結婚と夫婦 号令結婚と自由結婚 我国の近世の両性の結合は、号令結婚と自由結婚との両様に大別することが出来るだろうと思 います。外国では立法恋愛とか自由恋愛とか云って居りますが、そう云えば云えぬこともないか も知れないけれども、恋愛だけで終っているのではない。必ずそれに伴うものがある。それは云 うまでもたく愛欲で、愛欲があるから恋愛も生じて来る。愛欲なしに恋愛の起るものではない。 だから結婚に到らぬものを不義という。結婚が目的でないのも同様であります。実を結ばぬ花で あるから「いたづら」という。徒労の徒の字です。これはいずれも結婚から眺めたもので、よく 俗謡に「しめらば締めろ、打たば打て、鼓や太鼓ぢやあるまいし、|身体《からだ》は売れど心まで、マサカ 親達や売りやしまい」といって居りますが、その心だけでも済むものではありますまい。だから 恋愛というものも、愛欲或は楽欲という方がいいと思う。それよりも結婚といった方がいいし、 正しくもある。正しい結婚は号令によるものだということは軍隊式で、武門武士の捉から出て来 たのであります。 結婚というものは人生の大礼であり、夫婦は人倫の大本であるとされて居ります。ところがこ の婚礼というものは、小笠原流、伊勢流、または水島流などといって、まだこの外にも、いくつ かの儀式作法がありましょうが、いずれにしてもそれは、大名で申せば五万石以上のは無い、ご く規模の小さなものでありまして、五万石以下の小大名にしか当嵌らぬものであります。それで はもっと下に行ったらどうかといいますと、生活程度の低い、軽い人達に当嵌るようたのもまた 無い。古来我国には嫁入の式が無い、ということを云っている学者もあるくらいで、婚礼という ものは、松永久秀が自分の女房を貰う時からはじまった、という説さえある。中井竹山の如きも、 我国では古来どういうわけか知らぬが、雲上に於て婚礼の儀式が物に見えて居らぬ、大宝の令条 にも、嫁娶の式というものは嘗て無い、或説によれば慶長、元和の間に命令として出ていたこと もあるが、法律として出ているものは無いから、どういうものであるかわからぬ、と云って居り ます。 けれども我国で婚姻の管理を行った事、許可の制度を取った事は、随分早くからあるのです。 太閤条目は慶長三年に出したものですが、その|法度《はつと》の第一条に、諸大名旗本の縁辺は、奉行人に 申して指図を受けろ、私に妄りに縁を結んではならぬ、と規定してある。この規定のために、大 坂で家康等が五大老といって、天下の政務を扱っている時分に、随分ごたごたしたことがありま した。ですから家康が自分一人で天下の切盛りをする時が参りましても、私に婚姻を結ぶべから ざる事を、武家法度に規定して居りますし、慶長二十年に秀忠も同文の規定をして居ります。家 光も寛永十二年に、もう少し条文を精しくして「国主城主一万石以上|並近《ならぴに》習之物頭共私に結婚 すべからざる事」と規定している。五代将軍の綱吉は、更にこの上に「諸奉行」という文字を書 添えて居ります。これが幕府の婚姻管理の根本をなすもので、春日局などは諸大名の娘を奥へ呼 んで、高砂社みたいな事をやって居った。これは春日が死ぬとなくなりましたが、許可制度の方 は残って居ります。 併し幕府はごくこまかいところまで、婚姻を管理し、婚姻を許可するということは、法文の上 で眺めて往くと見えない。けれども事実はあったのです。諸大名の方にも、こまかく規定したも のがありはしないか、と思って探して見ますと、享保三年の姫路藩の法度になかなか精しいもの がある。それは 縁組之儀、御城代、医師、外科、針打、御領奉行、御町奉行、勘定奉行、御奏者番、大納戸 役、宗門奉行、御目付、御膳奉行、小納戸役、御鬢御刀番、御書物役、小姓、儒者、御茶道、 面々は相窺ふべき事。 とありまして、随分精しくなって居ります。記録はこれだけですが、婚姻管理、許可制度は、諸 藩とも武門の最も下まで|行《おこな》っているのです。 私の持って居ります信州飯山藩の書類、これは二万石本多豊後守の家の記録ですが、その中に 中士以下の婚姻に就いての文書が沢山ある。 神代村之内福井新田二罷在候私兄仁左衛門と申す者之娘、私方江引取厄介二仕置、追而伴蔵 江|娶合《めあわせ》申度奉レ願候、此段不レ苦思召候は父御序之刻、御年寄中迄宜被二仰上一可レ被レ下奉願候 以上。 天保四年九月三日井沢理右衛門 これたどは弟は召出されて、軽いながら武士になっているけれども、兄はもとのままの百姓な のです。その武士になった弟が、伜へ自分の生家から嫁を貰うのに、兄というのが百姓なので、 片方しか届けてありません。この文意は兄の娘を自分の方へ引取って置いて、厄介にして置いて、 追って伜に娶合せたいというのですが、この「厄介」という言葉がわからないといけない。厄介 というのは自分の子供でも、惣領を除くの外、家に置くところの者を厄介といいます。その他ご く近い親類で、誰も世話せぬようたものを厄介者にする。扶養の義務ある男女を自分に引受ける のを「厄介」と称するので、これも嫁にすベき娘を厄介分にして引取って置きたい、ということ を願ったのです。 もう一つは松井源右衛門という者からの願書で、これは他藩の士の家から嫁を貰おうというの です。この人の身分は中小姓ですが、相手は他藩の人ですから、藩庁の方へ出すのは、貰おうと する者だけである。文章は大体同じ事ですけれども、「私方江引取置、伜へ娶合申度云々」と書 いてある。この引取というのを解釈する前に、云って置かなければならぬのは、どれにもこの縁 組を苦しからず思召すならば、それぞれ役向へ御申立下さるように、とあるので、宜しくないと 思えば、願書を却下することが出来る9皆御目付なり、御家老なりに宛ててありますが、これは 身分によって宛が違うので、いずれにしても苦しからず思召されたならば、御年寄中へ御序の時 に御披露を願いたい、ということになって居ります。「不レ苦思召候は父」という以上は、宜し くないと思えば却下される、という意味に見なければなりません。 それから「引取」というのはどういうことかと云いますと、片方は引取って置いて追って伜に 娶合せる、というのですが、安永五年の「当世爰かしこ」に「婚礼に引取の|字《あざな》」ということが書 いてある。婚礼のことを引取と申したので、これは江戸ばかりでなく、田舎にまで行渡って居り ました。飯山藩の文書には御馬屋小頭とか、足軽とかいう低い身分の者がありますが、そういう 者でも結婚の許可を得なければならぬということは、武門の末々までそういう制度の行渡ってい た証拠であります。 武家と民間との相違 それですから海保青陵の書いたものの中には、江戸には婚礼が無い、皆引取である、この三四 年以前からは「引取、追テ婚礼」というのは、百人のうち三人か四人しかない、ということがあ る。大概引取即婚礼だったのです。これはどういうことかといいますと、婚礼を挙げずに、儀式 を省略する、ただ連れて来るということでいいとする。どうしてそういうことが出来るかといえ ば、縁約の許可を得ますと、今日婚礼するという時に引取の御届をすればいい、あとは婚姻済の 御届をすればいいのです。この許可を得るということによって、新しい夫婦の身分がきまってい るのですから、その以後の事を一切|省《はぷ》いて、引取ということで片付けてしまう。已に許可されて いるのですから、縁約後には有夫姦が成立するので、立派に夫婦という身分が定っているわけで す。併し民間の方にはそういうことがない。婚姻の許可ということがありませんから、どうして も披露が大切になる。披露が成婚を立証するわけであります。武家の方では、披露ということは どうでもいいので、その費用を省くために、引取ということにしていいのです。 そこで民間にもそれと似通ったことが出来まして、引越女房というものがある。田舎によりま すと、婚礼には村役人が立会う。江戸でも町中の騒ぎでありまして、名主が出て立会ったり、|町 役人《ちようやくにん》が出たりすることもありますが、引越女房の時でも、名主や町役人に断るのは勿論、向三軒 両隣、御長屋の衆を呼んで、どんな御馳走でも御馳走するということが、世間に対して夫婦であ るという身分を証拠立てるわけたのです。民間の結婚には、この披露というものがよほど重くな って居りますので、これを省くことがなかなかむずかしい。「世事見聞録」などを見ますと、こ の頃では武家も小身な者は婚礼、婿入の式も昔のような振合にすることが出来ない、多くは客分 とか、逗留とかいう名をつけて、早くから縁女を|夜中《やちゆう》にこっそり引取ってしまう、衣類諸道具も 見苦しいから、目立たぬように運んでしまうし、馳走振舞もおしるしばかりにしている有様であ る、と書いてあります。 これに就いてもいろいろ面白い事が出て来ますが、安井息軒翁は「|救急或問《きゆうきゆうわくもん》」の中に|周礼《しゆらい》の文 章を引出して、こういう風に解釈して居られます。支那では婚姻に六つの名義がある、|納采《のうさい》、|問 名《もんめい》、|納吉《のうきつ》、|納徴《のうちよう》、|請期《せいぎ》、|親迎《しんげい》、というような事であるが、もしこの六つの礼が行われぬ場合には、 妾というべきで、妻ということは出来ない、けれども貧乏人には、そういう事を行うことが出来 ないから、聖人が若い男女の婚期を失うことを可哀そうに思われて、仲春には六礼を備えずに嫁 することを許して居られる、聘礼を用いぬところの女に就いては、これを「奔」という、「奔」 というのは江戸の下世話に云う引越女房の意味で、淫奔というわけではない、というのです。こ れで見ましても、民間の方はよほど|寛《ゆるや》かになって居りまして、士とは大分振合が違っている。と ころがその士もまた貧乏で苦しいために、いろいろな事を|仕出来《しでか》して参ります。それと民間の何 事も礼を省いてやっているのとがごっちゃになって、世の風俗が悪くなって来るのです。 息軒翁はまたこうも云って居られる。時世の風俗というものは、政治の田地であるから、どん なにいい政治であっても、風俗が悪ければ行われるものではない、関東のこまかい百姓どもは、 妻を迎えるのに二十両も費すところがある、そういうわけであって見れば、貧乏な者は生涯独身 で暮すより仕方がない、それがために博徒や無頼漢にたる者も出来て来る、|潰百《つぶれ》姓というものも 出来て来る、上野、下野、常陸には荒地が多いが、その荒地の二割ぐらいは、婚嫁が出来ぬため に起っているように思われる、というのです。武士の方では許可があるので、礼を具えたい婚礼 という簡便法が行われなくもないが、民間としては武家のように、上長の許可できまるのではあ りませんから、簡便結婚に危険がある。武家にしても客分とか、逗留とかいう名称で、ただ縁女 を引寄せて置く。実は縁女ということは云えない。許可も得ていないし、御届もしてないのです から、そこに不都合な点もあるのです。 許可を得ぬための間違い それに就いては面白い話があります。 天保十四年四月|半《なかぱ》の事でありましたが、 本所の両|御番《ごばん》筋 の小普請-といいますから、先ず二百石前後の人でしょう。その人の息子と、下谷に住んでい る大御番の三橋某の娘と縁談がととのいました。願いはまあ追っての事として、とにかく婚礼を しましょう、ということになって、嫁入の日が定った。六ツ半の輿入ということに定りましたの で、一類朋友を呼集めて、祝宴をするつもりでいる。ところが嫁がなかなかやって来ません。五 ツ少し過になって漸くやって来た。ついて来た者が、だんだん暇乞やら、御化粧やらで手間取っ て、かように遅くなりました、という詫を述べて、嫁は仲人に導かれて化粧の間に入りました。 併し舅が大変腹を立てて、かねがねちゃんと六ッ半という約束をしたのに、二時間も客を待た せるようなことをした、と云って怒っている。これは昔からきまっている事でありまして、約束 の時間より早く輿入をすることは、婿への御馳走ぶりになる。遅いのは嫁さんの見識になって、 婿さんには不体裁なことになる。そこでこの舅へ、いくら詫びても聞きません。直ぐに嫁を連れ て帰れ-腹立まぎれにこういって、家を出てしまった。嫁について来た者も困れば、来ている 客も迷惑する。殊に今嫁を貰おうという当の息子は閉口して、親父を捜して参ります、といって 出て行った。親子ともいなくなってしまったものですから、御客さんもじっとしているわけに往 かない。手分けをして捜しに出ることになりました。 嫁を昇いで来た駕籠屋も、手持無沙汰で困るし、どうも果しがつきそうもないから、下谷へ帰 ってこの有様を話しますと、里方でも|打棄《うつちや》っては置けないので、嫁の親父が早速やって来た。や っとのことで、客が親子を捜し当てて、|丑《もつし》の刻過ぐる頃に家へ連れて帰りました。それから貰う 方と、くれる方とが直談しました結果、嫁は親許へ連れて帰ることになりましたが、貰う方では よほど腹を立てたものと見えて、嫁の荷物や手道具を、夜の明けないうちに送り返して、とうと う破談になってしまいました。これは願いは追ってするという婚姻だから、こういう間違いが起 るので、許可を得た上の話でありますと、なかなかこんた事で、ちょっとこわすわけには参りま せん。が、こういう間違いは当時大分あったらしい。 それから嘉永二年春の話ですが、これも本所辺の小普請のところへ嫁さんが来る。然るにその 嫁の乗物が、隣の家へずっと担ぎ込まれてしまった。これは無論間違えたのですが、その間違え られた方でも、丁度女客が来ることになっていたので、隣の嫁とは思わずにそれを迎え入れたの です。嫁さんはそんなことは知りませんから、隣の家へ上り込んだが、一向婚礼の支度などもし てある様子がない。何だか変てこな按排で、大変困ったことになり行きました。何故そんな間違 いが出来たかといいますと、付添の者どもが麻上下を著用していなければならぬのに、そういう ことをしていない。嫁さんも綿帽子を被っている筈なのに、それを被っていない。逗留分、客分 で入り込んだのですから、そういうことが皆略してある。輿迎えということもあるわけなのです が、婚礼でないから、そういうこともない。そこで嫁の方も気が付かず、間違えられた方でも、 嫁や付いて来る者が婚礼式服でなかったので、双方とも間違いに気が付かずにいる、ということ になるのです。これらは単に間違っただけで済みもしましょうが、その時分の江戸の人がおかし かった話として、こういう間違いがまだいくらも伝わって居ります。もっと深刻な間違いも沢山 あったようですが、顕れている今の話だけでも、まことに容易ならぬことであろうと存じます。  そういう風な成行きにたることを恐れましたから、寛延二年五月二日に既に法度が出て居りま す。それは縁組願いを差出さずに、内々で引取って置いて、婚姻がととのった上で追って願い出 る者もある由であるが、内々で引取るというようなことはあるべきことでないから、今後そうい うことをしてはならぬ、ということを達してあるのです。が、これが一向行われていないから、 前に云ったような、滑稽といえば滑稽だけれども、随分気の毒な話も起って来る。つまり折角の 法令が行われないから、こういうことになるので、婚姻即引取ということにして、婚礼の費用と いうことも、一方に許可を得るということがありますから、それにつかまってさえやれば間違い はない。それを面倒がるから、いろいろた間違いが出来て来るのです。 男女不平等に対する目ざめ 江戸時代の生活と致しましては、武家と町家との二種に大別することが出来ますが、その武家 の根本になるものは、号令の結婚と結婚の管理でありまして、主君とか、親兄とかいう者の命に よる、そうしてその上に許可を得る、という二つの上に成立つのが、武家生活の根ッ子だったの であります。町人百姓にしても、父兄の取極めによって婚姻が成立するので、当人等が勝手には しない。これは武家に倣ったのですが、それが世間並になって居りました。これは一方からいえ ば、窮屈なものであったに相違ありません。例の柳里恭などは、親があてがいさえすれば、何の 味もない、顔はといえば春日野の鹿みたような女房より外に、可愛いものはないと心得ている、 というようなことを云って、大いに冷評を加えて居ります。またすべて惚れた女を女房にするの は、神代からのならわしであるのに、穴の中の貉の値段でもするように、顔も見なければ心も知 らないで、滅多無性に女房をきめるから、三下り半の種を蒔くことになるのであろう、世の中は 思うに任せぬもので、恨めしいことであるが、これほどおかしい事はないといって、武家の婚姻 を|喧《わら》っても居ります。 それと並んだ時代に、|増穂残口《ますほざんこう》なども当世の婚姻を|詒《そし》って、無理ずくめに持えた夫婦だ、とい って指摘して居ります。これは短い文章ですから、ここへ出して置きましょう。 当座の|交《まじわり》は出合しだいのやりくり、一生をまかするは神の引合を頼奉るとの心……男の風 流にもよらず、貧を嫌はず、|氏《もつじ》の卑をも高をもえらび捨ず、ひとへにあなた次第とかたらふ 真の中の真なる事也。 俊蔭いひしは娘が事は天道にまかせ奉る、天の捉あらば国母とも、捉なくばいかなる|山賤《やまがつ》の 子とも|褻合《なれあえ》かし。 この意味は天の捉に任せて干渉せぬ、ということなのですが、干渉せぬということは、武家の 結婚を否定して居るのであります。それがまた為永春水あたりになりますと、「清談若緑」の中 で、男女の縁は自由にならぬものだ、と云って居りますが、ここで自由にならぬというのは、親 の自由にならぬということなのです。如何にも御尤も千万な話のようでもありますが、そんた事 は「艷道通鑑」や「独寝」の方がずっと早く云っている。その「艷道通鑑」や「独寝」や、浮世 草子などよりも更に早いのは、延宝八年の「|名女情比《めいじよなさけくらべ》」で、これが最も早く恋愛結婚を唱えて、 号令結婚——武士の生活に大きな反駁を加えて居ります。 これらの反撃というものは、余りに武士の結婚の方法が無理であるから、それに激して起った ものであるとも見られます。近松たどの云って居りますのは、夫婦の仲と恋の仲という二つに分 けて、恋愛を以て夫婦になる過程としているのですが、それも一生に一つしかないもの、即ち一 恋愛一夫婦ということになっている。近松は恋愛至上主義だと云われて居りますけれども、無条 件に恋愛を振廻しているわけでもないように思う。それですから近松は、愛欲の奢侈、放逸であ ることは、やはり許して居りません。武家の生活には無理がある、町家にはそういう規定や制度 がないから、嘘でない生活が出来る、という風に云って居ります。併し実際は親の自由にもなら ず、当人等の勝手にもならないのですが、勿論武家ほど窮屈ではなかったのです。 そこでまた起って来る問題は、女房のある男のことは「|主《ぬし》ある男」といいますが、女なし、男 なしはその間に不義というものはない、というような見解もありまして、その間で自由に択ませ るということになりますと、試験的た同棲、もっと手軽に道連れのようなのがあり、平安朝時代 にあった色好みというようなものになる。男えらみ、男嫌いということは、いつの世でも奢侈性 を帯びぬことはないので、そのために老嬢で終る人も出て参ります。何にしても浮世草子の時代 -天和、貞享、元禄、宝永というあたりの間は、時世よりも浮世草子の方が早かったので、そ こに書き出されている上方女は、已にその辺に目ざめているようにも見える。そこから比較を取 って見ますと、上方は元禄前後でありますが、江戸では明和前後に当る。女の扮装、女の好み、 事を好んで男装をする、というようなことまで、こまかに対照すれば、たかなか精しく出合うこ とがあるようです。それではこの女の目ざめとはどんなものか、どんな事で目がさめたかという ことになりますが、それはここに貞享版の「好色四季咄」と、宝永版の「それく草」から、二 つだけ例を出して置きます。 いつの代の捉にて男は心のま亠に、女は夫妻の外をいましめけるぞ、是程片手おちなる事は あらじ。(好色四季咄) 密夫の女極めて重き罪に沈み、夫は飽くまで色を好むといへども其|科《とが》なきは、如何なる政道 ぞと女皆恨むる。(それく草) 女は間男をすれば重い処分を受けるが、男は何をしても何の事もないのはどういうものか、と いうところから目ざめて来たようであります。その主張は男女不平等であることを云っているよ うですが、ややともすれば、男が奢侈であり賛沢をする以上、女もそれに乗じてやろうじゃない か、という気味合が見えないこともない。そんなところで需要供給を考えるんじゃなかろうか、 と思われます。享保には粋を通した吉宗将軍の思召で、諸大名の女が大変再縁して居ります。や はり吉宗将軍の云われた言葉の中に、何ほど必要があっても、また気に入っても、奥女中は二十 五歳を限りとして暇を遣る、終身仕えさせるのは宜しくない、ということがありますが、それと 同じように、如何にもよく行届いた御捌きのようですけれども、ただそれを需給関係と眺めるば かりでもいけなかろうと思います。併し享保に諸大名の寡夫人が再縁されました中に、九条左大 臣の御簾中であった芸州侯の妹秀君が、再縁の事を聞いて、それを拒まれて、絶食して亡くなら れた。これはただ一人でありまして、他にそういう方がなかったということも、人間であります から、全く需給関係を見遁すことは出来ないかも知れません。 色でも恋でもない  武家としては、男子を産めばそれが家督者でありますから、その女は再縁せぬことになって居 りますが、女の子を産んだ人は、再縁するのが当り前になっている。町家にしても、後家さんで 子のために再縁し難い事情のある人もいくらもありました。亡夫に対する貞節を全うしたいと、 後家を立てるのもありましたけれども、子供のためにする方が多かったのです。 そこで婚姻というものを何と眺めるか、その眺め方によって、また考えるところも違って参り ましょう。承応三年十一月の岡山藩の書類によりますと、家老や|番頭等《ぱんがしら》の世話である場合には、 気に入らぬ縁辺でも取結ぶように聞いているが、妻を娶るというのは子孫相続のためであるから、 心に叶わぬ縁辺は宜しくない、と云っている。これは武家の制度に就いて、むやみに号令的にや ってはいけないと云って、そこに多少の緩和を認めたもののように思います。 けれども寛文六年六月になりますと、下々まで妻を娶るということは親兄弟も知っていて、た しかな伸人を以てととのえなければならぬ、自分の勝手に申合っては相成らぬ、と云って居りま す。これは既に婚姻というものを、子孫相続、家門繁昌という目的のためにするものと認めて居 りますから、子孫の繁昌ということは、君に対しては忠義、親に対しては孝行、ということにな って、一分の私事ではない、公明正大な事でなければならぬ、自分の勝手な事をしてはならぬか ら、縁約するだけでも勝手にしてはならぬ、というので、つまり自由結婚をさせぬ意味の事にな るのです。前橋藩でも宝永七年に法度を出して居りますが、御家中の男女でも親にも知らせず、 内々で夫婦約束をした老は、密通同然の御仕置を申付ける、ということになっている。野合と云 わずに、密通同然と申しましたのは、約束だけであったからでしょう。 そういうような風に、婚姻というものを号令結婚、管理結婚でなければならぬとしているくら いですから、見合ということはありません。管理結婚、号令結婚である以上は、自分の選択は許 されたい。ただ両方で|内糺《ないただ》しとか、|陰聞《かげぎき》とかいって、どういう人柄であるかを知るくらいのもの です。それですから大名まで往けば勿論の話ですが、旗本衆にしたところで、輿迎えをして、自 分で輿を受取っても、まだどんな顔をした女房だかわからない。床盃をする時になって、はじめ て自分の亭主の顔を見るようなわけのものだったのであります。 町人の方にはそういうことはありませんが、武士の方では、結婚の前に男女が見合するような ことは、天保の末までなかった、と小宮山南梁翁なども云って居ります。見合ということに就い て、相見て何ほどの事がわかるか、と考えて見ますと、結局は男えらみ、女えらみということに 帰著する。先ず面体、恰好-平たく云えば「人形食い」ということに過ぎません。けれども見 合さえさせぬということが、婚姻に対する大変な圧迫のように思われもしますので、武士の或者 は町人の方の結婚を、羨んでいないこともなかったようです。「続五元集」の天和三年の|付合《つけあい》に、 |士《さむらい》の威を笑ふ花の衰へ 縢月夜を町人の妻さだめ というのがありますが、この意味も前申したような心持だろうと思います。「武道張合大鑑」な どを見ますと、縁辺取組の談合の上にも、いい悪いの評判があるでなし、見て呼入れるというこ ともない、と書いてある。ここがいわゆる穴の中の酪の値段をするといって、柳里恭の曦ったと ころなのです。 号令結婚と申しますものは、見合さえしないのですから、勿論恋でもなければ、色でもない。 好いたんでもなければ、惚れたんでもない。が、好いたり惚れたりしないでも、別に差支ないも のである。人間というものは不思議なもので、少しぐらい厭だと思う者を組合せても、そこは天 地自然の不思議な作用で、情愛が出て来るようになっている。ひどく厭だと思うのでない限り、 大抵はそれでも済んで行く。まあそういう風でありますから、最初から恋愛づくしでやらなけれ ば、夫婦が成立しないかというと、必ずしもそうではない。子孫繁昌、家門永続を目的とすると いうこと、それは人情を無視したということでもありません。だから夫婦というものを、全く生 殖機関として、その作用を期待するものとばかり見ないでもよかろうと思う。ただ最初から恋愛 仕掛で往くか、往かぬかというまでであります。 号令結婚ばかりではありません。貪欲の方からひろがって行ったのでも、恋でもなければ色で もない。好いたんでもなければ、惚れたんでもない。欲のために厭なのを忍耐するというので、 その目的は利益に在るのですから、公娼私娼という看板はないけれども、一種の売笑である。そ れと同じものは、奢侈の方からの漁色で、これは栄耀食いとでもいいますか、俗にいう食い散し というやつ、それもここでは同じ事になる。はじめにもしまいにも情愛は出て来ない。こういう 風に考えて参りますと、すべてがごちゃごちゃになってしまうようです。 御互い様でない義理  不義は御家の御法度というのが、武家生活の金看板だったわけであります。それは家来である から俸禄を与えられるので、俸禄を与えるから家来なのではない。また家来であるから、結婚を も与奪されるのです。色と食とは人の性なり、というので、それが人間の行詰るところであり、 また人間の皆であると云ってもよかろうと思います。家来の方では主君に皆を差出している。自 分の生命も已に君に捧げているのですから、色と食などは無論差出していなければならない。そ の差出しているのが、即ち生命与奪の権なるものにたるので、全く自分を没却したところに臣子 の道がある。そこにまた君臣の情誼もあるわけです。一体そういうことは、戦争という変った事 柄のために出来ているようですが、それは決して勢いではない。勢いを駆ってそういうものを持 え出したのではない。理の本然がそうさせなければならぬものなのであります。これは武家の人 達としては、男であっても、女であっても、同様なわけにたっている。それですから武士という ものは、全く義理の世界に住んでいるものなので、主従の義理もあれば、親子の義理もある、朋 友の義理もあれば、兄弟、夫婦の義理もある、という風にたって居ります。それが御互い様とい うわけではない。相対的なものでないのです。 武門武士の住んでいるのは、そういう世界でありますが、町人になると利益の世界に住んでい る。この方は極めて自由なものとされても居りますし、また実際そうでもありました。義理から 解放されたとでもいいますか。然るに武士の方は、解放されれば武士たる栄誉がなくなるばかり じゃない、自由恋愛になると共に、俸禄もなくなってしまうわけである。そこで理という方から 考えて往きますと、町人の方にも武士のような町人が出来る。数に於て甚だ少いにしても、義理 を重んずる者がないとも云えません。また武士の方としても、町人のような武士があって義理を 忘れている者もある。これらは解放されずに自由を得たい、ということになるのです。 今日の人などは、武士の夫婦は無理やりに結合させた夫婦だから、それでこわれ易いのだ、と いう風にのみ眺めるかも知れませんが、武門武士の夫婦というものは、義理によって結合させて ある。利益のために結合された夫婦-即ち町人の生活というものは、御互い様、算盤ずくのも のでありますから、どうしても利益ということを目標とするようになる。従って時には貪欲にも なって来る。元来少しも義理という方に貪著を持っていないから、嬋り気もなく貪欲の方へ走っ ても行けるわけなのです。この義理からの結合と、利益からの結合ということを考えて往けば、 両方の生活に来る破綻というものが、どんな場合に起って来るか、よくわかるだろうと思う。武 門武士の女達としても、増長して奢侈に流れる場合もありましょうし、そうでなくても理性の乏 しいために、飢渇に堪えぬような場合から来る破綻もあるでしょう。江戸時代の農家などに早婚 が多かったのは、思い遣らなければならぬことであろうと思います。 武士の義理の結合としての夫婦の例話には、上州|嶺《みね》の城主でありました小幡尾張守重定が、長 野信濃守の女であるその妻を離別せよと云われた時に、それでは夫婦の義理が欠けるからといっ て、武田信玄の命に応じなかった話があります。これは亭主の方が義理を立てたのですが、女房 が義理を立てたのも沢山ある。その中の一つだけ挙げますと、細川忠與が豊前の国主でありまし た頃、同国竜王の城主飯河豊前|宗祐《むねすけ》の子宗信を寵愛して、特に苗字を与えて長岡肥後宗信といわ せ、岩石の城に置いて居った。然るに宗祐父子は何の罪科がありましたか、慶長十一年七月二十 一日に誅伐されることになって、それぞれ討手を差向けられました。宗信の妻は米田助右衛門豊 政の女でしたが、夫婦の間が睦じくなく、三年も対面せぬほどでありましたので、忠興は当時雲 仙院と申して居りました宗信の妻の母、即ち助右衛門の寡婦を呼ばれまして、今度豊前、肥後両 人は罪あって誅伐せねばならぬが、その方の女と孫女には罪はないのであるから、ひそかに知ら せて命を助けよ、と申聞けられました。その時に雲仙院は、常々仲のよろしくない夫婦ではござ いますけれども、夫が誅せられる時に当って、捨てて逃げるような者とも存じませんが、御意の 有難さに早速申聞けましょう、と御答え申して、女の方へ手紙を遣しました。宗信の妻は、まこ とに仰せは忝ないが、只今本夫を捨てて逃げることが人の道とは思われません、併し幼女は東西 の弁えもない者の事ゆえ、ひとえに御養育を願い奉るといって、子供だけを使につけて母の許へ 送った。これを聞いて宗信は来し方の事を悔み、我が過ちを詫びて、夫婦共に自殺致しました。 こういう話というものは、戦国ばかりではない、いつにたっても珍重すべきものとしておぽえ られて居ります。武士の間に於て珍重されたばかりでなく、町人百姓でも十分感服出来るものな のです。近松が死んだ後に、世話物の心中物がなくなりましたのは、心中法度というものがあっ て、民間の心中事なんぞを浄瑠璃や芝居にすることを禁ぜられたからではありますが、近松の世 話物は殆ど心中で持切っていたのに、当流浄瑠璃はその後すっかり方向を替えまして、時代物と いえば武士の義理を書きました。その義理というものは、天正以来の武士の美しい姿を取入れた のですが、ただそれだけの事ではない。例の「今頃は半七さん」という文句でおばえられて居り ます、あの艷っぽい「酒屋」のおその、あれにしても情だけのものではありません。夫婦の義理 ということから見ると、なかなか味がある。この義理を取入れて、だんだん浄瑠璃が作られて参 りましたから、浄瑠璃は悲しく聞くもの、ということにさえなったのであります。 表裹反覆することは、士だけの恥ではない、誰でも恥である。女でも一度許せばもう替えぬと いう義理がある。二張の弓を引かぬというのが、武門武士の義理でありまして、それは武門の女 も同じ事でありました。裹切をする者、二股武士などという者は、武門武士に於て擯斥されたの みならず、世間もまたそれを醜いものの至極と眺めて居った。そこで女に於ても、敵に密通する 士、裹切をする士を、不義であるというのと同じ意味に、不義密通という字を使う。義理は御互 い様のものではない。御互い様は算盤ずくの話ですが、義理は先方に構わず、自分だけは動かぬ、 というところが身上なのです。先年も歌舞伎の作者と、新しい脚本作家との差別に就いて、比較 して考えて見たことがありますが、その一番わかりいいところは、武士に対する諒解の違う点に 在る。性能のままに動いて行くだけならば、それは動物に過ぎません。人間の方はそこに理智が 働いて来る。人間らしいというのは、それだろうと思われます。