異人嫌いの喜遊 三田村鳶魚 二通りある遺書  幕末に横浜の岩亀楼の遊女の喜遊が、アメリカ人に買われるのが厭だといって、自殺をしまし た。その遺書というものが大変にひろがって大きな評判を持え出しました。併しこれは撰夷運動 の今日で中せば宣伝といいますか、吾々どもが若い時分に、自由党の尻について騒ぎ廻った時分 でも、おぽえのある事ですが、何ぞ事があると、その事柄を直ちに利用して、その時の政治問題 にくっつけて、景気を煽って自分達の運動の便利にする、というようなことは、後々までもあっ たのです。今日でもそういう方面では、そういう運動の仕方が猶盛に行われているようですが、 今日はもうそういう手段も古めかしくなって、効力に於ては明治時代にも及ばなくなって居りま す。けれども幕末攘夷運動の時分に、外国人嫌いの遊女があったなんていうことで、それを宣伝 に使えば、その効力は随分大きなものがあったろうと思います。 それですからあの喜遊は何時自殺したのかというと、それはたしかにわかっていない。どんな 人間であったかも、無論わかって居りません。それにも拘らず、敵慊心の強い、異人嫌いの女だ といって、それがこういうことをしたとか、ああいうことをしたとかいう事柄が、随分伝えられ ては居りますが、その根拠を尋ねると、何もないのです。喜遊の遺書というのも、ただ歌ばかり のと、歌と文章と両方あるのと、二通りありますが、これは文章などもまことによく出来て居り ますし、歌も例の「ふるあめりかに袖はぬらさじ」というので、よく出来て居ります。その文章 や歌からいうと、如何にも同情に堪えぬようになっている。その歌と文章とを、先ずここへ出し て置いて、それから取掛ることに致します。 世に苦海に浮沈するもの幾千万人と限りも候はず、我が身も勤する身の習ひとて、父母の許 し給はぬ仇人に肌ゆるすさへ口惜しけれど、唯々御主人の御恩を顧み、ふたつには身の薄命 とあきらめ侍りしが、其基ははかなき黄金てふもの亠あるが故ならめ、此金は遊女の身を切 る刀に候ま、、其刀の苦海を離れ弥陀の利剣に帰しまゐらせ度、主人に辞して亡き双親に仕 へ参らせ候得ば、黄金の光りをも何かせむ、おそろしく思ふうらみの夢覚よかしと、誠の道 を急ぎ候ま亠、無念の歯がみを露はせし我死骸を、今宵の客に見せ下され、か」る卑しき浮 れ女さへ、日の本の志は|任《か》心くぞと知らしめ給はるべく候。 露をだにいとふ|倭《やまと》の女郎花ふるあめりかに袖はぬらさじ さてこの攘夷運動に御誂えの遊女であるところの喜遊は、横浜の遊廓の岩亀楼という家の抱え であったということであります。この岩亀楼から出版致しました万延元年の細見——「|港崎《こうざき》町細 見」というのですが、喜遊の名はその細見に見えない。喜遊は或は亀勇であるともいいますが、 何方にしてもこの細見には出て居りません。こうなると喜遊の伝記、喜遊の実在というものが、 甚だおぼろげなものになって来るのですが、昔国民協会の所属代議士だった平林九兵衛、あの人 は品川の旧家に生れた人でありまして、同じ土地のことですから、岩亀楼の亭主であります佐吉 と懇意でもあった。この人が佐吉から聞いた話を、自分で栫えた「温古見聞彙纂」の中に書いて いるのです。また自分でも喜遊を見知っていた、ということも書いて居ります。何しろ喜遊の抱 え主の話であり、喜遊を見知っている平林さんの書かれたものですから、今までに書かれたどれ よりも、「温古見聞彙纂」が一番信用されるように思う。その話の中でも、いささか不安を感ず るところがないでもありませんが、それより外に信ずべきものがないのです。 ほの見える喜遊の人柄 これによりますと、喜遊は深川の皆川町の町医者でありました太田正菴の娘で、嘉永六年正月 に新吉原江戸町二丁目の甲子屋喜久二郎という者のところヘ売られた。その時八歳だったといい ますから、弘化三年の生れだということがわかります。そうして翌年、即ち安政元年に両親とも に死んだので、それから甲子屋の禿をして居った。十五歳の春と申すと万延元年ですが、この時 |子《ね》の日という名前で、はじめて見世へ出た、というのです。 そこで手許にあります細見を捜して見ましたが、あいにく万延元年春のがありません。万延元 年七月に出た細見を見ますと、甲子屋はあるが子の日はない。けれども吉原は万延元年九月二十 八日に火事がありまして、仮宅になって居ります。この時の仮宅は元地にいたのもありますが、 甲子屋は深川に仮宅をしているので、それらのところを見ましても、やはり子の日の名前はない のです。その後甲子屋から鞍替して、北品川の岩槻屋佐吉のところへ来た。これは余所にはない ことですが、宿場の女郎屋は格別で、表向は旅籠屋で女郎屋でないということになって居ります。 岩槻屋はなかなか金持であったそうで、一代苗字を許されて、佐藤佐吉と申して居りました。多 分万延元年の春見世へ出て、間もなく品川の方へ鞍替した為に、吉原細見に載らなかったのでは あるまいかと想像されます。 さてその岩槻屋に来て居りますうちに、平林九兵衛さんは喜遊を見かけた。岩槻屋の別荘に呼 ばれて酒宴があった時、喜遊が御酌に出た、綺麗な女ではあったが、憂い顔で寂しげた女であっ た、と書いてあります。なかなか世間に伝えられているようた、浪人相手に力んで見たり、外国 人を見て畜生呼わりをしてかかるようなものじゃなさそうです。先年長尾藻城君に御願いして、 喜遊の事を聞いて貰ったことがありますが、|神山《こうやま》修斎という老人から聞いてくれたのに、岩亀楼 の内芸者をして居った老女がありまして、それが云うには、喜遊さんはほんとにおとなしい、い い子だったから、死んだ時には誰でも惜しまぬ者はなかった、ということだったそうです。この おとなしいという事と、憂い顔であったという事とを押えて考えて見ると、喜遊の人柄が如何に も内気な、静かな女だという風に思われるのです。 ところで横浜の遊廓と申しますものは、神奈川の——これも宿場ですが-鈴木屋という者が 出願して許可を得たので、その敷地としては太田屋新田というところがある、その沼地を埋立て ることになった。この埋立に思ったより金が要りますので、鈴木屋も遣切れなくなって、岩槻屋 の援助を受けることになり、そうして出来上ったのが港崎町で、後にはここを移転しましたが、 最初は太田屋新田に在ったのであります。岩槻屋は鈴木屋を助けて、横浜の廓を持えたのですが、 その名主が佐吉になっているところを見ますと、願主は鈴木屋だけれども、佐吉が殆ど実権者の ように思われる。勿論佐吉も商売上、そこへ女郎屋を出す段取で、鈴木屋を助けて横浜の方へは 岩亀楼というのを自分の名前で出す。品川の方は娘にゑゐというのがあって、それの名儀になっ ている。ここは万延元年の夏から開業したということです。 横浜の廓と致しましては、長崎丸山の例を用いて、遊女を唐人口と日本口と二通りに分けて置 きました。長崎の例を見ますと、日本口の売れの悪い者を唐人口ヘ、唐人口の売れのいい者を日 本ロヘ廻すことになっていて、どの遊女もはじめから唐人向という約束はしてないものだそうで す。そこで横浜では、外国人向の遊女というものは、三両からはじまって二分まであったそうで すが、これもまた長崎と同様に、その遊女が外国人の方に参って勤める、月雇いという風になり ますと、月二十両、十五両、十両と三等になっていたそうです。この時分ラシャメンと申して、 外国人の妾になります者は、やはり遊女の鑑札を受けて、遊女屋の抱えということになって、外 国人の居所に参りますので、長崎と同じことにして居った。実際遊女でなくても、鑑札を受けて 外人の妾になるのです。 ラシャメンということは、文久三年刊の「横浜奇談」にも、ラシャメンは獣の名で、水兵など が犯すことがある、だから異人に犯さるる者をラシャメンというのだとありまして、ひどく卑し く見られて居ります。異人の妾は毛物扱いですから、日本人の妾、囲い者が馬鹿にされるくらい な程度ではありません。覿面に遊女とたり、外妾とならなくても、いずれ外国人と縁を結ぶ者は、 大抵条件付でしたから、外国人も人なら我も人である、というような対等の感じで結婚する者は ない。世間からも卑しまれますし、自分からも卑下する心持があったのです。この節の人間は、 妻になったのか、妾になったのか、ろくだまに吟味もせず、外国人に付廻るのが、もののわかっ た人間であるように云う者がありますけれども、あれは全く当時の事情を知らぬ者の話である。 のみならず日本人の妾になるのは、まだ内輪だけれども、外国人の妾になるに至っては、恥とい うことを考えに置かぬ人間のすることであります。それを知って置かぬと、喜遊の心持などはと てもわからぬと思います。 伝えられた話の相違 品川の岩槻屋の女を横浜の方へ分けなければならぬという時に、喜遊は横浜へ移ることになり ましたが、本人はこれを喜ばたかった。横浜へ行けば異人にも買われなければならぬ、それが厭 だから、という切な頼みもあったようです。けれどもそう一人の我麕だけ通すわけには往かない ので、お前は決して異人の方へ出さないから行ってくれろ、ということになって、開業当時の岩 亀楼の遊女として、喜遊は横浜へ行った。喜遊というのは横浜へ行ってからの名で、品川時代の 名は何といったものか、それは書いてないからわかりません。 そういうわけで横浜へ移りましたが、そこへ米人の|伊留宇須《いるうす》という人——これもいろいろな名 前がついていて、どれが本当かわかりませんけれども、平林さんのでは伊留宇須ということにな って居ります。これが唐人口でない喜遊を是非買いたいという。金はいくらでも出す、なるべく は月雇いの妾にしたい、というのです。本人は前からの約束があって、恥を外人にさらすのは忍 び難いことである、というので、一向出ようということを申しません。主人も勧めれば傍輩も勧 める。女郎屋の事ですから、別にいじめたとは書いてありませんが、その状況は察することが出 来ます。拠どころなくなって、とにかく承諾しまして、愈々喜遊が伊留宇須に買われることにた った。それは文久二年の事で、本人はその時十七歳であったといいます。 ところでもう愈々買われるということになって、御客の伊留宇須は已に来ている。喜遊は化粧 が手間取るらしく、なかなか部屋から出て来ません。伊留宇須は頻りに催促するので、只今只今 と云い延べて置くけれども、出て来ない。あまり長いので、|鴇母《やりて》が喜遊の部屋へ行って見ますと、 屏風を取廻してひっそりしている。殆ど|人気《ひとけ》のないような有様ですから、屏風を除けて見ると、 見事に咽喉を刺して死んでいる。それも懐剣で咽喉を突いた、と書いてあります。その跡に遺っ ていたのが、例の遺書だということになっているのです。 これは平林さんの聞書ですが、長尾君に聞いて貰った話によると、前に云った老妓の話では、 喜遊が自殺したのは扇の間といって、その部屋は唐紙から壁張付から、すべて何も彼も扇づくし の模様になっている部屋で、その部屋は引付の座敷だということになって居ります。平林さんの では自分の部屋のようになっていますが、引付の座敷だったとすると、客の前へ出て、そこで死 んだものらしい。  然るにまたこういう説があります。神奈川奉行の松平石見守が自ら記録した「外事秘録」に、 喜遊が自殺したのは万延元年七月十七日だと書いてあるというのです。この松平石見守という人 は、|康道《やすみち》と申しまして、専任の神奈川奉行の最初の人です。それ以前は外国奉行が神奈川奉行を 兼任しているので、専任の神奈川奉行というものはなかったのですが、この人が神奈川奉行にな ったのは、万延元年の九月でありました。それならば以前に外国奉行を兼任していたかというと、 そういうことはない。そうしますと、松平石見守の記録というものは、神奈川奉行にならぬ以前 のもの、ということになる。従ってこの記録が信じられるものか、信じられるものでないか、と いうことにもなって来るように思います。 それからまた外国人に買われることが厭だから、それで自殺したということになると、浪人ど もの騒ぎが益々甚しくなる。丁度浪人運動の最も盛な時でありますから、幕府の役人が秘し隠し にして、事を大きくしたいようにしたという。これは当時としてはありそうな事だと思います。 それですから死骸は直ちに火葬にして、神奈川吉田新田のうちの里俗御山の宮というところにあ る、常清寺という日蓮宗の寺へ葬った。その時は本名の智恵という名で葬った、という伝えにな って居ります。 ところがこの常性寺——字が違います——は、日蓮宗であることは違いありませんが、福富町 一町目から伊勢崎町一町目に亘る場所で、その当時は泥がどっさり積んである、ごく荒地であり ました。常性寺の墓地は後に久保山に移されて、横浜の共同墓地になったのですが、その跡へ芝 居小屋が出来たので、死人座という諢名がついた。これは後の蔦座のことです。こういう風に今 まで伝えられて居ります話と、長尾君に聞いて貰った話との違いがある。のみならず前の内芸老 であったという老女の云うのには、喜遊さんの葬式の時は、あまり深く掘ったので、靉がドブン といって落込んだ、それを聞いた時の気持は何とも云えない、自分も一緒に行きたくなった、と いうことだったそうです。そうしますと火葬にしたという話とは、大分違って参ります。 けれども今長尾君に聞いて貰った話から考えても、平林さんの聞書したところによって考えて も、喜遊という女はたしかにあったに相違ないと思われます。ただ別の方面から振返って見ます と、八歳の時から女郎屋へ売られた女に、あれほど立派た歌や文章の出来る筈はない。大低な素 養があったにしても、あれだけのものは出来ますまい。これは大いに怪しいことだと思います。 一首の歌に作者三人 もう少しこの怪しい方の話をしますと、文久二年に書いたものですが、丹波|篠山《ささやま》の藩士菱田氏 の随筆「|伝聞叢語集《でんもんそうごしゅう》」というものがあります。その中に「東都松葉や花園太夫和歌」として例の 歌を挙げ、「北御奉行井戸対馬守様御前にての和歌の端書も見事の由なり」と書いてある。井戸 対馬守が江戸町奉行になったのは何時頃かといいますと、嘉永二年八月から安政三年十一月まで 勤めて居られた人なのです。 けれども江戸の吉原には、宝暦度に太夫が絶えて、その後にはありません。北の町奉行井戸対 馬守の前で詠んだ歌というのですが、何で番所へ呼出されたものか、不審千万ではあるものの、 井戸対馬守の勤役中、即ち嘉永二年から安政三年十一月まで、八年間の吉原細見を探せば、花園 という華魁がいるか、いないかは分明致します。当時の吉原には太夫だの、格子だのという階級 はありませんが、呼出し、新造付、金三分というのが第一級で、同昼夜三分、夜だけ二分、同二 分、同昼夜三分、夜だけ一分二朱と都合四級になって居りまして、いずれも仲の町張りといって、 自家の見世へは出て居りません。夜だけ売るのを片仕舞というので、片仕舞のないのは、何時往 っても揚代の全額を取ります。片仕舞のあるのが已に格下げなのですが、その片仕舞の揚代にも 高低がありまして、同じ三分の女でも、夜だけ二分のと、一分二朱のとある。無論安い方が低級 なのです。松葉屋|知夏蔵《ちかぞう》は京町二丁目の左側で、半饒まじり店といって、中流の娼家でありまし た。この上は大饒大店で、この下は惣半驩という。それから下が小格子であります。 松葉屋の店は知れましたが、高級にも低級にも花園という女がいない。嘉永、安政の上中下三 級の娼家に、花園の名が見えぬのです。安い女らしくない花園を、書き落す筈はありますまい。 また刊年は知れませんが、「絵本近世義人伝」というものの中に、 娼婦桜木 江戸吉原の娼婦なり、安政の頃、|亜墨利《あめりか》人、桜木の色香に迷ひ、大金を出して、心に従がへ と雖も、桜木其無礼を怒り、和歌を詠じて固く聴入ずとたむ。 とあって、また例の歌が出て居ります。これは安政の頃とあるだけですが、「嘉永明治年間録」 の安政六年八月のところには、 江戸新吉原ノ娼婦桜木、墨夷某ヲ|斥《しりぞけ》テ詠ルノ歌一首 桜木は江戸新吉原の娼婦なり、是年八月墨夷某これを聘す、桜木斥けて応ぜず、夷望みを欠 く、而して執政某に語る、執政某、夷意を重んじ、意を其主に属す、桜木固く聴かず、国風 を詠じて其意を述ぶ。 露をだにいとふやまとの女郎花ふるあめりかに袖はぬらさじ とあって、これは年月が明かになって居ります。執政といえば老中のことですが、果して米人が 女郎の買えないことまで世話を焼いたでしょうか。如何に衰え果てた幕府の腰抜け老中で、外人 の御機嫌取りに忙しい時節であったにもせよ、自身に命令しないでも、その辺を働く者は沢山あ ります。世間から老中が米人の女郎買の世話までしたと見透されるものではありません。ここへ 一概に老中を引出した書き方は、頗る毒気が強いようであります。 花園の存在は大分怪しいものでしたが、桜木はどうでしょうか。安政五、六年の細見に当って 見ますと、桜木は新吉原というだけで、何屋ともないのですが、当時の新吉原に同名の遊女は数 人居ります。江戸町一丁目相模屋新三郎のところのは、昼夜二分、夜だけ一分の座敷持、同二丁 目東屋茂助方のは、昼夜二分、夜だけ二朱、角町松島屋かつ方のも、京町二丁目佐野屋|満寿《ます》方の も同格の女です。京町一丁目江戸屋亀五郎方のは、二分に一分で江戸一相模屋のと同格、同町尾 張屋平次郎のは、一分に二朱で江戸二東屋のと同格です。すベて六人あるので、こうなってはど れだか知れません。もっと面白いことは、安政六年の翌年は万延元年ですが、この年の細見には、 桜木という名前の女が十人になって居ります。例の歌の評判が高くなって、桜木という名前に景 気がついたのではあるまいかと思いますが、桜木という遊女に仲の町張りは一人もなく、皆見世 女郎ばかりであります。従って桜木のいる娼家はすべて中見世で、大見世は一軒もありません。 こんな穿鑿をして見ましたけれども、例の歌の作者は遂に正体が知れない。「ふるあめりか」 の歌は喜遊の外に、花園と桜木との二人があって、年代は二人の方が早いのです。即ち桜木の話 は喜遊の死んだ文久二年より四年前、花園の方は十年以前に聞えていたことになります。 付托した攘夷気分 そのうちに大橋訥庵があの歌、文章といったようなものを偽作して、攘夷運動を助勢したとい う話を聞きました。そこで訥庵の息子の大橋|微笑《みしよう》君に逢った時に、この事を云出して、あれは御 先代がいたずらに御栫えになったように聞いて居りますが、如何にも当時の攘夷運動として効果 がありましたろう、と云ったところが、微笑君は別に打消そうとはしないで笑って居られた。そ うして更に云われるには、或は塾の者でも作ったかも知れません、ということでありました。そ れより先突込んで御聞きすることはしませんでしたが、「ふるあめりか」の歌の作者は、大概想 像することが出来るように思われます。あの歌が方々へ盛に伝えられたのは、たしかに文久二年 以後の事のようであります。 花園にしても、桜木にしても、大いに威張った、盛な敵慊心を持ったところを見せつけて、攘 夷女郎とでもいいそうな景気ですが、実は後もない浮説らしいのです。私どもは寧ろ攘夷論を煽 ろうとして、懸命になった浪人運動の行届いたのを感心したいので、彼等は気勢を揚げるため、 宣伝資料を持え出すのが上手でありました。またその根気のいいのにも驚かざるを得ないので、 嘉永以来「ふるあめりか」の一首を持廻りましたが、花園や桜木ではただ空威張りで、大見得を 切ったばかりだから物足らない。喜遊は命がけで自殺して居りますから、そこへ持込んだので、 これはたしかにヤンヤと云わせました。十余年持って廻ってものにしたのです。 けれども喜遊はこの歌を押付けられた為に、その存在を疑わせるようになりました。かれは政 治の影響を受けて居らず、浪人運動などに同感していたとは思われません。繊弱な婦女、殊に薄 命な身の上である喜遊の行為に、猛烈な攘夷気分を付托したのは、時に取っての効果は大きくも ありましたろうが、政治に理解のない当時の婦女、時世に関心のない昔の女性を、誤解させて揮 らぬ所行であります。喜遊という女はたしかに居りましたが、あの歌などは作らない。あの歌の 持って往き場を無理に持えようとしたから、夢幻泡沫のような遊女が続出して、遂に喜遊も存在 を疑われるに至ったのです。 当時普通の女でありましたならば、ラシャメンになるのは実に婦女として堪えがたい事であり まして、喜遊がそれがために死ぬということも、当時の女としてはありそうな事だと思います。 それは畢竟内外の別がよくわかって居って、日本人同士ならまだ内証の事であるが、世界的にや ることになると、それが恥かしいと考える。殊にラシャメンといって、それが大きな犬だとか、 山羊だとか、そういう動物の代りにされるというに至っては、恥以上の恥であると感ずる。これ は尤もな話で、私どもの幼年の頃までは、女が犬の代りにされたということを、よく申したもの です。女達が或羞恥心を持っているということ、遊女のような身の上になり行った老でも、猶そ れを捨てずに堅く持って居ったということは、大いに考えなければならぬ話でありまして、喜遊 という女は、全く恥かしいということのために死んだものと思われる。それは何も敵悔心から来 たと断ずるには及ばないと思います。 併し今日のような時には、敵撫心から外国人に買われるのを恥じて憤死した、という風に話し て聞かせたいような気が起らぬこともありません。訥庵のような人が今日居りましたら、昔話と してでも、あれは嘘でなかったと云いたい気持の時でありますが、事実はやはりそうでなかった とする方がよかろうと思う。それにつけても今日の日本の女達というものは、恥ということを知 らぬ、無恥無漸なものになっている。これは実に歎息に堪えぬ次第であります。