という峻 拒にあったことを反襯《はんしん》する。しからば、成貞の養子峻拒も、事実として肯定すべきで あろう。成春が公然養子になったのは、元禄四年十二月のことであるが、その前に、 成貞は養子峻拒を表明したか、  山名信濃守義豊殿ハ、金田遠江守正勝ノ次男ナリシガ、山名主殿矩豊ノ養子タリ、  性質敬義ノ人ニテ、聖賢ノ教ハ敬ノ字二帰シテ、其アラハル、所ノアトハ義ナリ、 故二敬義ハ二物ナラザルナドイハレシトカヤ、義豊殊ニ美男ノ生レニテ、天和ノ末 ヨリ御近習二召仕レケル所二、牧野備後守成貞ノ養子美濃守成住早世セラレシニ因 テ、此信濃守ヲ備後守ガ養子二仕ルベキ旨仰付ラル、然レドモ、信濃守ニハ、上意 二応ゼズシテ申シ上ルハ、公命ヲ返シ候段恐入候ヘドモ、私儀、一旦主殿矩豊養子 ト成シ上ハ、其苗字ヲ戻シ、又候、他家ヲ柑続仕ルベキコトハ、上意二候ヘドモ御 請仕難シ、備後守義、筋目ト申御役ト申カタぐ、此御断申上候上ハ、定テ御仕置 ニモ仰付ラルベク候段ハ覚悟ノ至二候ト申切ルユヱ、将軍家ニモ御立腹アリテ、柳 沢出羽守保明二御預ヶニテ、遠島ニキハマリシ所二、備後守、出羽守ヲ以テ御訴訟 申上候ハ、信濃守義、上意二背キ申候段ハ申上ベキ様モコレナク候ヘドモ、養父へ 対シ義ヲ立テ候一事ヨリ外ニハ、越度ノ筋少シモ御座ナク候、若輩ノ所行ニハ賞ス ベキコトニテ候、力、ル義理ノ正シキ武士ヲ無下ニ捨テサセ給フベキヤ、信濃守ヲ 御仕置二仰付ラレ候ハンニハ、私儀モ以来養予ヲバ仕間敷候、何卒信濃守事前々ノ 如クニ召仕ハレ、私ヘハ別人ヲ仰付ラレ下サレ候ハ"、順道ニシテ有難キ御事ナラ ント、頻ニ願ヒ申サレシカバ、中一日ノ事ニテ御免アリテ、元ノ如ク召仕ハレ候。 (『続明良洪範』)  山名義豊が柳沢出羽守へお預けになったのは、元禄三年四月十四日のことで、免さ れたのは、十五日である。その事由は、『明良洪範《めいりようこうはん》』と同一なことが『御当代記』に 書いてある。『御当代記』には、成貞の養子峻拒の辞がない。『明良洪範』に従えば、 成貞は山名を救解するために、以来養子仕間敷といって諌評したので、言下に別人を 仰付られ下され、といっている。『三王外記』の絶対に養子を峻拒したのとは、全然、 意味・志向を異にしている。『明良洪範』の意味ならば、穏当な語でもあり、義豊に 対する義理といい、人情さもあるべきである。そうすると、希有の沙汰、非常の恩典 をもって、成春を養子にした事実が解説されなくなる。もし成貞が養子を拒まないな らば、成時没してすでに五年、一族に養うべき児がないのではない、当時の習俗とし て、五十を距えた成貞が猶予するはずがない。綱吉も、いつまでも養子をしないから、 義豊に命じて牧野氏を嗣がせようとしたのであろう。そこで義豊が応じない、この機 会に成貞は、絶家の覚悟を諌評の中に託出した。綱吉は、初めて成貞の胸中に蕊塊の あるのを知って、尋常では納まらないのを看取し、また棄ておけないことをも感悟し たのであろう。それまでは、君命で片付けられるものと考えていたのに、それではい けないと気が付いてみると、辛味よりも甘味を選ぶ必要がある。綱吉が服忌令を定め た精神は、異性相続を禁遇《きんあつ》するためで、例の儒者気質に由来する。その儒者がる人が、 牧野の一族を差し置いて、阿久里夫人の甥たる大戸氏の子、それも還俗させて養子に したのは、もっばら糖分を多くしたわけで、命を伝えるのに、自身と柾駕して、から くない恩命を服膚さすべき魂胆である。こう魂胆するのは、綱吉に弱点がある証左と もみられる。成貞は一度わが妻に忍んだが、二度わが娘には忍び難い。阿久里夫人も、 わが身には耐えたが、わが子には耐えられぬ。老夫妻は、紅涙を惜しまず安子を悼み、 満幅の慣気は、南薫にも解き得ないのであった。子爵牧野貞寧家蔵の『御成記《おなりき》』を見 ると、   貞享五年四月廿一日  御成   同   同 廿二日  公方様五丸様(お広の方)姫君様三丸様(桂昌院)   同 、 同 廿七日  三丸様   同   九月 三日  御成   元禄元年(貞享改元)十一月十八日 御成   同 二年正月 十日  公方様三丸様五丸様鶴姫様   同   四月廿二日  公方様五丸様姫君様   同   十月廿二日  公方様五丸様鶴姫様   同   十一月十日  公方様御台様 『御当代記』に、「十一月十日、牧野備後守宅へ御成、 金言を云」とあるは、何事であったろう。 元禄二年十二月十一日 同同同同同同同同同同 三年二月 十日   四月 九日   五月廿一日   九月 六日   九月廿二日   十二月九日   同 廿一日 四年正月廿二日   三月 六日   四月 十日 公方様三丸様 同上 公方様五丸様姫君様 公方様三丸様 公方様五丸様姫君様 公方様御台様 公方様五丸様姫君様 御成 公方様三丸様 公方様五丸様姫君様 三丸様 御台様も始而入御、 備後守妻、 同   五月廿二日 元禄四年九月廿一日 同同同同同同同同   十一月四日   十二月九日 五年二月 四日   四月 九日   八月十八日   十月 十日  十二月廿一日 六年四月十八日       たび 公方様御台様 公方様三丸様 公方様五丸様鶴姫様 公方様三丸様 同上 公方様五丸様姫君様 公方様御台様 公方様五丸様姫君様 同上 公方様三丸様 『御当代記』  この次成春養子の命を伝えたという。 元禄六年十月廿五日 同 七年四月十二日 同 八年四月十三日 同十五年九月十五日 公方様五丸様鶴姫様 公方様三丸様 同上 御成   同十六年二月廿五日  御成   同   三月 六日  一位様(桂昌院)   同   四月 六日  五丸様姫君様  綱吉の臨邸総じて三十二次、生母桂昌院(本庄氏)を同伴せること十三次、桂昌院 のみ単行せること三次である。第一次の臨邸は、成時没後八閲月であって、二万石加 賜の恩命が伝えられた。去年成時の没するや、屋敷替という名義で、邸地を大久保加 賀守に交付された(十月十八日)。屋敷替ならば、代償のあるベきはずである。しかし 代償はなかった。もしあっても、請け取るべき人が死去している。体裁の美しい没収 だ。大名の嗣子が死去して、その邸地を没収した例は、ほとんど絶無であろう。成時 に何の罪がある、いかに扱われても、死者だからよいようなものの、あえて違例な待 遇を家中の人に加えるにも及ぶまい。こうして綱吉は、安子の生前六回まで訪問して、 往々夜に入って還ったが、安子の死後にも二十六回出掛けているが、一度も夜に入っ て還ったことはない。安子迫好のことを、『三王外記』が、臨邸の際にあるというの は、時日が許さぬ。千代田城中には、父成貞の薦めたお伝の方がいる。公然阿久里夫 人が大奥に出入りを許されたのは、第一次臨邸の後でもあろうが、牧野の妻や娘は、 そこに参入する機会は多い。迫好は必ず大奥へ参入した場合の椿事であろう。綱吉が 老中井上河内守の妻を召見したのは、阿久里夫人が大奥出入りの公許以前にある。あ るいは、安子も召見されたのかも知れぬ。元禄二年十二月十日に、綱吉が第九次の臨 邸に、輪王寺門主公弁法親王を請待した。何のためだか知れないと、牧野家の記録に はあるが、あたかもその日は安子の死後九十九日で、百箇日の逮夜に相当する。この 追福を営んだのは、徳川五世が亡姫を悼む所作一tなかろうか。成時が死んだのには何 の御沙汰もなかったのに、安子の病中御尋ねとして、曾我七兵衛が御使いで伽羅と香 箱、死んだ時には柳沢出羽守が御使いで、鱒銀《ふぎん》白枚を与えられたのを、思い合せて判 断がしたい。成貞夫妻は、和田倉の邸に起臥をともにしていた。それは背中合せの同 栖で、同功繭のようでもあろう。これを慰諭するにも、また養子の勧誘にも、一併に は行われにくかったろう。すなわち、徳川五世はその生母と同行して、二人を二人で 調節したのであろう。牧野家にいった綱吉は、前には安子の訪問、次には成貞夫妻の 慰諭、最後には養子の勧誘と、臨邸に三個の目的を格別にしたとみられる。  安子迫好事件は、今急に強弁して断按すべきでない。おもむろに他の材料の積聚を 待って、しばらく宿題として、的確なる阿久里夫人の姦通は、史秘としてここに閲明《せんめい》 するに十分であろう。成貞は臣節を重んじ、その君のために、忍んで献妻の途に出で たにもせよ、阿久里夫人はつらかりし一身より、愛女の上に悲酸を播及したのに耐え 得なかった。余憤奇怨が、全勝寺碑の表に暴露したのだ。さもなくば、那般の文章を 金石に委して、何しに後世に残そうぞ。当事者の衷情は、外間から諒解されずに、妻 を香餌として爵禄を釣ったようにもいわれる 『護国女太平記』の本事 は、柳沢でなく牧野の話の謬伝と見られる。阿久里安子のことは、成貞と五世との間 を拗戻《ようれい》して、君臣の情誼は異常なものになってくる。成貞の末路は、優待恩遇を受け ながら、妙に冷涼な様子が見えた。柳沢吉保が牧野の権勢を傾けて取って代った、と 一概にいわれているが、何よりも、晩年の成貞は、自身に徳川五世と遠ざかるべき運 命を持っていたのである。しかし、立身の順序を回顧すれば、寛文元年に二千石であ った成貞が、同十年には三千石となり、延宝八年、綱吉の徳川五世とたるとともに、 一万三千石になった。これは館林侯から将軍になったお祝いとしても、天和元年には 老中並になり、二本道具を許され、同二年には三万三千石になり、同三年には五万三 千石になり、元禄元年には七万三千石になっている。『続藩翰譜』の記者も、「成貞藩 邸よりの書老として、さこそ頼しく思召人には有けれど、あらはれたる事きこへずし て、僅か四年が程にかくまで登庸せられし事、有がたき恩遇とこそ申べけれ」と不審 している。天和二年三年の加賜は、能舞台の油障子を新調することさえ止めた堀田大 老が、何故に諌評しなかったろう。端摩《しま》臆測すれば、幾多の事由もあるが、たしかな ものは一もない。ただ一つ、稲葉正則が、成貞に対する殊典を遮ったことを伝える。  天和のはじめ、牧野備後守成貞、特旨もて所領の暇下されし時、御馬賜はらんと、  小姓曾我土佐守助路して老臣稲葉美濃守正則に伝へしめらる、美濃守承り、御馬下  さる二家はかぎりあることたり、うけたまはり違ひにてはなきや、といふ、助路、  かつてさにあらず、といひはりしよし聞しめし、助路をめして、汝が所為いと軽率  なり、美濃がさまで申すに、など立返りその旨我にきかせざる、老臣申所あらんに  は、幾度も其申所を聞え上ば、猶も衆議をとはるべき事なり、と仰あつて、助路忽  に職奪はれ、小普請に疑せられしとぞ。(『武野燭談』)  一家を犠牲にしてというより、破壊されている成貞であるから、いかなる代償も報 復し得ない。破格の寵命も、更に君恩の優渥《ゆうあく》を感ぜしめない。のみならず、  十一月六日、御小姓永井相模守を、同名伊賀守に御預け被レ成候、是は何やらん牧  野備後守に御用之事被二仰付一候、御使を相模守承、備後守に申渡候に、初上意御  座候と申たるに、備後守聞つけながら、よの事にか」わり、二度上意御座候と申と  きに、備後つくばい片手をつく、又上意にて御座候と申時、両手を畳につく、其時  上意の趣をのべ御請を聞すまし、さてさがみいふ、私事かろき者にて御座候へば、  いかやうに御あひしらい候ても、くるしからざる事に候、上意と申はおろかならざ  る事にて御座候に、かるき者の仰を申候とて、上意をかろがろ御請被レ成候事は似  合不レ申候、とことわりたる景色、備後守一言もかへし候は!、忽さしころすべき  体也、然れども、備後守あやまり申候と、再三の詫事ゆゑ、ことなく御前へ罷出御  請を申上る、それ程の事ゆゑ、景色もせきてみえ申候に付、別の御小姓衆をめされ  御尋被レ成候に、其場の様子不レ残申上る、則その御小姓を以備後守方へ被二仰下一  候は、物毎惣而そさうに仕候、筑前守事も頃日の事也、御外聞をかかせ申やうなる  事仕間敷との被二仰渡一の以後、相模守を御預け被二仰付一候、明年丑八月御赦免被  レ成、又御小姓をつとめ申候つるが、御城にて六尺屏風の上より飛申候とて、足を  くじき候て、御奉公を引こみ申候。(『御当代記』貞享元年)  平生厳に威を立てんとする綱吉将軍も、温言か出して無礼不敬の臣を慰籍し、理義 当然なる者を罰している。それでも成貞の邸へ臨むごとに、常例で親しく経書の御講 釈がある。その婦を奪い、その娘を掠めて、舞倫《いりオえ》道徳を説く。親類だけに、二段聴く 浄瑠璃よりも迷惑なもの。それにしても、子日《しのたまわち》、と真面目になれる綱吉将軍の心理 状態こそ希有なれ、そうした調子でなければ、到底「主忠信」などという文句を、姦 夫の身分で書いてやれるものでない。