江戸末期の囲い者 三田村鳶魚 天保改革以来の風潮  今度は囲い者の話です。安政六年八月の町触にこういうのがある。   市中住居の女は囲者とか唱へ月々金三両より五六両迄手当取候者は其囲主一人にて古来有来   の処、近来安囲と唱へ或は三分一両位の手当うけ候囲者は囲主三四人つ\も有之、売女同様   の所業に及候。  市内の女どもで人の囲い者になって、月々三両から五両位まで取っている者がある、それは囲 って置く者が一人なので、そういうのは古くからあるが、この頃のは安囲いと云って、三分乃至 一両位のところで、三四人の男から囲われている、まるで遊女と同じようなものだから、そうい う者は吟味しなければならぬ、という町触なのです。これと見合すべきものは、町奉行引継書類 の中にある雑件録という記録でありまして、その安政六年のところを見ますと、こんな事が書い てある。こういう安囲いというようなものが出来て来たのは、天保改革以来、武家町人、又は諸 国より年中出府している地方人が、それぞれ囲い者をするので、風俗がだんだん甚しくなって、 近来は相当な商家の年頃の娘達でもそれをやっている、というのです。所謂旦那取りというやつ で、貧民とか細民とかいうような、その日暮しの人々でなしに、小商いでもしている家の娘、そ れがそういうことをやって、下女奉公などに出るよりも割がいいと云って、囲われ口をせり合う 有様であるというのです。  一体天保改革というものは、江戸時代にありました前後五度の改革、第一は保科肥後守の寛文 改革、その次は堀田筑前守の天和改革、その次は松平左近将監の享保改革、その次が松平越中守 の寛政改革、その次が水野越前守の天保改革で、そのあとにまだ春嶽さんの文久改革というもの がありました。この改革の度に江戸の模様は変って参ったのですが、江戸の模様の甚しく変りま したのは、元禄に通貨が膨脹しまして、一両の小判が二両になった。それを享保の新貨幣で緊縮 して、慶長金銀の位に戻したのです。通貨が急に倍になったり、又その半分になったりすること があったので、商業杜会のことも面倒になり、物価の動揺というものが需給関係ばかりでなく、 通貨から来る動揺がひどいものになった。これではいけないというので、元文になって又元禄の 通貨に戻しましたため、ここでも物価の動揺を免れなかったのです。  そこへ持って来て享保の改革以来、通貨の偏重ということになって、幕府が通貨の聚積を図っ た。「公方は乞食の如し」という落書がある位で、幕府が大いに通貨の聚積をやったことは、新 たに蓮池へ御金蔵が出来たようなことを見てもわかる。幕府ばかりではありません。民間もそう いうわけで、財力の片寄りがひどくなって来たのであります。 江戸に移る京都風  この幕府の聚積の仕方は、例の倹約、節約ということで金を溜めるのですが、どこかにひどく 切詰めたところが無ければ、そういう風に溜るものでない。昔は租税の取方がきまりきって居り まして、新税を興すことが無かった。きまりきった中に積立てるのですから、どこかに無理が出 る。政府が政治費用を多く集めて多く使うのでなしに、多く集めても使わぬようにしたのが幕府 の聚積なので、それだけ下々の潤いは悪くなったのです。  一番大きく通貨を集散する政府が、集めはするが散じる方を抑制するから、一般の不景気が来 る中にも、江戸が大変不景気になるにつれて、諸大名もこの通貨の変動を受けまして、金融が悪 いから米で収入し、米で支払うということになる。貨幣変動の為に米価もひた押しになり、享保 以来は米の安いことがひどかった。諸大名は前に金で借りたものを米で支払う。併し米が安くな っているのだから、それを返済するのは大変な話で、そうかと云って米を三倍も収積するわけに は往かない。従って大名の疲弊はひどいものになりました。  幕府や大名が収約すれば、一般の武士は無論疲弊する。江戸は武士で持っている都会なので、 商人も職人も皆武士の御蔭で立っているところだけに、武士が疲弊すれば火の消えたようになる。 従来他の都会と別なように考えていたのは、幕府という大きなものがあって、大変な政治費用を 使い棄てる。参観交代というようなものもあって、それについて来る士も金をつかう。そういう ことで江戸は他よりも富貴だったのですが、それが今までと比較も出来ぬような武士の疲弊に遭 っては、江戸は俄かに寂しくなる。その頃から京都の風が江戸へ移るようになったのです。  慶長以来新しい都市として、京坂二大都市よりも上に居るほどの勢があり、道路には小判でも 落ちているかと思われる位、それほど景気がよかった。その江戸が享保以来がたりと不景気にな って、市民が食えぬようなことになって来たのです。そこで京都と見合せますと、京都の方は工 業地である。前からそうではなかったのですけれども、延宝あたりを境にして、大きな資本は大 坂に移ってしまった。資本が大坂に移ってからの京都は、もう商業地ではありません。あとに取 残されたため、ささやかな工業が多くたりました。市民の大多数は手問賃で暮しを立てる。万事 がつづまやかになって参りました。 安囲いから月囲いへ  京都市民と同様に、御公家様なるものが又ひどくつづまやかなものでありまして、看板ばかり でかいけれども、中身はそう往かない。「公家の位倒れ」というだけあって、自分の娘を売物に して諸大名の援助を受ける。遂に京都は諸大名の妾の仕入地という風になりました。諸大名相手 ばかりではない、女達の色を売るのが京都の風であったことは、西鶴以来の浮世草子によく出て 居ります。京都の人間の大多数は、自分の娘を人に売りつける、女も亦自分を商品として立行こ うという、妙な風が起ったのであります。  女の商人に「すはい」というのがありまして、旅宿に泊っていて御景物なものを売る。問屋に は又「蓮葉」なんていう者が居って、旅の商人を泊めては、その相手に出て売笑をやる、という 風になって居りましたが、享保以来は不景気のため、そういうものがだんだん減って来ると共に 女の稼ぎが大変替って来たのです。その風が江戸へ移って来たわけでありますが、いずれにもそ ういうことを致しているような女達というものは、そんなにいい家の者はありません。ごく身分 の低い人が多かった。従っていくらか自慢の気味があるくらいのものでしたが、享保以来だんだ ん暮し向が苦しくなりましたから、宝暦頃になりますと、相応な商人の娘や妻が、親や夫と相対 ずくで、御番衆の家来に囲われるようになりました。前は殿様だけだったのが、今度は家来にも 囲われるようになった。これが安囲いというやつで、その扶持方は毎月貰う。その多寡は女の |標緻《きりよフつ》次第ですけれども、極上々が米一斗五升、その次が米一斗、その次が米八升というようなこ とになっている。そうして月に六日ずつ通う。こんな少ししか貰わないのですから、相手もいい のでなく、客を取る女もいいのではない。併しそんなものでありましても、これくらいた米では とても立行かたいから、一人の女が男を四五人ずつ引受ける。そういう女の稼ぎが考えられるよ うになりました。前から見ますと、代物も悪くたったし、買う方の幅も広くなった。  けれどもこの安囲いというものは、京都としては宝暦度からあったのです。又その時分になり ますと、月囲いというものがはじまっている。京都へ遊山か何かに行った人があって、借座敷と 云いまして、逗留中或部屋を借りる。これは小さい家みたいなものです。そいつを幾月と云って 借りる。宿を取らずに、自分の家にいるような調子合いで暮す。その逗留中に妾を置くので、一 月に何程という女があるのです。こんなのは妾というけれども、次から次へと移るのですから、 まあ女郎のようなものだ。前の安囲いにしたところで、四人も五人も相手を持っているのだから、 女郎のようなものであるのに変りはありません。 恐るべき安政地震の後  享保度に京都の風が江戸へ移ったと中しましたが、それではこういうものまで移ったかという と、全く京都のようでもなかった。天明八年四月に京都に大火がありました時分に、所司代を勤 めて居りました松平和泉守が、こういう達しをして居ります。京都というところは諸大名の屋敷 もなし、女の奉公先が少いのは当然であるが、何かせぬといけないからと云って、人の弄びもの になる風がある、十五六歳になったら早く嫁入をさせて、真面目に世の中を暮すようにしなけれ ばいけない、驕奢逸遊に耽る風俗を改める必要がある、というのです。  松平和泉守はこういう達しを致しましたばかりでなく、取締も相当やりまして、方々の私娼地 域を取潰しましたから、京も田舎になったと云われた位でありましたが、それほどの圧力を加え ても、実際はあまり効果がなかった。ですからこの達しにあるように、驕奢なるが故にこういう 風を生ずるとばかりも考えられない。これは前からある仕癖なので、上に立つ者の仕癖があって、 だんだんそういう風になっている。それが土地柄になりますと、いろいろた惰力もありまして、 売笑することを女の稼ぎのように考え違いするようになる。もともとを考えれば、食えないから 何かする、腹が減るから無恥にたる、というところから来ているので、ただ驕奢というだけのこ とではありません。恥も外聞も忘れて、そういうわけもわからぬ稼ぎをするようになるので、そ の結果は余計なあぶく銭が取れますから、自然驕薯にもなれば賛沢にもなったものと思います。  享保度に京風が江戸へ移って、囲われ者はありながら、安政度まで江戸に安妾が出て来なかっ たのは、どういうことかと云いますと、これは安政二年の大地震なるものが大きな原因をなして いる。天保の改革が苛酷でありまして、方々疲れて居りました上に、あの地震が来たのですから、 その後の様子に大変化が起った。諸旗本の屋敷は以前の半分位になる。奉公人も三分ノ一になる。 諸大名の屋敷でさえ仮普請が多い、という有様でありました。幕府の士の中で、家の普請は出来 ず、役目はあり、体裁上困るというので割腹した者があったのは、やはりこの際の事であります。 仮宅が景気がいいとか、いなせ節がはやったとかいう方面ばかり見ていると、安政の地震後も景 気がよかったようですが、此等は無論一時のことで、あとのひまになったことは又ひどい。天保 改革の後以上にひまになってしまった。それまで江戸に無かった「引ッ張り」というものが出た のも、この安政地震の後であります。 目につく片商い  私の祖父から聞いたことですが、それ以前は職人の若い者などが集ると、稽古所入りの話をし て、あそこの師匠は声がいいとか、女が美いとかいうことを話題にして居った。或はどこの茶番 に何をやるとか、今度の御祭にはどういう趣向を持出そうとかいう話-若い者が寄れば女話で ないまでも、そういう賑かな話が出るときまっていたものだが、安政地震後のことは、何時何時 年が明けるから所帯を持たなければならぬ、というような、持ちもせぬ所帯話をするようになっ た。それからまたびっくりしたのは、俄雨がサーツと降って来るような時、今までは草履を脱ぎ 棄てて、半纏を頭から被って駈出すという風であったが、安政地震後は草履を脱いで、二つ揃え て三尺に挟んで、それから駈出すという風に変ってしまった。それは何のためだというと、それ だけ江戸が不景気になったのです。  さてそれに続いて、幕末と申すのは文久二年以後を指すのですが、この時最後の改革がありま した。又この改革で江戸へ落ちる金が減って行くわけで、時勢も時勢ですが、武家の疲弊がだん だんひどくなって参りますから、江戸の市民は益々食えなくなって来た。江戸の人達は武門の影 響もありましたが、分相応に致してさえ居れば食えないことはなかった。職人は夜さえ明ければ 金になるという調子で、とにかく食えないことはなかったのですが、安政以後はそう往かない。 衣食足って礼節を知るとか、恒産無き者は恒心無しとかいうようなことも、一般の人の上にはよ くあったことで、又それに相違ないのです。  江戸が最も盛であったのは享保以前のところで、商工業ともに殆ど競争というものがなかった。 きまりきった取引が行われ、きまりきったところへ雇われて行って仕事をする。それですから食 えないという者もなし、立行かぬという者もない。元禄以前の世界が別に違った世界のように見 えるのは、経済上の関係から来るので、この点は経済史をよく注意して見ていただきたい。それ が購売力が減退して来ると、御得意様が弱って来るのですから、諸職人はどうしてもひまになる。 商家の片商いといいまして、商売が一つでなしに二つある。両替屋と紙屋をするとか、酒屋と薪 屋をするとかいう風で、二三種の商いを一軒でするようになった。こういうこともやはり町人の 苦しい証拠でありまして、それは武家が疲れて来た為であります。  ただ江戸を幾度か賑わしましたのは、通貨の改鋳によって生ずる不合理な景気なので、小判イ ンフレとでも云いますか、その時賑うだけで、だんだん寂れてしまう。そのトドのつまりですか ら、安政の江戸はひどいものになっていたのです。 人目を忍ぶ半囲い  従来も淫奔な者はあり、随分始末にならぬ者も少くなかったのですが、町家の者は前尻を売ら ない、商いにすべきものでないという考えがあって、そういうことをするのは恥かしいと思って いる。そういう風は後々まで残って居りました。例の駈落というやつ1芝居で云うと道行です が、あれは心中をする前提ときまっているわけじゃない。他の地方へ出て夫婦になる。子供の手 毬唄なんぞにも「お前と私と駈落しよ」なんていうのがあって、子供は何も知らずに唄っていた から|暢気《のんき》なものですが、そういう風だから淫奔なやつは無論あった。ただそれで銭にしようとい うやつはなかったのです。|裏店《うらだな》の娘なんぞになりますと、知らない人から、みいちゃんとか、き いちゃんとか声をかけられても、あいよとか何とか云って愛想のいい返事をする。そういった調 子合いのところはありましたが、銭を貰ってどうするかというと、決してそんなことはなかった。 死んだ服部普白君が、あれは江戸らしい女だと云っていた立花屋橘之助、随分いろいろの男を持 えるやつだが、金を貰って持えたことは一度もない。ああいうのが江戸の女と云って喜ばれたの です。  そんなのが珍しいことになり行くほど、江戸の女が堕落したのは安政以来でありまして、もう 恥も外聞も無い。吹聴こそしないけれども、隠す風はなくなった。近所の者なども、あそこの娘 は働き者だよ、という風になってしまったのです。  ところでもう少し前のところを振返って見て、江戸の囲い者はどういう方面が一番多かったか と云うと、天明七年の日記1これは松平越中守が寛政改革に著手しはじめた時ですーには、 その時分は寺方、即ち坊主ばかりだったとあります。又人の妻や娘を半囲いにする坊主が多かっ た。半囲いというのは、女をその家に置いたまま通うことで、ただ囲い者というと、別に一つ家 を持えるなり、借りるなりして通うことになる。これは坊主だから人目を忍ぶために、居なりで 半囲いにして通うのです。  尤も坊主以外の老でも、そういうものが無いわけでもない。一体囲い者というものは、初代の 路考から起ったと云われて居ります。あれは女形で、女などを引廻していると人気にかかわる。 こういう特別な事情は、坊主以外にあまり無いわけですが、路考は内証で二軒茶屋に女を囲って 置いた。その時に囲い者という名称が起ったというのです。囲い者は古くからあるにはあったの ですが、先ずこの頃をはじまりと見てよかろうと思う。その他にあったとしても、そう沢山は無 い。それでも上方風が移ったと云って歎息されたのです。その囲い主の一番多いのが坊主だった ということは、坊主だの、人気商売の役者だのは、妾宅が人目に立って困るからで、半囲いでな くても妾に小商いをさせる。この形は明治になっても残って居りまして、絵草紙屋をやらせると か、煙草屋をやらせるとか、葉茶屋をやらせるとかいうのをよく見かけました。 遂に生ずる旦那取の風  安政度にもそういう風があったと見えまして、安政三年の落首に「又しても女髪結町芸者地獄 女にかこひもの茶屋」というのがある。何か料理屋とか、そういう種類の商売をさせるのがあっ たらしいのです。「船板塀に見越の松、飯炊姿に猫一疋」というようなのが、囲い者のきまりの ようにも云われて居りまして、芝居でする玄冶店のお富さんなどは、まさにこの図ですけれども、 安政度にはそういうものは少いので、半囲いの方が多かった。中には船宿とか、芝居茶屋とかい うものを出して貰うのもありましたし、また船宿や芝居茶屋の娘のところへ行くのもある。水茶 屋や楊弓店をそのまま囲い者にしている|手合《てあい》もありましたが、此等はみな半囲いなのです。  旗本には妾宅というものがありません。これはそういうものがあると面倒だからで、下屋敷が あっても其処に妾を置くことはしなかった。必ず本宅にいたものです。昔の武士は外泊が出来ま せんから、囲って置いても其処へ行って泊るわけに行かない。勤番侍にしたところで門限があり ますから、夜遅く帰るのは面倒だし、暮六つには御門がしまるので、うかうか妾宅などへ行って は居られません。旗本衆でなくても、許可されなければ自宅以外の宿泊は出来ない。それに普通 の侍どもには金が無い。旗本衆でも財布の軽いのが多かったのです。  そこへ行くと町人は、どこへ泊って来ようが勝手ですから、自由自在なことは坊主と変りはな い。坊主は寺に置くわけに往きませんから、囲い者とか、半囲いとかにする。何時になってもこ れが多いわけでありますが、安政以前のところでは、前の旦那をよして後の旦那を取ることはあ っても、同時に二人三人ということはありはしなかったのです。  安永四年の「|髪《ここ》かしこ」を見ますと「囲はれも乳母も金魚も|高直《こうじき》もんだねヘ」と書いてある。 半囲いですと大分御安くなりますし、月囲いと云って一月いくらという手当の者、御さすり雇い という下等な者などは、更に廉価でありますが、本当に家を一軒借りて、そこへちゃんと自分だ けのために囲うとたると、法外もなく金がかかる。そんなものも安政時代にあるはありましたが、 誰にも出来ることでたいから、そう多くはない。「久夢日記」などを見ますと、   江戸表にても明和年中よりかこひ女あり。 とあり、   又娘を京都の如く男四五人にかこはせて月金二分または三分、或は一両出し、是四五人にて   かこひおくこと下町浅草下谷辺多くあり、文化に至りてはなほさら多し。 とも書いてあります。これは文化、文政の頃からこういう風になったんじゃないかと思う。何し ろ月二分とか、一両とかいう金で済ますことになると、囲い者が一人の旦那でいるわけに往かな い。半囲いは半囲いでも、相手が幾人あるか知らせぬようにして置いて、何の日何の日に来ると いう風にする。こういうところから、初めに申した旦那取の風になって行ったものと思います。 共同妾宅営業  北尾辰宣の画本の中に、京都の囲い者の模様を書いたのがあります。   又月囲といふ女有、一ヶ月を何程と給銀を定め、三人或は五人もか二り日をきはめ、時をや   くし出合のやどに行も有、ぢきに其内へ行も有、子懸り親仁、おやか上りのむすこ、寺の和   尚納所坊、人手代などのたのしみなり、月囲のありかを|尋《たずぬ》るに、多くはうら|店《だな》にて綿つみ指   南、ふる手かひ、髪ゆひ、旦雇などの娘なり、朝夕のけぶりたえまがちなりしが、娘が|生《おい》た   つにしたがひ、内はにつとりと青土佐の腰張、遠州行燈、棚に燗鍋盃楽焼鉢、内には不相応   な大まないた、庭に魚のうろこきらつくは儲けると見えたり、入口の戸に油ぬるやら狗がね   ぶる、壁際の竿に緋縮緬の二幅がひらつくは、扱は疑がふ所もなく、こ上ぢやおはいり。  これは上方の模様ですが、江戸でもこれと同じようなことが安政以前からあったのです。江戸 で明和度にひどく流行しました踊子、今の芸者の祖をなすものですが、あれは御客との間に何か あっても、内証事のようにしてあった。人の娘を疵物にしたと云って、親が文句を云って来た為 に、客が困って詫金を出す。売物の踊子でさえ、内実はともかくとして、そういう恰好をして居 られた。それだけ江戸の女は堅かったのです。  それが文化になりますと、日取りをきめて旦那を取るところまで往った。文化、文政度に驚く べき話だと思うのは、安妾をうちへ置けない1囲って置くだけの資力の無い人のために、両三 人も女を預ってそこへ来て貰う。そういうことをして商売にしている者があった、共同妾宅とで も云ったらいいでしょう。そういうものが商売になるほど、文化、文政度には様子が変って来た のであります。  殊に文化十三年の「世事見聞録」を見ますと、そういう風儀は十四五年来のことだと書いてあ る。そうしますと、これは寛政の直後、享和年間からのことと見えます。その時分は数㌔少いし、 目立たぬようにもして居ったのですが、その相手の幅というものを「世事見聞録」が挙げている のを見ると、富有の町人、百姓、坊主、そのほか遊民等、これはあぶく銭が取れる人達です。安 直な方では町家の軽い手代小者が挙げてある。武士も無いではないが永続せぬ、と云って居りま す。  又この頃になりますと、小身の士の娘などで囲い者になるのがある。まして一般の者は誰彼な しに、女の働き、稼ぎとして、珍しくないようになっている、と書いてあります。十四五年前か らその頃までは、京坂の風俗は如何にも軽薄なものだと云って、江戸で悪く云って居りましたが、 その頃からだんだん悪口も云えぬ仕儀になって参りました。     架空でない人情本の女  そこで享保から文化、文政まで、文化、文政から安政まで、この時の距離がどの位あるか、一 つ勘定していただきたい。遂に化政度からは夫婦馴合い、親子馴合いの上、見て見ぬ顔で旦那取 をさせる風を生じました。中には一向構わず、大びらにやっているやつがあって、お袋が家来で 娘が主人のようになっている。随分お袋が|寝床《ねどこ》の世話までしかねぬようになりました。よほど 「世事見聞録」の著者は憤慨したと見えまして、   売女は古来畜生といふ、今は其畜生といへる売女にも劣りたる業するなり。 と云い、又、   利欲淫欲には恥辱をしらず。 とも云って、日本はじまって以来、こういう時世はない、とまで断言して居ります。  これを見ますと、公娼でもたければ私娼でもない、素人と玄人の中間に在る、鼠色のようなも のです。これの出来はじめたのが文化、文政年間でありまして、その一番いい例は人情本の中に 出て来る女、あれは娘だか→女郎だか、芸者だか、一向わけがわからぬ人間になっている。けれ どもあれは決して架空の人間ではない、実際ああいう女がいたのです。そのつもりで人情本を読 むと、なかなか面白い。勿論江戸中が人情本の通りになったわけではありませんが、ああいう人 間も少数ではなかったと思います。  幕府のひっくり返る時のことを、当時の人は瓦解と申しましたが、男女の道が乱れて飛んで行 ってしまうようにたれば、何時の世の中でも必ず土崩瓦解する。一国に君たる者が淫欲と驕奢と を慎まなければ、閨門の乱れによってその国が亡びると云われて居りますが、一般の奢修、淫欲 からも亦崩れる。それは幕末の時の通りで、まことに恐ろしい次第であります。 河内山宗春の狙い所  そういう時代でありますから、文化だの教化だのというものは無論ない。坊主の方の有様など も、実にひどいことになって居りまして、化政度には女犯僧の話が沢山あります。日本橋の挟に はそういう女犯僧が晒し者になっていたと云いますが、文政六年の秋には一箇寺の住職-小石 川戸崎町の祥雲寺、牛込榎町の宗柏寺、南品川鮫津の海曇寺、市谷念仏坂上の月桂寺、芝三田小 山の大中寺、小日向五軒町の清巌寺というような、一宗の触頭になる大きな寺院の住職が、囲い 者一件で検挙され、遠島処分を受けて居ります。そういう寺院の中でも大きな寺の者が、打揃っ て処分されたなんていうことは、江戸になってからそうあることではない。河内山宗春などとい う男は、囲い者をしている寺を手下に探らせて、|強請《ゆすり》に行くのが仕事だったので、河内山にはそ の外にも罪科がありますが、それが主な仕事だったのです。文政七年に百箇条が一条殖えて「寺 院に対し事実の有無に拘らず、女犯を申掛け押借をなさんとする」云々ということが加わったの もそのためでありまして、河内山は長い間寺をゆするのを商売にして居った。そうして十人近い 子分子方を養って行けたほど、寺の囲い者は多かったのです。  その方の取締で有名なのが、寺社奉行の脇坂淡路守、紹の皮の尻鞘が淡路守の持槍だったので 再役の時に「又出たと坊主ビックリ招の皮」という落首がある。天保改革の時には盛に隠密を出 して、隅々まで捜させて取締をしたのであります。  寺門静軒の「江戸繁昌記」は天保以前の様子を書いたものですが、まるで落語のようなことが 書いてあります。これは少し下等の方の話で、小僧上りでまだ番頭にもたれぬような商家の若い 者が、安囲いの女を持っている。手軽であって安いから、そういう手合までがそんな真似をした のです。それでは上等はどの位したかと云いますと、二月縛りで金五両から、四両、三両、二両 位まであったと云います。天保十一年の「|花筐《はながたみ》」に二月縛りで三両とありますから、一両二分が 並だったのでしょう。「花の瀧夜」という人情本には、足入金と云ってはじめて行く時が三両、 あとは月々二両ということが書いてある。此等は上等の方なのです。安囲いの女は一人で大概五 人くらいの男を持って居った。それが日をきめて出かけるのですから、女郎買に行くようたもの だったのです。 落語さながらの場面  ところでここに一つ面白い話がある。今日はその男が行く日だというので、女のところへ行っ て、何がしか金を出して一杯飲んでいると、表に雨垂ほどの音がする。女はしかめツ面をして、 あの話のが来ました、少しの間隠れていて下さい、と云って戸棚の中へ押込んだ。仕方がないか ら、息を殺して隠れていると、今自分の取った酒肴で、あとから来た男といちゃついている。甚 だ以て面白くない。一体どんな男か、覗いて見たいと思って、戸へ手をかけると、何か自分の手 に引っかかるものがある。ハテナと思ううちに、今度は自分の肴を引張るので、びっくりしたけ れども、隠れているんですから声は立てられない。するとその怪しげなものが、しずかにしずか に、己だ己だと云う。はじめて人間がいるとわかったが、何だかその声に聞きおぽえがあるよう だ。気になるから少し戸を明けて見ると、その明りで自分の友達のいることがわかった。お前も か、己もだ、と云うわけで外を覗いて見ると、あとから来たのもやはり懇意なやつだ。この先生 は何も知らないから、酔に任せて頻りにふざけている。中の二人は辛抱が出来ない。思わずぐっ と押すはずみに戸棚の戸が倒れたので、二人は外へころげ出す。酔払いは板戸で頭を打って目を 廻す。女は仰天してそこを飛出してしまう。二人もこんなことに引っかかっては大変だから、直 ぐに逃げ出したというのです。  これは日はきめて置くけれども、不時なやつがやって来た為に、こんなトンマを生じたのです。 静軒の原文は私の云うようなものではない、もっとうまく書いてある。この種が落語になってい るのを聞いたこともありますが、とにかく安政度を待たず、天保度には随分ひどいことになって いたのがわかります。ただ僅かな相違ですが、安政度にたりますと、以前よりもいくらかいい家 の娘や何かが、こういうことをするようにたり、外聞を恥かしがる風が乏しくなって居ります。  天保の改革が失敗に了りまして、水野越前守は引込む。弘化には阿部伊勢守が出て、一旦抑え た手を放しましたから、すべてがごちゃごちゃになってしまった。それから後というものは、例 の内憂外患で、舞台が忙しくなりましたので、そういう方までは行き届きません。安政以後は全 く御話にならぬ状態になったのも、已むを得ぬ次第だったのであります。 紛失した江戸の女気質  明治七年に出ました「今昔|較《くらべ》」の中に、安政の地震以来、江戸の女は心の錠が弛んだ、それは 皆焼け出されて居所が無くたった為、合宿したり、御救い長屋に入ったりして、ごちゃごちゃた 暮しをしている間に、遂にそうなってしまった、ということが書いてあります。それについて思 い出すのは、大正の地震で上野に避難した一群の人々の中に、食パン半斤で売笑した者があった、 という話を聞いたことがある。これは一時のことでございましょうが、窮乏している江戸が地震 という災難に遭って、起上る力も無いから、遂にそういう始末になってしまった。その上に文久 の改革で、諸大名の奥方が御国へ引上げることになりました。諸大名の屋敷というものは、国許 が半分、江戸が半分という風になっていたのですが、奥方が引上げられることになると、ごたご たするばかりで、あとは極めて寂しいものにたったのです。  そういう際に当って古今無類の事柄が降って湧いた。大老であった井伊直弼の妾で、扶持も五 人扶持貰っていた女、休泊屋敷というところにいた重蔵という差配人の姉で、名をこうという。 当時二十九歳、非常た美人でありましたが、この人が一月五両ずつの囲い者に出たというので大 評判になりました。従来諸侯の妾で、子のない老が実家に帰ることはありましたが、それが再縁 することすら先ずなかった。文久以来は大名の方が名義ばかりで、捨扶持と云っても本当に扶持 をくれない。そのために遂に人の妾にならなければ生きて行かれないことになったのです。  こういうことは江戸はじまって以来、未だ嘗てなかったことで、文久という押詰った時、世の 中がどんなになるかが思いやられる。ただこの一事だけでも、それを見る人には大きな衝撃を与 えたのであります。もともと食えないからやった仕事たので、五人扶持でもいただいて居れば、 そんなことをやる筈がたい。大名の妾などになれば、自然気位も高くなりますから、つまらぬと ころへ縁付くより、一生それを光にして暮す方がいくらいいか知れない。江戸の女気質もここに 於て紛失しました。また紛失もしたければならぬわけで、約束した扶持が来ないのです。 時世の変る行詰り  そういうことも亦、文久度は安政度よりも一層ひどくなっているように思う。「今昔較」はこ うも云って居ります。慶応になってから諸式は高くなったが、妾は安くなった。江戸中おしなべ て、人の妻とか娘とかいう人達が、ひもじくもなく、寒くもなく暮そうとするには外に途がたい。 拠ろなくそういうことをする者が多くなったから、値段が安くなったというのです。  然るにその後東京になってから、又風俗が変りまして、そういう風を以て金儲けの一手段とす るようになった。京都の人達の心持が肚に沁み、髄に沁み込んだのです。いくさ騒ぎの欝憤晴し は漁色より外にない、という人達が東京に一杯居りましたから、それで余計多くなりもしたので すが、その勢に乗じて色を売ろうとする女も殖えて来た。その方に行きさえすれば、旨いものを 食い、美しい著物を著て楽に暮せる。そこを頑固にやれば、木綿著物も新しいのは著られない。 そういうところから色を売物にするというのも、一面から云えば尤もな話であります。京都の或 習俗の根元をなすものは、戦国以来絶えず軍人が入込んだためで、明治に新政府の御役人が沢山 来たということが、東京の風俗を破る根本になって居ります。  慶応に物が高いので苦しんだ時分でも、江戸の女の心の底には、未だ幾分かこんなことをすれ ば人に悪く云われやしないかということがあって、それをひどく恐れる心持のある者もあったの ですが、その後はそういう気分も殆どなくなってしまいました。そこで考えて見ますと、安政の 苦しさより慶応の苦しさの方がもっとひどい。武家に関係のある商人、職人達は皆失業してしま う。侍達はまごまごするばかりで、更に落著が取れない。実際御話にならぬほど苦しかったので す。  これが明治にたって参りますと、第一侍どもが飯が食えない。それに関係の者も無論食えない。 ここに於て旗本と云わず、御家人と云わず、その子供達をおかしなことにしなければならたかっ た。又それをいい事にして、新政府の御役人達は、その金と位地とを利用して、そういうものを 需要する立場に居りましたから、愈々得手に帆を揚げるような結果になったのであります。化政 以来の様を天保度に比べ、天保度を安政に比べるという風に、順次に比較して、囲う人の階級資 力と囲われ者の境涯と代金とを考えれば、その拡まって行く場面が知れます。  尤も今日男女の道が正しく行われないのは、その為ばかりではない。明治十七八年頃の話です が、吉原の女郎が、近頃のように強淫させる者があると、私達の商売はひまです、と云ったのを 聞いたことがある。昔は凌辱などされれば生きて居られるものでなかった。勿論四囲の状況も違 いますが、近来の女は平気で、誘惑されましたなんて云っている。抑々誘惑されるというのはど ういうことか、誘われれば何でもするか、性根が据っていないから動揺するのです。一人前の人 間が誘惑されたという申訳があるべきでない。無知蒙昧たら格別のこと、学問をしたとか、教養 があるとか云いながら、そんなことがわからなくっては仕方がない。夫婦は人の大倫なのを知ら ず、男女共に人間の歓楽慰安として嫁嬰し、恋愛の自由と云って野合する、それが知識階級と自 称する輩の常になっている。これは江戸の末期を誠めとすべきように存じます。  囲い者というようなものが、安政以後幅広くなりましたことは、時世の変る行詰りを見せたも のと思うのですが、今日の状態を見ますと、自由恋愛とか何とか云って、誰の夫だか、誰の女房 だか、わからなくなっている。これでは又世の中が変らたければならぬと思います。どうか江戸 の末のことを御考え下さる時分には、この辺からも御観察下さって、人情本などもただ淫奔なも のとのみ見ないで、あれは江戸の亡びる状態の、何より著しい現れと解釈していただくように御 願して置きます。