芸者の変遷 三田村鳶魚 繰返した踊子法度 「春むすめ、夏は芸者に秋は後家、冬は女郎で暮は女房」というのは、何時から云い出したもの ですか、江戸時代の好色四季見立てに違いありませんが、大方文化文政以後の作でしょう。元禄 八年版の「好色十二人男」には「冬は傾城、夏は野良《やろう》、春は白人《はくじん》、秋は舞子、雨の日は手かけも の、精進日はびくにと、品をかへての好みぐひ」とある。この野良とあるのは男色、白人は私娼 ですが、両方比べて見ますと、上方と江戸とで趣向が違うばかりでなく、おびただしい時代の陰 影が見えます。元禄享保の際に民間婦女の位置が改りました後、若い女の元気になって往く有様 は凄まじいもので、一般の娘の心持も溌剌として眺められましたが、殊に著しいのは芸者の擡頭 でありました。  芸者は夏の女として清俊爽快を表徴するものでありまして、江戸の民衆の中に在って、特に元 気のいい若い女の意気と風采とを示現すると共に、江戸の市井に育った妙齢の女性の長所短所を 暴露して居ります。私どもは今芸者の個々を知ろうとするよりも、その環境を考えて、折々の世 態を窺って見たいと思うのです。  一体芸者という名前が仰山なので、寛政頃までも大諸侯の家来に芸者組というのがありました。 これは弓馬体槍剣、もしくは砲術の選手から編成されて居りまして、武芸者の武の字を省《はぷ》いた称 呼なのですが、武士の方はその後にこの称を失って、紅裾連に奪われたように見えます。人形芝 居の方では人形遣いを役者と云い、浄瑠璃の太夫さんを芸者と云って居りましたが、この称呼は 人形芝居が衰運続きであった為か、一向に世間の注意を惹きません。  芸者という言葉は、歌舞伎諸座の称呼によったものなので、「古今役者大全」に「諸方へ召さ れ、舞|所作《しよさ》事をして、それを業とするを芸者といひ、芝居へのみ出て、所作にか二はらず、狂言 へ一向筋《ひたむき》にか、るを役者というて二派なりしが、芸者つひに役者とひとつに成りて、つとむる様 に成りたり」とあります。この芝居道でいう芸者役者の唱えも、両者合一した後は聞かれなくな りましたが、踊子《おどりこ》が芸者であることは、専ら舞踊を担任する以上、紛れもない話でありまして、 従って踊子だけが芸者で、鳴物を引受ける者は芸者でないことになります。  この踊子には男女両方ありましたが、男の方は差措くとしまして、芸者の祖先である女の踊子 が何時頃からあったかと云いますと、これは男よりも新しいのです。大道寺友山の「落穂集」に、 野も山も踊子、三味線ひきばかりのようになったのは、元禄以来の事でもあろうか、女の子供を 踊子などにするのは、親達も物入りでもあるから、五百石や千石の知行を取る武士を目当にする ことではない、せめて六七千石から万石以上の郡主、或は国主の方へ奉公させたい願いで、師匠 を択み物入り構わずに稽古をさせることである、と書いてありますが、踊子は元禄以来のもので、 そう廉価ではなかったようです。友山は又、大名方の御息女御婚礼の節、供付で罷り越す女中の 中には、踊子や三味線ひきなどを集めて供をさせ、婚儀が調って二三日もたつと、年寄の女中ど もが取唯し、伶げ踊子達に座興を催させるので、若い殿達にはこれ以上の慰みはないという心持 になって、それから奥入りばかりを御好みになる、そこで御二人中もおよろしくてと申して、悦 び合ったものだとも云って居ります。踊子は大名の嫁入道具にもなりましたが、何としてもお安 いものではたい。勿論町人百姓などの相手になる者ではなかったのです。  元禄七年七月の法令には「女之踊子かげま女、方々へ遣し候義|堅御《かたく》法度之儀に候」とあります。 「かげま」というと、男色のことのようにのみ覚えられて居りますが、野良即ち舞台へ公然と出 る少年俳優に対して、舞台に立たぬ者を蔭間というのですから、踊の女として技芸を売らない、 かげま女もいたと見えるのです。踊子にしても技芸だけの売物ではありませんが、准踊子ともい うべき芸なしがいたとすれば、この女群に対する或需要は相応に拡まっていたものでしょう。さ すがに踊子は価が高いから、低廉に供給される准踊子が出て来たので、ここから考えますと、大 道寺友山のいうことも真直ぐには請取れますまい。主なる需要は大名にあったとしても、その他 に幾分の供給がないとは信ぜられませんし、踊子を元禄以来のものとするのも、大略な云い方な のですから、厳重に劃期するわけには参りません。それは六年以前の元禄二年五月に「町中にて 女おどりを仕立、女子供召連、屋敷方に遣はしおどらせ候由不届に候、向後相互に吟味いたし、 左様の女共あつめおき、屋敷方は申すに及ばず、何方《いずかた》にも一切遣申間敷候」とあるのを見れば、 既に彼等をあつめて置く踊子屋のあったのが知れます。世間に目立って来たのが元禄以来なので、 女踊子の発生は其処ではありますまい。  更に元禄八年八月の法令も前年のとほぽ同文でありまして「頃日少々屋敷方へも、又は船にて も、右之者共出候由、相聞《あいきこえ》不届候」と付加してあるのを見ますと、延宝度に盛でありました浅草 川の踊船が、天和改革で消滅し、再び芽を出しかけたので、踊子を遊船に呼ぶことは、この法令 の頃に又盛になって来たらしいのです。同十二年四月になりまして、「女踊子弥ー抱置あるかせ 申間敷事」と達したのは、何分にも取締が付かないから禁止したのですが、なお宝永三年六月に は「向後女踊子弥≧令停止候、並娘と申なし、屋敷方町方へ遣し候儀も有之様に粗《ほぽ》沙汰有之候、 是又右同前之事」と達して居ります。踊子は職業ですが、公許を得たものではない。従って就業 にも廃業にも何の手続もありません。即ち彼等は禁制を潜って、娘という名の下に非職業者の体 で稼ぎましたから、再往の禁令を促したのであります。この法文に「町方へ遣し」とありますの で、武家屋敷以外へも呼ばれたことが確認されます。需要程度に差があるにせよ、大名旗本のみ が相手ではなかったのです。この踊子に関する法令が、芝居町御触書の中にありましたので、大 いに興味を惹かれて、急いで吉原町御触書を点検しましたが、この方には踊子に関する何者もあ りません。却って宝永の踊子法度を見ますと、芝居町に対して綿摘という遊女がましい者をその 町中に置いてはならぬ、と書いてあります。これで踊子が遊女町から発生せずに、芝居町から出 たこと、芝居町に住居して遊女町に住居しなかったことが知れました。とにもかくにも技芸を看 板と致しますだけに、堺町葺屋町に居ったので、これは舞踊の習得に関係がありましょう。 男装の舞子  宝永七年版の「俗枕草紙」に「京に舞子といひ、江戸におどり子といふ」とあるのを見ますと、 何だか同じものを土地によって呼び別けたように聞えますが、舞と踊とは違う。違った技芸によ って立つものとしたら、混雑するわけには参りません。「吉原徒然草」には、笑顔のおかつが舞 子の開山だと書いてありますが、江戸の舞子の最初だと云われるおかつの年代は、残念ながらわ からぬのです。正徳三年の「兼山麗沢秘策」には「昔は当地にて手も及ばぬ舞子遊女などの類も 出来候歎」とある。京から輸入した舞子がいたのか、又は舞を習ってその技を売る者がいたのか、 いずれにしても江戸にも舞子はいたので、ただその数が少かったのです。併し京都には舞子ばか りで、踊子は居りません。西鶴は京の舞子は万治年中からと云って居ります。その年齢も十一二 三四五までだったのは、まことに舞子という名に相応して居りますが、その舞子は男装だったの で、コ代男」の中にも、「昼は十人の舞子集めける、一人金子一歩なり、顔|麗《うるわ》しく、生れつき優 しきを少さき時より仕入れて、とりなり男の如し」とありますし、「三代男」にも「遠山より中 染や、いはまく染の帯、後高に若衆とも見えつ、女なりけり」と書いてある。特に「舞子風とて 目に立つすがた、とりまはし利根に檜からぬも、晴の座敷へ出るには、親ながらうばぶんになり、 様つけて呼ぶもをかし」というに至っては、後来の踊子風に似て居るのが注意されます。 「阿部忠秋家記」などを見ますと、家光将軍の御成の時に、踊を上覧なされることがあった、こ の踊の指南は可児《かに》与右衛門並に役者の幸清五郎がしたので、奥小姓十六人、表小姓十四人である、 その装束は伊達な結構なもので、金銀の箔で模様をつけ、団踊《うちわ》、扇踊などいろいろある、大笠ぽ こを立てて置いて、鼓や笛で唯したそうである、と書いてありますが、この踊は三味線でなしに、 小鼓太鼓の唯子で若い武士が踊るのです。戦国以来のもので後世にも知られた鹿児島の兵児踊《へこおどり》な どがその一種であります。三代将軍が好きであったというのも、三味線入りの女の踊ではない、 若い士が演じたのです。それが流れて元禄の頃でも、歌舞伎芝居に惣踊という俳優惣出の踊があ りました。これも若衆歌舞伎あって以来のことですから、主として少年俳優なので、その沿革か ら云っても女性を意味しません。それなら何時頃から女性の踊子を出したのかと云いますと、紀 州頼宣のことを書きました「南龍公言行録」に「小うた三味せん、女小姓のをどりにか\り居る よりはよし」とある。寛永度には三味線入りの女小姓の踊があったものでしょう。  牧野子爵家にあります「御成記」は綱吉将軍臨邸の記ですが、その中に「貞享五年四月二十一 日、手前踊被仰、元禄三年二月十日、御手前踊有之」とありますので、これは雇い上げた踊でな いことがわかります。同じく元禄三年四月九日に、五丸様から近習踊の者へ黄金を下されたとあ る。五丸様は綱吉の生母の本庄氏ですが、これも無論雇って来たのではない。雇って来た方は 「同四年正月二十二日、五丸様より踊子に黄金十枚被下之」とか、「同六年十月二十五日、三丸様 より踊子に郡内じま五十疋被下之」とかいう風に、ちゃんと踊子と書いてあります。三丸様は有 名な綱吉の寵姫お伝の方のことです。元禄四年五月二十二日に手前踊を仰付けられ、綱吉夫人鷹 司氏から銀子三十枚下されたという場合には「おどりの者」と云い別けてある。一体手前踊とい うのが、雇い上げに対する差別の言葉たのです。 「阿部忠秋家記」のも手前踊でありますが、私の見た限りで申せば、貞享以前の諸大名の記録に は、手前踊という言葉は見かけません。併し諸大名の家々には已に寛永度から男性の踊ばかりで なく、女小姓の三味線入りの踊もあったので、「御成記」にある手前踊の踊手は、男女いずれで あるか判明致しません。踊子といっただけでは、両性のいずれか知れませんので、元禄宝永の法 令には、女之踊子と書くようになりました。ただ当時既に世間では、踊子と云えば女性と見られ るほどになρて居ったので、「御当代記」元禄二年の条に「五月下旬江戸中おどり子、屋敷方ヘ 遣し、町にても稽古仕候事無用たるべき由、町奉行よりふれ有、是はおどり子おびた父敷多くな り、遊女のやうなるも有之によつて也」というように、踊子と云えば女性と解すべき例証があり ます。従って牧野家の「御成記」にある踊子も女であると思います。  女の踊子はその弊風のために屋敷方へ出ることを禁制されたに拘らず、牧野備後守成貞は、綱 吉臨邸の際に幾度も町から踊子を呼んで上覧に供して居ります。同じ女性でありましても手前踊、 即ち自分の家の女小姓等に踊らせるのは禁制の外ですが、手前踊でない踊子を町から呼ぶのは違 犯である。然るに町触と云って市内一般に公布した法令は、市民に対して効力があるだけで、大 名以下の武士は拘束しません。それらを法度するには大目付、御目付の手から特に発令しなけれ ばならぬので、この際町奉行が厳正に処罰するにしましても、呼ばれた踊子を処分するだけで、 呼んだ牧野を罰するわけには往かない。且つ町に踊子がある以上、彼等は大名や旗本から呼ばれ た時に、法令があるからと云ってお断りは出来ないのです。  彼等は帯刀階級に対して唯々諾々の癖がついているばかりでなく、往けば儲かるのですから、 辞退する筈はありません。町の踊子を大名旗本を尊敬する意味で、呼ばれたのを断らぬと申立て ますと、呼んだ大名旗本を罰しない以上、町奉行の裁判は鈍《にぷ》らざるを得ない。こういう事情り下 に、いくら踊子を出すなと云っても行われませんので、とうとう宝永に踊子禁制が出ました。踊 子の名称を遁れて前令を避けようとした者、即ち娘と称して踊子の実ある者をも禁制したのみな らず、屋敷方、町方ともに差遣してはならぬと定めました。元禄の法令では屋敷方即ち帯刀階級 の相手になってはならぬというだけであったのを、宝永には階級に拘らぬことになって居ります。 これは踊子の流行が拡大して、彼等の需要範囲が帯刀階級以外に及んだため、一般の禁制にした のであります。  踊子も元禄八年以後の経済状態、通貨膨脹の趨勢によって、財力が民間に集りましてからは、 大名旗本を見当にのみ稼がたいでもよくなったので、そうなると又踊子法度の執行が容易でなく たって参ります。 北条左京の船遊山  宝永三年五月二十二日、旗本の北条左京が大勢の家来を連れて、浅草川ヘ船遊山に出ました。 定紋の幕を打ち、供槍を立てた屋形船へ多勢の踊子を載せ、大陽気に騒いで居りますところへ、 船廻りの御徒《おかち》目付が来まして、余り仰山な様子であるのを注意した。遊興最中のことで、上下と もに酒機嫌でありますし、端なく北条の家来と船廻り御徒目付との喧嘩になりました。北条左京 はこれが為に大目付仙石丹波守、御勘定頭戸川日向守、町奉行丹羽遠江守、御目付松田善左衛門、 戸田喜右衛門等の審理に付されることになりまして、遂に本件のために武士の船遊山がなくなり、 やがて屋形船が制限され、その数も百艘と定められました。その時に踊子も禁制されたので、彼 等が水性の女でありますだけに、屋形船と踊子、屋形船と芸者という風に、船がついて廻るのは 面白いと思います。  踊子は大名旗本を目がけて発生したもので、同じ踊好きでも家光将軍のは男性でしたが、綱吉 家宣両将軍のは女でありました。室鳩巣なども、先々御代より先御代には、別して踊子等の女中 芸を御好みになったので、御用筋でひそかに小女中方から役者どもへの通路があった、と云って 居ります。これで女性の踊子の性質も知れるわけで、歌舞伎役者との交渉があるのは、勿論舞台 のものと同じだからでありましょう。  寛永二年に若衆歌舞伎があって以来、少年俳優の技芸は踊だったのですが、それが禁制されて 野良歌舞伎になりましても、やはり技芸は踊である。此等の俳優が男色を売った為に、若衆歌舞 伎は禁制されましたけれども、売色の方は依然として止みません。元禄七年の法令を見ますと、 狂言座の座元以外には野良子供を抱えることを許さず、座元にしても人数に制限があります。こ の制限の後に、恰も男色の弊習が衰えはしましたが、堀江町葭町へ蔭間と称する、舞台から離れ た売色少年を派出することになりました。  少年俳優の技芸を奪って、それを看板にした踊子は、芝居町を去って橘町で旗を揚げるように なり、大名の家にはお茶の間、又は御狂言師というものが出来まして、とにかく売色離れのした 技芸のある女があるようにたって来ました。この経過について北条左京一件は甚だ有力だったの であります。  宝永四年版の「千尋日本織《ちひろやまとおり》一に、花見の後から月見までの浅草川の船遊びを、一日十万両の費《っい》 えだと評した中に「御れきくの奥がた女中、五十人七十人一対の出立《いでたち》、その中にまぎれて、ど れがそれやら知れぬ事也、牛の御前のこなたに舟をつけ、その数二十艘ばかりとりまわし、八橋 流の琴過て名香|薫《かおり》、仕合なる鼻にふれて、三廻《みめぐり》のいなり穴を出でおどり給ふかとうたがわれ、す こしへだて」町おどりこ三四人思ひくの好みすがた、十五六をかしらにて、一とをりつ\しの ぎの芸、天人くだりて布をさらすかと、御ふねより御目にとまり、此よし申て御座にいり、それ より御座敷へ御ともし、すぐづけの御奉公、殿様へ御遊山みやげ」と書いてありますが、こうし た機会に御土産になるのみならず、奥方から這入り込む踊子もあれば殿様が直接に抱えたのもあ りましたろう。七代将軍家継の生母月光院が、踊子の群から出ているのを見れば、当時の景気は 思い半ばに過ぎるものがありましょう。  繰返した踊子法度は、幾分ずつか屋敷へ呼ぶことに影響したでしょう。船遊びの方はかけ離れ た水上だけに、遠慮のないところだったのですが、北条左京の底抜け騒ぎは、その身の滅亡を招 くと共に、ひいては武士の船遊びを衰えさせました。殊に屋形船の制限は、大名の船遊びの制限 でありまして、その時までは大名で屋形船を持っていた家もあったのに、法令は江戸の屋形船を 百艘に限定して、船宿業者の持船も大名の持船も打込みに算《かぞ》えたのです。詳しいことはわかりま せんが、大名持ちの屋形船も、この際大分破殿されたらしいので、引続き新金吹立てがありまし て、急に通貨が縮小しました。民間も甚しい不景気でしたが、米価の低落による大名以下の苦痛 は更に甚しく、帯刀階級の窮迫はそれから年々に目立って参ります。元文に通貨が改鋳されまし て、財界が緩和し、民間の景気は変りましたけれども、大小の武家は救われません。大名でさえ 買掛りが滞る有様でしたから、屋形船や踊子どころの話ではない。通貨収縮、米価低落に先立っ て武家を威嚇したのが、北条左京一件でありまして、それが踊子と大名旗本との間をかけ離して 居ります。 文化の恵み、太平の恩沢  踊ったのは小姓だけではありません。雀踊という奴《やつこ》の姿が後世に残ったのを見れば、武家の下 部《しもべ》まで踊ったのでしょう。戦国の蛮習を持ち伝えて男寵が盛に行われましたから、小姓踊が踊 の中の花だったのです。小姓はお妾のように専属したものですが、阿国歌舞伎に代って起った若 衆歌舞伎の方は、娼婦のように一般に需要される。若衆歌舞伎が禁ぜられて野良歌舞伎になりま してからは、花代が定められて正札付の売色になりました。若衆歌舞伎と野良歌舞伎とは、前髪 のあるなしの違いだけでもありません。帯刀をやめて丸腰になり、武家の小姓らしい扮装をしな くたったのですが、それよりも花代を一定したことに留意したいのです。少年俳優の売色を美し くするのは、云うまでもたく踊ですが、彼等が舞台の上で艶麗を極め、見物はその容姿に酔う。 畢竟蛮習に染った見物なればこそ、売色少年に現《うつつ》を抜かすので、単に技芸だけでは、それほどの 熱狂には至りますまい。その若衆方の少年俳優は、概して女方《おんながた》になるのみならず、女粧するよう にもなりました。女のようでもあるが男だ、というのが彼等に加える有力な褒め言葉でありまし た。  ここで考慮されるのは、元禄度の女性の男装です。少年俳優の女装に対して、男装に耽った女 性の腹の中はどんなものであったか。それは一般の好尚ですが、特に女踊子が最初に少年俳優の 扮装に似せ、女装した男性に見せようとしたこと、更に少年俳優の色を衒《てら》う唯一のものである踊 を以て、世間に出て来たことを何と見るべきでしょうか。太平の恩沢は既に売色少年を女装させ ずには置かぬので、そこへつけ込んで女踊子が出たのですが、長い因襲を急激に押破ることは出 来ません。かの女群は先ず男装して、世間のよろこぶ踊を媒介に、武士の愛を争おうとしたので あります。男色は性愛の自然でない。この愛の争いは奪還若しくは回復運動と云うべきものであ りまして、戦国伝来の蛮習を掃蕩し、人間本来の状態に返す文化の賜物でもありました。  元禄度の売色少年は気勢猛烈で、舞台に立つ板付きの外、専ら売色のみの蔭子、田舎廻りの飛 子などという風に、種類も多く人数もおびただしかったのですが、その顧客に身分の高下はあり ましても、概して武士階級ですから、戦国気習からなかなか離れることが出来ません。従って女 踊子が高級漁色に根を張った売色少年を駆除するのは容易でありませんが、民衆を向うへ廻した 低級漁色の方は、戦国気習のない人間が相手ですから、男装の必要もなし、踊を掲げる魂胆もい らない。ただ高級たらんとして武士を目標にしただけに、そこに困難を伴うのは已むを得なかっ たのです。勿論歳月を仮してしずかに時期を待てば、武士も人間である以上、必ず文化の恵みに 漏れず、いつか蛮習から遠ざかって、本来の状態に返ったでしょう。又民衆の方も財力進展によ ってその位置を高め、武士と並行する地歩を占めるのも、時間さえかければ必然の勢であったと 思います。  女踊子よりも五六十年前に女小姓の踊が好まれました。彼等の売笑論を説く前に先ず大急ぎで 非倫な男色を滅亡させなければなりません。それには何よりも女小姓の踊が喜ばしいので、武士 の中には早く心づいた者もありましたが、それは甚だ少数でもあり、且つ多数から指弾されても 居りました。然るに宝永の禁制によって、女踊子は娘として男装をやめ、男装の女が女装の女に なりましたから、扮装の矛盾から免れたのです。元禄と宝永ではその間二十年に足らぬ短い歳月 ですが、ここで武士と町人とが地歩を換えたことはおびただしいものでありまして、はじめ武士 階級を規った女踊子も、時勢の変化につれてその目標を移動しなければならぬ。女踊子が女装に なったのも、あながち禁制を潜るためとばかりも云われません。少年俳優が武家の小姓らしい持 えから女装になりましても、やはり伝統したものを失っていない。そうした扮装を真似るよりも、 天然自然の娘で往った方が、彼等の便利だけでなしに、利益でもあるようになって参りました。  宝永の浅草川は北条左京一件で寂しくなりましたが、正徳の屋形船制限では寂しくならない。 享保になっては武士も涼み船に槍を立てません。それでは町人と同様のわけで、川の上にも武士 の衰えが見えます。この衰えた武士から、女踊子がだんだん離れて往ったので、彼等も最初の思 わくと違い、予想せぬ運命に驚いたでしょう。これも時勢の上から考えれば、頗る当然な歩趨な ので、武土が衰えると共に蛮習も衰えるのが、文化の恵み、太平の恩沢であります。  享保になって男色が衰亡しまして、屋敷に怪しい小姓がなくなり、芝居町の売色少年が珍しく なりました。既に島原一揆から大凡九十年、大坂両度の陣も全く夢になって、弓矢も鉄砲も用の ない時世であります。武家は伝来の律法恋愛に悩み、町人等は自由恋愛に狂う。吉宗将軍は大名 の寡婦に再婚を奨励している世の中で、戦国伝来の病態は漸く癒えて、健康体になって参ります。 享保の緊縮政策は専ら貧乏凌ぎであったにしましても、別に時運の暗転黙移するところがありま すから、落著いた人心は長く自然に背いては居りません。徳川八世が儒教を基礎として教育法制 を布いた効能ばかりではないのです。それより前に女踊子が娘になり女装になりましたのも、一 方から法規で迫られた為ばかりではないので、他方に時運を考え、お客が違って来たのを知らな ければならぬ。宝永の女踊子が機敏だったというわけには往かぬのです。 「松の落葉」に脇踊の唱歌を挙げた後に「江戸伊勢田舎芝居には、古来より今にあれども、京大 坂になし」と書いてあります。其角の句に「花誘ふ桃やかぶきの脇踊」などとあるのは惣踊のこ となのですが、「松の落葉」の出版された元禄十七年(改元宝永)三月には、その惣踊が京坂の 舞台に絶えて居りました。少年俳優の見せ場はこの脇踊だけなので、江戸でも続き狂言の発達に よって、脇踊が脇狂言になり、寛政度まで続いたといいますけれども、京坂よりは遅れたにしろ、 脇踊は間もなく失われたらしいのです。明暦以来屡々民間の大流行にもなった踊が舞台の上に絶 えたのは、民間と同じ理由ではありません。世間が男色を喜ばなくなって、真に俳優術を鑑賞し ようとして来たから、少年俳優の色香を衒う脇踊が絶えたのです。役者評判記なるものが、元禄 以前と以後とで、著しく態度を変じたのみならず、少年俳優の取扱いが違って居るのが何よりの 証拠だと思います。  元禄に盛だと見えた少年俳優の売色も、彼等の艶麗を見せつける脇踊の喪失によって、一般見 物の趨向も知れ、それが感賞を惹かたくなったとすれば、既に衰亡の徴候があったのです。女踊 子が漸く目立って来た元禄の初めには、売色少年は漸く衰えようとして居ります。両者は対立し たらしくて実は代謝しようとしていたのであります。宝永以後はそれまで真似ていた少年俳優の 風采を棄てて、自己の面目そのままの娘になったので、享保に橘町の踊子と云えば女性であるこ とが知れ、男の踊子は大時代のもの、慶長寛永の昔話になってしまいました。 公認された踊子  宝永正徳の際に踊子の巣窟を覆そうとして、彼等の芝居地域に止住することを禁じましたので、 其処を去って別に根拠を持えるようになり、享保の踊子は橘町、難波町、村松町に住んで居りま した。享保十八年版の「江戸名物|鹿子《かのこ》」に、橘町の踊子が娘風に描かれて居りますのは、前に述 べたような次第でありますが、踊子が踊らずに三味線を弾いている。これが享保の踊子の特色で ありまして、彼等は踊らなくなったらしいのです。無論遊女に紛らわしいものでもありましたか ら、元禄以来屡々検挙されて居りますが、禁制しても効が見えず、幾度かの検挙も実は一時の威 嚇に過ぎなかったのであります。  そこで元文五年閏五月には、売女同様な者は罰する、そうでない踊子等は狼りがましくないよ うにせよ、と命令しました。これは踊子には限りません。公娼以外の売笑は一切処罰されるので す。従来の法規は踊子を認めていなかったのですが、この時はじめて公認されたわけで、これは 踊子法度の大変革であります。一体踊子は許可を得て就業するものではありませんから、この法 令で踊子を認めたと云っても、就業の手続を規定するようなこともなし、以前と同様に官庁の許 可を待つわけでもありません。後来も吉原芸者は長樟の三味線を長箱で持ち歩くのに、町の芸者 は継樟を風呂敷包にするのは、公許されたものでないからだと云われて居りました。 「諸聞集」などは、享保の末から深川の八幡町や橘町辺の踊子は、皆この商売をする、武家ヘ出 る踊子は別に芸を習って商売はしない、これより芸者と山猫と両端になる、と云って居りますが、 享保末というのは請取れません。元文五年の法令によって、従来曖昧だったものが稽々明白に立 ち別れたのでしょう。「武野俗談」には、元文の頃、江戸中に踊子という女があった、橘町、難 波町、村松町を第一として所々に居ったが、素人の娘に三味線浄瑠璃を教え込み、歴々の御慰み として御屋敷方、御留守居寄合茶屋などへ遣すのに、芸一通りのようにして、その母と称する者 が付添って出入する、元文の初めに三五七組の衛門、千蔵組のてる、大助組のおえんなどと云っ て、至極の名題もの、器量よしの芸者があった、彼等は髪頭を第一とし、結構な櫛笄を用い、多 くは銀の管をさす、この三人の踊子は、暑い時に菅笠を被れば髪を損ずるというので、三人云い 合せて、日傘を青紙で張らせて用いた、なかなか立派なもので、その柄を黒塗にし、風流な紋が 付けてある、これは唐の大王に青羅の傘蓋と称して、青い薄もので傘を張らせて差かけるという ことが、通俗の漢書にある、それを聞いて彼の踊子三人がさしはじめたのが、世間一流の流行と なり、女は勿論、男子まで青紙の傘をさす、今でも医者などはさして居る、或年町奉行馬場讃岐 守が、鈎命を蒙って、青紙傘御法度を仰せ出されたのに、これをさす人が沢山いるのは怪しから ぬ、ということが書いてあります。  中には腹からの踊子もありましたろうが、それは極めて少数な筈ですから、概して素人の娘で す。彼等が振袖を著て、殊更に娘の姿をしたのは、宝永の法度に由来するのでありまして、娘だ から母親がついて往くことになるのです。また踊子なのに踊は教えず、三味線浄瑠璃を教えたの で、「風俗七遊談」は彼等の技芸について「河東豊後の音曲には引窓の埃も舞ひ、三味線胡弓の 連れ引きには縁の下の蜷蛛《ひきがえる》も踊るべし」などと云って居ります。  青傘というのは京都の公家衆の常用のものだそうで、京橋辺に住んでいた京都下りの医者が、 その通りに青い紙で日傘を張らせて使用した。青傘は正徳享保の際の新しいもので、医者の間に 先ず行われたらしいのですが、それを稽々おくれて、橘町でも顕著な踊子が襲用したのでありま す。当時は男女ともに日傘を用いませんで、菅笠や加賀笠をかぶって居りましたから、特に髪を 大事にする三人の踊子は、折角綺麗に結った頭が笠で損じるのを嫌って、傘にしたのだといわれ て居ります。美しいのを見せたい踊子が、笠の為にあでやかな顔色を隠してしまったのでは、紅 白粉で彩《いろど》った効果もたいわけですから、髪の損じるだけの理由ではありますまい。元文度には男 女とも髭が大変高くたりました。  今日でも残って居ります文金の高島田、あの思いきり根の上ったのが、元文の初めから行われ たので、これは女ばかりでなしに、男の方にも宮古路風、文金風と申しまして、油で固めた短い ハヶヘ竹串を入れ、元結一重で根を上げて結ったのがはやりました。元来は豊後節の太夫の好み だったのですが、豊後節の流行につれて、太夫の好みまでが一般から喜ばれるようになったので す。早く豊後節に親しんだ踊子達が、根の上った宮古路風に髪を結うのは当然の成行きでありま して、彼等は振袖を著ているだけに、高島田が多かったでしょう。毛筋を立てずに油で固め、嘗 めたように漆黒の光沢を見せました。  文金風の髪容《かみかたち》より前に、辰松風というのが享保度に流行しました。これは出づかい人形で有名 な辰松八郎兵衛を真似たもので、男ばかりでなく、女にも辰松島田が結われました。その辰松風 を拡大したのが宮古路風であります。八郎兵衛が人形を遣うのに、ハヶが引掛っては困りますか ら、ハヶを縮め根を上げて、後頭部へ指を曲げたように髭を結ったのです。今日の引抜きは糸で 綴じてありますが、当時のは針で留めてあったので、八郎兵衛は引抜きの時に抜いた針を髭ぶし へ刺しても居ります。それを真似た一般は針留めにしてあると思ったのか、わざわざ針を刺して 置いたと云いますが、辰松風は演芸上の都合から案出されたので、必ずしも八郎兵衛の物数寄ば かりではありません。  豊後節の太夫は首ふりといいまして、子供の無言劇に語ったのですから、辰松が義太夫で人形 を遣うのとは違います。自身が人形遣いでないのみならず、豊後節には人形がないのですが、役 者が台詞《せりふ》をいう芝居とは同じでない。豊後節の太夫が辰松風を拡大した好みの髪容は、出語りす る自身に出遣いの気分を持ちたい腹だったようです。この他にも豊後節の太夫の好みだった長い 羽織や幅広帯が、忽ちに一般男女の流行粧になったようなこともありますが、ここでは髪容だけ にして置きましょう。  この宮古路風を文金風と申しますのは、その時恰も貨幣が改鋳されて、文字金、文字銀と呼ぶ 通貨が出て来た為なのです。この流行によって男女ともに結髪の根が上ったという中にも、女の 髭は男のより遙かに嵩高でありましたから、笠が迷惑なのは云うまでもありません。そこで医者 の趣向を借用して、青傘をさすことにたったのでしょうが、その前に辰松島田がある。踊子等は 豊後節に親しんだだけでなく、高髭についての下地《したじ》があったのです。身長に乏しい本邦婦女が丈 高く粧うのはまことに適当なことで、寛永度に遊女が高髭|大紺《おおわ》を始めたのもその為でありますが、 これは廓の内だけに限られて、世間には何の影響も与えて居りません。長柄の傘は遊女の形容の ように眺められて、廓外のすべての女は菅笠や加賀笠を続けていたのですが、漸く元文の踊子に よって青傘が流行し、次いで銀の管、驚甲の櫛と髪飾が立派になり、宝暦には花管さえ創案され ました。して見れば踊子の青傘は彼等だけの話でなく、本邦婦女粧の一期を劃すべき大変革なの であります。 寛保以来のケイドウ  話は横道へ這入りましたが、「武野俗談」は踊子の出先を御屋敷方、御留守居寄合茶屋と云っ て居ります。御留守居というのは諸大名の外交掛りで、常に会合しては宴会の間にいろいろな駈 引をしたのですが、その集合所が寄合茶屋なのです。この寄合茶屋は寛保三年の秋に禁制されま したが、その名前がなくなっただけで、実際は残って居りました。この外には遊船があるだけで、 当時は料理茶屋もなし、船宿での遊興もありません。芝居町に居れば芝居茶屋がありますけれど も、そこを去っては出先に算えることも出来ますまい。  前田|綱紀《つなのり》のことを書きました「松雲公御夜話」には、享保四年に二条左府が来邸されるにつき まして、三年以前に一条殿を招待した松平|大炊頭《おおいのかみ》へ御馳走ぶりを聞き合せたところに、侍の的馬《まとうま》、 あやつりなどがあり、内証にては女中踊もあったと書いてあります。 「元文世説雑録」の三年の条に、よしある奥方の船と見えて、手前芸者の腰元かぶろとあるのを 見ますと、大名の奥向には相変らず女踊が賑わったようですが、この頃は大概手前者で、雇い上 げる町踊子ではなさそうです。元文五年五月の法令に、   三奉行、大目付、御目付の儀は、相互参会の刻も、遊興ヶ間敷事は有之間敷候へども、心を   付け、浄るり三味線等の音曲は有之間敷儀に候。 とありますから、大名とは疎遠になっても、いかめしい御役人様には御晶眞を蒙っていたのでし ょう。三奉行というのは寺社奉行、町奉行、勘定奉行で、寺杜奉行は大名の勤める役目です、大 目付は諸大名を取締る役目、御目付は旗本御家人のみならず、幕閣の大臣をも監視しました。そ うかと思うと、元文元年版の「諸訳名女|多葉古《たばこ》」に江戸の花見の群衆を書き立てました中に「豆 腐ぎらひでおどり子つれた老僧」とある。踊子が物々しく硬軟二派に立ち別れたよ5でありまし ても、そこには又拒み難い事情があったので、確実に区別があるとは云えません。 「我衣」には寛保元年に踊子が御停止になった、舞子三絃等で所々に雇われるうちに、遊女に類 する者が多い、よってその類が停止になったので、これが「ころび芸者」の祖であると書いてあ りますが、これは踊子全体を禁じたのでなく、淫売することを禁じたまでです。又これが「ころ び芸者」の祖だというのも宜しくありません。宝永二年十一月二十日に本所松井町で捕えた売女 三人の中に踊子が一人ありますし、元文二年八月二十九日にも回向院前で淫売踊子が二人捕えら れているからです。 「続談海」の寛保三年の落首に、「橘町おどり子、新吉原へ下され候儀有之候に付、当夏は涼舟 も少くなり候によりて云ふか」と副書して、   見渡せば舟も花火もなかりけり両国橋のあはれ夕ぐれ   おどり子は皆色里にとらはれてすまゐも馴れぬ秋の夕暮 などとあるのを挙げ、更に   計道起、飛二踊子一、惣体中宿|止《テ》、比丘尼|帰《ル》二神|貝《ニ》比丘尼止レ商掛二勧進ー、踊子捨レ芸渡ニ吉原   表一 という狂詩も掲げてあります。踊子の落首では多分此等が早い方でしょう、比丘尼というのは私 娼の一種ですが、それには中宿があって、そこで売笑したのです。この詩によれば寛保の踊子に も中宿があったらしいですが、それは申すまでもなく、盛に暗い方面に働いて居る証拠であります。  寛保頃の橘町の踊子の消息を伝えたものに「鄙雑姐」がありますが、これを見ると歌舞伎狂言 との交渉を考えさせられます。当時江戸の踊子は橘町に多く、その他にも所々に居る。上方では 舞子という。三味線を主にし、専ら当世の歌をうたうので、狂言芝居の中の歌か、そうでなけれ ば流行唄である。師匠も狂言の振付で業事《わざごと》をする。衣裳を飾り、それぞれの狂言の型を学ぶこと を芸とするので、皆十五六七の者である。二十歳以上にたれば地唄をうたい、三味線が専らにな る。これは唯し方である。佐五七、専歳、小大助、武太郎などという風に、所作の師によって組 を立て、組が違えば一座もせず、何方へ呼ぶ場合でも一人は来ない。大小名の奥表、町人の振舞 などに、酒宴の興とするのであるが、第一に遊山船で出る人が皆踊子を乗せて出る。船中の賑い としてはこれ以上のものはないb様々の衣類道具を持って来て、昼三種、夜三種の芸を勤めるの で、暇な踊子は云い合せて船を乗り出し、自分の組の船を見掛けて近寄り、仲間に取持させてそ の船に乗り移る。これがその日の営みなので、皆内証は遊女同然の者である。或時或屋敷へ招か れて行ったところ、約束の先後のことから争いになって、とうとう心易い屋敷に逃げ込んだこと がある。その屋敷というのは役人の家だともいい、公儀の奥向を勤める方だとも評判された。又 或大名の家来に呼ばれた踊子が、盃の論が出来て、二階から突き落されて死んだとか、斬られた とかいう話もある。こんな事のために客と亭主とが不和になり、永く義絶に及ぶというような面 倒た事があるので、町奉行水野対馬守は厳しく吟味を遂げ、橘町及所々の踊子を停止し、十五歳 以下の子供だけにしてしまった。この吟味は俄かの事だったので、大勢の踊子はどうしていいか わからず、日頃出入りした屋敷とか、知音の親方の類の中で、神奈川あたりへ立退いたという話 であった。八貫町、和泉町、浅草西店等の比丘尼も皆この時に追立てられた。これは寛延頃であ ったが、宝暦の初めには又橘町に少し出来たそうである。併し以前のようには往かず、芸舞もな く、三味線を少し鳴らすだけだということで、船遊びの興は永く絶えた。今でも船は出るけれど も、舞芸の踊子ではない。船の数も半分以下に減り、花火ばかりになった。-大体こんなこと が書いてありますが、元文四年九月から翌年十二月まで勤役した水野備前守勝彦の外には、宝暦 に至るまでの町奉行に水野氏もなく、対馬守もありません。これは何かの誤りだろうと思います。  踊子が芝居町を逐われて後、橘町に集りましたのは、料理茶屋というもののない時分だけに、 彼等の出先は春から秋へかけて、両国川の遊山船を主とした為でしょう。武士や町人の邸宅へ呼 ばれることもありますが、それよりも船へ往く方を稼ぎの表にしていたと見えます。遙か後のも のではありますが、「守貞漫稿」に   町芸者江戸芸者とも云ふは、吉原及び深川より市中を指て云ふ言也《ことぱ》、両国柳橋辺葭町甚左衛   門町辺堀江町辺京橋辺多し。 とありますのは、橘町の踊子を起原として彼等の沿革を考えさせるものでありまして、遠く江戸 芸者、廓《なか》の芸者、深川芸者と三つの派別をなす基本であります。  踊子の芸が歌舞伎うつしになりますと、年長者が三味線へ廻り、自然と芸者が主になる段取に なって来る。年齢の関係から云っても、一本と半玉との素地が追々に固められ、踊子が芸者に付 いて廻るべき径路が、寛保の橘町で開かれて居ったのです。 素人出の踊子  享保五年八月から取押えた私娼を刑罰的に吉原町へ交付して、遊女とする例が開かれて居りま すが、踊子の方はどういうものか、吉原町へ引渡されて居りません。人数は知れませんけれども、 寛保三年にはじめて他の私娼と同じく、踊子が吉原町へ引渡されました。 「続談海」にある落首は、それが珍しかった為に出来たのでしょう。人数の多いのでは、宝暦三 年正月に深川で検挙した百四人を吉原町へ交付したのが第一のようです。  前の狂詩にあった「計道」は「怪動」とも書いてあります。これは私娼検挙を云う当時の言葉 で、後来も使用されて居ります。ケイドウと読むのですが、変た文字を宛てるから意義がわから ぬので、「応仁記」に十箇年の間に改動せられる事両度に及ぶとある。それは封土を変更される ことですが、江戸刑法では私娼事犯について、犯罪のあった土地家屋を没収し、もしくは一定の 期限を以て、その土地家屋からの収益を取上げるのでありましたから、改動と云ったのです。本 来は私娼検挙の意義でなく、連坐した土地家屋の所有者処分についての言葉であったのを、検挙 に伴って改動されるので、云い紛らし思い違えてしまったのでしょう。この言葉は寛保から云い はじめたらしいのです。  宝暦五年版の「栄花遊二代男」に踊子風俗を簡明に説明して、次のように書いてあります。   こ\に踊子として横山町橘町の辺に全盛なる娘、京都の舞子と同じ、切を定めて情を売る内   に二品あり、親元まづしくして踊を仕込む事もならねば、三味線の芸ばかりにて渡世をたつ   るもあり、又情を次にして踊をおどり、人の気をいさめ、色といふに仕かけて、親の知らぬ   分にて情を売るあり、閑時《ひまなとき》は二人来て、ひとりの客には費《っいえ》にて、其上きりもあれば、高きも   の\やうなれど、またさなき事あり、馴染になれど紋日を頼むといふ事もなく、袖とめの頼   もなし、新造を出すと云ふ様なむづかしき事もなく、約束しても障が入れば断《ことわり》の文ひとつ   にて勤をやるにも及ばず、た父折節小袖の無心、芝居のねだりより外なし、たかが町娘の人   なれぬたれば諸事だまして、此方のだまさる\事なければ、気がはらいで面白い。  大名か大旗本を目がけて出現した踊子も、元禄から宝暦まで、七十年もたって見ますと、武士 も町人もあったものではありません。三味線のは枕付き、踊るのは座敷だけというものの、結局 は同じことで、踊子に芸だけのはないのです。概して甘いものらしいですが、甘いのばかりでも なかったのでしょう。宝暦六年版の「風俗七遊談」などはこんなことを云って居ります。今の踊 子というのは古の白拍子の風俗の損《そこ》ねたもので、妾に似て妾でなく、遊女の意気があって遊女で ない、その業とするところは蔭問に似て居って、風俗を伊達に作り、多くの人に揉まれるため、 心砕けて人の挨拶もよく、早くこれに馴れ易い、中には遊女以上の者もあるが、その心は恐しい ことが多い、自分に迷う客をたぶらかして金銀を貰い、それで自分の好きな蔭間を買って、終に それと一緒になり、小茶屋などを営む者もある、一座の客でも茶屋を替えて呼びさえすれば、意 気も張りもなく、誰にでも逢うし、人の客を一座でごまかして、自分の方へ引寄せたりする、そ の志の鄙《いや》しいことは言葉に述べがたい、彼等は色道の訳を知った者ではない、それでも志の賎《いや》し くない者は、貴人富人の妾とたる代りに、心だての賎しい、芸の不器用な、形も言葉もよろしか らぬ者は、下って蹴ころになる。1「蹴ころ」というのは私娼の下等なやつです。随分腹の黒 いのも居った筈で、もし踊子を差別するならば、芸で往くのと枕で売るのと別けるよりも、娘気 なのと腹黒なのとで別けた方が適切であるかも知れません。  踊子が大分怪しくなって来た延享の頃までも、町人の娘で踊を習う者は少うございましたが、 鳶の者や芝居の出方、売薬の云い立てをする者の娘などが稽古をしました。この頃では踊子が諸 大名の奥向へ呼ばれて、踊狂言を勤めるようになりまして、多分の報酬を貰うのみならず、中に は踊が御縁になって、羽振のいい、重い御奉公をするのもありましたから、営業する踊子はこの 方面を素人出の踊子に奪われる形になりました。そうなると娘の立身出世が嬉しいために、立派 な町人の子供も踊を習うようになり、失費を厭わずに祭礼の踊屋台へ出演させて、世間から騒が れるのを自慢らしく眺める。踊の評判から大名の妾になり、両親は御部屋様の親御様というわけ で、生れも付かぬ武士になるようなことが出て参ります。落語の「妾馬」などの御愛敬は、こん なところから湧き出たのですが、それに景気づいて、寛政には武士も町人も、貴賎貧富の別なく 踊を踊らぬ子供はないようになり、その子供は芝居の女形が常用する紅の股引を穿いて、平素の 往来に伊達を見せたのです。  踊子が「端手《はで》たりといえども娘の形気《かたぎ》を失わず」と云われながら、その年齢は娘を経過して振 袖が気恥かしくなるのと違いまして、この紅股引の諸君はどこまでも子供でありました。暗い売 物をする年齢でもなし、勿論たしかな芸を持って居りましたから、これがお茶の間子供といって、 大名の奥向での演技者として御奉公申すことになり、踊の師匠株は御狂言師といって、三四軒の 大名へ出入りするようにもなりました。お茶の間子供は御狂言師のように御出入りではなく、住 込みですから、その家に専属して居りましたけれども、その演技は踊でなしに劇なので、そこか ら申せば御狂言師もお茶の間子供も女優であります。「末摘花」に「大味になつてお茶の間縁に 付き」という句がありますが、これで年齢が想像されようと思います。 林大学頭と青山三右衛門 「栄花遊二代男」や「風俗七遊談」で宝暦の踊子の風儀を眺めてから、宝暦八年に書いた「江都 百化物」を見ますと、そこに見遁し難い與味の多い挿話が伝えられて居ります。林大学頭信篤と いえば、林家の六代目。道春の曾孫に当る人ですが、御役柄身持もいいことと思うと、これは思 いの外の化物である、仁義を説き、天下の大儒である人が、八代洲河岸の表二階に妾二三人、舞 子芸子を多く引連れて、浄瑠璃三味線で大騒ぎをすることが度々ある、御側衆大久保伊勢守が勤 役の時分に、あなたの御役柄不相応に見えるから、ちと御遠慮になった方がよろしかろうと注意 したので、その後は右の騒ぎも少し止んだようであったが、伊勢守が御役御免になった後は、近 所へも遠慮なく不謹慎な事が多かった、というのです。つまり当時に変った需要者と見られたの で、今日なら何とも思われずに済むところでしょう。昔は儒者だって人間なのを知らなかったな どというかも知れません。  それよりも宝暦に無類な立身出世をしたので評判の高い青山三右衛門、この人のことは当時の 随筆雑著にいろいろ書いてありますが、「江都百化物」は手品の種明しをやって居ります。御勘 定吟味役を勤める青山三右衛門という人は、元来身分の軽い者で、本高三十俵三人扶持、御足し 高で二の丸火の番を勤めていたのは二十年以前の話である、その頃は道楽者で、新吉原ヘ入り込 み、身上甚だ不如意であった、御番勤の衣服上下、大小さえ無いような有様であったが、当番を 欠くということはしない、どんな風雪の日でも引込んでは居らず、上下《かみしも》を質に置いて吉原通いを しながら、上下を著けずに常盤橋御門まで来て、同役の関根弥市が帰るのを待って居る、そうし て貴公は明番《あきぱん》だから貸してくれと云って、関根の著ている上下を無理に借りて、その日の当番を 勤める、その後御徒目付へ役替をして、御用懸りを首尾よく勤め、その上に妹二人を木瓜と巴ヘ 妾奉公に出した。この木瓜というのは老中堀田相摸守十万石、巴というのは若年寄板倉佐渡守二 万石のことです。  この妹両人から、いろいろ運動したので、御徒目付から直ちに小普請方へ役替になり、間もな く御賄頭になり、近年は布衣役御勘定吟味役まで昇進した、この分では天下三奉行にまで化ける かも知れぬ、まことに不思議な人物であるが、考えて見れば皆妹二人のする業である、殊に青山 三右衛門に実の妹は一人もない、二人とも養妹である、橘町の裏店に三郎兵衛という草花売が居 ったが、娘が二人あって、三郎兵衛の亡くたった跡は、母娘三人で暮して居る、この娘達は幼少 の時分から、一のや三五七の弟子で、踊や三味線の稽古をしていたのを、青山が母娘とも手前へ 引取って養って置いたのである。もともと芸子であるから、この因縁によって両家へ心易く出入 りするようになり、妹の方は半太夫節の上手だったので、相手の三味線は三右衛門が弾くほどの 始末であった、かようにだんだん化け了せた上に、自分は奥釣のいい女房を持って、猶又釣合が いいという話である。1こんなことが書いてあるのです。  巧妙な踊子利用者は当世随一の立身出世者でありました。草花売の二人の娘は、一のや三五七 に技芸を習ったといいますから、青傘で名高い三五七組の衛門と同じ組なのです。この頃の踊子 はまだ容色だけでなく、芸ありでなければいけなかったのでしょう。参政板倉佐渡守のような備 中庭瀬二万石の殿様でさえ、半太夫節が上手だったというくらいで、その頃の人は身分の上下を 問わず、彼等の技芸に対する鑑識があり、賞玩することを知って居りました。従って不見転《みずてん》では 値売れがしたかったのであります。 最初の吉原芸者  寛保三年に踊子が淫売の科条で検挙され、吉原町へ引渡されたことは既に述べた通りでありま して、彼等は刑罰の意味で公娼にされたのですが、その時の状況はよくわかりません。宝暦三年 正月の大検挙でも、吉原町は深川から百四人の公娼を得ましたが、その翌年の正月には例の吉原 細見の外に、「さんちや大評判吉原出世鑑」というものが出版されて居ります。その揚代の標記 の中に、     おどり子      ㎜三分印シ  外に川印シおどり子 とある。川印踊子が深川持込たのは知れたことですが、ただ「おどり子」というのはいささか疑 問であります。或は深川以外で検挙された淫売踊子かも知れません。  一体踊子は江戸市中で発生し成育したもので、吉原のも深川のも皆その分派たのです。ここに ただ「おどり子」と書いてあるのを、深川以外の踊子と解するのは、当時の吉原には踊子はない と思うからであります。手柄岡持の「後はむかし物語」に、吉原の女芸者というものは、扇屋の 歌扇にはじまるので、宝暦十二年頃には歌扇ただ一人であった、その後追々に外の娼家にも茶屋 にも出来て、細見の遣手の前のところに、「げいしや誰、外へも出し申候」などと書くようにな った、それより遙か後に大黒屋秀民が見番を立て、芸者踊子を肩書して、傾城同様に見世へ並べ、 客を取った娼家がある、新町の桐びしやなどがそうであったと思う、尤も彼等はうしろ帯で見世 に並んで居った、芸者というものはなく、傾城の中で三味線を弾いて唄って居ったが、多分新造 であったろう、三味線の出来る新造を揚げろ、などと云ってひかせたことである、と書いてあり ます。この中で特にうしろ帯と断ったのは、遊女は前帯だったからです。  宝暦十二年の歌扇以前には、吉原に芸者がなかったと岡持は云うのですが、この歌扇を吉原細 見に当って見ますと、宝暦十一年秋の「実語教」という細見の江戸町一丁目扇屋勘兵衛の処に、   げいしや歌扇   外へも出し申候 とありまして、同年春のにも十年のにも歌扇の名は見えません。十二年というのは岡持の覚え違 いでしょう。年度は間違っていても、果して歌扇が最初の吉原芸者であるかどうかと云いますと、 やはり宝暦十一年春の細見の「初緑」の江戸一玉屋山三郎の処に、   座敷げいしや   一角ッ、    ら ん    と  き   外へも出申候 とありまして、前年のにはありません。歌扇より半年前に吉原に芸者がいたのですが、それ以前 にはいたという証拠がない。踊子は勿論居りません。多分玉屋の二人が吉原芸者の最初でしょう。  そうなりますと「出世鑑」の疑問も、土地に在り合せた者としては解釈出来ません。何処とは 云われないが、ただ踊子であったという標示で、吉原へ来れば遊女なのです。もし玉屋の二人や 扇屋の歌扇の如き者でありましたならば、遊女と同列にしないで、芸者なり踊子なり、その立場 のまま記載さるべき筈である。それが踊子と標して遊女と同列に置かれたのは、刑罰された踊子 であることを証明して居ります。吉原には宝暦の末まで芸者がなかったのです。  この「吉原出世鑑」は「さんちや大評判」と副記してあります通り、主として散茶を品評した ものです。当時の吉原の妓品は太夫、格子、散茶、六寸、つぼねの五級でありまして、散茶は《 瓜くの三種の標識により、金三分、金二分、金一分の三等に別けてありました。  散茶は太夫格子に次ぐ第三級の遊女ですが、当時は銀九十匁(金一両二分)の太夫も、片仕舞 といいまして、夜だけ買えば半価の四十五匁にたる。銀六十匁(金一両)の格子も同じわけで三 十匁なのです。もう吉原へ昼間出かける者はありませんから、太夫も格子も呼価《よぴね》は細見に書いて あるだけで、実際は半価のみで行われていたのですが、散茶の三分及び二分のは、何時買っても 割引をしなかった。ただ二分の散茶の中に片仕舞をする、即ち昼と夜の二つに売る女がありまし て、それが一分の散茶ということになります。呼価から云えば散茶は三分と二分と二種なのです けれども、二分の散茶の中に片仕舞をする者があるから、一分の女が出来て、都合三種の散茶に なったわけであります。  呼価は別にしまして、実際の代価から見れば、第三級の散茶は三分、二分、一分、第一級の太 夫は四十五匁ですから、換算すると金三分、第二級の格子は三十匁で金二分になります。従って 太夫は散茶の一等と同じ値段、格子は散茶の二等と同じ値段のわけで、どっちが高級なのだかわ かりません。申すまでもなく太夫は格式だけのものでありまして、その人数も廓全体で一両人し かないのに反し、散茶は格式はなくても、人数も多く、勢力も盛である。宝暦の吉原は既に太夫 格子の世界でなしに、散茶の天地になって居りました。  大名の吉原通いは延宝に絶えて、元文に尾州侯宗春や姫路の榊原政答が通ったのは、全く番狂 わせに過ぎません。旗本奴が凄まじい行装をして大門を出入したのも昔話になり、その面影は芝 居の上で不破名古屋の鞘当《さやあて》に見るまでのことである。元禄以来の吉原は町人等に占領されてしま い、宝暦には武士も町人風に姿を翼して通う有様でありました。承応年中に湯女から吉原へ飛び 込んだ勝山などは太夫の列に就きましたが、宝暦の踊子は散茶にたって居ります。然もその踊子 は嘗て大名旗本を目がけて出発したものたのですが、こうなると格式よりも実際の勢力を考えさ せられます。格式の喜ばれないのは町人向きがしないからで、踊子もだんだん見識とか品位とか いうことを失い、時勢に引摺られて適当に変化して往ったのです。  この「吉原出世鑑」で見ましても、「川印おどり子」で一等の散茶になった者が七人、一.等三 等の散茶になった者が十余人ずつあります。百四人あった深川の被検挙者には、芸なしの枕だけ のも多かったのでしょうが、その半数も散茶になって居りません。そのくせ宝暦五年版の「交代 盤栄記」などを見ますと、当時の遊女がただ酒をよく飲むこと、客を大切にする、特に老人客で も粗末にしないことを頻りに褒めて居ります。それほどな事なら誰でも名妓になれそうなもので すが、深川の連中が半数以上も散茶になれなかったのは、容貌が選択されたでしょうか。何と云 っても吉原では、まだまだ品位格式が忘れられぬので、容貌も吟味されたのでしょうが、品位が 問題になって落選したものと思われます。踊子が一般に時勢に追われて下落する中でも、深川は 別けて卑品であったらしいので、深川の踊子が散茶になったということが、標客の好奇心を唆っ て吉原へ引付けた時、他の在り来りの散茶に比べて見劣りがするようでは、景気にもなりません し、又土地の権威にも関係するわけですから、品位について厳選もしたものでありましょう。 「吉原出世鑑」で格別に注意を惹きましたのは、京一伊勢屋甚助の処に   ㈹いぴ  主水 とあることで、踊子でなしに芸子となって居ります。 芸子とあるのはこの主水一人で、その他に は見当りません。京都では今日も芸子はん舞子はんと呼んで居りますから、珍しくもありません が、江戸で芸子というのは全くないことはないにせよ、甚だ少い例であります。「子」というの は子供の心持なのです。  ここで思い出すのは湖竜斎らしい絵本「ロ雅交合之記」に「おいちさんもはをりでござんした が、とこげいしやになりなんした」と書いてあることです。天明三年版の「古契三娼」には、米 蝶、弁天お勘、木綿屋おきちなぞという名取の床芸者があって、その時分は押並べて仲町の事を 八幡町といったそうだとありますが、これも宝暦度を回顧して書いたのです。深川には床芸者と いうのがあったと見えます。床芸者は踊子の年|閲《た》けたので、無論子供放れした十六七から先の者 ですが、「吉原出世鑑」の芸子は踊子の蔓の立った二十歳以上の者を、踊子とも云いにくいから、 芸子といったのです。これは他の芸子というのとは違ったらしく思われると共に、後来芸者と呼 ばせた「者」の字は年齢を意味するので、一人前になって居る表示のようであります。 大黒屋正六の見番  芸者踊子のなかった吉原には、太鼓新造というのがありまして、唄いもすれば踊りもしたとい いますが、この往き方はU加の太鼓女郎と同様であります。それに茶屋の女房や娘を取持と云っ て出かけて来た。元文頃の話らしいですが、吉原の琴屋庄右衛門の娘が姉妹ともに琴の合せ物が 上手だったので、蔵前の坂倉屋がその姉妹を連れて浅草川の涼み船へ出て、二人の得意の芸をや らせた時には、その近所で河東を唄っていた船を沈黙させてしまったといいますから、取持に出 て来る茶屋の女房娘の芸にも、随分秀逸なのがあったわけでしょう。  玉屋から座敷芸者が二人現れ、続いて扇屋の歌扇と、角町の大黒屋十右衛門から、げいこ豊竹 八十吉とが出ました。宝暦十一年の春には二人だったのが、秋には四人になって居ります。明和 になっては惣数三十人以上になりましたが、娼家にいるのは芸子と書き、その外のを女芸者と書 いてあります。娼家以外に居住する者は、都何太夫、豊竹何太夫などと名乗る芸者と一緒だけに、 女芸者と断って書く必要も起り、又そうなると男芸者と云わなければわからなくもなりました。 ここに至って気のつくのは、歌舞伎には芸者役者の唱えはありますけれども、人形芝居では太夫 を芸者といい、人形遣いを役者ということです。ただ一芸ある者という意味だけでなしに、浄瑠 璃太夫からの因縁で、人形芝居の通言が強く影響しているらしい。踊からの芸者は歌舞伎諸座の 用語から云い、声曲からの芸者は操座《あやつり》の通言に従うのでもありましょうか。  従来の男芸者は皆娼家の外に住んで居ったのですが、女芸者が増加するにつれて、娼家に抱え られた者の外に、置屋に抱えられたのや自分稼ぎのが娼家の外に住居するようになりました。大 黒屋正六が男女芸者の数を百名と限り、見番を設けてその取締をすることにしたのは、安永八年 の事ですが、この正六は俳名を秀民といいまして、十八大通の一人に算えられた男です。「碁太 平記白石噺」に大黒屋惣六として、宮城野信夫の抱主に持えたのも、作者の烏亭焉馬が懇意であ った正六の風采を標本にしたのであります。  見番の出来ました翌春、安永九年の細見によりますと、男芸者が十九人、女芸者に娼家の抱が 四十人、そうでないのが四十八人あります。すベての芸者は悉く見番の支配でありまして、特に 女芸者は遊女の本職を犯す嫌いがありますから、格別に厳重な取締を必要と致します。見番創立 の際の規定は知りませんが、寛政の規定にはこんなことが書いてある。1芸者どもの勤め方並 に身持に不将な事があっては、吉原町一同の商売の障りになるから、かねて正六方より厳重に申 付けてあるが、猶以て相慎み、衣類も御法度の類は著用せぬように、髪飾も出来るだけ地味にし て、櫛一枚管二三本に限り、格別目立つことがないように、茶屋より芸者を雇い、門外に連れて 行こうという客があっても差出さぬように、女芸者組合を定め、その組々に世話人をつけて、万 一客に通じ合うような不将な儀があったならば、遊女屋の妨げになるわけだから、不将の筋合が ないように組々で吟味させ、男芸者が遊女と通じ合ったり、或は遊女が馴染の客を外の遊女に取 持ったりすることのないようにする、もし男女芸者とも之に背いたら稼業を差止める、というの です。  女芸者と客との間を遮断し、遠出による廓外での犯行を懸念して、大門から出さないことにし たので、その処罰は営業禁止と定めました。その上に茶屋に媒合容止等の行為があって、女芸者 の中宿に紛らわしく見えた場合には営業を停止する、その両隣の茶屋も連坐させて休業を申付け るとあります。この寛政の規定を見れば、見番創立後も十分な取締の行われなかったことがわか るので、まして見番のない安永八年以前の事は察することが出来るわけであります。併し寛政の 規定は遺憾なく実行されまして、吉原芸者は全くの色なしで、専ら才芸を以て長く濟輩を圧し、 一方の権威として前後八十年間を過したのです。  寛政規定以前の吉原芸者は純白ではなかったのですが、世間には宝暦の初めから吉原に踊子が あって、その踊子は遊女を兼ねたものだという説もあります。これは処罰として公娼をさせられ たので、踊子という肩書があっても踊子ではない。元踊子であったというに過ぎません。ですか ら吉原に踊子はないのです。明和六年の細見に芸子二十七人と踊子一人とを挙げてありますが、 前にも後にもただこの一人だけたので、遊女にされた元の踊子は遊女なのですから、話が違いま す。寛政規定以前の芸者が如何に鼠色なものでありましても、遊女兼勤などということは決して ありません。 吉原細見での歓迎  踊子は元禄以来一再ならず変革しましたが、何時も世間から喜ばれて居りました。たしかに江 戸の人気者に違いありませんが、その人気者を廓内へ取入れて、吉原芸者というものの現れたの が、宝暦の大検挙によって深川の踊子が廓内へ投げ込まれた後であったことは、何処からの影響 であるかを教えて居ります。吉原芸者は深川の系統なのです。宝暦四年の春には特に「吉原出世 鑑」というものが出て居りますが、これは深川の踊子が吉原の遊女になったので、闇の女が明る みへ出たというところから、出世といったものでしょう。定例の細見は如何なる態度で、深川か らの珍客を迎えたかと点検しますと、これは又平時とは違って、巻末に二丁の付録、即ち珍客歓 迎の頁ともいうべきものがあります。「去年の春、深嶋の名婦、此地に飛で色香盛也、故に思わ くの遊人、尋《たずぬる》に安《やすく》、見《みる》に早からむが為に、如レ此に後文に記」とあるのは、その歓迎文とも見ら れるでしょう。これから深川での名と吉原へ来ての名とを対照してありますが、櫓下はや印、三 十三間堂は三印、仲町は中印、大橋は大印、土橋は▲印という風に出処を記し、踊子はヲ印、呼 出しはヨ印、芸者は一印と品類を分けてある。淫売踊子の入廓ははじめてでなく、毎度のことで はありましても、今度は人数が多いだけに、廓内のみならず、世間の人気を煽って、異常な形勢 を呈したらしいので、然る後に吉原芸者が生れたのです。  この細見付録によって、深川では江戸の町より早く、芸者という唱えのあったことが知れます。 深川は古い私娼地ですが、享保二十年頃には、頻々たる検挙と悪者のゆすりとの為尺表裏から 圧迫されまして、盛であった永代寺門前のそれ屋も商売にならず、追々に数を減じて二三軒にた ってしまいました。そこへ芳町新道から菊弥が引越して来て、唄のお師匠さんというので茶店を 開きましたので、江戸での馴染客がどんどんやって来る。それが繁昌のはじめで、遂に仲町とい うものになったのです。菊弥が何故に衰微した深川へ転居したかといいますと、芳町は後々まで 蔭間で知られた場所ですが、菊弥はなかなか発展家だったらしいので、蔭間から苦情が出て、土 地に居られなくなり、已むを得ず八幡前へ転じたのであります。  元文度の大風で破壊した三十三間堂も、寛延二年に長右衛門、弥七の二人が十五年間に再建す る条件で、草叢《くさむら》になっている堂坂の外側へ茶屋町を持える許可を得まして、三年七月には二三軒 の茶屋が建っただけでしたが、町奉行能勢肥後守の後援で再建工事は滞りなく進捗し、宝暦二年 四月には落成して入仏供養という段になりました。この入仏供養の盛況は「栄花遊二代男」に委 しく書いてあります。十五年どころか、僅か四年で三十三間堂再建に成功したことは、何よりも 深川の景気を製造するのに有力でありました。  宝暦の深川は既に景気づいて居りましたので、従来私娼地ではありましたけれども、もし菊弥 の来住がなかったら、繁昌はしても平凡な私娼の群居になるところだったかも知れません。それ が橘町と並んで踊子を名物とすることになり、何時までも仲町が深川繁昌の中枢を占めていた根 本は、菊弥の移住にあるのです。後来なにほど私娼地が増殖しましても、踊子があるために深川 が威張れもすれば、仲町が光りもするので、その深川と踊子とを繋いだのは菊弥なのですから、 仲町の踊子は芳町の系統、江戸芸者の分派であるのは申すまでもありません。  宝暦十一年版の「風流源平浮世息子」に「名も深湊に色なき事は故人世之助だも筆を捨し、清 浄のみなとなれば、た父寺々の鐘の暁こそ、世のきぬぐなるべし……七賢十二間の奥行ふかく、 琴三味線の師、ほうしらしき弟子共数多あれども、指でもさ三せぬ生娘《きむすめ》なれば、傾国ならぬよね 共を君のおとぎに髭末《そまつ》なり」とありますが、七賢というのは八幡の境内に茶屋が七軒あったから で、十二間は元文二年に開けた神橋町を、俗に十二問といったのです。ここには踊子と売女と二 様ありまして、踊子はとにかく売笑をしない、外聞だけでも生娘の体面を持っていたらしいです が、同じ書物の中に「師弟の芸娘共」とか、「此里の師弟の子共衆」とかいうことがある。踊子 でも素人の生娘の体であり、勿論年齢も長じて居りませんので、真に子供と云っていい頃合でも ありました。  けれども又「たとへ世に名高き高尾薄雲たりとも、ひそかに一夜を明しなば是常ていの遊び也、 又此里の芸女なりとも計策の風流を以て盃の相手となさば大尽たるべき遊びならん」と云ってあ りますように、江戸の踊子は娘で往ったのを、深川ではその上を往って生娘と出かけたのです。 そう出ると客の方でも売らないものを買おうとする。そこに遊びの興味を募らせるものがあって、 宝暦十一年の「深川珍者録」の序に「遊里はやぐら下踊子等、日本一にして風俗格別しほらしく、 ちらりと見たる尻目遣ひには人の魂を鼻先へ釣上げ、二軒茶屋の三味線に足本のつまづくをしら ず」などとあります通り、有頂天にしたのであります。売らないといっても必ず売らないのでは ない、生娘も看板だけのものなのですから、風来山人は宝暦十三年版の「根無草」で、「した、 るくて、ぴんとするものは色ありのおどり子」と云い、同じ年の「風流志道軒伝」では「深川の ぴんしやんも度重れば飴のごとし、和《やわらか》で歯に付ぬ」などと云って居ります。 深川高尾の米蝶  そこで寛政二年版の「文選臥座《もんぜんござ》」を見ますと、「まづ深川での高尾と云は米蝶といふのぢや、 ……米蝶といふのは仲町の芸者で、家名が米屋といふたぢや、そこで米蝶といふたげな、馬文耕 が作東都著聞集といふ写本物に米蝶が嶋鵯《しまひよ》をはなした事を書たが、又三浦の薄雲が伝にも山本の 勝山が伝にも鵯をはなした事が有が、いづれがまことやら、これはむちやぢや」と書いてありま す。勝山は京町二丁目山本助右衛門|抱《かかえ》の散茶で、町奉行甲斐庄右衛門の寵愛を得た元禄の全盛で すが、或時甲斐庄が、当時は売買にない朝鮮渡りの鵯鳥を、金銀の網で持えた立派な籠に入れて 与えた。すると貰った勝山は、美しゅう生れたればこそ窮屈な籠の鳥にもなる、我が身のトに思 い合せて、不便《ふぴん》でならぬといって放したというので、この逸話は世間で珍重がるものを惜気もな く放した、勝山の気前のいいところと、物のあわれを知る優しさとを宣伝するに在るらしいので す。同じ話が宝暦に深川高尾といわれた米蝶にありますのも、ただ年代が違うだけで、鵯鳥が宣 伝の材料になったのは同様であります。  米蝶の母は深川伊勢崎町に住む寡婦で、二人の娘を育てるために比丘尼になって、毎朝鉢開き に出たのですが、そのうちに姉娘の方は宮古路数馬太夫の弟子にたり、采女が原の切通しへ出て、 その日その日を稼ぐし、妹は米蝶と名乗って芸者に出た。唄や三味線は上手でもなかったけれど も、何しろ美人である上に、座敷の取廻しが上手だったので、洲崎の米蝶と云えば誰知らぬ者も たい全盛になりました。母親が貰って来た鉢米で育てられたから、本名のおてうを米蝶と呼ばれ たので、それほど苦しい中で成長したに拘らず、米蝶は気の大きい女でありまして、或日土地で 名高い弁天おかん、木綿やおりきと三人連で、仲町の鳥屋の前へ来かかりますと、大勢の人が立 止って鳥を見ている。当時は小鳥が流行して、殊に渡り物の外国鳥が喜ばれたのですが、米蝶等 も羽色の綺麗な鳥がいるので、思わず足を止める。鳥屋の亭主はこれを見て、これはこれはお揃 いで何処へおいでか、とお世辞の末に、皆様に見ていただきたい結構な鳥がありますと、一つの 鳥籠を持出して来た。  実はさる御方様から御預りの品ですが、これは朝鮮渡りの嶋鵯で、代金なら三十両というとこ ろですと、亭主は自慢顔に見せる。今まで立止っていた見物も、これはと瞳を凝《こハリ》すところを、米 蝶は、可哀そうに、美しいのが因縁で籠に飼われる、さぞ広野に出て思うままにのびのびといた かろう、そうした苦労は身につまされて悲しい、お金は米蝶が払って遣りましょう、サアサア早 く飛んで行きた、と云って籠をあけましたから、鵯は大空遙かに飛び去った。鳥屋の亭主も見物 も呆れて口が塞がらないでいると、米蝶は涼しい顔でその代金を支払ったというのですから、よ ほど怜捌なやつであったと見えます。これでは評判にならぬ筈がない。勝山よりも更に往き方が 鮮明でありますが、この時宝暦の金で三十両の融通がつくだけに売出していたのです。深川芸者 だからと云って、決して馬鹿にするわけには参りません。  同じ頃仲町富吉屋の芸者であったおいよは、湯上り姿の櫛巻で知られて居りました。これは越 ケ谷生れの美人で、三味線も上手でしたが、第一座敷持でありまして、厭味のない女であるとこ ろから、本町伝馬町の客筋に騒がれた。そのおいよに二代目坂東彦三郎が通い初め、女も嬉しが って逢瀬を続けているうちに、今度は二代目の瀬川路考に熱くなって、半年ばかりの間に他のお 客が厭になり、遂に富吉屋を抜け出しまして、押掛女房と出かけたのですが、そうも往かずに浜 村屋の囲い者になりました。安永天明の十八大通でさえ深川は顧みません。大尽遊びをする者の 往くところではなかったので、吉原は野暮で深川が粋だというようになったのは、大分後の話で す。おいよが町人客に晶屓されたと云っても、旦那衆を引きつけたわけではないのですが、深川 では近所の旗本御家人から賑わされるよりも、町家の者どもによって繁昌したのであります。 「人は武士、花は桜と歌はれながら、なぜか女郎にや好かれない」という模様は、既に宝暦の深 川に発生して、それから吉原へ蔓延したのです。  仲町の本屋のお六は貸本屋の娘だったといいますが、当時知られた芸子でありました。米蝶に しても、おいよにしても、お座敷だけの女ではなかったので、おいよは二十五の時に検挙されて 吉原へ遣られ、刑罰の三年、正味二十四箇月の公娼に服して、満期後に深川へ再勤し、又検挙さ れて二度目の吉原服役を済した上、深川ヘ三勤したので、宝暦八年には三十二歳の芸子だったの です。二十五歳というのが芸子には相応しない年齢なのですから、まして三十二歳では云うまで もありません。芸子が芸親、芸婆アになる。気は子供のようでありましても、身心は年を取らず には済せない。深川のみならず、芸子踊子に年長者の多くなって往くことは、拒みきれぬ事実た のですが、特に深川にはその傾向が強いのです。又頻々たる検挙沙汰に忙しかったのを見れば、 色ありも色なしもあったものではない、皆お揃いで行儀が悪かったらしいのです。中村仲蔵の 「月雪花寝物語」の中に、仲町起立の事を書いて、「夫《それ》より女芸者出来申候……其内に心ある芸者 出来申候を、ころぶと申候て、外にころび芸者とて別け申候」といって居りますが、不見転と不 見転でないのとを別けただけで、結局ころばないのはないわけである。これは寛延元年頃の話で あります。  延享元年の謎に「土屋兵部少輔を見て、踊り子あがりぢやと云、其心は二度勤も三年程には仕 まふ」というのがありますが、この頃にはおいよのようなのが沢山いたから、二犯三犯の淫売踊 子も珍しくない。そこでこうした謎が出来上ったのです。「吉原出世鑑」の角町赤蔦屋のゆふな ぎの条に   此人元大かなやにつとめ年明《ねんあき》、深川へ行、また此春かゑられし故、紋の蝶にことよせ、    帰り花又来る蝶の姿かな などと酒落らしく風流めかして書いてある。大かなやは江戸町一丁目八郎右衛門のことですが、 これは淫売再犯の服刑中なので、「此春帰られし故」にもないものだと云わざるを得ません。宝 暦元年に検挙され、漸く二十四箇月の刑期が満ちて、踊子には刑務所であるところの吉原を出た のが、同四年の春には又服役のために吉原に来ている。一体娑婆に幾月いられたのか、あっばれ 彼等は淫売常習犯でありまして、何の酒落も風流もない、呆れ返った話であります。ただこれに よって踊子の風儀が知れると共に、世人も亦ヶイドゥに馴れて、平気で眺めていたことがわかる のです。 豊後節伝来の羽織 「女芸者の事を昔はおどり子といふ、明和安永の頃より芸者と呼び、者《しや》などとしやれたり」と大 田南畝の「奴凧」にあります。芸者という唱えは明和以前にもありましたが、それは一体のこと でありませんので、深川が最も早く、吉原はその後なのです。「奴凧」にあるのは、江戸の町芸 者まで一様に踊子といわなくなったということなのでしょう。明和八年版の「操草《あやつり》紙」に「三 絃ひかざるを芸者とし、ひくを羽織とす、羽織芸者はおりく役者をとりかへ、男芸者は時々毛 蔑をかぶる、尾花屋のおなかは娘評判記にものりたれば美なる事しるべし、土橋またをかし、狩 野のお七は雲竜をか\んため身をしづめたるにもあらず、いた子のおしほは座敷にふざけ、上総 のおりへは閨中になく、かぎやのお筆がうつくしき、河辺屋のおしほがちよくら、深川第一と 称すべきか」と書いてありますが、何しろ私娼地だけに、逸品を列挙して見たところで、どれが 三味線を持つか持たないか、容易に弁別がつきません。ただ名高いのは羽織でありまして、吉原 芸者江戸芸者と懸け隔てるためにも、深川のを羽織と呼び分けたとさえ伝えて居ります。  芸者の唱えが安永八年、吉原見番創立の時からの称呼だとする説は、この「操草紙」の摘録だ けでも破れると思いますが、何で羽織といったかは多少の考索を要します。女の羽織については 「昔々物語」や「下手談義」をはじめとして、延享宝暦度に随分猛烈な非難もあり、著用差留め 法令もありましたが、これは豊後節の流行に伴う趣向で、首振芝居の子供役者の風俗を真似たも のらしいのです。従って少男少女だけの扮装でなければならぬのですが、大正の女学生が二十歳 にたっても肩揚の取れない心理は、江戸の昔にもたしかに遡れるのでありまして、若返りたいの が子供がることになり、相応しない年輩の者までが少女の著付を好む。それも豊後節の首振役者 から深川の踊子が引受けるのは、似寄った境涯だから無理もありませんが、更に二十年も隔てて、 富本豊前太夫が大いに行われる安永度になりまして、町の娘子供が富本を習う限り、桜草の紋を つけた羽織に若衆髭を結ぶ時、婦女は長幼となく羽織を著るようになりました。安永三年の「里 の苧環《おだまき》の評」に「世上の女の羽織著ると、サツサヲセくの浮拍子と、皆此里を初めとす」とあ るのは、深川に豊後節が余計に染《し》み込んで、早くから羽織を著た少女がいた為であります。  橘町の踊子が青傘を流行させましてから、女の羽織も亦踊子が世間に与えた影響の一つに算え られます。この外に深川芸者の風俗から民間婦女へ伝播したものは、帯の幅が広くなり、著物の 身幅は狭くなり、例のあぶな絵に描かれたような、股まで見せる行歩や、化け無垢や、おさらば 結びたどいろいろありました。  女髪結の如きも「後見草《あとみぐさ》」の安永九年の条に「深川茶屋向にて上方女の髪の風を結ひ申すもの 有之、今は所々にて女髪結といふ女商人あり」と見えて居りますが、寛政になっては江戸の町家 へも女髪結が出入りするようにたりました。その起原につきましては、上方の女形山下金作が江 戸へ下り、深川の永木《えいき》に住んで居った。二代目金作は宝暦二年、明和七年、寛政六年と三度東下 して居りますが、この金作の覧屋《かつらや》が仲町芸者に馴染んで、その女の髪を金作の髪のように結って やった。それを朋輩芸者が羨んで、例の髪屋を頼んで結って貰う者が多くなり、後には一度二百 文の結い賃を取ることにした。その髪屋の弟子甚吉という者が、女の髪結を職業として、寛政二 三年の頃八丁堀に住んでいたというのです。この山東京山の説に誤りがたければ、これも亦深川 芸者の流俗であります。  安永五年刊の「契国策」に「よび出しといふのは女郎なるべし、げいしやも男は格別、女子は ころび、はをりと別かるといへども、羽織とても年のゆかぬ内こそあれ、年頃になりては是も口 ぎれいには云はれじ」とありますが、「仕懸文庫」には「髪ぢやア子供羽織といふが、鳥羽瀬ぢ やアやつばり女郎芸者と唱へるによ」とある。「袋」というのは仲町、「鳥羽瀬」は土橋のことで す。どれが歌妓で、どれが娼婦なのか、誰か烏の雌雄を知らんやというところですが、これで見 ますと、羽織というのは最初子供から起って、後に成人した者が妄りに扮装し、濫りに唱えさせ たものであることが知れます。 娘評判記の娘  明和四年の「浮世三幅対」に   しんじつの娘も逃げる、    深川中町お市、同おぬい、大はらおかん とありますが、江戸の町では踊子が娘で往くのを、深川はその上を越して生娘を気取ったのです。 けれども明和二年版の「当世座持話」に「宮本の奥の亭には浄瑠璃端うた、出立《いでたち》ばヘよき踊子の 丹前姿しどけなく、手枕ふりし寝みだれ髪、タベの盤にふり乱し、女とも見え、また男とも、羽 織芸者の擾音《ばちおと》高く引立る一さわぎ」などとあるのを見てもわかるように、こんな中にオボコな娘 らしいのがいたでしょうか。「岡場遊廓考」によりますと、明和六年の「評判娘名寄草」には芸 者、茶屋女、楊弓、土弓場、踊子を打込みにして、二十八人の評判を試みた巻頭に、日本橋の文 字久、笠森のおせん、麻布の瀬川お兼を挙げ、橘町から、おかう、おかね、おむめ、弁天おみつ を抜いてあります。踊子芸者を別にしたいで、いずれも娘というので打込みにしたのですが、そ れでもさすがに良家の処女と混ずることはありません。  明和版の娘評判記「あづまの花軸」には、踊子ばかり十七人批評してありますが、いずれも路 考娘、盛府娘というように、容貌の似た俳優の雅号で書いてある。又その所在は橘町、中橋が各 二人、麹町、深川、品川、並木、蔵前、馬道、神田、馬喰町、横山町、京橋、日本橋、土手下の 十二箇所が各一人なのを見ますと、この頃になって踊子の分布が著しく拡大されたようです。彼 等の年齢について、「そろく年増の部に入るといへども、いろつや十五六に異ならず」といい、 「もはや中年ならんが、其わかき事いつも十四五と見ゆるたり」とありますので、踊子の一般年 齢が知れるわけですが、同時に二十歳を越えて眉毛の逆立つ三十歳までも、娘気取の踊子ですま し込む者が多くなったのがわかります。この頃では踊子の寿命が十年も十五六年も延長されまし て、諺にいう三十振袖四十島田が実際に見られたのです。  それですから明和六年版の「当世穴さがし」には「子供をよぶといふおもてむきで、麹町のお 組がよふな大ぽやを引ずりあるき」などと書いてある。「大ぽや」というのは二十歳を越した女 のことで、それでも子供であり、娘であるのですから、びっくり仰天させられるわけであります。 併し当時の人は、こんなことに慣れていたものか、更に驚きません。これは畢竟踊子の年齢が急 激に増加しないで、緩勾配に伸びた為でしょう。世間の習俗から申せば、十六七を嫁入盛りとし て、二十歳以前に初々しい女房姿、眉青く歯の黒いところを見せるのが通例なのでありまして、 それに比較すれば踊子風俗は人妖とでもいうべきものである。娘という以上は必ず子供でなけれ ばたらぬのです。  この娘評判記の中には、「男よりも物に速なる気性」と歌われた花暁娘もあれば、「生酔の抜 き身にて騒ぐ所を腕まくりして組み留め」た園枝娘もあり、又脛もあらわに大股に歩く癖の三朝 娘などもあって、それらが西日の暑さを避けず、日傘を真直に持って、助六の出端を真似ると評 判され、間もなく芝居の舞台の上に女助六が大喝采を博する。飛び上りが「おきゃん」といって 却って興ぜられ、男らしい気前や挙動が、さっぱりしていいと喜ばれることにもなりました。  キャンというのは男伊達、もしくは通り者の気持でありまして、文字には侠と書いてあります。 明和八年の倹約令に擬した戯文の中に、「御旗本惣じてキヤンの面々」とあり、相応な武士にも キャンのあったことは事実ですが、それは民間に発生した気分なのですから、武士から下ヘ移っ たものとは見られません。旗本奴が羨しくて町奴が現れたのとは違います。同じ年の謎に「蔵前 者神田者とかけて、犬がりととく、意《こころ》はこゝもきやん、かしこもきやん」とある辺りが、多分そ の根原でありましょう。  元禄の末から享保元文にかけてのキオイは、採鉱の用語から来たもので、古くは馬子や船頭の 意気を見せることでありました。そのキオイを承けて、宝暦以降にキャンとなり、寛政頃から文 政を盛りとしてイサミとなりましたが、それが安政には「間夫《まぶ》にするならいなせはよしな、ナン ダイあげりや、しかけがとんでゆく、ヨイヨイノナンダイナンダイ」という流行唄で知られるよ うに、イナセになりました。江戸ツ子と称する労働階級の蓬頭に伴って、これらの趣味趣向が目 立って参りますので、キャンの如きも江戸の民衆化を表示する意味に於て、注意すベきことでは ありますが、温和とか円淑とか、徳操ある処女の風儀としては、こうした江戸ツ子かぶれは似合 しくありません。  それから又「木娘《きむすめ》と見ゆる」井花娘というのがある。まことに意外なのはこの世界でありまし て、今日でもあの連中には思いもよらぬ人物が居ります。この「あづまの花軸」の序文に「おわ かい方には御近所の芸子などは、そのなされかたにて、物いらずに御手に入る法も有」といって いるのは嘘ではないので、彼等の中には世馴れたいのがあるばかりでなく、浮気で惚れツぽいの も多かったに違いないのです。 「寸錦雑綴」の中に断片を見せた明和六年の読売、「見立三十六歌撰」にも、浅草住吉屋おとみ、 鍛冶町おいよ、中橋文字民、橘町弁天おみつ、おかね、笠森かぎやおせんなどの名があります。 又「名代娘六花撰」には、笠森おせん、楽焼おとわ、路考おみち、ござやおいと、柳屋おふぢと、 深川の呼出し尾花屋おきよとを挙げてありますが、いずれも打込みに娘扱いにしたばかりでなく、 呼出しと云えば三味線を弾かない床芸者でありますのに、そのおきよまでも同一にしてある。こ の頃になりますと、娘という言葉が年齢を離れたのみならず、すべてに背いて妄用濫用されたこ とがわかるのです。明和八年のチョボクレに「娘子供が芸者にたるやら」とあるのは、文字通り 処女から妓流に入ったと解して差支ありませんが、「娯息斎詩文集」の践に「娘変成二|妓女《げいしや》一」と ある方は、踊子が名称だけ変じたものと見なければなりません。 風来山人の奇文  平賀鳩渓は「お千代伝」を書きまして、船饅頭の口を借りて安永芸者を罵倒しました。当時の 風俗をよく写してもありますから、少々長いけれども引用して置きます。   是からはおめへがたの棚卸しじや、まづおとびさんのさして居さんす、斑《ふ》なし驚甲のむな高   櫛にしのぎの笄、前管の銀目から、安積りに見倒して十八九両が物はある、柳茶の織子の帯 に縮緬|単衣《ひとえ》のぶつかさね、蝦夷錦のどんぶりぐるめ、是も十両からが物はしつかり、サアそ の金の出所を尋ぬれば、おめへ方の昼夜の勤めが、二人しばつて三歩づ、、た、きわけにし た所が一歩二朱にしかならねヘぞヘ、月三十日売詰めて鐙路《あぷみ》張り十両余り、その内を百助が 拘杷の油に、下村の舞台香、油元結髪結代店賃から飯米から、と、さまか二さま、廻しの仕 著せ、内を出る時うちかける火打鎌に火打石、こつぽりの下駄に寄せ緒の裏付《うらつけ》、諸式くるめ て勘定した引残り、おめへ一人の身じんまくにも足りよふかへ、そふして見れば定式の外に 貰ふ客が、たんとなくては一日も暮らさりやうか、又金をくれる旦那じやとて、むしやうに くれるものでもなし、其処がかのころぶとやら、けつまづくとやら、た父は起きぬつかみ金 山、寝ずにとる薬とは、ほつてもゆかず、うはべばかりは娘の命《みこと》でも、御本地は正八幡、売 女からつりをとるは、おめへ方の身の上じやぞへ、惣じて世間の諺に泥鰭の事をおどり子と いふは、汁がおもじやと云事なれど、いま時のおどり子に汁気が有たら、それこそほんに二 ツとない鼻ツかけじや、又いL衆の前に出るのを見へらしう云わんすが、取りも直さず狩こ ろや猫の子をお膝のもとへ引付てなぶりものにたさると同じ事、夫《それ》をよい子の振をして引か ける鼻の高調子、五分なかの板締儒絆で、座糸の三をきゆつくといわせ、菊岡が継三味線 に千枚張の面の皮、さりとはばち当りのさいじりは、ろくでもない声自慢、春は桜の向島、 客の羽織を引掛けて、置手拭の鼻唄に、裾はばらくばら緒の草履、蹴廻しの裏模様、漏れ 出る浅黄の縮緬は尻喰観音の御戸帳か、羽織の看板と思はれて好《このも》しげは微塵もなし、夏はす ずみの屋形船に二度の月見を括り付、冬は雪見の二軒茶屋、のたまくどののつぐ酒を新川の 前垂同然に酒びたしに成た著替の膝へ受けこぽしてざつぷり云はせ、平気で袖で拭つて見せ るは、替りの小袖をしてやらふと、理詰めでいわせる下心、ある時は又座敷もなく、ねツか ら隙な時分には御機嫌伺ひと持へてお得意方へ押して参上、御祝儀なしのた二まりは打ツち やッても置かれやるまじと、舌嘗めづりの厚かましさ、又ちつともひけそふな息子と見れば、 足駄をはいた生酔の如く、ころぶよふでころばぬよふに、面白をかしくだましかけ、モシわ つちが内へ来なさへと、めりやすの稽古は表向、仕出茶屋へい\付て喰ひたいものを取寄せ て、跡の払ひは息子のふところ、又其の上に小釣はみんた手前へ掻込み、又用をい、付ける のを鼻に掛けて、茶屋のおちさんに飯の菜をねだつてやる、さす手引く手がみんな慾づら、 其内にもふちつとい二鳥が掛ると、さきの息子をとらまへて、今朝も湯屋へ往く道で、お前 の来なさるのを近所の若い衆が色々に毒突きやす、あれでは喧嘩でも仕掛やしよふから、是 からはこつそりと屋根船で出やしよふと味にもてなし、息子が足が上つた跡へ引摺込、今度 のお客はから頭から惚身で仕かけ、おやぢは用事と表へ外せば、お袋は念仏講、つい其内に、 ちよくけまちよけの魂胆で、畳替へもねだり出し、竹格子が透し窓の黒塀と変れば、其の 跡変じて落ち間のくり石、隅にちよつこり布袋竹《ほていちく》、光り手合が持て来た不動様の御縁日に買 つた鉢植、薬師様の御縁日に買つた石台《せさだい》など、向ふの方へづらりと並べ、竹賓の縁に擬宝珠 の焼き物、飯銅はんぞう耳盟、楽屋鏡台が立派にでき、手前雪隠の普請も済めば、一夜検校 半日乞食、段々栄耀に実が入て、取附け引附けねだりごとも、顔に汁気がある内ばかり、目 元に搬よる縮緬の、三十振袖になつて来ると、仕送り客もはなれて仕舞、又様々た男を食つ   た上は一通りなはいやになり、兄分とやら子分とやら、どふやらこふやら亭主にしても、綻   び一ツ縫はれねば、こそくりものにも人頼み、糠味噌へ手を入る\がいや、飯を焚くも手重   いとけんどん蕎麦で腹をつくろひ、菜はいつまでも取付のひしほうりが持つて来る座禅豆や   菜漬で仕まふ、当座のがれの自堕落世帯、まんまと身の上もち崩して、末は出居衆《でいし》の流れの   身、よくく運に叶ふた所が呼出し茶屋の娘と化け、又は其処此処の水茶屋ぐらいで、貧し   い暮しをするもあり、おめへ方も其の通り、何時迄若い身ではなし、今からそろく身の納   りを分別して置きなさるのがよさそふなものではないかへ。  如何にも彼等の生涯を書き尽してあります。  彼等の収入は一日一分二朱とすれば、三十日休みなしに稼いでも、九両二分余の勘定です。宝 暦十一年版の「源平浮世息子」に「此湊の妓婦ども残らず線香なしの切遊びになされ」とあるの を見れば、明和三年版の「当世坐持話」に「芸者は線香を時計とす」というのも新しいことでは ありません。同じ書物に線香一本を二朱、十二匁、或は百匁と定めたとありますが、二朱は一両 の八分の一、十二匁は一両の五分の一で、銀六十匁を金一両に換算することになって居りました。 同じ線香一本でも甚しい料金の懸隔がありまして、これではお千代の云ったのと出合いません。 当時の揚代は金二分で、線香二本ほどの間だといいますが、天保の頃には線香一本が金一分で、 午前六時から午後十二時までを五本金一両一分とし、午後六時から十二時までは三本金三分とす る。昼夜|仕廻《しまい》は十八時間で五本、夜だけならば六時間三本の計算になるのですが、天保を以て明 和を推すことが出来ないように、私どもにはこの辺の計算はむずかしい。併し正当に線香を売っ ただけで、彼等が生活出来ないことは、算盤を持ってはじめて知れる話ではありますまい。 「ころんだらくはふくと付いて行く芸者の母のおくりおほかみ」という狂歌は、歩行《あんよ》がお下手 と云われる彼等に何時でも適当するわけであります。安永八年版の「四季物語」の序に「娘なら ば三絃をならはせて、酒は勿論、呑込と云芸者に出して、日に二歩づつの袋の馳」とありますが、 呑込みという言葉は、芝居の楽屋でつかう言葉だったので、それが呑込み芸者という者によって、 一時の流行語になったのです。 歌仙仕立の悪口俳譜  安永九年六月に小日向中之橋裏横町川口勝左衛門の屋敷へ借地をして、小普請松平志摩守組の □□直右衛門という御家人が新宅を持えました。直右衛門にはみのという娘がありましたが、こ れが美女であるところから、菊香という踊子になりまして、かよ事来賀、とよ、まつ、なか、と め、などと一連で近所の若い侍達を騒がせて居りました。直右衛門はこの新宅に拠って芸者屋と 待合を兼営したのですが、誰かが悪口の歌仙を持えたと云って「続談海」に採録してあります。 その中の   いざさらば涼みにころぶ所まで       うしろにしみの付し帷子《かたぴら》 は申すまでもたいとしまして、   普請すれば地獄さへみの置所 というのは、菊香の本名が利かせてある。地獄というと、芸者や踊子らしく聞えませんが、この 言葉は中洲《なかず》の繁昌から湧き出したので、地女の極上というのを縮めて地極《じごく》だと解せられて居りま す。上方の私娼には白人《はくじん》というのがありまして、シロウトと訓で呼ばずに音で読んで居りますが、 この意味は売人でないということなのです。それが後には公娼の或階級の名称になってしまいま した。当時の江戸で売物に地女ありと申しましたのは、娘がった踊子があるからばかりではあり ません。私娼でござると云わないのではない、云えないのがいたでしょう。往き方も素人らしく、 売買でなしに、惚れましたで持って来る。この菊香たどもそれに当て嵌るのだろうと思います。   牛込の舟さへ春は向ふ嶋       芸者もかねて楽なかこはれ  明和から屋根船が盛になり、踊子が屋形船で栄えた昔を繰返すように、芸者も水上で景気づい て来ました。天明六年版の「指面草《さしもぐさ》」に「江戸芸者の乗るやうに鴨居に双手を逆に懸け込」とあ りますように、屋根船の乗り方が後々までも芸者の名聞になって居ります。平賀鳩渓は「大尽至 りを失って粋に落ち」と歎息して居りますが、お客が安手にたって来ては、買われる方も高くは なれない。踊子にお妾らしいところがあったのを引下げて、芸者は囲い者臭くなったので、そこ が彼等の立身出世の行止りなのです。出発点も到著点も全く違ってしまったので、これでは御家 騒動の種子を蒔きそうにも思われません。勿論悪役の御家老様を舞台へ押出す力量などがある筈 はない。彼等に時代物らしいところがなくなって、身も心も世話狂言に浸して往くことになりま す。   駒箱もやつせば翼す塗枕       しま八丈も引けば切《きれ》なん  深川で呼出しと芸者と一座すれば、三味線箱へ枕を入れて歩けなどと、専門の立場から床芸者 を責めつけて、悶著が絶えませんでしたが、後には双方が床を並べて客を取るようになったそう です。これは又現実に塗枕御持参なのですから、人情本の屋根船の挿画に二つの枕の予備してあ るのを発見して驚くなどは遅い。枕は江戸芸者も深川芸者も御同様ですが、著付は御同様ではあ りません。白木屋お駒の著物で忘れられぬ黄八丈は、享保以来娘著物の派手を見せて居りますが、 随分怪しからぬ者になり果てた踊子でも、やっばり色娘で往きたい仕癖は脱けない。この十四文 字はそこを現したのであります。  併し持ち芸の上から見ましても、三味線が芸者で踊子が踊と別けられるわけですが、この両者 は年齢からも別けられます。踊子は娘ぶれるけれども、芸者はそう往かない。世間では踊子が芸 者と改称したようにいうものの、明和安永でも踊子はやはり踊子で、芸者ではありません。ただ 世間で改称したと見るほど、芸者の数が多くなり、踊子にも年の長《た》けたのが殖えて来たのでしょ う。両者の勢力はいずれが優って居ったか、容易に断定出来ませんが、「当世穴さがし」が「三 絃では落ちがとれぬから、おどり子を呼で声をかけたり、足拍子を路で紛らかし」と云っている ような苦しさは芸者の方にありました。  頽唐とか荒亡とかいって叱られる田沼時代、黄表紙や酒落本の描いた世界に、有頂天に面自が った人間どもも、次第に色には老《ふ》けて来まして、初《ういうい》々しい娘ぶった踊子から離れ、噛みしめた味 いを年長の芸者に求める傾向を生じ、遂に複本位が破れて芸者単本位に決著致します。その基礎 が明和、安永の交に置かれたらしいので、この単本位に決著した有力な理由は、年長けた踊子の 数がだんだん増加したことであります。それが踊子から芸者に進級するような径路をも作り、芸 者が踊子の先輩たる地歩を固めることにもなったのです。 「操草紙」にコ文字やのおせんも何時しか年増になり、みなとやのお六が年も今は穿繋する人 なし、芝のおげんが不器量なるは、義太夫を以て惚れさせんとし、地蔵お京が芸の悪きも美なる を以てはやるなり、年々に岡場所出来、月々に地芸者ふゆ、三味線の枕に光次の威勢を見せ、百 助が油に本多の容体を現はす」とありますが、安永九年十月五日に検挙された三味線芸者六十三 人の年齢を見ますと、最年長者が二十七歳で一人、最年少者が十四歳で二人、その中間が十八歳 の十四人、二十歳の九人、十六七歳の各八人、二十一歳の七人という内訳になって居ります。そ れが文政七年五月に五十三人検挙された時には、最年長が四十八歳一人、最年少十五歳一人、そ の中間は十九歳が七人、二十歳が六人、二十五歳が五人、二十八歳と十八歳が各四人となってい る。結局二十歳以下が二十一人、三十歳以下が二十五人、三十歳以上が五人ですが、この時は茶 酌女も芸者も一網打尽でありましたから、芸者だけの年齢を考える材料にはなりにくい。同十年 五月の時は芸者だけで総員二十人、内訳は二十九歳二十八歳二十二歳各一人、二十四歳二十六歳 二十一歳各二人、二十歳三人、十九歳六人。十七十八歳各一人でありまして、二十歳以上の者が 多数を占めて居ります。踊子の年齢は恰も今の半玉ほどであったのが、だんだん年齢が延長して、 成年者が殖えて来たので、踊子は禿《かむろ》のようにたくなってしまったのではなくても、芸者の影に隠 れて目立たなくなったのです。 とにかくこの歌仙によって、御家人の娘が転び芸者になったことがわかります。両刀を質に置 いて追放された武士のある世の中に、鳥屋や植木屋の副業、傘提灯の手内職でも凌がれぬ生活苦 から、直右衛門は階級制度を一足飛びにして、踊子芸者の中宿をしたのです。文政三年の七月興 行、中村座の新狂言に、本郷の放蕩息子に殺された深川芸者、尾花屋みの吉の事が脚色されまし たが、そのみの吉は湯島天神下に住む表坊主伊坂長斎の娘でありました。私どもはここに早くか ら御家人出の芸者のあったのに気が付くと共に、江戸時代の武士生活の傷ましさを見せつけられ るように思います。 深川本多に吉原本多  宝暦度に捕えられて吉原で受刑した踊子には、遊女になってからの名があります。前名即ち踊 子としての名は、一般婦女同様た二字名で、実名をそのままに呼んだのですが、実名の外に踊子 としての名を持ったのも多少はありまして、安永に検挙された連中のうちに、八十吉、春吉、国 松という名が見えて居ります。六十三人中の三人ですから、まことに少数ではありますが、遊女 の源氏名に対する芸者の権兵衛名が宝暦以後に現れました。宝暦の吉原に豊竹八十吉という義太 夫芸者が居りますが、これは男の名ではあっても、義太夫の名取らしいので、権兵衛名とは違い ます。真に芸名というのでありましょう。 「賎のをだ巻」に常盤津文字太夫の出演する芝居の大入であったことを述ベて、「其頃専ら鳴り て素人芸にても名を貰て、女は文字江文字松たどとて、此間女客などの馳走に雇はれてあるきた り」とありますが、ここに「其頃」というのは、延享宝暦を指したものです。常盤津の名取も芸 者にたりまして、文字と冠せた名もありました。豊琴、豊春などというのは富本の名取でしょう。 安永九年の「後見草」に「富本豊前太夫と云浄るり語り流行、所々の娘子供此ふしをかたり候分 は桜草の紋所をつけ、髪を切て若衆にたばね結ひ候者数多有之」と書いてある。芸者に芸名が多 くなったのは文字太夫から、若衆髭は豊前太夫からと云ってよかろうと思いますが、いずれも世 間一般の流行で芸者だけ格別な好みがあったとも見えません。  安永版の「聞上手」に芸者を題にした小話があります。   深川ほんだに結ッて本八丈、とんだ意気ななりだの、アレハげいしやだの、あとの男が長イ   箱を風呂敷包みにして提げながら、ぶつてふ面《づら》して、小言をいふをきけば、歩行《あんよ》はお下手。  又深川本多に結い、縞縮緬の小袖に紫裏をつけて、帯は黒編子の幅広を路考結びにしていたと もありますが、娘がった持えとして、世問の少女さえ若衆髭になる時、若い芸者が若衆に結うな らそれまでの話です。富本からの影響を跨いで、深川本多が出来る。当時男性の結髪様式にも銀 杏本多、金魚本多、水髪本多などといって大いに流行したので、「当世風俗通」には本多の様式、 八種が挿図になって居ります。男性の結髪も辰松風、文金風、豊後風といろいろ変化しまして、 この頃は肴店から流行し出した小田原町風の本多髭に達したので、本小田原町から出た風だから 本田というのだと云われました。昔の本多風というのは、本多中務大輔忠勝の家中一統に、前三 分後へ三分と厚さを定め、紙捻《こより》七つ宛で髪を結ぶのでしたが、新しい本多は遠い昔の本多から伝 統しているのは勿論、近く辰松や豊後の好みが残って居ります。娘子供の若衆髭を自分の年齢ほ ど押上げて、本多髭の男粧に競うのは、何が何でも寝臭くないものに見せたい、サッパリとした いという腹なのです。深川に深川本多があれば、吉原にも吉原本多があり、この両者の差異は 「通言総簾」に「吉原本多のはけの間に安房上総も近し」とあるのを覚えているだけですが、幸 いに両方とも歌麿の筆で残って居ります。  天保四年版の「深川大全」に「昔は此土地にて、娘の子を男に仕立て、羽織を著せて出せし故、 はをりといふなり、それゆへ名も甚助、千代吉、鶴次などと言ふたり、今も十二三の芸者は羽織 を著て出るなり、是を豆芸者といふ」とあり、又天保十五年版の「柳花通誌」は吉原について、 「廓の男芸者を太夫と唱へ、女芸者を羽織と唱へたり、是は大方娘子供を若衆髭にして羽織を著 せて出せし故に、今に此名を残せり」と云って居りますが、深川本多、吉原本多は豆芸者によっ て、その運命を江戸の末期まで続けたのです。そこで腰から下を売らぬ象徴として羽織を著るの だという説も出て来るのですが、十二三歳の豆芸者にしても、悪所だけにうっかり信用は出来ま せん。  男装に伴う権兵衛名というものは、浄瑠璃の名取ー芸名の外でありまして、あまり潔白でた い深川に早く且つ多くあったのです。彼等が妙に意気を見せたがったり、男嫌いの何のと綺麗サ ッパリを衒うには、便宜なものでありましたろう。 中洲繁昌の十九年 「大橋をこさぬうちなれ屋形船」という其角の附合《つけあい》がありますが、この大橋は永代橋のことです。 永代の手前で浅草川、新堀、霊岸島へ大川の水が流れ別れますから、そこを三股《みつまた》といって、久し い江戸の船遊山の名所であったのを、安永元年に馬込勘解由が埋立を出願し、同六年に中洲富永 町という新地が出来ました。  此処の料理茶屋は四季庵をはじめとして十八軒ありました。明和の呼びものになった洲崎の升 屋は、江戸の料理屋の最初のものと云われましたが、安永には深川の竹市、塩浜の大藤屋、山の 二軒茶屋、芝口の春日野、向島の葛西太郎、真崎《まつさき》の甲子屋など、二十余軒まで世間に知られるよ うにたったのです。併し何処にしても中洲のように料理茶屋の集合したところはありません。こ れだけでも中洲の繁昌が知れるわけですが、中洲には限りません、料理茶屋の数が多くたること は、芸者の出先が増加するのですから、彼等には何よりも都合がよかったわけであります。  中洲には又船宿が十四軒ありました。あの重苦しい、殿様臭い屋形船が片付けられて、手軽で 快い屋根船が明和から目立って参りますが、芸者が水辺を離れられなくなるのも、屋根船への出 が多いからで、船宿で遊ぶのも中洲時代からの酒落と思われます。中洲の船宿玉松亭のぽっとり 娘お幸は、常盤津文字継といいまして、その評判は二十七人あった中洲芸者を圧倒する勢いであ りました。このお幸の後に船宿の娘から続々怪物が現れましたが、彼は実にその優先者であった からです。  ついでに二十七人の中洲芸者の名を点検致しますと、二十人までは千代吉、歌吉、若吉、鶴次、 繁次、豊吉、初吉というような権兵衛名でありまして、おぬい、おてるなどのおの字名は僅かに 七人しかありません。その癖ここは七転八倒の芸者どもで、「指面草」が「芸者のちよんのまに 髪そ上けず」と際どいところを指摘しているほどでありますのに、色なしがりサッパリがって、 頻りと権兵衛名に耽ったのは滑稽であります。この中洲の繁昌、中洲芸者の風儀は町芸者に強い 影響を与えて、吉原芸者の堅いのが権威になり、深川芸者のキャンが名物になったとすれば、江 戸の町芸者なるものは意地のない、堅くない、ヘイヘイハイハイのものになったと見なければな りますまい。  汀の出茶屋が九十三軒あった中洲は、夏の世界、夜の世界でありますが、その賑わしさは道楽 山人の「中洲雀」や朱楽菅江の「大抵御覧」に尽してある。江戸の末、明治の初めまで市中の夜 の情味でありました枝豆売も、中洲の夜からはじまったものだと聞いて居ります。  中洲繁昌の絶頂は最後の二年でありましたろう。天明七年十一月九日の払暁に、吉原の角町か ら出火して全廓を焼亡し、その仮宅が中洲に営まれました。仮宅というのは吉原の焼けた後、そ の建築が出来る間を他地で営業することなのですが、明和五年から慶応二年までに、前後十七回 の仮宅がある中で、中洲ほど繁昌したことはなかった。この中洲の景気が忘れられないので、吉 原の娼家は後々までも仮宅を喜び、火事を恐れぬ風があったのですが、実際仮宅といえば何時で も平生よりは賑わしかったからでもありましょう。  それほど繁昌した中洲も、寛政元年十月、住民に立退きを命じて撤廃工事を起し、翌年五月に はもとの水面になってしまいました。松平越中守定信の寛政改革の効験は、先ず田沼|主殿頭《とのものかみ》の故 智を継承した水野出羽守忠友の都会政策を一気に抹消したので、さしもの繁昌は全く昨日の夢に なりました。その工事を眺めて、例の落首は「家根船も屋形も今は御用船チ・ツンはやみ土ツン でゆく」と云って居ります。 天明の芸者寄合  酒落本で見て参りますと、中洲の景気と深川芸者の模様だけのようですが、「螢《あま》の焼藻《たくも》」は深 川吉原以外の天明の芸者について、「女芸者といふ殊の外はやり、下町山の手いづくと差別なく、 少しもみめよき娘は皆芸者にしたてたり、三味線とても少し許《ばか》り覚えたるにて、琴ひくは稀なり、 淫楽の友とするのみなり」と云って居ります。生田流の珍しい時代だけに、幾人にもせよ琴を掻 廻す、お嬢様めかしいのがいたのは見つけものですが、一体に芸も怪しく、売物も怪しくなりは しましたものの、盛り場の景気を余所《よそ》に町芸者の人数は殖え、分布は広まって往きました。特に 注意すべきは少々の宴会にも、武家屋敷から酌取女に町芸者を呼ぶことでありまして、武家屋敷 へ出入りする町芸者は風俗も質素で、髭へ掛けた紅絹の切の上を吉野紙で包んだので、それが流 行にたって世間の娘達が真似をしたといいます。如何にも初々しいものであったのは、吉野紙で 根掛を包むのでも知れますが、同時に町芸者が世間の流行を誘うだけの勢力があったのを見遁し がたいと思います。  彼等は大名から遠ざかっても、武士全体から離れはしません。離れなくても目立たなくなった のは、武士の財力を表自するものとも見られようと考えている間に、思いがけぬ珍事が出来《しゆつたい》した のです。  天明七年正月十七日の午後四時から、三番町の御書院番頭水上美濃守(三千石)の宅に寄合が ありまして、同役の小堀河内守(三千石)、大久保玄蕃頭(六千石)、酒井紀伊守(七千石)、御 小姓番頭小笠原播磨守(四千五百石)、三枝土佐守(七千五百石)、内藤紀伊守(三千石)、能勢 筑後守(四千八百石)といった人達が参集致しました。この集会は小堀の所望で、水上を亭主役 にして芸者寄合を催したのですが、当時の官僚間に芸者寄合という言葉があったので、彼等が常 に町芸者を呼んで宴会を催す慣習のあったのが知れます。特に亭主役になれと所望するのは奢ら せるのですから、御旗本の御歴々がたとい同輩にもせよ、薯ってくれというのと同じで、お人柄 を損じるようにも見えますが、それが別に怪しまれぬ程に癖がついて居りました。  明和安永頃の役所向は、何事でも賄賂でなければいけなかったので、役人等は勤め向を余所に 同僚の交際を第一として居ったのです。誰も知っている「世の中は御無事御堅固致し候つくばひ 様に拙者その元」「世の中は諸事御尤有難い御前御機嫌さておそれ入」というような落首が、無 気力な官僚の風骨をよく描き出してありますが、殊に役向に事務規定がなく、すべて旧例故格を 襲用するだけですから、新任者は先任者の指導を受けなければ、一刻も服務することが出来ない 有様でありました。それですから同役でありましても、故参新参の懸隔は長官と属僚よりも甚し いので、主従のようでもあり、師弟のようでもあり、何としても頭の上るものではなかったので す。水上は今年今月新任された者で、その他はいずれも年来の勤続者でありますから、故参者の 小堀は命令的に水上に芸者寄合の亭主役を中付けたのですが、この時は例によって例の如く新参 者に奢らせるだけでなかった。この会合によって水上退治を遣ろうとする宿意があって、芸者寄 合が設計されたのを、気の毒なことに水上は少しも知らずにいたのです。  御書院番と御小姓番とは両御番といいまして、待遇も同一でありますし、共通した任務に服す ることもある。将軍の代替りの度毎に、慣例によって全国に巡見使を派遣し、あまねく軍備民情 を視察するのですが、この時は家斉将軍の初政の際で、恰も巡見使を派遣すべき時期でありまし た。この巡見使は両御番の中から人選して任命される例でしたから、御書院番八組、御小姓番十 組の各組頭は、各々その部下の推薦会議を開きまして、誰はこういう音信をした、彼から何の贈 物があった、それゆえ何某を推薦しようなどと、人前も揮らずに贈賄論がやかましかったのです。 水上もその会議に列して居りましたが、巡見御用は軍国の利害、兆民の安危に拘《かかわ》る大切な事柄で あるから、拙者の組では贈賄を致すような者は推薦いたさぬと云い放ちました。然るにこの議論 は一同の不快を買っただけで、果は貴殿だけ一存で人選されるがいい、と云って除けものにされ てしまったのです。その座はそれで済みましたけれども、新役の分際で古役に対し傍若無人な申 分、人もなげなる議論をする、奇怪千万な水上、何時かは目に物見せてくれんと、同僚等は妙に 意地を持ちまして、それからこの芸者寄合に持込んだのであります。  この日早く来た三枝は羽織袴でした。続いて来た小笠原、能勢の継上下《つぎがみしも》は無難ですが、遅れて 来た小堀は近所に火事があったといって火事装束でありました。芸者五人は能勢から廻してあっ たので、酒宴は陽気に杯の数も頻りに重なって参ります。三枝は水上が杯を受けたのを見かけて、 大久保が餅菓子を持参した小重箱から、菓子を挟んで水上に勧めました。返杯してから頂戴しよ うと水上が云いますと、大久保が側から強いて、是非直ぐに食べて貰いたい、拙者は栗饅頭は持 参致さぬ、とこれを云いがかりに喧嘩を仕かけた。栗饅頭というのは、その頃浅草馬道に住む生 花の師匠が、毒薬を入れた栗饅頭を贈って人を殺した事件があったのです。能勢、三枝、小堀等 も、毒殺される覚えがあるか、栗饅頭を進ぜるほどな怨みもない、などと悪口雑言を並べ、やが てその餅菓子を芸者どもの顔を目がけて礫《つぶて》に打ちはじめる。誰ともなく障子襖を打ち殿し、杯盤 を庭上に投げ出し、座敷へは脱糞放尿という有様で、この無法なお客様は午前一時頃に漸く帰っ て往きました。この狼籍の評判は頗る高く、遂に参会者一同は幕府から懲戒処分を受けました。 そこで又例の落首があります。      六歌仙                              河 内飯田町小堀  一座敷へは無用の札も間にあはず小ぼりくと鉢へ小便                              大和山王永田町大久保   水上でたれちらしたる永田ば\うき名流れてしりがくるとは                              研玩 二別浜町能勢   三味線に能勢てけちらしふみくだき筑前わんも皿もこばちも                            播 小笠原流かしらねどおどり子のつらをはりまのよいお客ぶり                            土 ぬたあへの馬鹿のぬき身を提《ひつさ》げて障子ふすまもぶつ切つた土佐                            美 是はまあさりとはむごい同役やわが美濃うへになりて水上 磨浜町小笠原 佐小石川御門内土佐 濃三番町水上 振袖を脱ごうとする寛政  松平越中守の寛政改革は江戸の風紀を刷新しまして、岡場所と称する私娼地区四十余を掃蕩し、 十年五月には町芸者五十二人を検挙し、緊《きぴ》しい制圧の手を緩めませんでしたから、遂に彼等の姿 を市中に絶つに至りました。この検挙についてまた彼等の年齢を点検しますと、二十九が、人、 二十六二十四が各二人、二十三二十一が各五人、二十二二十が各七人、十九が九人、十八が六人、 十七十六各四人ですから、大体に於て年長にたり、踊子らしい年齢の者が著しく減退して居りま す。五十二人中の七人は、豊若、文字ひろ、文字今、文須、若豊、宇文字、豊つね、という風な 芸名ですが、権兵衛名は一人もありません。  この時の申渡しに、「兼ねて相馴染候客、身分引受け、末々妻にも致すべく旨申候とて、相対 にて不義致候始末」とあるのは刑罰を免れ、ただ「隠売《かくし》女に紛らはしき儀」とあるのだけ処分さ れました。不見転だけが罰せられたわけであります。これを文政七年五月の申渡しに比較します と、「馴染の客より密会申掛られ、断《ことわり》もなり難くとて、狼《みだり》に密会いたし、金子貰ひ受け候段」売 女に紛らわしいとある。寛政には客から身分の保証を条件として転び、文政には馴染でさえあれ ば無条件で寝たので、彼等の申立のままを穿馨たしに眺めても、これだけの相違はあるのです。  大田南畝は、天明の頃までは橘町薬研堀の芸者が、座敷へ出るのに振袖を著て来て留袖に著替 え、帰る時には又必ず振袖を著たものだが、文化には振袖を著る者がなくなった、寛政の末から 柳橋、同朋町、本町、日本橋と芸者が移り変って、眉を落し歯を染めた芸者が多くなった、と云 って居ります。為永春水が文政八年に書きました「三日月おせん」の序に「歌妓は元服して増々 愛せられ」とありますが、この眉の青い歯の黒い芸者は寛政からあったのです。昔の女は十五六 になれば、元服するといいまして、眉を落し歯を染めたのですが、未婚者だと猶予される。彦山《ひこさん》 の九ツ目でお園が「二十《はたち》の上を越したがら、眉を其の儘いかな事、鉄漿《かね》も含まぬ恥しさ」と云っ ているのが、元服猶予の特例でありますけれども、奥向に仕える女小姓などは、年齢次第で二種 になり、眉のあるお小姓及び元服お小姓と呼ばれて居りました。いずれにも元服すれば振袖を著 ないのでありまして、天明の町芸者が座敷へ来ては留袖になり、往返《ゆきかえ》りには振袖だったというの は、元服すべき年齢を娘姿でいるからのことです。そうした者が多くなって、過渡期の二重服装 を経て、眉の青い歯の黒いのに到著すべき途中であるのが知れます。振袖は吉原や深川では見ら れますまい。それを脱ぐことが町芸者の特色を失うわけでもありましょうが、年長者の殖えて来 る以上は是非もないわけであります。  杉田玄白は寛政の初めから、町家の裏住いをする者の娘を芸者に仕立てるようになったと云っ て居ります。これは無産者の間から芸者を出す傾向の甚しくなったことを云うのでしょう。芸者 が江戸ッ子に共鳴したというよりも、彼が女の江戸ツ子であったのは、全く一つ窯の代物だから と云った方がよかろうと思う。同時に江戸の無産者自身が小唄浄瑠璃や舞踊に親近し、その家族 もまたヨヒヤマチなり、ソレモナクネなりを稽古させられるようになった、生活の変化にも注意 しなければなりますまい。  当時としては芸者自身からも、愈々卑賎なものになって往ったのですが、遊芸音曲の鑑賞は高 貴な方面に強くなりまして、「昌平夜話」などは寛政に芸者が大名の奥向に呼ばれるのを驚いて 居ります。又卑賎な芸者どもの技芸である三味線踊を知らなければ、高貴な大名の奥奉公が許さ れない、と云って不審がっても居りますが、これは芸術に牽かれて階級制度を突破しはじめたの だと云ってもいいでしょう。そう云えば現代人は喜ぶでしょうし、また決して嘘でもないのです。  杉田玄白はこうも云って居ります。「若き男子共この芸者といふものに忍びくに云ひ語らひ、 人知れず一度も二度も契《ちぎり》をこめて、鳴呼《おこ》の事し得たりと、心やすき友だちに誇り慰みはべる内に、 其の父たるもの之を見出して、初めより巧みし事なるや、又は実の事なるにや、こと人\しく立 腹し、大事な娘に疵を付けしなど荒々しく怒るにより、男も恥しく他に知られてはなど、さま 人\に扱ひ、詫を入れて金銀を与へ、内々にて事を済しける」i色仕掛については安永に船饅 頭のお千代に摘発させてありますが、裏面の事柄を表面へ廻してゆすり出すことは、この頃の新 しい話だったのでしょう。  売物でなしに真に情事として持って来るのは、踊子以来の往き方で珍しくもありませんが、果 して肝胆相照したのか、照さないのかは容易にわかりません。その真偽よりも事柄が相対のこと でありますだけに、恐喝の材料にもなるのです。勿論見え透いた芸ですから、長くは持てない。 その手は食わなくなってしまいます。寛政改革で彼等が一掃されたのを機会に、その手は全く用 いられなくなりましたが、芸者の持ち掛けるのは却って盛になったらしい。まだまだ恐喝の利く うちは、貞操論を背景にして、どこか手重かったのが、お手軽に簡単に、マア御様子がいい程度 で御持参なさる時は、嘘でなくても浮気やその日の出来心たるに過ぎません。もう疵物だの疵物 でないのということはないのです。 全盛期は江戸の黄金時代  太田錦城は今の世に盛なるものは歌妓なりと云って居ります。芸者は明和に神田の台、四谷、 赤坂、麹町、深川、本所、浅草、下谷に分布されましたが、寛政以後には柳橋、同朋町、本町、 日本橋等の根拠地を造りました。  松平定信が先ず退きまして、寛政の三名臣と云われた本多弾正弼|忠簿《ただあつ》、松平和泉守|乗完《のりさだ》、松平 伊豆守信明が享和の初めまでに順次幕閣を去った後は、さしもの改革も麗風一過の感がありまし た。まして水野出羽守忠成の得意な時節になれば、もう窮屈な江戸ではありません。この忠成に よって文政元年に先ず金貨が改鋳され、次いで同三年に銀貨が改鋳されました。江戸時代の景気 は何時も改鋳による通貨膨脹で賑わされるので、家斉将軍が十五代の栄華を一身に集中させたか のように思わせました。その元年はと云えば文政改鋳の益金なのです。江戸の黄金時代は如何に 地金の質が悪くなったにもせよ、新しい小判が光り輝きまして、その時がまた芸者の全盛でもあ ったのであります。  全盛期の芸者は如何なるものであったかと云いますと、文化十年に手柄岡持《てがらのおかもち》が書きました「芸 者の弁」に「芸者といヘども外には芸はなく、唄上るり三味線の芸なるを、其芸も素人には遙に 劣りて、皆へた屎《くそ》なれば、芸をとりて者《しや》とばかりいふなりと、此註甚だ非なり」とありますが、 大体に芸なしだったのを巧みに言明して居ります。又「皆三十四五にて二十より下と答ふ」とい うのも、この際彼等の年齢の閲《た》けたのに驚かされます。尤も彼等は芸なしでも、他に老巧なとこ ろがありましたろう。岡持は「下タ腹の毛の無筆をもつて舳羅《ちくら》やうを書く」と云って居りますが、 相手を操縦する手腕は凄まじく発達したと見えます。流行唄にも「女郎衆のうそは惚れました、 芸者のうそは客とらぬ」とあり、舞台の上でも「東都名物錦絵始」の中に「芸者とあらば売色も 同然ぢや」という台詞《せりふ》があります。「露は尾花と寝たといふ、尾花は露とねぬといふ、尾花が穂 に出て顕はれた」などという唄も、云い廻しが上手だから不快には聞えませんが、やはり同じ暴 露であります。  それですから文政七年五月、同十年五月の大検挙の外にも、頻々たるケイドゥ沙汰が続きまし て、その前後に多数の落首戯文が出て居ります。「江戸芸者年々つ父きさわぎこまり歌」に   五ツとやアいくらも芸者のある中に、わたしらばかりが恥をかくウく   六ツとやアむしやうにころんだ其ばちでく、ひやめし草履をばたく などとあるのをはじめ、彼等の困疲した状況を尽したものが沢山ありますが、特に面白いのは饗 庭篁村翁旧蔵の「新製江戸芸者大安売」という一枚|刷《ずり》です。これは文政七年の大検挙の後に戯作 されたもので、その中に「当夏中者無拠障入仕二而暫之内渡世相休候」とあるのは五月のケイド ウをいうのですが、「ころび一切不仕候」とある直ぐ下に「木母《もくぼ》寺御泊り三日限り」と書いてあ る。三日も泊れば転ぶも転ばないもあったものではありません。  大川の俊泄休や中洲取払いの泥土は、隅田堤防の築立てになりまして、その後は三囲《みめぐり》稲荷の鳥居 が見えなくなりました。高くなった土手には桜が植付けられ、向島は江戸の春を代表する場所の ようになって往きます。文化文政には大官紳商の賛を尽した別荘地になり、酒落のめした人間を 嬉しがらせる料理屋も出来て、著しい発展を示しました。ここへ通う屋根船は浅草川の四季の眺 めを往来の景品にして、船の中には是非芸者を連れる。水上だけに衆目を避けて、気艦な騒ぎも 遠慮がないわけで、向島が賑かになるだけ屋根船も忙しく、面白味も増して来ましたが、その枢 機は芸者でしたろう。芝居にも「隅田春|妓女容性《げいしやかたぎ》」などという甘い外題が現れる。屋根船が忙し く往来するに従って、船宿の模様も変って来るので、船宿での遊びというものが、昔に見られな い形勢を示して来ましたから、何も遠出で木母寺まで行かずとものことなのです。 「江戸芸者大安売」に「山様御客人」とあるのは山の手筋、今の小石川、牛込、四谷、麹町、赤 坂、本郷辺のお客ですから、これは主として武士です。「通り者御客人」は先ず町家の旦那、 「御店向《おたなむき》」は大商人の手代級、「でんぼう」は親方とか棟梁とかいわれる連中でしょう。この頃の 客は凡そ四種で、その幅の広くたったのを刮目すべきでありますが、その柄行は各々の嗜《たしな》む声曲 の種類から考察することが出来る。この一枚刷に長唄浄瑠璃とか、よしこの二上りとか、江戸節 一中上方節とか、源太おどりとか書いてあるのはその為なのです。更にこの外に書画会芸者とい うのがありました。書画会は文化文政の流行物でしたから、普通に盃盤の間を周旋する以外に、 墨を磨るのを芸にしたり、印を押すのが上手であったり、何となく諸先生に受けのいいのがあっ たりしたのです。大田南畝が「詩は五山、役者は杜若、狂歌おれ、芸者はお勝、料理八百善」と いったように、御轟屓たのもあった位で、芸者は当代に於て随分広い方面に接触を持つに至りま した。  伝法肌の連中が芸者を買って遊ぶほど、あの階級の生活に余裕が出来て来たのも、見遁せぬ時 代生活の変化でしょう。天秤棒一本で行商する棒手振《ぽてふり》や、鳶口一挺の人足が、勇みだとか、江戸 ッ子だとかいって妙に景気づいて来たのも文化文政です。文政の万葉ぶりに「石曳やきやりてこ まひ馬鹿ぢからいさみ鳶等がてこやりかける」というのがありますが、その当人だけに酒席でも |木遣《きやり》をうたって興じたりするのでしょう。だからここにも「きやりは御一所に唄可申候」と書い てある。あれだって稽古せずには唄えません。既に習って置くとすれば、そこが時世を考えさせ るところなので、明和には「当世穴さがし」が「鳶の者の木やりいふやうに張りこみうたふ」と 云って嫌ったものが、ここでは喜ばれるようになっているのです。  天保九年四月、西丸の火災後に日々千人ずつの人足が地形《じざよう》をしたのですが、その音頭は江戸一 番の木遣の上手と云われた、ろ組の某がうたいました。その声が三町四方に響くという評判で、 大御所家斉が特に召してうたわせたとも伝えられて居ります。この後に木遣崩しが流行しまして、 嘉永には芳町に大豊小豊といって、木遣で売った芸者さえありました。それは後の話ですけれど も、「今の芸者は薄化粧、島田に金糸をかけて、松葉一本さいて、めかしてずつと行く、いよさ のすいしよで気はざんざ」と唄われる中に、早く木遣のうたえるのもいたのです。彼等は山様や 通り者を控えていながら、江戸ツ子の気品に移って往く。自体が民衆化するのに都合よくもあっ たのであります。 人情本の貞操装置  芸者の内情は早く人情本に描かれて居ります。為永春水は「英対暖語」の中で宗次郎の雨宿り に増吉の持掛ける状況を書いて居りますが、あれは実際を髪髭させるもので、あの手で往くのが 彼等の常習です。然るに一連の書物の中で木に竹を継いだように、転倒の忙しい芸者に堅苦しい 貞操を装《よそお》わせる。米八や仇吉ばかりではありません。女侠だとかいうお由までも無理に窮屈に仕 立て、お政が旅芸者になってからは、貞操擁護のために観音様の御身代り、救誓《ぐせい》の御力を拝借仕 るというような離れわざさえあります。当時の芸者に貞操論ほど無益なものはないので、躁躍さ れるのが繁昌の原動であり、繁昌するのは躁躍させた結果でもあるからです。流行ツ子になるの が彼等の誇りであるならば、貞操を問題にしては居られません。人情本は実際を無視して、理想 的に美化したいと思ったのでしょう。それより前に遊女の貞操まで振り廻してありますが、春水  神田辺の裏屋に老母と二人で暮す貧しい男がありました、拠7ノー ならぬのですが、長い留守の間を老母一人では心配だし、老母の方もその間が辛いのマ , 上方行きを承知したかった。それでも差措けない事柄なので、漸く二箇月限りという約束にして、 正月勿々旅立ちをしました。老母は今日か明日かと愛子の帰宅を待って居りましたが、埣の帰っ て来たのは四月中旬で、その顔を見て嬉しい中にも、老人を棄て置いての長逗留には大立腹であ りました。  埣は京都へ著いてから、ふと馴染んだ芸者が江戸の者でありまして、それが長逗留の種になっ たのです。如何にも別れが辛いけれども、帰らたいわけには往かぬので、思いきって打明けた。 江戸には一人の老母を残してある、ようよう二箇月の暇を貰って上京したのが、もう三月の末に なった、ともかくも一度江戸へ帰って、委細を老母に話して納得させた上、五月には必ず迎いに 来る、間違いなく女房に持つから、暫時辛抱してくれろ、と涙で別れて来ましたが、老母の不機 嫌に気おくれがして、芸者と夫婦約束をしたことなどは云い出せない。幾度も口を切ろうとして は蹟踏して、その話を腹に秘めたまま、その日その日を過すうちに、約束の五月になってしまっ た。京都では待ちに待ったけれども、月末になっても男は来ない。あの人に限ってはと疑わぬだ けに、或は病気かも知れぬなどと考えれば考えるほど、心配苦労は募って参ります。六月になっ てはいても立っても堪らないので、とうとう江戸へ下ることにした。女の旅の容易でない江戸時 代に、長い五十三次を繊弱な身で一人旅をするのですから、道中の災難を防ぐために、松脂《まつやに》を顔 へ塗り、手足には膏薬を貼り付け、怪しからぬ容貌風体になって京都を立ったのです。  滞りなく江戸へ著きまして、神田の家を漸く尋ね当て、誰様の御宿は此処かと音ずれますと、 男は留守で母親が出て来た。ジロジロと顔を眺めながら、何処からお串で、何の御用、と香ばし くない応対である。私は京都から御亭主様にお目にかかりたくて下りました者、いずれはお話し 申してから、というのを聞いて、母親はさてはと気取《けど》りました。これは埣も飛んだ者にかかり合 った、顔にも手足にもこう梅毒が出るのは大変な代物《しろもの》だ、手つかずに厄介払いをしなければなら ぬ、と即座に思案しまして、それは折角ながら、埣はついこの頃病死致しました、と云った。女 はそこへ泣き伏しましたが、暫くたって涙を払い、この上は仏参なりとも致しましょう、お寺様 はいずれでござりましょう、と尋ねられて母親も嘘の始末に困りました。黙ってもいら、芝ト.、 ので、菩提所を教え、女が力なげに立去る受峯ビ.乞ム。、.、、 残な事をなされた、ただ留守と挨拶して置いて下さればよかったのに、これはそのままに棄て置 けません、と大急ぎで寺へ参りました。住職は待ちかねた様子で、今日昼頃一人の女中が墓参り に見えた、かねてお袋からの頼みもあるから、何月何日が命日だと教えたところ、その女中は手 洗いをつかうと、面体も手足も見違えるようになった、懐中から金十両出して紙に包み、これで 菩提を弔ってくれろと丁寧に頼んで、墓所への案内を求めたから、小僧に含めて似つかわしい新 墓のところへ連れて往かせた、小僧は直ぐに引返して来たけれども、女中は帰って来ない、湯漬《ゆづけ》 でも進ぜようと待っても見たが、何の沙汰もない、余り手間取るので、往って見たら墓前で自殺 して居った、それから貴様の方へ知らせの人を出したところで、その使はまだ戻らないのに、よ く来てくれたと聞いて、ただ呆れるばかりでありました。この風聞が世上に広がり、町奉行の耳 にも入ったので、今大騒ぎである。 「文化秘筆」にはこう書いてありますが、これは後先もない例の持え話であります。江戸時代に は時々真赤な嘘話を持える流行がありますので、この情話も決して信ずることは出来ませんが、 芸者美談のつもりで此等の話を握造したところに、かれ等を擁護したい気持があるのが認められ ます。 鉄砲で撃たれた芸者  一方に芸者擁護、貞操装置が計画されるのは、美しい理想を仮にも現実させたいからの労力で しょうが、一方には又醜い現実暴露で、錦絵に艶な左棲姿の風采をも幻滅させる話があります。  伊予西条三万石、松平左京太夫の上屋敷、青山百人町のお長屋に住む栗田市之助という男があ りました。男盛りの二十九歳、同家の鉄砲師範役を勤めて居りましたが、たしかにその道の天才 でありまして、十一歳の時に十匁筒の数打ちを実演して藩中を驚かし、愛宕山ヘも格射《かくうち》の扁額を 納めて、あっばれ名誉の砲術家になり済しました。この市之助が住所に近い組屋敷の荷持久蔵の 娘、七っ違いのときという女に打込みまして、当って見ると、芸者をしている女だけに話は早い。 嬉しがらせの夫婦約束まで、わけもなく遣ってのけました。大願成就の市之助は夢中になって、 絞られるのも絞られたらしいのですが、屡々門限を外すようなこともあるので、藩邸でも見遁し かねて、国勝手を申付け、差控えを命じました。市之助は是非とも西条へ帰らなければならぬ。 江戸にいられないとなれば、おときにも別れなければならぬが、夫婦約東までしてあるのだから、 おれが国へ帰ると云えば、必ず同行するだろうと、相惚れのつもりか何かで女に話した。ところ が相手は田舎住居は厭だという。それではかねて云い交したのは嘘か、別れて一人国へ帰れとい うのかと詰め寄ると、もう女は愛想づかしです。何とかして連れて帰ろうとあせっても、先方に は何の感じもありません。  思い迫った市之助は、文政元年七月十日、主君から御預りの鉄砲ヘ弾装《たまごめ》して、久蔵の家ヘ窺い 寄り、おときが縁先で行水しているのを見て、筒音高く打殺しました。女の発れたのをたしかめ て、市之助が立去ろうとすると、親の久蔵が背後から組付いて来た。組付かれては抜かなければ ならぬ。白刃の光に久蔵が逃げるうちに、市之助も逸足出して其処を脱れましたが、鉄砲は現場 に遺留して来た。市之助は善光寺境内に入って切腹するつもりだったけれども、参詣の出入りが 多いので死にそこね、自分の屋敷の辻番へ自訴しました。芸者殺しの罪よりも、江戸御府内で発 砲した方が重いので、市之助は遂に獄門に措けられました。  この年五月十三日、浦賀湾ヘ英艦が一隻進入し、互市を要求しましたが、幕府は通商を拒絶し、 薪水を与えて還しました。これが外舶の江戸湾へ来た第一著で、沿海防備が問題になり、幕閣の 戒心、江戸市民の不安は、到底青山の芸者殺しと同じ世界の出来事とは思われません。  みの吉殺しが芝居になったことは既に云いましたが、お祭佐吉も芸者殺しの狂言で、然も鳶の 者と芸者とを対立させてある。鳶の者はこの頃目立って来た江戸ツ子階級の選手なのです。真世 話《まぜわ》狂言の中にも芸者が多く現れ、何よりの色彩になって居りますが、殊に南北の作には芸者が主 要な扱いをされ、彼等が全盛期にあったことを首肯させます。真世話狂言と人情本とは共に芸者 を材料にしながら、真世話狂言の方が有力であるのは、人情本は変化というものがなくて倦ませ 易いためばかりでなく、実際を穿つことに鈍《にぷ》いからであります。  真世話狂言が人情本の平板を脱し、幾多の波欄曲折を便宜に持出して、限りもなく変化するの は、人情本のように貞操装置に屈託しないで、浮草のように河岸を替えて行く彼等の実際生活を 直写するからです。惚れるのと切れるのとを作用して、何程も局面転換の便利が得られる。そこ は商売人です。芸者の相手に色と恋とを識別しない人間を持って往けば、五瓶や南北でなくても 脚本は作れますが、もし貞操装置があればその自由は得られません。又実際にあの儒者臭い貞操 が、当時の芸者等に見られる筈はないのです。  遊女とは着板が違うだけに、芸者ばかりでなく、昔の踊子にしても必然ではありません。とに かく惚れたことになる、先ず持たせてかかる。真に好いたらしいと思ったにせよ、マア御様子が いい程度にもせよ、多く自薦a奨の形式に出ます。この惚れるということの研究に先立って、色 男は既に出来上っている。商売と心得て惚れるのは算盤が持てる間のことで、それほど軽薄でた いにしても、仇っぽいというのは惚れ易いことなのです。それは先刻承知していますから、色が あるのを承知で惚れもする。両性お互に固執しない。夫婦になろうの、命がけでのというのは野 暮なので、往きなり次第、キッカケ任せにやるのです。頼山陽が愚勲を通じた才女某に対して、 色にはいいが女房には厭だと云ったのは、彼もさすがに時代の子であります。  愛すといわずに惚れたという。「ぬしはちょいと見てちょいと惚れするが、私やよく見てよく 惚れる」といいますが、よく惚れるのは色でない。あの色男や色女はすべてがチョンノマで、ち ょいとだけにその時だけ真に惚れるのもあり、おつきあいのもあり、辛抱したのもある。自由恋 愛というのに対して、お手軽恋愛とか、軽便恋愛とかいったらいいでしょう。あの夕立の文句に 「はたちは越せど、いろ恋は捉きびしく白玉の露にも濡れしことはなく」とある、恋というのは 大時代で、色というのが現代なのです。持たせることは踊子以来ですが、芸者になっては技巧が 加わり、商品としての恋が色だとも云えましょう。もし職業なのを忘れて真に惚れて見ても、長 く続かないところが色なのです。  明和の都会政策に副生した各種の私娼の猫獄によりまして、江戸の一部分の人間は乱交のため に或刺激を失いました。この風潮は京都大坂よりもたしかに遅れて居ります。元禄の江戸はまだ 健康体でありましたが、芸者が売笑の中心となり、社会の中枢を色で誘うようになりまして、乱 交の幅は愈々広くなりました。近世演劇の上に狸褻と残忍とは何が故に根を張ったか、寛政の改 革で緊縮を見たのも表面だけのことで、それも長い効験はありません。乱交から導かれた淫虐性 で、世間は病態を現さざるを得ない。真世話狂言になって狸褻残忍が目立って甚しくなりました のは、全く淫虐性の発露であります。世間が強い強い刺激を求めるので、脚本のみがそれに応じ たと云えば、或は請取りにくいかも知れません。  江戸後半の文学に芸者の影響を受けないのはなく、色の作用から脱したのはありませんが、そ の中でも芝居は観面な入不入によって罰利生が明白であります。だから脚本ほど現代大明神の信 者はないので、真世話狂言が踏込んでいる理由もそこにありましょう。 眉は青く歯は黒い  天保四年の「流行物語」に「芸者をまねるお上《かみ》さん」とありますが、町家の女房に芸者風俗を したのが出て来たのです。寛政七年版の「鳩観雑話」の江戸批評に、「涙のこぽれるもの、地女《じおんな》 のきたなき、四十七士の石碑」とありますように、武家と花柳界との婦女を除けば、如何にも自 慢にならないものでありました。それが芸者の影響で、一般の婦女が美しくなろうとする。文政 から天保の末までの流行を挙げた中に「踊子をまねて白歯の女房出来る」とあり、弘化版の一枚 刷「世界穴さがし」に、   いきたつもり  歯を白くする年増 ともあります。眉を剃って歯を染めない女房ぶりは芸者模倣なのですが、それが世間の流行にな りました。この風俗が明治の初めに持越して、半元服の権妻《ごんさい》風といって頗る当時に喜ばれたもの なのです。 寛政改革で芸者も踊子も世間から影を隠し、改めて顔出しをして来た時には、芸者踊子の複本 位制でなく、たしかに芸者単本位にたり、天保度になっては柳橋に名高い芸者が居るようになり ました。半元服の姿が世間の婦女に影響したのも、柳橋からであったらしく思われます。  天保四年の秋に所々の芸者が検挙されまして、例によって就刑したのですが、これも定例とあ って交付された芸者三十二人を、娼家が入札で引受けました。その落札金額が八百三十五両で、 その中でも柳橋芸者小三は一人で金七十五両でありました。小三は平右衛門町の伊兵衛という者 の娘で、本名をふきといいまして当年二十五歳、江戸中に知らぬ者もない名高い女だったのです。 淫売処分を受けては折角の美人も柳橋の自慢にはなりますまいが、とにかく当時に比類のない芸 者だったということで、京町一丁目若松屋藤右衛門の店へ巨山《こさん》といって出ました。翌年の春には 「吉原花競三十六佳選」という、就刑芸者だけの特別な細見が出て居りますが、この細見の巻頭 に小三と弓町芸者のひでとの繍像があります。「江戸繁昌記」の著者寺門静軒は、小三のために 「詩人今日没精神。詠柳吟花費苦辛。大筆須書烈女伝。綾箋却写巨山春。粉香引酔腕無力。銅気 薫思墨有塵。且借世間才子手。風流歳々蔑詩新」という一詩を詠じて居りますが、こうなります と転び芸者の景気も凄まじいと云わざるを得ません。  天保の改革は十三四年にかけて猛威を振いまして、江戸は火の消えたようになりました、各私 娼地は取払われ、新吉原へ移住を命ぜられましたが、この際芸者の方はどうなったかと云います と、嘉永三年八月二十六日付の両町奉行の上申書に「先般御改革の瑚も、別段差止めベしとの触 申渡しは仕らず候へども、其頃は柳《いささか》にても隠売女に紛らはしき類、出格厳重の御所置有之御時 節、右体遊業を以て世渡り致候女子共町々に有之候へば、自分役儀にも拘り候ゆゑ、町役人も店 内《たなうち》に差置候を揮り、料理屋向等にても同様雇ひ申さず、自然と相止み、終に世上一般に停止の姿 にも相成候」とあります。この先般御改革というのは勿論水野越前守の改革なのですが、淫売検 挙を激しくし、芸者屋料理屋等の連坐処分を重くして、彼等を威嚇しましたので、芸者頓滅の成 績を得たのです。  水野越前守が失脚して、阿部伊勢守が幕閣の首班に立ちました時、さしもの天保改革も逆転し てしまいました。弘化三年には「仮宅色里十八ケ所順礼御詠歌」などというものが擬作され、私 娼地は漸く復旧の様子を見せましたが、嘉永元年の春になりますと、深川の料理屋で芸者を酒席 へ出しはじめました。寝たのではない、泥酔してそこへ突伏したのだといって、突伏《つつぷし》茶屋と呼ば れて繁昌し、芸者も忽ち三十八九人になりました。  士轟永元年八月十九日の町触《まちぶれ》を見ますと、町芸者に制限が付けてある。これは二度目の条件です が、元文五年の条件は淫売しないことで、踊子自身を拘束しましたのに、今度は一家族一人を限 りましたから、置屋の方を控制するので、これは連坐法の延長とも見られます。その本文は町芸 者というものは、その親又は兄の生計のために遊芸を以て茶屋等へ雇われて往くものである、故 に芸者を抱えて置いて稼がせることはならぬ、姉妹にしても一家族に一人だけを許し、その他を 許さぬというので、当局が芸者の増殖を防圧したいために、芸者稼ぎの定義を作ったのです。即 ち無産者の家族が生計のためにする場合をのみ認定したので、従って抱えを置くほどの資力のあ る者が芸者屋を営むのは、この定義に違背するわけであります。  町芸者の抱えは前に云った安永九年十月の検挙にも七人ありました。文政七年五月の時には一 軒で三人以上の抱えのあるのがありましたから、当時「女を召抱へ芸者に致候儀一切相成らず」 と制禁されもしたのです。嘉永のように一家族一人とたしかに制限しては居りませんが、芸者屋 を制禁するのは今度が最初ではありません。又この法令の執行は、嘉永三年八月、町奉行井戸対 馬守の手で、下柳原同朋町家主清吉の俸勝次郎が、養女名義の抱え三人を置いて、芸者を稼がせ ていたのを検挙し、手錠|所預《ところあずけ》の処分をしただけのようです。  嘉永元年に一家族一人制が宣明されると、民間では芸者の御許しが出たというので景気立ちま した。両国辺には二十七八人も芸者が居りまして、小万、おせき、お冬などというのが評判の女 でありました。天保改革で深川の根拠地を覆された後、従来から屋根船の発著で御縁のある柳橋 へ流れ込む者もありまして、間もなく四河岸の賑いにもなりました。嘉永以降あの伝法な肌合に よって、両国付近の妓風を変えましたが、辰巳の名残を余計に留めた柳橋がその中堅になり、侠 妓呼わりをされる者も出るようになりました。柳橋芸者が江戸の町芸者の群を抜いて、専ら意気 を誇ったその根本は、天保改革で一時深川を覆滅したのに在ります。  柳橋と同時に猿若町芸者も二十七八人現れ、お千代、お房、お仲などの名が世間に知られまし た。猿若町は天保改革で江戸歌舞伎の三座が土地を逐われ、この三丁へ移転して来たからの繁昌 ですが、山谷堀を控えて居るだけに、形勝に拠って一方に雄視することが出来たのです。 安藤閣老の御用芸者  併し天保改革の後、突伏茶屋から復活の勢を得た芸者の風儀がよかろう筈はありません。事永 にペルリが来てからは、世間はただ混雑するばかりでありました上に、安政の大地震がある。江 戸の民心が動揺するのも当然であります。明治七年版の「今昔|較《くらべ》」に、江戸の婦女子は極めて清 潔であった、いわゆる江戸ッ子気性で、表向きは男女打解けて遊び戯れる様子は、頗るみだりが ましいように見えたけれども、色の一字によって名を汚すことは、この上もない恥辱としていた から、心に堅く錠をおろして、何物にも動かされぬという風があった、然るに安政の大震災後数 箇月間、又候《またぞろ》大震がありはせぬかと恐れるところから、僅かな明地とか、川端とか、大道の側と かいうところに竹木を架し、雨戸障子たどで掩って、乞食小屋のような板小屋を作り、主家来の 差別なく、一群となって同宿していたため、自然に心の錠が弛んで、江戸中に怪しい話が多かっ た、と書いてあります。江戸の風紀はここで又変ったのです。  その後安政五年には幕末史の関鍵である戊午の大獄が起りまして、井伊大老が京都制圧、浪人 検挙を敢行する。その翌年がコロリの大流行、又その翌年が桜田一件、何も彼もが直接行動にな って、浪人どもの乱暴は関東八州に甚しく、漸く江戸を犯そうとして参りました。一般の風儀が 悪くなった上に、景気が悪く物価が高いのですから、売人とか玄人とかいわれる者はいうまでも なく、その他の婦女の淫売が各方面に盛になりました。幕府は文久三年の三月に厳しい町触を出 しまして、八月下旬には各方面打込みに九十八人を検挙しましたが、これから後の江戸は無警察 の状態に陥ってしまいました。  江戸は混沌たる形勢に在って、芸者の話も種切れになりそうな時、文久二年二月十五日に坂下 門外で、閣老安藤対馬守が要撃されましたが、これにも御用芸者の艶聞が纏《まつわ》って居ります。安藤 閣老が一番困ったのは外人掩殺事件の頻発でありまして、安政六年七月二十七日に横浜で露国海 軍土官三人の事件があったのを手はじめに、万延元年正月七日の高輪東禅寺襲撃、その十一月に は横浜襲撃の風聞が高く、同十二月五日に米国の訳官ヒウスケンが殺されました。この時英仏蘭 の三公使が、幕府は外人保護に怠慢であるとして、各々その国旗を収めて横浜へ退きましたので、 形勢の重大なのに寒心しない者はなかったのです。  安藤閣老はこの難局に善処しまして、文久元年の三月には三公使ともに江戸へ還り、辛うじて 事なきを得ましたけれども、この折衝のために、安藤閣老は親しく米使ハルリスに会談したばか りでなく、その属僚を併せて自宅に誘引し、大いに饗応につとめました。その接伴に町芸者数名 を招き寄せ、外人を庭中の小亭に導かせて、白日の下に媚《こぴ》を献ぜしめたという風説が行われたの です。その真偽は容易に断定出来ませんが、八丁堀与力であった佐久間長敬氏は、この風説の根 拠を認め、相応に信用すべきもののように云って居りました。安藤閣老が外交談判に御用芸者を 命じたのに引続き、西郷大久保等は江戸を荒すために、益満伊牟田等の御用盗を放って、八百八 町を掠奪放火せしめました。まことに季世というのはこうしたものなのかも知れません。  江戸のどん尻である慶応三年のないもの尽しに「芸者芸人呼びてがない」とあります。 不審はありませんが、同年五月の芸者酌人調べを見ますと、   芝神明前辺 三十二人程   新橋木挽町辺 六十人程   日本橋霊岸島共 四十九人程   芳町辺 二十四人程   両国向島共 百十四人程、外に酌人子供二十八人程、万延の頃は百四五十人   神田辺 三人程   浅草辺 二十八人程   猿若町辺 十人程   下谷辺 四十五人程   赤坂辺 二十人程   三田辺 八人程   深川辺 十八人程   本郷小石川市谷辺 十五人程   麹町辺 十八人程     計四百七十三人程 それに となって居ります。これを天保改革後に盛り返した事永六年四月の調査に比べますと、吉原及び 品川、新宿、千住、新橋に在る分を除いて、女芸者百七十六人、女芸者に類するもの、即ち音曲 師匠の弟子踊子にして酒席に出ずる者百十四人というのですから、この方が大分少い。「珍話集」 は又嘉永中の柳橋芸者の総数を五十六人と云って居ります。いずれにも深川名残の勇み肌が妙に 作用して、柳橋が芸者の権威になり済し、頗る優勢な模様を示しているのですが、それよりも慶 応芸者の数が嘉永よりも著しく増加しているのを何と見たらよろしいか。意気だの酒落だのとい う時世でないに拘らず、事実は全く時勢を超越して居るのであります。  前に引きました「今昔較」は、この江戸の末から明治初年に至る情況を、次のように説いて居 ります。慶応の頃、物価が高くなった為に、色の価は却って値下げになった、これは貧乏人の醐 口に苦しむ者が、妻となく娘となく、江戸中一般に淫を売って、僅かに凍餓を免れようとしたか らである、それ以来東京の女達の風が一変する兆を示し、後には醐口に困らぬ者までも、娘に淫 を売らしめ、坐して食うの策とする者が増加して来た、明治初年は戦争騒ぎで、人間の命も明日 を測られぬ世の中であったから、身分のある人も色をもてあそんで欝を遣ることになり、色を買 う人が全都に充満し、その勢に乗じて色を売る婦女が愈々多くたった、淫を売る者は日に月に富 んで、綾羅錦繍を纏い、山海の珍味に飽きて居るに反し、古風を守る女は唐糸の二子織の衣も著 兼ねる有様なので、古風を守るのが馬鹿馬鹿しくなり、開化の新風を学ぶようになって来た、そ の後官禁は至って厳重であるけれども、かくまで開化に赴いた娘子供だけに、ひそかに父に訴え て、昔の野蛮の風に復するのは厭だと云い、追々開化の歩を進める様子である、というのです。  この開化という言葉の遣い方に頗る妙味があるので、一般婦女がだんだん貞操から離れて往こ うとする時、そうでなくてさえ三角四角六角八角の関係を常習とする芸者が殖えて参りましたの は、如何なる需要によるか、解説の必要もありますまい。幕府は風紀のために彼等の非行を糺弾 して已まなかったのですが、慶応二年の仏国博覧会に出陳した日本風俗画の中には、深川御船蔵 前寅蔵|店《だな》国次事国輝、上槙町会所屋敷清助店八十八事国周の二人に命じて描かせた、江戸芸者の 画面が二枚まであります。真先に芸者を世界に紹介したのは、十五代将軍慶喜の幕府でありまし た。