春日局の焼餅競争 三田村鳶魚 亭主も子供も置き去り  三代将軍家光の話には、何としても乳母春日局(斎藤氏、福子)を取除けられません。その春 日局は名高い女でありますから、かれの経歴もあまねく世間に知られて居るようですが、誰でも する春日局の話によって、伝えられた彼の人柄は、私どもの甚しく疑うところであります。  かれは明智日向守光秀の部下として勇名を馳せ、粟田口で磔にかかりました斎藤内蔵助|利三《としかず》の 女で、佐渡守利光、後に朝鮮征伐に強勇の聞えを取った斎藤竜本を兄に持ち、浮田中納言秀秋の 家来林八右衛門(稲葉佐渡守|正成《まさなり》の前名)の後妻になり、男子二人を産みながら、離縁して家光 の乳母に出たという女なのです。  春日局が家光の乳母になりましたのは、慶長九年七月十五日で、二十六歳の時ですが、二人の 子供は慶長二年に産んだ丹後守正勝が八歳、慶長九年に生れた内記正利は当歳、この正利が生れ た年に乳母になったのです。春日局は生れたばかりの正利を残して、何故稲葉家を去ったのでし ょう。稲葉正成はまた何故女房を離縁したのでしょう。 「麟祥院清話」には春日が乳母に任用されて江戸ヘ下った後に、本夫たる故を以て、正成も徳川 家へ任用されると聞いて、妻の脚布に|裹《つつ》まれて出る士ではないというので、急に離別したのだと ありますが、それほど立派な見識のある正成ならば、何故自分の妻を徳川氏の乳母にしたか。家 康の嫡孫の乳母の本夫ならば、早かれ|晩《おそ》かれ俸禄の来る日があるのは知れきって居ります。女房 の御蔭を蒙りたくないたらば、竹千代(家光の幼名)の乳母などに出さぬがいいので、春日だっ て亭主の承知しないのに、乳母になろうとする筈がないと思うのです。  ただ稲葉正成はその時既に浪人して居りました。春日が本夫が埋れ木の花咲くこともなさそう なのを心配して、世間へ出そうというので情を忍び、本夫と愛児とに哀別し、身を夫や子供の青 雲の|梯《かけはし》にするつもりで、乳母になって遠く関東ヘ下ったのでしょうか。それならば悲しい女房の 親切に対して、正成もさすがに差留めかねる事情もありましょう。ここのところが頗る不明瞭で ありますが、それを仮定すれば、妻の親切に対して関東行きを差留めかねたけれども、何と考え ても嚊の御引立てを受けるのが辛抱しきれない。そこで煩悶懊悩の結果が絶縁となったのでしょ うか。そうすると稲葉正成は煮えきらない、武士らしくない男になってしまうのみならず、春日 もまた妙なものにならたければなりません。三百二十年前の離縁話ではありますが、今更のよう に首を傾けて、思案する余地はたしかにあります。  新井白石も「藩翰譜」を書きますのに、いろいろな雑説を採らず、「正成初め斎藤内蔵助利三 が如何なるゆゑやありけん、此妻、家を出て後、将軍家の若君竹千代殿の御乳母となされ」とい って、離縁の事さえ云わないで、一切を不明瞭のままにしてあります。白石ばかりではない、誰 にしても正成が幕府の下に大名になった順序から眺めて往きますと、妻の脚布に裹まれて、立身 出世する武士ではないなどと、男らしく立派な言を吐いたとは信ぜられません。正成が慶長十六 年、越前参議忠直卿に付けられて、大坂落城の際に軍功を立てましたのも、御乳母春日の故に早 く召出されたからです。その忠直が元和九年五月に、豊後萩原へ配流になりました後、正成は春 日へ申立てて幕府へ召返して貰いました。正成は女房お福の脚布にくるくる裹まって立身したの です。けれども越前家では永見右衛門の娘を娶り、幕府へ戻っては松平土佐守の女を迎え、春日 局のお福の後に二度も妻を迎えて居りますから、春日を離別したのは事実に相違ありません。  この離別に就きまして、「香宗我部記録」に「嫉妬にて佐渡守家を出、京都に行」とあります が、系譜で見ますと、正勝と正利との間に、異腹の女子があります。この女子は後に堀田勘左衛 門の妻になり、加賀守正盛を産んで居りますが、申すまでもなく正成は妻でない、他の女にこの 娘を産ませたのです。それで春日は嫉妬に堪えぬから、正利の分娩を待ちかねて、亭主も子供も 置き去りにして、京都へ往ってしまったものらしい。稲葉の方では離縁するもせぬもあったもの ではありません。置き去りにされたのですから、|三行半《みくだりはん》を与えるより外に方法はないのです。 嫉妬で名高い御台所  焼餅黒々としたこの春日は、家光の乳母になって、千代田城の大奥へ入り込みました。家康の 正妻築山御前(関口氏)は嫉妬で著名なものでありましたが、二代秀忠の夫人|江子《こうこ》もまた嫉妬で 名高い女であります。この人は浅井備前守長政の女で、淀君の妹に当るのですが、江子が伏見城 へ入輿致しましたのは、二十三歳の文禄四年九月でありまして、その時秀忠は十七歳ですから、 六つも違う姉女房なのです。第一の夫である尾州大野城主佐治与九郎とは生別し、第二の夫の丹 波少将秀勝、第三の夫の九条左大臣道房とは死別して居りますので、|丙午《ひのえうま》ではないかと思って繰 って見ましたが、天正元年生れですから、まさしく|癸酉《みずのととり》である。秀忠は第四の夫に当るわけで、 特に九条家では女子を二人も産んで居ります。新郎古婦とでも云って見たいような間柄でありま すのに、焼餠の方は真黒々に焼き立てました。そうして結婚後十八箇月目の慶長二年四月十一日 に千姫、四年六月十一日に|子子姫《ねねひめ》、五年五月二十日に勝姫、六年十二月三日に|長丸《おさまる》、七年七月九 日に初姫、九年七月十七日に家光、十一年五月七日に忠長、十二年十月四日に和子(東福門院) を産んだのです。二十五歳から三十五歳までの十箇年問に、男女八人の母になったわけで、この 分娩と妊娠とを、閑な御方は勘定して御覧なさい。その忙しいこと、殆ど失笑を禁じ得ません。 秀忠の庶子はただ一人で、他は悉く嫡出の子女であります。その庶子肥後守正之は、慶長十六 年五月七日の出生で、秀忠が三十三歳の時の子なのですが、奇妙なことに秀忠はその後に子があ りません。正之の生母であるお静は、江戸近い板橋在の竹村というところの大工の娘で、部屋方 へ奉公していたのに、秀忠が手を付けたのです。お静が懐胎したといっては、御台所浅井氏が納 まりませんから、秀忠将軍も頗る閉口の|体《てい》で、田安の閑栖にいる見性院(穴山梅雪の寡妻)を頼 んで、ひそかにお静の始末をさせました。正之は足立郡大間木村の民家で生れ、やがて保科弾正 大弼正光の養子にしてしまったのです。庶子であるにもせよ、正之は秀忠の末男でありますのに、 御台所を憚って全く秘密にされ、その生前には父子の対面すらなかったのですから、二代将軍も 随分な恐妻家であります。  例の駿府逗留中の秀忠のところへ、家康が十八歳の美女に菓子を持たせて遣したところ、秀忠 は上座へ引いて菓子を頂戴し、その方の御用は相済んだ、早く立帰れといって戸口まで送り出し たという話、家康がそれを聞いて、将軍は律儀な人だ、予は梯子をかけても及ばぬ、と感心した というのですが、或はそんな宣伝芝居も行われないとも云えず、また秀忠は甚しく親父を恐れた 人でもありますから、何も彼もなしに、ただ恐縮してしまったのかも知れません。併し私どもは お静に正之を産ませた手並を心得て居りますので、一概に彼の謹厳慎重を信ずるわけにも往かぬ のです。  手近い「|視聴草《みききぐさ》」などを見ましても、後藤源左衛門忠正の女が、崇源院に仕えて大橋局といっ た、台徳院の御寵愛を蒙ったが、権現様の上意によって庄三郎光次に嫁した、というようなこと が出て参ります。崇源院は江子の法名、台徳院は秀忠の諡号ですが、そうして見れば金座の後藤 庄三郎の妻は、秀忠のお古なのです。それは家康も御存じであるに拘らず、お静の外には寵女が ないことになっている。何故そうなっているかといえば、秀忠の恐妻のためなので、実は御台所 江子の嫉妬の凄まじさを立証して居ります。我国に避妊の行われたことは、決して新しくありま せん。翻訳の新マルサス主義を珍しがったり、サンガー婆さんで騒いだりするのは、何も知らな い連中のことでありまして、四百年乃至五百年前から、或階級には巧妙に実施されていたので見 れば、二代将軍の奥向にも、嫉妬|除《よ》けの|厭勝《おまじない》として、或方法が行われていたかも知れません。 美人ではない  こう考えて参りますと、「落穂集事跡考」の「若君の御実母御台所無類の嫉妬にて、春日局の 年頃といい容儀あるを、台徳公の御手付かんかとの御疑ひより、諸事若君へうとくあられ候」と いうのが、私どもの眼を射るように感ぜられます。春日局は秀忠将軍と同年で、御台所江子は六 つも年上なのですから、嫉妬の眼玉が光るのも無理はありませんが、伝説によると、春日局は美 女でなかったといいます。それはかれの木像を安置してある湯島の麟祥院に伝わった説なので、 木像を製作する時分に、つとめて容貌に似せて持え、両三度も改作させましたが、何分にも気に 入らない。そこで仏師が考え直しまして、極めて柔和な容貌に持え、ただ瞳だけを写実にして見 せたところ、漸く満足したというのです。  現存する麟祥院の木像は、如何にも鋭い目つきをして居ります。しばらくこの伝説から逆に考 えますと、春日局は凄まじい顔でありましたろう。無論悪女ではありませんが、好んで柔和な容 貌に持えさせながら、また平凡になるのを避けて、目つきだけを鋭くさせた、そこに本人の人柄 が露出して居ります。我執の強い、意地の悪い、小才の利く、御殿女中気質の標本に適当な女な のですから、春日局は決して嬉しい人物ではありますまい。秀忠との間柄は、果して御台所が睨 める程度に達していたかどうですか、何とも判断することは出来ませんが、自分の腹を痛めた家 光、忠長の二児に対して、際立てて愛憎し、全く家光を顧みないようになりましたのは、春日を 睨む余り、諺にいう坊主が憎けりゃ袈裟まで憎いわけなのでしょう。一体なら怜悧な春日だけに、 家光を冷遇する御台所の心の底には、嫉妬のあるのを知らずにいる筈はありません。知っていた ら御仕え申す幼君の御為を思って、速かに退身して御台所を安心させ、家光の安全を図らたけれ ばならぬのですが、意地の強い春日には、己れを撓めて無事を計ろうなどということは、夢にも 考えられなかったのです。 御台所は国千代(忠長の幼名)を殊に寵愛されましたので、幕府の吏僚は勿論、諸大名までが 国千代の御機嫌を取難すように仕向けたのみならず、家光は長子でありますのに、衣服の給与さ え怠り、食饌も国千代より悪くしました。家光が呉服所後藤|縫殿助《ぬいのすけ》に与えた墨付に「其の方の恩 を忘るゝに於ては、黒本尊の御罰を蒙るべき也」と書くほどに感悦したのは何であるかといいま すと、縫殿助は春日と踞近でありましたから、年中の御召物を無代で献進し、御不自由な物は何 といわずに差上げたからであります。  家光、忠長の両公子といううちにも、家光は嫡長子で三代将軍になるべき人です。乳母根性か ら兄の乳母、弟の乳母というだけでも、扁身の広狭が違いますのに、弟が兄よりも優遇される。 衣服や食物にも逆に差が付けられては、如何に気楽な乳母でも堪えられますまい。まして意地強 い春日が辛抱する筈はないのです。ただあいにくなことに惣領の順禄で、家光は賢くない。親父 の秀忠が惣領の家光に相続させることをあやぶんだのは、国千代の方が怜悧だったからでありま す。家光に対して父母が暖くない理由は、同じではありませんが、熱の乏しいことに変りはあり ません。親の情、殊に女の親の心持から云えば、馬鹿な子ほど余計に可愛いのが世間並ですが、 泥坊猫よりも腹の立つ春日が付いて養育している家光は可愛くない。嫉妬から愛子を忘れること になるので、春日も赤子を置き去りにして稲葉家を去りましたが、御台所江子も我子の家光を愛 さないのです。衣服や食物にさえ不自由させたのも、春日を苦しめるためでありましたろう。も し春日が御暇を願って、家光の身辺から去り、秀忠の目にも触れないようになりましたならば、 御台所江子が家光に加えた圧迫は、直ちに除かれたろうと思います。 妬婦兼騒動女  嫉妬されればされるほど、春日はたお動きません。嫉妬するのは弱味、嫉妬されるのは強味と 思うので、秀忠将軍の情愛を幾分でも|殺《そ》ぎはせぬか、と感ぜしめただけの強味を持つ。これは御 殿女中の一般心理ともいえましょう。まして嫉妬女の春日です。春日の性格からは、到底辛抱さ れまいと見える家光の待遇でありまして、飲食衣服にも事を欠く上に、国千代は利口で家光は馬 鹿だと吹聴される。幕府の吏僚から諸大名までがする冷淡な取扱いも、対抗するのだとなれば忍 耐するのです。春日が|苦《にが》い苦い顔で忍耐するその顔色が、御台所の嫉妬心からは快いので、我子 に飲食衣服の困窮をさせるのも忘れて、過度な圧迫を加えて気が付かない。二人の焼餅競争に挾 まれて、童年を泣いて過した家光の運命は、まことに悲しむべきものでありました。  賢女だとか烈婦だとか、春日局は頻りに褒められて居りますけれども、御台所江子は何故生み の子家光を虐げたかを考えないと同様に、春日の人物は一向に吟味されて居りません。彼がひど い嫉妬の女であったことすら殆ど知られなかったのです。ただ江村専斎はかれに就いて「慈照院 殿の時、春日局と云ふ女あり、彼が所為にて応仁の乱起り天下騒動す、近来の春日局の号は、是 を考へずして然る歟」と云って居ります。専斎は百歳の寿を保ち、寛文四年まで存生した医者で すが、親しく時勢を見ている人だけに、その言葉には寓意があるらしく思われる。妬婦春日局は また実に騒動女でもありました。御台所江子の亡い後に、むごたらしく復讐を企てて、遂に忠長 を自殺させるまで、何ほど世間を動揺させましたろう。忠長の謀叛を虚構するために、土井大炊 頭利勝に偽廻文を作らせて、天下の諸侯を惑乱せしめるなどは、申分のない騒動女であります。 私どもが春日局を想像する毎に、いつでも厭わしく思われるのは、かれの才走った往き方です。 かれがまだ焼餅競争の最中に、家光が天然痘に罹ったことがありますが、その時春日は侍医の岡 本|玄冶《げんや》に向って、酒湯にかかることは、唐の医書にないことであるから、御無用になされて御宜 しかろう、と云った。すると玄冶が、唐になくて日本で致すことも沢山ある、それを酒湯に限っ て、古来の仕習わしもあるのに止めるにも及ぶまい、医者のすることを素人の止めらるるもその 意を得ぬ、一体医書にないと云われるが、唐の書物を見もせずに文盲な申事である、これを御覧 ぜよ、と云って懐中から唐本の医書を出して見せ、読んで聞かせて御酒湯を済ませました。玄冶 は更に、素人の分、殊に女性の身として不念た事を申され、小癪でござる、と痛く春日を遣り付 けたということです。  御台所に睨まれて、多方面からの圧迫に対抗している時にも、このくらいの遣り過しをする春 日なのですから、独り天下になった三代将軍の大奥では、三千石の俸禄を受けて、三万石の暮し をしました。家光の夫人鷹司氏は嫉妬が強いというので|舳舳《しりぞ》けられましたが、実は忠長に同情され て、救解を試みられたのが、科条になったらしいのです。それがために大奥女中は悉く春日の支 配するところとなり、後来御台所がありましても、奥向は一切御年寄という高級女中の取はから いに帰し、長く大奥女中の勢力が幕閣を動かす基礎を据えることになりました。この事はかれの 続き柄で七八人の大名が出来たのよりも、なお大きい影響を徳川氏の運命に与えて居ります。