法律の方面から 女房食い、養子食い 持参金というと、川柳では悪女の嫁入につき物のようにたって居りまして、それから|延《ひ》いて|縹 緻《きりよヤつ》が悪いと、うちの子供は持参金だ、という通言をなすようになりました。一体昔は婿養子とい う言葉がありまして、婿と云えば自分の家を相続させるために、他姓の男子を迎えたことになる。 今日では婿養子という言葉が、ごちゃごちゃになっているようですが、昔は判然と云い分けられ て居りましたから、婿養子と云っても重言ではないのです。いずれにしても自分の娘の配偶者で すから、親になり子にたるのであります。片方の相手は他家から連れて来た者ですから、従来恩 愛がなかったものである。殊に娘をくれた場合には、新たに男の子を得るわけですから、よい婿 を得たという意味からも、親らしいことをしなければならない。先ずさし当って何がしかの恩恵 を与えなければならない、というのが親の心持でありまして、一時的に出て来れば|引出物《ひきでもの》になる。 その引出物にもいろいろあります。あの「忠臣蔵」の山科のところで、となせの申す言葉に「引 出物御所望ならん、この二腰は夫が重代、脇差は|波《なみ》の|平行安《ひらゆきやす》、家にも身にも代へぬ重宝」という のがありますが、何しろ結構なものを与えるわけである。これは町人でも百姓でも、親としては そういう風でありました。 それが大名の方になりますと、化粧料といって山林田畑を持って行く。或はまた年毎に何ほど ずつときまって、米を遣るか、金を遣るかすることもある。それからまた御里方賄いと称して、 嫁に遣った先の台所を持つ。五年持つとか、十年持つとか、或はその嫁に行った人の一代持つ、 というようなことも行われて居りました。これは親としてその子に恩恵を与える、という心持か らであります。ところでこの山林田畑を持って行くということは、百姓の方にもありましたが、 武家では特に化粧料として、山林田畑を持って行くことを珍重しました。諸大名というものは、 持っている石高に就いては、一々軍役というものがつきますから、百石に就いていくら、千石に 就いていくら、万石に就いていくら、という風になっていて、相当に士卒を持たせる。これは何 も江戸時代に限った事ではありません。慶長三年に秀吉が丹羽長重と加藤嘉明に与えた知行目録 を見ますと、その与えた高の中で、無役である.自分の自由に使っていいのは、総高の一割乃 至八分ぐらいしかない。徳川氏になりましても、柳営の所得から調べて見ますと、無役の分は八 分何厘にしか廻りません。とても九分はないくらいになっている。然るに御嫁さんの持って来る 化粧料というものは勿論無役でありますから、こんな有難いものはない。化粧料といって田畑を 持って来たり、金を貰ったりする事が武家に取って結構だったのはそのためであります。 そういう風でありますから、それがために嫁を大事にするわけではないが、どうしても嫁が喜 ばれるようになる。従って嫁の肩身も広いというわけで、大名以下に至っては、離縁すればそれ がなくなってしまうから、離縁を支える意味のものにもなって来る。養子が金を持って来るのも、 そういう意味ですが、遂には転向して、株を買ったような気持にさせもしましたので、貧乏凌ぎ に養子食いをするやつなんぞも出来て居ります。はじめは前云ったような気味合いのものであり ましたけれども、それが一種の貧乏凌ぎにもなるものですから、徂徠などは、武士たる者が嫁娶 の時に金を授受するのは、当代の大きな弊風である、と云って居ります。春台も、今の士大夫は 貧に苦しむために女房を貰う、それによって或金を得て、目前の急を凌ぐ、その金がたくなると 妻を虐待する、妻がその苦しさに堪えかねて出て行けば、それを幸いにして追出し、次の妻を貰 う——これは女房食いの方ですが、無論前の金は還さない、そういう者がある、と云って指摘し て居ります。 それどころじゃない、例の光圀などは、女の方から土産金の持参金のといって貰う事は、最も 悪い仕癖である、これは停止しなければいかん、と云って居りますが、その水戸ですら、最も手 近にこういうことがある。哀公といわれた|斉修《なりなが》の夫人は、峰姫様といいまして、家斉将軍の子供 でありますが、この人には御化粧料が何万両とやらついて居りました。この|御主殿《ごしゆでん》様の有難さが 忘れられぬところから、斉修が亡くなりました後で、やはり家斉将軍の子の清水式部卿|斉朋《なりとも》を養 子にしようとして騒いだ。これも持参金じゃない、持参領分があるので、それを目がけて、弟に 斉昭即ち烈公があるに拘らず、それをさし措いて清水の斉朋を迎えようとしたのです。これはい い按排に斉朋が逝去されましたので、事なしに済みましたが、先祖の光圀が叱っている弊風を、 わざわざ後世まで担いでいるのは、何だか皮肉のようにも思われます。 保護された女の物 上流でもそういうように、持参とか土産とかいうものが有難くて、目につくくらいであります から、下々では云うまでもない話です。そこでそれに就いての取締をしなければならぬ、女房食 いをやってはならぬというところから、「妻之諸道具持参金相返候上は離縁之義、夫之心次第」 ということになって居りました。罪科があって妻を離別する場合はともかくも、その他のあらゆ る場合に於て、離婚する時には、妻の持って来た諸道具なり、持参金なり、田畑なりを返さぬう ちは離縁出来ない、ということを規定したのです。ここに嘉永版の|万《よろず》手形証文の文按がありま すが、その中に次のようなものがある。 持参金請取一札之事 一御息女誰殿事、此度我等方江縁組相整候二付、金何程被一釉添一無釉違一請取申候、然上ハ万 一不熟之儀|出来《しゆつたい》候節|者《は》、何ヶ年相過候|而茂《ても》、子供出生候共、右之持参金共不レ残相揃|急度《きつと》返 弁可レ仕候、為二後日一仍如件。 年号月日誰 証人 誰 誰殿 これによって見ますと、後々までこういう証文の取交せがあって、然も法律で規定する通りに 行われたのであります。ところで江戸版の方は、これが里方宛になって居りますが、上方版の方 は|媒人《なこうど》宛にたっている。その頭書によりますと、里方から娘を取返す時には金が取れない、男の 方から追出す場合には、必ず金を添えなければならない、子供があるというと、子供があるのを 口実にして、金を返さぬことがあってはならぬから、子供があっても金は返すということを、特 に証文に書く、ということが書いてある。これを判決例の方で見ますというと、婿養子の縁切証 文と、妻への離別状を取交さぬうちに、双方が縁付いた場合には、持参金の訴訟を起しても、そ の金は没収する、ということが書いてある。それは勝手な方へ縁付いて行って、それを口実に持 参金をごちゃごちゃにしてしまうことがあるからで、婿養子の縁切証文というものを取交すには、 それより前に持参金の始末をさせなければならない。それをさせるためにこういう|取極《とりきめ》をしたの であります。伜が死んで嫁を返す時分には、持参金は返さずに諸道具を返す。大体諸道具、持参 金を返した上でなければ、離縁しようとしても出来ない。そういう風にきめて置いて、その上に 離縁状を渡さぬうちに後妻を迎えた者は所払いにする、ということになって居った。それには利 欲のために女房を追い出した場合には、それ以上に家財を没収して江戸払いにする、というまで の規定もありました。これは貧乏凌ぎにちょっと貰って、もっと余計金の来るのがあると、また 振替えるやつがあったと見えます。 これは江戸の事ではありませんが、板倉伊賀守のきめた法度によりますと、特にここに力を入 れて居りまして、女が年久しく辛労して来たのに、夫たる老が他に女を栫えて、勝手なことを申 出して、離縁をしにかかった時分には、女房の持って来た財宝を取戻すのみならず、夫の家にあ る資財も、何なりとも女房の心任せに|分捕《わけどり》をして、その上で出て行くが宜しい、という規定まで してある。即ち女を保護することのために、それに財物を結びつけて、女をかばう仕組になって 居ります。 それから闕所処分即ち没収、また家資分散の場合でも、女の物はそれから除くという事、これ も沢山の判決例があります。持参の山林田畑は闕所、分散の場合に取除けないということは、宝 永三年に新しい決定が出来たのですが、享保十三年三月には、山林田畑が女の名前になっている 分は取除けて宜しい、ということになりました。併し土地や田畑を女の名前にするという事は、 町屋敷でありますと、|沽券地《こけんち》といって売買が許可されて居りますから、|造作《ぞうさ》もありませんが、田 は売買を差止められて居る場所なので、女の名前にすることが困難なのであります。その田地が まだ|請高《うけだか》のない、開発された田畑であるか、または浪人士の持っている地面であれば、永代売が 出来ますから、女の名前にすることも出来る。けれどもそういうものは少いので、その他のもの は|分付《ぶんづけ》にしなければならないから、容易に望むことが出来ない。元禄の末から宝永へかけては、 なかなか破産者が多く出ました。これは通貨膨脹の加減で、投機が盛に行われ、見てくれ商いを することが増長しましたから、上方ではそれに乗じて詐欺破産をする者が沢山あった。江戸は上 方ほどではありませんけれども、いくらかあったようです。この場合、女の持っている物と家財 は、女に下される例になって居りますので、女の嫁入に諸道具や衣類をはじめ、嫁入支度という ものが、めっきりと大層な事になって参りました。士の方は別段のこともありませんが、民間の 方はこの破産時代に嫁入支度が盛になって、遂には長持幾樟、幾荷というようなことが、嫁入の 条件になるようにもなった。地面を持っていることが、金持のしるしであるように眺められるの と同じことで、その家の富裕であることを見せつける。それがまた商業上の信用を増す手段でも あったのです。 片方には随分破産者が多い、怪しげな商人が多いと、一方では手堅く見せるために、こういう ことが手段として選ばれるようになりました。つまりそういう見てくれのためと、自分の娘の最 後の頼りであるとのために、宝永から正徳、享保あたりへかけて、嫁入支度、嫁入衣裳というも のが凄まじいことになった。そうなると法律の方でも、女房に得心させずに、その衣類や何かを 質に遣った場合には、それが不縁の理由になる、その処置は舅の心次第である、という風にきめ られもしたのです。その例はどこにもありますが、近松の「天網島」の中で、舅の五左衛門が出 て来て「著類著そげに疵付られぬ内に取返してくれう」と云い、「おさんが持参の道具衣類改め て封つけん」と云い、もう一物もないのを見て「孫右衛門に断り兄が方から取返す」と云って力 んでいる。そうしておさんを引立てて帰るということも、前の女房の著物その他を勝手に質入す れば、それが不縁の理由になる、ということを誰も知って居りましたから、五左衛門がこういう ことを云ったのです。それがそっくり浄瑠璃に書かれたので、これは大坂に限ったことではあり ません。 賛沢になる傾向 そこで闕所、分散にも取残されるものは、女の身についているものに限るわけで、田畑にして も、これが女房のものというしるしが出来ぬものは駄目である。現金なら猶更しるしがありませ んから、そういう時に取戻すことは出来ません。が、女のものと明かに見えるものは控除される から、女の衣類手道具は最後の用心として、これほどたしかなものは無いと思い込んだ。夫さえ も頼まれぬという風にたっている場合に、ただ頼むべきはこれのみ、という心持になって行きま すから、嫁入支度を盛にする筈でもあります。けれども法律が婦女を擁護する。この擁護する心 持は、本人どもは勿論だけれども、法律そのものが資財によって安全を得ようとする心持——夫 も頼まれぬ、我子も頼まれぬ、ということを半面に現しているように眺められる。世間は奢侈贅 沢になり、綺麗になるには相違ない。人間が多くなると、物資も多くなって来ますから、自然に 供給されるものも多くなって来るわけで、綺麗になったり、富贍になったりするのを、直ちに一 概に奢侈と見るわけにも往きません。大体に於て武門の女というものは、家庭向きになっている ことは、前に申した通りでありますが、その上にも武家は武家の階級上の拘束があり、貧乏にも なって居りますから、さほどでもありませんけれども、町家の女達というものは、武家のようた 階級上の拘束がないので、財力のままに世間へ乗出して来る風がある。 昔の武家の女達は、大将から兵卒まで、大概戦争に出て留守の場合が多うございますから、留 守中に世間の勤めも或程度までしなければならない。已むを得ず世間向きになるところもありま すが、今日の町家の女どもが世間へ乗出して、世間向きになったのは、別段に拘束がない上に、 財力に任せて勝手次第に物見遊山に出かける。それには駕籠乗物もあれば船もある。また外出す ると云えば著飾りもする。親類付合い、友達付合いも盛にする。下等な方になりますと、御長屋 の付合いなどというのがあって、井戸端会議に列なる連中でも、奢りッこをするとか、花見に行 くとかいうこともある。また下等な女の杜会でも、紋カルタとか、メクリとかいう博奕めいた事 を、寄り集ってすることもある。よく外へ出ますから、裏長屋の嚊まですり磨きをする。「めか す」という言葉が、上下の階級に行渡ったのは化政度でありまして、それまで香料は薬屋でばか り売っていたのが、文化からは化粧品専売の商人が出て来た。「花の露」とか「江戸の水」とか いうものも、やはりその頃から出て来たものであります。万事がそういう風になって来て居りま すから、成程我麕や贅沢がないわけではない。それがまた嫁入衣裳の方にさし響いて、盛にする わけでありますが、さりながら法律が女を擁護することのために、女のものは如何なる場合にも 控除する、という規定から、贅沢にする成行きになったのだと思います。 従来は世の中が贅沢になったから、嫁入衣裳も贅沢になった、とのみ考えられて居りますが、 これは更に深いところに根ッ子があるのです。民間がそういう風でありますから、それより上の 武士階級でも、民間の者どもより酸ばいことも出来ないから、自然と下から煽られることが多く なる。吉宗将軍の如きは、過度な嫁入支度の要求に対しては、その縁約を捨てろ、破棄して構わ ぬ、と云って居られますが、なかなかそれが行われませんで、嫁入のために|身上《しんしよう》を悪くする者が 多い。町人でも身上の半分かけるとか、三分の一かけるとかいうことがありましたが、武家に致 しましても、百石取る老の一年分の所得では、どうしても百石取りの娘を嫁に遣れぬようになり ました。 この事は当然衣裳法度などとも関係がありますので、一方ではそれを、ただ世の中が太平であ るままに、ひとりでに人が我贐になって、奢侈になるものと思って居った。それは全く嘘でもな い。そこで享保十八年の春台の上書の中には、寛文度に稲葉美濃守の抱え儒者の谷三助という者 が遷都論を唱えているのを出して、これも大いに考えて見なければならぬ、と云って居ります。 平山兵原が享保十二年に、浪人医者で谷角十郎という人が、遷都論を|目安箱《めやすぱこ》に入れている、その 遷都論は実に卓見である、と云って感服して居ります。よくわかりませんが、この谷三助と谷角 十郎とは、或は同一人で、二度遷都論を上書したのかも知れません。杉田玄白も、上代に度々の 遷都があったのは、人心を一新するためもあるが、第一に奢りをやめさせるためである、と云っ て遷都論を唱えて居ります。世の中の様子を奢侈とのみ見て、それを|矯《た》める策として遷都論を唱 える人があったことは、これでよく知れますが、近世の都会の成立から考えて、果して上代に行 われたような結果が、遷都によって得られるかどうか、それは疑わしいのです。のみならず女の 衣裳調度が、値段の高いものになって行くということは、奢侈ということばかりではありません から、皆が云うように遷都の効果があるにしても、全く嫁入衣裳の成行きを制することは、出来 ないのではないかと思う。それをやるには、どうしても心持に変ったところを持えなければなら ない。それは安心させなければならぬ、ということになるんでしょう。法律が変な指示を人心に 与えるということも、 大いに考えて見なければなりません。 婦女を回避する法律 江戸時代の法律はそればかりじゃない、何だか婦女に対しては回避するような模様があって、 すべての刑罰を加えぬようにする傾向がありました。その根ッ子は戦国時代に、女武者が陣頭に 現れますと、勇士とか大将とかいわれている者は、相手にするのを恥じた。強いといっても女武 者であるのに、勇士といわれ、大将といわれるほどの者が手を下したということは、恥ずべきこ とだという心持があった為に、余計に女武者を強くしたところがありましたが、その心持が江戸 の法律の上にあるように思われる。 どんな風に刑罰の上で婦女を回避したかといいますと、一番重い関所破り、あれは磔刑にたる のでありますが、男が同伴している場合であれば、男は磔刑、女は従犯にたる。案内の仕方が悪 い、という意味にまで取って、男の方を処分するのです。そればかりじゃない、重追放を科すべ き犯罪があった場合でも-重追放は十五箇国、東海道筋、木曾路筋、そういったところに住う ことが出来ぬわけになるのですが、その十五箇国のうちに、手近い武蔵、相模、上野、下野、安 房、上総、下総、常陸というものが入っている。そこで寛保三年には、御関内に相模は御構いに なっていないから、女には中追放まで申付ける。重追放にすると、関外まで出なければならない から、それはしないように、ということになって居ります。この寛保三年の取りきめを、宝暦三 年には、町人百姓の婦女の場合は申付けてもいい、ということになりましたが、後の修正は行わ れませんで、女はなるべく重追放にしないようにして居りました。 またどういう犯罪の時でも、夫の申付であるとか、親の申付であるとかいうことで、女は正犯 にならず、従犯になる。妻が承知しないのに売女に出すようなことがあれば、夫は死罪になる。 自分の女房を転売することは、ひどく止められて居りました。三年音信がたければ、離縁状がな くても嫁入して差支ない。置去りにして何の手当もせず、女房だけ置いて亭主がいなくなった場 合は、十箇月の期間さえたって居れば、失矇は決定せずとも他に嫁することを許可する、という こともあった。それから女が行路病人になった場合なども、ただの|村次《むらつぎ》、|宿送《しゆくおく》りということは許 されない。その場合は必ず道中取締として、村役人もしくはそれに相当する年輩の者が付いて、 次の村役人へ渡す、という規定になって居りました。 女が訴状を提出する時、これは本人の爪印で、差添人が加判することになります。申立ても男 では代人が許されませんが、女ならば差添人が代って申立てをすることが許されている。後家を 立てる場合ならば、後見人が付いていますから、万事後見人がやる。刑に触れる場合でも、後見 人が罰せられて、当人は免れるのです。口書——今日で申せば予審調書ですが、それが詰めると いって終結した時分に、男は如何なる事があっても変更出来ない。が、女は逆上していたと云え ば、変更することが出来ました。|牢問《ろうとい》の時でも、|打《うち》にかけるといって打たれるのですが、その時 気絶しなくっても、したような様子をすれば、必ずやめなければなりません。ひどいやつにたる と、両足をひろげていかがわしいところを出す、そうすると取乱しているといって、やはりやめ なければならない。釣にかけるといって、縄で吊して責められる時でも、大小便を垂れるやつが ある。立会い与力などは、頭から小便をかけられることが度々あったそうです。そういうことが あれば、訊問を中止しなければならない。|越訴《えつそ》といって駕籠につく事、こういう場合でも、男が やると容易に取上げられませんが、女だと二三度駈け出して行く、突き戻す。その時脛が見える ほどにすると、忽ち取上げたといいます。 それから最も面白いのは、将軍が外出する時、当時は|御成《おなり》と申して居りましたが、表の店々は 二階は勿論戸締にしなければならない。そうして店先に茣座を敷いて、男は一同その上に出て、 平伏していなければなりませんが、女は座敷に坐っていて、行列を拝見して差支ない、といった ような保護がある。概して申せば、女は表へ出さぬようにする、責任の外に置くので、注意から 云えば婦女を擁護することになって居ります。またすべての場合、女は請人として契約すること が許されない。殊に雇人などをする時分に、|人主《ひとぬし》というものがある。人主というのは親権者のこ とですが、後家でありますと、女でもやはり人主にはなる。その時には男の請人が立っています から、万事その請人が背負わなければならない。この後家殿も地主や家作持であれば、後見人が ありますから、それが人主にたって、自分はならないのです。 一定せぬ元服の年 そこで人主即ち親権ということに就いて、 考えて見なければなりません。文化度には早婚論が ありましたが、この早婚論は従来のとは違って、子供の健康の上から、早婚はいかんと云い出し たのです。当時は男が十六七、女は十三四から結婚しているけれども、それを男が二十五六、女 は十六七ということにしたい、という議論が行われました。それはどういうことかといいますと、 早く結婚させなければ、不義密通をやらかす虞れがある。また気鬱病、労痃病などになることを 恐れて、早く結婚させなければならぬ、ということになっていたのです。 けれどもそれでは子供を教えることも出来ず、育てることも出来ない、子供の健康だけでなし に、そういうこともあるから、早婚はいかんという説が起って参ります。ちょっと「三輪録」な どを見ましても、桑名六万石の松平越中守定綱、これは楽翁さんの先代ですが、この人は十四で 嫁を貰っています。これは昔からの風習で、戦国時代の武士というものは、早く子供を持える必 要があるから、ゆっくり結婚するわけには往かない。これともう一つは政略結婚の関係もあって、 大体に於て年齢は二の次になる。この風は大分後まであったのです。 徂徠なども、堂上方や田舎の百姓は結婚が早い、いずれにしても二十歳以内で結婚するから子 供が多い、と云っている。「関八州教諭書」なんていうものは、天保度のものでありますが、こ れらでも嫁入婿取は出来るだけ早くせよ、と云って居ります。武士の方としては、諸藩ともに三 十までに妻を娶るように、已むを得ない事情があっても、三十四五歳までには結婚しなければな らぬ、結婚せずに妾を置くことはならぬ、妾腹の男子があっても、もう子供の出来なくなってか ら、即ち五十歳に達して後ならば、それを相続人にすることが出来るが、それ以前には出来ない。 これは正妻を貰って、その子に相続させろ、ということなのです。礼式を具えたのが妻、礼式を 具えないのが妾なので、礼式を具えるには金がかかるから、いつまでも妻の娶れないやつがある。 そこでこういうことになったのであります。 この五十歳ということ、これは隠居の年齢でありまして、七十以上の御役人はいつもあります から、五十歳が停年のわけではないのですが、武士としては軍役に堪えない。戦闘員としては、 老人では仕様がないから、隠居するということが必然的に起るわけです。そこで面白いことは、 相続する都合もあり勞々で、昔は官年、生年というものがあった。表向きの御届をした年と、実 際の年と二つあって、都合によって多くなったり、少くなったりするのですが、大概は多くなる。 昔は例の元服ということがありまして、これが成年式になるのですが、大名旗本あたりでは、十 五御乗出しといって、十五で成年式をやるのが普通になって居りました。けれどもそれは年齢に きまりがないから、人によっては十二三歳でも元服したものです。まして官年、生年があります から、七八歳の者を十…二歳、十四五歳に栫えないとも限らない。随分怪しいのがありました。 そこで民間の方を見ますと、呉服屋の雇人なんぞは、算盤が出来ないと元服させなかった。こ れは年齢じゃありません。成年式もよほど変なことになりました。ところで未成年者は親権がな いのですが、親権のない者が子供を持つ。こいつは困ったことである。だから元服の年をきめぬ ことが、なかなか面白い意味があるのだと思います。只今としましては、二十歳を丁年として、 その年が来なければ、どんな人でも丁年にはなれない。昔のにも無理がありましたが、今日のに も無理がある。実際に子供があって見れば、どうしても親権を持たなければたらないが、それを 法律で妨げるのはどういうことか。これは大いに疑わしいことであります。