御殿女中の話 三田村鳶魚 弥次喜多の思い遣り 「東海道中膝栗毛」の中で弥次喜多が大名の通過を見て、昼はああした威勢で、立派な行列で通 って行かれる殿様、まだ年も若くって綺麗なお方だけに、夜は又大変大勢の御殿女中に騒がれて、 よく眠るひまもあるまい、それがお気の毒だと云うと、そんな馬鹿なことがあるものか、それで は殿様だって身体が続かない、という応答が書いてあります。これは如何にも奥女中というもの を、一般がどう考えているかということの現れでありまして、事実とは大変違っているだけに面 白いことだと思います。  それについては白隠禅師なども、大名というものは親孝行のために腎虚することがあると云っ て居られます。これは嗣子が無いと、その家が断絶いたします。それ故に是非子供を持えなけれ ばならない。その子供も女子ではいけない、男子でなければならないのでありますから、大名と いうものは子供を持えるために随分骨を折らなければなりません。家来たちもまた主人の家が断 絶すれば、自分達の飯の食い上げでありますから、是非男の子を持えて貰わなければならないと いうことになる。そこで男の子が出来るか、女の子が出来るかわからないが、とにかく子供を持 えて貰わなければなりませんから、懸命にお妾の推薦をする。御家断絶しないことから云えば御 家のためで立派な忠義でもあるし、扶持離れにならぬというところから云えば自分のためでもあ る。自然これが女を殿様の側へおし遣る勘定になるので、想像の上で云うばかりでなく、実際そ ういうことが無いわけでもない。いずれにしても殿様というものは女に取囲まれているものであ る、という風にのみ眺められて居ります。 恥かしがる慶頼卿  併しながらどういう小さい大名でありましても、奥と表との区別はあります。大きい大名にな ればなるほど、この境目が面倒になって参るのでありますが、表と申せば小姓とか、|御納戸《おなんど》とか いうようなものが殿様の御世話をするのでありまして、女ツきれは少しもありません。奥の方で なければ女はいない。然るに殿様の日常に於て「|奥泊《おくどまり》」という言葉がある。これを大衆的に考え ると、主人が女房なり妾なりと一緒に寝るということは別に言葉がないので、自宅へ寝るといえ ば直ぐにそうなのでありますが、大名には別段に「奥泊」という言葉があって、その時だけ妻妾 と寝所を同じくするのであります。表へ泊られる時は御小姓が世話をして、御小姓-女小姓と いわないのは皆男性、若いのもあるが四十歳以上の人もありましたーが宿直をするのでありま して、妻妾のみならず、一切女性は側にいないのであります。  自分のうちでありますから、奥といっても表といっても、自分の勝手次第に寝られそうなもの でありますけれども、なかなかそうは行かないので、将軍家などに致しますと、|御精進日《おしようじんび》という ものが毎月十日以上ある。諸大名に致しても、潔斎して居らなければならぬ日がある。これは先 祖の忌日命日、自分の親の忌日命日等いろいろあります。それ故に御精進日というものは、どの 家でも一箇月のうち三分一位、それに当っている。その時は決して奥泊はしないのがきまりであ ります。  これには面白い話がありまして、千駄ケ谷の元の公爵の御実父は田安の|慶頼《よしより》卿といわれた御方 でありましたが、この人の御小姓をして居りました伊丹鉄弥という人から聞きました話に、慶頼 卿が奥泊をなさる時には、小姓が「今晩は奥泊でいらっしゃいます」と云わなくてもいいのに、 よく云ったものです。慶頼卿も御年が若かったから、こう云われると顔を報くなさることがあっ た、そこで小姓達がそういういたずらをしたものだ、という話を聞いて居りますが、毎晩勝手に 奥泊をなさるものであれば、そうした話も伝わらないわけであります。 御添寝の飲む散薬  さてそれで御精進日でない、奥泊をなさる時は、どういう按排であるかというと、将軍家など でありますと、奥へおいでになって、御小座敷に御寝所が設けられる。無論|御台所《みだいどころ》の御居間とは 別です。そこへ御寝にたる時に、当番の御中+腸と、|御添寝《おそいね》の御中繭というのと、御伽坊主-是 は相当な年配の頭を剃った女1と、こういう人々が御寝間へ入って来ます。一体殿様というも のは、如何なる場合でも一人で居るということは無いので、将軍家や御台所は勿論、諸大名の殿 様、奥様にしましたところが、一人でいるということは如何なる時にも無いのです。将軍家では こういう風に、当番の御中+腸の外に女が二人入って居ります。この御添寝などは随分迷惑な役廻 りで、同じ御中薦でありまして、共に御手のついている人が御添寝をするので、年の若い女のこ とですから、随分困ることがある。そこで柳営などでは、どういう薬であったか、それは存じま せんが、当番でない方の御中+腸には何か薬を用いた。散薬であったとかいうことであります。  この話は将軍家だけかと思っていましたら、先年中国の大諸侯の殿様に御話を伺いましたが、 やはり似寄ったことがあったと見えて、まことに困った、若い時のことではあり、側に人がいる し、まことにどうもたらたかった、という御話がありました。それですから将軍家のみならず、 諸大名ともに奥方とか、又お妾様とかいう類の人に、殿様の若い時分に子の出来ることがまこと に少い。いずれにも中年以後になって子供が出来る。それはどういうわけだと考えて見るまでも ない。寝所に変な番人がついているために、自然とそういう按排になるのだということがわかり ました。 妻妾の停年制 それから将軍家でも諸侯でも、その正夫人であると妾であるとに拘らず、停年制がありまして、 女が三十になれば|梱褥《おしとね》御断りということがある。そうなりますと、正夫人であれば自分の召仕の うちから、器量人柄相応なものを自分の代りに殿様へ進上する。そうして梱褥御断りをするので あります。若しそれをしなければ、|表好《おもてずき》であるとか、|好女《すけべい》であるとかいうことで悪く云われる。 お妾にしたところが、その停年期に達してなお勤続していることは、仲間内がなかなか面倒であ りますから、それに先立って辞退をする。一体この風俗は|公家《くげ》の娘が武家へ嫁入をするについて、 公家風俗が移ったのではないかと思われます。身体の弱い、やさしげな女達が三十以後になって のお産はなかたかむずかしい。平安朝以来のものに、いろいろとお産のむずかしいことが書いて ありますし、その後のものにもお産の御祈りのことは屡々出て参ります。そこいらからさし響い たならわしであろうと思われる。これが又正妻に子の無いわけにもなります。恥かしくって何と もならない時代を徒らに過し、漸く中年になった時分には、もうその人は停年期になって居る、 といったことで、正妻に子供が無いという理由がわかります。  記録の上からは、家斉将軍には二十一人の妾があり、家慶将軍には十五人の妾があった。大名 ではいつも三五人から七八人までの妾を持っていた人は珍しくたい。併しながらこの多数の女性 というものは、皆うち揃って御番をつとめるものでなく、皆この停年がありますから、そこから 調べて参りますと、家斉将軍のように多数のお妾を持って居られたお方にしましても、実際に御 番をつとめますものは、三人乃至五人という人数になってしまう。それは側から見ましては、二 十一人といえば二十一人、十五人といえば十五人が何時でも総動員をするもののように眺められ て居る。これは間違いであります。 奥泊の不自由な証拠  それから又「御湯殿の子」というものがある。これは将軍家の方にも、大名衆の方にも、奥で 入浴する場合には、すべて女中がお世話をする。そこで用を済せば、奥泊もせずに済む便利があ ります。柳営と致して見ましても大奥|法度《はつと》というものは、元和四年と九年の両度に出て居りまし て、それがだんだん成育して、享保六年の法度でほぼ大成しているようです。それまでの間の経 過を見ますと、奥表の境が厳重になりましたり、その間の法規手続等がだんだん|手重《ておも》になり、鄭 重になったことは、六代将軍の時からであったようであります。諸大名に致しましても、いろい ろ沿革がありまして、幕末まで残りました奥向の有様は、享保あと先のところで定められた姿が 続けられたように見えます。  元和に大奥法度が出来たと申しましても、三代将軍の頃までは、奥表の捉もさまで厳重ではな く、重立った女中などは、ずんずん表の方へ出て来て、老中などに対談して居ります。諸大名の 夫人にしても、随分玄関口まで出て来られることがありました。戦国の武家の模様はまだまだそ っくり残って居ったらしい。併しながらその時に在りましても、将軍なり殿様たりの奥泊は、そ う自由に出来なかったものであるらしく、御湯殿の子というものはその時分からもある。後々と は奥向の模様が大分違っているにも拘らず、昔から奥入りはそう自由でなかったことがわかりま す。若し奥入りが自由でありましたならば、何を苦しんで湯殿なぞで子供を持えましょう。それ が後には奥へ泊っても、朝はどうしても表へ出て来なければならない。将軍家にしても、殿様に しても、奥では決して入浴をたさらない、というやかましいきまりが出来ました。こういうこと も享保以来の定めであるらしい。どんなことでも出来そうであるが、殿様としては元来そう自由 なものでなかったことは、御湯殿でお手がつくと云うことで考えても推察が出来る。 家斉将軍の乱行  家斉将軍の如きは、奥では湯に入ることが出来ない、必ず入浴は表でする、というように、な かなか奥表のきまりが面倒になった時代の人でありますが、女にかけては評判のよくないお方で、 恋川春町が切腹させられた罪科であると考えられて居ります「遺精先生夢枕」、これは黄表紙風 の春本であります。この本は家斉将軍の乱行を書き立てたもので、その中に二十歳になる侍女の 初花というものに庭中の亭で手をつけた、それから奥女中に|縮《ちぢみ》の|帷子《かたぴら》と|綾子《もじ》の帷子を著せて置い て、馬の交尾するのを見物させて反応をしらべ、その晩|長局《ながつぼね》めぐりに出かけた、勿論見当をつけ たのを探し出してやった、そうして高級な女中の部屋へでも這入りこむことか、とうとうお|半下《はした》 の紅葉というものの部屋へ入られた、ということが書いてある。これは当時そういう風説があっ たのかも知れませんけれども、奥で入浴されないことになっていたのですから、湯殿で手をつけ るなんていうことは、出来ない筈であります。夜中に長局をめぐって歩くなどということも、将 軍としては勝手が知れないから、戸惑いをしそうに思われる。又お半下などというものは数人で 大部屋に住っているのですから、そんなところへ立入って見たところが、どうすることも出来る わけではない。まして如何なる場合でも将軍が一人で居ることは無いものだということを知らな いから、こういうことを書くのであります。  その「遺精先生夢枕」の中には書いてありませんが、家斉将軍が浜御殿ヘおいでになった、そ の時の御庭の亭の中に、どうしてだか知らないが、枕が置いてあったというようなことや、御寝 所の御枕下に控えている御伽坊主に手をつけた、などということを云っているものがありますけ れども、そういうことも実際には出来ないことであります。それでは将軍家というものは、自由 勝手にそんな乱行をしないものかというと、しないわけではない、出来ないのであります。 烈公の女寵講話  そこへ行くと大名の方はよほど勝手のいいことがあって、まアまア乱行というものが便利にや れる。それも無論比較しての上の話でありますが、又その心がけもなかなか面白い人がありました。  安政四年閏五月三日に、水戸烈公が側用人の安島弥次郎に与えられた書面を見ますと、老中の 阿部伊勢守が病気をして居られることについて、次のように書いてあります。   昨日中納言(当主|慶篤《よしあつ》)咄ニテ聞候ヘバ、勢州(阿部伊勢守正弘)モ実ニヤセ衰へ、中納言   ニテニ月引候以前見候トハ相違ニテ、夜中ニモ候ハ"指向咄モイヤナ位、絵ニカケル幽霊ノ   如ク、居立モ六ケ敷ヨシ故、同人医師ハ福岡縁故、是ヨリモ承セ、又清事ハ三沢別懇ノヨシ   故、此者ヲモ中納言二遣シ、三沢二承セ候処、三沢モ甚心配ノヨシ申聞候ヨシ、常二夏二相   成候ヘバ下痢致候ガ、クセノ由二候処、万々唯今ノ姿ノ処ニテ、下痢来リ候ハ"大変ノヨシ   申聞候ヨシ、今朝我等心付二牛酪可然ト心付候、只今清、三沢ヨリ帰リテノ申聞ニハ、牛酪   モ今日ヨリ用候ヨシニテ、我等今朝心付候処用候ト承リ候テハ、先々安心致候、薬ハ手医伊   沢磐安ノヨシ、養脾湯(証治準縄)即六君子(砂仁麦芽神曲山査)ノヨシ、中納言咄ニテハ   御城坊主杯ハ十五ノ新妾(向島桜餅の娘)出来候故云々、酒モ登城前ヨリニ升位ヅ・用候ヨ   シ云々申候ヨシノ処、御役モ勤候程ノ人、左様ノ事モ有之間敷ト我等申候処、今清ノ咄聞候   ヘバ、酒モ一切不用、養生専一二致シ候トノ事二候ヘバ、新妾トテモ命ニカヘテ云々致共、   タトヘ三千寵愛有之トモ、交リノ数サヘ定メ置候ヘバ、身二障リ可中筈モ無之、全ク右等ハ   人ノ悪ロト存候へ共、衰へ候儀ハ無相違候。  このあとに食養、薬用のことも書いてありますが、右の書面の中で、烈公の長男、水戸の当主 でありました中納言慶篤、この人が御城坊主に聞いて来たという、十五になる新しい妾が出来て、 それを大変寵愛するのが病根であるというのに対して、「三千寵愛有之トモ、交リノ数サヘ定メ 置候ヘバ、身二障リ可申筈モ無之」という、烈公の云いようが面白い。  阿部正弘は幕末の政治家として、実にえらい人だと云われて居る有為な人物でありましたが、 安政四年六月十七日に三十九という年で死にました。幕府の時代としては、この人は珍しい人で ありまして、二十五で老中になった。そうしてここに十五年間勤続をして居ります。この人がい るうちは、とにかく幕府が諸侯に対し、天下に対して、その勢力を持続して居りましたので、こ の人が死んだ為に幕府の衰亡を早めたとさえ云われて居る。けれどもこの阿部正弘は腎虚して死 んだとも云われて居りまして、今の烈公の手紙で見ても、どうもそうらしく思われます。  久留米の有馬|頼憧《よりゆき》などは、大名というものは借金では家が潰れないが、子供が無いと家が潰れ る、そうすると祖先に対して相済まないし、大勢の家来どもにも気の毒なことになり行くから、 せいぜい女を寵愛しなければならない、ということを常に云って居られた。これらは白隠禅師が 云われた、大名には親孝行の為に腎虚するやつがある、という方の標本になりましょう。阿部正 弘は男が大そうよかった。柳営の大奥でも、その容貌がよかった為に評判がよかったとさえ云わ れて居りますから、これは膝栗毛の推量が適当しそうな人である。けれどもこの人には子があり ませんでした。 御家騒動は財政から  水戸の烈公は阿部正弘に説法するほどの豪傑で、三千の寵愛があっても身体に障るものではな い、とまで云っている。この夫人は富の宮様といって、有栖川詔仁親王の御妹、吉子(後に貞芳 院という)の御付の上+腸に万里小路|睦子《ちかこ》という人がありました。この人は一生不犯の筈、一生奉 公の身分であったところが、これへ烈公が手をつけられて、そうして沢山の子供が出来た。それ から御兄に当る|斉修《なりなが》、この夫人は家斉将軍の女で峰姫様、これについて来ました上薦の唐橋とい う人、これにも手をつけられました。これから面倒が起って、遂に烈公が蟄居謹慎を仰付けられ る。高橋太一郎等が頻りに運動したのもこの為である。又この手をつけられたことが奥向に於け る烈公の評判を悪くした。然もこの手のつけ方が甚だ穏かでなかったと云います。  けれども烈公は乱行家でありましたから、たかなかそんなことで降参しない。随分その後も乱 行を続けられていました。藤田東湖が、だんだん御年も取られることであるから、女色は御慎み になるように、という諌言を再三申上げたのは、誰も知っている話であります。それのみならず 安政四年四月に、島津|斉彬《なりあきら》が松平|慶永《よしなが》(春嶽公)へ送った手紙に、   当公愛妾下宿ノ大失錯之アリ、姫君様御逝去  勇又々大不評判頓ト致カタ之ナク候。 ということが書いてある。この「当公」というのは、御子慶篤殿のことで、そのお妾と烈公との 問に面倒なことがあったと見える。「姫君様」というのは、家茂将軍の養女、|線《いと》宮様といって、 有栖川幟仁親王女|幟《たか》子のことで、嘉永四年十二月十五日御入輿、安政三年十一月七日に卒去され ました。御年二十三でありました。そうしてその時、当年三つにおなりになる|随《まま》姫様というお姫 様が生れて居る。大谷木醇堂は「燈前一睡夢」の中に、烈公が線宮様を迫好した、それを恥じて 御自害なされたと書いて居りますが、その線宮様の御遺書を、明治になって盗み出した者があり、 水戸家で大いに狼狽し、勘からぬ金を出して買い戻した話もある。霧取した者は原書を戻しまし たけれども、写真に取って残して置いたということです。  烈公は御自分の息子さんの奥方や妾を取るといったような乱行をなされましたが、それが水戸 に二度ありました騒動の根になって居るのでありまして、天狗党、俗論党の内訂を生じましたの も、水戸の役に立つ人達が御互に殺し合って、人らしい人は殆ど残らないほど、ひどい殺し合い が起ったのも、さし纏れの起ったところを考えて見ると、烈公を支持しようとする者と、御当主 である慶篤殿に同情するものとが、双方に立別れた争いだったのであります。  一口に三百諸侯といわれて居ります大名の家々には、騒動の無い家というものは一軒も無く、 二度乃至三度も繰返している家さえ珍しくありません。併し大名の御家騒動というものは、家来 のうちに党派を立てて争うことになって居りますから、近頃は勢力争いという解釈をするものが 多いが、いずれにしても、その争いの種になるものは何かと云って詮議して見ると、大多数は財 政難ということから、如何に之を収拾しようかということから起るのが多い。殿様の助平から起 ったというのは甚だ少いのです。そこから考えて見ると、大名にしても乱行の殿様は少かったの で、さすがに定められた法度を飛び越すような人は、先ず稀なことであったと見えます。 御奉公が大切  もし乱行家を生じた場合にはどうなるかというと、甚だ悲惨なものが出て来る。普通に御殿女 中といえば、極彩色をした、年の若い、然も美人が年久しく長局に幽閉されたようになって勤め て居ります。そこは男子禁制でありまして、たとえば同胞にしても、七歳以上の男子は己れの部 屋へ泊ることを許されぬ位である。表方の役人に逢うのは、御年寄とか、表使とか、御使番とか いう役目のある女中に限られて居る。その他の女中というものは、病気の時に御医者の顔を見る 以外には、殆ど男の顔さえ見ない。そうして将軍家は勿論のこと、諸大名でも|御直奉公《おじきぽうこう》といって、 殿様に直に御奉公するものは、ごく身分の軽い者でも、三年に一度の宿下りであります。それも |御目見《おめみえ》以上といって、高級た女中になれば、宿下りというものは殆ど無い。御直奉公の女中に使 われているものを、部屋方といい、|又者《またもの》ともいいますが、これらは御暇も戴ければ宿下りも出来 る。けれども御直奉公の人になると、大体が何年勤めますという年限も無いし、御暇が出るとい うようなことは、罪科でもたければないので、一生奉公というのが普通であります。  吉宗将軍は、女というものはいずれにも、嫁入婿取の季節があるものだから、二卜五になった ら暇を遣らなければいかんと云って、奥女中停年論をなされたけれども、これはとうとう行われ なかった。永年そうして長局に奉公して居るとしますと、成程殿様の手をかけて下さるのを待っ ている、という状況になりそうなという風に想像されるのも、まことに仕方の無いことであるか も知れません。姉小路という幕末の有名な御年寄がありまして、これが天保改革の時に水野越前 守に対して、あなたは妾を持っているか、いないかということを尋ねた。妾があるという答を得 て姉小路は、凡そ人間には男女飲食の欲がある、これは避けがたいものだから、あなたは如何に 倹約論を実行なさる方でも、御自分の妾をやめるわけには往くまい、然るに吾々ども奥向に勤め て居る者は、一生禁欲して居る、その禁欲の代償に幾分の贅沢ということがあったところで、そ れを各めるのは、あなたにも似合しからぬことである、と云って、遂に奥向の改革を拒んだとい う有名な話があります。  これらはその半面から見れば、奥向の禁欲が迷惑なものであるということを見せるものでもあ ります。宝永に幾島大吉が尾州の奥向へ長持で入込んだとか、正徳には御年寄の江島の乱行があ ったとか、享和になっては谷中の延命院事件があったとか、天保には中山の智泉院事件があった とか、まだその他に有名でないものを挙げれば、いくらもありますが、誰でも知っているこれら の事件というものは、姉小路が盛に代償論を唱えた、その半面をよく現しているように思われる。 それだから禁欲に悩んでいるものだと思われもする。御殿女中というものは飢えているものであ る、と思われるのもまた已むを得たい。けれども決してそうばかりでもありません。御奉公大切 ということが、彼等を存外禁欲に堪えさせる。これは武家の貧乏ということから来ているので、 彼等の経済問題から已むなく御奉公大切に到著させる。禁欲に堪えないというのは却って稀た話 で、一般の話ではないのであります。 女から賃を取る  この事情に就ては、已に先頃「御殿女中の研究」を世間に出して置いた中に述ベていますから、 ここでは重複することを避けたい。そういう内情はありますが、世間ではとかくに奥女中を腹の 減ったものと見ることは、なかなか古いことでありまして、貞享五年版の「色里三所世帯」の江 戸の巻に、奥女中と密会する話が次のように書いてあります。   |東《あずま》もおもしろく、今は忘れたる都鳥、|平《ひら》の下られし時も、釣りものは有りや無しや、けふは   十八日、浅草の観音に屋敷さがりのまれ女、上方には無いもの、なまり言葉をかしかるべし   と、朝とく宿を出て、茶屋町を見渡し、源次が所知り顔に才覚して、随分広き屋敷を一日借   切りて、かうした分ぢや、亭主合点か、小判の顔いかにもおもしろい、今迄女を釣りて迷惑   したる例たし、……皆々女は立ちて、男ばかり跡に残り、ひとりくの餓悔物語、女の方か   ら、金子其外かたみもらはざるは一人もなし、上方に違うた事一つもたいが、女の方から大   分の賃を取つて、しかも見事な女に逢ひて、か、る事、余の国には無い事たり。京大坂こそ   金銀つかうてさへまだ欲しがるに、こんな目出たい事のありとは、所の人は知らずや、総じ   ての|商人《あきうど》、相場の知れぬ荷物廻して、仕切状見るまで無用の気遣せうより、若盛の強き百人   ばかり岡付にして髪に送り、下谷の天神、目黒不動、又は芝の神明、堺町の新道、或は黒門   さき、無縁寺の前、深川の八幡、木挽町の近所、谷中の門前町、湯島の宮の裏門、白山の水   茶屋、西久保の三田八幡のほとり、馬喰町の寺々の門前、扱は浅草の三十三間堂、此観音の   茶屋町にて、釣ものの問屋をせば、何商ひよりましならむと、算用して見るほどに、是命の   ち父まる談合、三五の十八、ばらりと座敷を立ちける。  この他にも浮世草子の中には、御殿女中の境涯を妙にお察ししたものも少くありません。殊に これらの浮世草子というものは、上方で著作されたものですから、江戸の実際を知らずに遠方か ら眺めたら、そういう風に見えるというのも、まことに是非の無いことでありましょう。 奥向の乱れ 併しながら同じ飢えて居りますものでも、断食堂に入って居りますものと、自分のうちに居っ て朝飯や昼飯が一時間おくれた腹工合とでは、心持がまるで違って居りますから、側で想像する ようなものでもありません。男子の匂いも嗅げない長局では、男に騒ぐものであろうと思うのも、 さらさら無理ではなく、そこへ男といっては殿様一人であるから、殿様はどうあっても大喝采、 大歓迎でなければならない、という推量になって行くかも知れませんが、それがなかなかそうば かりではない。水戸での被害者唐橋の生家は、今では東京の郊外に住居して居られる某子爵家が それでありますけれども、唐橋の成行きに就ては一切秘して、今日でも他人に話すことをされて 居らない。これは何故でありましょうか。芝居でする河内山が松江侯を|騙《かた》る、あの話は全くの嘘 でありますが、江戸時代に私等の知った話も、唐橋のみではありません。猶いくつか知って居り ます。  その最も生々しい例証としては、明治の十八九年と思いますが、殊に維新前後に雄藩として聞 えました大きた大名、岩倉具視公の系統に属する華族様にあった話であります。この殿様は随分 評判のいい御方で、重い御役をおつとめになったこともありますが、その藩中に何某という軍人 がありまして、この者は秀才ということで洋行を致しました。その縁約を致した女、これは同じ 御家来の娘でもありましたし、早ぐからその殿様の奥向に御奉公をして居りました。然るにその 殿様がその女に、ひどく御執心でありましたので、君臣の筋目、それも数代の関係でもあり労々 で、よんどころなく御意に従わなければたらなかったものと見えます。  それから幾年か経って後に、縁約のあった、海外へ留学した軍人が帰って来ました。その話を 聞いて、その軍人が東京へ著くか著かないかという時分に、奥に奉公して居りました縁約の妻な るものは死んでしまいました。帰って来た軍人は、自分もその家の家来筋の者でありましたけれ ども、さすがに辛抱しきれなかったものと見えて、この女の死骸を棺に入れたまま、大玄関から 棺桶を持込んで君公に迫りました。その家でも大いに持て余しまして、詐欺とか、騙りとか、ゆ すりとかいうわけで、遂にその者を捕えて牢へ投込みましたが、それでもこれを罪にするわけに は往かないものかして、有耶無耶のうちに牢から出した。死んだ娘の親の方には手が廻ったもの か、牢に入っているうちに葬儀その他も済みまして、平穏無事のように見えましたが、牢から出 た軍人はどうしても忘れることが出来ません。再三再四大玄関へ押かけて、是非君公に御目にか かりたいという。いろいろな方法を用いて之を追い返しましたが、しまいには気狂いのようにな って毎日毎夜押かける。とうとう気狂いということで、気狂い病院へ追い込んでしまった、とい う話があります。ー奥向の乱れということは、水戸のような場合には大きくなりますし、又或 雄藩で明治以後に行われたような事柄でも、小さいようではあるが、なかなかその影響は強いの であります。  以上は御殿女中に就ての話の半分で、どれが表か裏か、それはわかりませんが、何にしてもも う一つ、ひっくり返して見る半分がある。即ち稼ぐ御殿女中と稼がれる御殿女中のうち、今残す 半分は稼ぐ御殿女中の方であります。彼等自身の乱行は果してどの程度まで行くか。稼がれた御 殿女中の身上は前申上げたようなものであるが、働き出した場合はどうたるか、それがこれから のお話になります。 御殿女中ではない又者  誰も知っている将門の文句に「浮気な蝶も色かせぐ」とありますが、嵯峨や御室の花盛りも春 だけの眺めに過ぎない。年中ぶっ通しに美しい極彩色の御殿女中、稼ぎもしよう、稼がれもしよ うと云えば、綺麗ずくめの話らしく聞えますけれども、画にかいたのと違って、生きた人間には 案外縞麗でないところがある。長局に閉じ籠められて妙齢を過す上に、男子禁制から来る恋愛磯 饅によって、飢えては食を択ばずということになりはせぬかとも想像されますが、たかなかそん なわけのものではありません。近松門左衛門なども、武家の婦女を概して空腹なものと見て、聞 きにくい言葉で椰楡して居りますが、これは公家の意地きたなさが、京都育ちの近松の根性に沁 み込んで、武門の家庭を冷かし気分で眺めたものでしょう。併しそこのところは何処まで往って も金平浄瑠璃と豊後節ほどの違いがあるのです。勿論、長い年月のことですから、数の多い女中 の悉くが例外なしというわけにも参りません。稼がれる御殿女中はあっても、稼ぐ御殿女中はな いとは云われないので、例外の稼ぐ御殿女中は如何なるものであったか、それを説明しなければ なるまいと思います。  一口に御殿女中と申しましても、ピンから切りまであります。将軍家に仕える御本丸女中をは じめ、大名にしても加賀の前田の百万石から一万石まである。天下様の大奥、諸大名の奥に奉公 している総ての女性を引っくるめて、御殿女中というのは間違いではないにしろ、同じものと見 ることは出来ません。将軍家の最高級女中は御年寄といいまして、十万石の格式、御老中の待遇 です。それからだんだん階級が低下してお|末《すえ》になりますと、御切米四石、|御合力《ごこうりよく》金二両一人扶持 である。これが最低最下かと思うと、又者といって女中等の部屋部屋で使用される局だのタモン だのというのがあります。この又者の中にお犬子供というのがありますが、川柳に「小間物を出 すとお犬がよつて来る」というやつで、これは無給で行儀見習に来ているのです。又者はその部 屋だけの者で、将軍家の奉公人ではありませんが、それでも御殿奉公といい、奥向に勤めていた と申します。実は又者は御殿女中ではないので、御殿奉公とか御殿女中とかいう場合には、将軍 なり諸侯たりの使用人でなければなりません。昔は|直《じき》の御奉公人と云い別けて居りました。その 直の御奉公人にも、だんだん階級がありますが、概して御目見以上、以下と別けます。御目見以 上でなければ|御台所《みだいどころ》の御目通りへ出られませんので、御目見以下だと自分の主人である御台所を 見たことのない者ばかりです。顔どころか後姿も知らずに、何十年も勤めていたのであります。  それですから御殿女中は身許が面倒でありまして、御目見以上の高級者になるものは、旗本或 は御家人の娘でなければならない。町人百姓の家に生れた者は御目見以下にしか任用されなかっ たのです。尤もこれは将軍家の話で、諸大名にしても十万石以上の家では、藩中に武士が多いか ら、家中の娘も沢山あり、その辺に不自由はありませんけれども、小諸侯になりますと、それほ ど厳重な身許吟味も出来ません。従って側近く召仕う者でも、武士の家庭からとは限りませんで、 随分怪しい身柄の者を採用することになります。  目見以上の者は一生奉公といいまして終身勤めるのが定法になって居り、又宿下りもありませ ん。親の病気等の重大事の場合を除いては、私宅へ帰ることは許されなかったのです。目見以下 の者にしても、勝手に請暇などの出来るものではありませんでしたが、そこへ往くと又者は、直 の御奉公人でなしに、女中等の|私《わたくし》の使用人なのですから、毎年二季の宿下りもきまって居りま すし、いろいろと口実を持えて度々私宅へ帰ります。元来が嫁入の準備に行儀見習に来ているの で、縁談のあるまでの奉公ということは、無言の間に認定されて居りました。  又老は部屋方とも呼ばれて居りますが、これは御殿女中でも奥女中でもないのに、屋敷を出れ ば自分でもあっばれ御直の奉公人のような顔を致しますし、近所隣はいうまでもなく、世間押し なべて御殿女中で通します。この又者の腰掛け奉公人の中には、武家の行儀に|貧著《とんじやく》のない、不将 千万なのが沢山ありました。のみならず十万石以下の諸大名は、側近の者にも町人百姓の娘を採 用し、一生奉公でないのを召仕います。加賀見山の芝居で御馴染の尾上にしましても、中老とい えば目見以上、奥方の御側を勤める高級女中でありますのに、|結髪《いいなずけ》のある町人の娘で、親は結婚 のために屡々御暇を願って居りました。一生奉公であるべき高級女中に、縁約のあろう筈はあり ません。この場合は親にも本人にも、終身勤務の心組はないので、又これを採用する主家の方で も、縁約を認めはせぬものの、暗黙の裡に一生奉公でないことを肯定する風があったのです。併 し御暇を願うには、親の病気1それも長い|患《わずら》いでその看護を致したいと、|拠《よんどこ》ろない旨意に持 えることにきまって居りました。  加賀見山の芝居で申せば、例のお初は尾上に使われていたのですから、|御直《おじき》でない、又者或は 部屋方ということになります。世間ではこの又者のあがくのを、稼ぐ御殿女中と見るのですが、 これは本当の御殿女中ではありません。けれども諸大名の奥向が規律寛怠であった為に、嘘も偽 りもない正銘の御殿女中が稼ぐのを、多少とも暴露しなければならぬところもあったのでありま す。 天井から出た風呂敷包  論より証拠、規律の厳重な将軍様の大奥から、取締の緩慢な小諸侯の奥向に至るまで、御殿女 中の大多数は醜聞艶聞から懸隔して居ったのです。天保改革の時に御本丸の御年寄姉小路は、奥 向の者は人間の欲情を捨てているのだからと云って、老中水野越前守の提案を|斥《しりぞ》けたことは、前 にも申した通りですが、たしかに御殿女中はそういうものを捨てて居った。これは現代の人々か らは決して理解されぬ、奇妙不思議な事柄でありましょう。それには必然な理由もあるのですが、 稼がない御殿女中の話は、ここでは差措かなければなりません。  青葱堂冬圃という俳人が弘化年中に書きました「|真佐喜《まさき》のかつら」という随筆の中に、こんな 話があります。   堀江町に身もと豊なる米商ひする人有、手代奉公人も多く、ひとりの埣へ芝辺より|嫁《よめ》をもら   ひぬ、女、男と同じ年にて、久しく大諸侯の奥へ勤めしよし、ある夜、男ふと目を覚し見る   に、妻の傍にたれやら添寝して居る様に見ゆ、不思議におもひ|起出《おきいで》みれば、誰もなし、おそ   ろしきま\妻をゆり起して其事を問ふ、妻も驚きける|計《ばかり》にて何もこ、ろえたる事なし、又   次の夜に至り、今宵こそ能く見届べしと心を付けゐれば、さらに何事もなし、|頓《やが》て眠を催し、   有明の燈幽かにたりて目覚めければ、又怪しき姿あり、すはやと起出るに、其姿けぶりの様   に天井へ入て失にけり、其翌日母女房又手近く遣ふ女どもみな芝居見物につかはし、年久し   くつかふ手代を一間へ招き、ありし事共物語り、両人にて天井板の張終を押揚見るに、小さ   き風呂敷包あり、扱はと取出し開き見るに、紫縮緬に包たる一品あり、何なるべしと見るに、   婦人の翫ぶ水牛にて造れるはり形といふ具なり、をかしくも又何となく恐しく、中し合せ元   の如くなし、老人持出、大川へ流しける、其夜よりして怪しき事なく、されば無精の物なれ   ど、こ、ろを入、久しく用ひし品には斯る事もあるにやと、かの老人、後に予が母にかたり   ぬ。  この一条は御殿さがりの嫁の|岳父《しゆうと》から、筆者の母が親しく聞いた話だというのですが、明和六 年版の教訓物「当世あなさがし」には、流行後れの品々が寄合って互に歎息する話が書いてある。   棚の隅から桐の箱が、ぐわたくと蓋を明るを見れば、笑ひ道具がぬつと顔を持ち上げて、   是く皆の衆|流行《はやつ》て売れさへせば、世の中にはかまはぬがよい、貴様達も一とほり、江戸中   を見たら捨てられるであらうから、今の内たのしみやれ、おらは抑広玉……に由解の道教の   工夫を以て、天の逆鉾のかたちを移して、由緒正しく、又古語にも飲食男女は大欲そんすと   いへば、なくてならぬ我等故、多年商売繁えいしたれど、近来は一向売れぬ、世上の流行は   皆かうした物で、わしらなどは人前に出る事のならぬたわけ物故、昔の人はいらぬ道具とも   思はれ、買て用る人は愈≧不将不人柄の様に云ふ人も有たれど、今から見れば天晴わしを買   た人は、よい人柄、今一向売れぬを見れば、わしが様な似せ物より、芝居へ行つたり、色ご   としたりして手みじかに用が弁ずると見えた。  随分思い切った云い方ではありますが、この極論にも聞くべきところがあります。御用の物と いって高貴に|宮仕《みやづかえ》する人々が買入れたことは、西鶴のコ代男」にもありますが、民間にも使用 する者があったと見えます。宝暦明和の際には「当世あなさがし」の指摘するような有様だった のでしょう。 余裕のない財布 「近世諸家美談」という書物は寛政以前の諸大名の様子を概論したもので、|固《もと》より刊行されない 種類のものですから、今日までも写本で伝わって居りますが、その中にも奥女中に関することが あります。   高家の奥女中は古風にして衣裳も縫金糸にて、|唐歌《からうた》の文字大筆にちらし、衣紋気高く、いか   にも大様なるこそ本意なれ、紅裏をかくし、大模様いやがり、化粧薄く、際墨置かず、前髪   を立ず、おのづからの色をあらはさん事を好む、是遊女のなすわざなり、髪化粧際墨置たも   風流にすることにあらず、礼儀也、それを嫌ふはなんぞや、大方は奥様、芝居好の通り物ゆ   ゑ也、高家の女中通り物なるはわるし、やはり野暮なるがよし、酒のまぬは興なし、物喰は   ぬは|初心《うぶ》なりとて、菓子取くひ、其楊枝にて歯をいろい、声はしたなく|打笑《うちわらい》、余所の桟敷に   ゆびさし、耳に口よせて何やらんさ\やき、いとはしたなく見ゆる、役者にちたみ、|扇巾《おうぎふくさ》   に物書せ、定家為家の筆跡より奔走し、是に|疎《フつと》きものは羨み思ふ、其役者といふものなんぞ   や、人の交りすべきにあらず、高位の御前たどへは出づべき者にもあらず、さは云へ是も   色々あり、奥様はさもなけれども、殿様通りものにて、女中などの風儀も白うとめかしきを   嫌ひ玉ひ、をどり子遊女のやうに仕なし、是非なくそれになるも多し、又つぽね年寄に思ひ   の外、浮気なる有て、寄りく勤めまゐらせて、芝居|杯《など》へ無理に御供するも有、年寄女中の   すきなるは前後を忘じたる有もの也、大家には夢々なき事也、奥向の行儀は男より遙に勝り、   其身の取置、始末正しき事、中々男の及ぶものになし。 「当世あなさがし」が|切《せつ》に民間の婦女の風儀を歎いた中に、芝居町との接近を弾劾して居ります が、それは間もなく御殿女中にも禁制しなければならぬ状況に到達しました。今にも正徳の江島、 宮路が続出しそうな形勢でしたが、八代将軍吉宗以来の幕府の大奥は、彼等の役者買いを再現す るなどの自由がありません。何よりも彼等の財布に余裕がない。又|栂屋《とがや》とか後藤とかいったよう な賄賂の提供者もいたい。悪辣な利権屋はあっても、奥女中へまで手を廻さない。廻しても効果 のない時世でありました。それは制度が奥と表とを隔てているからです。  私の母が叔母から貰った銀扇には、七代目団十郎の俳句が書いてあります。この叔母というの は埼玉県下の百姓の娘で、尾州様の奥で御使番を勤めた人です。御使番はお末の少々よろしいの ですから、極々軽いものですが、それでも役者の書いた扇子ぐらい持っていないと、仲間外れの ようだったので、人に頼んで書かせたといいます。その傍輩には団十郎様御疾と|上書《うわがき》した鼻紙を 大切に持っているのもあったそうです。柳営は申すまでもなく、三家三卿その他の大大名では役 者買などをする女中はたかったので、いずれも|空騒《からさわ》ぎに過ぎません。小大名の奥女中にしまして も、財布が是非とも空騒ぎにさせてしまう。銭のないのが結構なことであるのを、この辺から教 えるのかも知れません。  御本丸西丸の奥で、目見以上の大威張りな女中も、貧乏やけのした旗本御家人の家に生れたの で、御奉公に出て飲食衣服の心配を免れたのであります。又者の方には富裕な町人百姓を親に持 って、栄耀に奉公するのがありますが、それを除けば御殿女中に苦しがりでないのはないのです。 けれども昨日は昨日、今日は今日で、現在は朝夕の乏しさを感じない。御狂言、御鳴物の催しは ありましても、御側向の他の者が陪看するわけには参りません。年中行事になっている御賑かし がないではありませんが、これも世間で云うような次第ではない。日常は一の側から三四の側ま で、長局の何処でも部屋部屋で糸竹を|玩《もてあそ》ぶことはありませんでした。それですから慰み楽しみ というものを欠いているわけで、御細工物をするとか、草双紙を読むとかいうのが、彼等の面白 いことになります。彼等は三番勤めといいまして、三日に一日の勤務でしたから、心配のない閑 暇のある彼等は、長い年月を長局に取籠って暮す間に、自然苦しむところがないわけには往かな い。無論それに打克つのを常とするわけですが、御奉公に出ると直ぐ差出す御誓詞の中に、相風 呂相床の禁制があります。何故に同浴同裏を禁ずるのでしょう。  私どもは信仰もない、戒律で強いられるのでもない御殿女中の孤栖は、剃髪染衣の比丘尼以上 に幽貞が保たれたのを信じますが、その極めて少い数の者には、何時までも御用の物が付随しま した。明和版の「今様和談色」には、早く既に和蘭陀から輸入された逸品があったと書いてあり ますが、こういう品物は何者によって奥深い長局の部屋部屋へ搬入されるでしょうか。男子禁制 であるのみならず、婦女にしても容易に外問からは出入りの出来ない場所です。七ツ口には買物 に駈けあるく仕丁も居りますが、物が物だけに誰に命じて買わせることも出来ますまい。これは お末などを勤めた者とか、部屋方にいた者とか、或は又者の縁故から女按摩が出入りにたりまし て幾日も泊り込んで部屋部屋を揉んで廻る。こういう手合が持ち込んで売りつけたのです。まこ とに案外な供給であります。 人間が紛失する  ここでは古人の文章を借用するのが便利だと思いますので、「|黒甜項語《こくてんさご》」の一節を出して置き ましょう。この随筆は天明寛政の際に書かれたものたので、読むのに少し面倒かも知れませんが、 現代語に引直す働きはありませんから、そのままで持出します。   今東都に角先生、|蟷《ろう》師父を作り、大に鋪を開き、佗物を|讐《う》らず、是を|市《か》ふ者絡繹たるは、必   ずしも侯門内家の女なりと、披庭に幸を望み、永巷に涙を弾くは懐春女の常なり、是に|泊六《はくろく》   |牙婆《がば》の囮を引くあり、是東都の広大たる所以、怪しむに足らず、又しも聞けるは地獄|捜《さがし》てふ   ものありて、貴顕侯家の寡女嬬婦、|亡八《あげや》に依托して、思ふ男に引逢ふもあり、又は明るわび   しき葛城の至つて二満三平の醜女なるは、亡八の合点にて黒闇の座敷にて淫を魯らしむ、其   上にも怖しきは、年の暮煤払ふ時しも、大家の|曲房《きよくぽう》に五人三人の男、行衛なく失する事あり、   是も深遽に引入れて、淫風を|放《ほしいまま》にし、果は厨の楡中に|痙《うず》め、屍をかくす。  角先生、蟷師父というのは御用の物の事です。今日も東京市中にこの売店が五軒あるというこ とで、昔からその様式も種々あるらしいのですが、寛政の前後にしたところで、その売店に引き も切らず買手があったとは思われません。まして御殿女中が群をたして買いに往くどころか、一 人も姿を現したのではありますまい。需要者は御殿女中に相違なくても、自身が自由に外出され ないばかりでなく、適当な供給者が中間にありますから、決して正体を露わすようなことはない のです。これは意味だけを受取って置けばいいので、恐らく筆者もそのつもりだったのでしょう。  それから地獄捜し、闇仕合、煤払に人足が紛失する話、これは嘘のようで嘘ではありません。 極めて少い話には相違ありませんが、絶無として否定することも出来ないのです。話はチト古く なりますが、明暦三年に御本丸の焼けた時、甲斐国谷村城主一万石秋元越中守富朝が、大奥へ飛 び込んだまま紛失してしまいました。焼死なら屍が出る筈でありますのに、それもなかった。如 何に大混雑の際に致しましても、天下の諸侯が紛失する、行方不明になったというのは怪しから ぬ話で、|首樗厳経《しゆりようごんぎよう》でしたか、欲に燃える比丘尼が、自分の出した火で自身を焚焼する話があっ たと思います。秋元越中守は御殿女中の身から出た火に焼けたのだと伝説されて居ります。屍を 便所に隠すということも、出来る事でありまして、将軍家や御台所の便所は一生垂れ放しなので、 それほど糞池は深く深く大きく穿たれてあります。この暗く深い塾坑の底に投入されたならば、 屍の出る気遣いは決してありません。勿論|肥取《こえとり》の来ることはないのですから、詮議の道はないの です。この糞俊の来ない便所は上々のだけで、何程重い身分でありましても、御奉公人の便所に はないことですから、長局であったら早速露顕してしまいます。  文政五年十一月十四日、御本丸長局の便所から、下掃除人足が赤子を汲み上げたので大騒ぎに なりました。だんだん厳しい吟味になり、惣女中の乳調べがありまして、遂に若年寄を勤める初 山という人の近頃雇ったタモンが、前日の夜中に産み落したものとわかりました。タモンは文字 に書けば多門ですが、大抵仮名で書く例になって居りました。民間なら下女のことです。初山の 処へ奉公に来る前に男があって、子供が腹にあるのを巧みに隠して住み込み、健康絶倫の女だけ に、誰にも知らさず産み捨てたのが発覚したのであります。何も便所の講釈までするには及ばぬ ようなものですが、人間が紛失する話については、是非便所が上々のと下々のと違うことを申し て置きませんと、「黒甜項語」がわからぬことになるから已むを得ません。小説の吉田御殿に千 姫の乱行を書いて、連れ込んだ男を古井戸へ拠げ込むなどは、余りに智慧がなさ過ぎます。何よ り都合のいい万年便所のあることを御存じたいから、こんなことになるのです。  千姫の伝説も随分馬鹿馬鹿しいものになりまして、近松は「相模入道千疋犬」にあの伝説を採 入れて、例の小ぎたない悪口を、嬉しそうに武家の婦女に加えて居ります。あの中に稼ぐ御殿女 中のシグサがこまかに書いてありますが、もし一々の言句について説明したら、大分○○にされ たければ済みますまい。私どもの聞いていることで、容易には云われないところを、近松は上手 に云い廻して、知らん顔で済して居ります。  美男を奥向へ引張り込む話は、公家の方には珍しくないようですが、武家の方だと何時でも千 姫の話になります。尾州の奥へ幾島大吉という俳優を潜入させた話なども、到底一人や二人では 出来ないことです。お姫様なら猶更大勢掛りの大計画になるわけですが、女中にしましても、ご く少く見て五人や七人は加担したければなりません。自分の住む部屋の中だけでも、使用してい る女どもが三人や五人はありますから、これを首肯させた上に、外間に封巾助する者がいなければ ならぬ勘定になる。千姫が美男を俊って来させた話は、如何にも大掛りなもので、その事実につ いては早速に呑み込めないところがあります。「三日太平記」という浄瑠璃は、近松半二等が明 和四年に書いたのですが、その中に「伏見桃山の花盛見物して、ふしぎな事で二三日お大名の子 になった」とありますのは、つい千姫の伝説を思い出させます。信長の娘千本の姫のために、堺 の|生薬屋《きぐすりや》の停が俊われて、奥殿へ引込まれた話、それを事実にしたようた物語が、明和頃の江戸 にあったというので、その珍談を書いたのが「春夢仙遊録」、それを又書き下しにしたのが「黒 甜項語」に載せてあります。これほどな記録は他に見かけたいようですから、先ずそれを話すこ とに致しましょう。 運ばれる古長持 「春夢仙遊録」の梗概を申しますと、秋田藩士の年の若い美しいのが、勤番というので、殿様に ついて江戸へ出た。勤番侍といえば、川柳の浅黄で御話にならないのですが、それとは全く違っ て、年は若いし、男は好し、相応に金が廻る上に、人間も間が抜けないと来ている。当人は面白 い盛りではありますし、殊に江戸が珍しいので、其処此処と遊び廻る。往く先々で頻りにチヤホ ヤされるから、本人も有頂天になった形で、料理屋や茶屋にも馴染が出来、遊びは愈々油が乗っ て参ります。  或日両国辺の茶屋で一杯と出掛けたあとで、亭主がその若侍を蔭へ呼びまして、小声になって こんなことを云った。実は御出入り先のさる御屋敷に、当年十六におなりなさる姫君があって、 そのお美しいことは何と申してよいやら、喩えようもない程の|御繧緻《ごきりよう》ですが、その姫君が先日浅 草寺御参詣の時に、あなたを御見染めなすったというので、御付の人から私へ御申付があり、こ うこうした方がその|許《もと》へ屡々御越しの由を聞いた、如何にも取計らって、その方を姫君の方へお 誘い申せ、ということでございました。あたたが御承知なら直ぐに御案内致しましょうー。そ う聞いた若侍は何の思案もなく、それは面白い、往こうというのも夢心地でありました。  すると亭主は古長持を持ち出して、サアこの中へという。若侍は夢を見ているようではありま しても、長持の中へ這入れと云われては、何だか気味がよくもない。うじうじするのを見て、粋 のようでもない、これよりもっと危い逢瀬を渡りながら、御心配は御無用、万事は私が心得て居 ります、と亭主が笑う。そう云われて見れば、何よりも行く先が楽しみになりまして、合点して 長持の中へ入りますと、亭主は直ちに錠をおろし、忙しそうに帳場の男を呼んで、何か委細に云 いつけ、昇き出す長持に付添って送り出す。途中は急ぎに急ぐらしく、人夫の掛声が忙しく聞え ましたが、長持の中の若侍はもう五六時間も駈けたかと思う頃、漸く屋敷へ著いたのでしょう、 門番が|厳《いか》めしい声で、何者だ、何処へ通る、と答める。付いている男が頻りにヘイヘイ云って応 対して居りますが、門番は通しません。長持をあけてその中を吟味しようと云う。サア大変、ど うなるだろうと長持の中で|肝《きも》を冷して居りますと、付いて来た茶屋の男が、左様たらば申上げま す、手前は両国の塗物屋でございますが、先日御屋敷の御奥向の御道具をお読えになりましたの で、只今持参致しました、昨日御奥の御役人様が手前方へ御出になりまして、出来|栄《ぱえ》を御覧に相 成り、この長持へ厳重に御錠を御おろしになって、鍵はお持ち帰りになりましたから、何と仰せ がございましても錠はあけられません、と云った。この奥という一言が、門番などには何よりの 効験なので、漸く通れということになりました。  長持の中の若侍は、生きた心地もありませんでしたが、そこを通って御座敷へ来たらしく、大 勢の女中の声が聞えます。そのうちに老女の声で、たしかに受取った、大儀であった、と挨拶す るのが聞えますが、ここで両国から送って来た老は帰った様子で、長持は女中等によって尚奥深 く持込まれ、とある座敷に据えられました。  |搬《はこ》んで来た女中等は直ぐに立ち去って、あとは森々として深山の如く、|人気《ひとけ》は全くありません。 もう若侍には夜か昼かわからず、何程時刻がたったのかも知れなくなりました。暫くして|建音《あしおと》が したかと思うと、錠をあけて長持の蓋をあけ、何か紙に|裏《つつ》んだ物を投げ込んだたり、又蓋をして 錠を掛ける。その後は又沈々として何の物音もない。紙裏みをあけて見ますと、いろいろな菓子 が入っている。若侍は昼飯だけで、今は何時かわからぬけれども、腹は大分減っている。貰った のを幸いに、その菓子を食べたりしているうちに、ザワザワ人声が聞えたと思う間もなく、錠が あいて長持から出ることが出来ました。  若侍の眼の先には、|掻取《かいどり》姿の老女が|雪洞《ぽんぼり》を片手に持って立っている。障子の外には若侍を見よ うとして、女中達が|透視《すきみ》をしながら、ささやく声は大きくはありませんが、先程からザワザワし ていたのはこれだと気がつきました。老女は丁寧に、昼から今まで、こうしてでは御窮屈御大儀 であったろう、姫君も御待ちかね、サアわしに付いてと、又引き立てて幾間かを過ぎて導く先は、 |蘭爵《らんじや》の薫りに常人の|在所《おましどころ》でないと、目よりも先に鼻が承知する。老女は御簾に向って、「参じ ました」と云うかと思えば、若侍をその内ヘ押遣りました。  其処は薄暗いけれども、老女の持った雪洞の火で見ますと、錦の褥を重ねた上に、|傭躬《ふしみ》になっ て一人の貴女が居る。顔は見えない程に頭が低い。やおら玉のような貴女の手は延びて、若侍の 手をとらえて|梱褥《しとね》の上へ引く。心神悦惚として夢現の境をさまよう。たまたま襖の外から老女の 声で、はや夜明けに近うござります、重ねても首尾はあり、|疾《と》くかの者を御戻しなされませい、 というのに驚かされて、矢庭に起上りますと、姫は手ずから祇紗に包んだものを渡される。老女 は又初めの部屋に伴い、再び長持の中へ入れて錠をおろしました。  長持は女中等に昇かれて其処を出たかと思うと、間もなく人夫の掛声忙しく、昨日より急ぐ様 子でありましたが、長持から出て見れば例の茶屋で、蓋をあけたのは亭主なのです。サア昼飯を 上れと膳を持って来て、昨夜は|如何《いかが》でございましたという。若侍は|委《くわ》しく様子を話し、懐中から 貰って来た祇紗包を出して|披《ひら》いて見ると、小判が百両ある。それを半分頒けて亭主に遣りました が、自分の嬉しかったことに比べては、まだまだ御礼が足りないように思われました。  亭主はニコニコして、又の逢瀬を計らいましょう、御知らせ申したら必ず間違いなく手前まで 御出向き下さい、と念を押す。若侍に否はありません。委細承知しまして、重い頭を傾け、フラ フラする足を踏みしめ踏みしめ、漸く藩邸の小屋へ帰って来ました。そこへ同僚が寄って来て、 昨夜は何処へ泊った、それもいいが、門限の|緊《きび》しいのを知らぬ筈もないのに、吾々が取繕うのに 何程骨が折れたか、一体何が面白くて門限を外したのだ、サア有体に云え、隠すと承知しないぞ、 と騒ぎ立てる。さすがに退きも引きもされず、色男には誰がなるとも云っては居れたい。詮方な しに昨夜の始末を話しますと、同僚等はびっくり仰天しました。昔から江戸にはある事だが、ま だ貴公は知らないのだろう、その手で若い男が紛失するのは珍しくない、帰って来られたのは運 がいいのだ、と云われて、若侍は急に|怖毛《おぞけ》を振い、その後に例の茶屋から知らせては来ましたけ れども、出掛けるどころか、返事もしなかったというのであります。 安永の夢茶屋  この話には時日もなく、地名人名もありませんので、嘘でたいにしても信用は出来ません。元 禄十六年版の「傾城仕送大臣」にも似たような話が書いてありますが、これは邸内ヘ引張り込む のを、出先で遣るところが違って居ります。   それ人\の姿に色を|替《かえ》、品を替、像に恋をふくませ、ぽつとりと仕かけ、釣られに出るなど   いふ事……中むかし此楽は大かた御所がたの女にて、一年に一度二度のいとまをもらひ、祇   園清水を心がけてまゐれば、色ごのみのをとこ言ひかけて、袖をひかへ、跡や先やと連に成   りて、|四方山《よもやま》を語り、豆腐茶や、けんどんやへともなひ行て|憂《うさ》をはらす、女によりて其日の   払を男にかまはせず、又のえにしを約束して、伽羅などをくれる、男あまりのかたじけなさ   に、末には夫婦にならん事をくどけば、いはれある身にてさやうの事はならず、御名を問へ   ば、さんとのみ云捨て実をいはず、|夫《それ》より帰るをいぶかしく、むりに送れば小宿有て立寄、   乗物に乗て下女数名召連、黒羽折きたる侍三四人、|対《つい》のはさみ箱にて帰る、男見るに驚いて   夢の心地す。  京の話と聞いても済みますが、江戸の話を迂廻して書いたとも聞えます。釣られた女は京風俗 で、古くから恋歌で養成された公家行儀の仕癖であります。けれども柳営と云わず、諸大名の屋 敷と云わず、奥向という奥向に、京の女のいないところはありません。なんとかの三位、なんと か大納言の娘が、諸大名の夫人となり、お妾となる。将軍家も御同様で、五摂家の娘が入輿する。 禄の少い位倒れの公家衆は、お気の毒ながら娘の捌け口をそこに求めるのでありまして、たしか に七八百年前からの金穴は、公家衆のために武家の後庭へ穿ってあったのです。「平家物語」や 「源平盛衰記」をぼんやり読んでいては困る。江戸の末期にしても、公家の娘の行先については、 説明に骨が折れるだろうと思います。そういう風の吹いている公家の家庭に成育する女性は、高 いも低いもたく随分色っぽいので、今日の尖端を往くなどと得意がる女の子に比べても、決して 引けは取りません。この公家衆の娘が御入輿というので、武家へ売込まれると共に、恋歌仕込の 色っぽいところが輸入されるのは必然であります。殊に御入輿を囲続して来る御安直な京女は凄 まじいのですが、武家には不義は御家の法度という金看板が掛っている。御成敗といえば首がた くなるのですから、さすがの恋歌教育も已むを得ず効験を失うわけにもたります。  安永度にありました夢茶屋などは、釣女を逆にした釣男なので、露骨に云えば出合茶屋だけれ ども、そこがよほど碗曲になって居ります。男を誘い込んで濡場になる。この前後が打絶えて居 りまして、まことに夢のようた出合だから夢茶屋なのです。稼がれる御殿女中の項にある,色里 三所世帯」の話にしましても、前に引いた「傾城仕送大臣」の記載にしましても、貞享元禄のは 何も彼も稚拙なものですが、安永の夢茶屋になりますと、なかなか巧妙になっている。場所も浅 草上野の両処だけだったらしいのですが、容易に突止められないほどに隠密でありました。  仮名草子はさて措き、浮世草子にも公家の娘の恋知り情知りは沢山書いてありますが、明和六 年に半二が書いた「近江源氏先陣館」に出て来る時姫の愛人、塩売長蔵本名三浦之助、あれは当 時の出来事を採り入れたので、事実は「茶町子随筆」にこう出て居ります。    明和六丑どし十月三十日、京都三条大納言(季晴、後に従一位右大臣にたる)門前にて、   塩売自害いたし候由、右の仔細は近き頃京都にて塩売候男一人、男ぶりも十人に越え、年も   二十四五と相見え候、美服を著し、塩山はかりと呼廻り、洛中の評判に候処、寺町筋三条大   納言殿息女清姫と申十九歳之由、此姫の方より或時塩売の方ヘやうじさしを贈られし、其中   に    |陸奥《みちのく》へ通ふ心は千賀の浦影ゆかしくも月の夕しほ   男もよき|伝《つて》もや有けん、かへしに、冥加なや   此歌原本に誤字あり、意味通ぜず   然る所十月二十九日夜、彼清姫ひそかに三条の家を忍び出、塩売の宅ヘ行て有ける、三条に   て騒ぎ立つ、中にも心得たる家来、少しは存当り候もや有けん、塩売宅へ尋ね行し処、はた   して姫を見出し連帰り、塩売には縄をかけ、所に預け置き、姫は家老へ預り申し、翌三十日  夜、塩売抜出、三条殿門前に来り切腹いたし候由(大坂者のよし)貰ひおき候やうじさしを  脇差の鞘にからげ付け、其中に辞世あり、   すゑとげぬ重き|情《なさけ》のつりかねにはかなく消ゆる身こそてうちん  この辞世は提灯に釣鐘、釣合わぬというので大いに酒落のめしたものです。時世は恐ろしいも ので、人形のように思われる御姫様さえ、単身恋人を襲撃するようになります。 二つとない御霊屋心中  明和安永には情死は古くなりまして、駈落が新しい大流行でありましたが、そうした世間に、 明和四年五月十二日、江戸時代に二つとない大椿事、御霊屋心中というのがありました。この日 は九代将軍家重の忌日(惇信院、宝暦十一年六月十二日莞)で、御代参が立ったのですが、その |表使《おもてづかい》の女中と御霊屋坊主との情死であります。  表使といえば大奥の高級な職員(御目見以上)です。御代参には御台所の御名代として御年寄 が出て来るのですが、その随行の筆頭は表使でありまして、外間との交渉は常に表使が取仕切っ て勤める。奥では役人といわれて、幅ききの女中です。役柄として外出することも多く、異性を 相手にすることも多い。相手の御霊屋坊主の方は、増上寺には当時御霊屋が七箇所、御別当寺院 が九軒ありまして、惇信院御霊屋の御別当は瑞蓮院です。御別当所はいずれも広い建物で、部屋 の数も三十ほどある。住持の外に、大茶の間、茶の間、お次などという大勢の坊主が居り、御霊 屋の詰番の坊様も七八人は居りました。何時も御代参の折には、御年寄以下打揃って、半日もゆ るゆると御別当所で休息するのが例であり、又それが彼等の保養でもありました。従って女中応 対の上手な坊主も居りまして、面白おかしく遊ばせもする。内々ではありますが、芝居の御供ぐ らいは遣ってのける西瓜頭もありまして、時によっては御代参の駕籠が空で来ることもあったと いいます。こんなわけですから、どんな相談でも出来るので、御霊屋心中は男女とも名が伝わっ て居りませんが、御殿女中と坊主とは御互い様に至極空腹な人間です。その磯餓についての同情 から、持合せた金看板の|厳《いか》めしい御法度と戒律とは危殆にされ易い。その接触の機会も多く、呪 近するにも都合がいいとあっては猶更の事であります。  お寺参りとか信心とか云えば、目にも立たず、殊勝らしくもある。まして御代参たら御奉公で す。どの道よりもこの道が選ばれるのは、人間がだんだん利口になるからばかりでもありますま い。勝手ずくから云っても、御殿女中と坊主とは臭い物になって参ります。そこで眼ばかりでな く鼻も抹香の外に動かしますと、宝暦九年四月に深川清住町に霊雲院が建ちまして、その翌年の 秋から年々二百俵ずつの御寄付がある。この寺の住持東冥は駒込吉祥寺の所化で、|月謄《げつせん》という坊 主だったのですが、何時の間にか、御本丸の御年寄松島の|猶子《ゆうじ》になりました。白狐の宝珠を感得 したとかいうことで、境内に円珠稲荷が祀られ、この稲荷の御祈薦札を九代将軍へ差上げます。 東冥と松島とは何の因縁があったものかわかりませんが、十代将軍の寵姫お品の方も、この松島 の養女なのですから、東冥とは兄弟分のわけになる。従って御本丸女中の参詣が少くなかったの で、芝上野の両山その他、由緒のある寺杜はありましても、新たに御本丸女中の声援を大ツぴら に受けたのは、この霊雲院が最初でありました。併し匂いはさせても、|濫襖《ぼろ》は出さずにしまいま して、その後は銘々勝手に信心ぶりを見せることになったのです。 飛んだ御祈薦  大奥の題目念仏の党争については、曾て「大名生活の内秘」や「芝と上野浅草」の中に書いて 置きましたから、それと重複するところは省略致しますが、どうしても省略することの出来ない のは、享和三年六月に暴露した延命院日道の女犯一件であります。これは|踵《つ》いで起りました天保 十年の中山法華経寺一件、同十二年十月鼠山感応寺|取殿一《とりこわし》件と押並んで、御殿女中と坊主との美 しくない関係をぶちまけたものですが、それが二つとも日蓮宗の僧侶であるのは面白いと思いま す。この中で延命院一件が一番よく世間に知られているようなものの、事実は大分見遁されて居 ります。主犯の日道は日当とも伝えられて居りますが、谷中の延命院に現存する碑面には、行碩 院日潤聖人とありまして、日道でも日当でもないのです。本人の名前さえこの通りなのですから、 事実が満足に伝えられないのも無理はありません。その日潤の申渡書に「右の女参詣之節、密会 をとげ、或は通夜などと申なし、寺内に止宿致させ、殊にころ懐姫のよし承り、堕胎之薬を遣し、 惣て破戒無漸の所行」とあり、ころという女に薬物を与えて流産させたのを科条に挙げてありま すが、これは今度はじめて摘発されたので、実は久しい慣習になっていたらしいのです。 「塩尻」巻二十四は天野|信景《さだかげ》が宝永年中に書いたものですが、その中にこんな記載があります。   予近頃中山一流の日蓮宗祈薦の秘書を得し、其中に大かた道家の符章多くして、且あさまし   き野俗の事半に過ぎたり、其一二を左にしるす、具眼の者弁じ見よ。   夜暗叩几 夜なきすとた父もりたてよ、すゑの世にきよくさかふることこそあれ      是を三返書き上ケ消又可呑              μ 愛敬の符我思ふ君が心もは馨姦思ひ   宙十女        つきなりおもひあはせよ              凋   庖瘡の符 むかしよりする事なれば、もはしかをするとも死なじ神がきのうち   如此類多し、一笑呵々、其他の事は不律の事のみ多し、懐妊破の秘書とは血流しの事にして、   符といふに薬といひ、出家の作業にあらざる事のみ、いくらもあり、猶愛敬の大事といへる   に至りて、符字を書て曰く、これは女の右の手の内に書、長くと思ふ女に書てよし、亦日是   は女に始て合て、手の内に書く、久しく思はれんとするに書也、亦十三鬼大事の第六に日、   女に思はる\符也云々、此外多けれども略之、'実に日蓮宗の僧、女犯を事とする事、此等に   てもしられ侍る、彼書は明暦三年丁酉七月四日、甲州大野にして了順といふ僧、中山日常流   を伝授せしよしくはしく記せり、此書をかくして秘伝大事ありとの\しる事、可憎可笑の甚   しきにあらずや、此書を家蔵に納む、疑はしき人は見るべきのみ。  怪しからぬ御祈薦をしたのみならず、|懐娘破《こおろし》には薬物を用いたと見えます。さすがに天野翁も |観面《てきめん》に抄出して居りませんが、久しく避妊洗子が行われたことはたしかであります。自体御殿女 中には限りません。一般の婦女が日蓮宗に集るのは、御祈薦の|御利生《ごりしよう》に甘心するからでありまし て、そうすれば懐妊破は延命院一件にはじめて行われたのではない。日潤はその情婦ころにはじ めて行ったのかも知れませんが、一派の悪僧はそれ以前にも以後にも慣行して居ったでしょうし、 そうした御祈薦の御利生は、相手の婦女を安心させたかも知れません。或所へ灸をすえて不妊に する法もあるそうです。今日賑かた産児制限も、亭主のない婦女、特に孕んでは世間体が悪いの に困る女性が、痛切に要求するわけですが、悪性な御殿女中には好んで不姓症になったのもある ようである。勿論、気楽なお犬や、行儀見習に奉公する連中は、そこまで踏み込む必要はありま せん。 西瓜好みの長局  谷中延命院一件なるものは、稼ぐ御殿女中の上にも|希有《けう》な事例でありました。尤も綺麗づくし の若い僧侶と、極彩色の御殿女中との情事ならば、それは決して希有な事例ではありません。延 命院の住持日潤が多数の御殿女中を玩んだといっても、彼一人として相対する異性の数ならば、 おのずから限られているわけですが、延命院へ集った御殿女中の数は、おびただしかっただけに 非常な広範囲に及びました。延命院は女郎屋でない、男郎屋である。京伝が黄表紙の中に男郎屋 と書いたのは酒落ですが、日潤等はその酒落を実現したのです。これで御殿女中は稼げるだけ稼 ぐといったところで、若旦那の吉原通いほどには参りません。彼等は外出が不自由でしたから、 非番を利用するのに都合のいい物詣り、信心という口実はあったにしましても、一箇月に二度も 三度も外出するわけには往かない。|椎茸髭《しいたけたぽ》に|西瓜頭《すいかあたま》、腫気のない精進献立だけに、|資本《もとで》が入らな いのは延命院以外のことで、御好み次第とあって青白いところまで用意してあるのですから、決 して安上りではないのです。その代り財布から牽制されないのばかり来るとすれば、勿論客の種 はいいにきまって居ります。  然るに世問に伝わっている申渡書では、日潤に関係した婦人は僅か六人で、幅も甚だ狭く、西 丸と尾張、一橋だけであります。日潤は三十二歳で延命院住持となり、四十歳で死刑になるまで 関係した女の数は五十九人というのに、申渡書には一割強しか出て居りません。    尾張家若年寄初瀬事なを、三十二。  これは立花左近将監家来平田久太郎伯母とあります。筑後柳川の家中から出て、尾州の高級女 中になっていたので、この時は大納言|宗睦《むねなか》の代です。    紀伊殿家来書院番石川千左衛門妻ゆい、三十。  これは紀州の相応な武士とのみありますが、実は一橋民部卿|治済《はるさだ》(家斉将軍の生父で従一位に 昇った人)の奥で若年寄格、最初は世子の御乳母で、追々に出世したのです。この女は紀州でも 身柄のいい丸山某の家に生れ、実母も陽気な人であったといいますが、ゆいも同藩の石川に嫁し た後、延命院と私通して押込を申渡され、さすがに恥を知って自殺しました。    一橋殿御用人井上藤十郎娘はな、十九。  井Lの娘については聞くところがありません。或は一橋の奥に勤めていたともいいます。    中奥番石川右近娘あい。  これは実父の名のみを挙げて年齢さえも書いてありませんが、石川右近は牛込天神下に住む二 千石取の御旗本衆で、あいはその娘です。当人は尾州御主殿(家斉将軍の女)|淑姫《ひでひめ》に勤めて居り ました。    谷中善光寺門前家持源太郎妹きん、二十三。  これは三河屋という町人の家ですから、稼ぐ御殿女中の外になります。ただ兄の源太郎が延命 院の宣伝係で、いろいろ油っこいところを引付ける工夫をした。妹のきんもアバズレだったので、 兄貴のする宣伝の効験を|観面《てきめん》に現したのが|御愛敬《ごあいきょう》です。    大奥部屋方、霊巌島長崎町一丁目和助店喜平次妻ころ、二十五。  申渡書ではこの女が延命院一件の中心のようになって居ります。薬物を用いて堕胎させたのも この女ですが、何にしても身分のない女だけに、寺社奉行脇坂淡路守|安董《やすただ》が懸命になって、延命 院一件にかかろうとは思えません。ころはただ大奥部屋方とのみありますが、当時家斉将軍の世 子大納言家慶の居られる西丸大奥の梅村の召使なので、その梅村を主人とするから、本名の梅を 改めて、ころとしたのだといいます。ころは小間物を商う兄が出入りする駒込片町の|館《たて》九八郎、 百五十俵という旗本の娘が、西丸ヘ奉公に上る付け人に望まれて、十三歳でその部屋に勤めるよ うになりました。ころが望まれたのは、館の家ではその流行の富本が好きだったからで、ころは 幼年から|斎宮《いつき》太夫に習って巧者に語り、踊は八丁堀の中村熊次郎の弟子でありました。中熊は市 村座の振付でもあったので、安永七年に江戸へ下った初代菊五郎に付いて来た停丑之助と、ころ は相弟子になり、子供の時から心易かった、と「勧延政命談」に書いてあります。  この「勧延政命談」は実録体小説というやつで、貸本屋の持ち廻る写本ですから、真偽虚実取 交ぜの物騒千万た代物なのです。作者品田郡太は曾て奥御祐筆仲沢達之助の処に勤めていた者で、 材料を公辺の文書に取って書いたと吹聴したらしいですが、作者の品田は文化二年江戸払の処分 を受け、貸本屋も筆耕も皆罰せられました。併しその後の小説も講談も、すべて「勧延政命談」 を無二の種本にして居ります。河竹黙阿弥作の「享和政談」も講談を脚色したといいますが、却 って「勧延政命談」の本文に近いのです。  寺杜奉行の記録は東京帝国大学図書館にあったのですが、先年の地震火事に焼けてしまいまし たから、延命院一件の根本資料は絶滅したわけです。寺杜奉行の記録さえ残っていれば、日潤の 素姓なども明白になる筈でありました。 念仏女中に題目女中  延命院日潤は二代目菊五郎だという説があります。初代の停丑之助は天明五年に角座|座本《ざもと》とな り、同六年に菊五郎を襲名しましたが、七年八月十八日三田尻の興行に往く途中、船の中で急病 で驚れたと伝えられて居りまして、墓所も知れません。そこで一説に若死したのでなく、実は過 失であったけれども、人殺しをやったので大坂を出奔し、先年下った時に男色の|因《ちな》みのある谷中 延命院に潜伏し、やがて剃髪して前身を黒め、六七年を過してから、説教上手の美僧というので 売出し、延命院の住持が死んだ後を請け継いだのが、三十二歳の寛政七年だったというのです。 それから享和三年に刑死するまでは九年ある。その時が四十歳ですから、日潤は明和元年の出生 ということになります。彼が西瓜頭になった天明七年は、恰も二代目菊五郎の若死を伝えた年な ので、これは解決されない疑問として、何処までも残るわけであります。  |所化《しよけ》の柳全は本所生れの御家人の次男で、さんざん武家の渡り奉公をした上に、得意な身振|声 色《こわいろ》から小屋者に落ちたことのある人間です。楽しんで儲けるという寸法で持掛け、万端柳全の作 略により、稼ぎたい御殿女中を見かけた展待が設備されたので、却って日潤は招きというところ でありました。御説法の上手な役者のように美しい坊さんと評判の高い日潤が、人気に輪をかけ て御祈薦の|御利益《ごりやく》を宣伝させ、意地の綺麗でたい椎茸髭を引寄せたのです。  当時家斉将軍の居られる御本丸大奥には、日蓮宗信仰の女中が多べ、家慶世子の西丸大奥には、 浄土宗信仰の女中が多うございました。従って御本丸の念仏女中、西丸の題目女中は、いずれも 少数党として困難な立場に在りまして、ややもすれば|排擁《はいせい》される危倶があったのです。延命院一 件の目標になった梅村も、もし御本丸女中でありましたならば、大失態ではありましても、あれ ほどには騒がれなかったでしょうが、あいにく西丸であった為に、少数党の悲哀を存分に玩味さ せられました。梅村の生家は法華信者だったので、ころを以て評判の高い日潤の祈薦を受け、折 を見て谷中の延命院へも参詣しましたが、梅村は四十を過ぎて居りまして、芝居でする粂村のよ うな妖艶な女ではありません。別に美人でもないのですから、昔が惜しい姥桜、名残の色香が忍 ばれるなどと、手数をかけるにも及ばないのですが、又そういう女だけに、展待された情味に|泥《なず》 み易いところもありましたろう。  父親の館九八郎は西丸の御切手御門番之頭を勤めて居りましたが、御切手御門番之頭は六人で 交替に勤めるのですから、館一人の自由になるものではありません。すべて女中の出入りは必ず 御切手御門からに限ったもので、そこは御切手を以て出入りするのですが、御切手は一々御留守 居が印を捺して出すので、その切手がなければ出るも入るも出来ないのです。然るに親子の間柄 だけに何か別段な扱いがあるものの如く、例の奥女中根性から考え、延命院を尼僧に化けさせて、 梅村の部屋へ連れ込んだなどと、末々の女どもに噂をさせる。西丸大奥の女中について、何か事 ありげな風説が頻りにあるのを聞いて、寺杜奉行脇坂淡路守は耳を|歌《そばだ》てました。かねて奥女中の 宗旨晶頁から、意外な出来事がありはせぬかと懸念しても居りましたし、寺院が柳営のみならず、 諸大名の奥女中に対して信者争奪の激しい運動をやっているのを、じっと見詰めても居ったので す。  谷中に多い日蓮宗寺院に取っては、如何なる方法手段でありましても、延命院の繁昌は喜ばし い。特に多数の御殿女中を引付けるのに満足して居ります。それは谷中ばかりでなく、当宗一般 の心持でありまして、当将軍の左右に信者を持ち、御本丸女中の声援を以て、現在に凄まじい勢 力を振って居りますが、次の将軍は念仏好きだから、西丸女中を手に入れて、長く自宗の勢力を 失墜させまいという腹がある。そこに必死な運動を仕掛けるわけで、実弾射撃、小判包をも惜し まぬのですが、それよりも効験のあるのは何でしょう。京都の本山では公家の娘のものになりそ うなのに費用を厭わず、年月をかけて養成し、御入輿の度毎に江戸へ送り込んで居ります。それ よりも短兵急に効果を挙げる美僧優男の展待、これなら一気に風靡してしまう。延命院一件に引 続いて起りました中山智泉院一件、鼠山感応寺撤廃等は、皆同様な話ですが、だんだん事件が大 袈裟になって往きます。それほどに力をつくした法華坊さんの根気の強さには仰天せざるを得ま せん。 希有な女探偵  脇坂淡路守は決心しました。坊主の策動を抑えなければ、如何なる珍事が|出来《しゆつたい》するかも知れぬ。 差当って御本丸西丸の奥向の失態は限りがないけれども、将軍や世子の側近い辺の者どもである から、一概に暴露して幕府の威厳に拘るような成行きになっても困る。先ず慎重に最も精確に事 件の幅員を突止め、綿密に犯状を知らなければ手が下せない。一体寺杜奉行という御役は、譜代 大名が出世の階段を踏み出す第一歩でありまして、それから京都所司代か大坂城代かを経て、老 中になる道程の最初なのです。脇坂安董は播州竜野五万千八百九十石の殿様で、寛政三年八月に 就任したのですが、町奉行と違って、役目についての属僚がない。与力同心はありませんで、一 切自分の家来に用弁させる例になって居ります。事件が事件だけに犯状が得難いので、仮に手先 や同心があったにしましても、隔絶した寺院内で御殿女中が稼ぐのを、明白に知ることは望まれ ません。まして寺杜奉行には八丁堀の同心のように、放線状をなす探偵機関がないのですから、 何とも手の著けようがないのです。  そこへ不思議な女探偵が出て来まして、延命院の一切の秘密を知悉しました。職務である八丁 堀の連中にさえ出来ない大手柄を立てたわけですが、それは何者であるかというと、脇坂淡路守 の家来の娘なのです。君命の重さに一身を棄ててかかって、見事に成功はしたものの、竜野藩で はこの娘の忠義一途に働いた功績を陞表することさえ出来ず、本人は勿論、その父兄の氏名も厳 秘に付するより外に仕方がなかった。私どもの聞いているところでは、この娘は事後に自殺して しまったという話です。  黙阿弥作の「享和政談」には、この娘を奥女中竹川としてありまして、   竹川 日当さま、あなたはようも私をお編したされましたなあ。   日当 是は又如何な事、今宵に限り、その様な、なぜ恨みを言はる、のぢや。   竹川 さあ、出家の身にて戒を破り、云ひかはしたはそなた一人、外にはたいとおつしやり      まするが、今私がお居間の内へ隠れてゐるうち、お書棚の御本箱を明けましたら、中      に数通の此お文。      ト |件《くだん》の畠紗包より文を数通出す、日当|悔《びつく》りして、   日当 その文は(ト寄るを隔てて)   竹川 皆言交したお方より、送りし文でござりまするが、幾人となく此様に忍び女子を引入      れながら、ようも是迄私を、あなたはお騙しなされましたなあ。 という風に、密会を機会に証拠物を持って往く。詮議の場で竹川は「最前手に入るあの艶書は、 残らず上へ上りもの」と云い、更に、      さあ主命故とは申しながら、証拠を取得んばつかりに、心にもない虚言を構へ、出家      を編せし其上に、取得し艶書が証拠となり、多くの人に難儀をかけ、よい気になつて      をられませうか、髪をおろして菩提のため、尼になる気でござりますれば、兄上お許      し下さりませ。  こう落著させてあります。私どもは読んで此処に到る度に、その心情を悲しまずにはいられま せん。芝居とも脚本とも思えない感じがするのです。私どもの知っている江戸時代に例の少い女 探偵は、これと共に僅かに二つですが、いずれも貞操を|資本《もとで》に任務を果し、その身命を拠棄して 居ります。  棄てて置けなくなって手を下したものの、底が深く幅の広い延命院一件には、大決心をした脇 坂淡路守も困り切りました。稼ぐ御殿女中と破戒坊主というだけでなしに、西丸の奥には題目念 仏の葛藤があり、御本丸の奥にはドンドコ女中が沢山居って、尻持ちをするのみならず、家斉将 軍の寵愛される女中には日蓮宗に因縁の深いのが多く、法華坊主の娘さえあります。奥女中の風 儀を矯正するどころか、脇坂淡路守の身の上に崇って来そうな様子もある。場合によっては当将 軍と世子との間に隔りが出来ない限りもないので、西丸女中には一切手を著けないことにしまし た。腹の始末に困って方々持廻った、ころ一人を処分するに止め、その主人の梅村さえ不問に付 しました。尾州の御主殿も忌避して、僅かに二人を罰したに過ぎません。  そうなると、その他の諸大名には遠慮はないのですが、事を小さく納めるためには、処分の人 数をなるべく少くした方がよろしい。谷中へ何時も呼ばれた坂東三津五郎、市川男女蔵、沢村源 之助、岩井粂三郎等も吟味しない方が穏便だというので、呼出しては見ましたが、有耶無耶にし てしまいました。脇坂淡路守の大決心も竜頭蛇尾の形で、折角ながら失敗に了り、命がけの女探 偵の忠義も、ただ痛ましさを加える成行きでありました。勿論御殿女中が稼がなくなるようには ならず、却って脇坂を例にして、その後の寺杜奉行は稼ぐ御殿女中を問題にしない算段をする。 もし突当って来れば、事件の幅を無理にも狭くする考案を廻らすようになりました。然るにそれ に成功して、二十五歳で老中になったのが阿部伊勢守正弘です。江戸三百年間に類のない出世の 早さで、男振りのよかったせいもあるといいますが、大奥の受けが素敵だった阿部さんの立身の とっさきに、降って湧いたのが中山智泉院一件であります。 手際のいい阿部さばき  智泉院日当が処分されましたのは、天保八年四月、家斉将軍が隠居されて大御所様と云われ、 世子家慶が十二代将軍になりまして、本丸と西丸と入替って五年目の事、延命院日潤の刑死より 三十五年後になります。この一件は天保十二年閏正月に起ったので、大御所様が御隠れになった、 その年です。巧妙た手際を見せた伊勢守正弘の内申書を見ますと、高級女中の名前がズラリと挙 げてあります。   文恭院様(家斉の論号)老女伊佐野事本性院(文化十三年病死)   同野村(三年前病死)、同滝山(去年病死)   御本丸老女瀬山、文恭院様御客|応答《あしらい》花沢(是も病死)、広大院様(家斉夫人)付老女花崎   (三十ケ年前病死)、同御客応答染岡(天保三年病死)、同同波江(三十ケ年前病死)、文恭   院様表使岩井(三十ヶ年前病死)、同滝沢(当五月剃髪)、御本丸勤島田、御中繭美代、御   伽坊主栄嘉(当年二月御暇)  此等は日当の大信者でありました。この一件は昨日や今日の事でなく、三十年前に死んだ女中 が関係しているのを見れば、随分長い経歴があるわけで、実は延命院一件と引続いた事件だった のです。内申書はその上に、   文恭院様御中薦てう、るり、いと、八重、御次頭勝井、御右筆とう、御伽坊主長栄、広大院   様御中薦頭すま浦、御中+腸島沢(去年御暇)、同杉岡、御右筆頭山村、御本丸老女浜岡、御   客応答志賀山、御右筆頭浜田、峰寿院様(水戸御主殿、家斉将軍の女峰姫)付老女久米浦、   松栄院様(越前御住居、家斉女浅姫)付老女深村、|溶《よフつ》姫様(加州御住居、家斉女)付老女染   山。                                      { の名を挙げてありますが、最初にある御中萬、てう、るり、いと、八重の四人はいずれム大御所 様の御寵愛です。此等の女中達は月々智泉院に御祈薦をさせ、常に部屋方の者を代参に参らせて 居りました。   広大院様老女花町、右大将様(家定)付老女浦尾(今春引退)、同岩岡、御客応答園岡。  これは老輩でありまして、御祈薦の御用を取扱っては居りますが、智泉院と頻繁な交通はあり ません。   美代召仕ひわ、勝井召使くに、志賀山召仕でん、深村召仕りと、元中ノロ番谷津会助後家れ   ん、麹町三丁目万屋直右衛門娘まち。  此等の部屋方及び部屋方に出入りする者どもは、智泉院との中間を斡旋したのです。  寺杜奉行阿部伊勢守正弘は幕閣の下知によって、智泉院の女犯一件を調べ、柳営の高級女中三 十余人をも吟味して、何も彼も委細承知はしましたが、奥女中はすべて審理以外に置き、一人も 処分しない方略を立てて、幕閣の同意を得ました。もし一々に詮議立てをしましたならば、何程 |濫襖《ぼろ》が出たか知れません。延命院一件は、稼ぐ御殿女中に或展待を設けて、満腹させることを主 要としたのですが、智泉院の方は別に目的があっただけに事は面倒です。殊に家斉将軍の御中薦 お美代は、加州へ入輿された溶姫、芸州へ入輿された末姫のお腹様で、徳川十一世の寵を」身に 集めた女でありまして、この人が中山智泉院の先住日啓の娘なのですから、堪ったものではあり ません。  お美代の兄光住は智泉院の後住になり、次の兄が船橋の旅店市兵衛で、妹の見勢が小石川伝通 院の隠居の|梵妻《だいこく》です。当時の智泉院は光住の長男蓮住で、二男が知運といって院代を勤めて居り、 三男は山本嘉蔵といって寺侍、四男は美濃屋清兵衛という浅草幡随院門前の硝子細工人、五男が 中野石翁の用人三次郎、というわけです。智泉院はただの日蓮宗の寺ではありません。お美代が 実父日啓のために鼠山感応寺を立てて貰った一事を見ても、家斉将軍の目尻の下り工合はわかり ましょう。大御所亮後にも御遺言騒ぎというものがありまして、お美代の腹から出た加州の夫人 溶姫の子を以て、将軍家を相続させる陰謀を企てたほどの女です。この陰謀を漸く打破った幕閣 は、是非とも禍根を絶って将来の安穏を考慮しなければならない。そういう意味から中山智泉院 一件は発生しているので、この話は稼ぐ御殿女中たどという項細な事柄に関係はないのですが、 或目的のために感応寺を取立てる、その運びとして延命院以上の大展待をして、磯えた長局の連 中を飽満させたのですから、その次第を云うために概略を述べる必要があるのです。  |歴《れつき》とした証拠もあるのに、阿部伊勢守が、お美代の同胞たる智泉院日当を、下総国田尻村百姓 後家りも事、尼妙栄と密通したとし、同日尚が船橋名物の八兵衛という私娼を買った罪を論じて、 普通の女犯で片付けてしまったのは、寺院を取締りさえすれば、奥女中を罰して将軍の身辺を暴 露しませんでも、目的は達せられると思案した為でありまして、いい手本を脇坂淡路守が出して 置いてくれたわけであります。それと共に幕府が大奥を忌避して、御殿女中の扱いに遠慮があっ たことは、椎茸髭の風儀には適当なものでなかったと云わなければなりません。 混雑し易い事ばかり  大谷木醇堂が十一代将軍家斉の寵女お美代の伝を書きました中で、「然るゆゑにその実父なる 和尚を程よく取成し申立てて、中堂伽藍を取建て、御祈願寺の号を申下し、御朱印を附与し、宮 女の御代参等を恣にし、延命院の覆轍をも省みず、宮女の陰門を飽まで此坊主にふるまひしは、 実にこの娘に幸福を得し坊主なるべし」と云って居りますが、お美代の方は実父日啓のために謀 って、智泉院を将軍家の御祈薦所にしようとした。併し智泉院は中山法華経寺中にある子院なの ですから、本寺を差越して寺格のない智泉院を御祈薦所にするわけには参りません。そこで法華 経寺を御祈薦所にして、智泉院を御祈薦御用取扱ということにしたのです。  とにかくこれで表向きに智泉院の御祈薦札を将軍家の御側へ差出せることになりましたが、そ れはお美代の方の望みに叶ったことではないので、今度は法華経寺の境内に徳ケ岡八幡を勧請し、 御朱印五十三石を付けられ、その御別当にお美代の実父日啓を据えて、智泉院は日啓の長男で、 お美代の兄の日量(光住)が継ぎました。お美代の産んだ末姫(家斉将軍第四十一女、加州ヘ入 輿された三十四女溶姫と同腹)は芸州の新夫人になられたのですが、その末姫様お守本尊とあっ て、末広和合大明神が勧請され、芸州侯は五十石五人扶持を付けて御別当観理院を立てられまし たので、そこへ智泉院の日量を入れたのです。日量はお美代の兄ですから、お美代の腹から出た 芸州の新夫人には伯父に当ります。日量は青山の芸州下屋敷内の観理院に移り、智泉院は長男の 日尚(蓮住)に譲りました。徳ケ岡八幡の出来たのが文政十年、青山の観理院の建ったのが天保 十一年、この十四年の間に中山智泉院の住持は三度変りまして、祖父から孫ヘ、日啓ー日量 -日尚と三代を算え、日啓のために守玄院という徳ヶ岡八幡の御別当所が新規に建立されまし た。お美代の実父である守玄院日啓は、七十一歳という天保十二年十月に、女犯の罪科によって 遠島を申渡された程の精力無双な坊主でありました。  私どもは今日までお美代の方と智泉院代々との間柄を間違えて居りましたので、ここに改めて、 日啓はお美代の実父、日量はお美代の実兄、日尚はお美代の甥と訂正致します。日啓と同時に孫 の日尚も処刑されまして、その捨札の写しがあります。               武州葛飾郡中山村                  日蓮宗法華経寺々中                         智 泉 院                             日 当    丑二十四歳   此もの儀清僧、殊に御祈薦御法用手代をも相勤候身分、下総国船橋九日市村旅籠屋長兵衛方   に罷越、同人下女ますを酒之相手にいたし、密通之上、度々及女犯候之段、住職以前之儀に   候得共、右始末不届に付、晒之上、触頭に相渡、寺法之通可計旨申渡、引渡遣はすもの也。右     十月五日昼九ツ時より三日晒  日啓日尚の二人とも刑の執行に先立って牢死しましたので、それはそれまでの話なのですが、 この申渡と同時に、法華経寺内の徳ケ岡八幡も、芸州下屋敷の末広和合大明神も撤廃されたのみ ならず、鼠山の感応寺も廃寺となり、敷地を取上げ、什器什物等は悉く池上本門寺へ下付されま した。この一将につきましては、「大名生活の内秘」の中の「帝国大学赤門由来」という一篇に 書いて置きましたから、今更繰返すまでもありますまい。ただこの機会に、曾て間違えて居りま した智泉院事件と感応寺廃致とが別々であったこと、感応寺住持日詮という物騒なのがいたこと を云いたいのです。  私どもも間違えて居りましたが、大谷木醇堂のような古老でさえ、感応寺日詮をお美代の実父 守玄院日啓と間違え、日詮日啓を一人として居ります。前に引きました醇堂の記述でも、七堂伽 藍を取建てたというのは鼠山惑応寺のことでありまして、智泉院のことではありません。智泉院 は御祈願寺ではたいのですが、その本寺である法華経寺は御祈願寺になって居りますから、その 辺が紛らわしいのです。御朱印も新たに徳ヶ岡八幡へ賜わったのですが、宮女の御代参のことは、 智泉院よりも感応寺の方が頻繁でありました。すべて話が混雑していて、極めて紛らわしいので す。  実は最近にたって、延命院の住持日潤を何故日当と誤伝したかという疑問が解けましたが、こ れは智泉院の最後の住持が日当といったのに紛れたのです。延命院一件と智泉院一件とが何程入 交りになっているかということも、そこから考えられるわけですが、智泉院の日当は間違いで、 日尚が正しい。これは尚の字の草書と当の字の草書と、似通っているから起った間違いです。そ れが間違いのままに通用して、智泉院日当で知られたので、遂に延命院住持の名に託伝するよう にもなりました。こうした事までが、世間に一番知られた延命院一件の中へ、割合に知られてい たい智泉院騒ぎと、殆ど知られていない感応寺の興亡とがゴッチャになっている、御殿女中と法 華坊主のイチャツキなら、何でも彼でも皆延命院に持込んでしまういい例証だと思います。名奉 行の話になると、依田豊前守の逸事も、遠山左衛門尉の珍談も、皆越前守忠相へ持込んで、大岡 政談にしてしまうのと同じ事でしょう。 三代続く女犯  智泉院では老僧日啓のみならず、日量も日尚も、大奥女中の歓心を買うために、それが又彼等 に取って悪くもない事でありますから、働けるだけ働いたに相違ありませんが、延命院のように 堺町葺屋町から歌舞伎役者を連れて来てまでも、椎茸髭を見かけての大展待は致しません。智泉 院は鼻の先の御賓銭や、御祈薦料なんぞを目掛けない。延命院のように説教上手とか美僧とか、 差当り人気を引立てるだけの資料しかたいのとは違いまして、十一代将軍の寵女お美代を娘に持 ち、その腹から溶姫末姫が出て、加州芸州という大諸侯を二人まで婿に持った日啓です。立派な 根拠があるのですから、日啓は当時両山といいました上野の寛永寺、芝の増上寺、この天台浄土 二宗の菩提所に並んで、日蓮宗の菩提所を持え、そこへ坐り込もうという野心を起したのです。 それには低級な女中などを相手にしたところで仕方がない。いずれにも高級女中ばかりを目掛け るわけであります。  日啓が大奥に接近しましたのは、お美代の養父中野播磨守の因縁でありましたが、中野播磨守 の事や、日啓に接近した女中等の事は、やはり「帝国大学赤門由来」の中に書いて置きました。 日啓等には連類がありません。本寺の法華経寺日道が寺中不取締の廉で、逼塞三十日を命ぜられ ただけで、智泉院の納所珍山、所化珍也、同珍勇、家来関留平次郎、下男新右衛門、小太郎、長 蔵、徳次郎、利助、与八、佐兵衛等は一同に無構と申渡されて、一人も処分を受けた者がありま せんでした。  寺杜奉行阿部伊勢守が一切を暴露させずに片付けましたので、日啓日尚の外に処分された者が なかったように見えますが、阿部伊勢守の月役松平伊賀守が、日啓日尚を召捕った時に、広人院 (家斉夫人島津|宴《ただ》子)御用人山口日向守、御広敷番之頭稲田八郎左衛門の両人が、急に病気を申 立てて御役御免を願い、早速に聴き届けられました。これは引責辞職であります。奥向大小の諸 役人もこの両人に止めて、その他に及ばず、女中等も大概は病気引きにしてしまいました。  文政十年に徳ケ岡八幡御別当守玄院が出来まして、法華経寺の寺中では客席ということになり ました。智泉院としてはこの上の格式は得られません。よし本寺の法華経寺になっても、池上の 本門寺、身延の久遠寺へ出ても、寛永寺、増上寺と同格にはなれないのです。それを両山と立並 んで、幕府の菩提所になろうとする。日啓の野心は感応寺與隆を帯助し、そこには家斉将軍千秋 の後に、芝上野の如く御霊屋を建てる腹案でありました。さてその後に見るべき日啓の腕前は、 感応寺も廃殿され、日啓日尚も牢死しましたから、遂に見られずに了ったのです。 畳屋太兵衛の殉教  感応寺中興開山は池上十八世、日万上人となって居ります。これは当時の本門寺住持でありま して、二世妙沽院日詮が実際の開山なのです。日詮は池上四十六世日詳の弟子で、怜倒な坊主で もあり、例の説教上手で信者を多く持って居りました。二十四五歳で本門寺の執事になり、中延 八幡の別当法蓮寺三十九世の住職になりましたが、感応寺住職の内命がありましたので、真間の 弘法寺に転じて格式を付け、天保九年十一月十五日に雑司ケ谷感応寺ヘ晋山しました。その時に 本門寺の現董日万を推戴して中興開山にしたのです。日詮の法蓮寺住職中にいろいろ才覚もしま したが、大奥女中と結託するには別な手段もありません。感応寺には年の若い美僧を集めて、自 分は勿論、一同に大いに働きました。  大谷木醇堂の「燈前一睡夢」に、「世上にて延命院の事跡を喋々すれ共、この感応寺の不将不 始末不届に比して見る時は、日当柳全が罪悪は所謂大倉の|梯米《ていまい》たり、また後に中山智泉院に女犯 の大騒動ありて、宮女少しく関係もありしやに聞けり」とありますが、たしかに感応寺興隆以来、 大奥女中の風儀が乱れました。何時の世の中にも例外はあるので、行儀の悪い御殿女中が目立つ 内は、一般の行儀は悪くないのです。誰彼と指目しないようになった時が、それこそ風儀の大変 した時であります。水野越前守が|遽《にわ》かに感応寺を廃殿したので、かの大伽藍は僅か三箇年存立し たに過ぎません。家斉将軍が正月の晦日に嘉去されて、感応寺は十月五日に消滅したのですが、 水野越前守は倹約政治のために感応寺廃殿を急いだのではありません。  日蓮宗ではこれを天保の法難とさえ云って居ります。家斉将軍の亮後に幕府が加えた爆撃は、 最近五十年間に得た勢力に対して、随分大きな痛手だったに相違ありません。併し浄土日蓮両宗 の一与一奪が、専ら柳営の奥向を中心として抗争されました、その勢力の消長について、はた一 身の栄枯について、僧侶にあるまじき匪行を揮らなかった。幕府は日蓮宗を嫌ったのでもなけれ ば、浄土宗に荷担したのでもない。心得違いな坊主のある宗門は何時でも受くべき爆撃だったの であります。  法華に凝り固まった正直な信者、市谷田町三丁目の畳屋太兵衛は、感応寺廃殿以来、二十余年 に亙って再建の上願を時々の寺社奉行に呈出し、一向に顧みられず、果は狂人扱いにされました が、彼は遂に意を決して、文久三年正月二十日、菩提所牛込原町|経王寺《きようおうじ》(この寺は現在若松町ヘ 転じて居ります)の本堂の前で、職業用の畳庖丁で屠腹しました。百花千卉の間に狂う蜂蝶の如 き擬態を見せた不如法な坊主等とは、全く没交渉な行動たのです。私どもは|宛《あたか》も生殖器が|法衣《ころも》を 著たような、延命院、智泉院、感応寺の坊主どもの話は、幼少の時から古老先輩に聞いて居りま す。それらの罪悪は紛れもないことですが、こういう怪しからぬ者どもと、該宗の宗義教法とは 別に考えなければなりません。僧侶でも学者でもたいけれども、それらより遙かに正直な信心を 持った畳屋太兵衛の書置を御覧下さい。  一 感応寺御取払より此方近年打続く天下の災、国中の人々安心の思ひなく、年々禍ひ止む時   なし、|髪《ここ》に我身下賎たりと云へども、大乗をたもつ行者と成、何卒国恩神恩を報ぜんため、   仏天高祖に身命を捧げて大願を発し、妙法広布の大利益をあらはし、天下泰平、感応寺再建   有之候様にと、一心を国中に相込、大願満足の事、不日に可有様に、命を妙法に掛け、一期   を終る事しかり。  一 天下泰平の御祈薦、江戸八講の御信者方へ相願、名聞相立、真実の御祈念被下様、大清様   又大塚屋様に能々御相談致、早々八講の御信者様方に、天下泰平に相成候様御祈薦相願可申   事。  一 身延山並に肥後の熊本清正公様に天下泰平の御祈薦をして、八講の御内より大の御信者の   御方にて大将被為成、一心清浄の御参詣奉願上候、路銀の儀は江戸御講中御信者支も有之間   敷候事。  一 某、法の為め感応寺再建早々有之候て、天下泰平と相成候様に、露命を捨て大願を込め候   故、必々後にて驚動致間敷候事。  一 某慢心或乱心致候儀には決して無之候間、左様思申間敷候事。   右の条々、大清様又は大塚屋様、其外八講様方へも能御願被成度候事。    南無妙法蓮華経     文久三年今月今日、停万之助に申残候。   尚々御祈薦被下候御方は、御酒並に美食杯は御慎被下、御真実の御信心願上候、並に身延山   熊本両方へ御祈薦奉捧度、此之趣能々御願可被成候、又当秋は身延山開帳も御座候に付、奉   納物並に御提燈杯は可然、其外名聞がましき御事は御慎候て、只妙法の御為、天下泰平のみ   を専一に御心掛御願上候事に申込可被成候、右の儀御一統御同心にて、仏天へ御祈念被成候   時は、急度天下泰平にも相成、感応寺もたちまち相立可申候事。    右の外今生に思ひ置候一大事も無之、只此一事のみ御願申上候。南無妙法蓮華経                             市ケ谷田町住人畳職太兵衛  こうまでに純一無雑な信者が、弘化以来頻々たる黒船の逼迫、嘉永の西丸火災、安政の地震、 本丸炎上、万延の桜田事変、文久になっては常野両州に於ける水戸浪士の騒擾、坂下門の要撃、 将軍(家茂)の上洛等、物情悔々、人心不安を続けた時世に天下泰平を祈る。その人が遺書の中 に片言隻語も僧侶のことを云ってないのです。何故に該宗僧侶に言及しなかったでしょう。それ を究明するよりも、畳屋太兵衛が云わなかった言葉は、水野越前守が急遽感応寺を廃殿した解説 であるのを見遁し難いと思います。 脇坂毒殺の風聞 「燈前一睡夢」には又こんなことが書いてあります。  扱又感応寺の事を聞きしに、この寺の住僧の不行跡なるは、中々延命院日道などのはるかに  |踵《つぎ》及ぶべきにあらず、それといふは上(大御所家斉)にも御信仰あり、林(肥後守、若年寄、  上総貝淵一万三千石)、水野(美濃守、御側衆、五千石)、美濃部(筑前守、西丸御小納戸  頭取、八百石)、中野(播磨守、隠居して石翁、五百石)等、これを庇護して声援を為すを  もつて、脇坂安董も如何ともする能はず、御祈願ありて越前の仙三郎君、眼疾平癒せしなど、  宮女の長舌をもて大樹公を壷惑し奉るゆへに、その頃営中に仏工を召して、日蓮の木像を刻  ませられ、大城よりして池上の本門寺へ寄付せられ、それよりして感応寺へ御奉納などあり  し事、元来将軍家より御寄進の物なれば、殿中よりして歯簿正しくと\のへ、諸人の往来を  止め、警躍を唱ふる程の形装なるをもつて、諸侯にも従来の宗旨を替へて、法華宗に改めた  りと評する程也、故に奥向よりも御代参と称して、宮女大勢つねに参詣するゆへ、住職を初   め伴僧等申合、各自競争して不義を行ひ、これに好通し、後には増長して、女中互に申合せ、   奥向よりして感応寺へ寄進の物也とて、代るぐ長持の中へ入れて錠をおろし、寺へかつぎ   込て恣に姦淫を行ふやうに成しゆへ、脇坂大人これをあやしみ|尤《とが》めて、大目付へ沙汰して、   ある時その長持を検して生人形の女をあらはしたりといふ、この時に携はりし宮女は、こと   ぐく罰せられしかども、多勢に無勢、脇坂大人、四目八管を動かして注意すれども及ばず、   脇坂を其儘生かし置ては邪魔也とて、林水野美濃部中野等奥女中と相はかりて、感応寺の売   子坊主と談合し、医を誘して中務大輔に|鳩《ちん》を喫せしめたりと云ふ程なりし、間もなく感応寺   捕縛せられて刑に就き、連累鼠輩及宮女大勢刑を被むれり。  この中に仙三郎君とあるのは千三郎というのが正しいので、家斉の四十八男、越前を相続して 少将|斉善《なりよし》といった人です。眼病は十四歳の天保四年の事でありました。家斉が大御所様にたって 西丸へ移られたのは天保八年四月です。仏工に刻ませた日蓮の木像は、家斉将軍の似顔に出来て いるので、現に柏木常円寺の祖堂に安置されてあります。  脇坂安董は例の淡路守ですが、後に中務大輔になりました。寛政三年八月二十八日寺杜奉行に なりまして、文化十年閏十一月二十二日に退役、文政十二年十月二十四日に再び寺杜奉行になっ たのです。天保七年九月二十日に西丸老中になり、同十二年二月七日に卒去しました。当時は毒 殺されたという風聞が盛でありまして、大御所様が正月晦日に御他界、直ぐそのあとを追って脇 坂が亡くなった為に、御馴染がすぎて冥途まで御供という落首もありました。  但し感応寺は捕縛されて居りません。これは智泉院と間違えたのです。筆者の大谷木醇堂は水 戸御主殿(烈公の兄斉修の夫人、家斉将軍の十三女峰姫)の御用人であった大谷木藤左衛門の孫 で、祖父から聞いた話を書いたのですから、坊主の方の事はとにかく、奥向の事は信用出来まし ょう。 坊主びっくり招の皮  文政十二年の冬、脇坂が寺社奉行に再勤した時の落首に、「又出たと坊主びっくり|紹《てん》の皮」と いうのがあります。坊主どもは享和に延命院を退治した手際を知っていますから、脇坂の再勤が 恐ろしい。脇坂は招の皮の勉げ鞘を掛けた槍を立てて歩いた為に、それが下馬先で異名のように 云われていたのを、この落首に用いたのです。  脇坂は坊主の取締をしたければ、奥向の女中等の風儀を綺麗にすることは出来ないと思って居 りましたから、再勤後も勤役の大方針は|僧風麓正《そうふうりせい》を最先に致しました。然るに当時の坊主の不埼 は、各宗ともその極度に達して居りまして、例の河内山宗春などは、寺々の女犯を探して恐喝に 往くのを商売にしていたのです。それには幾人かの子分が働いたのですが、宗春と同様に坊主嚇 しを商売にしていた老も随分あったらしく、|御定《おさだめ》百箇条の中に、事実の有無に拘らず、寺院をゆ するについての科条が追加されたのも、この頃のことでありました。女犯で日本橋の河岸に晒さ れた坊主の数もおびただしいもので、文化文政の記録には飽きるほど書いてありますが、その中 でも日蓮宗が多数を占めて居ります。  天保五年江戸芝院内よりの文通写というものを、先年入手しましたが、それには次のようなこ とが書いてあります。  一 東照宮御別当安立院、当月(天保五年十一月)初旬尋儀有之候間罷出候様、脇坂侯より御   達にて罷出候所、直様上りや入候、右は懸り合候女、両三日|已前《いぜん》に被召捕候に付、当人御呼   出に相成候由、右露顕は先達て右院に召仕候下男、当時ヲカツピキに相成候由、右之もの右   女一条委曲承知いたし居候に付、イコンにて役所ヘ申出候由、風評に御座候。  一 坊中常照院雲晴院両寺、既に被召捕可申之所、外より内々導キニガシ申候、是も婦人一条   也。  一 四ツ谷西光寺(南寺町)同浄雲寺(鮫ヶ橋)従来不和之所、先頃大論いたし、面部にキズ   ウケ候程之次第、種々訳合有候得共、先婦人トバクエキノ由、両人共被召捕候、右に付方丈   帳場演翁も懸り合有之、御用之儀有之間罷出候様御達にて、罷出候所、直様上リヤヘ入候、   誠に御宗門汚名の事のみ起り歎ヶ敷奉存候、安立院儀は院家(大僧都)以来ノ身柄ノ人二付、   諸侯御旗本両丸(本丸西丸)奥向、尾奥向は当時念仏三昧にて、毎月七日之内、別時念仏有   之候程之事、然ル所右一条にて上繭方も老女衆もなくく御咄御座候由、念仏門帰依の心よ   り格別御歎きのよし、くれ人\も恥さらし中候。  芝院内というのは増上寺のことです。御別当といえば山内第一の格式で、二千石の寺領があり、 年頭その他には登城して将軍に逢う資格があるのです。増上寺方丈に引続いた威勢のある御別当 安立院が、女犯で収監された。それも岡引になった下男がゆすりに来たのを刎ね付けたからであ ります。丁度この時分に町芸者の検挙があったので、刎ねられた岡引が、相手の女の挙げられた のを機会に吹込むなどは、芝居にもある図でしょう。 常照院も雲晴院も三縁山三十六坊の中の寺々です。脇坂の手のよく廻ることが察せられます。 ピシピシと遣付けるので、これでは助平坊主が緊しい取締に戦傑する筈です。この文面だと、両 院の住持は寺を棄てて失殊したと見えます。  西光寺は御朱印地ではありませんが、寺中に二箇寺もある立派な寺なのに、女と賭博が根元で、 怪我をするほどの喧嘩をした上、両僧共に入獄し、遂に増上寺方丈の役者も収監されたのです。 こんな有様ですから、戒律の詮議どころではありません。「尾奥向」というのは家斉の四十五男 である尾張中納言|斉温《なりよし》の夫人、田安大納言|斉匡《なりまさ》女愛姫のことであります。 「坊主びっくり招の皮」で、脇坂が再勤したら、増上寺内のすべての寺院に梵妻が見えなくなっ たといいますが、それまで淫女のいない寺は三縁山中になかったのでしょう。尤もこれは一般の 僧行が乱れたので、何も浄土宗と日蓮宗に限られたわけではない。この両宗が盛であっただけに、 その方も凄まじかったに過ぎません。機会さえ与えれば浄土宗からも、延命院も智泉院も感応寺 も出て来るに相違ないのですが、浄土宗は既に将軍様の御寺にもなっていれば、智恩院御門主に は宮様を仰いでも居ります。威福に於て欠けたところはないのに反し、日蓮宗は大いに磯えて居 りました。家斉将軍が側近の女中等に動かされて、日蓮宗を贔屓され、殊におてう、おるり、お いと、お八重、お美代等の御中+腸の寵愛が過剰した為に、該宗の坊主等に飛んでもない野心を起 させた。従来広宣流布に懸命でありました日蓮宗の僧徒は、余りに熱して目がくらんだのか、宝 永正徳の頃から将軍側近の女儀を布教の道具として、女色で誘おうとする程になりました。そう した傾向がありましたから、日啓や日詮の徒も自分の非行を以て非行とせず、手段を択ばない布 教方法へ付け入りにしてしまいます。あとから見ると、彼等の非行は天台浄土二宗と立並んで、 将軍様の御寺になり、天下の御祈願寺にたろうとする努力と紛らわしくなるのです。 盛な感応寺造営  家斉将軍には五十五人の子女がありました。御寵女なるものも二十一人ありまして、その十八 人まで御産をして居ります。御産をすれば御腹様というわけで、将軍の嗣子ならば大変な出世で すが、そうでなくても男子でさえあれば一廉の立身です。女子を産んでは割が悪いけれども、そ れでも大諸侯へ縁組されますから、身幅が広くなる。御手付中薦になる者は、御男子御出生が畢 生の念願でありまして、いずれにも百俵か二百俵取る微禄な家から出て来る女だけに、当人は勿 論、親も兄弟もただただ産んで貰うことをのみ仰望しているわけであります。  尤も折角産んでは貰えても、成育しなければ骨折損で、本人は御腹様の待遇を受けますけれど も、親兄弟の立身出世というところへは廻り付きません。然るに家斉将軍の子女は過半数まで成 育しませんでしたから、御腹様も失望したでしょうが、その生家の連中はもっとがっかりさせら れたでしょう。感応寺興隆を決定した公子千三郎の眼病平癒の御祈薦をしましたのは、中延法蓮 寺の日詮でしたが、千三郎の御腹おいとの方は、小石川水道橋内に住む二百俵取高木新三郎の娘 で、代々の南無妙法蓮華経なのです。御男子御出生の御祈薦から始めて、御祈薦ずくめでもあり ましたが、女が二人、男が三人という子持にたれましたから、ありがたくって堪らない。別けて 盲目公子とさえ取沙汰された千三郎が、多少とも視力を回復した嬉しさは、如何程であったかわ かりません。  公子公女の成育するとしないとは、直ちに御腹様の身の上であり、その一家一門の栄枯盛衰で もあります。腹は借り物なのですから、君臣主従の間柄で、産んだ子供に呼び棄てにされ、様付 にしなければ我子の名を云えない分際でありましても、さすがに血を別けたので見れば、立派に 御成人なさるのを拝したいという情合はある。おいとが嬉しがった公子千三郎の眼病平癒は、御 腹様であるおるり、おてう、お八重等も、我身の上に引取って、ありがたさを感心致します。日 啓を親に持つお美代は勿論、元来日蓮宗信仰でありました御腹様は、将軍家の御祈薦所の出来る のを喜びました。将軍の左右にあって寵臣と云われる林、水野、美濃部、中野などの連中が、奥 向の註文を外す筈もないのです。  元禄年中に邪義を固執したというので、谷中の長耀山感応寺は東叡山へ御預けになりましたが、 今度はそれを取返して、天下の御祈薦所にする計画であります。感応寺には江戸で名高い千両取 の|富突《とみつき》がありまして、莫大な収入があるのを目掛けたわけですが、そこにはいろいろ事情があっ て、寺名だけが日蓮宗へ戻り、以前の感応寺は護国山天王寺と改称して、原地を動かないことに なりました。この経緯はなかなかの大芝居でありましたが、奥女中の出ない場面ばかりですから、 ここでは省略致します。  建造物も敷地も返って来ませんので、新規御建立ということになり、天保五年五月、雑司ヶ谷 鼠山安藤対馬守下屋敷二万八千百九十三坪を下付されまして、八月から愈々御普請が始まります。 幕府は十箇国へ御免の勧化を許し、来年までに寺杜奉行脇坂中務大輔が取蒐める。鼠山の地均し は翌年九月初旬に十日余もかかりましたが、神田八講をはじめとして、江戸中の講中は幟を立て て押出しました。そうなると又見物が群集する。殊に千本突に奥女中が参加したというのは珍し い話でありました。  この地鎮祭は中山の智泉院が承りまして、工事の落成したのが天保七年の十二月、その月の十 二日に入仏式が行われましたが、工費は金一万千四百四十七両銀十二匁八分五厘、米千百三十五 石四斗八升とあります。それから一年十一箇月おいて、天保九年十一月五日に住持日詮は入院し ました。何しろ江戸から七里、往返十四里の中山智泉院でさえ、日毎に女乗物が続いたというの ですから、それが雑司ケ谷の感応寺となれば、御参りや御代参がどれだけ便利になるかわかりま せん。寄進物の長持もあったでしょうが、衣服調度へ御加持というのがあって、それを入れた長 持は、そのままで返って来ます。女の生人形が出たのは、御加持の物品を容れた長持だったと聞 いて居ります。 長持の中の女人形 脇坂は坊主の非行を厳重に取締らなければ、奥女中の風儀を粛清することは出来ない、 奥女中 の風儀が乱れれば、彼等の身上の問題でなしに、必ず一大事を惹き起すと睨んで居りましたから、 西丸老中に陞任した後も油断はして居りません。長持の女人形というのは、奥女中自身が長持の 中に這入って、感応寺へ通ったのです。奥女中は三番勤めで、三日に一日の休暇はありますが、 外出は許されない。上の御代参は格別ですが、それには御年寄、表使等の役人があります。自分 の代参には部屋で使用する女を差向けるまでですから、外役でない女中は物詣でも滅多に出来ま せん。そこで長持の中の女人形と出掛ける必要があるのです。  けれどもそれほどの事をするには、一人二人ではいけないので、それこそ直ぐ許発されてしま います。御殿女中根性とさえいう位で、意地のよくないので通っている。大勢の利害関係を同一 にする、機会均等でないと行われないのですから、長持の中の女人形を発見したということだけ で、当時の大奥女中の風儀が一般に悪かったのが知れます。奥女中の日蓮宗贔眞の頭目には、御 年寄滝山、瀬山などというのが居りましたが、その瀬山は天保十一年六月二十四日に御暇になり ました。奥向不取締の処分であります。  御広敷に七ツロといいまして、奥女中のすべてが此処からばかり出入りする。この他には一切 出入りするところがありません。七ツロのことは拙著「御殿女中」の中に書いて置きましたが、 此処には締戸番といって、添番が日々出役します。これはそこの開閉を掌るばかりでなく、長持 |葛籠《つづら》等、その容器の何たるを問わず、目方十貫目以上のものは、内容を実見しなければ通さない ので、そのために大天秤が備えてありました。正徳度に御年寄の江島が御台様御用として、長持 へ生島新五郎を入れて、長局へ引込んだから、その後に貫目吟味がはじまったと云われて居りま す。それが久しく形式だけになって、一向貫目吟味もなかったのですが、脇坂が大目付へ談じて、 西丸御留守居へ達し、七ッロを厳戒しますと、昔の生島新五郎を逆に、女の方から長持に這入っ て密会に出掛けるのが知れたのです。  日蓮宗では天保の法難かも知れませんが、水野越前守が思い切った遣り方で、一気に奥向女中 と坊主との関係を掃蕩しましたので、忽ちに綺麗さっばりになりました。その後は世間が忙しく もなり、幕運日に迫る時期でもありましたから、御殿女中の稼ぎたい心持を紛らすのに便宜でも あったのでしょう。遂に事件らしいものを持え出しませんでした。葭町その他の男色を|漁《あさ》るのは 絶えないにせよ、それは本丸西丸の女中には出来ないことです。諸大名の奥の老にしましても、 五万石以下小さなところの女中の話ですから、葭町でも結構な御客ではありません。