下女談義 おさんの両説  今度のお話は、おさんどんを主として申上げるつもりで居ります。一般には下女と申して居り ますが、この下女という言葉は幾つもの階級の人のことを云うので、女中という言葉はそれより もっと幅が広くなります。その辺のところがよほどわかりにくくなって居りますし、材料を集め る場合にも、おさんどんばかり集めるわけには行かない。そこは多少混っていますから、そのつ もりで御聞きを願います。  中頃では水仕《みずし》とも云って居りますが、御厨子所《みずしどころ》と云えば供御の物を調えるところなのです。御 厨子棚は座敷飾で、文箱だとか楽器だとかを置くことになっているが、御厨子棚は本来御膳その 他食物をさし置くべきものと見ていいでしょう。一体厨という字は烹鮭《ほうじん》之所という註がある。煮 たり焼いたりする意味のところで、吾々にしても台所という意味に使っているわけです。けれど も御厨子棚というと座敷飾の方の言葉になって、立派なお座敷でなければ無い。水を使うという ような意味から云えば、いいようなものですが、実際水を扱う場所でもないから、おかしいと云 えばおかしい。まあ使い慣されて、そんなことになるのかも知れません。  下女をお釜と云っているところもありますが、これは釜の前で働く者だからよくわかっている。 或はお鍋とも云います。これは色の黒い女というほどの意味だから、悪口の方でしょう。或階級 の妻女をお釜と云っているようですが、これも台所の釜の前にいるから、別に不思議はあるまい と思う。  併し何と云っても、おさんどんというのが一番通っています。この「おさん」というのは、ど ういうことかと云いますと、二ッ解釈があって、どっちが正しいかわからない。その一ツは御三 の間というものが大名の屋敷にある。お次、お三の間と云いまして奥方の居られるところの次の 間、その次の間を云う。そのお三の間で働く女、ということだというのです。お三の間の略でお 三、これは無論御目見以下の女です。  もう一ッの説は、そうではない、炊嚢《すいさん》という言葉がある、その嚢の字の字音だというのです。 炊はカシグという意味で、煙が上って飯が炊ける場合を云う。嚢はたきつける意味だから、「お さん」は炊嚢の女ということになる。前の方の説にしますと武家の話ですが、お公家様の方でも、 宮中には三仲間という言葉があるそうです。が、その意味は存じません。「大塔宮|礒鎧《あさひのよろい》」の中 に「賎の赤前垂誰が教《おしえ》けん縁先の手拭ちよつと額にかりのま\たき風……お清所《きよどころ》の供御炊くお嚢 であんす」という文句があって手数のかかる嚢の字が書いてある。飯を炊いている女であること は、この文句でわかります。「おさん」という言葉の意味は何方とも決せられませんが、飯炊の ことだというだけは明かだと思います。  天明の小咄の中に、飯炊の男のことを「さん」と云っているのがあります。これと同じ意味合 いから来ているらしいのが、湯屋の三助で、やはり火を焚いて竈の前の用をしている、という意 味のようです。 飯炊は男女とも  そこで民間でも同じことですが、上《かみ》女中というものがある。上づかいとも云います。主人の側 の用事をしているのが上女中、上づかいで、それから仲働き、台所働き"はした、という順序で すが、仲働き以下を一緒に致しまして、下《しも》の女中という。上の女中を迎えて、下の女中というの です。この下の女中を省略したのが下女なのですから、下女という時には仲働きまで入るのが普 通のようになっている。  それをごく広めて参りますと、武家屋敷では目見《めみえ》以上の女、目見以下の女、ということになり ます。目見以上と云いますと、柳営ではお中繭以上です。目見以下と云っても、なかなかものも のしいので、目見以下はお次、お三の間からはじめてお末まで、その他に部屋方、或は又者と云 って、その女中に使われている女達があるので、そういうものまで含むとすれば、大変多いこと になって来る。柳営のお末なんていうものは何方につくかというと、やはり下女の方です。お末 は炊事ばかりするのでなしに、火の番や御使番もするのですが、それでも下女の方に入れて居り ます。  世間一般の振合いを見ますと、例えば旗本衆以下のところの話としましても、大勢女中のいる ところには、必ず女中頭がいる。その女中頭の監督でもするか、目付役でもするのに、やかまし 婆なる者がどこの家にも居った。その外に乳母、これは大名衆ですと、乳母は目見以上の人が多 いので、名は乳母だけれども、実際乳を上げるのではたい。おさしと云って、本当に乳を上げる 人間は別にいるのです。守《もり》も大名衆は大概男で、先代萩で有名な松前鉄之助なんぞも、男の守の 一人でありました。中から下になりますと、武家でも町家でも、同輩の中で年の多い者が、自然 同じ家にいる若い者の取締をつとめる。そういう者も下女の範囲に入ることになります。  そこで飯炊というものはどういう役廻りになるかと云いますと、これももとは男なので、女の 飯炊は勘かった。上方で見ますと、「胸算用」や「新永代蔵」や「当世乙女織」などの中に、女 の食焼《めしたき》、或はままたきという言葉があります。江戸では何時頃まで男の飲炊があったか、大分後 後迄あったように思う。寛政時分に「男女の飯焚奉公人」云々ということがありますから、江戸 の末まで両方あったのです。低い階級の女中の中で、水仕奉公というのと、飯炊というのと二種 に分れて居りまして、後にはこれをごっちゃにして使って居りますけれども、実際は違うのです。 武家で云えばお三の間の仕事をするのが、民間の仲働きの役目なのですが、これが水仕に当ると 思う。水仕奉公を飯炊と解しては、少々勝手が違うのです。 都会出と田舎出  女の飯炊は何時頃から江戸にあったかと云うと、宝暦、明和頃のものには、女の飲炊は無い、 水仕|業《わざ》ばかりだとあります。全く無かったのでもない。その頃にはまだ砂かったのです。正徳版 の「野傾旅葛籠」に「上総より這出で女の不束なる食炊《めしたき》を抱ヘ」とあるのを見れば、正徳度にも う上総あたりから江戸へ出て、飯炊をやる女があったのですが、しかしそういうのはまだ勘かっ た。どうしても都会に生れた人間は、なかなか荒い方の仕事は出来ませんから、田舎から出て来 た強い女がそういう仕事をしたんだろうと思う。  川柳たどにあります下女、あれは明和以来のものでー川柳の起原はもっと古いけれども、 「柳樽」の出来たのは明和です。「柳樽」には下女とか、おさんとかいう方が多くって、飯炊とい う言葉は勘い。たまたま飯炊とあるのを注意すると、それは女ではないようです。大名屋敷は勿 論のこと、大店や寺院などでも、飯炊は大概男であった。概して人数の多いところでは男の飯炊、 砂いところでは女の飯炊というのが通例です。米を研ぐにも大どころでは四斗樽のような桶で、 木で持えた刺叉《さすまた》のような∠な恰好のもので研ぎます。飯をたくことの労作も、大変違う。また飯 炊といえば男と聞き、おさんどんと云えば女と思う習癖もありました。飯炊といい放しにせずに、 男の女のと頭から断った時代が、此慣習への過渡ではなかったでしょうか。ですから飯炊の女が 多くなったとか、勘くなったとかいうことは、おさんどんの出所を考えさせるので、江戸市中の 女か、農村か、漁村かという問題になって来る。農村、漁村から出る女が多くなれば、成程荒仕 事に堪えますから、女の飯炊の数が殖えるわけなのです。  最初の江戸はそうでもなかったでしょうが、享保あたりになりますと、江戸市中で生れた女と いうものは、おいおい労働向きでなくなった。従って市中から出た女は奉公ずれがしていて、器 用によく働くけれども、山出しの女の働き方とは違う。奉公ずれのしたことを申しますと、上方 には二瀬《ふたせ》、たきざわりなどと云いまして、妾と飯炊と兼帯のやつが居りました。武家屋敷には、 そんな変たものは居りませんが、町家になると、「おさすりやとい」などと云って、曖昧な女が、 もういたのであります。  それですから一口に下女といううちにも、これは上中下、或は上下に分けたらいいように思う。 下の方は台所の方の仕事を主にする。上の方は世間で云い慣されている言葉で云えば腰元ですが、 あれは武家には無い言葉です。始終主婦の側に居って、外出の時はお供をする。お使にも行く。 お客があればちょっとの取持ちにも出る。それより少し年が長《た》けて、腰元と台所の真中を働くや つが仲働きですが、この腰元とか、仲働きとかいうものになると、相当条件がある。ただ力が強 くて働くだけじゃ用が足らないのです。 骨の折れた口上の使 それはどういう条件かと云いますと、洗濯、張物、縫物、というような仕事がある。縫物も木 綿は縫えるが絹物は縫えないとか、重ね物が縫えるとか、縫えないとか、そういうことが条件の 中になる。上方では針妙《しんみよう》という者があって、別に縫物をして居りましたが、1大名には御呉服 の間という裁縫の女中が居りました1江戸ではお針というのがありました。これは仲働きがや ったので、あの中にはたかなか針の利く人がいたのです。  その外に厄介なのが裁縫の裁、ものを裁つことです。近頃の言葉で云えば断裁の出来る女です が、これは足袋、袴、股引、半纏、どういうものでも裁てるのでたければ、裁物の出来る女とは 云えない。古いところでは機も織らなければならなかった。こういう仕事の外に厄介なのが作法 応対、もう一ッ厄介なのが口上です。  昔の女は主婦になる年齢でも、手紙を書いて往復することは滅多に無い。大抵口上で用を足し ます。昔の女の口上というものは長いので、使に行く側の女は、その長い長い主婦からの口上を おぼえて行かなければならぬ。そればかりじゃない、先方の返事も亦それに相当した長いやつが 来る。それをちゃんとおぼえて帰って復命しなければならぬ。これは容易のことではありません。 男の方にも奏者番、使番というものがあって、それさえ相当修練しなければなれぬのに、女達は そういう稽古をしているわけでもないのですから、実際えらかったろうと思います。それも主人 の口だけではない。自分の挨拶もしなければならたい。今日の若い人ではチョッと困るでしょう。 まして昔は男と女との教育が違うから、愈々むずかしくなるわけです。  先年面白いものを手に入れました。安永度に出来た「口上律」という本で、用文章が文例を示 したのと同じように、こういう時には何と云う、こういうことを云われた時には何と答える、と いうような口上の例が書いてあるのです。上方出来の本ですが、今日の人達はああいうものでも 見て、参考なすったらよくはないかと思う。今日の立派な御婦人方が遊ばせ言葉はやめましょう などと申合いされたとかいいますが、一体遊ばせ言葉を本当に使用し得る人が幾人あるのでしょ う。  以前は新聞の宮廷記事を別に書きました。今日は同じ恰好で同じように書いてある。もしこれ を別にしろと云っても、今日の新聞記者諸君には出来ますまい。人と話をする場合にしても、今 日の人は誰の前へ出ても同じようにものを云うが、昔はそうでなかった。もし先方が少し違った 態度で、真面目な挨拶をされたら、今日の人には返事が出来まいと思う。男でさえむずかしいの に、昔の女が使に行って、此方の口上を伝え、先方の口上を覚えて帰るということは一通りの苦 労ではなかったでしょう。芝居でする腰元のように、ぽんやりしていて済むわけのものじゃない。 普通にいう腰元なるものは、旗本以下の家、大きな町家などにああいう女がいたのですが、その 仕事は今考えるようた暢気なものじゃなかった。それがために勤まる、勤まらぬということにも たったのです。 勘定ずくから起る半季 それから勤めぶりの事、これは一季半季と云いまして、半年だけの約束で奉公するのが半季、 一季は一年です。上方では半季者が多かったが、江戸では一季者が多かった。武家屋敷でも町家 でも、たるべく長く勤めている者をよろこんで、出入りの多いのを嫌いました。それはどういう ことかと云いますと、勤めている方も長年いるのが味噌なので、あんたむずかしい家にああ長く いるようた人なら、うちの嫁に貰ってもいい、というようなことになる。一ツところに長く奉公 しているということは辛抱のいい、気の練れた人ということになるので、嫁に行く場合には何よ りいい条件でありました。嫁に行く条件の為ばかりではありません。武家でも町家でも、何年も 一ツところにいる人が評判がよかった。つまり双方が馴れて親しみが出る。親しみが出るから居 よくもなるのです。  然るに半季者がどうして出来たかと云いますと、それは使う方の倹約から来ている。使われる 方の都合ではありません。「胸算用」には「三月の出替りより飯焚を置かず」ということが書い てある。「心中大鑑」の中には「少し高きといふより面々にきをつけ、五人つかふを三人に減《へら》し、 三人を二人にし、一人のめしつかひも夏季はつかはず」とありますが、この「少し高き」という のは米のことです。夏だけ使わないというのは、暖い時分になって、働きいい時に人の倹約をす る、そういう勝手ずくのものだったのです。 「織留」を見ますと、「昔いかなるかしこき人の半季とは定め置きけるぞ」と云って、西鶴が感 心して居ります。これは本当はよろしくないことなので、雇人の移動を多くするだけのものにな ってしまうのです。  半季のきまりはどうするかと云いますと、三月、九月ということになって居って、九月の方を 後の出代《でがわり》と云って居りました。もとは二月二日が出代であったのを、三月五日に改めたのです。 この半季の出代は、天保四年正月の法令によって定められたという説がある。九月の方の出代も、 はじめ八月二十日であったのを、九月十日に改められたのです。藪入は正月と七月とにあります が、これが二度になったのは元禄頃からのようです。それからぐっと前になったら、藪入という ものは無かったろうと思う。藪入又は宿下りとも云いますが、正月のは三日間、七月のは二日間 ということになって居りました。 農事と出代との関係  ところで前の二月ということは、どういうことであるかと云いますと、二月になると耕作の準 備をしなければならぬ。三月には農事に親しまなければならぬから、その前に暇を出す。こうい うことのために最初の出代はきめたらしいのです。従って最初は農村の女をあてにしていたこと がわかると思います。  その証拠は享保以来、冬奉公に越後、信濃から出て来る者が多くなった。出て来るのが十月末 から十一月ヘかけてで、二月二日に皆帰る。ああいう雪国ですから、冬になっては戸外の用事が 出来ない。そこで農事をしまうと、一冬江戸へ来て稼いで、農事がはじまるまでに帰国して、又 農事を励むという風になって居った。この冬奉公の様子を考え合せれば、よくわかると思います。  それで出代の改正はどういうところから改正されたかと云いますと、これには二説ある。明暦 三年正月十八日に有名な大火事があった。その時に二月二日の出代を三月五日に改めた。それが 例になって、後々まで三月が出代になった、というのが一ッ。もう一ッの説はそうではない、寛 文八年二月一日に大火があって、出代をするにもさせるにも、どうに屯ならなかった。そのため 拠ろなく延期したのが例になったので、明暦以来ではないという。どっちがいいか、私は調べた ことはありませんが、とにかくこういう両説があるのです。  この改正によって、どういうことになったかと云いますと、冬だけ江戸へ出稼ぎに来て、又引 込んでは農村の働きをするということが、このために出来なくなってしまった。三月から引込ん だのでは間に合わない。しかし信越人の冬奉公は相変らず、江戸の末まで続きましたが、農村か ら来た者はひどく困るわけですけれども、この時分から長年奉公するのが両方の自慢になる、と いう風に変って来ましたし、だんだん江戸の生活が面白くなって、田舎へ帰るのが厭になる人間 が多くなった。それと出代の時期の変更とが引からまって、その人達を満足させることになりま した。これは民間の話で武家奉公人には関係のないことです。  農村、漁村といううちにも、漁村の方は時間の懸引がありません。江戸へ出て来る人の方でも、 だんだん国へ帰る気持が無くなって、世渡り奉公ということになって来た。渡り者が多くなった のです。そうして長い間独身でいるから、殊に女の方は川柳の材料になるような人が多くなった。 又実際出来合いの夫婦が多かったようです。 四五十年毎の切替り  ここでもう一ッ考えて見なければならぬのは、下女の給金の高低ということです。そこから見 て時世がわかる。私の見るところでは、四五十年毎に切替って行くように思います。ただ給金の 表の出来たものが無いので、何かで見かけるとは控えて置いたものが少しある。それを材料にす るだけの話です。  寛永年中の相場は、飯も炊けば機も織る、木も割る、水も汲むというようなのが一年二分、一 両の半分です。それから四五十年たった寛文年中になりますと、その倍額の一両になっている。 又四五十年たった宝永度には、一両から一両二分になって居ります。  この宝永度は江戸ではじめて下女の払底を告げた時で、元禄の通貨膨脹の煽りを喰って、私娼 が非常に多くなった。江戸へ出て労銀を得るという心持で出て来た者も、私娼の方が割がいいの で、その方へ引付けられた。私娼になれば、年三両乃至五両位になる。飯炊なんぞしているのは 馬鹿馬鹿しい、という風になったらしい。これが江戸ではじめて女中難を経験した時であります。  それから更に四五十年たった元文度には、二両以上ということにたった。この間には貨幣が変 って居りますから、諸物価とも大変に変って居りますが、元文度には二両以下の女中は無くなっ てしまいました。  宝暦頃になりますと、縫物が出来るというほどではないが、まあ仕立直しが出来るくらいの芸 があれば一両二分。仕立物一通り何でも出来るのが二両ぐらい、荒っぽい仕事だけの女が一両乃 至一両一分という相場になって居ります。  明和度になっても、芸なしが一両一分ぐらいのところでした。明和元年に林子平の親父が書い た「仙台間語」というものを見ますと、下総から下男下女を得ようとするのに、二十年前(寛延、 宝暦)に比べると大変勘い、土地の者に聞いて見ると、これは農村の困窮の為である、奥州から 悪い風儀が常陸へ入り、常陸から下総へ伝わって、子供一両人の外は、間引くと云って育てない、 子供が大勢いるのを見ると、あの貧乏の中で育てるのか、と云って笑うようになった、従って奉 公に出すような者は無い、と云った話が書いてあります。  下総、常陸あたりは享保度から荒地が多くなりまして、サンガi婆さんを頼まないでも、そん な事ならやって居った。早川八郎右衛門が御代官になった時、支配下の人民が殖えているという のが、その功績に挙げられて居ります。幕府もその辺を常に心配して居ったのです。産児制限位 のことなら、江戸時代からやっていたので、今日と大して変った智慧も無かったのであります。 流れ込む田舎の人達  併し又一方では、一時に人が多くなっても「すれツからしの雇人では困る、寧ろ山出しの方が いい」ということも云われている。山出しという言葉は、鉱山の方から来たものか、材木の方か ら来たものか、という詮議が残って居りますが、私はこれは材木の方の言葉で、寛文以来のもの だろうと思って居ります。  それが明和を過ぎると、又模様が替りました。殊に天明四年にひどい凶作がありまして、武家 屋敷でも人減《ひとべら》しをするようになった。給金も安永以来高含みになって、前借がだんだん多くたっ て来て居りますが、天明の磯謹の時には前貸しする者も無い。田舎がそういう風ですから、江戸 へ逃げて来た者が多いんだけれども、江戸にいる者も不景気で、店をあけて夫婦別れ別れに奉公 するというような有様である。人が余って仕方が無いから、とても田舎の人の捌け口なんぞは無 い。食べるだけでいいから使って貰いたい、というようになった。今まで渡り奉公をしていた者 などは、誰も相手にしないので、あぶれてひどく閉口した。この時は人が余って困った模様であ ります。  ついでだから申して置きますが、江戸には近所田舎というのと、ただの田舎と二ツありました。 田舎という言葉は、品川へかかって江戸へ入る人達のことを云うので、この方面から来るのでは、 相摸が一番多い。昔は箱根の関所で、女の通行を許しません。したがって、いくら下女の相場が 高くても、上方から移動することは出来ない。近所田舎というのは江戸まわりのことで、今日で 云えば埼玉県です。上総、下総辺のやつは木更津船で、品川へかからずに小田原町辺へ著いたの で、あすこに行徳河岸《ぎようとくがし》というところがありました。品川へかからずに来る者は田舎とは云わない。 近所田舎は埼玉県あたり、田舎は品川経由の者と解したらいいでしょう。  そういうわけですから、給金の工合で自由に人を集めるということも、今日のようには行かな い。寛政度は宝暦から見ると四五十年たって居りますが、芸の無いやつが一両一分位になってい る。磯饅後は田舎も苦しかったと見えて、江戸であぶれているに拘らず、とにかく江戸へ出たが る風が多かった。そういう妙なはやりは前にも田舎に起ったことがあります。この時分少し変な 調子になって居りまして、田沼さんが都会政策で煽った関係もあったかも知れませんが、男も女 も江戸や他国へ出る者が多くたった。田舎にいても江戸を見ないと話にならない、江戸を見ない ことを恥かしく思うという風が各地に起りました。武家屋敷でも領地があれば、領地の百姓の子 供を連れて来て使う。そこでだんだん田舎の人が江戸に馴れて来て、悪い時のことは考えずに、 いい時のことだけ考える。荒いと云っても野良仕事のようなことは無し、食事も米の飯が食える。 村里へ帰っても江戸にいた時の癖が残る。殊に武家屋敷にいた者は何分か威張る風があって、国 へ帰っても一頃《ひところ》の洋行帰りのように扱われる。それが後も先もなく皆にうつる。この弊害のこと はあとで申しますが、大分えらい弊害を残したのであります。 私娼になれぬ女中  天明の磯鐘の後の農村と、安永以後の農村とを比較して見ますと、実に容易たらぬ変化をして いる。この変化は宝暦の時よりもまだ大きかったと思いますが、これは何か別の機会に申しまし ょう。  文化になりますと、一両二分というのが通り相場のようになって居りますが、文化の末には三 両位に騰貴した。先ず文化年代で下女を得るには、二両から三両の間というのが中値段のように 思います。この時また人が勘くなったらしい。というのは江戸を見なくっては幅が利かないとい うので、どっさり人が出て余っているから、割合に給金は高くならない。他の物価の方から考え ますと、文化度に二両乃至三両では足りません。足し前をして貰わなければならない。これでは 稼ぎに来たんだか何だかわからないが、今日もよくあることで、遊んでいても仕方が無いから、 どこかへ勤めに出る。外へ出るには著物も相当なのを著なければならず、その外にもいろいろな 費用がかかる。あっばれどこかへ行って働いているようで、実は国許から小遣いを貰っている、 というようなのがいくらもあります。  昔もやはりそうで、江戸へ出て女中になると云っても、そう口は無い。家から金を送って貰う と云っても、そんな金は無い。困った結果私娼になってしまう。親が困っても私娼になれたいよ うな老が女中になるのです。だから文化以来の女中というものは、前とは大分質が違う。けれど もここらまでのところは、何と云っても一両二分が通り相場で、「柳樽」の中にお竹大日如来を 詠んだ「仏とも知らず一両二分で置き」というのがある。これは久良伎君の方の畠ですが、川柳 の方の人にお願いしたら、いろいろいい句があろうと思います。  文政度になると又様子が違いまして、文政八年には飯炊が二両二分、今の仲働き、側づかいと いうような女が、三両、二両二分、一両三分、一両二分、ということになっている。文政度には 台所働きでない方が、概して安くなって居りますが、これは私の思わくを申すより、皆さんでお 考え下すった方がよかろうと思います。 佐久間町火事の崇り  文政度でまだ気をつけなければならぬことは、本当に働く年齢に達して居らぬ小女の給料が一 両になっている。これは文政八年の話ですが、文政度には概して給料が上っているのです。文政 十二年三月に佐久間町火事というものがありまして、田舎出の女中連が大分焼け死んだ。これは 土地に慣れぬせいもあったのですが、当時は麹町辺に相摸屋という大きな口入屋《くちいれや》があり、その他 にも女中ばかりの口入屋がありまして、そこで扱うばかりでも年に八九百人はあった。そのほか 下総、上総、房州あたりから来るのを入れたら、大分の数になりましたろう。毎年それだけ大輸 入があったのに、佐久間町火事以来は、どこの村方からも女を出さなくなった。そういうことで 又人が払底して、給金も大分高くたったのです。  天保二年の馬琴の日記を見ますと、あれは妙な男で日割が書いてある。一日六十六文、一箇月 一分と四百文、一箇年で三両三分、今まで見た女中の相場を書いたもので、こんなに高いのはあ りません。これは全く佐久間町火事が崇ったのです。そこで天保十四年に法度《はつと》が出て、女中の給 料は一両二分から二両限り、それ以上はならぬ、ということになった。例の水野越前守が倹約政 治の立て前から、こういうことをやったのです。  嘉永度が三両1≡二両と云いましたが実際は三両でした。安政度になりますと、やはり三両 ぐらいでしたが、家によっては仕著《しきせ》を出さない。昔から半季者には仕著が無いので、一年いない と貰えません。一年居っても最初の半年はくれない。長年《ちようねん》すると夏と冬と二度貰えるのです。そ こへ大地震があった為に、又人が来なくなって、女中の相場も高くなったようであります。  幕末のところは江戸が騒々しいので、思うように人が出て来ない。やはり高いままで居りまし た。私がおぼえてからでも、明治十二三年頃には、高くなったと云って十円ぐらいでした。女中 の給金が月並になって、その後は一円五十銭ぐらいでしたろう。それからあとは諸君も御存じだ ろうと思います。 食につけば主従  雇入れをする時の模様を、少し申して置きましょう。出代の日が来ますと、口入屋が得意先を 廻るのです。前にも申しました通り、知行のある者-千石以上の人は領地から連れて来るので、 口入屋の手にかからぬ場合が多い。絶対に無いとは云えませんが、まあ砂いと云っていいでしょ う。下女以外の奉公人でも武家は武家から連れて来るのが多いし、町家は町家からの場合が多か ったのです。  これからが或は諸君がびっくりされるかも知れないと思うのですが、最初目見に連れて来ます と、よほどいい家にしましても、そういう身分でない家にしましても、女の雇人は女の使うもの だから、亭主野郎はそれに係り合わない。奥様、御新造様、お上《かみ》さん、とにかく主婦がそれを見 る。宿許はどこで、実家の大家さんはどこ、前の主人があるかどうか、あればそこはどういう事 で暇を取ったか、給金は何程で、前借はどうか、というようなことを聞く。それから食事をせよ と云って、食事につける。この食事につくということが大変やかましいことなので、女の場合ば かりではない、男でもそうですが、ここで飯を一遍食えば、契約してもしないでも、その家の雇 人ということになるのです。飯を食ってから、そのまま帰っても、消えてなくなっても、それは 大問題である。男の雇人なら手討になる。女でもなかなかむずかしかったものです。  伯夷叔斉が周の粟を食わずと云って、遂に首陽山で餓死した、という話がある。食につくこと がそれほど重いという例を、伯夷叔斉を引いて講釈したものですが、一遍でも人の飯を食えば、 どうしてもその家来にならなければならぬ、先方でも、ただ飯を食わしたのではない、家来だか ら食事をくれたのだ、という大変やかましいことにたるのです。  それから飯を食わして一日使う。縫物、応対、作法というような様子を見て、明日も来いと云 って帰してやる。そういうことが五日から十日ぐらい続きます。その間気に入らぬことも無しに 続くと、今度は本人の方から、幾日幾日相勤めましたから御請状を願います、と申出る。よかろ う、請状をしたためるがいい、ということになって、それから請状になるのです。  こういう風で明和、安永頃までもありましたが、その後はなかなか食についた位のことでは、 主従の分際が出来たと考える者はない。一日働いて、それできまらなければ、雇人の方で御免蒙 りますから、そういう古風は自然なくなりました。併し明和、安永以後でも一日だけば勤めたよ うです。 朱舜水の歎息 請状の書き方は大方きまったもので、いろいろなものにありますが、用文章に出ているのを一 ツ挙げて置きましょう。       奉公人請状之事   一此誰与申者生国より能存知、燧《たしか》なる者に付、我等請人に相立、当何ノ何月より来ル何ノ何    月迄給金何程二相定、貴殿方|江《へ》御奉公二差出中候処実正也、御取替として金何程、唯今御    渡被下、健二請取申候、残金之儀は追々二奉公人江御渡可被下候、若《もし》此者御気二入不申、    御暇被下候はば、右之金子返進致、御暇申請べく候、相定の内、此方より御暇申請間敷候   一御公儀御法度の儀は申すに及ばず、御家の御作法相背かせ申間敷候、取逃欠落仕候は父早    速尋出、貴殿江少も御損毛御苦労相懸申間敷候、長病相煩候は父、人代にても給金にても    御差図請差出可申候   一宗旨の儀は代々何宗にて何町何寺旦那に紛御《まぎれ》坐なく候、寺手形請人方江取置候間、御入用    の節は差出可申候、惣て此者儀に付、何様の六ヶ敷出入等|出来《しゆつたい》いたし候共、我等引請|急度《きつと》    将明、貴殿江少|茂《も》御苦労相懸け申間敷候、此者相定以外、何ヶ年御召仕被下候共、此証文    を以我等請人二相違御坐なく候、後日のため請状伽て件の如し                              何町何丁目誰店                                 請 人    誰                                 人 主    誰      何屋何左衛門殿  なかなか面倒なものです。はじめの何ノ何月というところへは、その年の干支《えと》が入る。「御取 替」というのは前借のことです。この請状は町家の場合ですが、第一に身許、宗旨、給金、前借、 あとの支払の事、という順序に書いてある。中途で暇が出た時、弁償する方法が二ツあって、金 で返すのと、人代りを出すのとになっている。明暦、寛文あたりには、ここのところが少し違っ ていまして、欠落した場合はとにかく捜し出す。人代りを出すという場合は、請人自身か、或は 自分の埣、妻、娘を差出すことになって居りました。又当人に不都合なことがあった場合は、請 人に云って下さい、請人がなお御満足の行くように取計らえなかった場合は、当人同様の処分を 受けます、ということでありました。  そこで例の朱舜水などは、明暦度の江戸の主従の工合を見まして、もし支那があの通りであっ たならば、明は亡びなかったであろう、と云って歎息して居りますが、ここに挙げた請状の時代 は、もう大分工合が違っているようであります。 証文がものを云う  それからこの証文ですが、一通の証文を書くと、何年そこに勤めて居っても、書替えないでよ かった。その間半季でも抜けて、帰り新参になると証文を改める。この古風は後には大分衰えて 参りましたが、明治の初め頃まで、証文を改めずに人も置いたし、勤めても居ったようです。  もう一ッの変化は、後になるほど証文が重いことになっている。以前は使おう、使われましょ うで雇われ、食につかせるというだけでも主従の分限《ぷんげん》がきまったのに、それが衰えるに従って、 だんだん証文がものを云うようになりました。「道中評判敵討」の中に、「此請状を汝へやる間、 戴いて帰れ、元より請状がなければ、主でも家来でもなし」という文句がある。「三日太平記」 の中には、松下嘉平治が此下東吉郎に請状を返してやる、これで主従の縁が切れる、という風に 書いてあります。どうも寛政以後になると、請状というもので身分がきまる、と考えたらしいの です。  前には食につけるだけで身分がきまったが、後には請状がものを云う。享保以来法律の世の中 にたりましたから、すべてにこういう風が行き亙って来たのでしょう。此請状について、寛延度 に書いたと思われる「諸聞集」に、   召仕ヒ抱へ候ハ請状ヲ早ク致スベシ、或ハ親類ヨリ来候トモ、又帰リ新参ニツトメ候トモ、   気ヅカイノ無キ奉公人ナリトテ請ケナシニヲクトキハ、時スギテハ請状モナリガタク、其通   リニサシテヲク所二、長病ヲ煩フカ、或ハ頓死ナドアルトキ、請人ナキユヘ、コトノ外コマ   ルコト有モノナリ、公義ヱ申上ルニヲヨビテ、御奉行所ニテ仰セラルルハ、請状ナクバ宗門   ノ義知レマジ、是一ケ条重キコトナリトテ、主人カヘツテ御シカリニヲフモノナリ、シカレ   バ請状ト云ハ、取替金バカリノコトニナク、寺請状ノ事ヲ以テ第一トスルトコロナリ。  取替金というのは給金の前貸の事ですが、請状はそればかりのものでないのが、この記述でよ く知れます。請状に寺手形、或は寺証文ともいう、菩提寺から出す宗旨の証明書のことを事々し く書いてある。その理由も是で明白になります。請状のみならず、証文の物をいう時世になった のは、殊に享保以降が際立って居ります。従って証人というものの吟味も厳重になります。その 事を「諸聞集」に書いて居ります。まことに法律の世の中らしい。   柳ノ事ニテモ証文ヲ取ルベキ事ハ、タトヘ念ゴロノ中ナリトモ、証文を致シ、証人ヲ立ルモ   ノナリ、若シマチガイ出来タル節、サシ向ヒニテハ万事ラチアカヌモノナリ、其節ハ証人ヨ   ロシク取ハカロウ老ナリ、依之証人ニラチノアカヌ者ハ取ラヌモノナリ。 出代時が来て、暇を貰うことになりますと、引取証文というものを請人が出す。それもきまっ た文句があるのです。     引取一札之事   一我等請人二相立、貴殿方江御奉公二差出置候誰儀、此度御暇被下、当人井衣類共御引渡被    下、燧二引取申候、然ル上は以来、此者儀二付何様の儀出来候共、我等引請、貴殿江少も   御苦労相懸申間敷候、後日ノタメ伽テ如件                                何 町    誰                                   引取人誰    年 月 日        何屋何之助殿  もう一ツは雇入れた当時に、その者の請人の家主に、雇主から届ける証文がある。この家主と いうのが、落語でお馴染の大屋《おおや》さんです。     御店ノ内誰ト申者請ニテ娚奉公人   召抱候、御届として此の如く候、御支配方ヱモ御帳面タノミ入候    月  日                     何 丁   何 ヤ 誰 |店《たな》というのは、その家主の支配下のことで、御支配方というのは名主のことです。もし何事か あって出訴でもするという時分に、相手方の家主に知らんと云われては困るから、請人の家主宛 に出して置く。享保以来、法律の世の中になったので、証文もこまかく精《くわ》しくなった。「何の中 でもきまりはきまり」というのも、その時分からの諺だろうと思います。  証文を入れると、男はその晩に来る。女は翌晩です。この時分は無論主従の恰好ですから、平 等ではありません。今日は平等の世の中だから、昔のようにやられたら、双方が困るに相違無い。 新参七十日と云いまして、どんなあばれ者でも七十日は神妙にして居りました。 武家かぶれ  明暦の頃までは、針妙、腰元というような女は、かつぎを著て居りました。その時々の衣裳も 五ツ六ツは持っていたし、地なしの著物を持って居た。男なら尉《の》火|斗目《しめ》の式服と云ったようなもの で、無地の著物です。ごく低い台所働きの女でも、木綿の金入の帯は持って居った。これは農村 からひょっくり出た者でたい、という証拠物だったのです。  万治頃になりますと、かつぎを著る者はなくなりましたが、皆さんが浮世草子の挿画で御覧の 通り、女が外出の時に顔を丸出しにしていることはない。綿で裏《つつ》むか、覆面をするかして、その 上に玉ぶちの笠をかぶっている。さもたければ綿帽子に帽子針をして居ったので、明和頃まで出 代時になると、女の綿帽子を売りに来た。実際かぶりはしないけれども、持ってはいたのでしょ う。この時分の下女は農村、漁村から出て来たのではなさそうだし、頼む方の人も一般庶民とは 行かなかったろうと思う。女中の数も少く、頼む者も少かったのです。  享保、元文度には側づかいの小女まで振袖を持って居った。この小女は年一両の人ですが、振 袖ぐらいは持っていて、節句には著たのです。  宝暦、明和頃の小さい旗本衆のところでは、台所働きをする老でも、お供の数に連れて行く時 は、貸看板と云って黒木綿の袷を著せる。下はどんな著物を著ていても、それで皆揃うから、貸 看板と称したのです。この時分はチョッとした武家屋敷につとめる者も、茶の間以上になります と、自分の白無垢、裾模様を持たぬ者はなかった。草履は中ぬきと云って、後先が畳で中に切の 張付けてあるものを穿きました。  明和、安永の頃の一般の下女に対する仕著《しきせ》は、木綿の五所紋《いつとこもん》でした。仕著ということは上方か ら来たので、元禄以降のものです。これは一般のことですが、多少武家かぶれをした、思い上り をしている風が見える。その時分は女中達の方でも、飯炊をすることを不満に思って、「ままは 食えども、飯は炊かぬ」というのが、一ッの自慢であったようです。  これが坊主なんかの方ですと、飯炊という役は、たかなか重んぜられている。飯を炊くところ は典座寮というのですが、一番上が首座で、その次が典座、食物は人の命を繋ぐ大切なものだか ら重んじるのです。お歴々でも夫の食物は妻が世話をする、ということになっている。そんなこ とは知らないから、明和、安永度には、ふざけた考えを起すようになった。今日は職業に貴賎な しということになっているから、その辺のことは却ってよくわかるでしょう。 誤れる悪平等  そうなるとすべての事が変になるので、銀の管は明和以前になかった。大概銀流し、鍍金《めつき》です。 明和には女中達が塗った下駄で革鼻緒のやつを穿く。後には天鷲絨《ぴろうど》の鼻緒などを穿くようになる。 足袋は始終穿いているという風になって来たのです。  そうかと思うと明和、安永度までは、宿にいる時に売色をするので、宿下りを買いに行くとい うことがあった。宿下りの間は好き勝手た事をして、色んな物を食う。見物もして歩く。宿にい れば口入宿に宿賃を取られるので、拠ろなしに売色をやる。こういう手合《てあい》に向って、貞操論なん ぞをしたって仕方がたい。下女の働きが儲ける事に在るならば、何をしても構わない、というこ とになり易いのです。  化政度になりますと、木綿の著物を著ていながら、二分も一両もするような前掛をかける。著 物は二朱か一分せいぜいのものでしょう。前掛は著物が汚れぬためのもので、座敷ヘかけて出ら れるものではないのに、そんたアベコベなことをやる。この時分になると、小身者の武士などで は、外出の場合にはどっちが主人かわからない。髪のものは竃甲、絹縮緬の衣類、天驚絨や羅紗 を張った中ぬき草履、と云った様子でありました。町家のお上さんのお供でも、芝居見物の場合 などは、娘だかお供だかわからたい。享保度に常盤潭北が、今時の奉公は栄耀のようだ、と云っ て歎息して居りますが、その眼で文化、文政を見たらどうであるか、まして今日の様子を見せた ら何と云うか、時世の変遷もまた甚しいと考えざるを得ません。  また化政度は言葉遣いがよほど丁寧になっている。それも子供が親に対し、家来が主人に対し て丁寧なのじゃない、親が子供に対し、主人が家来に対する言葉が丁寧になっているのです。親 や主人が命令するのでなしに頼む。子供や家来はそれに対してヘイとか、ハアとか云わずに、オ オという返事をしかねたい。こういうところを見ますと、人を大切にするのは結構だから、言葉 遣いも丁寧な方がいいけれども、主人はどこまでも主人たるの身持が無ければならぬ。それが大 儀だから、自分の方から辞を低くすると、子供や家来の方が却ってぞんざいになるのは、面白か らぬことだと思うのです。  この時の状況を書いたものでは、文政三年に出来た「当世医者風流解《とうせいいしやふりげ》」というものに、雇われ る方から雇主に註文する様子が書いてある。これと前に申した古いところのものと比べたら、応 対の模様がひっくり返しになっていることがわかるでしょう。これは悪平等です。親は親、兄弟 は兄弟、その差別がちゃんとあって、それが平等であることを知らぬから、そうなるのでありま す。 雇われる方からの註文 「医者風流解」の文句はそういう意味で面白いから、原文のまま挙げて置きましょう。  女子衆の出替り目見へには「御使がござりましてはどふもなりませぬ、「お供が度々ござり   ましてはどふもなりませぬ、御子様はいつちいやなものでござりますがどふござります、   「三人あるわひの。   「ヘイお一人でさへいやなものに、沢山そうにお三人もござりましてはつまりませぬ、定め   てお乳母どのがござりませふ、是が又とんと馬の合はぬものでござります、シテおば上さん   がござりますかナ。   「アイよけいはないが、ひとりあるはへ。   「ハイこれは、どことも六かしい、やかましいものにきわまつてござりますれども、ならふ   なら、どふぞほり出してしまはれませぬか、ソシテお宗旨はマアなんでござります。   「ウなぜ宗旨を尋ねてじや。   「ヘイ門徒宗でござりませねば、何角《なにか》に世話が多ふてなりませぬ、シテ又店の若衆は格別無   細工な男はござりませぬか、中戸のしまりは、きびしいことはござりませぬかナ、藪入十日   になさつて下さりませ、からだ少しよはふござりますゆへ、月に十夜さばかり、灸すへにま   いらねばなりませぬ、つとめろとおつしやればつとめませふが、お子達とば\様は出してお   仕舞なされまし、など\いふ。  門徒宗は盆が来ても聖霊棚を飾らない、家々で盆供が無いから世話が無い、というのです。中 戸のしまりというのは、奥と表の境です。「藪入十日」というのは、藪入の日を変更して貰いた い、というのです。 「医者風流解」は更に続けて、   昔の女子衆は目見へして、奥さんのお気に入ればよひが、若しお気に入らねば外聞がわるい   やうに思ふたものなれど、今は主人の方から早ふ置付ねば、世間からさまくの取ざたすれ   ば、置付るのが遅ひと外聞がわるひやうに思ふ時節なれば、是むかしと今とよつぽどの違ひ   なり。 と書いてある。こういう模様も、その時代の人は驚いているようですが、今日と思い比べたらど んなものでしょうか。固《もと》より時世も違いますが、私のうちで頼んで置いた人にも、随分いろいろ な註文を出された。大抵な事はよろしいと云って承知したのですが、それでも行ってしまった人 の申分に、釜の蓋が重いという苦情のがありました。 お竹大日如来  丁度その頃にお竹大日如来の開帳がありました。お竹大日如来のことは、寛文年間の事を書き ました「玉滴隠見」と、寛延二年に出た「新著聞集」の往生篇という中に書いてあります。後に は芝居にもなり、草双紙その他にも取入れられている。「下手談義」の中にもちょっと書いてあ りますし、黄表紙にも刊年不詳の「於竹大日利生記」というのがある。合巻では、文化七年に三 馬の「於竹大日忠孝鏡」が出、文政十二年には一九の「於竹大日如来|稚絵解《おさなえとき》」が出て居ります。 化政度になって、女中達が勝手のいいことを云い、得意になっている際に、お竹大日如来が降っ て湧いたようにはやり出したのであります。  この話というのは、大伝馬町の名主に佐久間平八という人があって、その家の飯炊女にお竹と いうのがあった。これが不断念仏をよく唱えて居りまして、性質も慈悲深く、自分の食物を取っ て置いては人に施し、自分は流し許に袋を下げて置いて、飯粒や何かの溜ったものを無駄にせず に、粥にして食って居った。自分の貰った給金でも、気の毒な人が来ると施してやる、という風 でありました。  この女が或時頓死して、程なく蘇《よみがえ》ったのですが、どんな風であったかと聞きますと、何だか 広い野原のようなところを歩いて、黄金の宮殿のあるところへ行き著いた、中へ入ろうとすると、 そこには仏様がおいでになって、これはお前のために持えた部屋だ、ここへ来なさい、と云って 結構な台のところへ連れて行かれた、何だか夢を見たような心持であったが、阿弥陀様が自分を 救って下さる予約をされたような気がする、というので、愈々一心に念仏を唱えまして、延宝八 年五月十九日に死にました。墓は浅草松葉町の善徳寺にある。「玉滴隠見」では三月二十一日に 死んだとなって居りますが、とにかくこれは大変結構な、江戸時代あって一人といういい女中で ある。その開帳も度々ありましたが、化政度以来は殊にお竹大日如来の開帳が頻繁になったよう であります。 考証吟味は無用 元文五年四月に印行された、お竹大日如来の縁起というものがあります。これは羽黒山の黄金 堂というところに、江戸の佐久間家からお竹の木像を寄付したので、黄金堂の別当である玄良房 という山伏が、その木像の御守をしている、そこから出た縁起です。寛文年間に書いたものだと いうのですが、それによると、前の話とはまるで伝説が変っている。これは別に考証して見る必 要は無い、元文以後、殊に文化以後の世の中に都合のいいように、振替えられたものだろうと思 います。  元和、寛永の頃、武州比企郡にいた聖《ひじり》が、正身の大日如来を拝みたいという願を起して、羽黒 山へ登って、この玄良坊へ泊った。そうして信心して居りますと、三晩続けて同じ夢を見た。正 身の大日如来が拝みたければ、江戸大伝馬町の佐久間の家の下女を見ろ、という御告げがあった ので、その話を泊っている坊の主にしたところ、実は私もそういう夢を見た、あなたはそういう 心願があって登山されたのだから、そういう夢を見るのも不思議は無いが、私まで見るのは不思 議だ、それなら一緒に大日如来を拝みましょう、と云うので、二人で江戸ヘ出て来た。  それから佐久間の家へ行って話をしますと、佐久間夫婦も、自分のところにいる下女は下女で はない、仏だという夢を見ている。平素から慈悲善根を積む女だとは思うが、どこが仏だかわか らない、あたた方は山伏だから、そういうことはわかるに相違無い、気をつけて、あの女の様子 を見たらよかろう、ということでありました。  その晩、二人がお竹の寝ている寝所を窺いますと、別に変ったことも無いが、全身から光明を 放って、明るい位に見える。これが正身の仏様である、というので山伏二人は涙をこぼして立去 りましたが、お竹は自分の様子を窺われたことを知った為か、翌日から一間に籠ったきり出て来 ず、四五日の間続けさまに称名《しようみよう》を唱えて居りましたが、寛永十五年三月二十一日の暁に大往生 を遂げた。その部屋の中は何とも云えぬ結構な匂いがして、幾日たってもそれが抜けなかった、 というのです。  そういう因縁がありますので、佐久間の夫婦も感心致しまして、台所に働いていたお竹の木像 を作って羽黒山へ納めた。開帳仏が江戸へ著く時と、山へ帰るときには、必ず佐久間の家へ請待 するのですが、玄関から持込むと、重くって入らない。中の口から入ると、軽々と楽に入る。幾 度来てもその通りである。主従であった因縁を、木像になっても忘れぬのだ、と云われて居りま した。  この話はあまりこまかく吟味せずに、文化、文政度の人達が主従というものをどう見ていたか、 その時世に何故お竹大日如来というものが持出されたか、というところへ重きを置いていただき たい。いろいろな考証などがあっても、そんなものは深く意を留める必要は無いと思います。 当世阿多福面  下女の風儀を話すについて、先ず二ツばかりの小説の梗概を中上げようと思います。  最初の方は狂歌で有名な平秩東作《へづつとうさく》、この人が粥腹得心《かゆばらとくしん》という仮名をしまして、安永九年に「当 世阿多福面」というものを書いた。これは貝原益軒の名前をもじって、教訓物になぞらえた小説 ですが、その体裁は或下女の自叙伝風に仕立ててあります。その大筋を申しますと、東上総で生 れて、家が貧乏だから、十歳の時に奉公に出される。例の行徳船で小網町へ上って、人宿の世話 で新堀の商家へ奉公に出た。その家のお上さんというのは三十ばかりの女でしたが、これは今ま で親の手許で育った者が、初奉公に出たのだからというので、大変憐みをかけて、いろいろ世話 を焼いてくれますし、賄婆もお上さんの云付で、世話を焼いてくれる。このお上さんは病身であ りまして、始終医者にかかって居りましたが、この女の子の指が痩指というやつで、工合の悪い 時に、この子が押すと希代《きたい》に癒る。それで夜の明けるまで癩を押す、というようなことが屡々あ りました。  そういうことからだんだん愛を加えられて、いつも膝元へ呼んでいろいろな話をしてくれる。 女の心得になる書物だというので、「列女伝」の中から女の嗜《たしな》みになる話をしてくれる。歌の詠 み方、茶の湯、香の道、そういうものも一わたり話をしてくれるので、習わないでも大体を心得 るようにたった。手習、針仕事、これは実際やりましたから、相当出来るようになったらしい。 算盤もお上さんが丹誠してくれて、やれるようになった。この時分の女は算盤の出来ないのが多 かったのですが、この女は自分でもおぽえたいという心がけがある上に、お上さんが丹誠してく れたので、一通りの用事は出来るようになったのです。  どうかこの家に使われて、お上さんが長く生きていてくれたら、と楽しんで居るうちに、十六 の年の七月にお上さんが亡くなってしまった。それまでお上さんで持っていた家だから、それが 亡くなってはどうもならぬ。主人はぼんやり者であるし、息子は若い。万事番頭まかせにしてい るので、忽ちのうちに店を閉めなければならぬようになり行った。それから深川亀島町の裏長屋 に逼塞して、このおふくという下女と、長いこと家にいた爺やの久介と、主従四人になってしま った。けれどももう商売も何もしないでいるから、その日その日に困るようなわけで、おふくは すすぎ洗濯をして、その賃銭で主人をはごくむようにする。久介爺さんもこうしては済まぬから、 何とかして手助けをしなければならぬ、というので、二百文だけ本手《もとで》を貰って、子供の玩具《おもちや》にす る巻藁人形を売って歩く。これが最初の日から五十文、七十文位の商売がある。後には二百文、 三百文ぐらい儲かるようになった。おふくの稼ぎと、久介の稼ぎとで、少々ずつの事ではありま すが、残して行けるようになった。そうしているうちに、息子が十九、おふくが十七になりまし た。この忠義伝も何だか腫《なまぐさ》くなって来ますが、十九の時には少々貯金が出来るようになり、近 所に酒屋の売据えがあったのを二十両で買った。これで久介とおふくが働いて行くと、幸いなこ とにはなかなか商いがあるようになりまして、酒店として取付いて行けることになった。それか ら二十八の時に若主人の方に嫁を貰って、自分がそこにいてはいけないから、深川八幡町に隠居 した、というのであります。 江戸奉公無用  この女は、どうぞ世間の若い娘が、不真面目な、いい加減ぶしのことをしないように、という ので、若い女を感化しようとして歩く。方々でいろいろな話をして歩くうちに、この頃世間で一 番困ることは、下女が不身持で始末にたらぬばかりでなく、若いお上さんのお供をして行ったり する場合に、今美しい男があなたのことを見ていました、というようたことを云って、そそのか す。必ずしもそそのかすわけでもたいが、間違いをしでかすことが屡々ある。こういう悪い風が ありますのは、自分が我盤をするのに都合がいいからで、そんなことを云えば自然貰い物なども ある。そこでこんな風になるのです。  有名な白木屋お熊の事件にしましても、お熊が間男《まおとこ》をして婿を殺す。その手先を下女が働いた ので、下女が二人まで死刑になって居りますが、その後もこういう癖が下女に残っていたものと 見えるのです。これが増長して行った結果、前に御話したように、遂に文化、文政になって、お 竹大日如来の開帳をしなければならぬようになったのですが、それより前にこういうものを教訓 物として持出す必要があったことは、大いに考えなければならぬところであります。「医者風流 解」に現れた下女の様子は随分ひどいものですが、「当世阿多福面」は、それより六七十年も前 のものになります。  宝暦度に書きました「楚古良探《そこらさがし》」の中には、こんなことが書いてあります。   娘子供は必ずく江戸奉公無用、在所へ帰て何の用にも立申さぬ、朝夕顔の彩色にばかり隙   をついやし……結構|尽《づくし》の都へ出て来て目が奢《おごり》、心が雲上《いたり》、身がなまけ、眼口耳鼻身奢らぬ所   一ツもなく、世界の益とならずして却て世の邪魔となり、近辺の若ひ者がそ上る、必ずむす   めども都の水呑せず、すぐに在所で相応にかたづけや。  江戸へ奉公に出すと、在所へ帰っても役に立たない。目も奢れば心も高くなり、仕方の無い賛 沢者になってしまって、身体はなまけ放題である。眼口耳鼻身悉くが奢りの.一方に傾いて来る。 だから江戸奉公をさせたところで何にもならぬ。ただおしゃれにたって、近所の若い者の目につ いたりするから、ろくな事は無い。都会の水は飲ませない方がいい、というのです。  この外にも、こういう事を書いた人はありまして、言葉遣いがいくらかよくなる、折り屈みが いくらかザマがよくなる、という位のもので、百姓の家には用の無いものである。今日の女学校 へ行った者が飯を炊くことも知らず、著物一ツ縫うことも出来ない癖に、おちゃっびいで、生意 気で、小理窟を云うのと同じようなもので、江戸へ出るということが誇りになる。帰って来れば それが味噌になる。つまり今日の人が学校へでもやるのと同じことで、出もすれば出しもするの でした。  農村は昔から早婚の風があり、漁村は殊に風儀が悪い。そういう者を早婚させずに、不行儀勝 手なままに都会へ出しますから、どうしても奉公先で出来合の夫婦が出来る。家へも帰られない し、江戸の人別にも入ることの出来たい住民がだんだん殖えて来る。江戸の風儀がお蔭で怪しく なって参りました。その代り江戸の流行が早く農村へ入って、大分農村を華美にしたのでありま す。 思い上りした心持  宝暦度までは、江戸の流行物は三四年後位に田舎へ移って行ったらしく思われる。宝暦度に拝 伏念仏を唱えました法忍和尚の書いたものに、町方のつかい女の風俗は売女に同じだ、というこ とがあります。これを証明する材料は、御披露したくてもありませんから、法忍和尚の書いた言 葉を読んで、御想像に任せたいと思います。  飯炊に出て来た農村漁村の娘でも、相当気位が高い。江戸見学ぐらいの気分のやつが多いので すから、天明九年の小咄「ふくら雀」の中にこんな話がある。      豆  腐   下女だんくと出世して、飯炊を使ふやうに成り、台所へ出て「コレさんや、何やら自いも   のが、半丁のせてあるが、それは何といふものだ。  ここに「さん」とあるのは下男のことです。この小咄の心持は、さし当り入用でない。ただこ れによって、下女が下男より上になった風が見える。お上さんの御晶眞があるからではあります が、一体下女というものは江戸廻りから来るのが多いのに、下男は遠国他国から来るのが多いの です。この頃になりますと、遠国他国という言葉は、武蔵の国でないというだけの意味じゃない。 トンマとか、間抜とか、わからずやとかいう意味があるので、後々まで江戸では悪口の一ツにな っていまして、あれは遠国他国の人間だから、と云ったものです。江戸にそぐわぬから、下男の 方が下廻りになる。下女の方が威張るようになりましたから、益々思い上る風を生じたのです。  安永五年の小咄「鳥の町」にも、   「オマヘはどこだ、「アイわたしは、びろうながら葛西《かさい》。 というのがある。これなどもやはり思い上りの一ツで、肥船《こえぷね》のことを葛西船と云った。どうして 葛西に因縁があるかというと、御本丸の下掃除は葛西の権左衛門という大百姓が承っていたので、 これが肥取の親方ですから、肥取というと、どれも葛西から来るもののように思ってしまった。 だからそういうところの生れであることを恥かしく思う。その時分の近廻りの農村は、皆江戸へ 来て肥を持って行ったのですから、何でもないわけでありますが、思い上りをしていると、何だ か恥かしいような気がする。これなどは、その証拠になるいい咄だと思います。 浮世風呂の下女  農村の女の江戸奉公は外聞である、今日の言葉にしたら、虚栄心とでも云いますか。農村の女 が江戸へ出るのを、高等女学校へ入るとすれば、江戸の町家の女が武家奉公をするのは、女子大 学へ入るようなものでありました。親もそうたら、本人もそういう気持だったので、働かなけれ ばならぬから、拠ろなく働くけれども、肚の中はそういう風になっていた。無論貰っただけの給 金では足りません。親許からの足し前が、どの女中にも必要だったのです。  三馬の「浮世風呂」は文化六年の版ですから、前の「医者風流解」とつき合して下されば丁度 いいと思いますが、あの中に水ぎれの時に担桶《にないおけ》で水をかついだ、と云って、ひどく余所《よそ》の女中を 賞めているお上さんがある。そんな事は、それほど珍しい話でもないのに、そういうことを云っ ている。そうすると、雇主であったお上さんが、あれは半季で置いたのですが、もう縁付けまし た、と云って自慢に話している。あれはよかったけれども、今度の女中と来たら、叱れば物に当 って壊す、だませばつけ上る、朝飯を済すと二階ヘ上って、半日もかかって髪を結っている、水 汲に出れば二時間もかかって、女中仲間と主人の家の悪口を云うばかりでなく、長屋中の若い男 を相手にして、とち狂ったりする、紅白粉をべたべたくッつけて、著替も無いのに、釜元で働く のにもいい著物を著る、という風である。足袋も穿き棄てにするし、前掛も四尺切って二布《ふたの》にす ればいいのに、七尺買って三布にする、紐も小切《こぎれ》を集めて縫う気が無いから、別に切れを買わな ければならぬ、そればかりじゃない、前掛の地も松坂木綿は厭で、唐桟留1これは舶来品です ーにする、紐もわざわざ縮緬の幅広のを買って来てつける、嫁が中幅縮緬を二布にするので、 起居にびらびらする一そういうものは人の目につかぬようにしたければいけない、と云って叱っ ていると、今度は下女が木綿の長ゆもじをしめて、同じようにびらびらさしている。1文化に はこの小言の通り、いろいろ様子が変って来て、揮たども無色のは無くなった。これについても、 いろいろ話がありますが、手間がかかって仕方がないから省きます。小言はまだあるので、手ま めに洗濯して、夜なべに継物をして置けば、さっばりしたものが著られるのに、稼れたものはそ のまま葛籠の隅に突込んでしまう。自分の著物でも縫い直せと云いつけると、針さえ持てば昼で も居睡りをする、というようなことを云って居ります。  下女の方は下女の方で、今度の主人位、人使いの荒い、銭遣いのこまかいうちは無い、と云っ て不平を並べている。   高が一年|限《きり》で、ふいくと風まかせの奉公だものを、同じ直たらば気散《きさんじ》に暮す方が徳さ、針   を持たうと持つめへとこつちの量見づくだ、縫物が出来ねへで打遣《うつちや》られた女もねへものだは   な、こちとらはどうで著た限り雀ときてゐる、気に入た著物を、さつくと著殺すがい上の   さ。  これは「浮世風呂」の中の人物でありますが、実際そういうような有様であったらしい。この お互に誹《そし》るところを合せると、この時分の下女がどんなものであったか、よくわかると思います。 下女の式目  そういう風でありまして、明和頃から女中が賛沢になって、木綿の仕著にでも五所紋をつける。 明和以前には管は銀流しであったのが、明和以後には銀管をさすようになる。鼻緒のようなもの でも革鼻緒になる。鼻緒が革では、台も焼杉というわけにいかないから、塗下駄を穿く、という ようになりました。明和度でさえそうなのですから、化政度になると、小身の武士の妻女などは、 お供に連れた下女と見わけがつかない。頭にさす竃甲、著物の絹縮緬、足に穿きます物に致して も、少しも主人と違わないようになって参りました。町家の方でも無論主人と違わぬようになっ ている。大きい町人になると、主人の方が悪くって、女中の方がいい扮粧をするのが珍しくなか ったのです。  そういう勢でずんずんずんずんと押して行きますから、女中の風儀もだんだんおかしなものに なって来る。嘉永あたりのところで「主従日用条目」というものが出来て居りますが、その中に 「下女の式目」というものがあって、法律書にたぞらえて、いろいろなことが書いてある。   一 下女奉公は主人大切はいふに及ず、万《よろず》やさかたに愛敬を失はず、然も身を培まず健《まめ》に働 一 一 一 一 右之外色がましき事を堅く慎むべし、 見ゆれども れば仏頂顔し、 てあしざまに言 延、 様子つくるに引かへて、 くべき事。 棚元廻を清らかに洗拭し、皿鉢茶碗其外うつわものを壊さぬ様、丁寧に取あつかひすべ き事。 三度の食事持の間には、縫つ!くり洗濯等に精を出すべき事。 寝姿を慎み、朝とく起て、髪撫付、食持にか\るべき事。 昼の働に疲、夜は眠たきものなれども堪忍《たえしの》び、夜業に縫針を励み習べき事。 傍輩どし咄するとも男の噂、色がましき事、大声に高笑などすべからず、随分しとやか にすべき事。 傍輩の中言《なかごと》を主人に告げまじき事。 度々暇を乞、親元宿などへ帰るまじき事。 衣類帯櫛かんざし等、身に不相応の品を不可求事。 実体に勤め、同じ家に長く勤るやうにし、半季毎に出替するは宜からざる事。               世上の下女奉公をする者、初の程はおとなしく実体に    、奉公馴るに随ひ親方を疎《おろそか》にし、油うる事|計《ぱかり》を考へ、たまく主に、しからる      何の此家ばかり日はてるまいしと、心につぶやき、家内の事を他人の方へ行      、不相応の衣服櫛かんざしを買もとめ、天窓《あたま》と顔はやつせども足は爪ながく きびすは垢染しに気もつかず、男さへ見れば、いやな目つきし、美女がりて尻振廻し、         人の見ぬまにはつまみ喰し居りて、針持ば早居睡るかと思へば、芝   居ばなしか、男の噂には俄に目を覚まして、しやべり出し、何時の間にやら男をこしらへ、   親が目をまわしたの、伯母が死だはのと、嘘言ちらして主に暇を乞、隠し男と忍び逢、親方   に一年と勤る事能はず、半季立つ間を待かねて出替し、口入屋ヘ行て、同じ奉公猿と、わん   ざん咄に日を送る者多し、是等は我世帯をするやうになりて思ひしる物なり、下女奉公する   人は能々慎み、実体に勤め、身の出世を待べき也。  これは画かきの池田英泉の著書ですが、実際こういう事を書いて訓戒する必要があったのです。 昔の奉公には、やはり学校のような気持があって、長く置けば手習、針仕事、人の応対、という ようなものは必ず教えなければならぬ。併し奉公人の方では、そんなまだるッこい事を待ってい られぬから、前に申したような調子になるのであります。 栄耀の意味の下女づかい 寛政頃からは男女ともに他国へ出て奉公する者が多くなりましたから、江戸の者が江戸に奉公 することは勘い。これは江戸風俗に大変な影響のあったことでございます。この捌け口は考える までもたい、五里十里の近在から、江戸ヘ見習に来る者が増加して参りました。それらの者ども は、前にも申上げたように、自分ということを考えない。目先だけで行きますから、自然思い上 りをしまして、大風《おおふう》にもなれば、賛沢にもなったのです。 宝暦頃までは「御奉公人肝煎所」という看板は裏店《うらだな》に多かったので、糊売婆、花売婆の兼業の ようになって居りましたのが、男宿、女宿と立別れて桂庵が出来るようになり、そこに弊害も生 じて参りました。組合もありましたが、寛政度には従前からあった雇人請宿というものが、今更 に相当の問題になって居ります。概して申せば下女、飯炊の需要が多くなって、そこには雇主の 方の栄耀の意味もある。その家の所帯向が悪くなって、節約をはじめる時には、第一に下女の暇 を出すのを見てもわかりますが、下女を雇うということには、たしかに賛沢の意味が含まれても いるのです。  下女を遣う女房の様子は、女房式目の中から看取されます。その頃の女房なる者が、随分いい 加減なものになっていたことが知れる。     女房式目   一 すべて女房たる身は内を能く治め、世帯の入目に費《ついえ》のなき様、つ父まやかにすべき事。   一 日々の惣菜は大体前日に買調へ、其日に成て手支へぬやうにすべき事、但現銀買をおも     とすべし、かりて買ふは高きものとしるべし。   一 惣菜を下女に煮さすとも、みづから加減を試み、辛からず水くさからず、能く火を足ら     し、味よくすべき事。   一 夫我子又は奉公人にても、衣服|垢染《あかじみ》穣れたるは女房の恥たりと心得、手まめにす、ぎ洗     濯し、見苦しからぬ様にすべき事。   一 身は小ざっばりと持、手足の爪を伸さず、鉄漿《かね》はげぬやうにすべき事。   一 衣類髪等こうとふに、おとなしく分限不相応の形すまじき事。       一     一    一  一 一  右の外女房の心得数多有べし、  髪|端《は》手に結、  役者の振を真似び、  仮初《かりそめ》の事にも下女丁稚を叱わめき、  面をふくらし、  詞にかけ.ず、  き、  きも儘多し、  衰微の基となるべし、  しからず高ぶらぬこそ、 女房が自分を下女の手本にすることは、 親類又は得意衆など来し時、丁寧に挨拶し、仮にも不興なる顔つきすまじき事。 但みすくのつひしやうをいひ、又あまりことば、数多からぬやうに有べし。 他人に向ひ、我子の自慢咄しすべからざる事。 奉公人をいたはり、仕落有とも大声に叱り、又は手づから打郷、ゆめくすまじき事。 夫の外、男と耳語咄又は戯事《ざれごと》など決して云まじき事。 舅姑を大切にし、夫に対し培気がましき事慎しむべき事。 人中にて物多く食せず、酒は平日にても堅く飲まじき事。            世上の女房の中には夫の事は構はず、我身ばかり洗みがきし、 で     目にたつ衣服を著、白粉こく、口紅玉虫のごとくつけ、さながら遊女めかしく、        芝居役者咄といへば現《うつつ》ぬかして聞、又は人さへ見れば近所隣の諺咄し、              夫の帰りが遅くなれば、行先を根問《ねどい》して、はや培気して      気に入た男が来れば、酒よ餅よともてなし、気に入らぬ人には、ろくノ\に     今機嫌が能かと思へば、忽ち不興な顔面し、寄言介《きげんかい》といはれ、常に夫を尻にし 商ひ万事の応対にさしで口|利《きき》、或は常に酒を呑て狼りがはしき事多く、又物|吝《おしみ》して欲深     是等は遂に世間の人に愛相をつかされ、夫に去らる\もあり、さなくとも家の         只女房たる身は女らしく、夫を重んじ、世帯をつ父まやかにし、いや         女房たる身の嗜《たしなみ》なるべし。               とても出来ない。余程此頃の町家の女房は、武家も同 様ではあるが、驕慢でもあり、怠惰でもあり、一向に衿持する所のない、婦道婦職の廃頽が甚し かったと見えます。なればこそ置かずにも済む下女を雇いもすれば、それを自由に引廻す能力も たかったのです。これは双方とも甚だよろしくないことにたる。しかし天保以後の江戸は降り坂 で、時世の転移に差迫った時で、如何にも変化の来そうな世の中でありました。  このくらいしか町家の方のことはわかりませんが、士の方で見ますと、寛文度には三百石で下 女四人位のものである。それが宝暦度になりますと、千石で女四五人位置かれる家は締った方で、 そういう家には譜代の家来が沢山いますから、これは嗜みのある武士たのです。千石で女の八九 人もいる家があったら、それは男の色好みか、乃至は女房にまかれている士である。もし男も女 も勘い家があったら、それは溜め込む根性の士と見て差支ありません。  寛政度のものを見ますと、若党中間は昔より減りましたが、下女の方は殖えている、文政八年 頃のものに、知行の無い御家人衆のことを書いて、七十俵で小女一人、百俵でも小女一人、この 時分の小女は一年一両ですが、百俵と七十俵とでは、どう違うかと云うと、百俵の方には、その 外に下男が一人いる。百五十俵になって、下男下女各一人、この方は一人前の下女ですから、二 両一二分位は出さなければならない。二百俵で下男一人と下女二人、二百五十俵、三百俵、三百 五十俵、四百俵あたりは皆同じことです。四百五十俵になりますと下女三人、五百俵で四人、と いうことになります。  この一俵は一石づもりですから、千俵というと千石に当ります。三百石の者が下女四人とした ら、千俵の者は八人いていい勘定になる。寛文度の話から見ると、何だか勘いような勘定であり ますが、高の多い人よりも少い人の方が数が多くなって居ります。しかし寛文頃の百五十俵位の 家では、人を使ってはいないだろうと思う。現に文政八年の記録は、こうなっているのに、安政 の大地震後には、百俵以下の家で小女を置いている家は殆ど無かった。御新造さんが台所の事を やって居りました。百五十俵でも下女の無い家が多かった。百俵位の家では、もやいにして下男 を使っていたものです。諸大名の家来でも、百五十石より下の家では、下女をつかうところは無 かったように思います。 主婦に属する女の雇人  武門の女の様子も、だんだん変って参りまして、身分の低い、百俵以上くらいのところに、却 って驕りたかぶる心持が出て来た。上の方になりますと、お手許の簡略と云って、省くことの方 が多くなっている。何も彼もの用事を少くして、手軽にするようになって居りますが、下の方が 却って我盤になっている。これでは武門武士の統制は弛緩する一方であります。  幕府の改革が幾度あっても、決して大奥へは手が届いて居りません。いつでも表だけです。寛 政頃までも菓子を食う男は馬鹿にされた。あれは無駄食で、婦女子の食うものとなって居りまし た。女からすすめられて、その仲間に入って菓子を食うようなやつは、女房にまかれている、鼻 の下の長いやつとされて居った。それですから文化、文政度には、すべての贅沢、驕りたかぶる 風というものは、女が増長するから起るのだ、という議論をしている人があります。  下女の風儀ということにつきましても、主婦たるものの行儀によって、しつけて参るので、そ れは土でも町家でも、奥様がいい加減ぶし、お上さんがいい加減ぶしでは、家内の始末がつくも のではありません。ところで下女の方は、今申したような有様ですから、薫陶などということは 及びもつかぬ。時世と云えば時世ですが、一家を支持する主婦に、それだけの覚悟が無かったと いうことは、注意しなければならぬところであります。  忠義な女中の伝記などは、享保度からぽつぽつ出ているのですが、この頃に至って何故、特に そういうものを担ぎ出さなければならなくなったか。これも考えて見なければならぬ。女房は家 内という位で、家の中の取締をする人なのです。殊に女中は女の使うものとたって居りましたか ら、女の方の奉公人は主人の支配外である。これは武家は勿論、町家でもそうですが、あの女は いけないから暇をやりたい、と主人が云っても、使い馴らせばよくなります、と主婦が云えば、 それでもということは出来なかった。暇をやる時ばかりじゃない、雇入れる場合にしても同じこ とですが、こういう風は近来よほどこわれて居ります。  下女は主婦の使うものだということについては、元禄十六年の「俳譜いかりつな」にも、「そ ち次第、下女は女房の遣ひもの」というのがありますし、宝暦に法忍の書いた「続人名」にも、 「女は女の主人につかへ、其主へ誠を尽す事也」とあります。明和二年の「蒙訓」というのは、 旗本の子弟の為に書いたものですが、その中にもこんな事がある。   下女は妻の召仕ふもの也、男たるもの大概事の欠たりとて、下女をつかふまじき也、側にて   つかふ侍なくば座敷の内の事は自分にてすべし、客にても有か、他行などする時、いかう事   多きせつは格別也。  不断は自分の側で女中を使っちゃいけない、というのです。昔は侍衆でありますと、表へ来た お客には女を出さたい。若党が出て取りはやします。手許不如意でそういう者がいなければ、仕 方が無いから自分の子供を出す。けれども女房だの、娘だのは出さなかったものです。  天保に書いた「愚者論記」あの中にも   女の奉公人は都《すべ》ての事に小言を云のも、仕込のも、よしや利解する事までも、成丈主は口を   出さずに高位なら局、低いはカミサンに任せ置が上分別、併男子の奉公人は女の手際にやア   六ヶ敷からう、是は高官なら重役、低い主は自身で躾《しつけ》たがいL。 とある。こんなちょっとしたものでも、女の雇人は皆主婦に属するもの、ということはおわかり になるだろうと存じます。 失われた古風  下女というものは何時までも奉公しているわけには行かない。いずれは家庭に入って主婦にな るために見学し、それに必要な知識、経験を得て、他日の役に立てる筈のものでありますが、は じめはそういう心持で居っても、都会の気分に浮れて、どうしても我盤になる。併しこの時分の は、まだ給金を目的とする、ということには疎《フつと》かったようです。これも時世と云えば時世ですが、 従来使われる方のことばかり云って、使う方の事を云わないのは、話し足らない憾みがある。こ の事については、故老から聞いた話もいろいろありますが、何か文字に書いたものが無いかと思 っていましたら、「石州浜田風俗変」というものが見当りました。この記載は私どもの聞いてい る故老の話を、文字の上で説明するものであります。石州浜田は松平周防守、六万石、例の尾上 岩藤の騒動をやった家ですが、その康福という殿様の時分に書いたもので、時代は天明度になり ます。  そこで「石州浜田風俗変」に書いてあるのはどういう事かと云いますと、諸藩ともに家老など の家では、主君の娘、或は主君の続柄の娘を妻とする。それほどでない中通《ちゆうどお》りの家でも、やはり 同列の先輩の娘を貰う。だから妻というものは、なかなか重々しいものになっている。その重々 しい妻女に使われるのが、中小姓とか、徒士《かち》とかいう者の娘で、中にはもう少し下級のもあるけ れども、いずれも士分の娘で、躾の為にそういうところへ頼んで奉公する。預った主人の方でも、 相当の年齢になればそれをどこかへ縁付けてやるので、一季半季ということは無い。長ければ十 年、短くても六七年位は居る。町家でもこの風が大分後まで残っています。「当世阿多福面」の おふくが、いろいろお上さんから教えられたというのも、武家屋敷で丹誠してくれる話の名残で あります。「浮世風呂」の中に、里付となって嫁入先までついて行き、御誕生を見てから自分も 片付くようにしたい、という女中のあることが書いてありますが、それは皆古い風の女の奉公人 の行き方なのです。  然るに寛文頃から諸大名とも勝手が悪くなりまして、延宝頃になりますと、借上と称して藩士 の禄を半分くらい借上げる。半知でないにしたところで、分一と云って二割位引くところはザラ になって来た。殿様の勝手が悪ければ、家来も同じことですから、本妻に不幸があった場合に、 婚礼をもう一度することが出来ない。そこで妾を本妻にする、というようなことが出来て来る。 長年妾でいたのですから、妻になっても主従のような会釈をする。夫の方でも妾のような扱いを して行く。妻というものが軽くなって来ました。  それですから享保の末には、妾を以て妻にすることはならぬ、という禁令が出て居りますが、 そうなって見ると、行儀の為に自分の娘を頼む1家老だからと云って安心して頼む、というわ けに行かなくたる。主人の方でも不勝手ですから、これまでのように支度して縁付けてやる、と いうことが困難になって来る。給金で片の付く方が世話が無いから、出代女を雇う、という風に なった。宝暦の末までは古風を存していたが、その後は全く昔からの仕来りが無くなってしまっ た。1こういうことが「石州浜田風俗変」に書いてあるのです。 已むを得ざる簡略主義  それどころではありません。婚礼、元服の費用も出来るだけ簡略にする。しなくってよければ しない、という位になって来た。これからあとのところは、士の方も苦しい苦しいで追駈けられ て居りましたから、士の風儀というものも衰える。武家も領地のある者は、下々まで連れて来る ことが出来るけれども、江戸の俵取はそう行かない。皆雇入です。古いところには何年か置いて 片付けてやるという仕癖がありまして、何年誰さんの家に奉公していた、ということが嫁入に都 合のいい条件にたって居りました。  町家でも江戸に何年いた、どこの何という家に何年いた、ということになると、それが嫁入の いい条件になりました。自然当人は自分の家よりもいいところへ嫁に行くことになる。それが一 方から云えば、賛沢な風習を生じたわけにもなるので、又そういう意味から、町家の娘が御奉公 をする例にもなって来た。町家の娘が御殿奉公をするということについて、いろいろな面自いこ とを生じて居りますが、町家から上った女中と、武家から出た女との喧嘩が、遂に「鏡山」のよ うな事件を惹起しているのであります。  町家でも長い間つとめてくれたのを見て、自分の雇人にめあわせ、暖簾を分けてやるという例 がありましたが、そういう心持はだんだん女中自身に無くなり、親や主人にも無くなり、一時目 の先で世話の無い事ばかり追駈けるようになりました。世間の様子は江戸の末を待たずに、大分 変ったのです。古風に永年預って、いろいろ教育をして、相当な所へ縁付けるということは、な かたか容易でありませんし、相当の資本を要することでもありますから、億劫にもなったのでし ょう。給金取の出代女になって、賃銀労働になって主従の情合も無くなったように思います。