大衆文芸評判記 三田村鳶魚 むだ書き  心持よく読んでいるものを、何の彼のと、知ったか振りに出るでもあるまい。だがばかにされ ているのを御存知ないのかと思えば、人のことでも腹が立つ。まして臆面もないあの書き方、知 らなさ加減を超越した大衆小説、昔はなかった批評家というものさえある今日この頃、あの出鱈 日作者が、空々しく、大家の、文豪の、と言われて通用するのを、だアまって見ているおめでた さ、おめでたいとは馬鹿の異称、書くのも馬鹿なら、読むのも馬鹿、大人気もなく腹を立つのは 勿論馬鹿、あれも馬鹿なら、これも馬鹿、皆バヵの義経、教経どんに追い掛けられはしまいし、 てもさても、大衆文芸評判記などと、とんでもないこと、とんでもないこと。 昭和八年その月その日 菊の鉢を廊下に並べて        鳶魚幽人 筆 目 次  むだ書き  はしがき 大仏次郎の『赤穂浪士』 土師清二の『青頭巾』 直木三十五の『南国太平記』 白井喬二の『富士に立つ影』 長谷川伸の『紅蝙蝠』 吉川英治の『鳴門秘帖』 林不忘の『大岡政談』 中里介山の『大菩薩峠』 佐々木味津三の『旗本退屈男』 子母沢寛の『国定忠治』 はしがき  大衆小説というものは、今から数年前に、雄弁会が『講談倶楽部』を出して、講談の筆記を載 せていたのでしたが、そのうち講釈師と衝突して、雄弁会には講談の筆記を載せさせないことに、 仲間で相談をきめたことがありました。その時に雄弁会が困って、思いきってやさしく通俗的に、 講釈種のようなものを小説に書いて貰う、之いうことを始めた。中には講釈の筆記をやっていた 人なども、別な注文のわかりやすい小説というものを書き出した。それが案外な当りを取って、 よその杜でもそれをやるようになり、講釈風なものだけではまだいけないというので、活動の模 様を取り入れたものに仕立てて、それが大はやりにたって、ついに現在の状況に到った。講談か ら化けたものであるけれども、昔あった実録体小説ーこれは講釈師の使う丸本というものから 出たので、講釈師がしゃべる大体を書き付けたものが基になっている。それと今日の大衆小説と は、活動模様が入っているといないとの違いではなく、そのほかに違ったものを持っているはず であります。  趣向本位、興味中心の読物というものは、いかにもあってしかるベきわけで、それが昔の講談 で済むこともあれば、今のような活動式といったようなもので済むこともある。それも皆時世の 好みであるから、それをいい悪いというには及ばない。昔も講談も危い。実録体小説も危いもの で、事実である、本当であるということを、盛んに吹聴しながら、事実なんぞはまるで忘れてい るような場合の多いのを、まことに迷惑に感じた。今日の大衆小説は、必ずしも事実を振り翳し て立っていない。とにかく興味中心、趣向本位ということであるから、自由に脚色していって差 支えない。事実からは拘束を受けなくてもいいけれども、それがある時代、殊にいわゆる「髷 物」と称する江戸時代のものーそれは江戸時代には限らない、ある時代をきめて書く時は、い つも同様でありますけれども、しばらく数の多い「髷物」すなわち江戸物というものについて言 ってみる。江戸物に限ったことでないのは、くれぐれも断っておかなければならないが、いずれ の時代にしても、いかたる書き方であっても、時代のあるものである以上は、その時代にどうし てもない事柄や、あるべからざる次第柄は、何といっても許すことは出来ない。例えば、緋縅の 鎧を着た人が長靴を穿いている、上下姿の人が帽子を被っている、ということが許せないのと同 じで、何ほど事実から拘束されることのないものであっても、それほどのことは許されまいと思 う0  私は従来大衆小説なるものを見ていない。大衆と書いて昔は「ダイシュ」と読む、それは坊主 書生のことである、早くは「|南都六方大衆《なんとろつぽうだいしゆ》」といい、今日でも禅宗などでは、僧堂坊主のことを 大衆といっている。それに民衆とか、民庶とかいうような意味のないことはわかっている。通俗 小説というのがいやで、それを逃げるために、歴史的意義のある「|犬衆《だいしゆ》」という言葉を知らずに 使うほど、無学な人の手になったものである。その時はあたかも、名につづけた「師」という言 葉は、法師の略であって、僧侶のみに加えられる敬称なのを、|楽燕師《らくえんし》・|典山師《てんざんし》などのように、無 闇に「師」の字を用いるほど、むちゃな人達の多いのに、丁度釣り合って、その機会に打ち出す ほどのものなのだから、好んでそれを顧慮するにも及ぶまい、とばかり思っていた。しかしなが ら、あまり物を識らないことも、その人達だけならいいが、世間の大勢の人達まで、物識らずに 仕立て上げるようなことがあったならば、それはあま叺いいことではない。あまりむちゃなこと を書き過ぎる。その大衆小説が流行の勢いをなすに至って、はじめてそれを吟味して、世間とと もに考える必要を感じたのであります。 大仏次郎の『赤穂浪士』 上  まず大仏次郎さんの『赤穂浪士』からはじめます。これはこの本の名が示す通り、時代も明ら かなものであり、事実もたしかた事柄であります。けれどもまた、これほど沢山いろいろな方面 から脚色されているものはない。芝居や浄瑠璃の「忠臣蔵」でさえ、幾通りあるかわからないほ どになっている。この芝居や浄瑠璃というものは、いずれも趣向本位、興味中心のもので、何に も遠慮しないものである。そういうものもあるのであるから、大抵なことは看過されてもいいと 思う。それより以上なことが書いてあるとすれば、それだけが目立つわけであります。  一番先に出てくるのが、この本上巻の開巻劈頭の文句で、「将軍が退出になつたのは暮六つ近 い時刻である」というのですが、作者はこの「退出」という言葉を知らない。他に書き替える言 葉はいくらもある。これは音羽の護国寺へ行って、そうして帰られたのを「退出」といったのだ けれども、「退出」という言葉を知らたいから、こんなことを書いたので、芝居や浄瑠璃にも、 将軍が退出したということを書いたものはかつて見ない。といったら、作者は何とかいうかも知 れないが、その前に、浄瑠璃なり、脚本なりを少々見たら、何と書くべきものかわかるだろうと 思う。  それから将軍が帰られたあとで、「警衛が解かれると同時に、待ちかまへてゐたやうに外の群 衆が|雪崩《なだれ》入つて、境内を埋めた」と書いてある。こういうようなことも、決してこの時代にはな いことで、将軍の往来には人払いをして、通って行った先には「締り」といって、厳重な警備を しますから、どういう時間に帰られても、その日一日は、必ずそこへ多人数の者が入り込むなん ていうことは聞いていない。ここでは夕景に帰られたというのであるが、どうしても警戒を解く には三四時間はかかります。そうしてそれらの人が引き取ってしまってから後でなければ、一般 の人は入れない。そういうふうでありましたから、まずいつ帰られても、その日一日は、跡がご たごたしているので、その寺杜の境内に民衆を入れるようたことはなかったのです。  こんな話より一番おかしいのは、護持院と護国寺と一緒にしている。やはり今のつづきに「関 東新義真言の大本山、護持院の七堂伽藍は、この夕陽の中に松と桜をめぐらせて燦爛とつらなつ てゐた」とある。ところが護国寺は天和元年に建てられ、その後元禄十年に観音堂その他が増築 されたのでありまして、その総奉行は秋元但馬守でありました。その下奉行として護国寺の方を 負担していましたのは、前田八右衛門・境野六右衛門の両人であります。護国寺と護持院と併合 されて一緒になりましたのは、享保六年正月に護持院が焼けまして、それから後のことなのです。 元禄十年には、護持院は神田橋外にあったので、音羽にあったのではない。こんなことは誰でも 知っていることであるのに、ここには護持院が音羽にあったように書いてある。かえって護国寺 のことはいってない。  そこでここへ集って来た人の風俗などが書いてある。この中には大分吟味を要すべきものがあ るようですが、それよりもっと大きいことで、私にわからないことが沢山ある。「今はれつきと したお犬医者、滅多なことをいうて見なさい。遠島で済めばよいが、二つとない笠の台が飛ぶか も知れぬ」(四頁)なんていうことが書いてある。幕府の抱の犬医者があったことは事実ですが、 医者なんていうものは、他人を無礼討にするなどということはほとんどたいもので、もし慮外を したところが、遠島になるの、首が飛ぶのということは決してない。何を間違えてこんなことを 書いたものか。六頁には「数年前犬医者に取立てられて地所の付いた屋敷まで拝領することにな つた」ということが書いてある。屋敷を拝領する、この屋敷という言葉はどういう言葉か。地所 のついてない屋敷はないはずだ。屋敷ということさえも知らない。先年芝居で「旗本五人男」の ことを書いた中に、旗本の家へ家賃の催促に来る家主のことを書いたのがあって、思わず失笑し たことがあるが、ここにもそれと同様なお笑草がある。  それから八頁になると、御用聞の仙吉が、怪しい|曲物《くせもの》を見かけて、すぐに縛りにかかる。  これも曲物、仙吉が右へ廻る気配を感じると、つと体をひらきざま抜き討たうとしたが、それ  を感付かぬ仙吉でなく、急に飛びすさつて、  「危ねえ!」  と叫ぶと一緒に、繭から出た糸のやうに仙吉の手から走り出た縄が、武士の頭上にきりゝと舞  つて、腕にからんでゐた。 なんていうことがあるが、何たることを書いたものか。「手先」というものは、人を縛る権限の あるものじゃない。今日で申せば、諜者のようなものですから、人を縛ることは出来ない。これ は同心に付属しているもので、同心の指図がなければ、縛ることは出来ない。これはきまったこ となのに、挙動犯を認めてすぐに縛ろうとしている。もっともこういうことは、こうした類の読 物や、活動などではいつもやることだ。この間聞いた話によると、捕者に行った者どもが、十手 を持って打ってかかるところで、すぐに抜刀してかかる。そんなはずはないといったら、十手で はどうも賑やかにならない、刀を抜いてかかった方が、すぐチャンバラになって景気がいい、と ある者が答えた、ということを聞いている。そういうことは、江戸時代の法制を超越した話で、 決してあることじゃたいのを、むちゃに書いたのだ。そういうことをしなければ、人におもしろ く思わせることが出来ないのかと思うと、まことに困ったことだと、嘆息されるばかりである。  それから今度は曲者を追跡して行くところになつて、  すこし先に、自身番小屋があつて、闇の中にぽーッと黄ばんで明るく、障子が見える。仙吉は  急に思ひ立つたやうに、そちらへ駆けて行つた。  「爺つあん、爺つあん……」  と、寝込んでゐる番太を起してゐるらしい。  その間に、こちらで木戸が音もなくあいて、先刻の武士の姿を吐き出した。(一〇頁) ということが書いてある。自身番は昔からきまって道端にあるので、半戸で上の方の半分は油障 子になっている。それを見かけた御用聞の仙吉が、自身番小屋の中に寝ている番太を起している というのだが、作者は自身番の中に番太がいるのだと思っているらしい。自身番というものは、 およそ一町一町にあって、それには町役人、すなわち家主が代り番で勤めている。あるいは|町 代《ちようだい》・小者というようたものがいて、その用務をそこで処弁する。番太はそこにいるんじゃない。 番太というのは「番太郎」というもので、これは町々に木戸がある、その木戸の番人である。そ こでは多く荒物を売るとか、駄菓子を売るとかいうことをしていた。これは町の事務たどにはま るで係り合いのないもので、町のことを少し知っていれば、番太郎が自身番に詰めているもので たいくらいのことは、すぐわかるはずなんだが、これではどうしても番太が自身番小屋にいたよ うにみえる。  町木戸が開いて、曲者が出て行ったとあるけれども、音もなくあいたというのは、町木戸の構 造を知らないからの話で、町木戸は開きであるから、開閉に音がしない、それに町木戸の開閉に は時間があって、一遍町木戸を締めると、時刻まではなかなかあけるものじゃない。非常のほか にはあける気遣いのないものである。この町は|俎橋《まないたぱし》へ出るまでの道ということになっているが、 どこの町にしてみたところが、夜深になっては、みだりに木戸をあけるはずはない。町木戸の締 ることなども、委しく調べてみたらよくわかるだろうと思う。  それから、この曲者が三番町通を歩いて、|御厩谷《おんまやたに》の方へ下って、ある屋敷へ入ったということ、 、そうしてすぐに母親を呼んだことが書いてある。これは護持院の普請奉行を勤めた堀田甚右衛門 の倅の|隼人《はやと》というものが、護国寺に放火をして逃げて来るところの記事です。甚右衛門なるもの は、建築方が粗末だったというので、それを咎められて三宅島ヘ流されて、そこで死んだ。それ がまことに残念であった、その鬱憤でも晴らそうというような様子に、ここでみえる。この隼人 母子は、叔父の家に掛り人になっているのだとある。これがまた変な話で、親が遠島になれば、 その家は無論潰れて、その子供は大概中追放になる。そうならなかった場合には、その親類へ預 けられる。預った方では「御預り」というわけですから、なかなか御預りの人間をそう勝手に、 そこらをのこのこ歩かしたりするようなものではない。  またもう一つ考えれば、御預けの場合に、この堀田甚右衛門なるものが、どのくらいの身分で あったか。無論これはここで持えたものですから、どのくらいの身分かということを、作者が考 えて書いていない。御家人ほどの低い身柄であれば、親戚預けでこの通りになるが、三百石以上 のものだとすると、大概大名に預けられるわけです。ここでは甚右衛門を御家人とみた。すなわ ちごく低いものとみた。この母子の対話や、隼人なるもののいうことをみると、そう卑しいもの でもたさそうだ。御家人級のものとはみえない。どうもここらのところは、いかに小説とはいい ながら、この時代にこんなことがあったろうとは思われにくいものである。  一八頁になると、今度は翌朝のところで、鎌倉河岸にいる仙吉が、楊枝と手拭を掴八で湯に出 かけるところがあるが、元禄時代に朝湯なんかどこにあると思っているのか。  なかなか愛敬のあることがだんだんあって、犬医者の丸岡朴庵が、三国屋という商人によばれ る、そのまた別荘が向島にある。二二頁のところに、「土手の桜は七分といふところだつたが、 気の早い花見船が三味線や太鼓に川面を騒がせて、幾隻も上り下りして行く。土手の上には、無 論、真黒な人出が、埃をあびて、ざわくと涯なく続いてゐた」というようなことが書いてある。 これはまごう方なき隅田堤のことを書いたので、一体向島の花見に行くということが、元禄時代 にあったことだと思っているのが、大分な愛敬だと思う。あすこは御承知の通り、寛政元年に、 中洲の新地を取り払った土と、浅草川の|川液《かわざら》いをした土とで、あの土手を築いたので、翌寛政二 年に桜の木を植えた。もっともあすこには早くから四代将軍がいくらか桜を植えられ、八代将軍 がまた享保二年と十一年に、柳・桜などを植えられたけれども、まだまだなかたか人が出るよう な景気にはなっていない。向島の桜というものは、何としても寛政以後のものである。戸田|茂睡《もすい》 の『紫の|一本《ひともと》』たどをみれば、江戸のどことどこに花見の場所があった、ということがわかる。 元禄時分に向島が花見の場所でなかったことは、何の本を見てもすぐにわかるはずだ。それから あすこに別荘が出来かけたのも、やはり桜の向島になってからのことで、それ以前には、別荘だ とか、寮だとかいうものがあったのではない。  それから、この別荘へ吉良上野介がやって来たことを書いて、「これは、宗匠風の、渋い服装 をした老人で、駕籠にも乗らず若い侍を供に連れて|徒歩《かち》で来たのだが、三国屋が、その前に出て、 砂を嘗めさうにしてお辞儀をしてゐるのは、余程の大身の御隠居だと見える。やせぎすの、枯れ た顔立だが、目が大きくて、ぎよろくしてゐる」(二五頁)とあるのですが、鍛冶橋に屋敷のあ った吉良上野介が、向島まで歩いて行けるか行けないか。時間の関係もあるだろうし、高家の筆 頭である上野介が、この時はまだ隠居したわけでもないのに、若侍をただ一人連れて、町人の寮 などへ出て行くはずはない。まして鍛冶橋から向島あたりまで歩いて行くたんていうことは、誰 だって思いもよらぬ話で、それも身分のないものであれば格別のこと、身分のあるものが遊びに 行くのに、てくてく歩いてなんぞ行くはずのものじゃない。またこの著者は高家の|肝煎《きもいり》というも のは、月番で勤めているものと思っているらしいが、これも無論間違いです。  最も愉快なのは、神田川縁の「しのぶ」という料理屋で、上杉の家中のものが酒を飲んでいる (三九頁)。元禄時代に神田川縁のみならず、そこらここらに料理屋だんていうものがあったと思 っているんだからおもしろい。  また、小林平七のことを書いて、断り書して、「小林平七といふ(芝居や浪花節では小林平八郎に なっている)上杉の家中に高名の剣士である」といっている。-これは吉良の譜代の家来で、平七 じゃない、小林平八郎ですが、吉良の一字を貰っている。一字を貰うというのは、名乗の字を貰 うことで、吉良が|義央《よしひさ》といいますから、小林は|央通《ひさみち》といっていた人で、これは吉良家の家老です。  それからこの「しのぶ」で、堀田隼人が、上杉の家来と喧嘩をして、先回りをして、それを斬 った。そこへまた御用聞の仙吉が来て、こいつも殺されてしまう、これでは御預りの人間が不断 の通り飲み歩いたり、放火をしにも出れば、人と喧嘩をしにも出るというわけで、随分放埒に出 入りが出来たとみえる。これでは預ったものが、まるで取締りしていないとしか思われない。身 分のないもので、同輩同様な分限の者のところへ預けられたとしても、こんなに不取締りではな いはずだ。お預けのみならず、罪人の家族がどうなるものか、全く知らないからこんなことが書 けるのだろう。  七二頁にたって、吉良のうちへ、御公家さんの饗応を承った伊達左京亮や、浅野内匠頭の来る ことが書いてあるが、趣向の上からこうしたとすれば、それまでの話だけれども、随分無理な趣 向で、あるべからざることである。殊にその少し前をみると、伊達は加賀絹と、探幽の幅と、黄 金百枚を持って来ることが書いてある。おおげさに書いた方が、吉良の欲張ったところを現すの にいいと思ったのかもしれないが、何としても黄金百枚はおかしい。この伊達は小さい伊達では ありますけれども、それにしても殿様自身持って来るはずはない。付届けは勿論、賄賂なら賄賂 で、ちゃんとそういうものを扱う人々がある。付届けを殿様自身持って行くなんて、そんな御安 直な殿様は、いくら小大名でもあるものじゃない。  それから浅野と吉良の逢っている時に、吉良は小姓の差し出す長い|煙管《きせる》を受け取って、自分で 火皿に煙草を詰めて、煙草をのんだようたことが書いてある(四七頁)。もう高家でありますと、 吉良ぐらいのものは大名もどきですから、煙草を自分で詰めてのむなんていうことはないのです。 こういうことでおもしろく思われるのは、雲井竜雄が殿様の真似をして女郎買いに行った。すっ かり殿様になりおおせていたけれど、便所へ行った時に自分で手を洗ったので、茶屋の者が気が ついた。雲井竜雄は化けの皮が顕れて、逃げて帰ったという話がある。,それと同じことで、万石 以下でも、高家の筆頭の吉良などは、煙草を自分で詰めてスパスパやるたんていうことは、とて もない話です。  七九頁のところを見ると、隼人なる者が、町道場へ出て来て、稽古を手伝っていると書いてあ る。御預人である隼人が、どうしてそんなに差し構いなく町へ出て、人に稽古などをつけている か。これもないことです。そうするとまた乱暴た話で、御用聞どもが、そこへ御用御用といって 乗り込んで来る。これらが活動写真好みの行き方たんでしょうが、とんでもない話で、御預人で あれば勿論、おのずからそれに対する処分があるし、ただの浪人にしても、そうむやみに町方か ら町道場へ入って行って、「御用御用」なんてやれるわけのものじゃありません。 中  義士伝の方が、材料がとにかくあるので、間違いながらも、まだまだというところであるが、 新たに加えられた堀田隼人と|蜘蛛《くも》の陣十郎という二人に関する話は、作者の腹から持ち出した、 あるいはバタ臭いところもあるから、西洋種を嵌め込んだものかもしれないが、そうしたものだ けに、この方は江戸だか、日本だかわからないところも随分ある。ばかばかしいところも、おか しいところも、評判の興味はかえってこの作者が捏造した話の方にある。  隼人が、犬医者の丸岡の妾宅へ強盗に入るところ(九〇頁)で、「押込」ということが書いてあ るが、「押込」という言葉は、元瀑の人のいわないことです。強盗の名称もいろいろあって、夜 盗・|躍込《おきセこ》みなんともいう。いろいろな名があるけれども、それもやはり時代時代の言葉たので、 いつでも同じではない。  この丸岡の妾のお千賀と隼人のことを述べているところに、「春信あたりが描いたら」(九二頁) という形容がしてある。この春信の画というものは、ただ縞麗という意味に使うなら格別だけれ ども、この頃の人間を描くものとはみられない。これらは作者が春信の画というものを知らない のか、時代を知らないかのうちでなければたるまいと思う。  そうすると妾宅の塀の外を、火の番の親仁が「帯に釣つた|提灯《ちやうちん》の光りを薄く投げて、ゆらく とゆりたがら来る」と書いてあるが、元禄頃の提燈というものがいかなるものであったか。『|箔 庭雑考《いんていざつこう》』の播画でもちょっと見れば、合点のゆく話で、「帯に釣つた提灯」などがこの頃あろう はずがない。  それと呆れ返ったのは、この夜番の親仁が、時折立ち止まると、びっくりするように、はめを はずした声で、「火のばアん」といった、と書いてある。夜番の爺さんが「火のばアん」という はずがたい。火の番だから「火のばアん」というと思ったのだろうが、これは「火の用心」とい うので、火の番が「火のばアん」ということは、いつの時代でも決してない。とんでもない話で、 いかにもばかばかしい。  一〇一頁になって、浅野内匠頭が片岡源五右衛門を呼んだところに、「その間に源五右衛門は 来て廊下に平伏した」とある。いかにものを知らたいからといって、大名の居間ーそれがすぐ に廊下があると思うほどでなくてもよかろう。これは芝居か何かの煽りをくって、こんた妄想を したのかもしれない。  それから赤穂の大石良雄の家のところ(一〇三頁)で、主税が庭先から「父上!」といって呼 びかける。もう十五六にもたった主税が、いかに親しい親子であるにしても、部屋にいるものを、 庭先から立ったまま呼びかけるなどという無作法なことは、町人・百姓なら知らず、千石以上の 身柄のものにあり得べきことでない。いかにも武士の生活に疎いことが知れる。また大三郎が門 前の蜂の巣を見に行くのを説明して、「はい、八介におぶさつてまゐりました」と主税がいって いる。「おぶさつてまゐりました」などという言葉を使うはずもない。これらの言葉も、武士の 生活というものをまるで知らないから出て来る言葉のように思われる。  一〇八頁になると、今度はまた江戸の話で、唐獅子の藤九郎という無頼漢が、「明神下の棟割 長屋に住んでゐる」と書いてある。元禄度の江戸というものは、新橋から|筋違見附《すじかいみつけ》までのもので、 それを|眦《こ》蜊えればー今日の郡部たのです。明神下と申せば神田の明神下ですが、とてもあの辺に 「棟割長屋」なんていうもののあるはずがない。また実際ありもしなかった。この界隈から湯島 までかなり顔が売れている、ということをいっているけれども、あの辺に町家が沢山あったと思 うのが間違いたのだから、こういう無頼漢の、顔が売れるの売れないのということは、あるべき ようがない。そういえば蜘蛛の陣十郎の隠家も、犬医者の丸岡朴庵の妾宅も、皆湯島辺になって いるが、あの辺が妾宅などのあるような気の利いた場所になったのは、維新後の話で、それ以前 はそうした場所ではなかった。  この唐獅子の藤九郎が「どこの料理屋へ顔を出しても、まづ女達がお世辞の一つもいつて、き ちんとお|神酒《みき》をそなへてくれる」と書いてありますけれども、これは江戸の町々、すなわち下町 にさえ料理屋などというものがなかった時代でありますから、とんでもない間違いだと思います。 まして江戸の市外に、市内にさえたい料理屋のあろうようはありません。  また藤九郎の背中には、「一面に牡丹と獅子の|刺青《いれずみ》をしてゐた」ということが書いてあります が、この頃の刺青は文字が多くって、こんなこまかい立派な、「牡丹と獅子」なんていうような 刺青はたかった。勿論色ざしなんどはありゃしない。筋ばりだけでもこんな画はない。こんな話 もいけません。  同じ話のつづきに、藤九郎が「腰の煙草入れをさぐりたがら」(一一一頁)ということがある。 その後に「きせる筒をぬきながら」ということもありますから、丁度後の煙管筒のついた煙草入 のような気持で扱っているんでしょうが、元禄度の煙草入がどんなものか、全く知らないから、 こんなばかたことを書くんだろうと思う。ここにもう一つ刺青が出てくる。これは蜘蛛の陣十郎 の方ですが、「太股を埋めて膝に及んでゐる見事な墨のぼかしぼりだつた」(一一四頁)とある。 刺青のぽかしは最も新しいことでありまして、とても元禄度の話とは受け取れない。  この陣十郎について、一一八頁に「蜘蛛の陣十郎なら名うての大名荒しの賊」と書いてある。 これが九州浪人で、腕もあるし度胸もある男だ、というのですが、元禄の頃は町方を荒す泥坊は なかった時世である。たかなか大胆な遣り方をするので、役人達がつかまえようとしてもつかま らず、神出鬼没の働きを示している。「かういふことが好物の江戸つ児の人気を少からず集めて ゐた男だ」と書いてある。が、江戸ッ児という言葉も、すこぶる新しい言葉であり、従ってまた そういう人達の気色ばんだ様子なんていうことは、江戸のごく末になってのことであって、こん なところに、江戸ッ児だの、江戸ッ児の人気だのを持ち出すのは、全く時代を知らないことがよ くわかる。  それからまた犬医者の妾宅のところの話になって、「|絹行燈《きぬあんとん》のやはらかい光は、酒にみだれた 部屋の有様を照らし出してゐる」(一二六頁)と書いてある。作者は絹行燈が、いつからあるもの かということを知っているのか。そうしてそれはどこにあるものかということも知っているのか。  この妾宅の前に陣十郎の隠家があるらしい。そこへ陣十郎が隼人を連れ込んだところ(=二五 頁)で、その妾のようなものが、煙草盆を運んで茶を出す。この時亭主が「さ、おたひらに」と いっている。相当な|士《さむらい》であるらしい隼人が、|胡坐《あぐら》をかいて坐るものと心得ているのは無法極まる。 いつだって江戸時代である限りは、相当な武士が「おたひら」になんぞおいでなさるものでない のは、誰でも知っている。知らないのはこの作者ばかりだ。  それから前の丸岡朴庵の妾宅のところで、隼人が忍び込んでいるのを、泥坊だといって騒いだ ので、様子を知って町方がやって来た。町方役人という心持らしくみえる。それから少しおいた ところに、「間もなく町方の者は、朴庵のいつもの|術《て》で、袖の下を使はれて」云々、(一三八頁) とある。そうすると「町方」という言葉が手先とか、目明しとかいう人達のようにも聞える。こ の町方という言葉だけで、同心とか手先とかいう意味に使うことはないので、武家屋敷から指し て町方という。士民を分けるためにいうので、用例が違っている。  その次に勅使の旅館のところ、これは辰ノロの評定所をいつも使う例で、そこのことです。吉 良上野介がそこに立ててある屏風を見て、誰が持って来たかを聞くと、番士が「浅野|内匠頭《たくみのかみ》様か ら……」(一四三頁)と答えている。饗応使になったものは、そっくり旅館を受け取ってつとめる のだといいますから、その中に番士も何もいないはずだ。また誰が持って来たといって聞くこと もいらたい話だ。もし浅野の家来以外の者が上野介に答えるのなら、「浅野内匠頭殿」といわな ければならない。  それからまた浅野の屋敷のところになって、急用があったのではあろうけれども、まだ寝てお られる内匠頭の寝所間近いところまで、源五右衛門が行っている。内匠頭が寝所から「源五右衛 門か!」と声をかける。源五右衛門もそれに御返事している(一五○頁)。そういう無作法な、無 遠慮たものではないはずだ。殊におもしろいことは、「寝所間近いところまで廊下を行くと」云 云とある。廊下を歩く音がすぐに内匠頭に聞えるというような、しみったれた|吝《けち》な大名屋敷があ るはずはない。  このあとに朝の早いことをいって、「筋違ひ御門まで来る時分には、河岸へ行く魚屋の威勢の よい姿に夜はまつたく明けはなれてる」(一五五頁)と書いてある。これは大方魚河岸ヘ通うよう なつもりで書いたんでしょうが、例の板舟事件で問題になったあの河岸が、元禄時代からあると 思ったら大間違いだ。それからまた陣十郎の店ー一石橋の際の呉服屋のことが書いてあるとこ ろに、「暖簾の奥には蔵の入口が二つばかり並んでゐて」とある。蔵の入口ではあるまい、|戸前《とまえ》 だろう。  またその店の離れのような座敷のことを書いたところに、「忍び返しを付けた黒い板塀」のあ ることが書いてある。「忍び返し」なんていうものが、元禄時代にあったと心得ているんだから 恐ろしい。  そればかりじゃない、九州浪人で泥坊であるところの陣十郎がー前には「呉服店」とあり、 後には「|太物屋《たんものや》」と書いてあるが、どっちにしたところで、立派な商店の主人になっている。身 許素性のわからない人間が、家を借りることも、裹店なら知らぬこと、表店を借り受けることは 容易に出来ない。これでみると、陣十郎は家持で、地面も家作も持っているらしい。家持や地持 は身許素性のわからない人間のなれることではない。それですから、享保以後の泥坊で、ごまか し込んで商店を持っていたやつがあります。そういうものは多くは婿に入る。あるいは吉原あた りの娼家の株を買って入り込む。下町の真面目な町人の家は、なかたか入り込むことが出来ない から、こういう吟味の烈しくたい方へ回る。呉服屋や|太物屋《ふとものや》は組合がありますから、吟味が面倒 です。何屋何兵衛の弟だとか、長年つとめていた実体な雇人であるというものでなければ、呉服 屋や何かに化けることは出来ない。随分身上を上手に隠した享保以後の泥坊でも、呉服屋や太物 屋になったやつはありません。  一六一頁に柳沢出羽守のことを「当時若年寄の上席」と書いてある。柳沢が若年寄だったなん ていうことは、どこを捜して出てきたのか。  その柳沢と吉良との対話-柳沢と吉良との関係について、ここに書いてあるのは、皆持え事 であって、事実ではない。その穿鑿には及ばないが、ここには吉良との対話についていいましょ う。上野介が浅野を評していう言葉に、「まことの田舎亠八名で……礼儀たど、いさゝかも心得な いやうです」(=ハ七頁)ということがある。鎌倉時代や室町時代なら知らぬこと、江戸時代にこ ういう言葉はないはずだ。もし言うとすれば、いずれも本国があるので、田舎大名でたいものは 一人もない。皆田舎大名である。元禄時代のいかなるものにもー浄瑠璃・小説・脚本、何の種 類のものを捜しても、「田舎大名」という言葉の使われていることはほとんど見かけない。ここ では「ものを知らない大名」という意味に使ってあるのですが、いかなる意味にでも、この頃で は、「田舎大名」という言葉は使っていない。  そうすると柳沢が、また吉良の言葉を聞いて、「それア困るな……まだ若い男だが、いつまで も元亀天正の夢を見てゐるものと見える」という。柳沢は将軍の御側で重く用いられている人で、 この人の口から、小さいとは申しながら、大名である浅野|長矩《ながのり》を、「若い男だ」というような|無 躾《ぶしつけ》な言葉は、陰口にしても言うべきものでない。またそれほど下卑た口をきくべきものではない。 これらも武士の生活を知らないから起ることだ。  柳沢の屋敷に、陣十郎と隼人が泥坊に入って、隼人が一人で逃げるところに、「神田橋御門を それて、道を東へとる。近くの濠へ出て、水を泳いで、見付の外へ出るつもり」(一七○頁)とあ る。これはなかたかむずかしい地理で、どういう道順を書き出したものかわからない。  その続きに濠から上ったところを述べて、「ぬぎ棄てた分の着物と刀を、かたはらの天水桶の 下へ突つ込む」とある。家々の門か、道端か、そういう辺に天水桶を出しておいたというのは、 どういうことか。これは元禄度の|仕来《しきた》りではたい。もっともっと後になった話で、おそらく寛政 以後のことでなければなりますまい。  それから道三橋の辺で、隼人が「何者だ?」といわれた。そこで相手を見ると、「町役人では ないらしい。一人が消して手に持つてゐた提灯の紋は鷹の羽」である。そこで浅野家の家来だと いうことを知ったというのですが、ここで「町役人」というのは、八丁堀の同心のことのようで あります。八丁堀の与力や同心は、町役人とはいわない。町役人というと町方役人で、名主以下 家主等のことをいうのですから、八丁堀の人達のことではない。  ここに隼人の言葉として、「町方へ御渡しなさる御所存か」(一七三頁)といって、浅野の家来 に問うところがある。この「町方」は八丁堀の者のことらしいが、この用例も間違っていて、何 のことだかわからない。  そうして隼人が、いよいよ八丁堀の役人に引き渡すといわれて、「各女方は浅野家御家中で御 座りませうがな」といい、「如何にも」という答を聞いて、「御要心大切ぢや。高家には柳沢の後 押しがありまするぞ」といった。その話を聞いて武林唯七がーー前に「何者だ?」といったのは 武林唯七らしい.現在柳沢の家へ忍び込んで、あとから追手が来るのも聞いていながら、隼人 を放している。これは何のことだか実にわけのわからない行止りだと思います。高家には柳沢の 後押しがあるということも、どういう意味のことだか、全くわからない。  このあとの方にも、上野介が柳沢の後押しによって、ますます意地の悪いことを仕向けるよう に書いてありますが、何のことやら一向にわけがわからないことです。泥坊だということを自白 している隼人を、武林が放したのもわからないが、吉良の後押しを柳沢がするというのは、一体 どういうこ-、しなのか、この二つは最もわからないことの親玉で、高家の尻を将軍の御側にいるも のが持つの持たぬの、そんなばかなことは江戸時代にはないことであります。 下 一九二頁の浅野の刃傷のところになってきて、「血は面をぬらして、 肩先から|大紋《だいもん》まで|唐紅《からくれなゐ》 に見えた」という文句があるのですが、このコ肩先から大紋まで」という言葉でみると、「大紋」 というものを何と考えているのか。大紋は徳川氏になりましてからは、式服と定められておった ので、|素襖《すおう》とほぽ同じようなものです。その体裁やその格好などは、この頃沢山出ている百科大 辞典といったようなものを見たら、すぐわかることと思います。その形がどんたものかというよ り、一番早いのは、大紋を着れば|風折烏帽子《かさおりえぼし》、素襖を着れば|侍烏帽子《さむらいえぼし》である。この丈の後にも 「烏帽子大紋をも直したし」云々ということがあって、式服の名なのだが、コ肩先から大紋まで」 ということは一向わけがわからない。大きな紋がついているから、そこまで斬ったということの つもりで言ったんだろうか、どうもコ肩先から大紋まで」では、どこからどこまで斬ったのかわ かりません。大紋を「大きな紋のついているところ」という意味に解したのかもしれない。  二〇二頁になって、萱野三平と早水藤左衛門が、早駕籠で変を赤穂へ知らせるところに、「二 人は、家へ帰つて旅仕度をする猶予もなく、|上下虞斗目《かみしものしめ》のまゝ用意の早駕籠に飛び乗る」と書い てある。慶斗目が武家の式服であったということは、誰でも知っていることである。が、早駕籠 に乗る者が、わざわざ式服を着て乗っているなんていうことは、今まで聞いたことがない。あら ゆる義士伝の中にも、こんなことを書いているものは一つもない。式服と申したところが、輿斗 目は誰でも着る式服ではない。|目見《めみえ》以上の人の着るもので、誰でも着られたわけのものではない。 早水藤左衛門は百五十石、萱野三平は十二両二分、三人扶持という身柄の人で、慶斗目の着られ る人達ではない。それはしばらくおいて、輿斗目の着られる身分の者であったとしても、早駕籠 に乗って出かけるような場合に、式服を着ているなんていうことは、決してない。無論平生着て いるものではない。もし式服でおったとすれば、必ず着替えなければならないのです。  二〇三頁のところになると、将軍が勅答のために行水をされることが書いてある。そこへこの 事変を言上しょうとして、柳沢出羽守が御湯殿の御次に控えていると書いてある。柳沢は御側御 用人で、しかもここにもちゃんとそう書いてあるが、御側御用人が御湯殿の次に控えているなど というのは、もってのほかの話であり、またそういう身柄の人の控えているような席が、御湯殿 近くにありはしない。申すまでもなく、御側御用人といえば、老中に準ずべき待遇のあるもので ある。  それからまた「将軍の行水も済み、お|髪上《ぐしあ》げも終つて、装束を着けようとせられる時」まで、 柳沢が次の間に控えて待っていたと書いてあるが、将軍が風呂の上り場で御櫛を上げたり、装束 を着けたりするものと心得ているに至っては、全く言語道断でありましょう。とてもお話にはた らない。  それから柳沢が将軍に事変の言上をして、指図を受けるところで、「差当つて御饗応掛の後は 何人に仰せ附けませうや、また御勅答の御席はそのまゝ御白書院を用ひまして宜しきものにござ りませうや? 伺ひ奉りまする」とある。こういうことも、すぐに将軍が指図をするものならば、 老中などはいらないのである。これは是非急速にも老中が取りきめて、親裁を仰がなければなら ぬはずで、柳沢が専権でこんたことをしたようにもみえるが、そんなことはどうしてもあるべき ことでない。老中もまた、柳沢が出し抜いて将軍の親裁を乞うたなどということを、黙過するは ずのものでない。こういうことは何も知らない著者が、無法に、でたらめに書いたものと思う。 それにまたその言葉がおもしろい。「差当つて御饗応掛の後は何人に仰せ附けませうや」という のは何と解していいか。こういうものを書くに当って、昔の言葉を今の言葉に書き改めるという ことを咎めようとは、私どもはさらさら思っていたいけれども、「仰せ附けませうや」という言 葉は、自他が間違っている。そんな自他の間違った言葉は昔から決してない。  その続きに|御目付《おめつけ》の|多門《おかど》伝八郎が内匠頭の吟味を始める前に、「御定法どほり言葉を改めます。 左様お心得ありたい」という挨拶をする。それを聞いて「内匠頭は、はじめて面を動かした。や さしき武士に逢ふことかなと思つたのであらう」と書いているが、これはすベての吟味に対して、 定例の言葉なので、こういう言葉を聞いて、自分に同情ある人だと思うなんていヲことは、少女 でも昔の話を聞いたおぽえのあるものなら、とても思いつけることではない。  二〇七頁にたりますと、吉良に手疵養生致すように、という上意を伝えられるところで、その 申渡しをしている仙石伯者守のそばに、いつの間にか柳沢出羽守が出て来た。そうして「只今仰 せ出されたとほりの御上意なれば、本復の上は相変らず御出勤になるやうに」なんて言っている。 大目付が正式に申し渡している側へ、役人でない奥勤めの柳沢が、引き続いてすぐに、かれこれ 助言するなんていうことがあったら大変だ。また奥勤めの柳沢が|御表《おおもて》の方へひょいひょい出て来 ているなんていうこともあることでない。こういうことは、その時代として決してあるべからざ ることです。小説だから、善人を悪人に、夜を昼に、どう扱ってもいいけれども、どうしてもそ の時代にないことを書き出すのはどういうものだろうか。例えば現代のことを書くにしても、昭 和の今日、洋服姿で大小をさしているものを書いたらどんなものか。それを考えればすぐわかる 話だ。  二一〇頁に、綱吉がこの事件の裁断を下して、老中達から止められた。どうも不公平のような 疑いがあるというので諫言された。この事実は必ずしも糺すに及ぶまいと思うが、その時綱吉が 立腹されて、「さツと顔色をかへて」立ち上られて、一言も言わずに奥に入られる。そこに「つ と内へ入ると、仕切りの|唐戸《からど》を音高く|閉《た》てた」と書いてある。将軍が出入りする時に、戸障子を 自らあけたてするものだと思っているなどは、屑屋よりひどく踏み倒したものである。柳営のい ずれのところにも、仕切りがあるものかないものか。またそれがガタリピシリと音がするに至っ ては、裹借屋か何かと間違えているんじゃないか。こういうことから考えると、滑稽小説じゃな いかという気もする。  それから御目付の多門伝八郎が、どうもこの処置は片手落だというので、その苦情を若年寄の ところへ持っていった。老中のところへ申し立てるならわかっているが、若年寄のところへ持ち 込んだのはどういうわけだ。御目付は政事上の申立てについて、将軍へ|直《じき》にするものなのだから、 無論老中へも出来る。それを何故若年寄なんぞヘ持ち込むのか。殊に一旦将軍から仰せ出された ことを、御日付などがかれこれ言ったところで、それがために変改するはずはない。またそんな ことで、幕府が立ってゆけるもんじゃない。だから「一旦御決着の上は今更変改など出来ない」 というと、伝八郎は今度は柳沢のところへ行って、苦情を申し立てている。ここで最も振ってい るのは、「御決着とは上様の御思召に御座りませうや。それならば是非も御座りませぬ。然しな がら若し出羽守殿御一存によることならば、あまりに片手落の御仕置き、今一応の糾閙仰付けら れますやう」という抗議をしていることで、すでに上意として発表されているものを、柳沢の一 存とはどういうことだ。柳沢が言ったに違いないという推量をしても、こういうことを表向に言 い得べきものかどうか。昔は決してそんなことを言う者もなし、またそう言われては柳沢が済ま ないくらいのことは、わかりきった話です。当時の役向を全く知らないから、こんなことを書く ので、若年寄に|斥《しりぞ》けられたことを御側御用人に持ち込むなどは、もってのほかの話だ。  まだおもしろいのは、柳沢が怒って、「奇怪なる申条。お退りなされ」といった。それから伝 八郎が退いて、「部屋へ帰つて謹慎した」と書いてある。この「部屋」というのは御目付の部屋 なんでしょう。それから皆の尽力によって、「別にお咎めもなく差控ヘを解かれて検使の役に加 はることが出来た」というのですが、御目付というものを一体何と心得ているのか、たとえ御側 御用人が、殊に権勢の盛んな柳沢にしたところで、正式に上意をもって差控えを命ずるたら格別、 申渡しも何もせずに、柳沢が「退れ」といった、それだけですぐ差控えになるなんていうことは、 幕府の法制を無視した、とんでもない話である。これらもまるっきり当時のことを調べていたい から出てくる間違いだと思う。  そこでまた話が替ってきて、蜘蛛の陣十郎と堀田隼人の話になる。ここヘくると盛んな御愛敬 で大とんちきをやる。  二二九頁のところで、蜘蛛の陣十郎と堀田隼人は、向島の三国屋の寮へ泥坊に行くつもりで、 山谷へ来て、船宿の二階で時刻を待ち合せている。山谷の船宿なんていうものがどんなものであ ったか。山谷船という吉原通いの船があったことは、早くから知られてもおり、かたがたであり ますが、ここでは二人は山谷へ来て、「舟宿の二階に時刻の移るのを待つてゐた」とある。この 頃二階家などの小縞麗な、後の船宿のような、気の利いたものがあったと心得ているのはお笑草 だ。船宿らしい船宿が出来たのははるかに後の話で、元禄頃に二階で一杯やるような船宿があっ たと思わなくてもよかろうと思う。しかしこう思っていなければ、なかなか二の句が継げない。 もういい加減な時間になったと思ったから、話していた二人が座敷を立って、船へ乗ろうとする。 そこに「間もなく二人は、女達の提灯に送られて庭に降りた。舟の仕度はもう出来てゐる」と書 いてあるが、船宿のおかみさんの気の利いたのがあるようになりましたのは、安永・天明度の話 で、何としても宝暦以前にありようはない。舟を河岸へ引きつけて、お客を待っていて、そうし てそれに乗せて行くといったような船が多かった時である。そんなことに|頓着《とんちやく》のないこの連中は、 船宿の二階で一杯という気持でいますから、「神田川ヘ入れてくれ」というわけで乗り出した。 この船は何とも書いてないが、まずこの時分の話とすれば、二挺立、三挺立の船でなければなら ない。いわゆる|猪牙《ちよき》だ。ところで乗り出してみると、陣十郎の乗っている船の少し前を、「花見 舟の名ごりと見える屋根舟が、ひつそりとした川面を三味線太鼓で流して行,-、」というのが出て きた、「屋根舟」なんていう名前が、元禄頃にあるか、ないか、聞いてみるまでもない話だ。大 川を通るー後で申せば船遊山ですが、そういう船は吉原通いにもっばら使われた猪牙船とは別 なので、これは初めに「御座船」といい、後には「屋形船」といわれた船です。それでは古いと ごろには簡単な遊山船がなかったかというと、「|日除船《ひよけぶね》」という船があった。それがだんだん進 化して、後の屋根船になったので、|荷足船《にたりぶね》の上に覆いをかけたようなものだったらしい。それが 百艘もあるようになったのは、寛延二年の話で、それ以前には二三十艘位しかなかった。この 「日除船」が、その後屋根船の形を具えるようになって、だんだんとはやってきたのは、どうし ても明和以降のことでなければならない。宝暦度にすら、まだ屋根船という言葉はなかった。無 論屋根船の格好をしたものもない。が、そんなことは著者は知らないんだから一向構わない。  その屋根船の中にいたのが、「外神田で名うての岡ツ引き連雀町の但馬屋仁兵衛」というもの だった。当時の外神田というものは、前にもいったように市外である。そこに岡ッ引の大親分が いた。これなんぞもたしかに享保以降の話で、どこにしたところで、元禄当時には岡ッ引の大親 分なんていうものはありはしなかった。しかも岡ヅ引に「但馬屋仁兵衛」なんていう商人みたい た名をつけた人のあったことは、もっともっと後の話でなければならない。その親分に、前にも あった唐獅子の藤九郎が耳打ちをして、蜘蛛の陣十郎があとの船にいることを知らした。そこで 急に捕える気になって、仁兵衛が先に船から上って、支度にかかる。その中でも最もおもしろい のは、「柳沢様のお声がかりだ」ということを仁兵衛が言っている。柳沢は自分の屋敷に泥坊に 入られて、入った泥坊が陣十郎だから、それを捕えよ、と言いつけた、ということらしい。それ がまたとんでもない話で、老中から指揮を受けて、町奉行が組下の者を捕手にさし向ける。それ を「|御下知物《おげじもの》」と称したけれども、柳沢は役人じゃない、奥向に勤めているのである。ーここ でついでだから、ちょっと言っておきたいが、男女ともに表役を勤めるものを「御役人」といい、 君側を勤めるものはそういわない。女中達にしたところが、|御中繭《おちゆうろう》・三ノ間・|御錠口《おじようぐち》なんていう ものは、皆役人とはいわない。表方にしたところが、御側用人・御側衆・御小姓・|御小納戸《おこなんど》、そ ういうものは皆君側の御用を勤める者だから、役人とはいわない。昔だって宮中・府中の別とい うものは、朝廷にもあったし、幕府にもちゃんとそういう区別がついていた。当職でない-現 在その職にいない柳沢が、町奉行に命令するはずがない。また老中から下知を受けるようなこと があっても、それは与力・同心までは知れても、それより下のーたといいくら大親分であった にしろ、岡ッ引などというものは、表向は「小者」というわけで、その手限りで使っているので すから、奉行所へさえ表向に名の出ていないものである。かりに本当に幕府から命令の出て捕縛 する「御下知物」であっても、それが「御下知物」であることを、岡ッ引などが知っているはず がない。どういうものを縛らなければならぬ、というくらいまでのことで、それ以上のことはわ かるはずがない。「柳沢様のお声がかり」ということが書いてあるのをみて、著者の時代に対す る知識が、何程であるかということがわかるように思われる。  それからまた仁兵衛が、船から上って来る陣十郎、隼人の先回りをして、その間に人配りをし ている、それからそれへと、だんだん伝わって、ずんずんと行く先々へ人が配られている。殊に 御愛敬なのは、仁兵衛が通って行く道の「番小屋自身番へ、ちよつと声をかけて行くだけ」だと 書いてある、それがまた人配りをするのに必要なことであるらしくみえるが、自身番などという ものは、岡ッ引などの関係のあるものじゃない。その町その町のことだけ扱っているので、町回 りの同心達が、巡回の時に一々そこへ声をかけるのも、町内に何か事があるかどうかを聞くので、 そのほかの意味ではない。どんな事件があったからといって、岡ヅ引が一々それを自身番などへ 触れるものでもなし、声をかけてゆくなんていうことを、見たことも聞いたこともない。これは 皆自身番の何たるかを知らず、岡ッ引の何たるかを知らぬからのことである。「裏露路抜け裏か ら、陣十郎、隼人の行手に先廻りして、ばらくと人間がくばられる。それが、また子に子を生 んで、次第に数を増しながら生垣の背後、石崖の下、天水桶の中、塀の覗き穴と、棄て石同然に、 目あての二人に見つからぬところへ隠れる」と書いてあるが、そんなに大勢の人を持っていた大 親分というものは、もっとぐっと後にしてもありはしない。どうもこの場所は浅草橋近辺で、神 田川へ入ろうというところらしいが、それから向島までというと、随分距離がある。それに天水 桶の中から塀の覗き穴に至るまで人を配るというのは、随分人がなければならない、五十の百の という子分を持った岡ヅ引の親分、そんな親分は江戸の末までなかった。この配置された人間が、 「仁兵衛の最後の命令を待つて一度にか\る筈だつた」というのですが、いかに御下知物であっ たとしても、そんなことは出来ない。必ず同心が出て来なければ、人を逮捕することは出来ない。 著者はそれも知らないとみえる。  人配りをされたことを気どった陣十郎は、その晩三国屋の別荘に入ることをやめて、家へ帰っ て来た。家というのは前にあった、呉服橋の側の呉服店ですが、そこへもう捕手が向って来たの で、またそこを逃げ出した。陣十郎は旅へ逃げ出すつもり、隼人の方は白金の原で、上杉家の若 い者が弓の稽古をする、その中に小林平七がいるのを知って、これに近づいて、それから小林の 屋敷へ乗り込む。そうして小林平七によって千坂兵部に接近する。成程いかにも不思議な、とん でもない話が沢山出てきます。  千坂兵部は上杉家の家老で、上杉家のために大変働いたことになっている。白金には上杉家の 下屋敷があったので、そこから考えついて、白金の原へ若侍が弓の稽古に出る、ということを書 いたのでしょうが、若侍などが沢山下屋敷にいるはずがない。これはいつの時代でも同じことだ けれど、まあ作者はそんなところから考えついたものと思われる。小林平七に接近するところな どでも、前に上杉の家来を一人斬っているから、その敵が討たれたいといって、話の端緒を切っ ているが、その斬られた男は一人者で、親類も何もない、敵討をするのは友達の自分よりほかに ないが、それでも異存はないか、といって小林が聞いた。「仰せまでもない」ということになっ て、小林は威すつもりで斬る、隼人は平然として肩先を斬られる、という話が書いてありますが、 何のためにそんなことをしたのかわからない。脚色上の都合から、変なことを書いたというだけ で、隼人の心持は一体どういうのか。元禄時分にそんな人間がいたと想像することは、私などに は出来ない。その時代を現していないのみならず、いつの時代にも、そんなばかな人間はいそう に思われない。  さてその家老の千坂兵部、この人はたしかに上杉の家老に違いないが、江戸に詰めてはいなか った。この時江戸にいましたのは|色部《いろべ》又四郎で、事件の当時にも、またその後にも、千坂兵部は 匡許にいたのです、だからこの事件には、一つも直接に関係していない。それは上杉家の家史に も、そのことが書いてあります。私は先年貴族院議員でありました千坂高雅さんから、この時先 代兵部が大いに上杉家のために計ったという話を承り、その時にまた小林平八郎が上杉家のため に計ったという話を承り、小林平八郎が上杉から嫁に行かれた吉良の奥方富子の付人として、吉 良家へ行っていたなんていう話も聞いた。その血脈の高雅さんの|仰《おつし》やることだから、これを信じ ていましたが、上杉家の記録によっても、千坂は江戸に出ていないということはわかっています し、小林平八郎は吉良家の譜代であることがわかってみると、高雅先生に騙されたということが 明白になった。従って直接に赤穂事件について、千坂がかれこれしたなんていうことは、毛頭な いのですが、何故か千坂家では、こういうことを言い触している。芝居にまで書かしたことがあ って、竹柴普吉が書いて帝劇でやったことがあるが、それは千坂家に伝わる嘘話である。嘘であ っても、それは頓着ない。それを取り入れておもしろい話を持えるのは、一向差支えない。話の 真偽ということを主として、ここで言おうとは決してしないが、時代生活に全く外れたこと、そ れは何としても見過すわけにはいかない。  小林平七が兵部の宅へ行く。そこに「役宅」(二六○頁)と書いてあるのも奇だ。江戸詰家老で、 江戸の藩邸にいる場合にでも、役宅とは決していわない。まだそれより変な話は、平七がずかず かと兵部の部屋へ入って行く。そうすると兵部は寝ころんでいる。起き直って振り返って、「小 林か? 坐れ」というと「無作法に、また寝そベつた」と書いてある。小林をどれだけの分限の 者として書き現そうとしているのか、それはわからないけれども、少くとも諸士であったには相 違ない。どんな身分の軽い者でも、また相手が家老のうちでなくっても、ずかずかと入って行く などという無作法千万なことは、ありようもない。身分に軽重の差はあるにしたところで、組下 の者であったにしたところで、それが来たのに、寝たままでおって応対するなどということはな い。取次ぎもなしに逢うということもない。また呼棄てにして「坐れ」などという取扱いをする のもひどい話だ。  兵部は妙なことをいう。大石はえらいやつだから、今度の事件によって、上杉を抱き込むに相 違ない。ー何の意味だかわからないが、そんなことをいっている。千坂が大石のことを評して 「潰された浅野五万石の復儺として、米沢十五万石を潰さうとかゝるかも知れぬ」という。どこ から考えたのか、ある話じゃない。そういう想像をしたというのが、また不思議でおもしろい。 この御家老さんの言葉を、一々挙げたら際限ないが、|博奕打《ばくちうち》だか、泥坊だか、太鼓持だかわから ないようなものだ。十五万石の米沢の家老なら、もう少し重々しい様子があってもいいと思うが、 このいけぞんざいなことは、書生よりもっとひどい。  それから話が替って、二六九頁になると、赤穂にいる大石内蔵助のところで、そこヘ例の|熨斗 目《のしめ》を着て早駕籠に乗った二人が来るんですが、お城ヘまず第一に到着しそうなものなのに、何と 思ったか、大石の家へ早駕籠を着けた。落ち着いたようでも、早水藤左衛門・萱野三平の両人が 泡を食ったものか、泡を食ったものと著者が解釈したのか、そうなら慌てて間違えたんでしょう。 この二人がしきりに大石のことを「太夫々々」という。字に書いては時に「太夫」と書いたこと もあるが、口でいう場合に、家老のことを「太夫」なんていうはずがない。ところで大石の家の 取次ぎをする者がおもしろい。「いつ江戸を出たか、聞いたか?」と大石が尋ねると、「十四日  …と仰せられました」と答えている。著者は「仰せられる」という言葉はどういう時に使われ るか、ということさえ知っていない。ここらは「申されました」というベきところだ。昔の言葉 は、上に対し下に対し、一言で相手がわかるように喋ったもので、こういう時に、「仰せられま した」なんていう気遣いはない。  それから早駕籠の者を帰して、家中の人々をお城へ即刻に集めるように指図をして、そのあと で内蔵助は、「畳の上に大の字になつて眠つてゐる」と書いてある。家来が、風邪を引いてはた らぬと思って、側へ寄ってみると、頬に涙が一筋流れていたというのですが、大事件の注進を聞 いてから、畳の上に大の字なりになって寝るなんぞは、ひどく愛敬のある事柄だと思う。  こういうことをいってこの本を見てゆきますと、ほとんど限りがない。私どもはばかばかしく って、そう多く見るに忍びないから、これでもうやめます。とにかくこれは時代物なのだから、 その時代ということを知らなければならないのですが、そういうことを少しも構わず、ただこう いう無法千万なものを製造する人間があるということに驚く。そうしてまたそこに相当多数の読 者が集ってゆくということは、私どもは何ともいえない心持になるので、これでは普通選挙の行 末も思いやられるのであります。 土師清二の『青頭巾』 上  今度は『青頭巾』という土師清二さんのお作を読んでみました。これは昨年(昭和六年)の秋 から『東京朝日新聞』の夕刊に連載されて、まだ結末になっておりません。従って単行本などに もなっていない。まず新しい方のものと思って読んでみました。ところが大分場面の忙しく変る もので、四五十回読んだところでは、大きな筋などはわかりません。例によって、読んでゆきた がら変だと思うところをーとても拾いきるわけにはゆきませんけれども、気のついたところを 一つ二つ書いてみる。  この話は、親子連で肥前の唐津から江戸に向う母と子、それからまた一方は娘を連れた親仁の ことを書き出してある。第四回でその場所は今浜松を越えたところ、男の子を連れた女のことに ついて書いてある。何だか暗号のような案配式で、落し丈みたいなものがあって、それを開いて みると、「せき切手沼津でわたす」と金釘流で書いてあった、ということがある。娘を連れた男 の方は、どこから出て来たものか知れませんが、女の方は肥前の唐津から来たと書いてある。 「せき切手沼津でわたす」というのは、男の子を連れた女の方でなしに、娘を連れた男の方らし いが、関の切手というものはどんなものか、普通「関所手形」といっているもののことであろう と思う。何だかわからないけれども、それを沼津で渡すということなのですが、ここへ来る前に、 もう一つ荒井に関所が一つありまして、ここでは男は住所と名前を断って通れば通してくれる。 が、女はなかなか厳重でありまして、この二組はどちらにも女がいるから、東海道中で手形が二 枚いるわけです。その一枚は荒井へ納め、他の一枚は箱根の関所へ納めることになっている。女 の身体は、特に女が出張っていて、身体検査をして、たしかに女ということがわからなければ通 さない。この女の方の調べは、殊に荒井の方がやかましかったのであります。  娘を連れた方の男が、関切手を沼津で渡すということは、関の手形をどういう方法だか知りま せんが、沼津で受け取る、それまでは切手なしで行く、ということらしい。本来関所手形という ものは、出発地で村役人ないし町役人に桁えて貰って出るはずである。そうするとこの男は、女 を連れていたのですから、荒井の関を通ったか、通らないか、東海道ですから、道順上通ったろ うと思う。沼津で受け取って間に合う手形ならば、箱根だけのことかとも思われるが、それでは 女の吟味に厳重な荒井の関所の話が抜けていることになる。そのことは、後の方の文句でひどく びっくりさせられるのですが、今ここに書いてあるので見ると、初めには、「せき切手」とあり、 一方にはまた「手配をさせて置いた関札」と書いてある。「関札」というのはどんなものか。 「関切手」というのがすでに間違っているが、「関札」というのは、更に非常な間違いだ。「関札」 というものは、大名などが泊った時、その宿駅のとっ先に「何の守旅宿」という丈字を書いて立 てる札がある。それが関札です。そういうものが関札なのだから、それで関所などを越したりす るわけのものではない。作者が旅のことを書きながら、関所手形のことを知らないというのも、 随分ひどい話だと思う。こういうことは、道中記を一眺め眺めればじきに書いてあることなのに、 それを怠ったから、こういう間違いが出るんでしょう。  それから第十回になって、いよいよこの娘を連れた男が、子供を連れた女を脅す。それが何の わけであるかは、ここではわかりませんが、とにかく脅す。同じ宿を取っている女の部屋へ押し かけて行って、世間を暉る意味でしょう、筆談で懸合い込んだ。お前の乳房を見ると、子供を産 んだ乳房でない。御関所手形に-今度はちゃんと「御関所手形」と書いてあるー親子として あろうが、こっちはお前に邪魔を入れるから、そのつもりでいて貰いたい、関役人に吹込み方次 第で、お前は箱根を越されぬぞ、ということを書いて見せた、ということがある。関所に対して ーこの関所は箱根のことですが-手形に記載されてある親子ということの偽りであることを あばくぞ.、ということを書いたの外.す。こ气いうことを、ゆすり、かたりの材料にするのは、芝 居などにもよく仕組まれてありますが、この女は肥前の唐津から江戸へ行くのですから、どうし ても荒井の関を通っているはずだ。荒井の関を通ったとすれば、女の身体の詮議をしますから、 この親仁がチラリと見てすぐ気のつくほどのことは、とっくにあばかれていなければならない。 親仁が一見して知れるほどのことを、関で見逃すはずはないから、無事には通れないわけだ。こ ういう筋立てというものは、前に荒井の関で女を厳重に調べるということを知らないから起った ことで、全く駄目な仕組だと思う。まるで嘘だということを断るようなものだ。  またこの女は浜松に知人があって、それを訪ねて来たが、そこにその人がいないで、江戸に行 っているというので、そのあとを追うように書いてある。が、東海道の往来だけとして考えても、 関所手形は二枚いるのですから、荒井までなら一枚でよろしい。江戸までとすれば二枚いること になるが、途中で急に変更して江戸まで行く、というようなことは出来ない。浜松でまた、箱根 の関所に対する関所手形を栫えて貰えばいいようなものだが、そこに住っていない人間では、そ れが貰えない。浜松の宿役人が、旅人のために関所手形を栫えてくれることはないのです。この 女が浜松まで来ればいいのを、江戸までまいります、と嘘に言ったとすればいいようなものです が、当時のこととすれば、関所手形が二枚いることはたしかなので、嘘にもそんなことはいえな い。当時の人は誰も請け取らない話です。こんなことも、作者が道中記を見るのを怠ったための 間違いだと思います。  それから十二回になりますと、吉原の旅籠屋で、前の二組の旅客が泊り合せる。そこへまた泊 り合せたのが、尾州の御付家老成瀬隼人正の弟甲次郎という人で、これが一僕を連れて泊り合せ たことになる。この甲次郎という人の言葉をみると、自分の身の上について、わしの兄というも のは犬山の城主の長男で、儀式ずくめに育てられたものだが、「わしは次男に生れたおかげで、 少しは自由気まゝにしてゐられた。母上も、わしには御遠慮が無くてな、御自身でお世話を焼い て下されたやうだよ」.母に対する恩愛が深い、というようなことをいっている。犬山の城主 といえば、三万五千石という身柄で、徳川の直参ではありませんけれども、大名の体裁にはなっ ている。その母というのは犬山城主の奥方で、次男というものは大々名の家でも、長男のような わけのものではありません。大変な格下げのものではありますが、三万五千石の奥方が次男だか らといって、遠慮がいらないから自分の世話をしてくれたというのは-何としたからといって も、成瀬の奥方が自分の子供の世話を一々するはずのものではない。長男の方も嗣子であり、相 続人でありまするために遠慮して、奥方が世話をしないのではない。三万五千石ほどの身柄の奥 様になりますと、とても自分の子の世話を自分でするということはありはしない。勿論十分に人 手のあるためでもありますが、長男の方は遠慮をして自ら世話をしない、次男の方は遠慮がない から自分で世話をするというようなことは、決してない。こういうことは、誰ぞその辺のことを 知っている人に聞けば、そのくらいの身柄の人の|連合《つれあい》は、自分の子供を手にかけるものであるか どうかということは、すぐわかる。禄高の沢山の者の話を聞いたことがないから、こんなことを 恥かしげもなく書くようなことになるんだろうと思う。江戸で五百石三百石というような分限の 人でも、その奥様が自分の子の世話などをしてはいない。直参でこそないが、三万五千石の犬山 で、我が子だからといって、奥様自身世話を焼くようなことはたいくらいのことは、わからなく っちゃ仕方がないと思います。今日の役人にしても、高等官一二等ないし三四等の人の妻女の様 子を見るがいい。  十三回になりますと、娘を連れた男が、倅を連れた女をいじめにかかる。それをこの成瀬隼人 正の次男の甲次郎という人が妨げて、そうして自分がその女と連れ立って江戸へ下る。そうする と娘を連れた男が口惜しがって、甲次郎という人へ|紙片《かみきれ》に書置をした。このまた書置というもの が実に不思議なもので、この娘を連れた男は何者であるかわかりませんが、えらいことが書いて ある。前の方に簡単に、女をかばって用心棒になって江戸へ行く、ということを二行ほど書いて、 「貴殿へ言置く事、浜風に思ひを寄せるべからず。わしの娘お|年《とし》にほれるべからず。馬鹿野郎」 とある。「浜風」というのは倅を連れた女の名、「お年」というのは男の連れた娘の名なのですが、 この書き方は何という書き方なのか、口語体でもなし、書翰体でもなし、丈章体でもない。こう した時に書くとすれば、この時代では、是非とも候文でなければならない。この文言といい、書 き方といい、全く時代離れのしたもので、この文句だけでも呆れ返って差支えない。  十四回には、この成瀬の次男のことが書いてある。江戸ヘ入った甲次郎が、絵図を持ち出すと ころで、「|分間《ぶんけん》」というのには仮名がないからいいが、「分間|御懐宝御江戸絵図《おんふところだからおえどゑづ》」1こんな ことを書いた絵図はないと私は思う。「分間」の下の「御」はたしかに余計だろう。ところがこ のついている仮名で見ると、「オンフトコロダカラオエドヱヅ」ということになる。これは必ず 音で読んだものです。この読み方さえ知らないのかと思うと、それでよく江戸時代の話なんぞが 書けたものだと思って敬服する。  それからここに供の卯平という者がある。これに向って、先へ行けといって、そのあとで、 「わしは小便だ」というので1ここは増上寺の側らしいのですが、石垣の方に向って、甲次郎 という人が立小便をしている。次男ですから格下げに扱われているにも相違ない。兄さんの御厄 介で、あてがい扶持を貰っているにも相違ない。けれども三万五千石の次男に生れた人が、立小 便をするなんていうことは、とても想像出来まいと思う。この小便している側の方へ、深編笠の 変なやつが出て来て「拙者は……あたりに人もゐねえ。舌なれた奴でいつちまはう。お前さんに 闢きたいのだ。え、教へてくんねえか。よ」1作者も「がらりと調子を変ヘた深編がさだ」と 書いている。これはまず何者かわからないからそのままとして、犬山の御次男さんは、それに対 して何と言ったかというと、「なンでえ?」といって振り返った、とある。この言葉は申すまで もなく、職人でなければ言わない言葉で、両刀を帯する者の言葉じゃない。それからこの続きを みると、甲次郎がもう一つ「どうした。うぬア何奴だ」と来たもんだ。三万五千石の御次男なん だか、職人なんだか、この插画で見れば、相違なく刀を二本さしているが、実にえらいことを書 いたものです。  それから十五回になる。尾州の当主|斉荘《なりあき》、これは|家斉《いえなり》の子供で尾州家へ婿に行った人で、その 人が蛇が好きだという、だからそのために「くちなは大納言」という小みだしがついている。そ ういうことはあってもなくても、そういう変な殿様を書き出すということもよかろうが、さてこ の殿様へ蛇のお世話を申す人物、これが麻布の|我善坊谷《がぜんほうだに》に住んでいる。それをこの甲次郎が狙う ので、その男の様体が書いてある。「しやの黒羽織、はかま、両刀で、年齢は五十七八だらう。 後から若党が、白木の箱をかゝへてつどき、馬丁らしいのが二人」とあって、この出て来た老人 は馬上である。そうして若党を連れている。これは、どういう分限を尾州侯から与えられて、こ ういうことをしているのか、作者はそんなことは少しも考えていない。それですから、十六回目 になると、この馬上の老人が通るのについて、いつも蛇の餌を売りに来る、すなわち蛙を持ち運 びする男が土下座している。いつでも蛙を買ってくれる男だから、丁寧にするのはいいけれども、 馬上の老人に土下座している。馬上の老人はその蛙売りをつかまえて、「下郎々々」といってい る。いくら江戸時代でも、そんなむちゃくちゃな威張り方はするものでない。  この蛙売りの側に甲次郎がいる。甲次郎と蛙売りと話していることは前にも書いてあるが、こ の老人が、わしの家に来る途中、誰とも口を利いちゃならんと言っておいたのに、何でその若侍 と口を利いたか、といって咎める。これはお役人様でござります、と蛙売りが答えると、馬上の 老人は「ナニー御役人?」と言った。この老人は土原修斎という者ですが、馬上ながら甲次郎 を見下して、愛想笑いをして「これは、市中お見回り、お大儀に存じまする」と言った。その時 甲次郎はどんな風をしていたかというと、編笠をかぶっているらしい。蛙売りに来る男というも のは、無論江戸の人間のはずだが、どういう役人と思って、甲次郎のことを「お役人様」と言っ たか、それはわかりませんけれども、馬上の土原修斎という蛇飼は、お役人と聞くや否や、直ち に「これは、市中お見回り、お大儀に存じまする」という挨拶をしている。市中御見回りといえ ば、八丁堀の同心で、|定廻《じようまわ》りか、|隠密廻《おんみつまわ》りか知らないが、まずここでは定廻りと見ていいでしょ う。八丁堀の同心が、編笠を被って定廻りに出るか出ないかぐらいのことは、作者はともかく、 当時の人は誰も知っているはずだ。この馬上の老人の言葉によって考えると、蛙売りも八丁堀の 同心と考えているらしいが、江戸に生れた町人で、八丁堀の同心がどんななりをしているか、知 らないというはずはない。また馬上の老人にしたところで、昨日か今日江戸へ出て来たのなら格 別、そんなことを知らないはずはない。してみれば、編笠を被った定廻りがない以上、それに対 して「市中お見回り」なんていうわけがない。これでは江戸の町人である蛙売りが、「お役人様」 と言ったのも変だし、老人がすぐに、お大儀に存じたりする、のも変だ。八丁堀の定廻りの何た るかを知りもしないくせに、こんなことを書き散らすに至っては、とてもお話にならない。  それからまた、蛙売りと修斎というやつとの応対があって、そのあとにこんなことが書いてあ る。「……と小役人と見て甲次郎へあてこすつた、尾州侯お抱をかさにこの小役人に、お辞儀を させてやらう」というんだが、「お抱」というものにも、|幾種《いくいろ》もあります。|出入扶持《でいりぶち》といって、 ただ手当を受けているものもある。「お抱」というのは俗間の言葉で、正しくいえば「御出入」 でしょう。尾州侯に御出入扶持をいただいているというだけで、八丁堀の役人に対して威張ろう というなんぞは、とんでもない話で、御三家の家来は幕府の家来同様といってはいたが、とにか く又家来ですから、八丁堀の役人は「不浄役人」といって、格の下ったものであっても、相当遠 慮がなければならない。殊にこの修斎は、馬に乗り、刀をさし、若党を連れているけれども、ま ず普通に「お抱」といわれるのは、扶持を貰っているだけで禄高はない、士分でないのがきまり になっている。それが帯刀したり、若党を連れたりすることは出来るものじゃない。一体この修 斎というものを、何程の身分のものとみたのか。殿様が蛇好きで、蛇を飼うお世話をするのが上 手で、お抱になったとすれば、出入扶持を貰っているに過ぎない。町人で扶持を貰う人間は、こ の時分にはいくらもあった。が、そういうものは帯刀しない。こういうようなことも、誰かから ちっとばかりその辺の話を聞いておれば、書き出せないわけなんだが、何も知らないから、こん な盲滅法なことをするものと思われる。  十八回になると、甲次郎は兄と同役の竹腰山城守のところにいる。ここでは子供の時からの友 達らしく書いてある。どっちも御家老の子供だから、一方は長男で、一方は次男でも、心易くな いことはないかもしれない。しかしここにはこうある。「竹腰山城守正重は、床柱にもたれて膝 を抱へた。その前で、畳へ、腹ばひに臥そべつてゐるのは、甲次郎だつた」というのですが、昔 は十七歳からは一人前のわけだ。まして竹腰は当主である。三万石の主人である竹腰が客に対し てーいくら自分の家に逗留している友達にしたところが、それに対して「床柱にもたれて膝を 抱へ」るなんていうことは無論ない。また旧友のところに客に来たところで、「腹ばひに臥そべ つてゐる」なんて不行儀なものはない。まるでこれでは書生さんだ。下宿屋の二階だ。応対も沢 山あるが、それが皆書生さんだ。  十九回から二十回ヘかけて、甲次郎が修斎のところヘ押し懸けて、ついにこれを斬ることにな る。ここも変なことが大分ありますが、まあとばしましょう。二十六回になると、「朝になつた ら、通ひの若党の家へ行つて、うまくいつて来てくれ。二、三日はくるに及ばねえといつてくん な」ということがある。若党の通いなんていうことは、よほど珍しいもので、そういう珍品があ ったのか、なかったのか。身分の詮議はさておいて、どういう屋敷にしろ、また家にしろ、そう いうものがあったということは、大変珍しいことだと思います。はじめの道中の話が書いてある ところに、娘を連れていた男、名前は「勝ン兵衛」とある。この勝ン兵衛はどういう人間である か、まだここではわかりませんが、いつの間にか修斎の家へ入り込んで、ごたごたしている。何 だか修斎と兄弟であるような様子もみえるが、これが「通ひの若党」云々といっているのです。  勝ン兵衛はまた、こんなことも言う。「黙つて見てをれ。蛇好きの尾州大納言、蛇を道具に使 ふのだ、大納言が乗るか、己が反るか。ナニも|娯《なぐさ》みだ、己は、やつて見る気だ」!これが何者 で何をするのかわからないけれども、今日でこそ、総理大臣、何大臣と一般の者が心易げに官名 を称えますが、江戸時代に「尾州大納言」などと官名を言いッ放しにするものは、とてもあった わけのものじゃない。また封建時代の世の中に、一平民がいかにどうするといっても、尾州侯と 首ッ引の勝負が出来るものじゃない。それを出来そうに書くのは、この節流行の認識不足から出 ていることはいうまでもない。時代というものがわかっていないからのことだ。  ここで話が一つ切れて、二十七回になる。こいつはまた驚き入った話が出てくるもので、「市 中女隠密」という小みだしになっている。その女の様子をみると、切髪姿の若い女で、無紋の黒 縮緬の|単小袖《ひとえこそで》を着て、無地の|白塩瀬《しろしおぜ》の帯を締めている。どうもよっぽど不思議ななりだ。こうい うなりをしている女が、江戸時代にあったとすれば、これこそ御詮議ものです。そうしてその女 は町駕籠に乗って歩いている。これが当時天保改革で、身分のない者が絹物を着るのを止められ た時代だから、たちまち例の岡ッ引が出て来て、絹物を着て歩いているというかどで、「しよッ引 いてやらう」とするっ岡ッ引が人を縛れないことは前にも度セいっている。それは間違っている が、とにかく町駕籠ー町人等の乗る駕籠に乗る者として、絹物を着ていちゃいかんというわけ で、岡ッ引が咎めたことが書いてある。そうするとそこヘ出て来たのが、岡ッ引等の親方らしい 男で、その親方がどういうものかというと、「この界わい地回りの湯島の常八といふ御用聞だ」 とある。この御用聞なるものも、何か博奕打の縄張りみたいたものと考えたのか、「地回り」と いっている。そんなものはありゃしない。作者はむやみと岡ッ引とか手先とかいうものを出すが、 その辺のことは話も聞いていないらしい。今までくッついて来た下ヅ端の岡ッ引は、その女の身 分を聞いて引っ込んでしまった。その女の身分はどういうのかというと、この湯島の常八が始終 家来のように随従している。よっぽどこれは不思議なものだ。  女は今怪しまれた駕籠に乗ったままで、「白鷺居」と横額を掲げてある門内ヘ入って行く。常 八が奥へ入って行くと、怪しい女はお客と奥の座敷で話している。その様子を見ると、女は白羽 二童の布団の上に坐っている。布団のまわりには飾糸の黒いのがついている。まるで寺の坊主み たいなものを敷いている。それもいいけれども、「膝に置いてゐる手は、笑くぽがあつた」と書        え"は いてある。手に魘があるんだから、よほど珍しい女に違いない。  二十八回のところになると、今度はその来ているお客様を説明している。それは「今水越内閣 の警視総監として羽振りのいゝ、南町奉行鳥居甲斐守|耀蔵《てるざう》であつた」と書いてある。町奉行が、 いずれの屋敷にもせよ、自分で行くことたどはないので、ましてこんなわけもわからない女のと ころなんぞに行くはずはない。それに作老は御奉行様の名を書くことを知っていない。鳥居が|耀 蔵《ようぞう》ーここにはテルゾウと仮名が振ってあるーといったのは、町奉行にならぬ前の話で、任官 して甲斐守と称するようになりますと、名をいわずに名乗をいう。「甲斐守|忠耀《たたてる》」と呼ぶのが例、 書くのが例なのです。そんなことは無諭知らない。それほどのことさえ知らない作者だから、御 奉行様がてくてくどこへでも出かけて行くようなことを書くのでしょう。  作者はここでまた、怪しい女の身分も説明している。この女の名は「お直」といって、江戸の 竹川町の菓子屋風仙堂の娘、その家は徳川の大奥の御菓子御用をつとめている。その縁から、水 野閣老に|縹緻《きウよう》のいいことを知られて、|家慶《いえよし》将軍の御妾になった。それから後に何かわけがあって お暇を貰い、今は湯島に|白鷺居《はくろきよ》を構えて、そこで我廱な生活をしている、と書いてある。天保時 代に菓子屋の風月堂の娘が、水野越前守の養女になって奥へ勤めたということは、誰も知ってい ることで、その当時風月堂の主人が、水野越前守のためにいろいろ江戸中のことを聞き集めて報 告したー隠密みたいな役をつとめた、というのも有名な話です。けれどもその娘が女探偵にた った話なんぞはありはしない。それはなくても小説だから構わないけれども、昔将軍の御手のつ くような者になりますと、終身家へは帰って来ない。従って町宅するようなこともない。将軍家 が亡くなれば何院という法名になって、桜田の御用屋敷で、戴いた御位牌に仕えて、そこで一生 を過す、というのがきまりである。途中で下るようなことがあれば、それは失錯があって下った のですから、押込めとか何とかいうことで、日影を見られるような身分ではない。失錯の状況に よっては親ー養女なら養父が手討にしてしまう。それが大概のきまりになっている。髪を切る ということも、これは将軍に仕えた女でなくても、誰でもー武士ばかりではない。町家として も、何程年を坂ったにしろ、夫が生きている間は、妻たるものが髮を切ることはないはずです。 それですから、この風仙堂の娘が髪を切っているということはどうもおかしい、それからまたこ れは天保時代ですから、家慶将軍在世の時で、無論髪を切るということはないわけだし、桜田の 御用屋敷に下るということもないはずです。不首尾でお暇が出たとすれば、前にいったようなこ とになりゆくのですから、大びらに世間へ出ることは出来たい。ここで髪を切ることもいけない が、大びらに歩くこともいけない。女の隠密になるならぬはおいて、そこまで行き着くことが、 江戸時代にはどうしても出来ない訳合のものであります。  またそれが女隠密というようなものになって騒ぎ回るということも、何としても考えられぬ話 で、いかにしてもこれを、あったこと、もしくはありそうなこととみるわけにはいかない。隠密 といいますと、町奉行の手ではコニ廻り」というものがあります。これは同心がやるので、定廻 りと、臨時廻りと、隠密廻りとの三通りあって、南北両町奉行についたのです。それからまた隠 密とはいいませんけれど、隠密の役日をするものに「御庭番」というものがある。これは将軍に 直属したもので、将軍が御庭先へ出られた時に、すぐにそこで御用を言いつける。復命も御庭に 出られた時にする。諸大名の状況などを将軍が知っておられるのは、ひとえに御庭番がお耳に入 れるので、江戸の市中のことなども、やはり御庭番から知れるのです。これは幕府ばかりではあ りません。諸大名にもそれぞれあって、西郷隆盛などは島津家の御庭番でありました。御庭番に は、随分手柄によってー幕府でも、諸大名でも、飛び放れた立身出世をするやつがある。そう いうものが具わっていたのでありますから、別段に女隠密などを栫える必要はない。またいずれ にも隠密御用をつとめるものは、誰かに属していなければならないが、この女隠密は誰に属して いるのか、ちっともわからない。そうして町奉行さえも出てくるほどに権勢を持っている。お手 がついた将軍の妾ということでありますと、その身柄は御中繭でありまして、|目見《めみえ》以上の奥女中 でありますが、御中繭というものは役人ではない。将軍付と、御台所付とありますが、いずれに も君側を働くもので、外役は一つもないものですから、もとの身分であっても、表の役人ー男 の役人などに接するものではない。しかるにこの変てこなものになっているお直という女は、鳥 居を呼びつけたんだか、鳥居の方から来たのだか知らないが、それに対して機密の話をする。鳥 居は玄たお直に向って、「いつも、御助力で、奉行も助かりまする」と言っている。町奉行なん ていうものは、そんな御安直なものじゃない。こういう日本の歴史あって以来、決してない怪し げなものを作り出すから、無理が固まってきて、いよいよ変てこ、妙てこなものになる。よくも ばからしいものを書いたものであるし、それを無考えで読んでいるというのも気楽な話だ。馬鹿 と|暢気《のんき》の鉢合せのようなものだ。  ここで成瀬甲次郎が水野閣老を狙っているなんていう話を、この怪しげな女から町奉行の鳥居 が聞いて、びっくりするようなことが書いてある。それから呆れ返った話には、この話が続いて、 午後の十時頃まで話し込んで、鳥居が馬上で帰って行く。町奉行が馬に乗って外へ出るのは、火 事の時にきまっている。登城する時でも馬上じゃない。そんなことは作者は一向知りゃしない。  それからまた、大勢の女をお直が手先に使っていることが書いてある。これは同心がいろいろ な手先を使っていることを、逆にして想像したんでしょう。どうせないことだから、勝手なこと をしてもいいような屯のでもある〕こういういい加減ぶしなものを書くには、最も適当した播画 で、この插画がまたすこぶる振っている。鳥居は布団も敷かずに坐っている。これはまあ当り前 だが、お直の方は|褥《しとね》の上に坐り込んでいるのみならず、脇息にかかっている。脇息なんていうも のは、将軍様でも大名衆でも、客間に出ている時に用いられるものじゃない。居間限りのもので、 それも年を取ってからでなければ、使わないものだ。今このお直は、客間に出てお客に対しなが ら、脇息にかかっているのは、よっぽど礼儀を知らない女だ。それもそのはず、この頃の安待合 へ行くと、どことも嫌わず、むやみに脇息が出ている。そんなつもりで、この絵を|画《か》いたのかも しれない。柳営を出てしまえば、何の格式もあろうはずがない、その何もない女が、町奉行より も大変に位取った様子をして、これに接見している。町奉行というものは、幕府の役人としてど れだけの格式のもので、どれだけの見識のものかということを知らないから、こんなものを画く のだろう。もっともこの絵かきさんは、ほかのところだけれども、懸盤の火鉢を知らないとみえ て、凄じいものを画いている人だから、本文にないのに、脇息を加えたのかもしれない。  それから二十九回になると、鳥居甲斐守が帰ったあとで、お直が手先の七人の女ーいわゆる 化け込みというやつで、いろんなものになって、方々へ入り込んでいる。それからおのおの報告 をする。その中で一人のやつがいうのに、「同心衆を一人奉行所へお引渡しいたしました」とあ る。これは同心衆が、当時禁制になっている|銀煙管《ぎんぎせる》を持っているのを見咎めて、自身番ヘ連れて 行ったから、あべこべにその同心を奉行所へつき出した、ということらしい。これは一体何のこ となんだろう。天保改革の時に禁制されたのは、銀煙管には限らない、いろいろな品物があるが、 それを持っている者を捕えた。ところがそれがお直の手先であるがために、あべこべにその同心 が奉行所へ引き渡される。お直の手先というものに、一定の身分があれば、それで申し訳も立つ わけだが、一体女探偵なんていうものがないんですから、何の分限もあるはずはない。けれども 言い訳を立てさせるには、何とか分限を桁えておかなければならない。が、漫然たるいい加減ぶ しの話で、駄目が詰めてないから、大きな穴があいて言い訳が立たない。これを反対にみて、同 心についている手先が銀煙管を持っていたとしても、言い訳が立たないのである。また同心をほ かの場合の例から考えてみても、同心が失錯をした場合に、それを捕えて奉行所へ引き渡すなど ということは、いかなる場合にもないのです。 また一人は品川の女郎屋で怪しいものをみつけたから、直ちに地回りの岡ッ引へ知らせておい た、といっている。地回りの岡ッ引というものがないのはわかっている話で、殊に品川というも のは町奉行の支配ではない。あれは代官支配のところです。それからこの品川の女郎屋で何をし たのかというと、浅草寺の僧侶が、医者に化けて品川通いをするのをつきとめた、というのだ。 増上寺の坊主が品川通いをした話は聞いているが、浅草寺の坊主が品川まで女郎買に行ったこと は聞かない。聞かないはずだ。昔は電車はなし、自動車はなし、テクで行くんだから、浅草から 品川までは通えない。行っても坊主のことだから、引っ返して来なければならない。駕籠といっ ても人間の足で歩くんだから思いやられる。それに坊主のふしだらは、町奉行の方の同心がどう ともすることの出来ない話で、岡ッ引がそれを同心に告げるという馬鹿なやつはない。何故なら 同心に付属しているものは、坊主は寺杜奉行の支配で町奉行の支配でないことぐらいは知ってい る。だから坊主が岡ッ引の目の前で悪事を働いても、手がつけられないはずだ。それを知らない やつはない。知らないのは作者ばかりだ。  また一人は武家屋敷へ奉公に行っている女で、お前は住み込んで間がないが、何かあるか、と 聞かれて「ございませぬ」といっている。腰元風の女と書いてあるが、昔の武家奉公は、そう自 由自在に、主人の家から出たり入ったり出来るものではない。それを十時過ぎた頃に、湯島のお 直のところへ報告に来ている。勤先はどこだか知らないが、江戸の昔に、夜の十時、十一時にな って女がぽくぽく出て歩けるものでもなし、屋敷には門限があって、そんなに遅く帰れもしない。 のみならず外へ出られる日は、年に一日か二日しかない。それも軽い奉公人の場合しか暇が貰え ないのだから、そんなところへ自由に報告なんぞに出て来られるものではない。  翌日になると(三十回)、尾州家ヘ奉公に入り込んでいる女から、報告が来た。それによると、 尾張大納言は相変らず蛇を|玩具《おもちや》にして、時にはお座興のあまり、お付の女どもの首に蛇を巻かせ たりして、興がっておられる、が、私は幸いにお側近く出ないから、蛇の難は免れている、と書 いてある。御側へ出ないというのですから、これは目見以下のものであろうと思うけれども、こ の書き方の様子からみると、とにかく部屋方のものでないらしい。部屋方のものでないとします と、どこからでも直ちに御奉公出来るものではない。軽い者でも、奥女中になるには、そんなに 無造作に入り込めるものじゃない。「尾州本邸に住込ませてある密偵」なんて書いてあるが、親 元吟味があって、そんなものはちゃんと入り込めぬようにたっている。こういうことは、大名の 奥の話でも一通り聞いてみれば判ることで、奥女中というものは、どういうふうにして奉公に出 るのか、その|捗《はこ》びを越えて、いかにして化け込みが出来るか。それを説明してみろといわれたら、 とても出来るものじゃない。  またこの女の手紙を見ると、前に蛇御用を勤めていた土原修斎という老人が、この頃御前へ出 ないようになった、そうしたら修斎の兄とみえて、よく似た男が御目見をした、それはたしか勝 斎という名だ、ということが書いてある。これは前に出た、勝ソ兵衛が尾州侯について「大納言 が乗るか、己が反るか。ナニも|娯《なぐさ》みだ、己は、やつて見る気だ」といった言葉に照応するので、 修斎の跡役になったということを、ここでわからせるわけなんでしょうが、一体前の修斎という 蛇飼が御目見するということからしてが、容易ならぬことである。士でも諸士以上のものでない と、御目見が出来ないので、ところへもってきて、それが殺されていなくなったからといって、 どういう手続でー実際兄であるかもしれないが、勝ン兵衛が跡役になったか。その話は一つも 書いてない。この女の手紙にも、「如何なる訳合にて勝斎が修斎の代役をするのか、今のところ 分明いたしませぬ」なんて書いてあるが、これもまた、どういう道順でそうなったかということ は、説明してみろといわれたら、おそらく出来ないだろうと思う。ただむちゃくちゃに書くから、 こういうことも出来るけれども、嘘と思わせずに聞かせるのはむずかしい。目見以上になります と、なかなか跡目がむずかしいので、前のが病死したか、殺されたか、いずれにしましても、直 ちにその跡目を言い付けられるなんていうことは、あり得べきことではない。  それからお直が「南町奉行所へ行きます」といって駕籠で出る。岡ッ引の常八が草履取のたり をして、駕籠脇について行く、駕籠の背後には若党とみえる侍がいる、なんていうことが書いて あるが、どういう身分にお直がなっているつもりで、こんなことを書いたのか。町奉行所へどん どん駕籠に乗って出かけるというが、いかなる身分の者がそういうことをするのか、それを知ら ないから、むちゃくちゃにこういうことを書く。事実としては、わけのわからない女が、町奉行 所へ乗り込むなんていうことはありはしない。こんなむちゃくちゃを書くのをみると、気がたし かなのかどうか、疑わしく思われるくらいである。  それから三十一回になると、町与力の南部伝八郎という者が、お直と応対することになってい る。その伝八郎のことを「南町奉行所|調役《しらへやく》与力」と書いてあるが、調役というのはどういう役 をするのか、それがわからない。そのまた与力が、むやみにぴょこぴょこお時宜をして、お直に 対しているけれども、これもお直の身分がどういうものかということを書いてないとおかしい。  お直はこんなことを言っている。「新し橋御用屋敷へ、いれられたも同然のわたくしですから :…」ー作者はこれを説明して、「新し橋御用屋敷といふのは、将軍の侍妾が将軍が死んだ後、 一生飼殺しに追込まれる御用屋敷で、侍妾は同屋敷で尼になり、それ以後不犯の生活をせねばな らぬ」と書いている。これは桜田の御用屋敷のことをいったものでしょうが、あれは「いれられ る」の「追込まれる」のというものじゃない。自分が仕えていた将軍が蒭去されたについて、そ こに閑居して、御位牌の御守をするというのですから、妾は家来の分として、謹んでその御位牌 に仕えているので、入れられたり、追い込まれたりするという意味合には、当時の者は誰も解し ていない。何も知らない書生っぽは、そんなことを考えるのかもしれないが、あまりにその時代 を知らな過ぎる。昔の女の心持がまるでわかっていない。殊に家慶将軍は当代の将軍で、まだピ ンピソしているのに、お暇をいただいて、切髪になるなんていうことは、絶対にあるはずはない のです。 下 今度は三十七回、ここに 「東軍流極意無勝無負」なんていうことが書いてあり、その続きにも、 剣術の話がいろいろある。これは講釈もよくやるやつですが、まず講釈師に笑われないようにお 願い申しておく、というに過ぎません。  三十八回になると、増上寺の学寮の裹で、蛇飼の修斎を殺した甲次郎と、与力の南部伝八郎と の応対があります。ところでおもしろいのは、南の与力である伝八郎が、こういうことを言って いる。「与力が、おなはを持つてゐない。刀で始末をつけようといふのだ。その意味が貴公にわ かるか?」1これは伝八郎が大勢の岡ッ引をもって、甲次郎にかかって来るのですが、それが 十手や棒であしらうのでなしに、真剣で甲次郎に向うのです。捕物ではなしに、斬り殺してしま うので、そこで伝八郎がこういうことを言っているのですが、甲次郎はそれには構わず、大勢か かって来る者と斬り合っている。その間へ伝八郎が出て、「お前にわかるか」ということを度々 言う。その理由をちぎれちぎれに言っていますが、それを要約してみると、こんなことになる。 -お前は人殺しをしている。その上に水野閣老を狙っているそうだが、お前の身分をだんだん 調べてみると、成瀬隼人正の倅だということになっている。お前を縛って調べれば、尾州家の迷 惑にもなるし、お前の実家の成瀬も、そのままではいられないだろう。また今お前が泊り込んで いる竹腰の身分にも差し障る、そーれだから鳥居殿は、そういうことになってはならぬから、何も かも一切内密で済ますために、お前をここで死骸にしてしまうのだ。ーそんな意味のことを言 っている。まことに途方途轍もない話で、何ともはや言いようがない。与力がそのお頭である町 奉行を、「鳥居殿」と呼ぶはずはない、などというのは小さいことで、こう大きく間違ってくれ ば、そんなこまかい詮議はしていられない。尾州家は三家であって、その取扱いも一般の諸大名 とは違っている。その取締方もおのずからあるのですが、かりに一般の大名の家来のこととして も、町奉行がその辺の掛酌から、その人間を斬り殺してしまうなんていうことをするはずがない。 そんなことは、江戸はじまってからありゃしません。鳥居は有名な|遣手《やりて》で、随分いろいろなこと をやったといわれているけれども、そんたばかばかしい、尾州家や尾州家の家老の身分に障ると いう心配から、犯人を殺してしまうなんていうことはー鳥居に限らず、江戸の町奉行は誰でも するはずがない。  それに八丁堀の与力や同心というものは、町奉行という職に付いているので、その頭である町 奉行は、ほかから転任して来もすれば、また転任してほかの役になりもする。与力や同心の方は、 南の者が北に替るということさえほとんどない。従って先例古格のないことを、いくら頭である といっても、時の奉行が命令しても、動くわけのものではない。かりに諸大名と葛藤の起るのが うるさいからといって、ある犯人を与力・同心に殺させるということを、町奉行が思い立ったと する。それは江戸時代の法律をぶち壊そうとするものである。そういうようなことを思い立つ、 とんでもないお奉行様がもしあったならば、与力や同心は、決してそれに従って、その指図通り に動くものではない。与力・同心の働く幅というものは、不文法ではありましたけれども、ほと んど確立しておりましたから、その通りにやっているので、変な思い立ちをした奉行が、自分の 命令が行われないからといって、自分の部下にしろ、それを処分することは出来ない。そんなば かなことを企てれば、与力・同心の全部が一致してーこの節のように排斥運動もしますまいが、 町奉行のいうことが行われないから、勢い町奉行の方が引っ込まなければならぬくらい、固い位 置に立っているものである。そんなことは知らないから、不法でも、違法でも、頭の鳥居が考え たことは、命令次第に与力・同心が行うものと思っている。そこでこんなことを書くようになる んでしょう。違法なことになれば、与力・同心は、決してお頭の命令だって服従するものではな かった。  それからまだこの甲次郎と伝八郎との応対の中に、そういうわけで殺すんだから、お前がここ で死んでしまいさえすれば、八方円満に納って騒動が起らない、それをお前が聞かないで手向い するなら、ここで呼子の笛を鳴らそうか、さあどうだ、この「学寮の】ッ向ふの棟は、寺社同心 の組屋敷だ。笛を鳴らせば出て来るだらう」というようなことを言っている。今、町奉行の与 力・同心が甲次郎にかかって、始末がつかない。その加勢を寺杜方に求めるというのだが、これ がなかなかおもしろいと思う。与力・同心の付いた役目は、町奉行のほかにいくらもある。しか し寺杜奉行というものには、与力・同心が付いていない。従ってまた同心の組屋敷なんていうも のが、ほかの役なら知らず、寺社奉行にありっこはない。増上寺の学寮の側の一棟がそうだとい うんだけれども、江戸中どこを捜したって、寺社奉行の輩下の同心の組屋敷たんていうものはな い。江戸ばかりじゃない、日本にないのだ。そういうところからどうして応援に来るだろう。随 分不思議な話だ。  寺社奉行に与力・同心がないのだから、来る気遣いはいかにしてもないが、平素でも、町奉行 と寺杜奉行が、捕物などについて、お互いに応援するなんていうことは無論ないので、三奉行と いえば、寺社奉行・町奉行・勘定奉行と並んだ役目ではあるけれども、その間に、捕物などにつ いての差引きはありはしなかった。それを知らないから、町奉行の手の者が困れば、寺社奉行の 手の者がすぐに応援出来るものと思っている。ましてありもしない寺社奉行の手付の同心が出て 来る、というような大滑稽になっている。それから増上寺の学寮は一箇所でない、なかなか沢山 ある。学寮が二つや三つでないのだから、ただ「学寮の一ツ向ふの棟」なんていうのもおかしい。 これは『|三縁山志《さんえんざんし》』でも見れば書いてある話だし、また寺社奉行に同心があるかたいかというよ うなことも、『武鑑』を一冊引繰り返せば、すぐわかることだ。  御愛敬はまだある。「ガツと鳴つたはつば音だ。抜きざまに伝八郎受止めて、叫んだ」と書い てある。どうしたんだか知らないが、|鍔《つば》の音がガッと鳴る、そんな妙な鍔は、大概世の中にある まいと思う、『|武玉川《むたまがわ》』だったと思うが、「鍔の鳴る刀の売れる八王子」という句があったのをお ぽえている.それとこれとは大分の違いがある。鍔音がガッとするような刀というものは、見た ことも聞いたこともない。そもやそも、どんなものであったろう。  四十二回冐になると、また岡ッ引が出て来る。しかもその岡ッ引が「わたくしはコレでも公儀 御用を承つてゐる者でございます」と言っていますが、岡ッ引が公儀の御用を承りますなんてい うものじゃたい。公儀御用ということは、なかなか重いことですから、町奉行の用向も公儀の御 用でないことはないけれども、容易に公儀御用なんていうことを言うべきものでないとしてあっ た。だから当時の人間は言いはしなかった。それに続いて「目明しか」「旦那は上方ですね。江 戸は目明しと申しません」というような問答がある。上方ばかりじゃない、どこでも表向の称え で「目明し」なんていうものはない。「御用聞」もなければ、「岡ッ引」もない。殊に江戸では、 享保の末に、目明しというもののひどい害があって、禁制していましたから、内証にも目明しと いうことは言わない。それでは上方では言うのかということになるが、大阪でも京都でも、公に 「目明し」だとか、「御用聞」だとかいうものがあるわけじゃない。関東のこととしましても、江 戸を離れてからは、よく講釈師などが目明しということを言う。もし目明しがあったとすれば、 江戸を離れた関東にも、目明しという言葉が残っていて、おれは目明しだ、なんていうやつもあ った。ここの目明しは、古石場の三平というやつで、こいつがあとの方でみると、怪しい士だと 思ってついて歩く。その侍が、お前は商売か、なんていうこともあって、岡ッ引・御用聞なんて いうものが、商売になるように思っているらしいが、これはなかなかむずかしいので、昔の岡ッ 引や御用聞には、一定の俸給がないんだから、職業というわけにもゆかない。  ここでまた話が一段切れますが、とにかくこの土師さんは、一番といっていいか悪いか知れな いけれども、思いきってむちゃなことをやってのける人で、大衆小説の中でも、向う見ずなこと をする、一番でなくとも二番ぐらいにはゆく人だろうと思われる。決してあるべからざる女隠密 なんていうものを持ち出して、無理に話を持えてゆくから、先へ行けば行くほど、いよいよめち ゃめちゃなものになってしまう。話の類と真似がないようなところが味嗜なのかもしれないが、 つまり全くないことを持えるから、類と真似のないことになるので、それがおもしろい趣向、結 構な話の組立てだといって、人を感服させるものじゃない。この例について、おもしろい昔話が 一つある。それは池田蕉園さんが帝展へ、「去年0今日」という画を出したことがある。その時 に輝方君と二人で私のところへ来て、奥女中の山王祭礼を御覧になるところを|画《か》くんだから、山 王祭御見物の調査がしてあるなら聞きたい、ということであった。その時画の話をいろいろ闢い てみると、「去年の今日」という蕉園さんの画は、一枚の方には|手古舞姿《てこまいすがた》の女がある、一枚の方 には御台所に従って山王祭を見物しているところが画いてある。去年はお祭りに出て花をやった 娘が、今年は貴人の側について、その祭を見物している。そこが「去年の今日」という画題の睨 みなのでありました。  そこで私は、町方などで手古舞に出たりするようなものは、大概芸者とか何とかいうような身 分の者で、そうでないにしたところが、町家の娘であるに相違ない。お祭りなどに士の娘が. たとい手古舞でないにしても、何になってでも、出るということはないことです。だからどうし てもその娘は町人でなければならない。そうしてその町人の娘がたちまちにして■御台所の御 側というんだから、目見以上の身分になる。目見以上の身分の人といえば、それは必ず武家の娘 でたければたらず、そんなに自由自在に身分転換をすることは出来ないものである。蕉園さんの 考えとしては、去年町の娘であったものが、今年は重い役の奥女中になっているということは、 おもしろい見立てであるし、場面の転換もいい、というふうに考えたのかもしれないが、惜しい ことに、江戸時代にはそういう事実を許さない。まことに困ったもので、そんな画を出すことは、 江戸時代のことを知らないという告白をするのと同様だから、おやめなさるように勧めたけれど、 聞かれなかった。それではせめて奥女中の|髪容《かみかたち》から、衣裳その他を、本当のものにしたらよかろ う、ということを輝方君が言って、折角に私の調べを求められたので、大体の話がいけないのに、 少しぐらい手づくろいをしたって、効がないと思ったけれど、折角輝方君のいうことだから、自 分の調べを書いて送りました。けれどもそれがまた画をかく人には、大分迷惑なものだとみえて、 いよいよ帝展へ出たものは、大変ひどいものであった。その当時誰も、蕉園さんの画について、 何ともいう者もなく、それで済んでしまったらしい。しかしそれだけ無理なことをして、妙に場 面を転換さして画いて見たところが、別段ひどく褒められもしなかった。どうしてもないことだ という点からいえば、この土師さんの女隠密も、乱暴なことにおいては、蕉園さんの「去年の今 日」より以上であっても、以下ではない。そうしてこれは、帝展ではなく『朝日新聞』に毎日掲 載されて、いくらめちゃめちゃでも、嘘でも、無理でも、構わずに書き立てている。昔は講談や 落語を、物を知った人は嘲り笑ったものだが、今日は講談や落語の人達から大笑いに笑われるよ うな書き物を発表して、一向恥ずるところもない人もあれば、それにまた読者が沢山集ってくる とするなら、今日ほどむちゃくちゃなことをするのに都合のいい時代は、日本開闢以来ないだろ うと思う。  四十三回になりますと、竹腰の屋敷ヘ、女隠密のお直が会いに来る。何しろ尾州邸の竹腰のと ころへ、女隠密が乗り込んで来る。その会見を申し込んで来た使が、与力の南部伝八郎だと書い てある。与力が使歩きに飛び回るなんていうことは、もってのほかの話で、こんなことをどこか ら考えついたのか。一体「調役」なんていうものがないんだから、考えようもないんですが、調 べる役ということにすれば、そんな意味のものは、町奉行には吟味方があります。これは予審を 司っているとでも申しましょうか。そういう役目を持っていますから、吟味方の者が外を出て歩 くということはありませんし、闇討の大将になることなんぞは、無論ない。捕方にさえ出ないも のですから、誰の命にしたところが、使歩きなどをするものじゃないはずです。  ここでは竹腰が、評判の女隠密だから、何分か好奇心に駆られて会うことにした、というよう になっている。けれどもこれが皆めちゃくちゃな話で、与力が使に来ることもなし、また尾州侯 の邸内にある尾州家の重役に対して、むやみにお目にかかりたいなんて申し込むことは、とても 出来ないことです。「今夜くる」とありますから、来るのは夜らしい。「約束の刻限は四つ(十時) だ」と書いてある。そんな夜更けさふけに、相当身分のある者のところヘ、わけもわからない人 間の出入することがあるものじゃない。  四十四回になりますと、竹腰がお直を客間に通して、いつまでもうっちゃっておく。そうして 居間で甲次郎と話しているものだから、お直が待ちかねて、竹腰の小姓を呼んで、待ちかねてい ると申し上げてくれろ、と言って|言伝《ことづて》をする。およそ無作法なやつがあったもので、よそへ客に 来ていながら、主人の出て来るのが遅いといって、催促をしている。それをまたその通り取り次 いでいる小姓がある。そうかと思うと、客間に通っているお直は、「供に|伴《つ》れた腰元の娘と、ナ 二か話しながら|低声《こごゑ》で笑つてゐた」というんだが、これでは供を連れたまま上り込んだものとみ える。何たる無作法だろう。どういうことだか知らないけれども、自分の供を他家の客間へ連れ 込むなんぞは、何とも話にならない。  四十五回に竹腰とお直の応対になるのですが、この応対がなかなか|洒落《しや》れている。「夜中、お 邪魔をいたします」とお直がいうと、「いや、夜は|手隙《てすき》で」と竹腰が答えている。訪閙記者との 応答じゃあるまいし、一体何たることだろう。  それから南部伝八郎を使によこしたことについて、「お使者が、厳めしい人でござつたで、お 目にかゝる気になりました」と竹腰が言っている。竹腰は尾州家の家老であるのみならず、あれ は諸大夫でありました。その身分において、八丁堀の与力などを、「厳めしい」と思うべき人で もなし、また直接に会うなどということはないはずだ。ましてこんなわけもわからない女に、会 うわけはない。  そこでお直に今夜来た用件を聞くと、「成瀬甲次郎様に逢ひたがつてゐる娘がございます」と お直が言っている。用事というのは何だというと、成瀬甲次郎に逢いだい娘があるという。もっ としかるべき用事でも言い出すことかと思えば、こんなばかばかしいことを言っている。何者の 娘、何者の子であるかわからないような女が、自分の家にかくまっている甲次郎に逢いたいとい う、そんたことに取り合うはずはないのに、このまた竹腰が|暢気《のんき》なやつで、相手になって叱りも せずにいる。  そうすると呆れ返った話で、お直が竹腰の様子を見て、|岡惚《おかぽれ》した。「じいッと眼で眼に絡みつ いて見ると、お直はそのまゝ引き寄せられさうにたるのだつた」というんだが、いかにも矢場の 姐さんみたいなもので、この女の身分は、当代将軍の愛妾ということはおいて、ただの風仙堂の 娘としても、いかにもはしたたいものであることが、これで読める。そんなことでは、三日でも 奥の勤めなどが出来るもんじゃない。それからどんなことが書いてあるかと思うと、「将軍家慶 の枕席に侍つたといつても、それは人身御供の乙女も同様だつた。たどの男のいやらしさを知ら された間けなのだつた」とある。ごれは当時の人の心持、半日でも武家奉公をする女の心持、た とい町人の子供であるにしても、それが一日でも半日でも武家奉公をする時、どういう心持でい るか、また大奥の空気というものがどういうものであったか。彼等はそれをもって一代の光栄と し、一家の栄誉と考えておったのである。しかるにこんなことを書いているのは、書生っぽが、 何も知らずに人道論か何かをやってのける時の話で、時代と人心というものについては、ちっと も顧慮するところのない、馬車馬みたいな考えでたければ、こういうことは言われない。歴史と いうものを考えない。長い長い人間の続いた生活、歴史というものは、そんなばかげた、とびは なれたものではない。そういうことを少しも知らないのが、土師清二のごとき人間だとしか思わ れない。「お直は耳の根が、熱くなつてくる心地であつた」というようなことまで書いているが、 これではまるで茶屋女か芸者だ。町人の娘でも、これほど蓮葉なやつはない。  それからまた竹腰の言葉というものがひどいものだ。お直のうしろに坐っている娘のことを、 「お腰元か、名は?」と言って聞いている。「お腰元」というだろうか、腰元などというものは、 人の前へ連れて出るものじゃない。元来はかかる席へ出すものではない。その人間がいるいない はおいて、その人の使っている者の名を聞くにしても、あれだけ身分のある尾州家の家老といわ れる竹腰が、風仙堂の娘が使っている人間に、そんな敬辞を用いるはずがない。お直が何という かと思うと、「お年ッて申します」と言っている。「お」の字を添えていうのは、いかなる意味の ものか知っているか、お直が半日でも武家奉公をしたとすれば、どういう場合、どういう人に 「お」の字をつけるかは知っているわけで、「御台所で|御擂鉢《おすりぱち》がおがったりおがったり」ではない はずだ。もっともお直が知っていても、書く人が知らないから、こうたるんでしょう。おまけに 「と申します」といえばいいのに、「お年ッて申します」なんぞは、何たる下卑たものの言いよう だろう。  竹腰はその娘に、「甲次郎に、逢ひたいか」と言って聞いている。しかるベき者、相当の位置 にある者が、男女のなからいに対して、こういう言葉を用いるものか、用いるものでないか。そ れよりもまさって愛敬のあるのは、そのお年の返事で、「えゝ、逢ひたいの」ときたもんだ。と てもこうなっては、指摘するも駁撃するも、あったものじゃない。ただ呆れ返るよりほかはない。  四十六回になると、話はだんだんに進んできて、お直が、尾張の藩中から脱藩したものが二三 人ある、それが江戸に入っているのを御存じであるか、といって聞く。それはもう聞かれるまで もなく、竹腰も承知している。国許から、大番頭の吉田平内、馬回り役大橋善之丞、同弟鉄弥の 三人が、国を脱出して江戸へ来た、という通知があった。これは当代の尾州家が天降り婿であっ たので、それに反対して騒いだものどもであった。そこでお直は、吉田、大橋兄弟などという人 達は、成瀬甲次郎に合体して、水野越前守を討ち取ろうとする人ではないか、ということを言い 出した。そんなことを言われて竹腰は、「お礼を申すべきでせうな」と言っている。御注意に対 してお礼をいう、ということなんでしょうか、一体その連中は何のために脱藩したのか,}グ、れは 証拠を挙げるわけにゆかないから別閊題として、とにかく尾州藩の者が脱藩したということにつ いては、他からいろいろ言わるべきものじゃたい。藩として相当の処置を取るべきで、お直から、 「脱藩人は、その罪重くはん逆、謀反と同罪と承りましたが」なんていう講釈を聞くわけのもの じゃない。お直に限らず、どこからでも、そんな指図めいたことを受けないでも、どう処分する かということはきまっている話で、ここで変な問答をしたり、お直から難詰を受けたりすること は、あるはずがたい。竹腰が「脱藩人が、拙者の面前に現はれた時は、斬るか腹をさせるか、捕 へるか」というと、お直は「お誓ひになります? 山城守の所領、役儀にかけてー」と言って いる。これじゃ竹腰がお直に調べられているようなものだ。相当な身分があって、家老職を勤め ているもののところへ、わけもわからない女が飛び込んで来て、ぐずぐず言った上に、誓うの誓 わないのと言われることは、想像出来ないことである。そういうことは、何ともいわないうちに 始末しなければたらないし、他からまた国法によって相当の沙汰があったとしても、一藩の事は 一藩で処理する、と答うべき筋のものなのです。  そんなことを言いなぐれにして、お直は帰って行く。「わき門で女駕が待つてゐた」とあるが、 脇門とは一体どんな門だろう一「駕が、門を出て右ッ角」とある。そうするとこの駕籠は、門内 へ舁ぎ込んだものらしくみえる。何たることだろう。  四十八回のところに、「口に呼子笛を含んでゐる岡ッ引古石場の三平だつた」と書いてある。 岡ッ引なんていうものが呼子を持っていて吹き立てる、たんていう話は聞いたこともない。「古 石場の三平」は前にも出て来たが、「古石場」というのは深川なので、岡ッ引が本所・深川に住 っているなんていう話も、まあ聞いたことがない。前に言った、岡ッ引を稼業だということも、 この続きの四十九回に出ているので、作者が岡ッ引を商売になるものと解釈していることがこれ でわかる。  五十回になると、成瀬の人相書が回っていることが書いてある。「殊に成瀬さんの人相書は南 町奉行鳥居甲斐守様から江戸中にお配付済みです」と三平が言っている。人相書というものは、 五逆の罪に限るので、親殺し・主殺しといった犯罪の時に出す。殊に町奉行がそういうことをし ますのは、自分の管轄の下からそういう犯人が出た場合で、今この成瀬のごときものは、尾州の 家来でありますから、鳥居のかかり合った話ではなし、鳥居が人相書を出すことは決してない。 そのことは江戸時代の法制を少し知っているものでありましたならば、こんな間違いをする気遣 いはたい。三平は多寡が岡ッ引だから、何も知らないでそういったとすればいいようたものだが、 すでにそういうことがない以上は、三平がそんなことをいうこともなかろうと思う。  また平内の言葉として、「拙者と大橋兄弟の人相書は、国表から回つてくるであらうが、最早 到著済、お配付済かも知れんな」といっている。そうすると尾州家から、吉田・大橋の人相書を 江戸に回して、町奉行から方々に回さした、ということになる。そんなばかなことはとてもある もんじゃない。まるっきり江戸時代の法制を知らないから、こういうばかなことが出来るのだ。  が、もう大抵にこの人の評判記は切り上げましょう。いくら言っても限りがない。大衆小説と いうものは、どれでも探偵らしいことがなくっちゃいけない。どうしても剣劇の気味がないとい けない。そうして岡ッ引だとか、召捕りだとか、チャンバラとかいうものがついて回らなけ氷ば 納まらたい。それには武士も出て来なければいけない、といったわけで、大概同じような型にた る。また作者の知識の足らないところも、大概同じところにおいて暴露されているようです。そ うして江戸時代というものを、甚だめちゃめちゃな、無法なもののように受け取らせる、という ふうにのみなってゆく。江戸時代ばかりじゃない。大衆小説に書いてあるような世の中は、何時 の世の中にもないでしょう。こういうものの流行は、どんな影響を世間に与えるものであろうか、 ということも考えてみなければなるまいと思います。 直木三十五の『南国太平記』 上  今度は直木三十五さんの『南国太平記』を読んでみました。この話は薩摩の殿様で幕末の頃に        なりあきら          ゆら               なりおき 明君といわれた斉彬を中心とした騒動で、お由羅騒動ともいわれている。斉彬の先代斉興の愛妾 にからまった御家騒動で、最もむごたらしい話なのですが、これは明治の初年になりましては、 随分名高い内証話の一つであったので、世間に薩長が最も羽振りを利かせた時代でありましたか ら、その話というものが、何だか小声で活されるようになっていた。鹿児島藩としては、無論家 の秘密ですから、秘密の上にも秘密にしました。そういうわけから、お由羅騒動については、誰 も書き立てたものがありませんので、その概略だけでも、一般には知られていなかったのです。 それを今から十何年前になりまし=うか、鹿児島藩士加治木常樹君が委しく話をしてくれたのを、 私が書いて『日本及日本人』へ出したことがあります。それから後、二三のものに、お由羅騒動 の話が出たように思います。直木さんの『南国太平記』もお由羅騒動の話でありますが、どこか ら材料を得られたものであるか、加治木君の話を基礎として、それを大衆的にひろめてくれたも のとすれば、私としても大いに満足でありますし、今は世に亡い加治木君も喜ばれることであろ うと思います。加治木君としては、当時の鹿児島藩に何程忠義の士があったか、ということを知 らせたいために話された。私としては、その忠義な人達は結構であるが、忠義でなかった人、忠 義であっても変な終りになり行った人、すなわち忠義で押し切れなかった人、そういう人達の根 性調べが出来るように思う。私が西郷隆盛嫌いになりましたことは、いろいろな理由もあります が、たしかにお由羅騒動の顧末たども、私を西郷嫌いにした有力な一つであります。そんなこと は直木さんには関係がないのかもしれない。とにかくそれはそのままにしておいて、お由羅騒動 というものを、どんなふうに脚色していったかということをみるだけの話である。その脚色につ いて、変な間違いがありはしないか、ということをみてゆく。勿論加治木君が話してくれた意味、 私がそれを書いた心持たどは、現代の直木さんにわかるはずもない。それを責めようなどという 心得は決してない。ただ出来事をあんまり見当違いでなく伝えることが出来たたら、それでもい いと思うまでであります。  この本(前篇)の一番はじめのところに、島津家に伝わっている|兵道《ひようどう》というもののことが書い てある。これは修験者らしいもので、島津家ばかりではない、九州大名には皆伝わっておったら しい。が、九州の大名もなくなったのが多いので、取り残された島津家に、昔からある兵道も伝 わったわけです。その兵道のことから書き始められているのですが、開巻第一頁、山の中に兵道 者の一人加治木玄白斎がいることを書いたところに、「陣笠は、|裹金《うらきん》だから士分であらう」とあ る。士分といいますと、維新の際に士族と卒族とに分けた、その卒族でないということだけにな ってしまいますから、身分のある士とは思われない。陣笠は裹が金のと、銀のと、それから、朱 で塗ったのと三通りあります。江戸に致しますと、旗本以上の人でないと、裹金の陣笠はない。 ただ士分というくらいのことでは、とてもそんなものを被れるわけじゃない。水戸家なんぞには、 万石以上の付家老がありまして、その人達はどうであったかわからないが、藩中には裹金の陣笠 を被る者はなかったと聞いています。しかるに島津家では、諸士というくらいの分際の者に、裹 金の陣笠を被らされたであろうか。これがまあ劈頭第一に、作者が士の分限というものを知らな いことがわかると思う。士の分限がわからずに士の話を書くというのは、どうも困った話だ。  一〇頁のところへくると、「二人の足音と、絹ずれの外、何の物音もない深山であつた」とい うことがある。「絹ずれ」と書いてあるが、この「絹ずれ」というのは、どういうつもりで使っ ているのか。あるいは「キヌズレ」ということを知らないんじゃないかと思う。  二一頁に玄白斎という兵道の先生の言葉として、「牧は、斉彬公を調伏しをらうも知れぬ←と ある。二の時は斉興の時代で、斉彬は世子でありますけれども、藩中の者がー身分の低い者な らたおさらのこと、世子をつかまえて、「斉彬公」などと名を言うようなことはありませんごの みならず「斉彬」という名は、相続されて後の名であります。これから先にいくつも、「斉彬公」 という言葉が出てきますが、そういうことはないはずです。  三〇頁のところになると、「玄白斎は、手綱を捌いて、馬を走らしかけた」と書いてあります。 これは百姓馬に乗ったのであるのに、どうして手綱捌きをするか、馬にさえ乗れば、手綱捌きを すると心得ているとすれば、大分御愛敬な話だと思う。  ここでは斉彬の三番目の子の寛之助という人、これが|調伏《ちようぶく》されて病気しておられる。七瀬とい う女が、その御看護をしているのですが、そこにこんなことが書いてある。「すぐ膝の前によく 眠入つてゐる、斉彬の三男、寛之助の眼を、ぢつと眺めた」ーおつき申している者などの膝の 前に寝ているというようなことを、おつき申している者どもが、思ったり、言ったりはしないは ずだ。またこういうことも書いてある。「新しい蒲団を三重にして、舶来の緋毛布に包まれて、 熱の下らない、艶々と、紅く光る頬をした四歳になる寛之助は、腱毛も動かさないで、眠入つ《り》|て ゐた」ーそうであったならば、自分のすぐ膝の前などということは、思えそうもないはずだ。 こういうことは、まことに小さいことのようであるけれども、君侯の御孫様であることを考えた ならば、膝の前によく眠っているというようた心持が出てくべきものでない。これは武家の主従 の様体というものを考えていないから、こういうことを書くのでしょう。  その続きに斉彬の夫人英姫が、病気をしている我が子の側に来られたことを書いて、侍がすぐ 側にいたように書いてある。その近侍はどういうものかというと、男性だ。その近侍が寛之助の 御病状を、すぐに斉彬へ知らせるようになっている。一体奥は女ばかりであるはずなのに、この 近侍というのはどういう役目の人か知らないが、とにかく男がいる。男で奥まで入って行くもの は、医者よりほかにないはずだ。どこの大名のことにしても、奥向の模様を少し知っている人な ら、こういうことを書くはずはない。  三三頁になると、この寛之助殿の御病中、御看護に出ている女は、裁許掛見習、仙波八郎太の 妻で、七瀬という者だと書いてある。もっと小さい大名でありましても、病人が出来たから、臨 時に家来の妻を呼び上げて、看護に当らしめるというようなことはない。この七瀬という女は 「斉彬の正室、英姫の侍女でもあつた」とも書いてあるが、侍女であるとすれば、人の妻が、侍 女になっていることはたいはずだ。侍女であった者が仙波へ片付いたとする。それにしたところ が、召し上げて、御殿へ詰め切って、看護させるなどということはないはずだ。手不足などとい うことは、大名の奥にはないわけであります。殊に表役のところへ嫁した者まで引き上げて使う ことはたい。御座敷向の役人の女房にしても、臨時に引き上げて使うなんていうことがあるもん じゃない。  ところでこの斉彬の夫人の言葉として、なかなか愉快なのがある。三四頁のところで、夫人が 寛之助殿の前に生れた澄姫という女子、それがやはり兵道の調伏のために亡くなったことを思い 出して、今目の前の病児をも、ひどく気遣って見ておられる。この英姫という人はよほど破格た お方で、自身で子供の世話をなすった話が伝わっているくらいだから、そういうこともあったろ うと思うが、徹夜をして看護をされた澄姫に、「寝てから何を、見ろの」と尋れられると、|澄《む》姫 が「鬼ー」と答えたとある。「見るの」なんていう言葉を、大諸侯の世子の夫人が遣われるか、 遣われないか、考えてもわかりそうなものだと思う。  三六頁になると「小身者の|仙波《せんば》として、七瀬が首尾よく勤めたなら、出世の|緒《いとぐち》をつかんだ事に なるし、他人に代つた験が無かつたなら、面目として、女房を、そのままには捨て置けなかつた」 ということがある。これは一体ないことを桁えたんだから、無理な変なことになるには怪しむに 足らないが、自分の主人の子供が病気をした、その御看護に妻が出たのを、自分の出世の緒と解 したのは、いかにもあさましい話である。殊に仙波は忠義の士に書いてある。その女房である七 瀬も正しい婦人のように書いていながら、ここでは一言も忠義ということをいわずに、ただ出世 の緒を掴んだといっている。また一方では「面目として」云々とあり、結局出世と名誉とだけし かいっていない。これではいかなこと、薩摩の|士《さむらい》も可哀そうだ。もうちっと功利のほかに志のあ った者もいたのである。  三七頁にはこんなことが書いてある。「床の間には|重豪《しげたけ》の編輯した『成形図説』の入つた大き い木の函があつたし、洋式鉄砲、香炉、掛物の万国地図。それから、棚には|呼遠筒《こゑんとう》が、薄く光つ てゐた」・これが子供の病間たのであろうか。一体どういう案刪に病間などはなっているか。 作者はそんなことを考えているんだろうか、いないんだろうか。  三九頁になると、寛之助殿の病状が変ってきた。そこで七瀬が侍女に「方庵をー」「方庵を 早くー」といっている。方庵というのは医者の名前です。殿様や奥様が言われるとすれば、そ れでもいいが、侍女ぐらいの者が「方庵々々」と言って呼び放しにすることはないはずである。 七瀬は容態の変った寛之助を抱き上げて「七瀬がをります。七瀬がをります」と言って、背を軽 く叩いた、と書いてある。たといどんな病気であろうが、また幼少であろうが、君臣主従という ことを知っているならば、こういう言葉は言えるものでもない。また言うものでもない。芝居な んぞで、よくこうした言葉を家来が遣っているが、これもその真似をしたんだとすればそれまで だ。  その続きの四一頁には、「微かに、足音がつ父いて襖が開いた。方庵と、左源太と、奥小姓野 村伝之丞とが、入つて来た」とある。こういう連中が、どやどやと御病間ヘ入って来たらしい。 奥小姓なんていう言葉があるから、奥まで入って行くことの出来る小姓があると思ったのかもし れない。が、これは奥までは入って行けない。中奥というものがありますが、その中奥の小姓な のです。女のいるところまで、どんどん入って行ける御小姓は決してない。まして左源太なんて いうものまで奥へ入って行く。薩摩は殊に武士気質のところで、そういうことはなかなか厳重で ありましたから、とてもそんなことがあるわけはない。  左源太は滅法界なやつで、寛之助殿の病状を見て、「余程、おびえてゐなさる」といっている。 これが君侯のお孫様に対して言えるようなら、薩摩の礼儀というものは、お話にならないものだ。 この左源太というやつが、奥に仕えている女としますと、七瀬のことをそう下等な扱いをするは ずがない。しかるに「七瀬-何ぞ異状無かつたか?」と言っている。少くとも自分と同輩でな ければならぬものを、平気で呼棄てにしているのもおかしいが、主人のお孫様のことを「異状」 というのも変だ。ここは一お変り」と言いそうなところで、これでは全く、主人のお孫様に対す る礼儀を心得ていない。  そうすると七瀬も、また変なやつで、「若、何を御覧なされますな。左源太が、追つ払つてく れませう。どつちから?-あつちから?」と言っている。「若々」というのは、このほかにも あるが、こんな呼びようをするものは、どこの大名にだってあるものしゃない。  四三頁になりますと、お由羅が寛之助殿御平癒の|護摩《ごま》を焚くことが書いてある。御平癒の護摩 と称して、実は調伏するのですが、このお由羅の部屋をどういうものと心得ているか、それから また護摩なんていうものを、誰でも焚けるものと思っているか、誰か教えてさえくれれば、すぐ 焚けるものと思っているから、「部屋の真中に、六七尺幅の三角形の護摩壇が設けられてあつた」 という話まで書いてあるんだが、薩州家の|長局《ながつぽね》というものを、どんなものと考えているんだろう。 ものを知らない人に逢ってはかなわない。  そこへ寛之助殿を調伏している「兵道家牧仲太郎の高弟、与田兵助」なんていうやつが入り込 んでいる。こいつが「用意とゝのうてをります」なんて言っているんだが、長局ヘこんな男がぴ ょいぴょい入り込むなんていうことは、あるべきことじゃない。そんな不取締りた、むちゃくち ゃなことは、小大名だってありはしない。実に呆れ返ったことを書いている。  知らせによって斉彬が病間へ来られる。そこに「お渡りー」という言葉(五一頁)が使って ある。薩州家ではおいでになることを「お渡り」といったのかどうか。まことに聞き慣れぬ言葉 だと思う。これでみると、斉彬のおられるところへ、すぐに御病状を知らせることが出来るらし いが、どういう間取りになっていて、どういう部屋に斉彬がおられるのか。  またこの斉彬と近侍との応対がなかなか奇だ。  「もう死んだか」  「いゝえ、御重体のよしで御座ります」  鹿児島藩の世子ともある人が、自分の子供に対して、「もう死んだか」というような言葉を、 用いられるものではあるまい。、言葉の形において、その意味において、お大名様というものを考 えたことがないから、こういうことが出てくるんだろうと思う。  五三頁になって、寛之助殿が亡くなられる二日前に、英姫の懐の中で、「お|父《とと》は?」といわれ た、と書いてある。大名の子供は自分の親のことを、「オトト」というとみえる。果してそうい うものであるかどうか。そんなことさえ、調べても考えてもみないようでは、大名の生活などは わかるもんじゃない。斉彬の言葉として「寛之助-|父《てて》ぢや」ということもある。大名の世子は こういうことを言うのか。一体「テテ」なんていう言葉は、上流の人の言葉にあるのかないのか。  それから話が替りまして、江戸の三田、四国町、大工藤左衛門の仕事場のところになる。ここ で一つおもしろいと思うのは、私が加治木君の話を書いた時分に、わかりいいようにと思ったか ら、三田の四国町と書いておいたけれども、実は三田の四国町というものはない。四国町の名は 明治以後になってから出来たので、そこには鹿児島と、徳島と、|許斐《このみ》と、因州と四つの藩邸があ りましたので、そのあとに四国町という名をつけたのです。ここにも正直に、「江戸の三田、四 国町」と書いてあるが、実は江戸の三田には、四国町はなかったのであります。  お由羅は大工藤左衛門の娘で、薩摩の殿様斉興のお手がついて、久光を生んだ。それから兄の 小藤次は、岡田小藤次利武と名乗って、奥向の役人になったことになっている。それだのに、こ こでは岡田小藤次の家が、依然として大工をやっているらしい。私はこの小藤次のことについて は、別に加治木菻から、どうなったか聞いていませんけれども、相当な禄を貰うようになれば、 自然大工をやっているはずがない。けれどもここでは、妹のおかげで二本差になった小藤次が、 やはり大工でそこにいることになっている。これはよほどおもしろい。  それよりまだおもしろいのは、小藤次の家の前を、富士春という三味線のお師匠さんが通る。 この女の噂をしている中に「御倹約令の出るまでは、お前、内股まで白粉を塗つてさ」というこ とがある。倹約令といえば水野の天保改革のことでしょうが、一体稽古屋の師匠なんていうもの は、小ざっばりした姿なのが賞翫だったものだ。江戸の女が内股まで白粉を塗ったというのは、 安永・天明頃の町の女の話でしょう。近頃のダンサーとか、バ1の姐さんとかいうものなら知ら ぬこと、この時分の江戸の女には、そんなものはもういない。  六三頁になりますと、仙波八郎太の倅の小太郎というものが、斉彬から拝借した小関三英訳の 『|邪波烈翁伝《ナボレオンでん》』を読みながら、小藤次の家の前を通ることになっている。外様の表役である裁許 掛の子供が、君侯の泄子から書物を拝借することは出来るはずもありません。もしまた柞借する 身分の者で、柞俯したと致しましたならば、出来るだけ大切に取り扱わなければならない。往来 を読みながら歩くなんていうことが、あるはずはない。莉侯から拝借したものでなくとも、しか るべき書物を歩きながら読んでいるなんていう、無作法な、無朕なものはありはしない。そんな 無躾なやつなら、本なんか読みはしない。ここらのところは、東京の書生まる出しだ。しかもこ の頃の書生だ。  そうするとこの小藤次のとこへ、庄吉という|掏摸《すり》が遊びに来ている。それに対して、手際を見 せろと言い出して、今前を通って行く若い士、すなわち小太郎の印寵を取ってみせることになっ た。一両賞を懸けるから取ってみるがいいと、小藤次が言って、庄吉が小太郎の印籠を取る。い よいよ取ろうとすると、小太郎がとっつかまえて、手ッ首を折ってしまった。この間の問答とい うものが、よほどおもしろく出来ているので、すり損った庄吉の方が、なかなか威張って悪口を ついている。そのまた悪口がなかなか長く続いて、手を折られても逃げもしない。「元の通りに しろつ、手前なんぞに、なめられて、このまゝ引込めるけえ、元通りにするか、殺すか、このま まぢやあ、動かさねえんだーおいつ、折るなら、首根つ子の骨を折つてくれ」なんて言ってい る。どうも珍しい掏摸があったもので、すり損ってつかまえられて、まだ力んでいる。こんな掏 摸は江戸にはなかった。この掏摸の記事が大分長いんですが、呆れ返ってしまって、何ともいう ことが出来ない。一体掏摸というものを何と心得ているのか。小藤次のやつが庄吉に加担してい るのは、自分が頼んでやらしたんだから、そうであるかもしれないが、「自分の言葉から、一人 の名人を台なしにした事に、責任を感じた」と書いてある。この「名人」というのは掏摸の名人 のことなんですが、実にとんでもない、ばからしいことを書いたもんだ。  それから小太郎が小藤次を見て、何というかと思うと、「小藤次氏」といっている。その上に 著者はこういう説明を加えている。「小藤次にとつて、士分にたつたのは、勿論、得意ではあつ たが、岡田利武という鹿爪らしさは、自分では可笑しかつた。そして自分では、可笑しかつたが、 人から『利武殿』とか『小藤次氏』とか、呼ばれるのには、腹が立つた」軽蔑され、冷笑される ように聞えるというんだが、こういう場合に、「小藤次氏」というふうに名をいうもんだと思っ ているんだろうか。そんなふうに自分を呼ばないで、「岡田と呼んでくんねえ」といったとある が、二本さしてまだ職人言葉を遣っているのかと思うと、おかしい。これはいかなこと、こうで はなかったろうと思う。生れも付かぬ、二本差になれた立身出世、光栄至極に心得て、嬉しくっ て|堪《こた》えられなかったに違いない。つとめても武士気振りになる。滑稽が湧き出るほどな気取りだ ったろう。今日でも、高等丈官試験に及第した人の顔付を御覧なさい。  小藤次が小太郎に向って、「手前、さつきの人間の手を折つたな」といって迫る。「如何にも ー」と答えると、それに対する小藤次の言草がおもしろい。「如何にもつて、一体、何うする んだ。人間にや、出来心つて奴があるんだ。出来心つてーつい、ふらくつと、出来心だ。な あ。それに手を折つて済むけえ、納得の行くやうに、始末をつけてくれ、始末をー始末をつけ なけりや、俺から、大殿様へお願げえしても、相当の事はするつもりだ。人間の出来心つてのは、 こんな日和にはふらふらと起るものだ。それに、手を折るなんてー」、一体これは何のことだ ろう。これでは掏摸は出来心だから、してもいいようなことになるが、いくら江戸時代だって、 そんなことはない。泥坊をやり損って怪我をする。それを大殿様へお願いするというのは、斉興 のことでしょうが、いくら目尻の下った殿様でも、そんなことを聞かれるはずはない。また願い 出られる筋のものでもないが、何と思ってこんなことを書いたものか、全くわからない。掏摸と いうものを悪いことでない、やっても差支えないことと考えているのか、どうもこれは作者の心 持がわかりません。  そんなことをやっているうちに、講釈師の|南玉《なんぎよく》が出て来る。小藤次とは知合たんだし、小太郎 とも顔を知っているので、「今日は」というと、小太郎は「やあ」といって挨拶している。たと い小禄であるにしても、仙波小太郎は薩州の士である。それに対して講釈師が、頭から「今日 は」という挨拶で出会するのは、よほどおかしい。,前から知合だったのではあるが、こんな無作 法なはずはない。またそれに対して小太郎が、「やあ」と言ってすましている。こういうことは、 昔の士達のことも知らず、士と士以外の者との関係も知らないから起るのだと思います。  南玉は小太郎のいる御長屋の隣の、|益満休之助《ますみつきゆうのすけ》のところへ出入りする、と書いてある。益満は この時分には江戸へ出ていないと思うが、益満が出て来たことに栫えてあるとすれば、それでい いかもしれない。それでまた小藤次と小太郎とごたごたしているところへ見物がたかる。その見 物人のうしろから「仙波つ、何をしてゐる。寛之助様、お亡くなりになつたぞ」と大声でどなっ たものがある。誰かと思ったら、それは益満だった。君侯のお孫様の亡くなられたのを、こんな に大きな声でいうものか、どうか。昔の君臣主従というものは、これほど自分の君侯に対してい けぞんざいなものなのであろうか。往来で、しかもこういう人立ちの中で、何の思わくもなく、 大きな声で、世間の出来事でも話すように、主家の軽からぬことをしゃベり散らすものと思って いるのであろうか。  八四頁のところになると、また富士春が出て来る。かねて益満が稽古屋へ出入りしているので、 「おや、沐さん」「富士春か」という問答だ。随分勤番士で稽古嵐|済入《ヱい》りをしたものかあったそう ですけれども、いくら懇意であっても、益満休之助ともあろうものを、「休さん」と町人並にや ってのけるのはどんなものか。殊に場末の芝の稽古屋にもせよ、その師匠が「寄らんせんか」と は、どこの言葉なんだろう。言葉の色品を写さなければそれでいいのを、大方自分が田舎生れな んでしょう、見当違いの妙な言葉を写し出している。  小太郎と益満が歩きながら話して行く。その中でこれは大分長い女句ですが、こんなことが書 いてある。「関ケ原以来八十石が、未だ八十石だ。それもよい。我慢のならぬのは、家柄、門閥 -薄のろであらうと、|頓馬《とんま》であらうと、家柄がよく、門閥でさへ有れば、吾々微禄者はその前 で、土下座、頓首せにやあならぬ。郷士の、|紙漉《かみすき》武士の、土百姓のと、卑まれてをるが、器量の 点でなら、家中、誰が吾々若者に歯が立つ、わしは、必ずしも、栄達を望まんが、さういふ輩に 十分の器量を見せてやりたい」ーまだあるんですが、このくらいにしておきます。大道演説じ ゃあるまいし、とんでもない気烙を往来中で揚げたものだ。益満といえば、西郷と押し並んだと さえいわれた人だ。これが普通の士であったにしろ、そんなことをばかばかしい、往来中で大き た声を出して、立話が出来るもんじゃない。ましてそれほど抱負のある益満なら、主家の大事な ことをあけすけに、この調子でしゃべり立てるはずはないのです。  そうかと思うと、益満が小太郎に向って、「わしに、一策がある。母上が、戻られたなら、知 らせてくれ」と言っている。これは寛之助殿の御看護に上っていた七瀬が、不面目で帰って来た、 それについていっているのですが、作者は人の母にしろ、自分の母にしろ、母に対しては「母 上」というよりほか、言葉を知らないとみえる。これまで平たい言葉を遣ってきたのに、にわか にここで改って「母上」と言っている。けれどもそのすぐ続きをみると、「所詮は、八郎太が一 手柄立てさへすればよいのでないか」ともある。「八郎太」というのは、小太郎のためには父な ので、父の方には「八郎太」といい、母の方は「母上」という。こういうことは、作者が語彙に 乏しい、言葉を知らないから起るので、どうせ改っていうのなら、双方ともに敬語を用いてよさ そうなものだ。こういう場合何といったものか、作者が知らないから、こんなことになるんだろ うと思う。  今度は仙波の家のところになって、七瀬が帰って来る。それを玄関に迎えた小太郎の姉妹が、 「お母様」と言っている。これは近来皆が気をつけている言葉ですが、昔の士はこう言わなかっ た。「玄関」ということもそうで、玄関というのはただの入口と違う。入口のことなら何でも玄 関というのは間違いだ。仙波はどれほどのものをいただいていたか知らないが、玄関には玄関の 作りがあり、入口には入口の作りがある。これはどっちなんだか、仙波の分限がわからないと、 その方もわからない。が、入口をやたらに玄関と書かれては困る。  九七頁のところで、生垣を押し分けて、益満が入って来る。益満は仙波の隣に住っているとい うことで、その前から唄の声が聞えたりしている。けれども作者は御長屋というものを、どうい うふうに考えているのか。境も何もなくて、生垣か何かで、出入口も何もないところを、いくら 懇意にしても、出入りするようなものと思ったのであるか。第一御長屋に庭があったということ すら、私は聞いたことがない。  益満に対して仙波の子供が「小父上」といっている,これも果してこういう言葉を遣うかどう か。九八頁になると、今度は益満が「それはーなう、小太、云はぬが、花で、小父上、若い者 にお任せ下され玄せぬか」と言っている。この「小父上」は仙波を指しているので、まだこのあ とにもあります。民間では年若なものが年上の者をつかまえて、「小父さん小父さん」というけ れども、民間とはおのずから、帯の結びょうまで違う武士の生活は、そういうところまで同じじ ゃないはずだ。  一〇〇頁のところで、小太郎が「斉興公が」というと、八郎太が「|濫《みだ》りに、口にすベき御名で はない、慎しめ」と言って叱っている。「濫りに」じゃない。君侯のお名などは、家来どもは決 していうものじゃなかった。しかるにその次に益満が調所笑左衛門という家老のことを言い出し てーここにはジュウショと仮名が振ってあるが、果してそういったかどうか。私はサイショと 聞いているー「国許は知らず、江戸の重役、その他、重な人々は、恐らく、斉彬公を喜んでは 居りますまい」と言っている。これでは殿様のお名を口にするの、はいけないが、世子のお名は言 ってもいい、ということになる。主家のお名は、御幼少の場合か、二三男であるかのほかは、い わないのが例であるように思う。  ここへまた講釈師の南玉が出て来てーこれは隣の益満の家にいるらしいが-一人で何かし ゃべっているのを聞いて、仙波の娘が「南玉さん?」といっている。今の時世とは違って、この 時分に士の娘が、講釈師に何さんなんていうはずのものじゃない。  それから呆れ返ってお話にならないのは、益満がこんなことを言う。自分と小太郎との計が一 つあるが、七瀬殿は大阪へ行って、調所の様子を探る気はないか。それには娘の|綱手《つなて》殿も一緒に 行かなければならない。二人で大役を買ってくれないか、というのですが、その大役とはどうい. うことかというと、操を捨てるんだ、という。「場合によつて、調所の妾ともなる。また時によ つて、牧の倅とも通じる」ーこういうことを言っている。こういうことは、いくら懇意である にしても、その母なり娘なりに、じかに言うべきことじゃない。しかるに何の考えもなく、こん な話をするのは何たることか。益満のような人でない、いかなる人であったにしても、若い娘に 向って、「調所の妾ともなる」「牧の倅とも通じる」なんていうことを言うベきものじゃない。そ ういう密談をするについては、おのずから密談する仕方もあるべきはずだ。仙波はそれを聞いて、 益満のいうところも一理あるといっているが、何が一理だか、ここのところは全くお話にならな い。  一〇七頁になると、また話が替って、「|常磐津《ときはづ》富士春は、常磐津の外、|流行唄《はやりうた》も教へてゐた」、 まあ世の中に変なこともありましょうけれども、とにかく稽古屋のお師匠さんが、流行唄を教え るたんていうのは、聞いたことがない。笑談半分に、流行唄を弾いたり唄ったりすることはない でもないが、教えることはありそうもない。一体稽古屋をどう思っているのか。お師匠さんとい うのはどんなものか、田舎の人に聞いてみるのもばかな話だ。ここにその教える流行唄が書いて あるが、  錦の金襴唐草模様  お馬は粟毛で 金の鞍  さつても 見婁な若衆振り  どうも変てこなものだ。 .ここへまた南玉が出て来る。南玉は講釈師だけれども、ここでしゃべっているのをみると、ま るで野太鼓だ。遣っている言葉も、大分田舎っぽい。これで作者の東京の人でないことがよくわ かる。のみならず、今日の講釈師でも、太鼓持や落語家とは違っている。まして江戸時代は大分 の隔りがあった。が、この作者は講釈師がどんなものか知っていない。「八文も払つて、誰が、 手前の講釈なんぞ聞くか」ということもあるが、天保改革の時分に、講釈が八文で聞けると思う ほど、ものがわからたくなくってもいいと思う。  一一〇頁で益満が稽古屋へ入って来ると、そこにいた一人が、「よう」と言っている。益満は とにかく武士である。いくら稽古屋這入りをして心易くなったところで、「よう」たんて、そこ にいる若い衆が同輩を扱うようなことをいうもんじゃない。それから若いやつらの話の中に、 「だつて、掏摸と、泥棒たあちげえますぜ、庄吉なんざ、あつさりした、気のい\男ですぜ。あ いつの手を折るたんざ、可哀さうだ」というのがある。前の小太郎の話について、これも掏摸に 同情している。掏摸と泥坊とは違うというんだが、そんなことを考えた者は、江戸にはなかった はずだ。どうしてこんな滅法界なことを書くんだか、作者の気が知れない。  そのすぐあとに「稽古部屋の人々が出てきた」と書いてあるが、「稽古部屋」というと、相撲 か何かのように聞える。稽古屋とはいうが、稽古部屋とはいうまい。「山猫を買ひに行くのには、 これに限る」ということもある。益満が穢い着物に着替えて、刀も置いて出て行く時の言葉です が、山猫なんていう私娼のあったのは昔の話で、赤城あたりが本場であったのは、この時分から いったら、六七十年も前になる。  それからおもしろいのは、この稽古屋へ「頼まう」と言って来る人がある。それが小太郎だっ た。稽古屋なんぞに、「頼まう」と言って入って来る者はない。稽古屋といえば、小さい家にき まっているし、格子をあければすぐ人がいるんだから、頼もうも何もありゃしない。それともう 一つびっくりすることは、「格子が開いたので、富士春も、人々も、|大提燈《おほぢやうちん》のほの暗い陰の下に 立つた人を眺めた」と書いてある。稽古屋なんていうものは、格子をあけるとすぐそこが土間で、 土間の上に芸名を書いたーここなら「常磐津富士春」というー提燈がついている。それはき まりきったことだが、大きな提燈なんぞが入口にあるわけはない。小さい提燈です。稽古屋なん ていうものも、この作者は知らないとみえる。  益満と小太郎はここを出て、増上寺の塀について、お成門の方へ歩いていった。暗い中から 「奴さん、遊んで行かつし」という女の声がする。「行かつし」も変な言葉だ。江戸とは思えない。 芝の山内に夜鷹が出たなんていう話も聞いたことがない。愛宕下は本場だったそうですが、こい つは初物だ。  それからまだ不思議なのは、「斉彬は、多忙だつたので、三田の藩邸にゐずに、幸橋御門内の 邸ー元の華族会館-に起臥してゐた」と書いてある。あれは有名な薩摩の装束屋敷で、琉球 人が江戸へ出て来た時に、あすこへ連れて来て、あすこから島津家同道で登城する。そこには常 に殿様なり誰なり、藩の世子などという向きの人は、おいでになったことがないようにのみ聞い ている。斉彬はどういうことで忙しかったのか知らないが、三田にいないで装束屋敷におられた。 何のことだかわからない。また大名の世子なんていうものは、そう忙しいわけのもんじ"、ない。 これは斉彬が非常にえらい人だったから、そんなことを考えたのかもしれないが、いくらえらく っても、多忙なんていうことはない。また多忙だからといって、おるべき屋敷にいないで、ほか の屋敷にいるなんていうことも勿論ない。この頃の大官連中が、よく別荘入りをしたりするとこ ろから、こんなことを思いついたんじゃないかと思う。  その装束屋敷へ、益満と小太郎が下郎の姿になって来て、夜遅く門をあけさせる。「夜中、揮 り様、将曹様へ急用」と言って、門鑑を出して見せて通った、とある。「将曹様」というのは家 老|碇山《いかりやま》将曹のことだが、下郎どもが家老の名をいうたんていうことは、もってのほかの話だ。 そんなことはあるはずがない。また家老の職におる者が、何だって藩邸にいないで、こういうと ころに来ているのか。これもあるべきことじゃない。  それから益満が提燈を吹き消して、「中居間の方へ近づいて行つた」と書いてある。中居間と はどこのことだかわからない。そのすぐあとには、「御居間の方へ近づいた」ともある。そうし て二人が御居間の縁の下へ入ることになるんですが、これでは門さえ入れば、すぐに縁の下へで も入れるようにみえる。大名屋敷で、そんなわけのわからない建て方をしてあるところはない。 いかに装束屋敷で、めったに使わぬ屋敷であるにしても、縁の下へすぐにもぐり込めるという持 え方のところはありますまい。装束屋敷の図もないことはありませんが、作者は果してそういう ものを見たことがあるかどうか、聞いてみたいような気がする。  これからあとのところを見ると、二人は縁の下へもぐり込んで、寛之助殿の病間の下に、調伏 の人形のあるのを、掘り出して持って来ることになっている。およそ世の中にけしからんことが あればって、こんなことをやっているのを、屋敷の方で何も知らずにいるというのは、不思議千 万だ。これなら門鑑を改めることもいらないわけだが、帰りには門鑑はどうなったか。人の出入 りはどうなったか、往きに門鑑を渡して、帰りに貰って帰るのが当り前だが、薩州ではそういう ことをしないのか、それもわからない。これでみると、斉彬がここに来ているばかりでなく、寛 之助殿もここに来ているように書いてある。病人まで、 が、それは一体何としたことたのであろうか。 不断使わぬ装束屋敷へ連れ込んだらしい 中  一一七頁のところで、島津家の祈禳所が高野山にある話が出てくる。そこに「島津家が、窮乏 の時、祠堂金を与へなかつたら」云々と書いてありますが、「祠堂金」なんていうことは、あっ た言葉じゃない。何から間違えて、そんなことをいうのか。この高野山にあった事柄というのは、 加治木君の話の中にも出ている話で、島津|家久《いえひさ》の木像を坊主が縁の下へ隠して置いたのを、山田 一郎右衛門という人が、寺の縁の下から見つけ出したことなのですが、その中にも、「祠堂金」 なんていうことはありません。  一二六頁のところになると、「若君の御病間の床下」に「調伏の証拠品」があった、それを持 って来た、という話になる。縁の下へむやみにむずむず入って行って、どこが御病間だかわかっ たのは、不思議千万な話だと思う。そうしてこの調伏の証拠品というのは、どんなものかという と、「素焼の泥人形」だ。それには一行に「島津寛之助、行年四歳」とい書てあって、「その周囲 に細かい梵字がすつかり寛之助を取巻いてゐた」とある。加治木君も、泥人形を得たということ は話された。けれどもそれに「島津寛之助、行年四歳」と書いてあったなんていうことは、まる でないことです。普通一般の呪人形や、加持などにします時は、大概名前はありませんで、干支 ー寅とか、丑とかいうことと、年が幾歳ということ、男性か女性かを書くぐらいなもので、名 前を明らかに書くなんていうことは、すべての御祈禳にしないことです。  それから一四九頁、ここで玄白斎の言っている言葉に、「そもく、兵道の極秘は大義の大小 によつて行ふものではたい」ということがある。「大義の大小」というのはどういうことか。実 にわけのわからないことを言っている。一体大義名分なんていうことは、この作者あたりにわか ることではない。「大義の大小」なんていう言葉は、見たことも聞いたこともたい。ここでお目 にかかるのがはじめてだ。  この玄白斎というのは、実際にいる人間ではたいので、作者が栫えたんだろうと思うが、とに かくおかしな人間に書いてある。「|仮令《たとひ》、いかなることたりとも、不義にくみせぬを以て、吾等 の道と心得てをる」というかと思うと、君侯のお孫様を呪詛する牧は、自分のかわいい弟子であ るから、悪いことをしても、斬ることも出来なければ、処分することも出来ない。ただばかに心 配して、何か言ったり、あとをつけてみたり、よほどけしからん男になっている。その不決着な、 わけのわからない玄白斎の心持を、ここに書いてあるのですが、「斉彬公をーいや、斉彬公を 調伏せんにしても、所詮は、久光殿を、お世継にしようとする大方の|肚《はら》であらう。藩論より考へ ると、これが大勢ぢや。然し、よしこれが大勢にしても、寛之助様をお失ひ申すことは、不義に 相違たい」ーこんなことをいっている。本腹の斉彬を調伏して、脇腹の久光を世継にするため に、そういう非常手段をとることが、藩諭であるならば差支えない、ということにたるんだろう か。これが第一にわからない。  それはまずそれとして、一藩がそういうありさまになっているとしても、それでも寛之助を失 うことは、不義に相違ないというのは、何のことかちっともわからない。斉彬を調伏するのは、 一藩の議論で仕方がない。それにしても寛之助を失うのは不義に相違ない、というのは、どうい う意味だろう。斉彬を調伏するのも不義であるし、寛之助を殺そうとするのも不義なので、不義 に何の差別もない。あれは大勢だから仕方がないが、これは不義に相違ない、というふうに二つ に分けていうべき筋合のものじゃたい。玄白斎はよっぽど変なやつで、「一方がやや軽いからと て不義は、不義ぢや」というようなことも言う。わしが牧なら、皺腹を掻き切っても、命令に従 いはしない、というようなことも言う。「それがよし、斉興公よりの御上意にしても、主君をし てその孫を失ふの不義をなさしめて、黙視するとはその罪、悪逆の極ぢや」とも言っているが、 結局この男のいうことは、何のことか、ちっともわからない。  そうして一五五頁になると、不義に加担している牧を斬るつもりであったが、「牧、わしはお はんを、斬れんわい、|兵道《ひやうたう》の興廃よりもお前が可愛い」ーこう言っている。兵道というものは、 正義のほかには使わないものだ、なんていって力むかと思うと、兵道なんかどうなってもお前が 可愛い、というんだから、爺さんよっぽどどうかしている。  一六〇頁にたると、若侍の言葉として「牧殿に、何故、御世子を調伏したか? その返答をお 聞き下されい」ということがある。「御世子」なんていう言葉は、誰も遣うはずはない。おそろ しく敬意を失した言葉を遣うかと思うと、一方では、やたらに妙なところへ「御」の字をつけた がるが、世子なら世子でいいのです。  それから忠義な|士《さむらい》の池上というのが、|新納《にいろ》のところへ呼ばれて行くところで、新納の家来の言 う言葉に、「ここで争つては困る。殿が待つてをられるので」(一七○頁)とある。これは家老の 家来が自分の主人のことをいうんだけれども、藩士は身分が軽くっても、殿様|直《じき》の家来だし、新 納の家来は|叉者《またもの》ですから、直に島津家に仕えている者に対して、いくら自分の主人が家老であっ ても、「殿」たんていうはずはない。士の分限ということを知らたいから、こういうことになる。  同じようた例ですが、新納が二人の者をそこヘ上げろ、といって指図する。そうすると新納の 家来が、「御意だ。すゝむがよい」と言っている。これも君臣なら「御意」でよろしいが、一方 が家老で身分の差はあっても、同輩は同輩なのですから、「御意」たどという言葉は用いるはず のものではない。薩摩に限らず、どこの藩中にしても、殿様へ直に仕えている者と、叉家来とで は、大変格式が違う。禄高の上だけについていえば、殿様の家来で禄の低い者もあるし、又家来 で直家来より余計禄を貰っている者もある。けれども叉家来と直家来とでは、大変格式が違うの ですから、「殿」だの「御意」だのという言葉は、いくら身分が違っても、同輩の間に用いるも のではない。こういうことは、武士の生活を考える上に、最も必要なもので、またこういうこと なしに、武士の生活は考えられないものなのであります。  この二人の士に対する新納の言草というものがひどいものだ。「|斉彬《なりあきら》が、軽輩、若年の士を愛 する心が、よく判つた。機があつたら、新納が感服してゐたと申し伝へてくれい」と一八○頁に ある。新納といヶのは家老なんだが、家老が世子である斉彬をつかまえて、「斉彬が、軽輩、若 年の士を愛する心が、よく判つた」なんて、大束なことを巻き出すんだから大変です。「新納が 感服してゐたと申し伝へてくれい」なんていうのは、一体何事なんでしょう。主人の若旦那に対 して、番頭がかような言葉を遣うというのは、町家にもないことだ。  一八二頁になると、家老の碇山将曹が、変な唄みたいなことを言いながら、「黒塗の床柱ヘ|凭《もた》 れかゝつて」いる。その側には|斉興《なりおき》の側役伊集院伊織がいる。側役というのはどういう役か、薩 摩にはあったものかどうか知りませんが、その側役の前には、岡田小藤次が膝を正して|流行唄《はやりうた》を うたっている。これはまあどういう座敷なのかとてもわからない。が、とにかく御家老様の前で、 小藤次が流行唄をうたっているのです。そういう唄を聞いた将曹が、「世間の諸式が悪いといふ に、唄だけはよく流行るなう」と言っている。「諸式が悪い」というのはどういうことか、諸式 が高いということは聞いているが、諸式が悪いというのはわからない。新しい言葉かもしれない けれども、わけのわからん言葉だ。  そこへ名越左源太と仙波八郎太の両人が出て来て、御内談申し上げたいことがあるから、御人 払いを願いたいという。将曹は、別に人払いをしなくてもいい、小藤次がいるだけだから、とい って話を聞こうとする、それから調伏の形代を持ち出して、そのことを訴える〕その箱をあけて みるところに、「御長男様を、調伏した形代と心得ますが.」という言葉がある。こういう時 に、「御長男様」なんていう言葉が出てくるはずは、決してない。これは例の床下から仙波が手 に入れた泥人形のことなのですが、これなどもどういうわけでそれを得たか、どこで得たか、と いう行き道が甚だわかっていたい。たといいくら忠義であっても、仙波や益満が、御病間の下へ 入って掻き回した、なんていうことが言える筋道のものじゃない。しかるべき筋道でなければ、 かりに得たところで、公に持ち出せぬものであるくらいは、分っているはずだ。そのわかってい るはずのものを、益満も小太郎も知らないで、泥坊みたいなことをして、それを表向に訴え出る。 こういうむちゃなことは、どうしたってあるものじゃない。このことについては、私は加治木君 の話を一通り書いておきましたから、それを見ればわかります。これは変に|捏《でつ》ちて、かえってお かしなものにしてしまった。  その続きに名越の言葉として、「お|姫様《ひいさま》から御長男様まで、御三人とも、奇怪な死方をなされ た上は」云々ということがある。「御長男様」がいけないことは、前に言ってあります。「お姫 様」という言葉も、もっと低いところでいうので、国守大名あたりでしたら、もう「お姫様」と は言わないはずだ。「奇怪な死方」なんていうに至っては、とても主君の子供の亡くなられたの に言うはずのものじゃない。口をきくことも知らないような士を書いている。  一九三頁になると、今の将曹のいるところへ、斉興が出て来られる。ここに「御渡りになつた らしいー」と書いてある。君侯がおいでになったことを「御渡り」というのがおかしいことは、 前にも言いました。その殿様が出て来られる座敷というものが、|先刻《さつき》から疑っておった、すなわ ち将曹が床柱に倚っかかって唄を聞いていたところですが、そこに八郎太がおってハ「将曹殿」 と呼びかける。これは碇山将曹という家老の名なのですが、薩摩では家老衆が大勢いて、それが 各々領分をいただいておる。そのいただいておる領分の地名を呼んでいたようでありますが、下 の士が「碇山氏」とか「将曹殿」とか言うことは、なかったらしい。家老になりますと、同じ家 来でも大分扱いが違う。  それからまた将曹が「伊集院つ、|此奴《こやつ》を|退《さ》げろ」という。仙波・名越の両人を下げろ、と言い つけているのですが、いくら下の者でも、いやしくも二本さしている士に対して、家老の身分が 高いからといって、これほどまでに下劣な言葉をもって呼ぶことはないはずだ。そういった将曹 の声は|顫《ふる》えていた、とありますが、向うを見ると、「二三寸、隙間の開いた襖から、中の模様が 見えてゐた」とある。将曹が唄を聞いたり、八郎太が訴え出たりした座敷というものは、一間だ けの座敷ではなく、襖のあいたところから、向うの様子が見える。そこには「六十に近い、当主 の、島津斉興が、笑ひながら、脇息に手を突いて、坐りかけながら、将曹の声に、こつちを眺め てゐた」というのですから、|先刻《さつき》御渡りになったという時に、襖一つ隔てた隣の部屋まで、殿様 が来ておられたとみえる。そうして「その横に、ほの暗い部屋の中に浮き立つてみえる、厚化粧 のお|由羅《ゆら》が、侍女を従へて立つてゐた」と書いてある。襖一つで、その向うには殿様がおいでな さるばかりでなしに、お由羅までいたらしい。この座敷というものは、奥なのか表なのか、ちっ ともわからない。襖一つで向うが殿様の座敷、次の部屋が家老のいるところなんていう、浅間な、 変な座敷取は、どこの大名屋敷へ行ったって、あるもんじゃない。第一表か奥かということから してわからない。奥とすれば、家老は君側に常詰にいるものじゃないし、まためったに家老が奥 へ出るものでもない。もし出るようなことがあったとしても、床柱に倚っかかって流行唄を聞い ているというような、無作法なことが、君侯の側近いところで出来るもんじゃない。そこへお由 羅や侍女まで.出て来るというような、変てこな屋敷はどこにもありません。これは島津家でなく ても、どこの大名でもいい、そんな大きな大名でなくても、中位な大名の屋敷の図でもみれば、 すぐわかる。大名屋敷の図も見たことのない人の書いたものだということは、これだけでもすぐ わかる。これではまるで下宿屋の二階か何かの座敷取だ。  殿様のお顔が襖の間から見えた。その時に伊集院が「お退り召され」と仙波に言った。将曹が 「此奴を退げろ」といいつけたから、それでこういったんでしょう。こう声をかけられたので、 名越が顔を上げると、殿様のお顔が見えた。「名越が、平伏する。仙波も、すぐ平伏した」と書 いてある。この仙波は|目見《めみえ》以下の者らしい。目見以下の者が、殿様のお顔の見えるところに、も し出たならばどんなものか。殿様のおいでになるような座敷近くへは、目見以下の者などは決し て行くもんじゃない。  二人が平伏してしまうと、殿様が「将、何とした」と声をかけられた。随分この殿様も変な殿 様で、片名をお呼びなさる。将曹を半分いうのは珍しい。そうすると「将曹は、襖を開けて入り ながら『只今、言上』と坐つて、後ろ手に襖をしめた」というんですがね。襖をあけて入りなが ら、殿様に返事をするなんて、いけぞんざいな家老もあったもんだ。お座敷へ入って、後ろ手で 襖をしめるのも御安直だが、狭い座敷とみえて、すぐしまったらしい。この襖越しで話する君臣 なんていうものも、随分珍しいものです。芝居の奥方などは、殿様が何とかおっしゃったのを、 今聞いていて駆けつけたというようなことをやるが、これもそういう行き方だ。こういう手合に は、多くものを言って聞かせる必要はない。大名屋敷の絵図を見せるのが一番早いだろう。お間 に合せの人間というものは、万事自分の生活から割り出して考えるから、どうしてもこういうこ とになる。  一九六頁になりますと、横目付の四ツ本喜十郎という人が、斉興の部屋から襖をあけて出て来 る。薩摩には「横目」というものはあった。これは諸大名にもありますが、「横目付」というも のはない。横目というものは、ごく低い、足軽ほどのものです。それがどうして君側にいられる でしょう。目付ならば君側へも出るが、始終君側についているものではない。  その続きに「小藤次は扇を、ばちく音させてゐたが、立上つて、廊下へ出て行つた」と書い てある。君側では、いくら成上り者のお由羅の兄貴でも、これほどのことはないはずだ。手の所 在がないからでしょうが、扇をばちばち鳴らしているなどは、君側へ出ても、ちっとも謹慎して いない。  それから今まで斉興のおられたところはどういうところかと思うと、斉興の部屋からは、低い 話声が、誰のともわからずに洩れてきた、ということが書いてありますから、今おられたのが殿 様のお部屋とみえる。そうすれば、殿様のお部屋のすぐ側に、将曹がいたことになるので、殿様 と襖一つ隔てたところで、流行唄をうたったり、床柱に|彜《もた》れたりしているということは、甚だ奇 怪だ。殿様の部屋のすぐ次に、床の問のついた座敷があるたんていうことも、とても想像出来る ことじゃない。そのすぐ前のところに、「四ッ本はそのまゝ向き直つて、|膝行《しつかう》して書院へ入つた」 ということが書いてあるが、書院なら奥にあるはずはない。表ですが、表としても、そんな座敷 のあるはずはたい。また表とすれば、お由羅や何か、女達がそうぞろぞろ出て来るはずもない。 斉興の部屋から話声が聞えるというあとに、「|煙管《きせる》を叩く音が、静かな書院中へ、響いてゐた」 とも書いてある。この書院で煙管を叩くというのは、誰が叩いたんだろう。これでは殿様が叩か れたように聞える。そこにお由羅がいるということから考えてみると、薩摩の屋敷には、奥に書 院があったようにみえる。こいつがまた随分不思議なことになり行く。奥と表ということを知ら ないから、話がひっくるまってしまって、どこにどういう座敷があるくらいの話じゃない。奥と 表との差別さえわからたくなっている。  横目付の四ツ本が「拙者の詰所まで」と言っているところをみると、横目の詰所があるようで もある。奥にしては、横目の詰所なんぞがあっては困る。そんな変なものがあるはずはない。四 ツ本は「御上意によつて、うけたまはりたいことが御座る」と言って、仙波と名越とを、詰所に 誘おうとしているのですが、そうすると、斉興は横目に対して、じかに何か言いつけられたらし い。目見以下の横目などに、いかなる事情があったところで、殿様からじかに上意のあろうはず はどうしてもない。こういうことは、士の分限というものを、まるで知らないから起ったことだ。  四ッ本が襖をあけて、敷居越しに「申し上げまする」と言うと、将曹が「何んぢや」と言う。 「その証拠の品を戻してくれいと、申してをりますが」と言って取り次ぐと、殿様がじかに「こ れか」と言って、その人形を掴んで投げつけた。取り次ぐべき将曹がいるのに、殿様自身で四ツ 本と応対されたり、御自身の手で人形をお返しなすったりしている。これはいかなることがあっ ても、目見以下の者に口を利かれるものではない。また御自身で物を下されることもない。それ だから、お手ずから物を頂戴するということを、役々を経て頂戴するよりも、格別にありがたが るのです。しかるにここではそうじゃない。殿様がじかにものも言われれば、じかにその品を投 返しもされる。こういうふうなことが、大名の日常であるならば、お手ずから頂戴するというこ とも、格別ありがたくないことになる。  それから仙波・名越の両人に対して、殿様の斉興が大いに怒った様子で、「これ、不届者- 聞け」と言っておられる。「不届者つーこ、これヘ参れつ」とも言っておられる。そうして「お のれら、不所存な、何と思ひをる。たわけがつ」というわけで、たいそう小言を言われるんです が、殿様が目見以下の者に、じかに小言を言われるなんていうことは、どうしてもあるべきこと じゃない。が、この殿様は平気でそんなことを言っている。そうすると、その傍でお由羅が、 「薄あかりに金具の光る|煙管盆《たばこぽん》ーこれは誤植でしょうが、原本はこうなっているーを、膝の 所へ引寄せて、銀色の|長煙管《ながぎせる》で、煙草を|喫《す》つてゐた」とある。まるで張店の女郎か何かみたいな ものだ。何たることだろう。いくら御寵愛に奢った妾であっても、君側で煙草をふかすなんてい う、無法なことがあるものじゃない。大工の娘で何も知らないにしても、長局でいろいろ仕込ま れますから、これほど無作法なことはない。それに第一|長羅宇《ながらう》なんか使やしない。煙草盆を引き 寄せるなんていうこともない。どうしてもこれは、張店をしている女郎か何かの連想からきたも のだろうと思う。  そればかりじゃない。そうやって殿様が怒って、小言を言っておられるのに、お由羅のやつは、 「白々とした部屋の空気を、少しも感じないやうに、侍女に、何かいつては、侍女と一緒に、朗 らかに笑つた」とある。どうもばかばかしい、とんでもないことを書いたもんだ。書くやつも書 くやつだが、そんなものを何も知らずに、昔の大名はこんなものか、こんな様子をしているもの か、お妾というのはこんなものかと思って、皆読んでおもしろがっているのかと思うと、実に気 の毒な感じがする。こんなことでは、江戸が三百年維持されるものじゃない。たとい薩摩一国に しても、こんなふしだらな、埒もないことをして、殿様が暮しておったならば、一藩を維持して ゆくことなんぞは、一時間だって出来るものじゃない。  それからここで殿様の斉興が、大いに長文句で小言を言っておられるが、その言葉といったら、 とんでもない、わけのわからない、呆れ返ったものだ。「叉倅の側役として、斉彬に事があれば、 それも、許してやらうが、高が、斉彬の倅一人の死に」云々というような言葉がある。大名は自 分の子のことを、「倅」というものか、いわないものか、また孫のことを「斉彬の倅」なんてい うものか、いわないものか。言葉遣いがめちゃめちゃなばかりでなく、言葉の意味が、まるで大 名の言うべき言葉ではない。  そういうふうで、殿様の斉興が興奮しておられるものですから、飲みかけた湯がこぽれそうに なる。お由羅がその手を持ち添えて、何をいうかと思うと、「将曹ー二人を|退《さ》げてたもれ」と 言う。そうすると斉興が「退れつ」と言っている。ここのところなんぞもそうですが、お由羅が 家老である碇山将曹を、「将曹」なんて呼びっ放しに出来るもんじゃない。また「退げてたもれ」 なんて言うもんじゃない。これは「下げて貰いたい」という意味でしょうが、そういう言葉も、 お由羅などの口から出る言葉じゃない。お妾が家老に指図するなんていうことは、どんなことが あっても、出来るものじゃないのです。それから、この終りのところ(二○二頁)に、「仙波が 『八郎太』と、口早にいつて、目を配ばせた。八郎太が、平伏した」と書いてあるけれども、仙 波の名前が八郎太なんだから、自分のことを「八郎太」と呼ぶはずはない。これでは、まるで仙 波が独相撲を取っているようなものだ。作者の勘違いか、そうでなければ、活字の誤りでしょう。  二〇五頁になると、話が替って、仙波八郎太に対して、辞令書を渡すところがある。「其方不 埒儀有之、食禄を召上げ、暇被下者也、月日、承之」ーこういう辞令なんですけれども、奉書・ の書ぎ方は、薩摩だけこういう書き方をしたんでしょうか。無論「暇被下」ということはない。 「御暇」のはずだ。御暇を下ざるといえば、無論食禄はなくなるんだから、特にこう断ることは いらない。八郎太が、これに対して受書を出した、ということも書いてあるが、昔の奉書に対し て、受書を出したという話は聞いたことがない。薩摩ではこういうこともさせたんでしょうか。  それからまたこの時に、目付と添役が来ている。しかもこの辞令というものは、八郎太の家へ 持って来て渡している。執達吏と兼帯のような具合だ。昔はこういう場合には、諸藩ともに、必 ず呼び出して申し渡す例で、本人を呼ばずに、その宅へこういう辞令を運ぶ、というようなこと は、聞いたことがない。それとも薩摩では、特に諸藩と違って、こういうことをしたのかしらん。 この時来た目付は、なお申し添えて「三日の内に、退転されるやう」と言っている。立ち退けと 言いそうたものなのに、退転しろという。よっぽど不思議な言葉だと思う。  この目付達は、奥に上り込んで、辞令を渡したものとみえて、二人が立ち上ると、次の間にい た小太郎が、玄関にいる目付の供へ、「御立ち」という声をかけた。けれども、「八郎太は、坐つ たま\見送りに立たうともしなかつた」と書いてある。無論自分の家まで、こういう辞令書を もって来ることもないが、君侯からの使、藩庁からの使として役人が来たのに、これを受けた八 郎太が、どんな場合であったからといって、見送りもしなければ敬礼もしないで、そのまま坐っ ている。そんな無作法な士があるもんじゃたい。  それからまた、こういうこともある。「小太郎の手柄も、八郎太の訴へたことも、総て逆転し てぎた。多少の咎めは覚悟してゐたが、追放とまでは考ヘ無かつたし、三日限りで、出て行けと いふのも、法はづれのきびしさであつた」というのですが、御暇が出るということと、追放とは 違うのです。この差別を作者が知っておれば、こんなことを書くはずはない。前にあった奉書に も、一向追放ということは書いてないし、これは追放にされたのではない。こういう場合を「永 の御暇」と称するのです。  まだ同じところに、なかなかおもしろいことがある。「|重豪《しげたけ》公の放漫から、七八年前まで、藩 財窮乏のために知行の渡らないことさへあつた」と書いてある。知行の渡らないというのは、ど んなことか。知行といえば采地のことで、土地領分のことである。知行取なら無論最初に知行が 渡るはずだから、藩が貧乏で七八年前まで渡らなかったとすれば、御蔵米とか、御扶持方とか、 都度都度に頂戴するものが渡らないので、知行が渡らないということはない。知行ということも、 蔵米取ということも知らないから、こんなことを書くのでしょう。  今の役人が帰ると、仙波の妻の七瀬が「綱手、門前の道具屋へ、深雪は、古著屋を呼んで来 てたも」と言っている。そのすぐ前に「廊下ヘ集つてゐるらしい三人の召使の一人がすゝり泣い た」と書いてあるから、召使がまだ三人もいるのです。それだのに自分の娘に、道具屋や古着屋 へ行って来いという。三日のうちに立ち退けといいつけられているから、その支度のためなので すが、小者もいれば下女もいるに違いないのに、自分の娘をそういうところへ使に出す。そうい うことはするもんじゃありません。  それから二一一頁、これはまた富士春のところで集っている若い衆の雑談を書いてあるんです が、その言葉の中に「何を感ずりやあがつた」というのがある。「感ずる」から来た言葉でしょ うが、これは昔は言わなかったりこの言葉が出てきたのは、明治二十年以後の落語の中に現われ たのが、はじめのように思われる。無論古い人から聞いたことはない。  そこへまた「頼まう」と言って来る。これがまた仙波小太郎なので、富士春がそれに応じて、 「はい」と言って「店の間をすかしてみた」というんですが、稽古屋に店があるでしょうか。「倹 約令が出て、いくらか衰へたが、前幅を狭く仕立てゝ、歩くと、居くづれると、膝から内股まで 見えるのが、かうした女の風俗であつた」と書いてある。これは七三とかいう着物の仕立方なん ですが、倹約令が出てから衰えたわけじゃない、幕末の風俗なのだ。「そして、富士春は、今で も、内股まで、化粧をしてゐる女であつた」とあるが、これは前にも言っておいたから、ここで は繰り返しますまい。けれども「富士春は、|紅縮緬《べにちりめん》の裹を」云々と書いてある。この「紅縮緬」 というのはどんなものだか、私は知らない。紅縮緬は二一五頁にもまた出てきますが、緋縮緬な ら毎度お馴染のもので、誰でも知っている、紅縮緬に至っては、ここではじめてお目にかかるの で、一向わかりません。  二一八頁に小太郎と益満との話がある。富士春の家で、しかも若い衆の集っているところで、 「斉興公が、このことについて、大の御立腹だから手出ししては損ぢや」とか、「斉彬公のお袖に すがつて、御助力を願つてみぬか」という。再々のことであるけれども、一々君侯の世子のお名 をいう。それのみならず、大勢若い衆のいる稽古屋なんぞで、藩中の大事なこと、殊に君侯や世 子のお噂を遠慮会釈なくする。そんた無考えな士というものが、あるもんじゃない。  それからその続きで、二二○頁のところ、小太郎が帰ってしまうと、そこにいた若い衆の一人 が、益満に向って、小太郎に|縹緻《きりよう》よしの妹があるという話を持ち出して、「|貴下《あなた》との御関係は?」 といって益満に聞いている。稽古屋|這入《ばい》りをするような若い衆、しかも江戸の末の連中が、「御 関係」なんていう言葉を遣うもんじゃない。第一「関係」というのはどういう意味か、知ってい る気遣いのない連中だ。それが言葉としておかしいのみならず、士に向って、その情事をあけす けに聞くなんていう、無礼なことをするものでもなし、そんなことをいわれて平気である、変な 士があるわけのものじゃない。  富士春の家を出た小太郎は、またしても小藤次の家の前を通りかかる。「障子が開いて小藤次 が次の間から板の間へ飛び下りた」とあって、これから喧嘩をする案配のところになっている。 小藤次が刀に手をかけてどなった言草に、もう貴様は素浪人になっているんだから、勝手に人の 家へ入ったりすれば、「引つ捕へて、自身番へ渡されるのを知らねえか」ということがある。け れども小太郎はまだ薩摩の屋敷にいるのです。御暇にはなったが、まだ立ち退かずにいる。そう いう人を自身番へ連れて行くというのは、大方自身番を今の交番のように考えているんでしょち。 小藤次の家にいたやつがじたばたするので、小太郎が投げつけて大騒ぎになる。「役人を呼んで 来いつ」なんて言っているが、どういう役人を呼んで来るつもりなんでしょうか。今日の交番ヘ 駆けつけて、巡査を呼んで来るようなものと心得ているんじゃないかと思う。  二二八頁になって、「|除《の》けつ、除けつ」というと同時に、「御役人だ」という声が聞える。その すぐあとに、「自身番に居合せた小役人は、小藤次と顔馴染であつた」と書いてある。「自身番に 居合せた小役人」というのはどういうことか、一向わからない。自身番にいるのは町役人です。 その役人が小太郎をつかまえて、「とにかく、番所まで」と言っているが、番所といえば町奉行 所のことなんですから、往来でわけのわからんものを、いきなり町奉行所へ連れて行くなんてい うことは、聞いたことがたい。この連れて行く役人はどういうものか、どういう手続でこんなこ とになるのか、ちっともわからない。どうも自身番を今日の交番と同じように心得ているからの 間違いらしい。  二三一頁になると、古着屋を呼んできて、玄関の脇の部屋で、小者の叉蔵が、主人の家の着物 をいろいろ売ろうとしている。玄関ということは前に言ったから、二度言わないでもいいでしょ う。が、ここにある「|総刺繍《そうぬひ》の打掛け」なんていうものは、そうやたらに着るものでもない。小 禄の仙波の家の者などが持っていそうもないものだが、七瀬という女は、前に斉彬夫人の御側に 仕えていたということになっていますから、そういう辺から持っていたとすれば、まだよろしい。 「大久保小紋の正月著」ー芸者や女郎なら正月着ということも聞いているが、低い身分でも士 の女房に、「正月著」というのも変なものだ。「浮織の帯」なんていうのもあるが、これはどんな ものだろう。「小太夫鹿子の長襦袢」ー「小太夫鹿子」なんていうものは、よほどお古いとこ ろで、江戸末にはない。長襦袢などというものを、武家の家族が着たものか、着たいものか。こ れは化政度あたりに、音羽の私娼が着はじめたものと聞いている。いずれにも、そうした向きの 人の着るもので、武家や何かには無論ありません。「|騰染《おほろぞめ》の振袖」なんていうのも、大変古いも ので、あるいは五代も六代も前の譲り物かもしれない。瀧染は元禄度のものです。ここの品目は 何だか玩古美術会にでも出陳しそうなものだ。  それから二三六頁で、また富士春の家にたる。ここがなかなか振っているので、「軒下に、小 さい|紅提灯《べにちやうちん》がつるしてあつて、中をのぞくと、一坪程の土間に、大提灯が、幅をしめてゐた」と 書いてある。これが富士春の家なんですが、軒下に紅提燈をつるすというのは、商い屋が店開き でもする体裁か、さもなければ売出しだ。稽古屋にはいかにも一坪ぐらいの土間はありましたが、 前にも言った通り、大提燈というのは何んでしょう。こんな不思議な稽古屋は、日本のいつの時 代にもない。  そこへ小太郎が帰って来ないので、妹の深雪が捜しに来て、|掏摸《すり》の庄吉に出っくわせる。この 掏摸が「あつし」だの「げす」だのと言っている。「げす」という言葉は、職人は遣わない。職 人体の者も遣わない。しかるにこの掏摸は盛んにこれを遣っている。何を間違えてこういうこと を書いたのか。  そうかと思うと、二四四頁には、小太郎の引張り込まれたところを、「辻番所」と書いてある。 前には自身番だったのが、今度は辻番だ。自身番と辻番と違うことを知らないから、こんたこと を書くんでしょう。その前に人だかりがしていることを書いて、「番所の入口に、中間が一人、 番人が一人、腰かけてゐた。薄暗い中の方に、四五人の士姿が見えた」とある。これは辻番と解 していいか、自身番と解していいか、わからない。自身番にしましたところが、入口に中間と番 人が腰かけていて、中の方に四五人も士姿が見えるというのはおかしい。作者は自身番がどのく らいの広さのものか知らない。また辻番がどういう体裁のものかということも知らない。だから こんたわけのわからないものを書くので、これでは辻番でもなければ自身番でもない。  辻番というのは武家地のもの、自身番というのは町方のもので、自身番には町役人が詰めてい る。辻番の方は一人持の辻番もあり、組合辻番というのもあり、いろいろありますけれども、そ ういうわけで、自身番と辻番とは大変違う。辻番なら町方に全く関係がありませんから、何かそ ういう喧嘩があったとか、口論があったとかいって、辻番の近所なら格別、町方まで出て行って、 どうする、こうするということは、無論あるはずがない。また町方から持ち込むはずもないので す。  二四七頁になると、その自身番だか、辻番だかわからない中で、しばらくごたごたしていたが 小太郎がここを出て、どんどん行く。深雪もそれを見ていたんですが、「土間の隅に俯いてゐる 庄吉に」ここまで連れて来てくれた礼を述ベている。これがどういう「土間」だか、ちっともわ からない。このすぐ前のところには、「横口付四ツ本が、二三人の侍の中から姿を現した」と書 いてある。例の薄暗い中の方にいた士の中から、出て来たらしい。これが自身番だとすると、そ こに薩藩の横目がいるはずはないのです。辻番とすれば、小太郎はまだ薩藩の人間だから、薩藩 の人間が出て来たとしましても、辻番の中に入っているはずはない。  それからまだおかしいのは、小太郎の出て来たうしろから、証人に呼ばれて来た職人が出て来 る。一体誰がこの自身番だか、辻番だかわからないところに来ているのか知らないが、これが自 身番ならば、八丁堀の同心が来ていなければならたいはずだ。辻番とすれば、小太郎のようた者 は、藩邸へ引き渡すだけのもので、証人を呼んで来て、そこで調べることなどはあるはずがない のです。その職人の言草に「お邸から、すぐ横目付が来てね。邸から、明日とも云はず、叩き出 すつて-俺らあ、胸がすつとしたよ」と言っている。横目なんていうものは、ごく軽い役たん ですから、かりにここへ来て、小太郎が悪いことをしておったとしても、すぐその処分を横目な んそが出来るものじゃありません。上司の指図がなく、何の決着もないのに、「邸から、明日と も云はず、叩き出す」なんていうはずがない。またこの時分の人は、そんなことは誰でも知って いるから、はたの人もこんたことをいうはずがない。  辻番と自身番が、作者の頭の中で判然してないために、妙によじくれてきて、二四九頁になる と「辻番人」なるものが何か言っている。これでみると辻番のようでもあるが、前からの径路を 考えてくると、どうもひっからまって解けないのです。 下  二五一頁のところで、横目の四ッ本が仙波八郎太のうちへ来て、小太郎が不都合なことをした というので、「た父今から、屋敷払を命じる。すぐ立退け」と言っている。それはここでも「そ れはーお上からのお沙汰か? 重役からか、それとも、貴公一人の所存からか」と言って、八 郎太が聞いていますが、それにはちっとも構わず、「|何《いづ》れにてもよろしい。すぐに、退去せい」 と四ツ本が言っている。横目というものの身分については、前に一応述べておいたから、ここに は繰り返しませんが、横目なんていうものの権限では、そんたことが出来るはずはない。無論重 役の指図でなければならない。けれどもそれを横日をもって達するということも、非常に軽率な ことのようにみえる。もっとも|阿房払《あほうばらい》にするなんていうこともありまして、申し渡してすぐ屋敷 を追い出す、というようなこともありますが、それはやはり重役が呼び出して申し渡すので、執 行するのは軽い者が執行するにしても、申し渡すのは重役からです。この今すぐ立退けというよ うなことでも、申し渡しを用いずにやることはないはずですが、薩藩だけそういうことをしてい たのか。それに「|屋敷払《やしきぱらい》」という言葉は、どういう言葉かわからない。  その問答の末に、八郎太の言葉として、「四ツ本、汝の支配を受ける八郎太でなくなつてをる ぞ」ということがある。一体横目の支配などを受ける者はないはずだ。横目は目付に従属してい るもので、誰をも支配するものではない。のみならず、それに続いて「町奉行同道にて参れ」と いうことがある。町奉行からじかに、御長屋を立ち退けということを達しろ、とでもいうことな んでしょうか〕しかもこれは三田の薩摩屋敷の話でありますから、薩州の領地の方には、町奉行 も郡代もありましょうが、江戸の三田にある薩州邸に、町奉行のある気遣いがたい。これはどこ の町奉行を連れて来るのか。どこの町奉行にしても、町奉行は町方を支配するもので、士に関係 のあるものではない。何のことをいっているのか、さっぱりわかりません。  二六〇頁になって、「中間|対手《あひて》の小さい、おでんと、燗酒の出店が、邸の正面へ、夕方時から 出て店を張つてゐた。車を中心に柱を立てゝ、土塀から、板廂を広く突出し、雨だけは凌げた」 と書いてある。おでん燗酒の店などが、この時分車につけて引いて歩くことがあったと思ってい るのは、御愛敬だ。この時分は屋台店と称するもので、車のついたのはない。江戸の末の方に、 明治が顔を出しているありさまだ。  二六五頁に庄吉が、八郎太夫婦のことを「旦那様、奥様」と言っている。今日は誰の女房でも、 人の嚊でさえあれば奥様ですが、江戸時代にはそういうものじゃない。仙波などで申せば、「旦 那様、御新造様」でなければならない。江戸時代には、何といっても階級が厳しかったのに、こ の作者は、その階級に対する思想がまるでない。階級思想を離れては、武家の話は出来ないのに、 そいつを知らない。それからその階級には、各階級並に用いられる言葉がきまっている。称呼も きまっている。「旦那様、奥様」という唯一の例は、八丁堀の与力だけで、「旦那様、御新造様」 が一般の武家の称呼である、一方が奥様なら、その相手は殿様でなければならない。わずかこれ だけのことも知らたいのは、気の毒千万な話だ。  二七七頁になると、「名越左源太は、細手の|髣《もとどり》、|一寸《ちよつと》、当世旗本風と云つたやうな所があつた が」云々ということが書いてある。一体旗本風という、その旗本とはどんなものなのであるか。 また旗本はどんな風俗をしておったか。そんなことを作者は知っておるか。薩摩の士ばかりでは ない、九州大名の家来などは、江戸の旗本のような風俗をしているものではない。  二七八頁に、その名越の言葉として、「御部屋様の御懐妊-近々に、目出度い事があらうが」 云々ということがある。これは斉彬の妾のことをいうのかと思われるが、妾のことを薩州では 「御部屋様」といったろうか。これは考えものだと思う。お妾のことをむやみに、「御部屋様、御 部屋様」と民間ではいっておりますが、柳営にしても、「御部屋様」ということは少い。諸大名 ではいいません。「もし、御出生が、世子ならば、その御世子を飽くまで守護して」ということ も言っているが、「世子」というのは、大名の相続人のことだから、ここでは「御男子」という べきであろう。そのすぐあとに「叉、それとも.女か-或は、男女の如何に係らず」という ことがあるが、急にゾンザイになる。こうは決して言うはずがない。  二八二頁から二八三頁のところ、これは名越等が目黒の茶屋に集って相談することになってい るのですが、その中に「お由羅方の毒手を監視のため、典医、近侍、勝手方、雇女を見張る役が 要る」云々と書いてある。お由羅のことを「お由羅」と皆が呼んでいたかというと、当時の薩邸    かみどお                                              つたじるし では、上通りの御方々は、皆御名を呼ばない。お由羅のごときは「蔦印」といっていたので、そ れに敬称を加えて、「蔦印様」などといっていた。この「何印」ということについては、薩摩ば かりではありません。紀州家などでも、近く頼倫侯が「松印」というわけであって、ほかから電 話をかけられる時分に、御自分で「松印」と言ってかけられる。奥方も「何印」ということにな っているから、「このことを何印へ」というふうに言われた》.うです。お由羅が「蔦印」レ.いっ ておられたことは、|塙忠齠《はなわただつぐ》君のお連合が、若い時に薩州の奥向に勤めておられたので、そういう 話を聞いています。「典医、近侍」はまだいいとしても、「勝手方」というのはどういうものと思 っているか。勝手方というのは会計方のことで、家老にも勝手方があるし、郡代にも勝手方があ る。その勝手方を監視して、この場合どうするつもりだろう。これは勝手というのを、台所の意 味に解する無知から生じた間違いではたいか。それから「雇女」-薩摩の奥向には、雇女なん ていうものがいたのでしょうか。大名屋敷で雇女なんていう名称は聞いたこともない。  二八四頁のところに、目黒の茶屋の女が、仙波の来たのに対して、「お越しなされませ」と言 っている。そんな言葉遣いの女が、どこの茶屋にありましたろう。二九一頁にもまた茶屋の女中 が、「御召しで、御座りますか」と言っている。そんな言葉を遣ったものでしょうか。いい加減 なことを書くにもほどがある。その続きに、女中の突いた手を、小太郎の手にくっつけて、「何 うぢや、いくらくれる?」と益満が戯れたことが書いてある。これほどな穢い戯れは、すべきも のであるまい。  二九三頁になると「どうれ、雨の夜、でも踊るか」と言って、益満が裾を端折った、といって いる。「雨の夜」という踊りが出来たのは、いつからだと思っているのか。  三〇七頁となって、碇山将曹のところへ、例の四ツ本が、目黒で会合した名越以下の人名を報 告することを書いている。報告を受けた碇山は、四ツ本に対して、自分達に反抗するところの者 どもが、これだけの人数なら、別段恐ろしいこともたいが、国許の連中と通謀させてはうるさい から、それを取り締って、「時と場合で、斬り捨てゝもよい。と申しても、貴公は弱いなう」と 言っている。四ツ本はそれを聞いて「恐れ入ります」と言っているが、家老が軽い横目などに対 して、「貴公」などという気遣いはない。けれどもまた軽輩だからといって、強いの弱いのとい う言葉をもって、殊更に孱めるような言語を用いるものでもない。  そんな応対をしているところへ、次の間に荒い足音がして、取次が「伊集院様-」と言い終 るか、終らないうちに、襖を開けて、伊集院|平《たいら》が入って来た、と書いてある。しかもその伊集院 が「やあ・寒くなつて」と言って座についた、とある。これは家老が家老のところヘ行くので ありますけれども、荒い足音がして取次が来る、というように無作法なものではない。その挨拶 も「やあー寒くなつて」というようなものでもない。「四ツ本ならよからうが、碇氏」1こ の「碇氏」も変な言葉だ。何故碇山を半分にしていうのだろう。まずこの辺のところは、書生さ んが下宿屋へ友達を訪問したようにみえる。いくら安手なものとみても、二人とも薩州侯の家老 であったら、もうちっと重みがあってもいいだろうと思う。  その反抗する者どもの鎮圧方に対して、碇山が指図をしているところに、藩中の者を使っては 面倒だから、「浪人を、十人余り集めて」云々ということがある。これが文久以後であったなら ば、江戸に大勢浪人どもが入り込んでいましたから、そんな注文も出来たかもしれないが、この 時分ではどんなものだろうか。続いて碇山が|欠伸《あくぴ》をしたがら、「ないくづくし」を言う。「商魂 士才で、如才が無い、薩摩の殿様お金が無い、か」ーいかに成上りであっても、大藩の家老で ある碇山が、欠伸をしながら、「ないくづくし」を喋るなどは、いかにも下劣なもので、お話 にならない。ましてや「薩摩の殿様お金がたい」たんていう言葉を、家老として口にするたどは、 何たることであろう。  三一二頁のところで、碇山が笑いながら鈴の紐を引く。遠くで、微かに、鈴が鳴ると、すぐ女 の声で「召しましたか」という。それから酒を持ち出させることになって、碇山の愛妾のお高と いうのが出て来るのですが、家老の屋敷で、鈴を引いて奥の者を呼ぶなんていうことをするかし たいか。これはきっと奥向にある御鈴廊下の話を聞き違えて、家老屋敷に持って来たんでしょう。 奥と表の境の厳格なことは、いずれの武家屋敷も同じことですが、碇山の住居などは、鈴を引く ほど大きな屋敷ではないはずだ。今伊集院平が来ているところへ、妾を呼び出すなんていうのも、 随分おかしな話だ。  ここへ入って来たお高という愛妾のなりが、また不思議なもので、「|甚三紅《じんさべに》の総絞りの着物」 と書いてある。これは「ジンザモミ」の誤りだろうと思うが、甚三紅というのは安いもので、|本 紅《ほんもみ》の代用品たのです。甚三紅に絞物なんぞはない。これは是非本紅でなければならないところだ。 それとも本当に「甚三紅の総絞り」というものがありましたろうか。「お高は、|煉沈香《ねりぢんかう》の匂を立 てゝ、坐りつゝ」とも書いてあるが、煉沈香なんていうのが、果してあったのでしょうか。  三二二頁に、益満が仙波の娘の深雪に、短刀を渡して言い聞かしている。「小藤次が惚れてを るのを幸として、お由羅の許へ、奉公に出るといふことーもし、この話が成就したたら、これ を、父と思つて肌身を離すな。奥女中は、片輪者の集まり故、いぢめることもあらうし、叱るこ ともあらうが」云々というのですが、若い女に対して「惚れてをる」なんていうことを、澤りけ もなく言うのは、無躾きわまる。「奥女中は、片輪者の集まり」なんていうのも、当時の人の考 えぬことで、誰が当時そういうふうに考えていたか、問うてみたい。  三二七頁に「里戻りのお由羅」と書いてある。宿ヘ下るといいそうなものだが、薩摩じゃそう いう場合に「里戻り」と言わせたか。お由羅がここにいわゆる「里戻り」、すなわち親の大工の 家に帰って来た。「町を警固の若い衆が、群集を、軒下へ押つけ、通行人を、せき立てゝ、手を 振つたり、叫んだり、走つたりしてゐた」と書いてあるが、その町から大名の奥ヘ上がっている 人があって、それが帰って来たにしたところで、町内の若い衆が警固に出ることなんぞはない。 町内の若い衆が警固に出るのは、お祭りの時の話だ。  小藤次のうちでは、お由羅が帰って来るというので、「幕を引き廻して、板の間に、金屏風を、 軒下の左右には、家の者、町内の顔利きが、提燈を股にして、ずらりと、居流れてゐた」とある が、一体何と間違えたのか、凄じいことを書いたもんだ。そのあとにお由羅の行列が書いてある。 「真先に、士分一人、挾箱一人、続いて侍女二人、すぐ|駕《かゴ》になつて、駕脇に、四人の女、後ろに |胡床《こしやう》、草履取り、小者、広敷番、侍女数人ーと、つ父いてきた」というんだが、何からみて、 こんなことを書いたものか。まして胡床などを持って歩くなんて、とてつもない話だ。よくもこ うまでいい加減ぶしのことが書けたもんだ。  三三一頁になると、益満が|掏摸《すり》の庄吉に対して、「手前は益休と申して、ぐうたら侍」と言っ て挨拶している。いくら益満が乱暴狼藉な人であったにしても、こんた体裁で、面会の挨拶を、 掏摸に対してするだろうか。自分の名を変にもじって、「益休」ということたども、呆れ返った 話だと思う。  三三四頁に、益満が深雪に対して、「|操位《みさをぐらゐ》ー」と言った、と書いてある。前にもこのことは 言ったんだけれども、いかにも蓮葉な、武士らしくないことを、しばしば言わしている。深雪が 薩摩の奥へ御奉公に出るということ、それもお由羅付の女中になりたいということで、その間に 小藤次が何か斡旋するようにたっている。そこで小藤次のいう言葉に、「とにかく奥役に聞いて、 奉公に上れるか、上れんか」とあるのですが、「奥役」とはどういう役向のことをいうのか。奥 役たんていう変な役は、諸大名にはあるまいと思うが、それとも薩摩にはそういう役があったも のか。それに大体今御暇になって、薩州の藩邸を出たばかりの仙波の娘が、すぐ奥向の奉公をす るなんていうことが、出来た話じゃない。  三五三頁に、大衆文芸一流のチャンバラがある。「一木は、つどけざまに叫ぶと、|刀尖《きつさき》で、地 をたゝきつけるやうに斬り刻むやうに、両手で、烈しく振つて、『えゝいつ』山の空気を引裂い て、忽ち大上段に、振りかざすと、身体ぐるみ、奈良崎へ、躍りかゝつた」というのですが、刀 を抜いて、その刀尖で、地をたたきつけるように、あるいは斬り刻むように、本当にやりました ならば、その刀はじきに役に立たなくなってしまう。これはそこらのヘポ剣術、俗に按摩剣術と いうやつ、それも|竹刀《しない》の気分で、真剣の気分はちっとも出ていない。大上段に振りかざす、なん ていいますけれども、その道の人に聞いてみると、なかなか真剣勝負に大上段なんていうことは ないそうです。ここに出ている太刀打の話は、講釈師でも呆れるだろうと思う。殊に「一木の打 ち込んだ刀が、びーんと腕へ響いた」とある。刀がびーんと響くなんていうことは、一体どうい う刀なんだか、実に珍しい刀だといわなければならない。「力任せに、つどけざまに大太刀を打 ち込んで来た」とか、「頭上の所で受けてゐる奈良崎の刀をつどけざまに撲つた」とかいうよう なことは、竹刀でぽかぽかやっている、少しも真剣味のない立合においては、見ることも出来る かもしれないが、こういう調子で真剣の勝負を写そうとすることは、ほとんどものにたらぬよう に思います。  こんなことを数えて行けば、まだまだ何程でも出てくる。が、もう厭になった。いかにもよく ものを知らない作者であって、臆面なしといおうか、無法といおうか、とんでもないものを書い てゆくもんだ、というだけの話である。殊に何者の子供で、いかなる経歴の人か知らないけれど も、一体の調子がいかにも下品で、大名は勿論、武士の様子などの書ける人間でないことは、今 までいったところで十分わかると思います。 白井喬二の『富士に立つ影』 上  今度は白井喬二さんの『富士に立っ影』、これを少し読んでみましたが、これほどの難品は、 今までにありません。いかにも読むのが大儀で、「大衆文芸評判記」を始めたのを、すこぶる後 悔したありさまであります。しかしそういっても、この小説がたいそう多くの読者を持ったとい うことが事実だとすれば、呆れ返ったものの方が変なのかもしれません。私としては、この中に 書いてあることが、錦絵表紙の草双紙にあること以上に、不思議なものであって、たしかにこう いう読物として、五六十年も逆転した感じがある。そうしてまた、よくもよくもこれほどトンチ ンカンた、ばかげたことが書けたものだと思って感心する。これが現代に沢山の読者を持ったと いうことも、そうたると呆れ返らたいわけにはゆかない。私はこの縮刷本の巻頭に入っている、 著者の肖像を眺めて、それほど年を取った人とも思われないのに、どうしてこんなものが書ける ほど|耄《ぽ》けたものかと思って、それが不思議にたえません。趣向は、だんだん読んでゆくうちにわ かってきますから、一語一語のわからないことを、例の通り拾ってゆくことに致します。  まず三頁-この小説としては最初の頁に、|愛鷹《あしたか》山中の|蔦成権現《つたなりごんげん》の社に納めてあったという 「武運額」というものが出てくる。武運額というのはどんな額であるか、私は見たことがない。 これが第一に不思議に思ったことです。  続いて四頁にくると、その蔦成権現の坂を、町人風の男が上って来る。そこに「両手に余るほ どの大荷物を背負ひ、重身を引きずりく山登りする様子はまつたく不思議であつた」と書いて ありますが、両手に余るほどの大荷物を背負うというのはおかしい。どういうことを意味するん だか、これはわからない。「不思議といへば、この背負ひ込んだ|観音箪笥《くわんおんだんす》ほどの細長い大荷物」 ともあるが、観音箪笥というのはどういうものか、私は知らない。「ずつと昔は鹿猟の時に鹿人 形を使つたさうだが」とも書いてある。この「鹿人形」も従来聞いたことがない。  ここに登場した町人というのは、江戸の美濃屋|何某《なにがし》という花火屋であって、この山中まで花火 の試験に来たのだ、ということになっている。「その当時花火試しは人里一里外水隔てのおきて だつたから」云々と書いてありますが、江戸市中では、花火の試験どころじゃない、揚げること さえ許されなかった、ということは法令に書いてあるけれども、「人里一里外水隔てのおきて」 なんていう規定は何にあるのか。見たことも聞いたこともない。その法令がどこにあるか、とい うことを知らないばかりでなく、江戸の花火屋が相模まで出張って、愛鷹山中へ来て、花火の試 験をする、ということは受け取れない。そこまで行かないだって、花火の試験をする必要があれ ば、いくらでも出来るはずだ。一体花火を揚げるのは、|打揚《うちあげ》と|仕掛《しかけ》と二通りあるが、当時町方で 栫える花火屋の花火なら、仕掛が主であって、規模の小さいものでありますから、江戸の市街を 離れれば、いくらでも試験が出来るのに、何だってこんな愛鷹山まで出張って来たか。何のため に五日も七日も旅をして試験するような遠道を選んだのか、何ともわけがわからない。  七頁にその花火を試験することが書いてある。「両手両足を|分銅張《ふんどうぱ》り、ジツと目をすゑて天空 を見つめてゐたが、空の煙が|勘所《かんどころ》を終つたものと見え」云々とあるのですが、「分銅張り」とい うのはどんなことをするのだか、随分奇体な言葉を使ってある。「勘所」という言葉も、遣いど ころが変だ。ここで試みた花火は、「後に黒墨投げの|昼業花火《ひるわざはなぴ》といふものとほ父大同小異であつ た」と書いてあるが、こういう花火はほとんど聞いたことがない。「昼業花火」なんていう言葉 は、日本語にはないはずだ。  一〇頁になると、ここへまた女が登場する。これを形容して、「裾短の|旅掻取《たぴかいどり》を着た一人の女」 と書いてあるが、「旅掻取」というのはどんなものか、かつて見たことも聞いたこともない。「旅 笠でもかなぐりすてたものか」ともありますが、「旅笠」というものが別にあったかどうか、そ んなものがあるはずはたい。まだ不思議なのは、「|黒枝《くろえ》の|息杖《いきづゑ》を狂気のやうに荒突きしたがら」 ということがある。「息杖」というのは駕籠舁の杖のことをいうので、そのほかには私は知らた い。何のために上って来る女か知らないが、杖はついておったにしても、息杖をつくはずはない。 まして「黒枝」というのは何のことかわからない。その女が人のけはいがしたのにふり返ったこ とを、「|大童《おほわらは》に振返つて見て」と書いてあるが、この大童というのはどういう意味でしょう。ま るで日本語がわからない男とみえる。  このほか言葉の変ったのはなかなかある。一一頁に「思はず顔|蒼白《あをざめ》てたじろんだが」と書いて あるが、「たじろんだ」なんていう言葉があるか、ないか。「女はがたがたと頭を振つて」(一二 頁)なんぞも、人間の頭じゃない。どうしても人形だ。  この話というものは、沼津の城主水野出羽守|忠成《ただあきら》が、幕府の命を受けて、新しい城を富士の麓 に取り立てる、それについての葛藤から筆を起したものでありますが、ここには「熊木伯典とい ふ城師」(一八頁)と書いてある。山師・川師ということは聞いているが、城師というのは聞いた ことがたい。それを説明した言葉に、「城築きでは腕がある」とあるから、軍学の先生のことら しいのですが、それはこの作者の新熟語で、従来は用いられておりません。  この新しい城というのは、二一頁に説明がしてある。文化二年に、富士の裾野尻に大きな調練 城を建てる。それは幕命であったらしい模様である。「調練城」というのは「ッマリ今でいふ練 兵場」だというのですが、そういうものは従来日本にあったことがない。幕命があったというの も、無論ないことですが、それのみならず、「調練城」なんていうものは、いつの世にもあった ためしがない。この城は、幕命によって、幕府の費用で、水野出羽守が取り立てることになった ので、「自腹の|苦《にが》る心配はない」と書いてある。これもよほどおもしろい言葉で、「自腹の苦る」 なんていうことは、日本語にはない。        奎  この調練城を取り立てるために、当時の日本で築城の大家として聞えている人の名を挙げて、 その中から相模小田原領内の|赤針流《せきしんりゆう》熊木伯典という講釈師の名前を合併したような先生と、江戸 城下に名高い|喜運川《きうがわ》兵部の高弟賛四流佐藤菊太郎、この両人の者を選んで、これに対論させて、 勝った方に築城を委ねる、という段取りになっている。そこに「これらは皆築城方面では当時|錚 錚《さうさう》たる大家で、流派こそ違へ天下にわたつてその手に成つた築城は、如何なる天変地異にもビク ともしなかつたといはれてゐるくらゐだ」と書いてあるが、「天下にわたつてその手に成つた築 城は」というのは、どういう意味の言葉か、私どもにはわからない。また文化二年なんていう時 分に、新しい城が出来たことはないのですから、その手に成ったも何もあったもんじゃない。  そこで熊木伯典と佐藤菊太郎の両人を、水野が呼んで議論させて、勝った方を築城の担任者に するということになって、四月二十五日を当日と定めた。-そういう話なんだが、ここに「築 城の講義をたゝかはせ」(二二頁)と書いてある。議論を闘わせるならわかるが、講義を闘わせる なんていうことがあったでしょうか。そうすると熊木伯典なるものは、水野の招きに応じて、愛 鷹山麓にある「山風舎」と称する「水野出羽隠宅に納まつてしまつた」と書いてある。が、大名 に隠宅なんていうものがあるはずはない。また沼津侯に「山風舎」なんて、そんなばかな名をつ けたところもない。これはどういう意味なのか。  熊木の方は早く来て山風舎に入っているのだけれど、一方江戸から来る佐藤菊太郎という軍学 者は、もう期日が今日明日に迫っているのに、容易に姿を現さない。どうしたのかというと、こ れは築城すべき場所を、ひそかに踏査していることになっている。熊木は十一二になる小僧の三 平というものを連れて、二箇月も前から山風舎に来ている。この三平という小僧が、なかなかす ばしこい、えらいやつで、あっちこっち見て歩いて、熊木の手伝いをしているらしい。それとひ そかに実地踏査をしている佐藤と出会ったことを、二三頁に書いて、佐藤が小柄を抜き取って、 小僧めがけて投げた。「エイとほうつたは命とりの本手でなく、棒投げ流の|足搦《あしがらみ》『裾封じ』また は『足止め』などゝいふ小柄使ひの得意の手だ」とある。小柄は手裹剣とはいいますけれども、 あれは打つというので、抛るとはいわない。「棒投げ流の足搦」なんていうことも、どういうこ とだかわからない。「裾封じ」という言葉も聞いたことはないが、今打った手裹剣が、歩いて行 く裾を縫って、動けなくすることででもありましょうか。何しろ珍しい言葉です。「小柄使ひ」 なんていうのも、従来聞いたことがありません。  手裹剣を打たれた小僧は、着物の裾先を前後射抜かれたけれども、裾をすっかり縫われたまま で、二本足を揃えて、一本足で逃げて行った。そこに「クルクルツと棒立ちの絞り上げ」と書い てあるが、一体何のことだか、とてもわからない。今日の大衆女芸の読者というものは、えらい 読書力があって、こういうむずかしい言葉でもずんずんわかって、読んでおもしろく思うとすれ ば、実に驚き入るのほかはない。  二九頁になると、例の山風舎という「五万石の隠宅」の話にたる。その模様を書いた中に、 「士「原焼出の青瓦屋根に|高床《たかゆか》の仏縁」とありますが、青屋根瓦のどんなのが吉原から出たもので すか。まして「高床の仏縁」とは何のことでしょう。こういう建築が日本にあったことは、誰も 知るまい。巻頭におめでたい肖像を掲げている著者先生以外、何人も知らないでしょう。西洋建 築にはたおあるまいから、世界にないものに相違たい。  三〇頁に、山風舎の中を書いたところで、「三平|後見襖《うしろみふすま》をトンとしめ切る」とあるが、「後見 襖」とはどんな襖なんだろう。ここヘ出て来る女は、「年頃十八九と思はれる美少女、江戸風に 高帯をキチソと締め」というんですが、江戸風の高帯というのはどんなものでしょう。この女は 江戸から来た軍学者の佐藤菊太郎の師匠で、喜運川兵部という人の娘です。それが何か秘伝の本 を持っていて、今まで渡すべきはずなのに、渡さずにあった。親譲りのこの本を伝えたいという ので、この娘がそれを持って、藤という女を召し連れて、あとから追っかけて来た。そうして愛 鷹山へ来た時に、最初に出た花火師が試験に揚げた花火の音に驚いて、谷へ落ちてしまった。後 の方で見ると、なかなか女丈夫らしいこの女が、花火の音で谷へころがり落ちるのもおかしいと 思うけれども、話はそういうことにたっている。熊木の使っている三平というやつが、ばかにす ばしこいやつで、ここへ連れ込んだらしい。そのことは本文にははっきり書いてたいけれども、 ここに娘がいるのをみれば、三平が連れて来たのでしょう。十一二の三平が、十八九になる娘を、 担いででも山坂を越えて連れ込んだものか、その辺はわかりませんが、そこが著者のいわゆる 「怪童」たるゆえんかもしれない。この三平という小僧や、熊木伯典という大昔の歌舞伎ヘ出る 悪役みたいに書いてある男や、まだあとから出て来る男のことなどは、西洋種の|嵌物《はめもの》であること は、ほぽ想像がつく。嵌物も随分あって、円朝のやったものなどは、大分具合よく聞けるけれど も、この作者などのは、半煮えだから、日本だか西洋だか、わけがわからない。  娘は今朝になってやっと気がついたが、昨夜以来いろいろ御介抱に預ったことと存じます、と いって礼を述べる。ここでおもしろいのは、これが江戸で名高い軍学者の娘だというのですが、 「つきましては御主人様、見れば立派な|御館《おやかた》内、あたた様は一体どなた様でゐらつしやいますか、 若しや水野の殿様では?」と言って聞いている。軍学者の娘ともいわれるものが、武家珍しい百 姓の娘なら格別、そこに坐っている人が、大名かどうか、わからないで尋ねるはずはない。これ が大名なら、いかにしても何者の娘だかわからない女に、目通りを許すはずがないから、それだ けでもわかるはずだ。|暢気《のんき》な著者は平気でそういうめちゃめちゃを書いている。  伯典が「イヤ違ふ」と言うと、「ま、それは失礼申しました」と言っている。何事でしょう。 あまりばかばかしくって、ものが言われない。そうして今度は「わしは熊木伯典と申す築城師ぢ や」と名乗っている。城師とか、築城師とかいう言葉があったと思っているらしいが、これはあ りません。今日なら「築城家」というところだが、もしこの時分こういうものがあったとすれば、 「軍学者」です。女の方も「では|貴郎《あなた》様の相手に廻る今一人の築城家も、やつばりこゝヘ泊つて をるのでございますか」と言って聞いている。やはり「築城家」という言葉を遣っている。「公 儀選定の|宿泊《とまり》場所は一体どこたのでございます」とも言っているが、「公儀」は幕府のことをい うのだから、この場合、幕府が宿を選定して与えるはずはない。この軍学者は水野が呼んだので すから、幕府がそんな者に宿の世話をしてくれるわけはない。  それからこの二人の問答を挙げていえば、とんでもない言葉ばかりですが、話してわかりそう なのを|択《よ》っていいますと、娘が伯典に向って、「さきほど複野めぐりの旅の女と申しましたがあ れは偽り、本当は何を隠しませう、明日の築城問答拝見のため江戸よりわざく参りました喜運 川兵部の娘お染と申します」と言っている。沼津侯が催す築城の評定を、いかに親の弟子が出席 するのであっても、それを拝見するの、見物するのというわけにゆくもんじゃない。「お染と申 します」も痛みいった。自分の名におの字をつけていうたわけがあったもんじゃない。  熊木伯典の言葉に、「喜運川先生にはわしも若い頃ほひ江戸表西御丸城内において賛四流築城 術の御前講義を聞いたことがある」というのがある。西丸といえば、文化二年には|家慶《いえよし》世子が大 納言でおられたのですが、これは「若い頃ほひ」とあるから、いつのことだかわからない。伯典 は「年の頃はもう四十を一つ二つ越えたか、それとももうズツととつて五十六七にもなるか、ま たはまだ三十そこくか、見てゐる内にいろくに変る」というのですから、猶更わかるはずが ない。けれども喜運川兵部という人がどういう身分であっても、軍学者であれば、すぐ将軍の前 へ呼んで、講釈が出来るものと思っているらしいが、実は御前講義たんていうものがあるわけの ものじゃないのです。いずれ「軍談言上」とか何とかいう言葉を用いるので、御前講義とはいわ ない。  最も呆れ返った言葉は、そのつづき(三五頁)に、こういうことがある。「その遺鉢を受け次い だとて所詮|画餠《ぐわべい》を|夢《ゆめみ》るも同然だ」ー「画餅」というのはどういうことだか知っていたら、「夢 る」たんていうはずがたい。言語も文字も知らたい著者だ。江戸時代のことを知らたいばかりじ ゃない、日本語がわかっていない。  お染は熊木のところでこんな問答をして、暇を告げて出る時に、「後手に高帯ほどいた娘お染、 中からスッと抜きとつたのは紙包みの薄冊子」(三六頁)と書いてある。これが大事な軍学の秘本 で、それを帯の間に入れていたものとみえる。それを今ここを出る時になって、取り出して見た ことになっているのですが、相当教養のある娘が、人の前-しかもはじめて逢った人の前で、 帯を解くなんていう無躾な話があったものではない。たといどれだけ大切なものとしても、そこ で調べないだって、いくらも調べるところはある。わけのわからたいことを書くのが、この小説 の特色なのかもしれない。この秘本の名は、あとでもしばしば出てきますが、「|天坪栗花塁全《てんべいりっくわるいぜん》」 というので、実に不思議た本の名だ。  それから秘本も無事であったというので、明日は評定があるんだから、早く行くがいい。その 本を佐藤に手渡したら帰って来い、と伯典が言った。お染はこの言葉を不思議がって、帰って来 るとはどういうことか、と聞くと、お前はもう伯典から離れられないようになっている、それは 自分の左の腕を見れば謎がわかる、と言う。それでお染が自分の腕を見ると、雪をあざむく二の 腕に、思いもよらず、青黒々と|刺青《ほりもの》がしてある。それが「|帰伯典《はくてんにかへる》」という三字だ。この刺青の 説明が書いてあるが、実に奇たものです。「これ無針の早入墨、藍竜の毒汁に漢土を煉つてこし らへたのがその塗料、皮下五分底まで浸み通つて針打ちよりも深いといはるゝのが早入墨の特長 だ」ーオランダ伝受とでもいったらまだよかりそうなものに、これでは『|白縫譚《しらぬいものがたり》』とか『|自 雷也豪傑譚《じらいやごうけっものがたり》』とかいうようなものに出て来そうな話で、どうしても活字に刷った本の話とは思 われない。  それからここに、お染が佐藤のあとを追っかけて来た理由も書いてあります。喜運川兵部の日 記の中に、もし自分の身に急変があった場合には、「六世」ー兵部が五代になっているーは 佐藤菊太郎に許さなければならぬ、ということが書いてあったので、この女が「天坪栗花塁全」 を持って追っかけて来た。ところが過って谷底へ落ちて、一晩熊木伯典のいる山風舎に連れて来 られて、腕へ刺青をされてしまった。もうそういう身体になってみれば、秘本を渡す御使役だけ で、あとはもう用がない、江戸へも帰れない、といってたいそう嘆いている。このあとで、召し 連れて来たお藤という女と邂逅した時に、お藤が、伯典の仕業はこの刺青だけか、といって聞い ている。処女でたくなったという意味があるのかと思うが、それはここには書いてない。何だか 前後の様子でみると、よほどしっかりした女らしいお染が、花火の音に驚いて谷へ落ちたり、知 らないうちに腕へ刺青をされたりしているのをみると、この女は馬鹿なようにもみえる。これが 馬鹿でないように書いてあるのだから、結局わけがわからない。  山風舎を出て来たお染は、お藤という女を捜すのですが、昨日落ちた辺にいやしないかという ので、「猿谷」というところヘやって来た。ここにも大分変なことが書いてある。「草中に亀の甲 羅を干す如くずんぐりうづくまつた|掻取著《かいどりぎ》」1旅をするのに掻取を着ているのが大分おかしい んですが、そのお藤という女は、何のためにそこに蹕っていたのか、こいつもわからない。  それからお藤は、お染をいたわって、愛鷹北麓の宿へ連れて来て、土地の松斎という医者を呼 んで、刺青を消して貰う算段になる。ところで松斎が刺青を見たが、これはたかなか容易なこと では取れない、治療の方法がたいという。「藍竜毒は肉の中に袋留りとなりをり」(六一頁)とあ るんですが、これは一体どんなことか。外科手術を施すにしても、「十年以上も経ちたる後でな くば、その効なき由漢法の書にて調べた」と言っている。蘭法の書なら断らなければならないが、 そうでないのは皆漢法だ。だからここで特に「漢法の書にて」と断っているのは、すこぶる愛敬 のある言葉だと思います。 下  いよいよ両派の軍学者が立会で、新城についての「築城問答」の当日になって、「山風舎の内 外準備に忙しく、三宝走れば|床几《しやうぎ》後を追ふ」と書いてある。この形容の言葉は何のことか、さっ ばりわからない。|仰雪門《ぎようせつもん》という門の中には「狩帽かぶつた番卒」云々とあるけれども、この「狩 帽」というのも、どんたものなんでしょう、私は知りません。  議論の始まる時間近くなってくると、「愛鷹山麓の朝霧を破つてッイと現はれ出でたのは『|丸 茗荷《まるめうが》』裾流しの旗印」というのですが、「裾流しの旗印」とはどんなものでしょう。そんなもの はしらない。水野の紋ならば|立沢瀉《たちおもだか》のはずです。「丸著荷」たんていう紋は、聞いたことがない が、それよりももっと珍しいのは、「裾流しの旗印」だ。「これ水野出羽守が狩猟に用ひたるいは ゆる|字口旗《じぐちはた》と称する|仮差物《かりさしもの》で、丸著荷を矢運の著荷にきかせたから即ち地口旗だ」と説明してあ りますけれども、「仮差物」なんていうものはありゃしない。「地口旗」というのは、|洒落《しやれ》の旗で しょうが、そんなばかなものを、大名が立てて歩くとも思われないし  水野出羽守のことを「この人は大名の内でも本場仕込みの|狩馬《かりうま》の名人だから」……本場だの、 場違いだのと産物の吟味のようなことをいう、そうして「狩馬」とは一体どんなことをいうのか。 「今頃の到着から察すると、恐らく沼津より狩好みの|夜馬《ようま》でやつて来たものか」とありますが、 大名が自分の領内で狩をすることがよしあったとしても、こういう山風舎のような控屋敷とでも いうようなところへ来るにしても、夜通し馬で来るなんていうことはない。「その総勢百卅余人、 わざと非公式の狩旗を用ひたのは利口だが、お供の数はあくまで本格の大名行列で練り込んだ」 と書いてあるけれども、本格の大名行列とすれば、五万石で百三十余人なんていうことはない。 もっと多いはずです。「非公式の狩旗」なんていうのも何のことか。よく臆面もなく、イイ加減 なことを書いたものだ。  六六頁になって、時間がいよいよ切迫した時に、佐藤菊太郎が出て来る。そのなりを見ると、 よっぽど不思議だ。「喜運川家門三ツ柏の紋服紋羽織、袴は閲礼外さぬ本裾十二折の深襞」と書 いてある。こういう晴の場合に、佐藤はどういうものか知らないが、上下姿でありそうたものだ のに、羽織袴で出て来る。「紋羽織」などというのは、聞いたことがない。「喜運川」というのは 自分の師匠の名字で、軍学はその弟子で、家学を伝える人でしょうが、それにしても、師匠の紋 を弟子がつけるのはあるべきことではない。「閲礼外さぬ本裾十二折の深襞」というのはどんな ものか、そんな袴がありましょうか。ものを知らないにもほどがあったものだと思います。  七一頁になると、山風舎の門前へ駆けつけて来たお藤が、例の「天坪栗花塁全」という秘本を 渡す。この本が秘本だけにまた不思議なもので、「鼠地漢紙つ父りの古表紙」と書いてある。こ れはどういうことなんでしょう。そんた体裁の本というものが、一体どこの国にあるのか。ばか も休み休み書いておくがいい。何でも変なことさえ書けばいいと思っている。  お藤はこの本を渡して、「何でも喜運川様大旦那様がお書き残しのお書付中に」云々と言って、 口上を述べているが、喜運川兵部という人は、脳溢血か何かで急死したようなことが前に書いて ありました。「大旦那様」というのは、旦那様がある場合でなければいわない。しかるに喜運川 には相続者がないのだから、これはおかしい。前にお染の母親のことを「奥様」といっているが、 旦那様の連合たら奥様じゃない。これは実に度々繰り返して言った通り、「旦那様、奥様」はい けません。  七二頁のところに、この秘本に添えて短いお染の手紙がある。それがまた不思議なもので、 「秘本の上に蝶結びの裸丈、佐藤菊太郎急いで|蝶口《てふぐち》開いて見ると、江戸鳩園流草書の|優文字《やさもじ》もて」 とある。裸文もおもしろい。「蝶結び」はわかっていますが、「蝶口」とはどんなものでしょう。 「江戸鳩園流」という書法があるか。でたらめもまた甚しい。  それに続いて、佐藤の言葉として、「恩師喜運川先生御存命中つねに建白は一粒も|食《は》まずと仰 せられた」ということがある。この「建白は一粒も食まず」という言葉の解釈として、「|凡《すべ》て築 塁の積計を申し立つる時は、城主の米一粒も食玄ぬ先きに腹蔵なく申述ぶるが肝要」と言ってい ますが、そういう意味は、この言葉ではわからない。わからないことを喜運川先生が言っていた ことになる。  それからまたなかなか珍重なのは、まだ討論するには一刻近くあるからというので、仰雪門の 柱に|彜《もた》れて、この秘書を読んでしまったという話だ。そもそもこれは何たることでしょう。その 本を読むことについて、「この本は一天一地十二章に分れ、|簡言悟丈《かんげんごぶん》を以て書かれてあるから」 と書いてあるが、「簡言悟文」というのはどんなことか、他の本には決してたいことです。まだ ここに書いてあることは、読んだ人でなければわからない。私が概略を申し述べたんではわかり ますまいが、実は読んで御覧になっても、わかる人はあるまいと思う。  七六頁になると、山風舎の大玄関のところで、「正面の|彫鴨居《 りかもゐ》から桐太鼓が朱房の紐でぶら下 つてゐる」と書いてある。「彫鴨居」という鴨居は、聞いたことがたい。「桐太鼓」なんて、桐の 胴の太鼓も知らない。そんなものはあるはずがない。その次の行には、「桐胴赤皮の廊下太鼓」 としてありますが、「廊下太鼓」なんていうものも、聞いたこともなければ、お目にかかったこ ともない。  七八頁に「大玄関前の砂利畳の上に立はだかつて」と書いてあるが、これはどういうものか。 日本にはありそうもないものだと思う。それからまだここに、「元来築城家は古来大声三職の一 つといはれてゐるほどで、船目付、馬場師範などとゝもに殿中登城の際も人並はづれて声が大き い」云々とある。築城家は大きな声の人でたければならんというのですが、何から出てきたこと なのか、随分怪しげなことです。同じ頁に、熊木伯典が「玄関続きの|框廊下《かまちらうか》をスッと通つた」と ありますが、「框廊下」どいうのはどんなものでしょう。  佐藤菊太郎は山風舎の玄関へかかったが、誰も取次が出て来ない。そこへ熊木伯典が、例の框 廊下を通りかかって、自分が取り次いでやろう、ということになっている。その時の佐藤の口上 がおもしろい。「公儀御辺へよしなにお取次ぎ願ひたい」と言って頼んでいる。「公儀」というの は、前に申しましたように幕府のことで、この場合は沼津侯に呼ばれたんだから、何と間違った って「公儀」なんていうはずはない。  熊木が自分の名を名乗ると、いずれあとで御挨拶をするが、何卒御取次の者を呼んで貰いたい、 ということを佐藤が請求する。ところが熊木は、そんな堅苦しいことを言わないでもいい、「問 答を致すとも同業のよしみはまた格別、それがし案内いたす故、御一しよに控間へ参らう」と言 って、案内することになっている。この山風舎というところは、沼津侯の控屋敷ー今日の言葉 でいえば別邸で、そこへ殿様が来ておられるのに、玄関に取次が出ていないで、熊木が案内する なんていうのは、随分不思議な話だ。「同業のよしみ」というのは、どっちも軍学者であること をいったんでしょう。これで思い出すのは、昔は新聞社同士が「同業」と書くことをしなかった。 それを明治三十年頃でもありましたか、何新聞だったか書き始めて、相当冷評を加えられたおぽ えがあります。いわんや昔の軍学者が、「同業」なんていうはずはない。それは明治の新聞杜で すら、同業と言わず、明治の末近くなって言い出したのをみてもわかるが、この著者の頭には、 その辺の消息が通じようはずはたい。今日の大衆文芸の作者同士だったら、あるいは同業という かもしれないが……。  沼津侯の控屋敷に、取次の士がいないというほど、安直なものであることは、いかにも不思議 でありますが、この七九頁に書いてあるのをみると、大名の屋敷を、作者がどう考えていたかわ かる。「玄関横の|次口《つぎぐち》を見ると今ならば下駄箱といふのか、この頃武家常用の竹編みの段台ヘズ ラリと並んでゐる白緒の乗馬草履、登山草鞋、今日立ち会ひ人数の豪勢を思はせて山風舎はじま つて以来の盛観」というのですが、表玄関の横手に下駄箱のようなものが置いてある。大名は|措《お》 いて旗本屋敷だってそんなことはない。あまりものを知らないので呆れ返るよりほかはたいが、 この調子でゆくから、山風舎という控屋敷に取次がいたいで、泊めていただいている人間が案内 して、控間へ連れて行く、というようた無造作なことにもなってゆけるはずです。  八○頁にたると、「両築城家控間にはいるとこゝで、介添へ無しの流名乗りといふことになつ た」と書いてある、「流名乗り」なんていうのは、そもそもどういうことか、想像もつかない。 けれども著者の説明にょると、「武家作法の内で平時『名乗』といふ言葉を用ひるのはこの築城 家だけで、この外単に名乗りといへば、戦場敵味方の藩明しをいつたものであるが」云々とある のですが、平時「名乗」という言葉を用いるのは、軍学者だけだという、これは平時でなくても、 いつでも別に儀式があることじゃない。|士同《さむらい》士が面会する時の挨拶はきまっているけれども、. 名乗なんていうものはありゃしない。「藩明し」なんていうことは、何に書いてあるのか、何で 見たか、誰に聞いたか。実に呆れ返った話で、ものが言われない。  この控屋敷にいたものは、二人だけだったので、「この時公儀役人の立ち会たしに両築城家を 面接させてしまつた事について、後日水野出羽守は将軍家より厳しい詰問を受けたといふこと だ」と書いてある。軍学者が出会った時には、誰か立ち会わなければならないようなことになっ ているが、そんなばかなことはたい。「公儀役人の立ち会なしに」というが、沼津侯が軍学者を 呼んだのでみれば、そこに幕府の役人ー公儀役人がおろうはずはない。この文章の通りに読ん では、どうしてもここはわからない。しばらく意味の方から推していったならば、水野の家来が 立ち会わずに、二人を面接させたのが|越度《おちど》だ、ということにでもなるんでしょうが、そんなこと で、将軍家から詰問されるの何のということは、あろうはずがない。二人が控室に入ってしまっ たので、「役人は問答時刻まで佐藤菊太郎来着の事実を知らなかつた」ともあるが、そんなばか な話は決してない。水野出羽守が催して、両人の立会をさせることになった以上は、相当な役人 が出張っているはずです。しかるに佐藤が来たかどうか知らないでいるなんて、そんな頓馬なこ とはありっこない。  八一頁にその「流名乗」なるものが書いてありますが、佐藤の名乗った言葉のうちに、「それ がしは江戸開城に殊勲名高き彼の太田道灌もその流れを汲んだと申す正法賛四流五代喜運川兵部 の直門佐藤菊太郎でござる」ということがある。太田道灌のことを、「江戸開城に殊勲名高き」 といっているけれども、道灌は、江戸城を開城したの、明け渡したのということはない。江戸開 城をしたのは、後にも先にも勝麟太郎先生だけで、そのほかに江戸城を開いた人はない。この著 者は「開城」という言葉も知らないとみえて、開店か何かと同じように、はじめて開いたという 意味に使っているらしい。開城といえば城をあけ渡すことだ。こんなきまりきったことさえ知ら ないで、軍学者の話を臆面もなく書いてのける度胸に至っては、全く敬服にたえない。 「開城」に似た言葉に、「開座」というのがある。これは八三頁で「今開座の招きが来るだらう と思ふから」と書いてあるのですが、ニの「開座」も何だか通用しない言葉でわかりません。の・ みたらず、すぐそれに続けて、「|角座《かくざ》を崩さずジツト待ち構へてゐる処へ」とある、一魚座」とい うのはどういうことなのか、ますますわからない。そこへ沼津侯の家来がやって来て、「拙者は 水野の家臣長坂洲蔵と申す者、本日はまことに御足労大儀至極で御座います」と言って挨拶をし た。こういう場合には、水野出羽守の家来には相違たいけれども、「水野の家臣」なんていうは ずはない。必ず「当家の家来」というべきところです。それに対して、佐藤は何というかと思う と、「や、水野御重臣長坂殿で御座つたか」と言っている。これも「水野」と呼び棄てるはずは たい。「御当家」といわなければならないところだ。著者はこういう場合の言葉を、少しも知っ ていない。  八四頁の佐藤の言葉に、「流名乗の後にてすぐ公儀奥へ御取次ぎを願つたまでの事」とある。 「公儀」は幕府のことですが、毎度のことですから、しばらく作者が閭違えて沼津侯のこととし て書いたものと考えても、「奥へ」というのはどういう意味でしょう。「奥」といえば大名の家庭 のことで、大名の家庭にお取次を願う、ということはあるはずがない。これは殿様の方へ知らせ て貰いたい、というつもりだったんでしょうが、言葉を知らぬのみならず、武家の|仕来《しきた》りや、き まりがわからないから、こんな妙なことになるのです。  八七頁で、佐藤菊太郎が設けの席に着いて、熊木伯典と向い合せになったところに、「その目 は無剣の青眼、眼底水のごとくすみ切つた中に」云々と書いてある。「無剣の青眼」というのは、 どんなことをいうのか。これはよほど私が上手に読んだつもりですが、その上手な読み方にする と、撃剣で「正眼の構」などという。ここでは竹刀も木刀も、何も持っていないが、正眼に構え たというんでしょう。が、それだとこの青い眼と書いたんではいけない。何しろこの著者は、 「西の海」とあるベきところを「北の海にサラリと打流す」と書く人だから、少々方角が違って いる。  八九頁になると、伯典の言葉として、「水野様丸著荷の狩紋打ちあるのを知らぬか」というこ とが出てきますが、「狩紋」というのはどういうものを指していうのか。このあとにも出てきま すが、私にはわかりません。この狩紋は「玄関太鼓」についているので、先刻出てきてわからな かった「廊下太鼓」と、どうやら同じものをいっている模様ですが、「玄関太鼓」・も変だ。そん なものはどこの大名にもない。何をまごついて、そんなばかなことを書くのか。  九一頁の熊木の言葉に、「悪からずお聞捨てくりやれ」というのがある。何のことかちっとも わからない。上手に読んで上げたくっても、読みようがない。こういう言葉を遣った日本人は、 古往今来ありますまい。「血を吐くやうに佐藤菊太郎|股立《ももだ》ちとつて口惜しがつたが」ということ も書いてあるが、駆け出す時や何かに、股立を取ることは知っているけれども、口惜しい時に股 立を取るというのは、どういうことか、全くわからない。  そのうちに例の「問答開座」の辰の刻五ツ半になって、「刻太鼓がドドンくと山風舎楼上の 一角から底力打つて鳴り響いて来た」と書いてある。時の太鼓は、どこの御城でも、御城にはあ るはずだけれども、こんな控屋敷にあるもんじゃない。  九二頁に「身恥しめらるゝとも学損はずばすなはち全し」という古語が出てくる。ヘんてこな 古語があったもんだ。どこからこんなものを捜してきたか。  九四頁に「この時の築城問答の座順は和漢の御前進講の古式にのつとつて」云々と書いてある が、そういう古式がどこに伝わって、どういう形があったか。「和漢」たんぞは、とてつもない。 その古式によると、二人の軍学者が一段高い座を構えて、かえって殿様の座席を低く栫えたよう に書いてある。この熊木と佐藤の身柄が、どんなものかわかりませんけれども、とにかく水野は 大名なんですから、いかたる場合にしても、水野の席を低く飾るはずはない。それに、高い|低《ザ》い をどうやって栫えるか。これでは壇を設けているようになっているが、林家が将軍に講釈する時 でも、壇なんかはない。和漢進講の古式というのは、どういうことか知らないけれども、こうい う壇などはあるはずがないのみならず、水野が招き寄せた軍学者だから、水野より身分が低いも のにきまっている。低いものが高い座を構えるなんていうことは、ありそうもないことも、考え てみなければならない。  同じ頁に、水野出羽守のことを「この人は参覲更代をうまくいひ逃れる筋合でもあつたものか、 他藩の大名よりか不思議と自領在住の年数が多かつた人で、五万石といふ取り高にくらべては大 名中でも先づ幸運に属する人」と書いてある。この水野忠成も、先代の忠友も、二人とも家斉将 軍の寵臣でありますが、沼津の城主になったのは忠友で、この人の時に築城したことがあり、築 城のために参覲交代を緩められたことがあった。これは恩典です。うまく言い遁れたわけではな い。そんなことは決してあることじゃない。つまり築城中、特に自分の領土におることを許され たので、それも先代の忠友の話なのが、ここでは忠成のことになっている。それとても別に不思 議というほどではない。わずか一両年のことだったとおぽえています。「参覲更代をうまくいひ 逃れる」なんていうことは決してない。これは幕府の法制を知らないから、こういうばかなこと を書くのです。  また「見たところ身体のこなしはどこまでも野人、五万石の野人も面白いが」云々と書いてあ る。水野は、忠友も忠成も、如才ない、うまく取り回す人であって、野人どころの話じゃない。 「それを見込んで空前絶後の調練城の工事を命じた幕府も隅におけたい。この辺の外様大名労力 消費策は日光東照宮建立の大企画と対照して、徳川三百年間を通じ、東西両貫の二大予定工事で あつた」とも書いてあるが、水野は外様じゃありません。譜代です。調練城なんていうことは嘘 の話ですが、ここに日光の東照宮建立を持ち出したのも、話が間違っている。日光の造営は、幕 府が自分の力でやったので、諸大名の力は借りていたい。そんなことは、この著者などの知った ことではないのだから、生意気なことは書かない方がいいと思う。  九五頁に、水野が入って来た時のことを書いて、「馬乗り癖がついてるので、ペタリと腰をお とし両膝はだけて坐つてしまつたのは、大名としても品格のたい形だ」といっている。そんな無 躾なことはないはずだ。また坐るということにしてもそうです。足を重ねた上に腰を下すものと のみ思っているんでしょう。坐るということさえわかっていない。  ここに高低の壇を拵えた言訳を書いている。「これは支那明代の太祖の頃の古礼を採用したの で、富士山下の水野の重臣中にもなかく古智に明るい者がゐることを思はせ」というんですが、 これはどうせないことなんだから、何を持ち出したってかまわない。けれども「古智」じゃある まい。「故実」といいたいところなんでしょうが、知らないのか、妙な字を使っている。  九六頁に、沼津侯の家来が「主君と二築城家との引き合せから事を運ぶのが順序だ」と書いて ある。まず普通のことにすると、こういう場合には、|御目見《おめみえ》を一遍済まさないうちは、殿様の前 へ出るものじゃない。それはこの軍学者の身分には拘らない。どんな身分であっても、必ず御目 見をしてからでなければ、君前へは出られないはずです。そうしておもしろいことには、「東座 熊木伯典殿、西座佐藤菊太郎殿、正面主座に御座あるはわが御領主にてございます」と言って、 殿様を紹介するようなことをやっている。仏像拝観の時の説明じゃあるまいし、こんたばかなこ とをいうはずがない。それはその前に御目見が済んでいるのが慣例である。武家の行儀を知らな いからで、殊に「御領主にてございます」なんて、そんた頓馬た言葉を用いる家来があるわけの もんじゃありません。  ここでまた熊木・佐藤の両人について、こういう説明をしている。「尤も両築城家は別に他藩 者といふほどではないが、まア早い話が当時の学者で、今なら差しづめ工学博士ともいふべき人 物だから粗略な取扱ひは出来ない」ー軍学者は他藩の者でないというたら、自藩の者だという ことになる。自藩の者なら家来である。けれども佐藤は江戸で名高い人だというし、熊木の方は 小田原領内にいると書いてある。小田原なら大久保家の家来か、さもなければ小田原にいる浪人 に相違ない。佐藤の方も幕府の家来ではないらしいから、これも浪人か、誰の家来かわからない。 他藩の者でないかは知らないけれども、自藩の者でもない。この「他藩者といふほどではない」 というのは、どういう人をいうのか、作者はこの二人をどんな分限と認めているのか。そんなお かしな人間があろうとも思われない。  九九頁になって、伯典が「東中壇の上で恭しく|平手突《ひらてつき》の拝礼をしてあいさつの言葉を切つた」 と書いてある。「平手突の拝礼」というのも、これまで出っくわしたことのないものだ。  同じ頁に、対論をはじめる前に、地図をひろげる。その地図が「|美濃質奉書《みのしつほうしよ》四十八枚つたぎ」 というのですが、「美濃質の奉書」たんていう紙があったんでしょうか、どうでしょう。この大 きい地図をひろげると、「一同思はず首を伸して井戸のぞきにのぞき込み、ガヤくざわめき立 つた」とありますが、その家来達が何程大勢いても、君侯の前でガヤガヤざわめくなんて、そん な無躾な藩士はどこにもあるまい。  それからいよいよ当日対論すべき原案が、厳重に封じてある。その袋を司会者である鳥越久我 仁郎という人が、「問答密状を開封いたします、しからば御免」と言っている。何もこんなとこ ろで「しからば御免」なんていうことはいらない。当然その場で封を切るベきもので、その役向 の者なら、そんな挨拶をする必要はない。ところが熊木は、その開封をとめた。「見ればその密 状は御領主の御朱印打つてある様子だが、そのまゝ内輪びらきにするにはあまりに畏い」という のですが、御朱印を打つということは聞いたことがない。おかしな言葉だ。「内輪びらき」なん ていうけれども、沼津侯以下大勢の人の前で開くんだから、公然開くことになる。熊木の説では、 御藩の方々とわれわれだけではいけない、今一人浄身の者を加えたらどうだ、という。「浄身の 者」とは何かというと、男ならば神に仕える者、あるいは「けがれなき山間に住まふ聖人隠士」 のことであるが、女ならば処女だ、ということを申し立てる。そうすると、それはもっともなこ とだ、というふうになってゆくのです。  領主の御朱印を打ったというのは何のことだか、私は聞いたことがないが、ここにも何も書い てないからわからない。この熊木が主張する浄身の者は、「この密議取交されたる後で人知れず 命を断たれるのが兵家の|秘律《おきて》だ」ということまで書いてあるけれども、これなども、|何《や》か西洋の 種を押し嵌めたものだとみえる。それがうまく当て嵌らないので、日本としてはどうしてもおか しい。殊にこれが文化二年の話で、江戸時代は丈明の恵みを受けることが少くはあったが、これ ほど頑冥ではなかったはずだ。  その浄身の者は誰にしたらよかろう、ということになって、また熊木のいう言葉に、「浄身の えらびも、神徒山住の者となるとその由緒家系の調べがなかく六ケ敷く、後にて権門の|連絡《つながり》を 発見いたさばまことに事面倒」(一○四頁)とある。「神徒」というのは神主でしょう。「山住」は どういうものか、知りません。「権門」というのは、時めいた、威張っているお役人様のことを いうのですが、そういうものにどう繋っているんでしょうか。作者は権門というものをどう考え ているか。神主や山住の人間と、当時幅利きの役人と、どういう繋りがあるというのか。かりに 何かの繋りがあるとしたら、むしろ知れやすい方のことで、「由緒家系の調べがなかく六ヶ敷 く」というのは、わけのわからん言葉としかみえない。  結局立会の浄身の者は、「裾野南村の世話役泰右衛門の娘のお雪」というものにきまる。それ からそこへ迎えに行くところで、「駕籠横には棒人の外に水野の家来が一人」(一○七頁)と書い てある。「棒人」というのはどんなものか。駕籠を|舁《か》いて行くものなら、「|陸尺《ろくしやく》」といいそうなも のだが、「棒人」なんていう言葉は、見たことも聞いたこともない。それに一体領主の水野が、そ ういう場合に村内の百姓のところなどへ、手許の者を使に出すなんていうばかなこともない話だ。 これはまず郡方の役人へ達して、郡方の役人から名主へ達し、名主からまた村内へ達して、必要 があれば連れて出させるようにする。けれども百姓の娘なんぞが、殿様の御目通りへ出られるも のか、出られたいものか、申すまでもなく、出られるはずがない。そんなことは容赦なく蹴飛ば して、どんどん迎えに行くに至っては、実に驚き入った話です。それからここには、二挺の山 駕籠」と書いてあるが、あとにある河野通勢さんの播画で見ると、打揚駕籠になっている。百姓 の娘を迎えに行くのがすでに変たのに、打揚駕籠を持って行くのはけしからん話だ。本女と擂画 とは、ものが違っているが、何のざまだか、これはわからない。  一〇八頁になると、泰右衛門の家へ着いたところで、有福な家らしいのに、「表口にピツタリ 油紙格子がはまつてゐて、成る程村の世話役らしい作り構へであつた」と書いてある。昔の村方 には「世話役」なんていうものはない。年寄とか、百姓代とかいうものでなければならない。そ れに「油紙格子」は何事でしょう。どこヘ行ってもわかることですが、相当な百姓の家を知って いる人たらば、油紙障子なんぞが立っていないくらいは、わかりきったことです。そればかりじ ゃたい、驚いたことには、百姓家へ来た殿様の使が、「ゆるせ、御領主様よりの使者の者ぢやが、 主人泰右衛門殿に急々一寸面会いたしたいことがあつて参つた」と言っている。前触も何もなし に来たものとみえる。こういう場合は、あるべきはずもたいが、君侯の使でなしに、その辺へ立 ち回る代官その他の人でも、村方へ入ったら、名主以下の村役人がついていますから、どこへ行 くにしても、今から行くということは必ず知らせます。作者はそれを知らないから、殿様の御使 者が、自分で言わなければならないような始末にしてしまった。百姓に対して殿付きで呼ぶなん かは、呆れ返ったわけで、とてもものにならない。  御使者がそう言うものだから、主人の泰右衛門が出て来た。こういうことは、とてもあるはず がたい。それのみならず、一〇九頁を見ると、「イヤ、急用ゆゑこゝにて用を弁じ申さう」とい うようなことを言って、変な問答があった末、その娘を連れて行くことになっている。領主から の使であった以上は、どんた急用であったにしろ、門口に立ったままで、すぐ娘を連れて行くな んていう、そんなばかなことがあったもんじゃたい。  それから泰右衛門は娘に支度をさせる。片田舎の名主でもあることか、ただ裕かな百姓という に過ぎない泰右衛門の娘が、衣類を改めて出て来たのをみると、まるで御殿風だ。「帯を立て」 というのは、どんた結びようか知りませんが、「立やの字」というのを聞きはつったのでありま しょうか。「好みも矢ガスリの長袖」この「長袖」も振袖の間違いだろうと思う。が、そうした 帯や着物が、百姓の間に着用されるのではない。彼等の上等の衣服ならば格別のこと、芝居へ出 る腰元のような衣服が予備されてあったということは、とても信ぜられる話ではない。作者は何 も知らたいから、こんなことが書けるのだ。  一一七頁になって、母親が、出て行く娘に言っている言葉に、「それでも御領主様にはよく御 挨拶申上げなければいけないよ」というのがある。大体が沼津侯の臨席されるところヘ、百姓の 娘などが出て行けるはずがない。それをそこへ百姓娘を出すように書いていった大無理の趣向で あるから、その先がめちゃめちゃになってゆくのは、当り前のことでもあるが、「御領主様には よく御挨拶申上げなければいけない」なんていうことを、娘に言い付けるに至っては、全く江戸 時代のありさまを作者が知らない証拠で、何がどうあっても、百姓娘などがその領主の面前に出 られるものでもなく、また何としても、|直《じき》に御挨拶などが出来るものではありません。  一一八頁のところには、その百姓娘のお雪が、大評定の席へ連れ出される時、お雪が、「雀震 ひ」にふるえているーこの言葉なども随分珍なものですがーので、付添いの士が「ではお雪 殿こちらへはいられ、何も恐れることはない、皆よい人ばかりだ」と言っている。百姓娘を殿づ けに呼ぶなんていうことも、分に過ぎた話だ。そうしてまたそれに対して「何も恐れることはな い」なんていうのは、もってのほかの話で、それこそ最も恐櫻謹慎しておらなければならない。 その座に列している士である以上は、よく謹慎恐櫻していなければならない、ということを達す べきである。場所柄といい、士といい、そういうことをまるで知らないから、こういうことを書 くのです。  それをまた著しく出しているのは、一一九頁の女句で、「本領に|名立《なだ》たる武士揃ひの場所柄」 という、著者独得のわけのわからない文字が使ってあるが、そこへお雪が入って来ると、「途端 に勲の間全体がパッと華やかに浮立つて、公平にいつたらこの一瞬一座の面々この少女のため悉 く生彩を失つた形だつたも面白い」とまで書き立てている。百姓娘一人ぐらいのために、殿様は じめそこにいる武士どもが見られないようになった、なんていうばかげた形容は、この作者のほ かには、ちょっと言い得るものがありますまい。  それから一二一頁で、いよいよ問答密状なるものを開く。この文書の中には、ヘんてこなこと が書いてあって、とてもわけがわかりませんが、第一「九折の奉書に認めた書状」とある、その 「九折の奉書」というのはどんなものか、ばかげたことを書いたものだ。一体奉書といえば、幕 府から交付された文書ですが、その女言というものが、実に途方途轍もないものです。その全文 はこうある。  この度当水野出羽守儀公儀中枢の沙汰にょり領内富岳別示の地に調練城築塁申しつかり候に付  丈化二年四月二十五日先づ以て規模評議の上軍士決定仕り候事左条につき黒白裁決いたすベき  ものなり、天地神仏に誓ひこの儀達成大功を立て候様奮発専一の事固く申入候。  この中で「公儀中枢の沙汰」1ーこんな言葉は、この時代に使われていないのは勿論、今の言 葉に書き直したものだとみても、何の意味だかわからたい。「軍士決定」なんていうことも、わ からない。これは上の者が下に対して言う言葉なんだか、下の者が上に対して言う言葉なんだか、 こういうことは幕府時代の女書にはよく気をつけて書いてある。一番手っ取り早い例で申すと、 下の者に対する時には「何へ」と「ヘ」の字が書いてある。上の者に上げる時には「何に」と 「に」の字が用いてある。ただ一字でもそういうふうに、上下がわかるように書かれるくらい、 大体の女書において、そういう方の調べが行き渡っておりますから、「軍士決定仕り候事」とい うような言葉は、どっちへつけてみるべきものかわからない。それが幕府の方から水野へ遣され た文書ならば、そこからでも考えてみなければならない。幕府時代の文書の修辞法なんていうも のば、この作者は夢にも知らないんでしょう。  今度はその後に一つ一つ箇条書になっている。その第三箇条にその「御本守は如何に建て候や、 その|御傍守《ごばうしゆ》は如何に建て候や」ということがある。「本守」だの「傍守」だのというのは、何の ことかちっともわからない。この築城の箇条書たんていうものは、何によったか知らないが、一 体何のことか、おそらく誰にもわかるまいと思う。  一二三頁になりますと、その続きでなかなか変な言葉が書いてある。「|曲建《きよくだて》」なんていうのは、 どこから出た言葉で、どういう意味なのか。その他ここには大分わけのわからない言葉が並んで いますが、そう一々指摘するのはうるさいから、省略するとしまして、次は熊木の議論になる。 これらについても、真面目に読んでいたら大変なことですから、何のことだかわけがわからない、 ということだけ言っておきましょう。「敵より松葉|燻《いぷ》しなどの攻め手を食らつたる時」(一四○頁) などとあるのをみると、作者は人間と狐と混同してるんじゃないかという気がするが、まず大体 このくらい変なものだと思えば、間違いない。  熊木の話がおわると、相手方の佐藤の話が書いてある。そのはじめのところ(一四四頁)に「西 中壇より正座に向つて一礼を流すと」とあるのですが、そういう言葉は今日でもあるまいと思う。 それからこの人もやはりわけのわからたいことを述べて、一番おしまいに「一段の御勘考をお願 ひし奉ります」と言っている。「お願ひし奉ります」たんていう言葉は、どこの国であるんでし ょう〇  一五四頁になりますと、その議論の最中に、先刻密状を読み上げた鳥越久我仁郎が、側に控え ている士に合図して、大きた香炉を持ち出させた。「この中に|香粉《かうふん》がまかれたと見えて時ならぬ 芳香がスーッと室内にみなぎり渡つた」、しかもこれは「水野出羽守がかね今丶愛用の京の名香 梅勇だ」と書いてある"こうした席で、重大な議論の最中に、香を焚くというのもけしからん話 だが、香というものを粉だと心得ているんでしょうか。抹香よりほかに香を知らないから、こん な間違いを書くんじゃたいかと思う。殿中で使うのは普通練香で、粉であるはずはない。  問答がおわると、もう夕方近くなっている。「山風舎の部屋々々には江戸風の|絹行燈《きぬあんどん》がまだ暮 れ切らぬ夕闇の中にポツリくととぼつて」(一七一頁)と書いてありますが、「絹行燈」という のはどんたものか。それから水野出羽守が、二人の論弁に対する慰労の言葉として、「論旨とい ひ智量といひ水野はじめ領臣ことぐく有益に聴取いたした」と言っている。大名が自分で自分 のことを、「水野」たんて名字で言い現すでしょうか、そんなばかなことはありません。  一七七頁になると、山風舎の門を出た佐藤菊太郎と、花火師の竜吉と問答しているうちに、 「あん畜生の手にかゝつちや、世の中の正直者はわやだ」という言葉がある、これは竜吉が伯典 の悪口を言っているのですが、「わや」という言葉は、私などは土佐人から聞いた以外には、聞 かない。竜吉という男は、前の様子では江戸の男らしいのに、どうしてこんな言葉を遣うのか。 たった一語だけれども、これが妙に耳立つ。  二三八頁になって、愛鷹山のあるところに、水野出羽守の茶園がある。茶園があるというのは、 別段不思議はない。あったかもしれないし、あってもいい。が、その茶園には金花寮という建物 があって、そこに沼津侯の家来が番をしている。それが小さい番小屋でもあれば、またしかるべ きことだと思うが、そこに屋敷があるの、番士がついているのということは、あるべき話ではな いと思う。そこへ軍談評定のあとで、佐藤菊太郎がその辺の実地踏査に来て、遠矢を射た。その 遠矢が、その金花寮の縁側に干してあった将軍家へ献上の御茶壷を、真二つに射割ってしまった。 それがために、佐藤の方が軍議評定に勝っていながら、かえって負けたことになるという、大波 瀾を惹き起すことになっている。これがまたおかしな話で、この茶壼が将軍家へ献上するものと すれば、最も丁寧に取り扱うべきものなのに、何で縁側なんぞへ出しておいたものか。これがわ からない。  二四七頁に、最後の評定の席のことを書いて、「今日は論壇の形式を変へて、領主座、家老座、 築城家両座、家臣座、ことぐく同一の平座で蒲団は定紋水麻の厚物、領主だけは赤模様の毛織 敷」といっている。「定紋の水麻」というのはどんなものか、水野の定紋であれば、前にも言っ た通り「立沢瀉」のはずです。.そればかりではない。蒲団に定紋をつけるということは、どこで も聞いたことのない話だ。もし殿様の定紋のついた蒲団が敷いてあったとしたら、水野の家来達 は、いつの時でも坐ることが出来ないだろうし、またそうでなくったって、君侯の前で座蒲団を 敷くような、そんな無作法な家来があったはずもない。  まだこのあとにも、こんな種類のことは、限りもないほどありますが、何分読む方が降参しま した。夥しい誤謬を一々拾い上げるのも厭になりましたから、この辺でやめておきましょう。 長谷川伸の『紅蝙蝠』  この人のものは、講談の端物の調子もあれば、味もあって、今まで読んだ中では、一番読むの に骨の折れたいものでありました。大分骨を折って、いろいろと読んでおられるらしいので、か なり行き届いているようでもあるし、書き方も気の利いた方で、まず岡鬼太郎君の脚本の類だと 思われる。  この中へ書き出した浪人の戸並長八郎という人のこと、時代は明和八九年の事柄というので、 一番はじめは長八郎が、高輪牛町の牛方と喧嘩をするところから始まっている。この人の書いた ものは・小さいことでは蹴瞬くことが少くて・大きたことで蹴躓く。折角丹精して仕上げたもの を、一遍にぶっこわしてしまうようなところがある。この人の書いた脚本の『中山八里』という ものは、なかたか器用に書いてあります。それは木場の人足が殺人罪を犯して、江戸を高飛びし て飛騨の高山へ行っている、それを八丁堀の同心に使われている手先が、飛騨の高山へ行って見 つける、というのが骨子になっている。けれども岡っ引なるものは、自分自身だけで人を捕縛す ることが出来ぬのみならず、管轄違いの場所では、犯人を見つけたところで、それを諜報するこ とも出来たい。江戸にいれば八丁堀の同心についていますから、同心に報告して検挙する、とい う段取りになるのですが、江戸をちょっと離れて近在へ串れば、そこはもう代官支配になってい ますから、八丁堀の同心についている岡っ引では、どうにもならない。まして高山なら猶更のこ とで、それが働けないとすると、『中山八里』の趣向というものは、折角ながらこわれてしまわ なければならない、というようなわけである。全部は読んでいないが、この『|紅蝙蝠《べにこうもり》』も、どう もそういうところがありそうだ。千仭の功を|一簣《いつき》に欠くじゃない、一方の功を千仭に欠く、とい うようなことになりゆきがちだと思う。  しかしそれでは小さいおかしなところが少しもないかというと、そんなことはない。この縮刷 本の五頁で、牛方の罵倒の言葉に「殺しちまへ。皮を剥いでしまへ」というのがある。「殺しち まへ」とは言うだろうけれども、牛方が「皮を剥いでしまヘ」とは言わない。皮を剥ぐのは、皮 屋の方の仕事である。牛方は決してそういうことをしない。だからこんなことを言ったら、自分 が皮屋になってしまう。  一二頁のところにたって、牛方の取締りをする|谷《や》ッ|山《やま》太郎左衛門というものの言葉として、 「おい開けんかい俺ぢや、安心して開けろ」と簪いてある。これからあとにも「ぢゃく」とい う言葉を沢山遣っていますが、これが大変耳立つ。不釣合のようである。「開けんかい」などと いう重っ苦しい言葉も、こういう連中が遣いそうもない。  一三頁には、この太郎左衛門が、「一本刀で大兵肥満」の人間だったように書いてあるが、明 和度の町人・百姓、しかも江戸近くのところにいる者どもは、大抵無腰であって、旅行でもする 時のほかは、一本もさしていなかったのです。  一七頁で、この太郎左衛門が長八郎を呼びかけて、「浪人殿。待つた」と言っている。牛方の 元締めをする者から、二本さした者を呼びかける言葉として、「浪人殿」は不釣合だ。やっばり 「お|士《さむらい》」と言わなければいけまいと思う。  そのつづき(一九頁)に芝の田町のことを「静な土地柄だけに」云々と書いてある。これが根 岸のようなところだといいけれどもーもっとも明和の根岸はまだそうでもない、丈政以降の根 岸のようなところだといいのだが、明和の芝の田町を「静な土地柄」というのはどんなものだろ うか。  二〇頁で、長八郎が太郎左衛門を取って投げる。そこに「高塀の幅十二間、地ぶるひして唸つ た。打ちつけられた処は板三四枚が、凄じい音と共にへし|折《さ を》れたり飛び散つたり」と書いてある。 これはどうも武勇伝でもありそうで、あんまり仰山なのが目に立つ。その癖そんなに凄じく投げ つけられた太郎左衛門は、ろくな怪我もしない。「渋面をつくり、路の処に坐つてしまつた。鼻 の頭と肩と腕とに、かすかながら血が滲んできた」という程度なのだから、余計この形容がおか しいようた気がする。  それから二二頁になって、長八郎が新藤五左衛門という自分の叔父と応対するところが書いて ある。その言葉の中に「叔父さまは、終ひまで怒らずに聞いてくれますか」とあるが、何だか今 の中学生の言草みたいで、一人前になった武士の言葉としては、不釣合だと思う。言葉をうつす ことになると、これほどいろいろと気をつけている人でも、やはりおもしろくないのがある。言 葉をうつすことのむずかしいのは、思い当ることが多い。  二五頁に、「私は悲しかつたんだ。泣いたつて泣き足りない程悲しかつたんです」という長八 郎の言葉がある。これは現在行われている口語体の結びに使う「です」という言葉を使ったんで すが、どうもうつりが悪い。そこで思い出すのは、為永春水が人情本を書いて皆に感心されたこ とは、それぞれの対話が、いかにもその人柄や境涯を、よく現していることだったそうです。そ れが『梅暦』その他の受けのよかった第一の理由であったらしいことを思うと、大衆小説のうち で行き届いているものらしい長谷川さんの筆さえ、そこに遺憾なところがある。それともう一つ、 大衆小説家は、江戸生れなどということは、別段に言いませんけれども、東京で育った人も少い ように思われる。江戸の言葉は勿論、東京らしい言葉も出ていない。  三二頁に長八郎の叔父の言葉として、「|彼奴《あいつ》知らぬ顔に不埒た計画を立て居る」というのがあ る。この叔父さんなるものは、上州の織田家の家来で、定府の人であるらしい。ところでこの言 葉の終りに「をる」というのは似合わしくない。これに対する長八郎の言葉が、「叔父さま、独 り合点して怒つてゐたいで、私にも怒ることがあるなら話してください」というんですが、これ が長者に対する言葉でしょうか。こういう尊卑の分けへだてが、江戸の中以上の人には、よくこ まかに出来ていたのですが、そういうことに考え及ばなかったために、こんな言葉が出るんじゃ ないかと思う。  三三頁に、やはり叔父の五左衛門の言葉として、「御家は改易となり」とある。これはこの小 説の世界である上州の織田家が、家中に争いがあり、山県大弐一件に絡んで、奥州へ国替をされ たのですが、織田家は改易になったのではない、国替になったのです。この「改易」という言葉 が違っている。長谷川さんの書いたものの中で困るのは、江戸時代の法律語及び法制に手が届い ていないことだと思う。  三八頁になって、出羽の高畠というところへ国替になった二万石の織田家の家老、藍坂群太夫 という人が、織田家のために運動するつもりで、江戸へ出て来ることが書いてある。そこに「腹 心の剣客で肚俗に通じた印東安馬を護衛役に、鎗持ちの治助、用箱担ぎの富蔵を連れてこッそり と国許を出立した」とある。何程の禄を貰っていたかわからないが、供方が三人か四人しかない ようにみえる。それも小大名のことだからいいとして、「用箱」というものはどんなものか。小 さい大名にしても、家老でありますから、登城の時分には御用箱を持って出るでしょうが、御用 箱なら江戸へ出るのに持って行くのもおかしなことであるし、また御用箱ならそうした下人に持 たせるはずはない。ここには|挾箱《はさみぱこ》のことが書いてたいから、これは挾箱の間違いじゃないかと思 う〇  三九頁で、群太夫が永井峠という峠を越す。そこで随行している印東安馬との応対があるんで すが、安馬は「これしきの山坂ぐらゐ、何の事がござりませう」と言っている。これが変な言葉 で、わけのわからないものだと思います。それに供方の者が歩いて行くのはいいが、いかに小藩 でも、家老職にある群太夫がー殊に健康であったらしい人ですが、「六十越してゐる」と書い てある。六十を越さないでも、とにかく位置が位置ですから、徒歩して江戸に行くなどというこ とはあるまじきことである。  それから四二頁にも、「家は改易」と書いてある。が、そのつづきに「さすがに二万石の封だ けは削られず」とありますから、潰れたのでないことは、作者も承知しているはずなのに、なぜ 「改易」といったものか。こういう場合に「国替」という言葉が普通に使われておったのを、忘 れたのでもあろうか。  藍坂群太夫には畿擁という倅があって、先々代の織田対馬守の落胤である女性を、その妻に与 えられることになっている。四六頁にそのことを述べて、「心と心とが相許してゐた御ちい|様《ささ》と も呼ぱるゝ人の事」と書いてある。この「御ちい様」というのが、先々代の落胤たのですが、御 主筋であるのは申すまでもない。そうでたくっても、中から上の武士でありますと、自分の女房 になる女、すなわち縁約が出来た女にしろ、その顔つきは勿論のこと、その人柄たんていうもの も、よく知っているようなことはないのです。昔の武士などは、見合をして妻を娶ることはほと んどなかった。顔さえも知らないくらいでありますから、「心と心とが相許してゐた」なんてい うことは、とてもある話じゃない。たとい対等の身分、もしくは自分より身分の低い者であって も、若い男女の交際することがたかった時代でありますから、どんな心持の人か、知れないのが 当り前なのです。たまには何かの機会で顔を見る、見染めるとか、見染めないとかいうこともあ りましたが、これはむしろ例外で、心と心と相許すなんていうことは、武士の生活としては、あ ったものではありません。 ■それから殿様は、この「御ちい様」という女性を、藍坂帯刀ヘ下されることをやめられた。も っともそれにはいろいろ理由もあるのですが、帯刀はやめられても平気でいる。その心持をたし かめるつもりで、長八郎が帯刀を途中でつかまえて、二三の問答をしている。その中に「では貴 殿、御ちい|様《  》を御慕ひしてゐるといふ噂は嘘だた」(四九頁)という言葉がある。これは前にその 結婚が取止めになったということについて、帯刀がそれは是非もたいことで、不忠の臣にはなり たくない、何事も君命次第だ、という意味のことを言っている、それに対する言葉なのですが、 どうもこの時分の武士の言葉として、お慕いしているの、いないのなんていうことを聞くのがお かしい。さようなことは聞くべきものでもなし、慕っているなんていうこともあるべきはずがな い。  帯刀はこれに答えて、「噂の責は拙者にたい筈」と言っている。「噂の責」たんていうことも、 この時代柄おかしく思う。  それからまた、長八郎が「御家老の子は人情といふものを、何処ぞへ置き忘れてゐると見える」 とも言っているけれども、一遍縁約が取り消されたというのに、なおその女を女房にしたいとか、 その女が思いきれたいなんていうことは、当時の人情としては未練である。そんなことをいえば、 世間から笑われるから、|士《さむらい》でなくっても、そういう場合には、思いきることを潔しとしたし、ま た実際思いきりもしたので、さもなければ、意気地なしといわれても仕方がたい。それが当時の 人情なので、時代の心持が異なっているから、ここらの拵え方は、今日の心持からいったように 聞える。時代を忘れているものとしか思われない。  五三頁になって、「高畠の四方の要路に、非常詮議が行はれたが」云々ということが書いてあ る。「非常詮議」というのは、当時の言葉ではない。今日でいえば、非常線を張ったということ らしくみえますが、こういう言葉は当時になかったのみならず、非常線を張るというような事実 もない。それにここは領分が違っているから、ここで警察的の働きをするには、そこの領主の手 でなければならないが、これはどうしたものか。  五七頁に、「何だ。妙なことをいうたな」という長八郎の言葉がある。その前にも「だという て」とか、「近いというても」とかいうことがある。これは高畠からの帰り道に、道連れになっ ている怪しげな女との応答のうちの言葉なのですが、今までうつしてきたほかの言葉をみると、 今日東京でも通用している言葉なのに、ここに至って「いうた」とか「いうて」とかいう語調に なっている。これは他地方の言葉です。そういうふうな言い混りの言葉が、この中に大変多い。  六二頁のところで、長八郎が自分の大小を、この怪しげなお滝という女のために、荒砥にかけ て刃を丸められてしまった。しかもそれを知らずにいたのを、女が口走ったので、はじめて知っ て、刀を抜いて驚いていることが書いてある。けれども長八郎は武士でもあり、殊に剣客でもあ る。その魂ともいうべき両刀を、いかなる隙を与えて、切れないように刃どめをされてしまった のか、随分うろんな話だと思う。七うしてそれを知らずにいるなんていうのは、どうしても本当 の話とは思われない。いかにも不覚な武士で、とても並々な人ではない。それがこの中でもっば ら働いて、この小説を拵えて行く人間だというに至っては、全く驚き入らなければならない。  そこで長八郎は思案をして、こう刀が役に立たないものになった以上は、群太夫を見つけて斬 ったところが仕方がないから、突くよりほかに手段がないと考えた、と書いてある。これがあと で大変おもしろい話になっています。  六八頁になると、一杯飲んだお滝という女が、この長八郎に惚れ込んで、色模様になっている。 泥水の女だから、思いきったことをするというのは、聞えないことではないが、これは案外なる 無礼であるのに、長八郎は腹も立てずにいる。この女が長襦袢一枚になって、帯もわざと締めて ないことが書いてあるが、いかなる女にしたところが、明和時分に、長襦袢はどうであろうか。  それから自分に|彝《もた》れかかるようになる女を、長八郎が抱えて、蒲団の中へ押し込んで、寝かし てしまおうとする。それもいいが、「|咄嗟《とつさ》に、無言で」当身を食わした。そうして暫くたってか ら活を入れた。そうするとこの女が生き返って、そのままぐうぐう寝てしまったというんですが、 とんだところで、柔術の応用をしたもんだ。あんまり巧みに書こうと思うものだから、こういう 無理が出来る。一体何のために当身を食わしたのか。酔払いがじたばたしないようにしたんでし ょう。それにしばらくたって活を入れたら、生き返って、そのまま寝入ってしまったという、そ んなことがあると考えているのか。活を入れられると、そのまま生き返って、すぐにぐうぐう寝 てしまうものと考えているのが、甚だおかしい。のみならず、こんな場合に柔術を活用して、当 身を食わしたり、すぐに生き返らせたりするというのも、よっぽどおかした話だと思う。お滝は 仮死状態から蘇って、翌朝まで寝ている。その間に長八郎は宿屋を逃げ出したということになっ ていますが、そういうことが事実出来るものと思っているんだろうか。  七五頁で、長八郎が群太夫に出会う。越ヶ谷から千住までの間を、群太夫が歩いているところ なのですが、歩きながらついている士どもに、御家の大事や何かを、ずんずん口走っている。歩 きながら放談している。小さい大名にしたところが、大名の御家老様といわれるもの、殊に年輩 も相当とっているものとしては、これは大分おかしなものだと思う。作者も気になるとみえて、 「道すがらこんな話は、不用意千万のやうだが、群太夫は時としてこの方法を用ふる。人は百人 の中で九十九人までは、油断負けをするものだ。街道で語る話に、大秘密があらうとはだれが考 へ付くものか、といふのだ」と断っていますが、こいつはむずかしい言訳のようです。  そこへ長八郎が出て来て、斬合いがはじまる。群太夫についている剣客の印東安馬という者が、 まず真剣をもって長八郎に向った。それをそこへ打ち倒して、今度は群太夫にかかる。これも足 を払ったけれども、ちっとも斬れていない。両人とも怪我をしない。だから八四頁に、長八郎の 言葉として、「さうだッ。突きだ。突きの一手があつた!」と言っている。自分の刀がすでに刃 を引かれてしまって斬れないから、「必勝の手段は突きにあり」と考えたといっていながら、い よいよ敵に出会った時に、それを忘れている。敵に斬りつけて、相手の平気でいるのをみて、は じめて気がついて、「しーしまつた!」なんて言っているのは、茶番じゃあるまいし、心がけ のある武士の話としては、あまりひどい。迂潤も二重三重になっていて、話にならない。  それからそこをやっと逃れて、脇道に回った長八郎が、おいてきぽりにしたお滝にまた出っく わす。お滝は大変喜んで、金をやろうとか何とかいうことになるっ長八郎が行ってしまってから、 お滝についている松公というやつーこれが前にお滝の命令で、長八郎の両刀の刃を潰したやつ たんですがーが、「宿役人にでも咎められたら面倒でせう」と言っている。これは、今こんな 怪しい様子をしている長八郎と応対なんぞして、宿役人に牲められると困る、ということらしい のですが、宿役人というものが、そういう一般の警察事項のようなことに、係合いを持つものと 思っているのか。挙動不審な人間がいれば、それをどうかする権能があると思っているのか。一 体作者は、宿役人とは何であるか、いかなる職掌のものであるか、ということを知っているのか。 この応対の様子でみると、何だか宿役人というものが、挙動不審な者を押えたり、縛ったり出来 るもののように読める。それは畢竟作者が宿役人なるものを知らないからじゃないかと思う。  九二頁になると、今度は長八郎の叔父の新藤五左衛門がいる、御ちい様というお方のお住いに なっている屋敷が出て来る。これはどういう屋敷であるか、「田町に近い芝の海辺から遠からず に、高塀をめぐらした構へ」とのみあって、ちっともわからない。あるいはわからない方が、作 者の用心したところなのかもしれない。  そのわからない屋敷の塀の外へ、うさんなものが来る。それを新藤五左衛門が警戒に回ってい, て、取り押えて問答がある。これは牛方の一人が、悪人に頼まれて、御ちい様の動静を探りに来 たのだ、ということになっている。その話もちょっと変なことのように思うが、その怪しげな牛 方の言葉に、「長八浪人の口から引き出して、このお屋敷のお姫様だかお嬢様だかに、悪足があ るか無いかといふ事なんで」ということがある。牛方が長八郎のことを「長八浪人」と言ってい る。長八郎は浪人しても武士である。その武士に対して、牛方でない、ただの町人であるにして も、「長八浪人」たんていうことは、あるはずがないと思う。  その応対のつづき(一〇一頁)に「その役つてのが、お姫様だかお嬢様だかの処へ、色文が来 やしないかといふ、その詮議でございます」という言葉がある。武家屋敷におって、それも下々 の者たら知らぬこと、守役までついている御ちい様のところへ、そんなものの遣り取りをするこ とが出来るように考えているのであろうか。用意深いこの作者が、どうしてこんなことを書くの か。  それから前に出た谷ッ山ーこれはその後長八郎に味方している模様ですがーが、一〇九頁 で新藤のことを、「長八さんの叔父さまぢやな」と言っている。立派な武家をつかまえて、「長八 さん」というのもおかしいが、更にその叔父に対して「長八さんの叔父さま」というに至っては、 士に対して言うべきことではない。町人・百姓どもの言葉を、そっくりうつしてくるから、こう いう時にこんな言葉が出るので、それはまた新藤が「いや、だれかと思つたら谷ッ山さんか」と 言っているのをみても、よくわかると思う。谷ツ山を呼ぶのに、「さん」はいりません。  一一一頁に群太夫のことを書いて、「江戸へ着いた翌晩」といっている。江戸ヘ着いたとばか りで、江戸のどこへ着いたかいわない。これも用心といえばいえるでしょう。こういう場合は、 織田家の上屋敷ないし下屋敷でなければならないが、ここにはいってない。  一一四頁に、群太夫と話している兵堂多兵衛という者の言葉として、「帯刀殿よりは文も、人 伝のたよりも、|確《ちささ》にござり申さぬ。また、御ちい様からも、女もつかはされず、人伝てにたよ《ささ 》|り をされたご様子もござり申さぬ」と言って報告しているところかある。こういうことも、作者は あることのように思っているが、前にもくどくど言った通り、武家には恋愛結婚はないので、そ れをよく腹に入れていないから、こういうことをまず念頭におく。そうして考えてゆくから、こ ういう事実もありゃしないかと思うのでしょう。第一身分のある人だと、ひとりでいるというこ とがないのだから、たといそんなことをしたくったって、とても出来るものじゃないのです。  こういう報告を受けたり、応対したりしているところは、前の兵堂多兵衛ーこれも織田家の 家来ですがーという人の妾宅であるらしい。これはあとの方の文章で、はじめてわかるのです が、群太夫は帯刀と御ちい様との間に、何の話もないという報告を受けて、「さてく安堵いた した」といっている。けれども近日田沼ヘ御ちい様を差し上げるまでは、従来通り見張っていて 貰いたいという、そこの群太夫の言葉に、「手いらずでなうては|飽《 ささ》食の彼の方の御慰みが薄い」 とある。いかにも下劣な言葉で、こういう家老の言葉ならば、同じ意味をいうにしても、もう少 し上品な、人聞きのいい言葉を遣わなければならないと思う。これではあまりに下卑ているり  ここまでの話が済むと、「それまで遠慮させて置いた女を呼び入れて、群太夫も多兵衛も、愉 快さうに笑談をいひ合ひはじめた」と書いてある。これは今いったように、兵堂の妾宅らしいが、 妾宅のどんな座敷でこんた話をしたか。どんな女を今まで遠慮させておいて、ここで呼び入れた のか。これもあとでわかってくる話なのですが、群太夫は江戸へ着いた晩に、この兵堂の妾宅み たいたところへ、入り込んでいるらしいのです。  この妾宅というのはどこにあるかというと、一二三頁に「兵堂多兵衛の控へ家が芝浜松町にあ る。この間の晩、群太夫が来てゐたのはこの控へ家だ。控へ家とは妾宅でもあり、織田家の特殊 待遇復活運動の、屋敷以外の本部といつたやうな形ちの処でもある」と説明してある。兵堂とい う人はどんな身柄の人であったか、ここまでのところではわかりませんけれども、分限の大小と なく、武士たるものが町宅するわけにはゆかない。資力から許されないのみならず、当時の法規 が許さたい。民衆の住むのが市街、士人の住むのが武家地と、判然居住区域が立っていた。故に 在江戸の幕臣にしても、諸大名にしましても、家来どもが江戸に来て、そんた町宅なんぞを構え ていられるものじゃありません。それに門限があるから、外泊することは無論出来ず、夜こんな ところへ来て、酒を飲んだり、話したりしていることも出来ない。従って「屋敷以外の本部」な んていうものを拵えて、「織田家の特殊待遇復活運動」をする。そんなことも、決して昔の遣り 方じゃない。邸内にいくらも小屋もあれば、長屋もあるんですから、そのうちのどこでも、内相 談の場所にあてることが出来る。こういうところをみると、今の政治家が待合へ寄り合って、何 かの運動の相談をしている気持が、ありありと浮いているように思う。江戸時代のいつだって、 またどこの藩中だって、そんたことはありはしない。  一二七頁に、「武士は殆ど|転繰《でんぐ》り返りを打たぬばかり」とある。これは誤植かもしれません。 「転繰り返し」とはいうけれども、「転繰り返り」とはいわない。  一五〇頁に、長八郎と新藤五左衛門との問答が書いてある。長八郎が「群太夫の奴、田沼の奴 と会ふのですか」と言うと、五左衛門は「他所で左様なことを申すでないぞ、蔭口なればとて時 の御老中、殊に並々ならぬ方を、奴なぞとは良くたいぞ」と言って押えている。これは作者の注 意深いところから、こうやったんでしょうが、元来が見当違いだから、折角叔父さんが押えても、 一向押えた甲斐がない。この当時の人としては、どんなに憤激したところで、自分の藩の重役の ことを、「奴」なんていうことは決してない。ましてや御老中である田沼|主殿頭《とのものかみ》のことを、「奴」 なんていうことはなおのことない。そういう人のことになると、大抵その屋敷のある場所を指し て言う。さもなければ、紋所を言う。この本の前の方には、田沼のことを「|田印《でんじるし》」と言っていま すが、そういうこともなかったと思う。そういう場合に使う言葉としては、紋所もあれば、屋敷 の所在地もあるのだから、それで十分のはずです。  長八郎は五左衛門にそういわれて、「こゝでいふのなら構ひますまい」と言っている。陰では 御老中のことでも「奴」といっているんだ、ということを土台にして、これを書いていることは よくわかる。どうも御安直な気持が抜けない。四角張った根性が作者に不足だから、そういうこ とを考えて、それを言葉に現す。それでもまだ安心がならないから、叔父さんをして押えさせて いるが、どうもこの押え方が甚だ鈍いことになりゆく。元来どこでもそんなことを言やしないの です。  一五六頁になると、「ホイホイ。ホイ。ホイ。ホイホイ」という|駕丁《かゴや》の声を書いて、「次第に近 づく後の駕丁の化粧声」といっている。駕丁の「ホイホイ」というのを、「化粧声」といったと いうことは、ここではじめて聞いた。  その駕籠というのは、剣客の印東安馬を群太夫が吉原ヘ連れて行った、その帰り道の駕籠なの ですが、これを長八郎が要撃する。この問答の中にも、随分変な言葉があります。「御家が唯今 の有様では、御ちい様も御不仕合せだ」 (一六一頁)ーこれは群太夫の言葉ですが、随分変な 言葉を遣っている。そうすると長八郎は「さればこそ、妾奉公に出し奉るのか」という。「妾奉 公に出し奉るのか」なんぞは、まるで落語の中にでも出てきそうで、おかしくって堪らない。 「|側室《そぱめ》は必ずしも側室でない。御腹御出生の御男子がその家の当主となつた時、御生母の御立場 はどうなつてゐた。それを申すのだ」ーこれも群太夫の言葉です。主筋の御ちい様という人を、 群太夫等が田沼の妾に出そうとしている。そのことについての話なのですが、「側室は必ずしも 側室でない」というのはどういうことか。男子を生んで、その男子が当主になった場合、御生母 の立場はどうなるか。それだから「側室は必ずしも側室でない」というんですがね。これはよっ ぽどわけのわからない話だと思う。当主の生母であれば、|上通《かみとお》りといって、家族の待遇は受ける。 けれども母の待遇を受けるものでは決してない。これは武家のきまりで、妾というものは家来で ある。それが当り前なので「側室は必ずしも側室でない」のじゃない、側室はどこまでいっても 側室です。上通りの待遇を受けることになっても、その点には一向変りがない。「御腹御出生の 御男子がその家の当主となつた時、御生母の御立場はどうなつてゐた」なんて、ばかなことを言 う者はないはずだ。  それではこの群太夫という家老が、一時の言訳に、でたらめのことを言ったものと解するか。 しかし当時はそんなことは誰でも知っていたことだから、そんなことで一時の言抜けも出来るは ずはない。長八郎はそれに対して、「何をぬかす。そんな事をいふなら俺の方でも聞くぞ。俺の 知つてゐる旗本の奴が」ーまたここでも「奴」といっている・「出入りする婆をとらヘ、た まよ、たまよと呼んでゐる。婆は婆で、旗本の奴をつかまへ。、.、殿様々々とペコノ\してゐる。 この婆は旗本殿の生みの母だぞ、母が子に名を呼び棄てにされる、それは何故だ、妾だつたから だ」といって、何としても妾は妾だ、ということを主張している。これは長八郎が実例を挙げた わけなのでしょうが、別に例を挙げて言わないでも、きまりぎったことで、何でもない話なので す。群太夫はそれでもまだ、「それは、その方の世の中を見る眼が狭いからだ。さういふ妾もあ るが、わしのいふやうな側室もある」と言っている。「わしのいふやうな側室」とはどんな側室 たのか、この方はあるたら実例を挙げて貰わなければわからない。生れた子でさえ嫡子と庶子と 分れるくらいだから、生んだ者にも明らかに差違がある。まして明らかに家来である上は、わし のいうようなも、いわないようなもない。もっとも妾とか側室とかいう名は、表向の名にはあり ません。大名の妾は、|中繭《ちゆうろう》、もしくは小姓というようなふうに、藩によって名称は違いますが、 身分はいずれにも臣下ときまっていたのです。  それからなかなかおもしろいのは、群太夫が「わしを殺すた」と言う。長八郎は「厭だ」と言 う。群太夫はまた「では、高畠の御家難渋となる、それでいゝか」と言っている。こういうふう に、現在そこに抜きつれてかかる場合に、何でこんなつまらない問答をしているのか。芝居の舞 台ならいざ知らず、あまりに悠長千万な話で、受け取りにくい。  その問答に続いて、長八郎がこんたことを言っている。「俺にとつて、天上にも地下にもい《さ 》|と 品)く思ひ奉るはただ一人」これは御ちい様のことをいうのですが、「その方のためなら二万石が 何だ、御家が何だ、この一身を、ずたずたにしても|悔《ささ さ》まぬ俺が、織田家の格式ぐらゐ|路傍《みちばた》の木も 同様だ」ーこれが今日の人の心持で、家を大切にしている当代の武家気質と、何程の距離があ るか、今こそ浪人しているけれども、長八郎もその家に仕えた者の末であるから、故主の御家に ついて、「二万石が何だ」の「路傍の木も同様だ」のということは、極度の暴言である。これは 全く今日のわけのわからぬ書生の根性だからいうので、御家の大切なことを忘れるような者は、 昔の武士には決してなかった。これほど注意して、いろいろ本を読み、考えてもいるらしい作者 にして、なおかつ「御家が何だ」というようなことを言わせるに至っては、実に嘆息に堪えない。 これでは当時の心持を忘却しているどころの話じゃない、ぶちこわそうとしているものである。 それならこんなものを書くより、明和時代の武士を非難するような論文でも書いた方がましだと 思う。戸並長八郎のような武士は決していない。作者はないものを無理に書き出したとしか思わ れない。  まずこの本はこのくらいにしておきましょう。 吉川英治の『鳴門秘帖』 上  この人の書いたものは、他の人のと違って、多少とも江戸のことを、何かでも見ているのであ ろうかと思われる。その見たことが胸に|問《つか》える。消化出来ないで、ところどころに、ぶつぶつ出 て来る。ナマナカ知っているのが害になる。時代や階級に|頓着《とんじやく》たく出てくるから、事こわしにな るだけで、些少にもせよ、知っているのが、知らないのよりも悪いくらいだ。それが他の人と違 うところだとでもいいましょうか。いつでも第一頁から読み始めるのですが、今度は少し模様を 替えて、最初の「上方の巻」というのは読まずに、その次の「江戸の巻」を少し読んでみました。 従ってこの評判記も、この本(「大衆文学全集」)の二四七頁から始まることになるので、それ以前 にある事柄には、一切触れません。本丈なしに、評判記だけ読まれる方には、自然筋のわかりに くい点もありましょうが、そこはあらかじめ御諒察を願っておきます。 「江戸の巻」は、明和二年十一月中旬のことから書きはじめている。そうしてすぐにお茶の水の ことを書いて、「お茶の水の南添ひに起伏してゐる駿河台の丘。日毎に葉を|椀《も》がれてゆく裸木は、 女が抜毛を傷むやうに、寒々と風に泣いてゐる」とありますが、どうもこの「お茶の水の南添ひ に起伏してゐる駿河台の丘」という言葉が、本当の見たままの駿河台と思いにくい気がする。 「日毎に葉を椀がれてゆく裸木」云々というと、お茶の水の崖ッ端の木が、木枯に葉を振い落さ れてゆくことをいうのでしょうが、私がおぼえてまでも、あのお茶の水の聖堂前あたりは、「小 赤壁」といいまして、漢学書生が嬉しがった場所でした。あの流れに浮ベた船の中から、仰向い て見ても、人家などが見えないほど、崖が切り立っておったばかりでなく、それに茂った木が沢 山生えておって、青空も狭く見えたほどです。あすこへ省線が通るようにたってから、すっかり 模様が替って、昔の面影はほとんどなくなってしまいましたが、明治になってまでも、まだ旧態 がわずか残っていたのでありますけれども、冬向でもなかなか裸木が見えるというようなことは なかった。いわんや明和年間のお茶の水の崖を書いたものとしては、この丈章は甚しい嘘だと思 います。  ここへ第一に登場する人物は、駿河台の鈴木町の裹通りを通っている屑屋です。その脩向いて 通る屑屋が、頭の上の窓口から「屐屋さん」と女の声で呼び込まれた。何だか御長屋ででもあろ うかというふうに感ぜられる。二階とも何とも書いてないが、平屋ではなさそうだ。呼ばれた屑 屋は、あっちへ回ってくれと言われて、「へ、お勝手ロヘ?」と聞いている。そこに潜り戸があ るからというので、その潜り戸をがらりとあける。「ガラリと開けた水口の戸も開けつ放しに、 鉄砲笊と一緒に入り込んだ」と書いてありますから、ここが台所口らしい。どうも二階から呼ば れて、潜り戸をあけるとすぐに台所があるというと、この家は大分変な建て方のように思うが、 それはこの家が何者の家かと考えさせることにもなる。  呼んだ女は「縁側の方へお廻りよ、少しばかり古反古を払ひますから」と言っているんですが、 「縁側の方へお廻りょ」と言い、前に呼ぶ時に「屑屋さん」と言った。この言葉でみると、どう しても町家の女である。町家にしては妙な建物だと考えていると、作者はその次に、こういうこ とを書いている。「打見た所、五人扶持位な|御小人《おこびと》の住居でもあらうか。勝手つ父きの庭も手狭 で、気の好ささうな木綿着の御新造が払ひ物を出してきた」ー駿河台の鈴木町あたりには、町 家があったとも思われない。あいにく組屋敷もない場所だ。それに「五人扶持位な御小人」とい うのはわからない。十五俵一人扶持というのが、大概御小人のきまりで、扶持ばかり貰っている というものはないはずだ。扶持ばかり貰っているのは、出入町人か、医者かでなければならない。 「御小人」といえば、ごく低い階級ではありますけれど、御家人です。ここに書いてある様子で みると、微禄な者ではあるが、|士《さむらい》の住家で、「御新造」というくらいだから、無論武士の女房だ。 そうして組屋敷にいるわけたのですが、どうもこの家の建て方は合点がゆかない。丁度それは 「五人扶持の御小人」というのと同じようなことだと思います。  殊にこの御新造の言葉遣いというものは、第一屑屋に「さん」をつけて呼ぶ。たとい十五俵で も、士ならば「屑屋」で沢山たわけだ。「煙草の火を借りて話し込んだ屑屋」ともありますが、 昔の士の家は、なかなか気取ったもので、煙草の火を貸してやって、屑屋を相手に話し込むなん ていうことが、あるもんじゃない。そんたことは世話女房の話で、武士の女房にあり得べき話で はない。しかもその話がとんでもないことで、屑屋の方では「この駿河台にある甲賀組といふの は、慥か、この前の囲ひの中にある、真つ黒なお屋敷のことぢやございませんでしたか」といっ て、その動静を聞き出そうとしている。それに対して、この|御小人《おこびと》の女房が、なかなか呆れ返っ たことを言っている。「さうだよ、墨屋敷と云つてね。二十七家の隠密役の方ばかりが、この一 所にお住居になつてゐる」というんですが、墨屋敷なんていう真黒に塗った屋敷が、駿河台にあ ったという話は聞いたことがない。それが二十七軒もあったなんていうことは勿論、甲賀組、ま たは甲賀衆ともいった人達が、隠密役をつとめたということも知らない。甲賀衆というのは同心 で、御留守居付の者だったと聞いています。隠密なんていう役をつとめることは、決してありま せん。甲賀組というと、例の忍術の本場が江州の甲賀ですから、そんたことに引っかけて、作者 がいい加減に書いたのでしょう。幕府の高等探偵といいますか、政事探偵といいますか、将軍が 諸大名の動静を探るとか、世間の様子を窺わせるとかいう役向は、前にもちょっといったと思う が、八代将軍の時以来、「御庭番」というものが、もっばらその御用をつとめていた。御庭番の 中からは、随分不時な立身出世をする者がありまして、立派な幕府の役人になった者も数人あり ます。こういうものがおりますから、甲賀組なんぞを使わなくってもいいわけでありますし、ま た甲賀組の忍術などということでは、太平な世の中には、間に合わなくなったからでもありまし ょう。甲賀組は一般の同心になって、忍術の御用などはない。従って探偵をつとめることもなか ったのであります。  それからこの女房が、もうだんだん甲賀組の御用もなくなったから、「その家筋を、お上でも 減らす様にしてゐるといふ話だね」というと、屑屋のやつが|頷《うなず》いて「さうでせう。権現様の時代 には、戦もあれば敵も多い。そこで自然と甲賀組だの伊賀者だのも、大勢お召抱へになる必要が ありましたらうが、今ぢや天下泰平だ。何とか口実をつけて減らす算段もするでせうさ」ーこ ういうことを言っている。これはただの屑屋じゃない。目明しが屑屋に化けて来ているやつなん ですが、こういうふうに、公辺のことを容易に|喋《しやべ》りまくったら、当時としては大変な話です。ま た同心の家にしたところが、幕府が入用がないから、だんだんお減らしになる様子だというよう なことを、何者かわからたい、通りがかりの屑屋風情に喋るなんていうことは、とてもあるべき ことではない。いかに口軽た女にしたところが、そういう噂をすることは、時代柄決してあるべ きものではたい。しかるにこういうことをしなければ、この小説は書いてゆけないことになって いる。  この話のついでに、つい先頃も古い甲賀組の屋敷が一軒潰れたそうだ、と女房が言うと、屑屋 が、「さうく、それは甲賀|世阿弥《よあみ》様といふ、二十七軒の中でも、宗家といはれた家筋でござい ませう」と言っている。しかし甲賀組にも、甲賀を名乗る人はなかった。甲賀というのは近江の 地名で、それから甲賀衆とも甲賀組ともいうのですが、その中に「宗家」なんていうものはあり ゃしたい。皆平等に同心になっているので、本家だの宗家だのがあるはずはない。屑屋が潰れた 家の名まで知っているものですから、女房が驚いていると、屑屋のやつは「わつしの不馴れな様 子でもお分りでせうが、|真個《まつたく》は、之が本業ぢやございませんので」と言い出した。女房はいよい よびっくりして、稼業馴れない様子だから、気の毒だと思って呼んでやったのだが、そんな人で は気味が悪いから帰ってくれろ、と言う。いや、私は怪しいものではない、潰れた甲賀家のこと について、御存じのことだけ、お聞かせ下さらんか、と言うと、素性の知れない者にめったな話 は出来ない、と言う。これは当り前な話だけれども、すでにそれより前に、屑屋に対して幕府の 噂をしている。随分けしからん話だ。屑屋は相手に安心させたいとみえて、「身柄を正直に明か します」と言って、内懐から「紺房の十手」を出して見せた。ーこういうことが書いてある。 紺の房がついている十手というのは、どんな十手なのか。同心の持っているのも、与力の持って いるのも、これは緋房にきまっている。それが紺の房だというのは、合点のゆかぬことですが、 それを見ると、その女房がたいそうびっくりして、とんだものを呼び込んだという様子をしてい る。けれども十手ぐらい出されたって、御小人の女房が驚くはずはない。たとい微禄であっても、 武士の女房であれば、町方の与力や同心なんぞに、指でもさされやしないんだから、びっくりす るはずのものでもなし、そういう町方の者だということがわかったところで、それで安心するは ずもないのです。  それから属屋は更に進んで、「深い事情は申されませんが、わつしは大阪東奉行所の手先です」 と言っている。これは目明しの万吉なる者で、私の読まない「上方の巻」でも、相当活動してい るらしい。この男は大阪の町奉行所所属の者としても、町奉行所の手先というものはない。いず れ同心所属のものです。これはたしかに作者が知らないから、こんなことを書いたのでしょう。 万吉は大阪の人間であるが、大阪から江戸の甲賀世阿弥という人のことを調べに来たのだ、とい うことになっている。それならなおさらのことで、大阪の町同心が、江戸のことを知りたいため に、この目明しを江戸へ遣したところが、それは何の役に立つものでもない。ただ話を聞いて帰 るぐらいのもので、手も足も出るもんじゃない。従ってそういうことをいっても、誰も安心させ ることが出来るものでないのみならず、手先は十手を持っているものじゃない。手先といえば諜 者のことで、これは十手を持っていたいものです。同心について歩いている小者、これは同心に ついて歩いている時だけ、十手を持っているが、その他の場合は持っていたい。それならこの場 合は措いて、手先であることを証明するにはどうするかというと、それは所属同心の名刺を持っ ている。それだけのものですから、そういう証明を一般の者にするのは、なかなかむずかしい。 まして大阪の町同心に使われている手先が、江戸に来て、その身分証明をしようというのは、な かなかむずかしいことで、ちょっと出来にくい。この作者のみたらず、目明しとか、手先とか称 する者をよく知らないで、むやみに十手を持っていたり、十手で身柄を証明したりすることがよ く書いてあるが、これは大変な間違いであります。  御小人の女房は、別に素性を聞いて安心したということは書いてないけれども、いろいろ万吉 の相手になって話をしている。何故大阪から万吉が、江戸の甲賀世阿弥の家のことを調べに来た か。この話はいずれ「上方の巻」から引っ絡まっていることなんでしょうが、ここに説明してあ るのをみると、万吉は江戸へ入るとすぐに、甲賀の家をたずねた。しかるにその時はすでに門札 が変って、他人の名前になっている。どうして世阿弥の屋敷が他人のものになっていたかという と、この甲賀世阿弥というものは、幕府の隠密方をつとめていた者であるが、阿波の蜂須賀が何 か穏やかならぬことを企てている疑いがあったので、その探偵のために阿波へ行って、満+年と いうもの帰って来ない。隠密組には法規があって、満十年帰って来ない場合には、死んだものと して、その家は断絶の定めになっている、甲賀世阿弥の家は、禄は没収され、屋敷も取り上げら れて他の者へ下された、というんですが、これがさっばりわからない話で、「隠密組の法規」な んていうものは、見たことも聞いたこともない。無論この作者だって、見ても聞いてもいるはず はない。どだい甲賀組が幕府の隠密だということが、すでにないことなのだから、この上のこと はことごとく嘘で、どうにも追っかけようがない。以上は私が読み出した二四七頁から二五一頁 まで、五頁の間に出てくることなんですが、この話はここでもう壊れていると思います。  幕府の家来たるものは、身分の大小に拘らず、自分勝手に泊り歩きは出来ない。一晩でも自分 の屋敷を離れることは許されていない。もしそれが露顕すれば、それだけでも絶家させられてし まう。けれども幕府の命によって働く場合は別です。幕府の隠密とでもいっていい役回りであっ た御庭番などになると、半年一年ないし三年も帰って来ないことがよくあった。これは将軍の命 令によって出動するので、自分の思わくで、あすこが怪しいからといって、飛んで行くことは決 してない。ですから組内の者には、どういう御用ということは知らないけれども、どこかへ出て 行くということは知れておった。その他はどこでも、御庭番の|何某《なにがし》がいつからどこへ行った、な んていうことが、外間に知れようはずがない心そういう人がもし出先で不時なことがあった時は どうするか、なんていうことも、無論誰も知っていない。しかしその家が断絶することはないよ うに出来ておったとみえまして、御庭番の家というものは、吉宗将軍の時から幕末まで、一軒も 減ってはおりません。  駿河台に甲賀衆の屋敷があったなんていう話も知らないことで、駿河台に甲賀町という町があ る、そこには甲賀衆が住っていたから町名にたった、という説もありますけれども、甲賀衆は甲 賀町の火消屋敷につとめておったことはあるが、駿河台に住ったことは疑問である、とすでに先 輩がいっている。のみならず、禄高はいずれにしても十五俵一人扶持という身柄でありますのに、 甲賀世阿弥の屋敷なるものは、「この附近の墨屋敷の中では、最も宏壮な構へだ」とあるから、 たかなか大きたものらしい。万吉が最初この屋敷へ来てみると、玄関は釘付になって、庭口も錠 が下してある。「昼だといふのに総ての雨戸も閉ぢ切つてある」と書いてある。それでは誰もい ないのかというと、世阿弥の屋敷は上り屋敷になったので、旅川周馬という者が代って拝領した 案配ですから、住んでいる人がないわけじゃない。甲賀世阿弥という者は、どういう役をつとめ ている人か、何程の禄高の人のつもりなのかわからないが、勿論こんな立派な建物を持っている 甲賀衆の人はない。もっと小さいものにしても、組屋敷を拝領するのは、その組の者・この場 合ならば甲賀衆でなければならたい。甲賀衆で屋敷を拝領する者は同心で、同心には同心のつと めがある。他にもいうべきことは沢山あるけれども、そういう役を持って、つとめのある身体で あるから、他の組の者と同じにしていなければならない。その家だけ玄関を釘付にする、なんて いうことはあるべきはずがない。そんたことをすれば、組頭その他から必ず|察当《さつとう》がある。この不 思議な屋敷の中に、「瓦腰の隅座敷、そこの窓だけが細目に一ケ所開いてゐた」と書いてあるが、 隅座敷というものはどんたものか、聞いたこともない座敷です。一体甲賀町には、火消屋敷と旗 本衆の邸宅とだけで、組屋敷のなかったこともいっておかなければならぬ。  万吉はここの様子を探ろうとしたが、何分手がつけられないので、それから屑屋になって、近 所を回って聞き出そうとした。世阿弥の家には|千絵《ちえ》という娘が一人あって、万吉はその娘の行方 を尋ねなければならたいのだが、これがなかなかわからない。近所の甲賀組の連中のところを、 聞いて回ったけれども、やっばりわからない。どこへ行っても、私のところでは何も存じません、 という返事ばかりで、一向要領を得ない。そのために苦心していたのですが、今この呼び込まれ た御小人の家で、女房の口から、世阿弥の娘の行方を聞くことが出来た。この問答の中にも、大 阪者の万吉が「ねえんです」なんていっているのも目につきますが、それよりも妙なのは、女房 の説明のうちに・周馬が「お敝舳柮としてお上から戴いたのを好いことにして」ということがある。 これが甚だわからぬことなので、この話では替地に賜ったのではない。替地というのは、幕府の 御入用で差し上げて、その代りに他の地面を賜るのです。これは上り屋敷なのですから、同じ役 向の者に屋敷を下さるので、替地じゃない。旗本たり御家人なりの家が潰れた場合には、他の分 限相応の者が、そこに住っていいが、組屋敷は同じ役向の者でなければいけない。この場合甲賀 組が駿河台に住っていたということは嘘ですが、そう書いてあるから、しばらくそれに従って、 組屋敷のならわせ柄を私は言おうとするのです。 その言葉に続けて、「世間へはお千絵様が他へ立退いたやうに言ひ触らし、その実、門も戸も釘 付にしたまゝ、あの屋敷の奥に押し籠めてあるのでございます」云々とある。これは世阿弥の屋 敷を拝領した、旅川周馬というやつが悪いやつで、こういうことをしているというのですが、屋 敷が上ります時には、無論受取りの役人も来れば、組の中からも人が立ち会いまして、一遍は綺 麗に返上してしまって、更に明屋敷奉行というものがある、そういう者の手から、改めて拝領し た老に渡すのです。それまでには、あとに残った家族も立ち退かなければならない。家族をその ままにしておいて、屋敷の受渡しなどをするものではない。それですから、一遍立ち退いた世阿 弥の娘を、ずるずるべったりに、その屋敷に押し籠めて置くなんていうことは、出来るもんじや ない。どういう方法かで、一遍立ち退いた家族を騙し|賺《すか》して、幽閉すれば出来るかもしれたい。 が、ここに書いてあるのでは、そういうことなしに、世阿弥の家族をそのまま押し籠めて置いた ようにみえる。  万吉は御小人の女房からそういう話を聞いて、再び今は旅川周馬の屋敷になっている、もとの 世阿弥の屋敷へ忍び込む。屋敷の中をあっちこっち気をつけて尋ねていると、前にあった隅座敷 の窓の戸が、今日も四五寸ほどあいている。そこに自分の尋ねる世阿弥の娘が幽閉されているん じゃないかと思って、小声で名を呼んでみた。「窓は屋敷作りなので、背が届かぬほど高目にあ つた」(二五五頁)と書いてあるが、この家造りがどうもわからない。屋敷作りだから窓が高い、 といったところで、平屋であれば、そう高いこともなさそうに思う。それとも二階建たのか、こ の窓もどういう窓だかわかりません。  それから何頁かいろいろなことがあって、結局ここにいる女はお千絵じゃない、「見返りお綱」 という横着者の女だということがわかった。お綱は何でこの屋敷に来ていたかというと、今ここ に住んでいる旅川周馬に|博奕《ぱくち》の貸があって、それを取りに来た、周馬がいないから、留守に坐り 込んで待っているのだ、といっている。万吉は大阪にいた目明し、お綱は|掏摸《すり》なので、「上方の 巻」ではよほど活躍しているらしい。殊にお綱に何か助けられたことでもある案配で、無論お互 いに知っているから、ここでいろいろな話をしている。お前さんはそういう人を縛る役目だが、 自分も思案に余っていることがあるから、一つ加勢して貰えないか、私の家は本郷妻恋一丁目 ーとお綱が万吉に頼んでいるのですが、「本郷妻恋一丁目」なるものは、明和どころじゃない、 幕末になってもありはしない。あすこは武家地でありましたから、何丁目なんていうものはない のです。  お綱はそんなことを言いながら、雨戸をあけて窓から姿を見せた。その様子を「蔵前風な丸髴 くづしに|被布《ひふ》を着て、琴か茶か|插花《はな》の師匠でもありさうな|身装《みづく》り」(二六一頁)と書いてある。「蔵 前風な丸髢くづし」なんていうものは、聞いたことがない。男の方には「蔵前本多」なんていう 髪があって、札差どもの髪がそれだったのですが、女の方には蔵前風はない。まして「丸髷くづ し」なんていうものは、見たことも聞いたこともない。作者はどんな髪の結い方を想像させよう とするのか、それもわからない。それから「被布」です。被布は天明の末に、尾上松緑が岩藤の 役をつとめる時に、舞台で被布を着た。松緑はどういうふうに使ったかというと、髪を結う時に 使ったので、それが当時の流行にたり、後家さん達は、被布を着なければならないようなありさ まであった。被布は女隠居のきまった着物というほどになったそうです。ですから「丸髷くづ し」なんていう髮は知らたいが、とにかく髪を結っている人の着るものじゃない。これは天明頃 に被布がはやった、ということを聞きはつって、こういう間違いを書くんだろうと思う。私が最 初に、見たものが不消化で出てくる、といったのは、こういうところです。それから琴だの、茶 だの、插花だの、そういう師匠というものが、明和頃にあったか。勿論なかったわけではない。 が、いずれも当時のは男子でありまして、女子でそういうものの師匠になることはない。女の師 匠が出てくるのは、もっともっと後の話です。  またここでお綱がこういうことを言っている。「いつ来てみても釘付けなので、業腹だから今 日は向うをコヂ開けて、この部屋へ上り込んで周馬の戻りを待つてゐた所が、大層草双紙が積ん であるから、肱枕をして読んでゐると……」というんですが、こんな家に草双紙が沢山積んであ るというのも、おかしな話だ。人気も何もないところで、おまけに周馬という者は独り者らしい のに、草双紙が沢山あるというのも変なことだが、第一明和時分に、どこにだって草双紙のある はずはない。普通に草双紙というのは合巻のことで、明和に合巻があったとしたら、それこそと んでもない話だと思います。  万吉とお綱の問答の続き(二六三頁)に「掏摸と目明し、オランダ|骨牌《かるた》で結ベましたね」という 言葉がある。この「オランダ骨牌」は、何か「上方の巻」にあった事件をいっているらしいので すが、オランダ骨牌は恐れ入った。博奕を打つくらいだから、|札事《ふだごと》も|賽事《さいごと》も、どっちもやったの でしょうが、この時分にオランダ骨牌なんぞを使っているはずはない。この時分のはメクリです。  そうしているうちに、ここへまた「お十夜孫兵衛」なるものが出て来る。こいつも前々からの 登場人物で、辻斬なんぞをする浪人者らしい。このなりがまた不思議なもので、「|茶柄《ちやづか》の大小」 をさしている。「茶柄の大小」といえば、柄が茶色をしているという意味なんでしょう。そのほ かに解しようがないが、どんたものか聞いたこともない。穿いているのが「|鮫緒《さめを》の|雪駄《せつた》」ーこ いつも知らない。被っているのが「十夜頭巾」、どうもわからないものばかりだ。万吉はこれま でにいろいろないきさつがあるので、こいつを縛りたくなる。その心持を書いた末に、「方円流 二丈の捕縄が、今に、てめえの喉首をお見舞ひ申して、その五体を俵ぐゝりに締あげるぞ」と書 いてある。捕者の方にもいろいろ流儀があるそうですが、「方円流」というのは、聞いたことが ない。捕繩の二丈あるというのも、聞いたことがない。目明し、手先と称するものが、自分で勝 手に人が縛れるものでないことは、すでに度々いっている。だから捕縄たどを持っている気遣い はたい。同心についている際には、十手も捕縄も持っているけれども、自分一人の時には持って いないのです。俵ぐくりなんぞは、素人臭い縛り方だ。米俵のように括しつけるというんでしょ うが、そんた縛り方をするなら、何流も糞もあったもんじゃない。  その時塀の中では、お綱が三味線を弾き出した。「薗八節か、隆達か、こつそりと爪で気まぐ れな水調子を洩らしてゐる」というんですが、誰もいないところに、三味線があるのも変な話だ。 「薗八節か隆達か」というけれども、隆達節なんぞを知っている者は、明和時分にあったはずは ない。「水調子」もいいが、「爪で気まぐれな」と書いてあるところをみると、爪弾きすることを 水調子と心得ているんじゃないかと思う。  二七一頁になりますと、孫兵衛のことを「相変らず持病の辻斬を稼ぐとみえて」云々と書いて ある。これは上方でもしばしば辻斬をして金を取ったので、江戸へ来てもそんなことをしている らしい、というのですが、明和頃の大阪にしたところが、また江戸にしたところが、辻斬をする ような、そんな物騒な時世じゃない。「帯も流行の伝九郎好み」、これもどんな好みがあったか知 りません。どんな模様か、色合か、それもわからない。伝九郎といえば、中村伝九郎でしょうが、 それならもっと時代が古いはずだ。それにしても伝九郎染の帯なんていうものは、聞いたことが ない。  二七二頁には「お綱が時々、插花の外稽古に出るやうな姿をして」云々ということがある。 「外稽古」たんていう言葉は、聞いたことがない。「出稽古」でしょう。女の師匠がなかったとい うことが、すでに一つある上に、出稽古という言葉さえ作者が知らないのは、いかにも気の毒な 感じがする。  孫兵衛は周馬の屋敷へ潜入しようとする。そこへ周馬が帰って来て、つかまえる。けれど一向 ひどく咎めもしない。武家の屋敷ヘ入ろうとしているんだから、無論家宅侵入罪で、町人の家で あっても大変なことです。しかるに武家屋敷の塀を乗り越えて入ろうとしている人間をつかまえ ながら、周馬はろくだまに咎めもしない。二七五頁以下に、二人の問答が書いてありますが、一 向に家宅侵入のことは咎めない。悪者同士だから、相身互いというつもりでもありましたか。昔 はなかなかそんなことは厳重で、門内へ入る入らぬということは、大変やかましかったはずだ。 作者はそんたことを知らないから、ここも変なことになっている。  そればかりではない、この旅川周馬というやつが、どんなふうをしているかというと、「二十 七八の小男」で、「若い侍の癖に、髪を|総髮《そうがみ》にして後ヘ垂れ、イヤに勿体ぶつた風采」と書いて ある。これは組屋敷を拝領しているんだから、同心に相違ないけれども、同心は総髪にしている はずはない。何をばかなことを書くのか。ここにまた孫兵衛のことを書いて、「丹石流の、|据物《すゑもの》 |斬《ぎり》の達人」とある。これも「上方の巻」以来、何度も繰り返されていることらしいが、丹石流と いう流儀は聞いたことがない。「据物斬」というのは、試しもののことだと思うが、これではど うやら剣術の方のことのように聞える。  周馬の屋敷は、表門はしまっているし、玄関は釘付けになっている。庭ロも錠が下りている。 そこで目明しの万吉は、「塀の朽た穴を探して犬の様に這ひ込んだ」とあり、孫兵衛は「門前の 捨石を足がゝりとし、塀の見越へ片手をかけて」|攀《よ》じ上った、と書いてある。周馬は主人だけに、 腰から鍵を出して、潜り門をあけて入っているが、それより前に来ているお綱は、どこからどう して入ったか、それが書いてない。作者も知らないとみえて「お綱は何処から入つたか知らぬ が」(二七三頁)といっている。  孫兵衛が周馬につかまった晩は、周馬は孫兵衛を外に待たしたまま、裏門へ抜けて、どこかへ 行ってしまった。孫兵衛は上方以来、お綱をつけ回している模様なのですが、こいつもその晩は 空しく引き揚げて行った。しかるに暢気千万なのはお綱で、「すッかり腰を据て、その屋敷を当 分の住居のやうに心得てゐる」と書いてある。これでは居催促じゃない、泊込み催促だ。そうや ってお綱の待っている座敷は、「一間どころを小綺麗に掃除して、納戸の隅から見つけてきた置 燈燵、赤い友禅の蒲団をかけてその中にうづくまり」、例の草双紙を見散らかしている。それば かりじゃない、「たど不便なのは食事だが、これもいつか当座だけの用意を求めてきたらしく、 |呉須《ごす》の急須に茶を入れて|栗饅頭《くりまんぢゆう》まで添へたのが、読み本の側に置いてある」とも書いてある。こ れは二七七頁から二七八頁に亙って書いてあるのですが、第一そういう明っ放しの家だのに、ど うして火があったでしょう。火の気のない家だとしたら、どうして茶が入れられたでしょう。急 須は当時はやりかけのもので、本来は煎茶の道具です。この頃とても、ごく新しい道具でしょう が、そんなものまでここにあったのか。それも一日二日の話じゃない、「八日と経つても、まだ 旅川周馬は帰つてこない」とあるから、一週間以上も、そうやって籠城していたとみえる。いく ら当座だけの用意を求めてきたといったって、八日間も栗饅頭ばかりで凌げるわけじゃあるまい し、今日のことにして考えてもわかりそうたものだ。 「緋友禅の|燵炬蒲団《こたつぶとん》に、草双紙と三味線に、玉露と栗饅頭。そこに蔵前風な丸髢の美人が、冬の 陽ざしを戸閉してゐたら、誰が目にも、この屋敷の若奥様か或はお妾様■、まさかに掏摸の見 返りが居催促とは見えたからう」(二七八頁)ーこんなことが書いてある。「緋友禅の炬燵蒲団」 なんていうものが、どこにあったか。前には「蔵前風の丸鬆くづし」と書いてあったが、今度は ただ「蔵前風な丸髭の美人」と書いてある。これはどっちがいいのか。崩すにしても、崩さない にしても、「蔵前風」というのはどんなものか。丸髭だとすれば、明らかに後家や女隠居ではな い。そういう女が被布を着ているのは、いよいよもって不思議だ。そんたなりをしている者を 「誰が目にも、この屋敷の若奥様か或はお妾様」とは何のことだろう。とんでもない話だ。奥様 は奥様、お妾はお妾なので、それが同じようななりをしていると思うほど、この作者は何も知ら ない。つまり今日の心持で考えるから、こんなことになるんでしょう。甲賀組の同心で、十五俵 一人扶持の家であってみれば、奥様もお妾もあったもんじゃない。  それからまた「さうかと思ふと、お綱はまた、お伽草子の拾ひ読みに、|優《はかな》い女の恋物語などを 見出して」云々とも書いてある。前は「草双紙」だったが、今度は「お伽草子」に変っている。 お伽草子といえば、申すまでもない足利文学で、それは今日にさえ伝わっていますから、あった かもしれないが、そんなものが、こんな家にありそうにも思われない。かりにあったとしたとこ ろで、お綱のような女が、お伽草子たどを読んで、何の興味を感ずるか。それからお伽草子の中 に、「儚い女の恋物語」たんていう、そんなお誂向きのものはない。これは作者が草双紙のいか なるものかも知らず、お伽草子のいかなるものかも知らぬということを、自分で白状しているよ うたものだ。  二七九頁になると、この屋敷のことを書いて、「この辺りはみな軒のかけ離れた隠密屋敷」と いっている。組屋敷といったところで、別にごちゃごちゃ長屋のように建っているわけではない。 「隠密屋敷」というものがあったと思っているのは、とんでもない話で、そんなものはありゃし ない。隠密をつとめているものの屋敷とすれば、桜田に御庭番の屋敷はありました。けれどもそ れを、「隠密屋敷」なんて言うことはない。陰でも言わないし、表向では無論言わない。  それから話が別になって、孫兵衛がこの屋敷に忍び込んで来る。かねて想いを懸けているお綱 が、この明屋敷みたいな中にいるのを知って来たので、何だか手込めにでもしそうなありさまに なっている。二八九頁のところを見ると、この屋敷の中の模様が書いてあるが、これがまた大変 なもので、「九間の橋廊下。渡ると直に部屋がある。右は書院、左は居間、昔、この屋敷の主人、 甲賀世阿弥のゐた頃はこゝを居所と定めてゐたものらしく、総て木口も|慥《しつ》かりとした別棟であ る」というんですがね。書院があるの、渡廊下があるのという建築が、十五俵一人扶持ぐらいの 者に出来ることと思っているのは、実に驚き入った話だ。  孫兵衛は、お綱を手取にするつもりで追い回す。袋廊下の真正面まで追い詰めると、その突当 りの壁に、「舶載物であらう、幅二尺七八寸、長さ五尺ほどな|玻璃《ギヤマン》の鏡」が嵌め込んである。こ の鏡へよろけた拍子に、お綱が手をつくと、「壁はクルリと一転して、あつといふまにお綱の体 は、車返りに|刎《は》ねこまれて姿を消し、孫兵衛の前には、たじ冷たい鏡だけが立つてゐた」(二九二 頁)と書いてある。明和あたりに、そんなガラスで出来た大鏡がありもしますまいし、またそれ を壁に嵌め込んでおくような建築もありそうでない。しかるに同じ頁に「がんどう|返《ささちち》しと呼ぶ非 常口は、武家屋敷の主人の居間近くには、必ずどこかに伏せられてあると聞いたが、当時、珍し い南蛮渡りの大鏡を壁に嵌めこんで、それから一体どこへつ父いてゐるのだらう?」といって、 |寵燈返《がんどうがえ》しのひっくり返るところが、武家屋敷のどこにもあったようなことが書いてある。こんな 話は決してあるもんじゃたい。あんまりばかばかし過ぎる。  そこへまたいつの間にか周馬が出て来て、孫兵衛との間にいろいろた問答がある。その中に、 二九九頁のところでーこれは書院の中らしいですがー部屋の柱にある|鈎《かぎ》のようなものを引く と、「床板ぐるみ奈落へ行くか、上の天井がヅンと落ちてくるか」というような仕掛にたってい るらしく書いてある。何者の住居にしろ、そんなばかなものがあるはずはない。  三〇三頁に、|法月弦之丞《のりづきげんのじよう》という人-これはお千絵の恋人らしいーの噂をして、「夕雲流の 使ひ手で、江戸の剣客のうちでも鳴らした腕前」といっているが、夕雲流なんていう剣術も、聞 いたことがない。それから周馬と孫兵衛が、仲直りに一杯やろう、といって外へ出る。その出口 を説明して、「真つ暗な、奥の一間へ入つて、床脇の壁をギーと押した。壁に|蝶番《てふつが》ひがついてゐ て開くのである。と、床下へ向つて深く、石の段がおちこんでゐる」(三〇四頁)と書いてあるが、 実に奇怪千万な屋敷だ。これは何も禄のごく少いものの家だからというのではない。いかたる大 禄の人でも、こんなばかな屋敷があるもんじゃない。こんなところを読むと、昔々流行した黒岩 涙香の翻訳物の探偵小説、あれから日本人は探偵小説が好きになったのですが、あの中にはこん な趣向があったように思う。  三〇八頁になって、下へ落ちたお綱が、まだ隣座敷に人がいる心持がするので、境を切り開こ      あひくち       丶 丶 丶 丶                                           けやき うとして、「ヒ首の柄をみづおちに当てゝ、力いつばい、板壁を突いてみた」が、欅か何かの厚 板とみえて、刃が通らない、と書いてある。ヒ首の柄を鳩尾などへ押し当てて、力一杯押してい ったら、必ず死んでしまいます。ここでは死んでいないようですが、一体何と思ってこんたばか たことを書いたのか。  それから今度は方法を替えて、「極めて大事をとりたがら、サクリ、サクリ……と|仮面《めん》でも彫 るやうにゑぐり初めた」ところが、だんだん板が削られてきて、ようやく向うを覗くくらいの穴 が出来た。そこでお綱が隣の室を覗くところに、「匕首の刃を|手裹《てうら》にして、ジツとゑぐりこんだ 穴へ眼をあてゝ覗いて見ると」と書いてある。「ヒ首の刃を手裹にして」というのはどんなこと か、これもわからない。  隣の部屋を覗き込んで見ると、そこは「普通と変らぬ部屋づくり、むしろ美々しい結構」で、 「金砂子の袋戸棚、花梨の長押、うんげんべりの|畳《ささ ち》ーそして、淡き|絹行燈《きぬあんどん》の光が、すべてを、 春雨のやうに濡らしてゐる……」と書いてある。こんたものは世間にあるものじゃない。この怪 しい仕掛の建造物は否定するが、金砂子の袋戸棚だの、花梨の長押だの、|繧繝縁《うんげんべり》の畳だの、絹行 燈だの、そんなものはあるでしょう。それはいいとして、「その床の間に向つて、繭たけた一人 の女性が黒々とした髪をうしろにすべらかし、ジツと合掌したまゝ」動かずにいる。これがお千 絵という世阿弥の娘なのですが、御家人風情の娘が、髮を「すべらかし」にしているのは、おか しいと思う。そんなばかなはずはない。そうしてどんな着物を着ているかというと、三一二頁に は「|白絖《しらぬめ》の雪かとばかり白いかいどりを|着《さ ささ》て、うるしの艶をふくむ黒髮は、根を紐結びにフツサ リと、|曲下《わさ》げにうしろへ垂れてゐる」と書いてある。御家人の娘などが、いかなる場合、どうし たわけか知らないが、|掻取《かいどり》なんかを着ているはずがない。押し込められている場合だけではない、 不断にも、お晴にも、身分柄として、掻取を着ているなんていうことは受け取れない。ここでみ ると、「黒髮は、根を紐結びにフツサリと、曲下げにうしろへ垂れてゐる」とあるが、作者はこ ういうのを「すべらかし」だと思っているんでしょうか。何にしたところが、こんな髪の結い方 をしているはずもない。こんたへんてこな髪をして掻取を着るに至っては、いよいよテニハが合 わない。  三二一一頁のところに、このヘんてこな建造物の説明がある。「鏡の裏から、お綱の墜ちこんだ 所は、昔、事あるごとに、甲賀組の者が、こゝへ集合して隠密の諜し合せをした評定場所。かれ 等の手にかゝることは、みな、秘密であり他聞を嬋るので、相談や打ち合せには、必ず、宗家の 穴蔵部屋に寄るものにきまつてゐた」というのですが、評定の場所なんていうことは、どういう 意味の言葉か、作者は知らたいとみえる。そうして隠密方が時々会う座敷が、別に出来ているも のと思っているんでしょう。だから組伸間の者は、そこを「お|鏡下《かがみした》」または「おしやべりの間」 といっていた、と書いてある。その隣の間が「密見の間」といった座敷で、そこにお千絵が乳母 と二人で押し籠められているのだ、とある。ばかばかしいにも何にも、全くお話にならない。よ くもよくも臆面なしに、こうしたでたらめが書けたものだと感心する。また読者も、これほど愚 弄されて、それでも無感覚でいられるとは、沙汰の限りだ。 下  三二七頁になると、舞台が替って、角兵衛獅子が出て来る。その角兵衛獅子が「ほう歯の日和 下駄をカラく鳴らし」と書いてある。日和下駄というものは、その頃にもありましたが、朴の 木歯なんぞはありません。それに私どもがおぽえてまでも、角兵衛獅子は大抵草履を穿いていた もので、ド駄を穿いているのは、明治になってからの話です。角兵衛獅子は宝暦以来のものだが、 明和・安永度には久しく来なかった、ということが、いろいろなものに書いてある。そんなこと は無論、この作者などの顧慮するところではない。この角兵衛獅子はどこにいるかというと、吉 原に近いところに住んでいるらしい。江戸時代の角兵衛獅子は、本当に越後から出て来たので、 木賃宿みたいなところを泊り歩いていたのです。家を持っているわけではない。  三三四頁にたって、駿河台の甲賀組の屋敷から火事が起ったことをいうところで、「すぐ、程 近い、すぢかひ|見《  ちさ》附の夜を見守るお火の見の上から、不意に耳おどろかす半鐘の音」ということ が書いてある。幕府の時分には、定火消というものがありました。それは一名を十人火消ともい って、その役屋敷が十箇所ありましたが、その中に筋違見附の火消屋敷というのはない。そこで 「ヂヤーン」と鳴った、というのですが、筋違には火消屋敷がないのだから、ただ見附を固めて いる人達が、半鐘を打つなんていうのも、おかしな話だと思う。ここには、「程近い」とありま すから、駿河台の側ということなんでしょう。そうすると駿河台に一つ火消屋敷があり、御茶の 水にも一つある。それらが一番駿河台に近いから、火事があったとすれば、この辺で半鐘を打つ わけだ。けれどもこういう近いところとすれば、「ヂヤーソ」と打つ気遣いはない。  これは前の屑屋に化けた万吉が、飯屋に入っているところで火事を知ったのですが、やはり同 じ頁に、「飯屋の二階から、三四人の若い者が、ころげるやうに降りてきた」と書いてある。飯 屋に二階建のはない。大概平屋です。  ところでここに書いてあるのをみると、「ボゥーと、白い煙がのぼつた」というだけなのに、 また二度目の半鐘が鳴る。しかも「つどけざまに乱打のすり|鐘《  ぱん》」と書いてある。「乱打のすり鐘」 なんていうものがあるわけのものじゃない。この作者は半鐘をすることを知らないんでしょう。 すりばんなら「ジヤーン! ジヤーン! ジャーン」なんて聞えるものじゃない。半鐘の打ち方 は、一つばん、二つばん、三つばん、つづけ打、すりばん等であった。  三三六頁には「一番鐘をついた見附のすり|鐘《 さぱん》に合せて、やがて遠く、両国のやぐらや鳥越あた りの御火の見でも、コーン、コ1ンと、冴えた二つ鐘をひどかせてきた」とありますが、両国の 櫓というのは、どこを指していうのか。「一番鐘をついた見附のすり鐘」なんていうのも、まる でわけのわからないことで、一番鐘といえば、お寺の鐘の話だし、「すりばん」なら火消屋敷で なく町方のことにたる。  それに続けて、三三七頁のはじめに、「自身番から板木が廻る」ということがある。近火の時 自身番から知らせるには、拍子木を打って回るのが古い仕方で、その後は金棒などを引いて歩い た。ところへもってきて「ドーン、ド1ンと裹通りを打つてくる番太郎の|太鼓報《たいこじ》らせ」というこ とも書いてあるが、番太郎というのは町木戸の番人で、町役人に付属している者です。これがそ ういう時に知らせて歩きもするんですが、太鼓を打って知らせるなんていうことは、どうも聞い たことがない。  この同じ頁に「紅梅河岸」という地名がありますが、明和時代の江戸図を見ましても、紅梅河 岸というところは見当りません。その次の頁で見ると、「紅梅河岸から上り道、突きあたる奴を 突きとばして、まつしぐらに、駿河台へ駈け上つた」とあるから、坂道になっているらしいので すが、紅梅河岸でなくても、何にしても河岸らしいものはない。この辺のところの地理は、どう して亠蕾いたものか。  万吉は一生懸命駆けて、例の作者のいう「墨屋敷」のところまでやって来た。けれども一向火 の手が見えないで、「あたり一面、夜靄のやうな薄煙りが、どこからともたく濛々と立ち迷つて ゐる」と書いてある。そこが火事であって、火の手が上ったから半鐘を打ったんだろうと思うの に、いよいよ火元の側まで来ても火が見えないとすれば、火消屋敷などではどうして火事のある ことを知ったか。甚だわけのわからない話だと思う。  それからその靄のような煙が、「人家のないお茶の水の崖ぷちからだと知れて、それツ、怪し 火だとばかり、皆その方へなだれていつた」と|書《  ち》いてあるが、人家のないところのはずはない。 現に甲賀組の屋敷があって、しかもその墨屋敷からの出火だというのです。ここの作者の説明に よると、この崖には、上の墨屋敷へ周馬が常に出入りする隠し道があって、|先刻《さつき》孫兵衛と一緒に 出て行った、そこから煙が出ていることになっているようだが、この辺の書き方は、ちっともわ けがわからない。  三五〇頁のところになりますと、「神田一帯、駿河台の上り口、すべて、人と提灯と火事頭巾 と、ばれんと|鳶《 ささ》口の光りばかりに埋まつてゐる」と書いてある。けれども駿河台は町家じゃあり ません。町家のたいところへ、一般の町火消や町の人足などが駆け付けるものじゃない。武家地 の火事を主として消すために、定火消というものがあって、これが出て行くことは出て行きます けれども、この方はなかたか堂々たるものですから、火事の場合で混雑はしても、町方のような ことはたいのです。  ここで話が替って、周馬と孫兵衛は、一杯飲みに出かけているのですが、その行った先という のは、「所は京橋、桜新道ー長沢町の裏あたりである」とあります。そんなところまで、どう してわざわざ飲みに行ったのか、それもいいが、この地名が「町鑑」を見ても見つからないのみ ならず、「そこは、|喜撰《きせん》といふ|額風呂《がくぶろ》の奥で、|湯女《ゆな》を相手に、世間かまはず騒げるやうな作り」 ということが書いてある。明和の二年に、こんな風呂屋なんぞが、江戸にあろうとは思えない。 元吉原が新吉原へ引っ越す時に、当時の町奉行は、移転の条件として、市内の売春婦を緕麗に掃 除した。その時に風呂屋というものは、すべて禁制してしまったのです。そこに使われていた湯 女、これは江戸のはじまりには、大分盛んなものだったらしい。勝山なんていうような有名な太 夫も、その風呂屋女だったといいます。明暦の大火とともに、江戸中にないはずの湯女だの、風 呂屋だのというものが、明和の江戸にどうして出て来たか。  この長沢町というのは、ここにもちゃんと「京橋」と書いてある。しかるに三五二頁を見ると、 そこで飲んでいた周馬の耳に「すりばん」の音が聞えた、と書いてある。そんた遠くまで「すり ばん」を鳴らすはずのものじゃない。今日の話にしたってわかりそうなものだ。  三五四頁に、火事の状態を説明して、「昌平橋御門から佐柄木町すぢ、連雀町から風呂屋町の 辺りまで、すつかり火の粉を被つてゐます」と書いてある、昌平橋御門というのは、何のつもり か。筋違には筋違見附の門がありましたが、昌平橋に門のあったことは、かつて聞かない。「風 呂屋町」なんていうのは、昔1の丹前風呂時代の話で、その時代とすれば、風呂屋町もあった に違いありませんが、明和の頃になっては、もう名前も残っていないのです。寛永度に丹後殿前 と申しました堀丹後守の屋敷、そのすぐ前のところは、佐柄木町から雉子町の続きで、昔はそこ を四軒町といっていたそうです。その町屋、すなわち四軒町のところに、丹前風呂があったので すが、そういうことは、もう皆が考証しなければわからないくらいになっていたのであります。 それを風呂屋町と書くに至っては、あんまりものを知らな過ぎる話だと思う。これではまるで、 話を明暦以前に引き戻したことになる。一方では風呂屋町なんぞがまだあるようなことを書くか と思うと、その次の頁には「護持院ケ原まで飛んでくると」ということが書いてある。風呂屋町 の存在している時分には、護持院はない。まして護持院を取り払って、そのあとが原になってい るなんていうことがありっこない。時代錯誤じゃない、時代交雑とでもいいますか。  三五六頁に「鳶の光、火事頭巾、火消目付の緋らしやなどが」|云《さ  》々とありますが、「鳶の光」 というのは何が光るのか、わけのわからない言葉だ。「火消目付」なんていう役は、幕府にはあ りません。従ってまた、それが|緋羅紗《ひらしや》のどんな装束を着るのか、そんな吟味にも及ばない話だ。  ここで十人火消のことを少しいっておきましょう。定火消の役になります者は、大概三千石以 上の旗本衆がなる。大変金のいる役回りだそうです。御役料三百人扶持、与力六騎、同心三十人 ずつ、一組についている。例の有名な「ガエン」というやつは、この手についているのです。旗 本衆が定火消をつとめるについては、いろいろた話もありますが、金持の旗本を貧乏にさせる役 向で、またその役を首尾よくつとめれば、出世も出来る、というようなものでもあった。それで すから、随分骨折って、自分の出世のためにつとめたというようなことも、あったのです。何に しても身柄がいいのですから、「火消屋敷の殿様」といっておりました。  それでなかなか威張ったものでありましたが、まず火事がありますと、高い火の見から出の太 鼓を打ちます。これは「ドン、ドン、ドン、ドン、ドン、ドン」と一つ重ねに打つ。これを出の 太鼓という。町方の火消人足ならば、出が掛るというところだ。そうすると火の見櫓の下にいる 者が、早く出馬を促すために、「火勢が強うござる」という。それをきっかけに、もう勢揃いを して飛び出す。あるいは遠い火事であれば、出火の知らせまでに打つのですから、下の方では、 「火が見えません」という。出馬を最も急にしなければならない時、すなわち近火の場合には、 「御太鼓直ります」という。もっと近火の時には、「御馬はいりません」という。この太鼓が直る という時には、どういうふうに打つかというと、「ドン、ジャン、ドン、ジャン、ドン、ジャン、 ドン、ジャン」と、太鼓と鐘とを一つ交ぜに打ったそうです。  これが町の方でありますと、「すりばん」が一番近い。その次が三つ、二つ、一つ、というこ とになってゆく。これは火消屋敷にしましても、受持の区域というものがある。町火消にしても そうですが、応援しなければならない区域があるし、またぐっと近い手許の火事もある。そうい う差別によって、忙しく打ったり、緩く打ったりするのです。ところがこの作者は、そういうこ とを一つも知りませんから、すぐ側に火消屋敷があっても、半鐘の音だけはさせるけれども、太 鼓の音なんぞは、ちっともさせない。太鼓を打つかと思うと、それは番太郎だったりして、話に ならない。定火消はどういうところでどう働くか、町火消はどういうところでどう働くか、そん なことなんぞも、一つも考えていない。だからこんなむちゃくちゃなことが書けるのです。  それから本文に返って、万吉は火事の紛れに、お綱とお千絵を救い出して、川べりへ来たこと が書いてある(三五九頁)。そうして持主は誰だかわからないけれども、もやってある船を見つけ て、それを解いて「手頃な小舟を社の裹へ曳いて来る」と書いてある。駿河台の絵図から見ると、 これは昌平橋の近所にあった船ででもありましょうか。杜というのは、|太田媛稲荷《おおたひめいなり》よりほかにな い。太田媛稲荷のところだとすると、川に沿うていない方は淡路坂ですから、船を動かせるはず がない。川の方は高い崖になっている。この頃は省線が通るので、切り崩して段がついています が、昔は切り立てたような崖だから、あすこへ船を引っ張って行くことが出来るはずはない。ま た昌平橋の近所なんぞに、船が繋ぎっ放しにしてあるはずもない。ここはすべて出来ない相談で、 そんなことがあったろうとも思われない。  それぞれの作者、この人のみではない、是非とも「江戸図」と「武鑑」とは、一通り見ておい て貰いたいものです。手近に便利な本もあるから、少々読む気さえあれば、アンマリでたらめに 書かずとも済みましょう。講談本でも、先代の神田伯山や宝井馬琴たどのを見ると、剣道の用語 も、この作者群によい程度であろう。これも読んで貰えますまいか。 林不忘の『大岡政談』 上  吉川英治さんの『鳴門秘帖』は大概なところでやめまして、今度は林不忘さんの『大岡政談』 を一通り見ようと思います。この大岡政談というのは講談物で、殊に今読む「鈴川源十郎」とい う話は、とっくの昔に、大川屋あたりの赤本も出ておりますし、それよりも前に、栄泉杜本もあ ったようですし、その後に博文館の「帝国文庫」の中にもあったと思います。大岡政談というと、 享保度の町奉行大岡越前守忠相の裁判、それが一般にいう大岡捌きなのでありますが、一体町奉 行というものを、裁判官だと思う、これが第一に間違いなので、町奉行は裁判官だけのものでは ありません。もし裁判する、捌きものという方からいいますと、古い時代にもいくらもあります が、江戸時代にたってからも、松平伊豆守信綱・戸田山城守|忠真《ただざね》などという人の伝記を見ますと、 いろいろ裁判をしていて、随分おもしろい捌きもある。この人の当時においては、これが名高か ったのですが、信綱も忠真も老中であります。老中といえば、誰も裁判官と思うものはない。江 戸の官制を知っておれば、老中も裁判をすることがあるし、町奉行も、寺社奉行も、勘定奉行も、 それぞれ皆裁判することがある。中には随分捌きものが上手で、巧妙な裁判をしている人もあり ます。けれども江戸時代の官制を承知しておるたらば、それらの人々を裁判官だとは思わないは ずです。ここにも一の間違いがある。  その上に、大岡捌きというものは、ばかに人気があるために、よほど物騒なものにたっている。 大岡捌きということで伝えられている話の大多数は、越前守の審理した事件でないのみならず、 誰の捌きでもたい、全く嘘た、桁え話が沢山入っている。そうしてこの大岡捌きというやつは、 皆実録体小説の形を成している。なぜ大岡をそういうふうに扱うかというと、裁判が上手だった ためもありますが、まだ『御定書百箇条』が出来ておりません時代、すなわち法律の不備な時代、 その中で裁判していったのでありますから、一律にきまったものでたかった。そこを規って、い ろいろな脚色の出来る便宜があるので、作者等が嘘をつきたいために、大岡捌きを振り回すよう な傾きもあるのであります。  けれども実録体小説にしたところで、大概程よく作られております。無論実録体小説の方は小 説なのですから、虚構仮作でも、何の差支えもたい。講談に致したところが同様で、おもしろく さえあればいいわけだから、必ず事実を伝えなければたらぬということはありません。これを背 負って林さんが書くにしても、やはり同様なわけだと思われる。けれども講談などになりますと、 上手に時世と付き合ってまいりますので、しばしば改作されております。すなわち大体が天保の 時代に持えてある。寛永の話でも、元禄の話でも、享保ないし化政度の話でありましても、時代 をぐっと引き下げて、なかなか如才なく時代を按配して、すっかり天保時代に嵌るように仕上げ てある。巧みに釣り揃えて、トンチンカンでないように仕立ててあるところに、中々の手際があ る。そうしてどの時代にも、決してあるべからざる事柄や、時代違いの品物などは出さないよう に注意してある。ある講談では、その辺がちと危いようなのもないことはありませんが、ちょい とつかまらないくらいにはしてある。ところが大衆小説になると、時代を上げるの、下げるの、 釣り揃えるのなんていうことは、全然知っていない。盛んにトソチンカンをやっても、平気でい るし、あるべからざる事柄や、あるを許さぬ品物を出して、でたらめをやってのけることが、通 り相場のようになっている。国際連盟について珍しくないようになった、あの認識不足という言 葉-それ以上なのが大衆小説の行き方であって、あるいは認識皆無かと思われるほどのことを やっている。この鈴川源十郎の話にしても、講談そのままに書いたらば、まだまだよかったかも しれませんが、趣向を振り替えて目新しくしようとした。元来江戸に対する認識のすこぶる怪し い作者が、向う見ずに目先を替えようとするんだから、たまったものではありません。  まず一番先に出てまいりますのは、開巻第一頁に、「江戸は根津権現の裏、俗に暁の里といは れるところに、神変夢想流の町道場を開いてゐる小野塚鉄斎」と書いてある。物が大岡政談なの ですから、どうしても享保度の話でなければならない。まあ「江戸図」を拡げて御覧なさい。根 津権現の裏手は、どんなところであったろう。そこに町道場があったか、なかったか。誰がそこ へ稽古に行きましたろう。まして「俗に暁の里といはれるところ」なんぞは、いい加減にも程が ある。  さてこの道場の定例で、十月の初めの亥の日に、「秋の大試合が催されて」云々ということが 書いてある。十月を秋というのは、現在の陽暦ならそれでいいでしょうが、享保でなくっても、 江戸時代を通じて、東京の初めまで陰暦が行われていたのでありますから、十月が秋だなんてい うわけはない。これだけのことも知らない。秋と冬と季が違っている。これらを季違いの沙汰と でもいうべきものか。お気の毒千万な話だと思う。  その大試合の日に、鉄斎が道場へ貼り出した文句、「本日の試合に優勝したる者へ|乾雲丸《けんうんまる》に添 へて娘弥生を進ず」(五頁)とある。この文体の異常なことは次に回しても、娘を懸賞にするのは、 随分と新し過ぎた話だ。腕前のすぐれたのを見込んで、嫁にやる、婿に取るというようなことは、 剣術遣いの畠に、いくらもあったことでしょう。けれども娘を懸賞にするというのは、時代も時 代であるし、また剣道の師範をする人として、いかにも浅ましい話で、どう考えても、あるべき 話だとは思えたい。「優勝したる者」なんていう言葉も、こんな時代に用いられているか。それ から「乾雲丸に添へて娘弥生を進ず」という女言は、これだけ読むと、娘と刀と両方与える意味 のようにみえる。しかるに本文を読んでみると、刀の方はその場だけ佩用を許すので、すぐに鉄 斎の手へ返すのだとある。まあ優勝旗みたいなものかもしれません。この辺のところは、すこぶ る現代流行のスポーッ向に出来ているが、この鉄斎の書いた文言に至っては、現代まで引き下げ たところで、とても作者の言うようには読めない。刀の方はそれとして、娘はどうするのかとい うと、これは貰ったきり返すのではないらしいから、いよいよもってわけのわからたいものです。  それにこの丈言も、大概は書状体に候文で書くのが通例で、さもなくば、漢文崩しの女章体で なければならない。この文言は、それでもなければ、これでもない。そうして家に伝わる大切た 刀を、優勝旗のように扱うなどということは、新しがった享保人だといえば済むかもしれないが、 時代柄としては、よっぽどおかしたものだ。剣道の師範といえば、武士の見本になるべきもので、 その鉄斎が自分の娘を懸賞に出す。婚姻は人倫の大事であることを知らぬ男だ。門下を奨励する のに自分の娘をもってしたとすれば、この鉄斎なるものは、武士道を汚し、人間を破壊する老賊 だ、といわなければならない。こんな大馬鹿者が、享保はおろか、いつの時代にも、武士の上座 におられるだろうか。  その試合に必ず勝つだろうと思っていた、諏訪栄三郎という美男子が負けてしまった。それを 見て、娘の弥生が自分の居間へ駆け戻って、「わたしを嫌つて態と負けをお取りになるとは、栄 三郎さま、お恨みでございます、おうらみで御座います。あ八・…わたしは、わたしは」と言っ て|哭《な》き伏した、と書いてある。教養ある武士の娘は、かかる事柄を、いかなる場合でも口外する ものではない。享保にはまだまだ古武士の遺風が存しておりましたから、その家庭も恋愛本位に はなっていない。躾、嗜みが伝統的なものを保持させていたはずだ。その一般の状況に対して、 除外例を求めたものともみえないのに、これは何たるありさまであろう。当時の武士の娘は、こ れほど躾、嗜みというものがたく、明っ放しな現代の女どもに似ていたものでしょうか。  作者は更にこの泣いている娘のことを書いて、「胸を掻き抱いて狂ほしく身を揉むたびに、緋 鹿子が揺れる。乱れた前から白い膚がこぼれるのも知らずに、弥生は止度もない熱い沮に浸つ た」といっている。緋鹿子というのは、娘弥生の島田にかかっていた切れかと思うけれども、髪 掛けの切れたどというものは、享保度にあろうとも思われない。その後にしましたところが、そ れは町家の娘に限ったものです。この緋鹿子が髪掛けでたいとすると、弥生の身体のどこについ ているか。まして揺れるようなところは、どこなのでしょう。いかに泣き崩れたにしたところが、 「乱れた前から白い膚がこぼれる」というのは何事か。武門武士の女性は、茶屋小屋の女どもや、 女郎や芸者どもとは違います。いかなる場合にも、嗜みを忘れるものではない。膚を見せるよう たことはありそうたことでないが、作者はどこを露出したものとしているのか。それとも娘を懸 賞に出すほどの馬鹿者を親に持つ効能が顕著で、曲線美を現すことを得意にしたのであろうか。  それから九頁に「必ず勝つと信じてゐた森徹馬と仕合つて、明らかに自敗をとつた」と書いて ある。この「自敗」という意味がわかりません。「必ず勝つと信じてゐた」というのは、諏訪栄 三郎の自信ではなしに、鉄斎がそう信じていたことらしいのですが、ジハイといったところで、 娼妓のやる自由廃業をつめて言ったのではない。「自ら敗れる」と書いてある。実に難解な言葉 であり、珍しい言葉である。  これに続いて、親父の鉄斎がとんでもないことをいう。「思ふところあつてか故意に勝を譲つ たと見たぞ、作為は許さん! もう一度森へかゝれッ!」1これは栄三郎がわざと徹馬に負け たと見たので、嘘の勝負はいけないから、もう一遍勝負し直せ、と指図したらしいのですが、嘘 でも粗相でも、勝負があったものを承知しないというのは、乱暴千万な話だ。もし故意に虚偽な 試合をしたとすれば、何故そんな武士にあるまじき人間を破門しないか。娘も恋慕っており、自 分もいいと思う栄三郎に勝たせたいから、もう一度立合いを命じたとする。そういうふうに、作 者は読ませたいのだとすれば、鉄斎なる者を馬鹿者、無法者にするのであって、武門武士の人間 らしく書くのではない。どうもこの全文を読んでみると、鉄斎を馬鹿者や無法者にしたいらしい ものとも思えないが、この書き方はまるでその逆になっている。  それから道場荒しが一人飛び込んで来て、ごたつくことがありまして、森徹馬がその道場荒し と立ち合う。そこに「タ、タッ、|瓢《へう》ツ! 踏切つた森徹馬、敵のふところ深く付入つた横薙ぎが、 |諸《もろ》に極つた」1「諸に極つた」というのはどういうことたのか。剣客の話も多少聞いているが、 この二行の意味は読めない。読者の誰が、この二行を読めるか。読んでわかった人がありました ろうか。懐へ深く入った者が、どうして横薙ぎが出来るでしょう。剣客の話さえ聞いていない、 素人料簡のでたらめなら、わからないのが当り前だが、あまりにでたらめ過ぎる。「諸に極つた」 などという言葉も決してありません。  一五頁になって、栄三郎が道場荒しのあとを追っ駆ける。これは道場荒しが、例の優勝旗みた いた乾雲丸を持って逃げたので、それを弟子どもが追っ駆けるわけなのですが、そこに「ぶつり と武蔵太郎の鯉口を押拡げた栄三郎」と書いてある。「武蔵太郎」というのは、帯剣の作者の名 であるらしいが、「ぶつり」というのは、根太でも押して、膿でも出したように聞える、「鯉ロを 押拡げた」というけれども、鯉口がひろがったり、つぽまったりするものだと思っているのか。 刀の鞘はゴムで出来ていやしない。  それからその斬合の中で、道場荒しのやつが、こんなことを言う。「此刀で、すばりとな、て めえ達の土性ッ骨を割り下げる時が耐らねえんだ。肉が刃を|咬《か》んでヨ、ヒクくと手に伝はらあ ナーうふつ!来いツ、どつからでもッ!」こう言って力んでいるのですが、この男は何者か というと、相馬家の浪人で、丹下左膳という者なのです。奥州から出て来た相馬の家来、それが 妙に江戸がった言葉を遣う。左膳の言葉は、このほかにもいくらも同様なのがありますが、奥州 者が江戸へ出て来て久しくおったにしても、こういう言葉遣いはちょっとむずかしいのに、出て 来て間のない左膳の口から、どうしてこんな言葉が出るのか。かりに奥州者でない、江戸の者だ ったにしたところが、享保度にこういう調子の言葉を誰が遣ったでしょう。それこそ「笑かしや アがる」とでも言ってやりたいところであります。  この騒ぎで、鉄斎は左膳のために斬り殺される。その変事を遡町三番町の旗本、土屋多門とい う人のところへ、弟子の徹馬が知らせに飛んで行く。この多門は百五十石小普請入というのです が、不思議たことには、その家に門番もいません。徹馬が門を敵くのを聞いて、庭番の|老《おやじ》爺が 「ちつ。何だい今頃、町医ぢやあるめえし」と言いながら出て来る。門番の爺さんでありそうな ものなのに、庭番が出て来る。庭番にしろ、門番にしろ、武家屋敷にいる人間が、「あるめえし」 なんていう言葉を遣ったとは、千万考えられたい。ところで中へ飛び込んだ徹馬は、「御主人へ 火急の用! と言つたまゝ、徹馬は敷台へ崩れてしまつた」というんですが、これはどういうこ となんでしょう。雪達磨や何かじゃあるまいし、「崩れてしまつた」では、とても生きた人間の こととは思われない。一体どういうつもりで書いたのか、作者は日本語を知らないんじゃたいか と思う。  それから二一頁のところに「戦国の昔を思はせる陣太刀作りの脇差」ということが書いてある。 これは鉄斎の手許にあった名刀二口のうち、大の方を道場荒しに俊われてしまったので、残りの 小の方を栄三郎が帯して、道場荒しを捜しに出る、というところに書いてあるのです。ずっと前 四頁にも「陣太刀作り」という言葉がありますが、陣太刀造りの大小、そんなものがあったか、 なかったか、マアありそうもないと思います。  ここで話が替りまして、道場荒しの丹下左膳という者を匿まって置きます鈴川源十郎、すなわ ちこの小説の主人公のことになる。そこにこういうことが書いてある。「年齢は三十七八、五百 石の殿様だが、道楽旗本だから髮も大髫ではなく、小髭で鬢がうすいので、ちよいと見ると、八 丁堀に地面を貰つて裕福に暮してゐる、町奉行支配の与力に似てゐるところから、旗本仲間でも 源十郎を与力と紳名してゐた」1この八丁堀に地面を貰っているということ、これは武士なら 誰でも貰っているので、拝領地というものがある。幕府の家来でなくとも、諸侯の家来でも同じ ことです。「地面を貰つて裕福に暮してゐる」というと、町屋敷を貰って、その地代の上りが丸 丸入る、そういうもののことを言いならしている。これは多く医者とか奥女中とかいうものが、 町屋敷を拝領して、チ.の地代の上りが入る、これは全く余計な所得ですから、その多寡によって 有福にも暮せるわけですが、旗本衆にはないことです。与力は八丁堀に住っている。その住って いる地面は、拝領地であるのに相違ない。けれども地面を貰っているから、八丁堀の与力は有福 なのではありません。与力の中でも、年功で吟味与力にたりますと、いろいろ役得がありまして、 有福にも暮せたのですが、何にしても現米八十石のものですから、どの与力も有福なのではない。 頭のことはたしかに八丁堀風というものがありましたが、これは八丁堀に限ったもので、道楽に だって旗本がそんな髪を結うものではない。八丁堀のみならず、町与力は不浄役人というので、 他に転職することが出来ない。大塩平八郎も、大阪の町奉行についていた与力でしたから、いく ら出世したくても転役が出来ない、いろいろ運動してみたけれど、ついに転役出来なかったとい う話が残っている。不浄役人といって、一種のけものにされていたので、いかなる場合にも、将 軍に謁見することなどは出来ない。旗本とは身分違いのものです。それですから、いくらドラな 旗本であっても、与力の真似なんぞをするものはない。与力という|諢名《あたな》をつけるなんていうこと は、なおさらありません。作者は旗本というものも知らなければ、与力というものも知らない。 だからこんなばかなことを書くのです。  それからその続きに、源十郎の父は、鈴川宇右衛門といって大御番組頭だったが、「源十郎の 代になつて小普請に落ちてゐる」と書いている。小普請に「入る」とはいうが、「落ちる」とは いわない。また「この頃ではすつかり市井の蕩児になりきつてゐる」ともありますが、「市井の 蕩児」といえば、町の道楽者ということである。たとい小普請でありましても、武士であって町 人ではないんだから、どうしたって町の道楽者になれるはずはない。そういうことも作者は知ら たいとみえる。  二二頁にたって、小十人の|土生《はぶ》仙之助というやつが、源十郎のことを「何だ、鈴川」と呼んで いる。いくら身持が悪くって、どう零落して手許が苦しいようになっても、旗本は旗本です。小 十人の土生仙之助などが、五百石の殿様である人をつかまえて、「鈴川」なんて言って呼放しに するはずはない。もっともこの仙之助なるものが変な者で、「元小十人、|身性《みしやう》が悪いので誘ひ小 普請入りをいひ付かつてゐる」と書いてある。「誘ひ小普請入り」というのは聞いたことがない。 その風体を見ると、「着流しの|背《うし》ろへ脇差だけを申訳にちょいと横ちよに突差して、肩さきに|弥 造《やざう》を立てゝゐようといふ人物」とある。元小十人で今小普請になっているというのですから、全 く武士の身分を失っているんじゃない。こいつが大刀もなく、脇差一本になっている。しかもそ の脇差を、うしろの方へ、申し訳にちょいと横ちょに突き差すというのは、一体どういうことな んでしょう。わけがわからない。「弥造」というのは、例の拳固を二つかためて、肩先のところ へ突っ込んでいるやつですが、それは「弥造をきめこむ」という。「立てる」というのは、いま だかつて聞いたことがない。  こういう変な連中が、源十郎の家に集って、博奕をしている。その中に「櫛巻お藤」という女 がいるのですが、櫛巻という髮は浅草の茶屋女にあって、それが評判になって以来、多くたった ということを聞いている。このお藤もろくなものじゃないけれども、浅草の茶屋女が櫛巻で名高 かったのは宝暦度の話で、それ以前に櫛巻をしていた女は、身分のいかんに拘らず、あったとい う話を聞かたい。  この鉄火な女のお藤が、|胡坐《あぐら》をかいている様子を書いて、「紅い|布《きれ》が半開の牡丹のやうに畳に こぽれて、油を吸つた|黄楊《つげ》の櫛が、貝細工のやうな耳のうしろに悩ましく光つてゐる風情」なん ていっている。この「紅い布」というのは、どういう布がどこについているのか。この女章でみ ると、緋縮緬の|褌《ふんどし》でも締めていたのかと思われる。|莫連《ばくれん》な、博奕でもしようというような女が、 赤い褌なんぞを締めている。そんな|野暮《やぼ》な話があるもんじゃない。江戸の女の意気な姿、鉄火な 姿というものを、作者はまるで知っていないのだ。  それから又「この女はこれでお尋ね者なのだーかう思ふと源十郎は、自分が絵草紙の世界に でも生きてゐるやうな気がした」ということが書いてある。「お尋ね者」というのは、親殺し・ 主殺しのほかにはないはずだ。作者はそんたこ止を知ってて書いたかどうだか。「絵草紙の世界 にでも生きてゐる」という、これは何と解していいのか。芝居の中で売る絵草紙番付というのが ある。それのことなのだろうか。しかしどうも芝居の中で売る墨摺一遍の絵草紙ではなさそうだ。 そうするとこの絵草紙は、どういうものを指していったのかわからない。おそらくは、作者が絵 草紙という言葉を思い違いしているんでしょう。  二六頁にたると、博奕を打っていた連中が帰ったあとで、おさよという雇婆さんの身の上を、 源十郎が聞くところがある。「して藩は何処だ?」ーこの藩という言葉は、維新の少し前あた りには、ざらに言った言葉ですが、昔は言わなかったものです。まして享保度の人は、何藩なん ていうことは決して言わない。こういうことは、時代を釣り揃えることを知らない。ーいつ時 分の言葉ということを知らないから起るのです。  そこへこっそりと丹下左膳が帰って来る。帰って来たのはいいが、戸の外から「おい! 源十、 鈴源、俺だ」という。こいつは相馬中村の|士《さむらい》で、|徒士《かち》だというから、ごく軽いものです。それが 天下の御直参、しかも旗本の殿様をつかまえて、「源十」だの「鈴源」だのといって呼ぶのは、 到底あり得べきことでない。武士に階級のあったこと、階級によってどういうふうになるか、と いうようなことを知らないから、こんなことを書くんでしょう。更に甚しくなると「なあ鈴川、 いやさ、鈴的、源の字」ーまあ一体何たることだろう。随分けしからん言葉遣いもあったもん だと思う。  一体この丹下左膳というやつが、何で道場荒しをしたかというと、奥州中村の殿様、相馬内膳 亮という人が刀剣が好きで、名刀を|蒐《あつ》めておられるが、関の孫六の刀がどうしても手に入らない。 だんだん捜しているうちに、根津権現裏の剣道指南、小野塚鉄斎が持っている両刀というものは、 孫六の作のうちでも最もすぐれたものだということがわかって、手段を尽して所望されたけれど も、鉄斎は承知しなかった。そこで是非その刀が欲しいということから、ついに徒士である左膳 を江戸へひそかに出して、その刀を獲る方法を講じた。徒士といえば、前にも言った通り、ごく 身分の低いものです。しかるに作者は徒士ということを書いていながら、「れつきとした|藩《さささ》士が、 何故身を|痩狗《そうく》の形にやつして」なんていっている。|作《ち 》者は徒士のいかなるものかを知らない。 「れつきとした」といえば、馬廻りとか、物頭とかいう位置でなければならない。藩によって食 禄の多い少いはありましょうが、位置はさしたるものではない。徒士が「れつきとした士」なん ていう大名があるもんじゃありません。  左膳は殿様から命を受けて、江戸へ出て来る。その時に「不浄門から忍び出」たと書いてある。 不浄門というのは締め切ってあるもので、あいているもんじゃない。左膳が逃げ出した翌日、出 奔したということが知れて、藩籍を削られた。逃げ出すならどこから逃げ出してもいい。何のた めに不浄門なんていうものを、殊更に持ち出したのか。それからまた維新の間際になっては、出 奔・脱藩がいくらもありましたが、享保度にはまだそんなものはありません。出奔となれば、藩 籍を削られる、いわゆる改易ぐらいで済むものじゃたい。こういうことも知らないから、こんな ことを書くんでしょう。殊におもしろいのは、ここの文章で、「その翌る日、お徒士組丹下左膳 の名が、故識れず出奔した廉をもつて削られたのである」(一三頁)と書いてある。何のことだか わからない。私は藩籍を削られたことと読んで上げたが、これはよほど上手に読んで上げたつも りたので、字の通り読んでは、何のことだかわかりません。  ここで話が別になって、源十郎が蔵前の札差のところへ、金を借りに行くところにたる。三三 頁に「やでん帽子の歌舞伎役者に|尾《つ》いて、近処の娘たちであらう、稽古帰りらしいのが二三人笑 ひさ父めいて来る」と書いてある。一体享保度の蔵前を、どんなところだと思っているのか。あ んな町に役者なんぞが歩いているはずはない。猿若町へ三座が引っ越した、それは天保の話だし、 これは享保だ。稽古帰りの娘ー蔵前のみならず、享保度の江戸中に、そんたものがいるはずは ない。もしいたというなら、作者は証拠を挙げなければならない。  ここに出て来る鼓の与吉という男、これは前にも出ていたようですが、「駒形でも顔の売れた 遊人だ」と書いてある。源十郎はこいつを供につれて来たんですが、駒形なんていうところが、 享保度にどんな所だと思っているか。あんなところに顔の売れた遊人なんぞがいたと思うのか。 享保度の侠客の模様が知りたければ、マア手近な『|関東潔競伝《かんとうけつきようてん》』でも見るがいい。  源十郎が金を借りに来た両口屋嘉右衛門、これは大口屋をもじったのでしょうが、そこの様子 を書いて、「蔵の戸前をうしろに、広びろとした框に金係りお米係りの番頭が、行儀よくズーツ と居列んでゐるのだが、この札差しの番頭は、首代といつて好い給金を取つたもので、無茶な旗 本連を向うへ廻して、斬られる覚悟で応対をする」といっている。享保度には随分無法なことを 言って、札差を困らした者もいたようですが、金係、米係と二手に分れているほどではないし、 旗本とせり合うために高給の番頭を抱える、なんていうことも、まだ享保度にはなかったようだ。 あったというなら何にあったのか、お聞き申したいと思う。  それから源十郎が懸け合っている中に、「しかしなあ兼公」(三四頁)という言葉がある。五百 石の殿様が、兼公なんて言うはずがない。兼七なら兼七と、必ず名を呼棄てにするので、職人同 士が呼ぶように、何公なんていう言葉が、殿様の口から出るはずのものではない。  その続きに「源十郎の|顳顴《こめかみ》に、見るみる太い|蚯蚓《みエず》が這つてくる。羽織をポンとたゝき返すと、 かれは腰ふかく掛け直して」云々と書いてある。金を貸せないといって断られたので、更に談判 するところなのですが、「腰ふかく掛け直して」というのをみると、これは店先で談判していた とみえる。金を貸そうが、貸すまいが、五百石の殿様を店先であいしらう、なんていうことは、 札差どもは決してしない。札差と旗本衆との間柄たどを、江戸のことを何も知らない人間どもが、 書こうとするのが|洒落臭《しやらくさ》いので、こんな時に、どういうふうに取り扱うか、どんな言葉で話をす るか、そんなことは大衆作家風情の知り得ることじゃない。まあ普通でいえば、五百石の殿様が こんなところへ自身で来るはずはありません。特別に身を持ち崩した鈴川源十郎だから、ここヘ 来たものとする。そうすればいくら鼻つまみでも、殿様は殿様相当の取扱いをするにきまったも のです。  それからそこへ鉄斎の娘に惚れられるほどの美男、諏訪栄三郎がやって来る。これは兄貴の代 理に来たので、本来なら用人が来べきところなのですが、そのまた用人の代理で来た。そうする とそれに対して、それはどうも恐れ入ります、座蒲団を持って来い、お茶を持って来い、といっ て、番頭が取り持っている。これは次男坊か三男坊か、部屋住の者が来たので、その兄は三百俵 だというのですから身柄も低い。それでもしきりにちやほやする。そこで源十郎が気がついてみ ると、「自分には茶も座蒲団も出てゐない」(三五頁)と書いてある。この座蒲団だ。座蒲団とい うものは、今日では珍しくも何ともないが、享保にはないものです。享保に座蒲団を敷いて坐る というのは、どうしてもあるべきことじゃありません。  栄三郎は事情を話して、「三期の玉落ちで、元利引去つて苦しくないから、何うだらう、五十 両ばかり用達つて貰へまいか」と言っている。三季の玉落ちというのは、幕府時代には俸禄を、 春の御切米、夏の御切米、冬の御切米というふうに渡すから、これを三季の御切米という。三期 ではない。玉落ちの話もありますが、大分面倒臭い話だから、これだけにしておけばよかろうと 思う。ここで作者が使ったのは、冬の御切米のことらしいのですが、三季の御切米というものは、 春四分ノ一、夏四分ノ一、冬四分ノ二、すなわち半額渡すようになっている。栄三郎の兄は三百 俵だから、冬の御切米がいくら貰えるかというと、百五十俵です。これを米の高に直すと十七石 五斗だから、一石一両にして十七両二分にしかならない。ところが享保度は一石一両にならない のですから、十二三両ぐらいなものでしょう。作者は「三百俵の高で五十両はお易い御用だ」と 言っているが、どういう勘定にすれば、お易い御用になるか。百五十俵貰うところで、五十両借 りられれば、どうしたって元利引き去って、皆済出来るはずがない。三百俵全部受け取ったとこ ろで、五十両という金にはならないんだから、「番頭は二つ返事」どころじゃない。何というむ ちゃな書き方でしょう。  前に源十郎は、三十両貸せといって談判している。五百石で三十両借りたいといったのだ。そ れにしても今十月だから、春夏の米は受け取っている。これは冬の見込みに相違ない。前借があ ったといえば、またこの計算も面倒なことになりゆきますが、五百石というと知行のある人が多 い。知行のある人なら、札差にかかり合うはずはないのです。領民からじかに領主へ納めるので、 御蔵の米を受け取るはずがない。したがって札差が間にからむ必要もなくなる。が、作者はこう いうことも知らない。三季の御切米もわからない、米の相場も知らない。そういうものを知らな い人間が、札差の話なんぞを書くのは、実に生意気千万な次第で、何ともお話にならない。 下  兄貴の実印を持ち出して、両口屋から金を借り出した諏訪栄三郎は、その足で浅草寺内の水茶 屋の女のところへ行こうとする。その姿を「着流しに雪駄履き、ちぐはぐの|大《  ちち》小を落し差しにし た諏訪栄三郎」と三八頁に書いてある。これは例の陣太刀造りの脇差と、普通の刀をさしている から、こういったんでしょう。陣太刀造りのことは前に言いましたが、それを落し差にするとい うのは、どういうさし方であるか。作者はそういうことを知っていて書いたのか。「着流しに雪 駄履き」というけれども、この時分に小身者の部屋住が、雪駄なんぞを穿いたかどうか。  三九頁になると、源十郎に言い付けられた与吉が、栄三郎の持っている金を取ろうとして、側 へ出かけて行って「もし、旦那さまー」と声をかける。そこのところに、「栄三郎が、黙つて 振向くと、前垂れ姿のお店者らしい男が、すぐ眼の下で米揚きばつたの|様《さ  》にお|低頭《じき》をしてゐる」 と書いてある。前に与吉のことを書いた三三頁には、どんな着物を着ていたかということはなか ったが、「駒形でも顔の売れた遊人」とあるのです。これは往来の話であって、着物を着替える 場所なんぞはたいのに、いつの間にか「前垂れ姿のお店者らしい」姿に、早がわりをしている。 どういう場合にしろ、遊人が前垂れを掛けている気遣いはない。またいつの間に着物を着替えて こんなふうになったか、それもここには書いてない。  それに続いて、与吉がしきりに店の者らしい様子をして見せるので、「これが一つ間違へば何 処でも裾を捲つてたんかを|切《 ささ》る駒形名うての兄寄とは思へない」云々と書いてありますが、尻を まくって坐り込むの、痰火を切るのといったようなことが、享保の世界にあったと思っていると みえる。  与吉は両口屋の店の者だといって、馬鹿丁寧な言葉を遣っている。栄三郎はこいつを引っ張っ て正覚寺ー俗に|榧寺《かやでら》といいますーの境内へ入って行く。そこに「正覚寺の山門を覆ひつくし て、この辺りで有名な|振袖銀杏《ふりそていてふ》の古木が生ひ繁つてゐる」と書いてある。|公孫樹《いちよう》で名高いのは蔵 前八幡で、一名「銀杏八幡」というのがあったけれども、榧寺の方にはそんな公孫樹の木はあり ません。まして「振袖銀杏」なんて名のついた公孫樹はたい。焼けはしましたが、正覚寺は今で も本地にちゃんとあります。  正覚寺の本堂の前で、与吉が只今お渡しした小判に間違いがあるから、それを見せていただき たいといって、栄三郎の金を出させようとする。五十両といえば大金だのに、往来で出して見せ ろ、そんなことがあるものでない。大金の取扱いというものを知らないから、こんな趣向を立て るので、頭から出来たい相談なのです。まして武家に対して札差、札差でなくても町人から、そ うした仕向けがあるべきはずがない。もしそんなけしからぬ申し出をすれば、イヵサマ者なのを 自白すると同様なものです。自体相手になる者はあるまい。町人と町人との間でも、そんな無造 作な大金の扱いはありません。江戸時代は措いて、今日でもあるまい。そこの押問答のうちに 「侍の懐中物に因縁をつけるとは、貴様、よほど命のいらぬ奴とみえるな」(四一頁)という言葉 がある。後々までも「因縁をつける」というようなことは申しましたけれども、そういう言葉は、 相当な士の遣うものじゃない、決して言うはずのない言葉です。町人でも言わなかった。  押問答の末に栄三郎が、両口屋まで同道せよ、と言って出かける。栄三郎がいうまでもなく、 そういう場合には、はなはだ恐れ入りますが、唯今差し上げました金子につきまして、申し上げ たいことがございますから、店までチョットお立帰りが願いたい、というはずです。そのうしろ から与吉が、「するりと脱いだ|甲斐絹《かひき》うらの袢纏を投網のやうにかぶせて、物をもいはずに組み ついた」と書いてある。作者はたった今三九頁のところで、「前垂れ姿のお店者らしい」と書い たばかりたのに、ここではまた半纏を着ているという。「お店者」といえば店員なんだから、そ ういう者が、羽織も半纏も着ているはずがない。殊に甲斐絹の裹のついているなんぞは、無論の 話だ。半纏を着ていたとすれば、半纏で前垂れを掛けていることになる。そんな様子をしている 者は、裹店の嗅にはあるが、男にはない、店の者ならなおさらのことです。享保には限らない。 いつの時代でも、そんたものはありません。これは十頁足らずの間で、作者が二度早替りをさせ ているものとしか思われない。  四二頁になると、頭から半纏をかぶせられた栄三郎が、何だか妙におかしくなったという心理 状態を説明して、「まるで自分が茶番でもしてゐるやうに」云々と書いてある。今日でいう喜劇、 昔の茶番ですが、その茶番という言葉は、いつごろからあったものだと思っているのか。  与吉はここで栄三郎に取って投げられる。その時にすばやく、栄三郎の懐にあった五十両の財 布を取った。|掏摸《すり》というやつは、よくこんなことをするものだから、それはよろしい。けれども 何の嗜みもない人間ならともかく、栄三郎は一流の奥義を極めたといわれている人だ。そういう 人が、掏摸に懐の物を取られるたんていうことは、あるべきことではない。もしあったとすれば、 栄三郎の武芸も怪しいものだということにたる。  そういったいろいろな取り遣りがありまして、与吉は取った財布を抛り出して逃げる。栄三郎 は与吉のあとを追って行く。投げた財布は、.計画通り源十郎が拾ってしまう。そうするとそこヘ 仙人みたいな変な人物が出て来て、「天知る地知る人知る……両刀を帯して徳川の禄を食む者が 白昼追ひ落しを働くとは驚いたな」(四六頁)と言っている。江戸時代に幕匝をつかまえて、「徳 川の禄を食む者」なんていうことは決して言わない。徳川家なんていう言葉も維新後に起ったの で、維新前までは、徳川家だの徳川氏だのということは、士でなくても、誰でも言わなかった。 時代のことを知らたいと、どうしてもこういうことが多く出る。大衆小説の連中は、皆こういう ふうがあるように思う。  源十郎はその仙人みたいな男を斬ろうとしたが、男は源十郎の手を押えて動かさたい。「指を ふりほどかうとあせつた源十郎も、虚静を要とし物にふれ動かずーとある擁心流は拳の柔と知 るや、容易ならぬ相手と見たものか」云女(四七頁)とあるが、何だか柔道の講釈みたいなこと で、しかも極めてわけのわからないことだ。こういうでたらめも、大衆小説につきもので、どこ から見つけたかといって、詮議するまでもないことです。こんなものを何と読むのかと思うと、 大衆小説を愛読している人の気が知れない。  四八頁になると、またこの仙人みたいな男の言葉として、「政事を私し、民を絞る大盗徳川の 犬だけあつて、|放火《ひつけ》盗賊あらための役が、賊をはたらく」ということが書いてある。この男は前 に源十郎のことを「八丁堀か」といっているのですが、ここでは「放火盗賊あらため」と改正し ている。「|火付盗賊改《ひつけとうぞくあらため》」というものは、八丁堀の与力・同心のほかにあったので、これは町奉行 所属のものではありません。|御先手《おさきて》といって、槍組・鉄砲組の中から出役する。だからこれを加 役といいました。八丁堀の与力とは大変違うのだが、ここではごちゃごちゃになっている。無論 作者がその区別を知らないからでしょう。  それから「政事を私し、民を絞る大盗徳川」なんていうことは、江戸時代に言った者は、決し てない。そんたことを高言する者はなかった。のみならず源十郎のような、幕府から禄を戴いて いる者が、そんなことを黙って聞いているはずはない。いかに身を持ち崩したやくざ旗本であっ ても、こんたことは聞き流せるわけのものではないのです。もう一つこの一句で思い出すのは、 薩長が新政府で|跋扈《ばつこ》するとともに、江戸の幕府というものをむやみに悪くいうことにして、学校 の教科書たんぞにもそういう意味のことを書いた。大衆小説の作家なんぞは、わけもわからずに、 そういう教育を受けたから、わけもわからずに、こんなことを書いている。幕府の功罪というも のは、六十年たった今日でも、まだ本当に考えられることが少い。教育というものは恐しいもの で、時に赤いものを黒いとすることもある。明治になって以来の教育に、妙な意味合いのあった ことは、中華民国と称するようにたってからの支那が、排日教科書を作った意味合いと似ている ところがある。それがまた今日思想の悪化なんていうことになりゆくので、わヅけもないことを 書いた大衆小説の中に、みだりに徳川氏を罵る文字が多いのをみて、われわれは深く悲しむ。こ の作者等がわからずにいることよりも、この無考えな作者を作り出した教育というものについて、 甚だ心を痛めるのであります。  五二頁になりますと、栄三郎が自分の気にいった女のいる水茶屋のところへやって来る。その 水茶屋は「浅草三杜前」で、「ずらりと並んでゐる掛茶屋の一つ、当り矢といふ店である」と書 いてある。享保当時の三杜の前に、ずらりと掛茶屋が並んでいたなんていうことは、何の本にも 書いてたい。どこからこんなことを持ち出してきたか。掛茶屋といえば、ちょっと休んで茶の一 杯も飲むようたところですが、この掛茶屋にいる女、すなわち栄三郎の惚れ込んだお艶という女 のことを、「紺の香もあたらしいかすりの|前《さささ》かけに赤い襷」と書いてある。これもずうっと時代 のおくれた話でありまして、国貞あたりの錦絵にこうした姿が残っております。とても享保の話 とは思われない。思われないばかりじゃない、享保の話でないことは、三社前にずらりと並んだ 掛茶屋と同じことです。  このお艷という女の親父は、奥州中村の領主相馬大膳亮の家来だといいますから、前に道場荒 しをやった、片目の丹下左膳というやつと同藩だ。左膳は|御徒士《おかち》だったが、これは|御賄頭《おまかないがしら》で、 いくらか役がいい。これが長の暇を取って、江戸へ来ていたが、病気になって死んでしまった。 親父の病中から、浅草三間町の「かぢ富」なるものが、いろいろ世話をしていたが、親父が亡く なって後、おふくろは本所の旗本鈴川源十郎のところへ、下女奉公に出る。娘のお艷は水茶屋へ 奉公することになった。武士の娘に生れたものが、時節柄とはいいながら、茶屋女になるという のは、随分気の毒な女だ。ところがそれまでずっと世話してくれた「かぢ富」が、お艷が水茶屋 へ出るようになったら、急に調子が変って、前に用立てた金を計算して返せといって、どんどん 催促して来る。その金高が大枚五十両というのです。五十両というものをどう勘定したか知らな いがーーまた「かぢ富」なるものはどんな人か知らないが、浪人者親子なんぞに、融通しようた って、なかたか出来るもんじゃない。享保度に小判で五十両、そんな多分な金を用立てられると 思うのは、金の位というものを作者が知らないからです。  茶屋女が右左に五両の金だって出来るもんじゃない。ところへ毎日催促されるから、お艶はひ どく困って、栄三郎に相談した。栄三郎はすぐに承諾して飛び出したが、それから兄貴の印を持 ち出して、両口屋から|騙《かた》り取ったようたわけだ。そうして正覚寺で一活劇あった上、ここへ持っ て来たのですが、丁度その日に栄三郎の兄貴、大久保藤次郎の用人が両口屋に立ち寄って、栄三 郎が五十両借りて行った話を聞いた。そこに「判をちよろまかして大金を騙るとはいかに若殿様 でもすておけないとあつて、白髮頭をふり立てた重兵衛」と書いてある。兄貴の藤次郎は三百俵 で、それでも殿様とはいわない。その家によっては、絶対に殿様といわないこともないが、まず 三百俵では殿様といわない家の方が多い。よし兄貴の方を殿様というにしたところが、厄介者の 栄三郎のことを、「若殿様」なんていうわけのものじゃない。「若殿様」という時には、必ずその 相続人でなければならない。作者はそんなことも知らたいとみえる。  五六頁になって、私がびっくり仰天したのは、それまで「掛茶屋」とか「水茶屋」とか書いて あったお艶の店が、楊弓場だったことです。「金的に矢の立つた当り矢の貼行燈」とあるから、 これは楊弓の的に相違ない。楊弓場ならば、掛茶屋でも水茶屋でもない。水茶屋と楊弓場と兼帯 にしている店なんぞはありゃしない。何を書くのか、この人のものはさっばりわけがわからない。  それでこの店の様子はどんなものかというと、五七頁に「|葦簾《よしず》のかげに、|緋毛藍《ひもうせん》敷いた腰かけ が並んで、茶碗に土瓶、小暗い隅には磨き上げた薬罐が光り、菓子の塗り箱が二つ三つそこらに 出てゐるーありきたりの水茶屋の|設《しつ》らへ」と書いてある。菓子を売っているような楊弓場は、 決してない。これが楊弓場だとすると、薬罐の光ったのはどうか知らないが、矢取女に御馳走ぶ りを見せるために、客が菓子を沢山取るようなことはよくあった。その時には、菓子屋が菓子箱 に入れて持って来る。けれどもそれは、もう幕末から明治へかけての話で、享保時代の話ではな い。  それからそこへ源十郎がやって来て、「当り矢」にいる栄三郎に斬り付けようとするところで、 「うしろに葦簾を掻つ捌いた白光に、早くも身を低めた栄三郎が腰掛を蹴返したとたん」とある のをみると、水茶屋のような模様でもある。そうしてまた例のきまりきった、「去水流居合、|鶺 岶兩剣《せきれいけん》の極意」なんていうことが書いてある。何のことだか相変らずわからたい。「神変夢想の|平 青眼《ひらせいがん》だ」ともあるが、「平青眼」なんていう言葉も聞いたことがない。この作者もまた、「正眼」 のことを「青眼」と書いている。  六二頁に「四六時中」と言う言葉がある。今日では一日が二十四時間ということになっている から、四六時中でもいいかもしれないが、昔は時計の方から数えていって、二六時中でなければ いけない。そんなことさえ知らないとみえて、澄まして四六時中と書いている。  源十郎と栄三郎がそんなことをやって、ごたごたしている間に、与吉は鈴川の屋敷ヘ飛んで行 って、丹下左膳に栄三郎の居所を知らせる。そこで六三頁をみると、「左膳さまー丹下の殿様」 といって、与吉が声をかけている。一合取っても武士は武士であるのに、遊人の与吉風情が、そ の名を呼びかけるというのは、あるべきことではない。それから丹下左膳は徒士です。幕府の徒 士にしたところが、七十俵五人扶持という身分だ。そんなものをつかまえて、「殿様」なんてい うことは、決してあるもんじゃない。この「左膳さま-丹下の殿様」はどっちも悪い。これは 江戸時代の武士の階級を知らず、その階級について、言葉の違うことも知らない。この作者ばか りじゃない、この点になると、大衆作家はお揃いで、無知無識を御披露に及んでいる。  話替って栄三郎とお艷ー二人は御米蔵の裹手、首尾の松のところにもやってある船に乗って いる。お艷が店をしまってから、町々を「あてどもなく彷徨つて」ここヘ来たというのですが、 この船にはどこから乗ったのか、「江戸図」で見ても、その時分に船のあったところは、山谷堀 か、浅草御門のところまで来なければない。その船の中で、お艷は栄三郎のことを、「若殿様」 と言っている。若殿様は前の場面にもあったようですが、この女も|先刻《さつき》の用人同様、何も知らな い。士0娘であれば、部屋住の次三男を「若殿様」というはずのたいことぐらい、知っておりそ うなものだ。  二人がここでいろいろ話しているうちに、栄三郎に焦れている弥生のことを、お艶が言い出し て、どうも気になってならぬ、と言う。それに対する栄三郎の言葉が大変なものだ。「たとへ弥 生どのが|何《と》のやうに持ちかけようと」(六五頁)ー栄三郎というものは、この小説の中では、相 当な人柄らしくなっているのに、この言葉は何事でしょう。これではまるで人情本中の人物だ。 武士の言葉も知らず、武士の境涯ー特に相当に見られる武士のことなんぞは、全く知らない。 それほど武士に理解のない作者が、何のために武士のことを書こうとするのか。浅草橋から来た のでもなし、山谷から来たのでもなし、わけのわからない船で、首尾の松まで持って来る作者に は、いかにも相当のところである。  そういう妙な場面があって後に、「えへん」という咳払いが近く聞えた。二人が耳を|欹《そぱた》てて聞 くと、「聞えるものは、遠くの街をゆく夜泣きうどん屋の売声と、岸たかく鳴る松風の音ばかり ーもう夜もだいぶ更けたらしく、大川の水が|杙《くひ》に絡んで黒ぐろと押し流れて」云々(六六頁) と書いてあるが、「夜泣きうどん」というのも、この場合、しかもこの時代にどうであるか。江 戸ならば|饂飩《うどん》でなかりそうなものだ。饂鈍でいいにしたところが、この時代にそんなものを夜売 って歩くのがあったかどうか。「岸たかく」というけれども、首尾の松あたりは、向河岸だって 岸が高くはなっていない。「大川」という名も、両国橋から先の方をいうので、首尾の松あたり を大川ということはありません。  そうすると「恋路の邪魔をして甚だ済まんが、わしもちと退屈して来た。もう出ても良から う」という声がして、今まで|艫《と も》の方に船具の綱でも纏めてあるのかと思ったところから、人間が 起き上った。これでこの船はどこから乗って来たんでもない。首尾の松に繋いであった船だとい うことがわかる。栄三郎とお艷は、三社前の水茶屋からここまで歩いて来て、首尾の松に繋いで ある船に乗った、ということになる。そうなると首尾の松には、いつでも船が繋ぎっ放しにたっ ていたようだが、そんなばかなことはない。また繋いであったにしても、どこからその船に乗っ たか、こいつも不思議な話だと思う。ここによく屋根船を繋いだ話があるが、それはもっと後の 話で、享保頃のことじゃない。首尾の松に繋いで意気事のあったのは、その後の屋根船の話なの ですが、この二人の乗った船ー艫の方に人間が菰を被って寝ていたというのは、一体どんな船 のつもりで書いたのか。さっばりわけがわからない。  六八頁になると、この変な人間が、お艷の顔を覗きながら「御新造」と声をかける。「御新造」 という言葉も、ある階級の妻女をいうので、こんな茶屋女のなりをしているようなものにいうべ き言葉ではない。御新造様といえば大分のもので、町家ならば|御上《おかみ》さん、武士ならば御新造、と ほとんどきまっていたのですから、茶屋女などに対して、|笑談《じようだん》にもそんたことを言うはずがない。 これは前に正覚寺の公孫樹の辺で、源十郎を押えつけて、五十両の金を栄三郎に返させた、仙人 みたいな人物なのですが、栄三郎が御尊名はと聞くと、「蒲生泰軒と申す」と名乗っている。ど こにおいでなさるかというと、この辺に繋いである船は皆自分の宿だ、だからおれに用があるな ら、ここへ来て川へ石を三つ投げろ、と言っている。これでみると、首尾の松の下には、いつで も繋ぎっ放しの船があったとしか思われない。密会したり何かするのには、屋根船でないと具合 が悪いが、この船はどんな船か、作者は何とも説明してないからわからない。  ところへ左膳・源十郎以下大勢の者が丶栄三郎を襲撃するためにやって来た。それからまた、 例の剣劇が始まるのですが、ここの言葉が不思議たもので、「ひた押しに来る青眼陣の剣林」「自 源流水月の|相《すがた》」(七○頁)「無韻の風を起して撃発した栄三郎の利剣」(七一頁)・どれもこれも、 不思議にわけのわからない言葉ばかりだ。これも読んでわかる人があるとすれば、驚き入るより ほかはない。同じく七一頁に、「地に伏さつて|鬼哭《きこく》を|噛《か》む者」なんていうことがあるが、「鬼央を 噛む」というのはそもそも何のことなんでしょう。実にわけのわからん言葉だ。  七二頁にも「神変夢想流の鷹の羽使ひ」「ふたゝび虎乱に踏込まうとするとき」というふうに、 不可解な言葉が盛んに出てくる。そうして両方がぶつかり合っていると、その騒ぎを聞きつけて、 「番所がお役舟を出したとみえて、雨に濡れる御用提灯の灯が点々と……」(七六頁)と書いてあ る。この番所というのはどこか、御役舟というのは何のことか、ちっともわからない。それに続 いて、「泰軒が艪に力を入れて、舟が一ゆれ揺れた」とありますが、繋ぎ捨てた船に艪があるで しょうか。船を繋ぎ捨てる場合には、艪だけは船頭が持って行くはずのものだが、この船にはあ ったとみえて、泰軒がしきりに漕いでいる。  ここでまた話が替って、栄三郎の兄の大久保藤次郎の屋敷へ、小野塚鉄斎の従弟に当る土屋多 門という旗本衆が、栄三郎を自分の養子にしたいーこれは鉄斎の娘弥生を自分の娘分にして引 き取ってあるから、それに|妻《めあわ》すために栄三郎をくれろという話なのですーという頼みに来る。 そこに「力ーン……カ1ン! とけふも、近所の刀鍛冶で槌を振る音が間伸びして聞こえる」 (七六頁)と書いてあるが、江戸の市中に刀鍛冶の住んでいることはない。まして鳥越辺にいよう とは、なおのこと思われない。  藤次郎はしきりに多門のいう養子の話を断っている。その中に「当方は蔵前取りで貴殿は|地方《ぢかた》 だ」(七七頁)という言葉がある。藤次郎は知行がありませんで、蔵前の俵取というやつ、土屋の 方は知行がある、けれども蔵前取だから卑しい、知行があるから貴い、というような、身分の上 の差があるわけではありません。これにはいろいろ計算問題がありまして、計算しなければわか らないことですが、その辺のことも考えて、こういうことを言ったのか。これでは俵取と知行取 との間に、截然たる高卑の区別があるように聞える。  藤次郎はまた「往くゆくお|役出《やくで》でもすれば」とも言っていますが、「お役出」というのはどう いうことか、無役でいる者が職を得る、何かの役につく、そういう場合には、「御番入」という のが幕府時代の通例で、御番入をしなければ、出世が出来たい。だから御番入をすることを、皆 大そう喜んだものです。けれども、「お役出」という言葉は、江戸時代にはない。これが藤次郎 の言葉とすれば、そんなことも知らない男だということになる。  それから栄三郎が両口屋から五十両騙り取った話を聞いて、多門の考えたことが、地の丈に書 いてある。「部屋住みの|分米《ぶんまい》が僅少なことを察してやれば、ちよいと筆の先で帳面を繕つても済 むのに、何といふ気の利かない用人だらう」(七八頁)ー部屋住の分米が少いというけれども、 部屋住は分米を受けているものではない。御厄介者で、生涯兄貴の|臑《すね》を翊嚠らなけりゃたらないの です。もっとも身柄によれば、分知ということもあるが、何しろ三百俵の身上なんだから、兄貴 の方がすでに多寡が知れている。主人の弟だからといって、帳面を筆先でごまかして、融通をつ けてやるような、そんな用人がいるわけのものでもなし、また三百俵の身代で、五十両という金 をどうごまかせるものでもない。計算も知らず、武士の暮し向なんていうことも知らないわから ずやだから、こんなむちゃなことが書けるんでしょう。また兄の印形を持ち出して、札差から金 を借り出す、そうしたことは、人柄なもののすることではない。愛に溺れて性根を失った者のこ とだ。これだけで栄三郎は詰らない人間になってしまう。弥生も武門武士の娘なら、思い棄てる はずだ。今日の本能主義の動物らしいのとは違うはずだ。また多門も、性根玉を紛失した者を所 望するわけもないのだ。  八一頁になると、土屋多門のところに引き取られている弥生が、病気になっていることを書い て、「剣に鋭かつた亡父の気性を、弥生はそのまゝ恋に生かしてゐるのかも知れない」とある。 恋に生きるの死ぬのということは、武門武士の家に生れた者は、男でも女でも、そういうことを 最も恥かしいとしたので、弥生もちゃんとそう教え込まれていなければならぬのに、ここにはこ んなことが書いてある。そうやって物思いに沈んでいるところへ、土屋多門が帰って来る。「玄 関に駕籠が下りたらしく出迎への声がざわめいて、間もなく、女中の捧げる|雪洞《ぼんぼり》が前の廊下を過 ぎると、つ父いて土屋多門が、用人を随へて通りかゝつた」(八二頁)というのですが、五百石取 っている多門が、家へ帰って来る時に、女中が玄関に出迎えると思うほど、この作者は武家のこ とを知らたい。小旗本の最も手軽な暮しをしている、大ぽろな家ならば、とても女中なんぞを置 けないのがある。「奥様が取次に出る御不勝手」という川柳があるが、この土屋はそんなにひど い貧乏をしているのでもない。なみなみの旗本らしい。そうすれば、女どもが玄関まで出迎えに 出るなんていうことは、あるべき話ではない。  これからもっと読んでゆけば、まだまだ沢山指摘することは出てきますが、どうも変化がなく ていけない。というのは、大衆小説の本文なるものが、どれもどれも同じようた型のものなので、 それについてゆけば、自然同じことになってしまう。この人のものも、もうここらでやめましょ う。ちょっと頁をはねてみても、「意地と張りを立て通す深川名物羽織芸者」なんていうことが 書いてある。大岡の町奉行在職中に、羽織芸者があったと心得ているくらい、無法に出来ている んだから、お話に絶えたものだ。どうしてこんなものをいつまでも相手にして読んでいられるか と思うと、それが不思議で堪らない。 中里介山の『大菩薩峠』 上  中里介山さんの『大菩薩峠』(普及本の第一巻)を読んでみる。これは最初のところは、奥多摩 の地理や生活ぶりが書いてあるので、そこに生れた作者にとっては、何の造作もない、まことに 危なげのないところでゆける。しかし例の通り言葉遣いや何かの上には、おかしいところがある。 それから武家の生活ということにたると、やはりどうもおかしいところが出てくる。これは大衆 文芸として、早い方のもののようでありますが、怪しい方でも同じく早いということになるんだ ろうと思う。  一二頁のところで、宇津木女之丞の妹だといって、この小説の主人公である机竜之助を訪ねて 来た女がある。その言葉に「竜之助様にお目通りを願ひたう存じまして」とあるが、この女は実 は文之丞の女房で、百姓の娘らしい。女之丞は千人同心ということになっている。竜之助の方は どういう身柄であったか、書いてないからわからない。道場を持っているし、若先生ともいわれ ているけれども、あの辺のところに、郷士があったということも聞いていない。竜之助の身分は わかりませんが、しばらく千人同心程度としても、「お目通り」は少し相場が高い。「お目にかか りたい」くらいでよかろう。書生さんを先生といえば、かえってばかにしたように聞える。わず かなことのようだけれども、これも各人の生活ぶりを知らないから起ることだと思う。  それからそこで竜之助のところにいる剣術の弟子達のいうことを聞くと、「賛成々々」とか、 「宇津木の細君か」とかいう漢語が出る。これはおよそ文久頃と押えていい話だと思うが、こん たわけもない漢語のようでも、まだザラに遣われている時ではない。 「宇津木文之丞様の奥様」ということもここにあるが、千人同心などというものは、三十俵か五 十俵しか取っていないのですから、そういう者の妻を、どこからでも「奥様」なんていうはずは ない。奥様のことは、実に度々繰り返して言いましたが、大衆文芸というと、申し合せたように、 こういう間違いを繰り返しているんだから仕方がない。ここでもまた繰り返しておきます。  一八頁に竜之助の言葉として、「如何なる人の頼みを受くるとも、勝負を譲るは武術の道に欠 けたる事」とある。剣道とか、武道とかいう言葉はあったでしょう。「武術の道」なんていう言 葉は、この時代としては不似合である。  四十頁の御嶽山で試合をするところ、双方の剣士を呼び出すのに、一方の「甲源一刀流の師範、 宇津木女之丞藤原光次」はいい。一方を「元甲源一刀流、机竜之助相馬宗芳」という。これは 「平宗芳」というべきはずのところだと思う。たしかにこれは間違っている。同じところにある 「音無しの構」というものは、撃剣家の方では、何流にもないという話を聞いている。そういう ことは、あるいは小説だけに、勝手に持えてもいいかとも思われるが、氏名を呼ぶ方は、こうい う場合に、姓のほかに在名を遣うことは知らない。一方は立派に源平藤橘の藤原で呼んで、他方 も平氏であるのに殊更に在名を呼ぶのは、わけが分らない。これは剣術の流名や何かを、いい加 減に栫えるのとは違って、折角書いている小説を、わざわざ嘘らしくしてしまうようなものだ。  四二頁に「呼吸の具合は平常の通りで木刀の先が浮いて見えます」と書いてあるが、「浮いて 見える」という言葉は、普通落着かぬ意味に解せられる。これも用例が違っているように思う。  五二頁になると、場面は江戸のことになって、本郷元町の山岡屋という呉服屋へ、青梅の裏店 の七兵衛という者が訪ねて来る。そうして山岡屋の小僧に向って、「旦那様なり奥様たりにお眼 にかゝりたう存じまして」と言っている。また奥様だが、これもいけない。「旦那なりおかみさ んたり」と言わなければならぬところです。町家で「奥様」というのは、絶対にあるべからざる ことで、この近所にいくつも「奥様」という言葉が出てくるが、そんなことは江戸時代には決し てない。  五三頁に「以前本町に刀屋を開いておゐでにたつた彦三郎様のお嬢様」ということが書いてあ る。刀屋を開いている、なんていう言葉も、この時代に不相応なものだ。お嬢様もお娘御と改め たい。  五七頁になって、七兵衛に連れられて来たお松という小娘が、「そんな筈は無いのよ」と言っ ているが、これもおかしい。もう十一二になっている娘、今こそ零落している様子ですが、以前 は相当の町人であったらしいのに、その娘にこういうことを言わしている。これはいずれにも、 ごく幼年の者の言う言葉でなければならない。  ところへこの店に入って来たのが、「切り下げ髮に被布の年増、ちよつと見れば、大名か旗本 の後家のやうで、よく見れば町家の出らしい|婀螂《あだ》なところがあつて、年は二十八九でありませう か」(五五頁)という女なのですが、これはどうも大変なものだ。何でも旗本の妾のお古で、花の 師匠か何かをしている女らしいのですが、「大名か旗本の後家のやう」というのも、ありそうも ない話だ。大名の後室様が、供も連れずに、のこのこ呉服屋なんぞへ員物に来るはずのものでな し、旗本にしたところが、同様の話です。しかも「よく見れば町家の出らしい婀螂なところがあ る」というんですが、そんなものが大名や旗本の家族と誤解されるかどうか、考えたってわかり そうなものだ。江戸時代においては、そんなばかなことは決してない。  この妙な女が五八頁のところで、七兵衛とお松に声をかけて、「もしく、あのお|爺《とつ》さんにお 娘さん」と言っている。これもおかしい。世慣れた女であっても、何か力みのある女らしくみえ るのに、こんなことをいう。そうかと思うと、また二人に向って、「お前さん方は山岡屋の御親 類さうな」と言っている。いつも買いつけにしている町人の家、その親類に「御」の字をつける のは不釣合だ。しかるにまたこの女は、「ぞんざいといふのはわたしの言ふことよ」とも言っで. いる。二十八九にもなっている女が、武家奉公をしたことがある者にしろ、ない者にしろ、こん な今の女学生みたいな言葉を遣うはずがない。この「わ」だの、「よ」だのというのは、すべて 幼年の言葉で、それもごく身分の低い裹店の子供のいうことです。たとえどういう身柄の者にせ よ、二十八九にもたる女が、そういう甘ったるい口を利くのは、江戸時代として受け取ることは 出来ない。  六五頁に「下級の長脇差、|胡麻《ごま》の蝿もやれば追剥も稼がうといふ程度の連中」ということが書 いてある。「下級の長脇差」というのは、博奕打の悪いの、三下奴とでもいうような心持で書い たんでしょうが、博奕打は博奕打としておのずから別のもので、|護摩《ごま》の灰や追剥を働くものとは 違う。追剥以上に出て、斬取強盗をするようなやつなら、護摩の灰なんぞが出来るはずはない。 作者は護摩の灰をどんなものと思っているのか。要するにその時代を知らないから出る言葉だと 思う。  六九頁になって、丈之丞の弟の兵馬という者が、「番町の旗本で片柳といふ叔父の家に預けら れてゐた」と書いてあるけれども、三十俵か五十俵しか貰っていない千人同心が、旗本衆と縁を 結ぶことはほとんど出来ない。従って旗本を叔父さんなんぞに持てるわけがない。奥多摩で生れ た作者は、八王子に多くいた千人同心のことは委しく知っていそうなものだのに、こんたことを 書くのはおかしな話だ。  七六頁に「名主は苗字帯刀御免の人だから、斬つてしまふといふのは事によると嘘ではあるま い」と書いてある。「苗字帯刀御免」というのは、士分の待遇を受けていることである。そうい うものはたしかにあったに違いないが、苗字帯刀を許されたからといって、それ故に人を斬って もいいというわけではないはずだ。帯刀を許すというのは、無礼討をしても構わない、という意 味のものではない。無礼討でないにしろ、人を斬っていいということでは更にない。作者はそこ のところがわかっていないようにみえる。  八二頁の、竜之助が侘住居をしているところで、「ほんとにもう日影者になつてしまひました わねえ」と、今では竜之助の女房のようになっているお浜という女ー最初に女之丞の内縁の妻 だったーが言っている。奥多摩生れの女の言葉が、「日影者になつてしまひましたわねえ」な んぞは、なかなか|酒落《しや》れている。時代論のほかに、なおそこに興味を感ずる。「ホノトに|忌《いや》にな つてしまふわ」(八四頁)も同様に眺められる。そのほか、この女は盛んに現代語の甘ったるいと ころを用いていますが、面倒だから一々は申しません。  この竜之助が侘住居をしているのは、どういうところかというと、「芝新銭座の代官江川太郎 左衛門の邸内の些やかな長屋」と書いてある。そうして竜之助は、江川の足軽に剣術を教えてい る、というのです。代官の江川の屋敷が、芝の新銭座にあったかどうか、私は知りませんが、代 官の屋敷に足軽がいましたろうか。そうしてまたその足軽に稽古させるために、剣客を抱えてお くというほどのことがあったろうか。無論聞いたこともないが、何だか非常にそらぞらしく聞え る。  それからまだこの間に、言葉としてわけのわからないのがあるけれども、それは飛ばして九四 頁になります。島田虎之助という人の撃剣の道場へ、竜之助が行ったところの話で、「若し島田 虎之助といふ人が彼方此方の試合の場を踏む人であつたたら、机竜之助の剣術ぶりも見たり或は 其の評判も聞いたりして、疾くにさる者ありと感づいたであらうが、さういふ人でなかつたから この場合、た父奇妙な剣術ぶりぢやとながめてゐるばかりです」1こう書いてある。島田虎之 助は当時有数の剣客であったが、方々出歩くことをしないので、竜之助の剣術を見たこともなし、 評判を聞いたこともなかった、というのですが、竜之助の剣術が非常にすぐれたものであったな らば、ただ奇妙な剣術ぶりだといって眺めているはずはない。構えをみただけでも、これはどの くらいの腕前がある、ということがわからたければならない。それを見てわからないとすれば、 島田虎之助はえらい剣客でも何でもないわけだ。  一〇三頁になると、お松という女が、例の山岡屋へ買物に来ていた、花の師匠か何かのところ に世話になっていて、四谷伝馬町の神尾という旗本の屋敷へ、奉公に出る話が書いてある。この 四谷伝馬町はどういう町であったかというと、これは市街地で、武家地ではない。武家地でない のだから、大きた大名でありませんでも、旗本衆の屋敷でもそういうところにあるはずがない。 これは決してあるを得ないことです。  例の花の師匠のような女は、この神尾の先代の寵愛を受けたお妾だったので、今は暇を取って、 町に住っている。「院号や何かで通るよりも本名のお絹が当人の柄に合ひます」と書いてあるが、 大抵な旗本衆は、先代の妾たんぞは、相当た手当をやって暇を出すのが当り前です。この女は髮 を切っていますけれども、院号などを呼ばれるというのは、旗本の妾でありましたならば、当主 を産んだ人でなければ、そんなことはない。通りがいいから本名のお絹でいるんじゃない、旗本 の妾で、女の子や次三男を産んだのでは、みんなそういうふうになるのです。本人の好みでそう いうふうにしているんじゃない。  一〇六頁のところを見ると、神尾の屋敷内では、旗本の次三男が集って、悪ふざけをしている。 こんなことはあったでしょう。けれどもここに出て来る女中の名が、「花野」とか、「月江」とか、 「高萩」とかいうように、皆三字名だ。旗本なんぞの奥に使われている女どもは、大概三字名で ないのが通例であった。  一一六頁になると、新徴組の話が出てくる。『大菩薩峠』が新徴組のことを書いたので、これ 以来皆が新徴組のことに興味を持つようになったらしくも思うが、いよいよここでその新徴組の 話にたるのです。まずここは、 「新徴組」といふ壮士の団体は、徳川の為に諸藩の注意人物を抑ヘる機関でありました。 と書き出してある。もともと小説だから、善人を悪人に、悪人を善人に書いたところで、悪いわ けはないでしょう。しかし新徴組というものを、こういうものだと思う人があったら、それは大 変な間違いで、壮士の団体というのはまあいいが、決して「徳川の為に諸藩の注意人物を抑へる 機関」だったのではない。浪士取扱いという名目で、浪人を沢山集めた。これは清川八郎の|目論 見《もくろみ》で、それが新徴組になったのです。こんな歴史は今改めていうまでもない話であるが、諸藩の 注意人物を、どうするこうするというようなものじゃない。  一一七頁に、新徴組の一人が「隊長」と言って呼んでいる。「隊長と呼ばれたのは水戸の人、 芹沢鴨」と書いてありますが、新徴組にたってからでも、隊長とはいっていない。続いて、「新 徴組の副将で、鬼と云はれた近藤勇」ともあるが、副将という名称もなかった。近藤勇が売り出 したのは、京都へ行ってから、会津と提携した後の話で、会津の秋月|胤永《たねつぐ》に操られて躍り出した のが、近藤勇だ。ここに書いてあるのは、清川八郎を要撃しようという相談のところですが、清 川は浪士を集めることについては、発起人である。そうして清川を邪魔にするようになったのは、 京都へ行って帰って来てからの話です。その時に近藤は京都へ残って、新撰組が出来たのですか ら、近藤は江戸にいないはずだ。一一八頁には「殊に清川八郎こそ奇怪なれ。彼は一旦新徴組の 幹部となつた身でありながら、蔭には勤王方に心を運ぶ二股者」というようなことも書いてある。 これも話が違っているけれども、小説だから逆になっても構わずにやったのかもしれない。  一二一頁になると、「新徴組は野武士の集団である。野にあつて腕のムヅ痒さに堪へぬ者共を 幕府が召し集めて、最も好むところの腕立てに任せる役目」云々とある。これでは相当腕前のあ る、立派な人間ばかり集めたようにみえるが、事実の方からいえば、大変な間違いで、あの中に は、随分いい加減ぶしな人物が入っていて、小倉庵事件では青木弥太郎の下回りを働いて、泥坊 をやったやつさえある。それに浪士ばかりじゃない、随分剣道の心得のないやつもいたので、腕 前が揃っていたなんぞは、とんでもない話だ。大分向う見ずの奴等が多く集った、というならい いかもしれない。一二六頁に「彼等は皆一流一派に傑出した者共で」などとあるのは、全く恐れ 入ったことと言わなければなりますまい。  土方が大将になって清川を要撃する。ところが駕籠が間違っていて、中にいたのは、当時有数 の剣客島田虎之助だから堪らたい、皆斬りまくられてしまう。それはいいが、駕籠の中をめがけ て刀を突っ込んでも、何の|手応《てごたえ》もない。ごれは島田が「乗物の背後にヒタと背をつけて前を貫く 刀に備へ、待てと土方の声がかゝつた時分には、既に刀の下げ緒は繆に綾どられ、愛刀志津三郎 の目釘は湿されて居た。空を突かした刀の下から、同時にサツと居合いの一太刀で、外に振りか ぶつて待ち構へて居た彼の黒の一人の足を切つて飛んで出でたもの」で、外の者は全くそれに気 がつかなかったようになっている。いくら名人の剣術遣いでも、そんなおかしなことが出来得べ きものではない。  一二八頁には「島田虎之助は剣禅一致の妙諦に参し得た人です」と書いている。こんなことは 全く書かいでもと思う話なので、参禅してどうなったかというと、「五年の間一日も欠かす事な く、気息を調へ|丹田《たんでん》を練り、遂に大事を|畢了《ひつれう》しました」と書いてある。これでは参禅というのは、 気息を調えて丹田を練る、そうして大事を畢了する、というふうに読める。座禅というものが、 まるで岡田式みたいなものになってしまう。こんなことは書かずにおく方がいい。もし参禅とい うものを、そうしたものだと思う人があったら、それこそ大変な間違いを惹き起すことにたる。  一方ではどういう心持か知らないが、「|上求菩提《じようくぽだい》、|下化衆生《げけしゆじよう》」という心持で小説を持えている とか称する作者が、こんなことを書いたのを改めようともしないでいるのは、そもそも何の心持 があるのか、少年高科に登るということは不仕合せであると、李義山の『雑纂』の中に書いてあ る。一体作者は奥多摩に生れた、最も素性のいい少年であって、今日立派に成人して、世間でも 評判される人になってからよりも、その少年時代というものに、よほど美しい話を持った人だ。 いつにも三多摩からは人が出ていない。われわれの知っている人でも、結構な人だと思う人は、 多くは故人になってしまわれて、今残っているのは例の尾崎萼堂翁と、それより若いところでは、 大谷友右衛門に中里介山さん、ということになづてしまった。作者の心がけというものは、決し て悪くたかったんだが、少年高科に登ったのが不幸であるように、この『大菩薩峠』の評判がよ かったのが、作者にとって幸いであったか、不幸であったか。私はその後も時折作者に会うが、 会うたんびに作者はえらい人になっている。それは郷党のために、喜ぶべきことであるかないか、 むしろ気の毒なような気もする。  少年時代のいい話としては、学資を給与するから婿になれ、と富家から求められた時に、それ では学問をした効がないといって|卸《しりぞ》けて、独学することにして、長いこと小学校の教員をしてお った。こういう心持を持った若い人というものは、現代に求むるに難いところで、この一つの話 だけでも、作者の人柄がよくわかると思う。しかるに好事魔多し、『隣人の友』という雑誌を持 えて、時々送ってくれるのを見ると、「大菩薩峠是非」という欄があって、毎号それに賛嘆文を 麗々と掲げている。それを眺めて、惜しくない人であれば何でもないが、いかにも惜しい人であ るだけに、忍びない心持もする。世間は人を育てて下さって、まことにありがたいものであるが、 また人を損ねて下さるものも世間である。近来しきりに作者がいう「上求菩提」はよろしいとし ても、「下化衆生」に至っては、作者などのいう文句にしては、少々重過ぎる。それが適当にい える人が、世界に幾人いるだろうか。礼儀を超えてものを言う。殊に作者に対しては無礼である かと思うことをも、遠慮なしに言うのは何のためであるか。作者に対する自分の心持と同様の心 持の人は、けだし人間にも少いのではないかと思っている。  余計な話になった。さて二一三頁に「互の気合が沸き返る、人は繚乱として飛ぶ」というのは 何のことだろう。散りしく花の花びらででもあったら、繚乱もいいかもしれないが、実に困った 言葉だ。この作者もしきりに「|平青眼《ひらせいがん》」という言葉を使っているが、大衆作家はどうして揃いも 揃って「正眼」を青くするのか。青眼という言葉の意味を、知らないのであろうか。  それから島田虎之助に向った加藤主税、この両人が斬り合うところに、「鍔競合の形となりま した」と書いてある。ヘぽくたな人間どもたら、かえって鍔競合なんていうこともあるかもしれ ないが、これは両人ともすぐれた剣客である。殊に島田のごとき、当時の第一人とさえ聞えた人 物に、鍔競合なんてばかげたことがあろうはずがない。こういうばかなことを書くのはあさまし い。一度作者がこんなことを書き出して以来、その後にめちゃめちゃな剣道、柔道の話が|簇出《ぞくしゆつ》し た。その|俑《よう》を作ったのは恐るべきことである。 下  今度は一冊飛んで、第二巻の一番しまいにある「伯者の安綱の巻」というのを読んでみました。 これも甲州の話で、作者の生れたところに遠くない土地の話です。それだからまず間違いのない 方になっている。殊に場所が場所だし、誰もあまり知っている所ではありませんから、まことに 目立たなくなっていいかと思う。  ここで第一番に出て来るのが、有野村の馬大尽というものの家のことです。  この本の頁でいえば、五四四頁のところに、お銀という馬大尽の娘のことを書いて、「着けて ゐる衣裳は大名の姫君にも似るべきほどの結構なものでありました」とある。いくら大百姓であ りましても、大名の息女に似寄ったなりなんぞをするということが、この時代から取り離れたこ とでありますし、「大名の姫君にも似るべきほどの結構なもの」というのは、どういうものを着 ていたのかわからない。作者もそれが何であったかということを説明していない。この女が髪の 美しい女であって、「それを美事な高島田に結上げてありました」とも書いてあるが、大名の姫 君というものは、高島田などに結っているものではたいはずだ。これはどうしたことか。  これからこの娘が父親のことを、「|父様《とうささま》」といっている。いくら大尽の家の親父にしたところ が、その子供が「父様」なんていうことはないはずだ。  五四九頁になると、この馬大尽の家の女どもが、主人のことを話している。これは甲州の在方 の話らしいのに、「なのよ」というようた、すこぶる新しいところを用いている。これが文久頃 の甲州の女だと思うと、よっぽど不思議た気持がする。ここで、この家の女房のことを、「奥様 奥様」と言っているのは、例によっていけません。「変たお屋敷でございますよ」ともあるが、 百姓の家をお屋敷というのも何だか変だ。  五五〇頁になって、「こんな大家の財産と内幕は、わたし達の頭では目当が附きません」とい うことがある。今日からみると、何でもないようなことであるけれども、この時分の田舎の女が、 「わたし達の頭」なんて、「頭」ということを持ち出すのはおかしい。時代離れがしている。ここ で前の娘のことを、「お嬢様」と言っているのも、奥様同様百姓家には不釣合である。  五五四頁に、お銀という娘の言葉として、「あの娘は縞麗な子であつたわいな」ということが ある。「わいた」たんぞも、随分変な言葉だと思う。  それからこの百姓大尽の家に使われている幸内という若い者のことを書いて、「見ると幸内は |小薩張《こざつばり》した|袷《あはせ》に小紋の羽織を引かけて」云々(五五六頁)といっている。百姓の家に使われてい る者などが、小紋の羽織を着るものか、着るものでないか。  五五七頁に、お銀がお君という女中を呼んで来いと言う。それを傍輩の女中が羨しがって「お 前さんばかり、そんなお沙汰があつたのだから」と言っている。こういうことは武士の家でも、 よほどいいところでなければいけたい。お沙汰という言葉が、どんな場合に用いられているか、 少し昔のものを見れば、すぐわかる話です。いかに大尽にしたところが、百姓の家の召使が、 「お沙汰」なんていうのは不釣合な敬語である。  五五八頁に「お君はお銀様の居間へ上りました」とある。「上りました」というなら、「御居 間」といいそうなものだが、そこまでは行き届かなかったとみえる。「上りました」も、百姓の 家には不釣合だ。  五六三頁にも、お銀の言葉として「|其方《そつち》のお邸へ行つてはなりません」というのがある。この 大百姓の家は、主人、姉娘、弟と区切って、住居が栫えてあるらしいが、その一つを指してお邸 というのは、他に例のない言い方である。妙に気取ろうとするから、世間無類な言葉も出てくる わけか。そんなに大名めかしい生活をしているのかと思うと、その次の頁には、「三郎様は大き な下駄を引ずつて雨の中を笠も被らずに悠々と彼方へ行つてしまひます」と書いてある。三郎と いうのはお銀の弟で、「十歳ばかりの男の子」なのですから、子供が大人の下駄でも穿いて来た んでしょう。それは民間にょくあることだからいいが、大名めかしい生活の家とすれば、相当に 付きの者もいるし、その他にいろんな者もいるはずだから、子供がむやみに大人の下駄を穿いて 出るなんていうことは、させもせず、また相当な家に育った子なら、そんなことはしないはずだ。 大名・旗本といわず、大百姓・大町人にしても、子供のために別に住居を栫えておくほどなら、 その子供が沢山下駄の脱いである出入ロヘは行かないようになっているはずでもある。要するに 作者は、大名生活も知らず、百姓生活もよく知らないから、こんなことを書くのでしょう。  五六五頁になると、お銀がお君に向って、「まあ、お前、三味線がやれるの、それは宜かつた、 わたしがお琴を調べるから其れをお前の三味線で合せて御覧」と言っている。気取った生活をし ている人間なら、「三味線がやれるの」なんていう、野卑な言葉を遣うはずがない。しかしこれ はもともと百姓なんだから、身分のたい娘とすれば、そういうふうに砕けた方がいいかもしれな いが、それにしてもこれは砕け過ぎていて、甲州の在方の娘らしくない。それほど砕けたかと思 うと、「お琴を調べるから」という。お台所のお摺鉢がおがったりおがったり式だ。おの字の用 例を近来の人はめちゃめちゃにしている。めちゃめちゃにしているのではない、御存知たいので あろう。すべてのことを差しおいて、この短い会話だけ眺めても、一方では琴におの字までつけ るに拘らず、一方では「やれるの」と言う。一口にいう言葉のうちに、これだけ品位の違ったも のが雑居している。百姓の娘が増長して、悪気取りをして、こういうむちゃくちゃをいったとす れば、それでいいかもしれないが、作者はそういう気持で書いたものとも思われない。  同じ頁で話が替って、神尾主膳という人の家のことになる。ここに「組頭や勤番が始終出入し てゐました」と書いてあるが、これは「甲府勤番」とすればいいでしょう。次の頁に、主膳の家 で刀の話をしていることを書いて、「貴殿の鑑定並びに並々方の御意見を聞いて置きたい物があ る」これは主膳の言葉なのですが、この時分には「意見」という言葉を、こういう意味には遣っ ていないように思う。もっともこういう言葉にしても、ここの会話が全部現代式であれば、釣合 がとれたくもないが、古い言葉と新しい言葉とがごちゃまぜになっているので、余計変なのが目 立ってみえる。同時に話が嘘らしくなってくる。  五八二頁になると、前に出た有野村の百姓大尽のところへ、勤番支配の駒井能登守が来ること が書いてある。しかも先触れも何もなしに、能登守自身でやって来た。「新任の勤番支配が何用 あつて、先触もなく自身出向いて来られたかと云ふことは、此家の執事を少なからず狼狽させま した」というんですが、これなんぞも、どうしてもこの時代のこととは思えない。明治以後の成 上り時代なら知らぬこと、昔の百姓大尽の家に、執事なんていう人間を持ち出すのも、随分変な 話だ。  駒井能登守は遠乗りのついでに立ち寄って、この馬大尽の馬を見せて貰いに来た、というので、 「能登守には若党と馬丁とが附いてゐました」と書いてある。そうすれば、その若党なり、馬丁 たりが駆け抜けて、自分の主人が来て、これこれのことが所望である、という意味を通じそうな ものだ。この時代としては、それが普通の例になっている。しかるにそういうことをさせずに、 いきなり駒井が案内を乞うたというのは、またこの話を嘘らしくしている。  一体この甲府勤番支配というものは、二人ずつ勤めているので、勤番は五百石以下二百石以上 二百人、与力二十騎、同心百人、支配は四五千石の旗本が勤める。これはなかなか重い役で、芙 蓉の閭の役人であった。役高は三千石、役知が千石ある。随分重い役です。そういう重い役であ りますから、いくら遠乗りに出た時としても、先触れも案内も何もせずに、百姓家に飛び込むな んていうことはないはずだ。かりに若党と馬丁だけを連れて出たにしても、あらかじめその若党 なり、馬丁なりをもって、知らせなければならない。そうして主人のみならず、村方の者まで出 てお迎えしなければならないのに、この馬大尽の伊太夫は、一向そんな様子もなく、厩に連れて 行って馬を見せている。  この五八二頁に、「馬を見せて貰ひたいと思つて、遠乗の道すがらお立寄致した次第このまま 厩へ御案内を願ひたいもの」とあるのは、能登守の言葉らしいが、甲府勤番支配というものは、 百姓に対してこんな言葉を遣ったものでしょうか。伊太夫は厩から牧場へ能登守を案内して「せ めて此の中から一頭なりともお見出しに預かりますれば、馬の名誉でござりまする」なんて言っ ているが、能登守がその中の一頭の乗試しをして、帰って行く時になっても、一向見送りもして いない。横柄といっていいか、ものを知らないといっていいか、こういうことはこの時代に決し てあったとは思われない。  五八六頁になると、お銀がお君の髮を直してやろうといったので、お君が「お嬢様、それは恐 れ多いことでございます」と言っている。自分の主人に対してではありますけれども、「恐れ多 い」なんていう言葉を、百姓大尽の女中が遣うのは、あまり仰山だ。「恐入ります」というのが 当り前でしょう。  五九〇頁に、駒井能登守の若党の一学という者が、能登守の奥様の病気でおられることをいっ て、「一日も早く、お迎へ申したいと家来共一同その事のお噂を申上げない日とてはござりませ ぬ」と書いてある。ここで「家来共一同」ということもおかしい、不釣合だと思う。  五九五頁にたると、甲府の勤番士の剣道指南をしている小林文吾という者が、門人との応対の 中に、「遠慮なく云つて見給へ」という言葉がある。これもよほどおかしい。それに対して弟子 の方が、「今度御新任にたつた新支配の駒井能登守でございます」と言っているのもけしからん 話で、どうして「殿」という敬称をつけないのか。  六一一頁になると、宇治山田の米友という男が、「たらねえ」だの、「知らねえ」だの、「此の 八幡様へでえだらぽつちが|来《さちさちさちち》るさうだから、それで燈火を消しちやあならねえのだ」だの、やた らに江戸訛を用いる。宇治山田の人だというのに、どうしてこんなに江戸訛があるのか。訛ばか りじゃない。江戸調子で「はゝゝゝ笑あせやがら」なんていう。これが伊勢の言葉かと思うと、 不思議でたまらない。  六二二頁になると、剣道指南の小林が、変装してやって来る。「竹の笠を被つて紺看板を着て、 中身一尺七八寸位の脇差を一本差して、貧乏徳利を一つ提げたお仲間体の男でありました」とい うんですが、お中間体の男が、どうして脇差をさしていたろう。中間というものは、木刀きりし かさしていない。これはきまりきった話です。中間体に化けるのに、脇差をさしたんでは事こわ しだ。  六二六頁になって、お銀とお君とが|御籤《みくじ》を取りに来る。そこでお銀が、「この通り八十五番の 大吉と出てゐますわいな」と言っている。「わいな」は前にもあったが、どうも甲州人のみなら ず、誰の言葉にしても「わいな」はおかしい。お芝居のようだ。お君の方は伊勢古市の人だとい うことだが、それが「この八幡様のお御籤が大吉と出ますやうならば、もう占めたものでござい ますね」と言っている。「占めたもの」なんていう言葉は、どうしても上方の人の言葉とは思え たい。  そうすると、今まで変に片づけていたお銀が、お君のことを「君ちやん」と呼んでいる。作者 は折り返して「お銀様はお君を呼ぶのに君ちやんと云つたりお君と云つたり、またお君さんと云 つたり色々であります」と言っているが、百姓大尽の娘にしたところで、少し村でも重んぜられ ているような人の娘ならば、自分の雇人でないように聞かせるために、「お君さん」はまだいい として、「君ちやん」は少しおかしい。この娘はこのあとでも、「わいな」と現代的の「よ」だの 「の」だのを、ちゃんぽんに用いています。この甲州大尽の娘と、伊勢生れの女中との言葉は、 江戸のごく軽い暮しをしている人の娘らしく、言葉の上からは眺められる。  六三六頁になりますと、甲府の御城の門番にかかって、お君が駒井に逢おうとするところがあ る。「門番の足軽は六尺棒を突き立て」と書いてあるけれども、甲府城に足軽がいたかいないか、 これはたしかに同心のはずだ。同心も足軽も同じようなものですが、また決して間違うまじきも のであります。  この門番をしている者が、お君に向って「一応御容子を伺つて来るからお待ち召されよ」と言 っている。どうも不思議な言葉を遣うもんだ。「何と仰有るお名前ぢや」とも、「有野村の藤原の 家から来たお君殿」ともあるが、百姓の家から使に来た女ーこれは町人にしても同様ですが、 それに対して「お名前」だの「お君殿」だのという言葉を遣うわけはない。足軽にしたところが、 同心にしたところが、そのくらいの心得はあるはずだ。それにこういう場合は、やはり八右衛門 とか、伊太夫とかいう名前をいうところです。たとい大尽でも百姓だし、かつまたその使に来た 女なのですから、それに「お」の字や「殿」の字をつけるはずがない。それでは士分の者から来 た使には、何といったらいいか。こういうふうなところから眺めてまいりますと、百姓や武家の 生活はどんな状態にあったか、まるで作者は心に置かずに書いたようにみえる。  まだ委しくこの本を読みましたら、いろいろなことが出て来るでしょうが、二三の例を挙げて おけば、十分だと思います。『大菩薩峠』に対して、友達の一人がいうのに、この中に間違った ことがあるにしても、他の大衆小説のように、どうでもいいと思って書きなぐったのでなくて、 真面目に書いている、間違ったのを承知して書く、というようなところはない、ということであ った。いかにも他のものに比べると、書き方に真面目なところがある。真面目であるから、もっ とよく読んで、もっと沢山指摘した方がいいかもしれない。けれども同じようなことを、すでに 度々繰り返しているから、もうそれにもたえない。ここらで止めましょう。 佐々木味津三の『旗本退屈男』  大衆小説というものの幾つかを読んで、多少慣れてきた。けれどもまだ平気で読むほどには、 なっておりません。かかるものを読まなければならないことを、自身に気の毒がっております。 これほど迷惑な仕事はないのだが、その辛抱をしなければたらないようになってくるのは、かね て坊さん達から聞いている因果とか、宿業とかいうのだろうと思っております。  またしても佐々木味津三さんの『旗本退屈男』を読んで、ばかげさ加減のたまらないのに困り ました。開巻第一頁の吉原仲之町、それが元禄だというのに、「ちらりほらりと花の便りが、き のふ今日あたりから立ちそめかけた」、廓内の桜が元禄に見られたという、珍の珍なありさま、 いうまでもない、吉原で桜を植え込むようになったのは、寛延二年以降の話であって、元禄と寛 延の間は、五十余年の隔りがある。人間一代の開きがあるのに、まずもって仰天させられた。が、 このくらいのことを驚くようでは、なかなかもちまして、大衆小説を読めるわけのものではござ いません。  悪侍の言葉の「生ッ白い面しやがつて……」、元禄度の二本ざしの口から、文化儼乂政の頃 ー元禄からは百年後の職人とか、|日傭取《ひようとり》とかいう人物でなくては言わない言葉が聞けるのだか ら、是非とも呆れなければたりません。お大名の小姓らしいという若衆が、「どう|以《も》ちまして ・…それに主人の御用向で、少しく先を急がねばなりませぬゆゑ、もうお許しなされまして、道 をおあけ下さりませ」などと申します。「どう以ちまして」は、耳あざやかに聞かれました。江 戸三百年、誰がそんな言葉遣いをいたしましたろう、ヤゾウを立てる、アグラを組むなんていう 種類の、日本|未曽有《みぞう》の言葉でしょう。主人というほどなら、御用向とは申さたいはずです。「お 許しなされまして」は自他混雑です。「ませ」なぞも、どこでいついったでしょう。こんな詮議 をすれば限りもあるまい。それに言葉の型も、言葉の心持も、時代相応でない上に、武士のつか うものでありません。それぞれ武士には分限があって、沢山な階級があるとともに、それ相応た 生活がありまして、万事がそれに釣り合っていましたが、大体において武士は武士らしかったの です。武士というものが全く腹にも頭にもない作者には、大体に武士を描き出すことも出来ます まい。  打かけ姿の太夫が「わちき」という、「わちき」という言葉は、人情本の時代に用いられたの です。江戸の吉原に、太夫という最高級の娼婦のたくなったのは、宝暦の頃です广太夫が自分を、 「わちき」というはずがたい。太夫とわちきとの距離は百年ある、百年前の女が百年後の言葉を つかう。そうかと思うと「|花魁太夫《おいらんだいふ》」というのがある。元和三年二月に元吉原に遊女町が出来ま して、昭和の今日に至る新吉原までに、いまだかつてたい名称です。一体「花魁太夫」というの は何のことなのでしょう。『国語辞典』にも『大言海』にもたい言葉だ。日本にない日本語です から、世界にない言葉です。それもそのはず、本所に「長割下水」というところがあったらしい。 割下水は誰も知っておりますが、長割下水は存じたものがありません。「江戸図」を探してもな い、割下水にしても、元禄にはなかったと思います。  この長割下水のお殿様が、宗十郎頭巾に面を隠している。年代記にもございます通り、宗十郎 頭巾は寛延度の流行でありまして、その前にはなかったのです。ここで宗十郎頭巾の由来を申す までもなかろう。  江戸の話、江戸の人間らしいのに、「ぢや」とか、「やりをる」とか、遠国他国の言葉が七きり に出てくる。御愛敬なのは、「ふところ手をやつたまゝ」などというのがあります。得体の分ら ない言葉は、勘定も出来たいほどある。いうのもうるさいが、聞くのも面倒だろう。その上に変 な造語、昔の落語にある、「コソ▼チヨウ、ドフウハゲシウシテ、シヤウセキガンニウス」的なの に悩まされる。例えば、  免許皆伝も奥義以上の腕前  飾り造りの|侃刀《はいたう》  ぎらりと|刃襖《はぶすま》  崟打ちの血を見せない急所攻め  両翼八双に陣形を立て直しつゝ、爪先き迫りに迫つて来る 等は何のことだか分らない。作者にも多分説明が出来まい。ならば手柄に佐々木さん、読者のた めに講釈してごらんなさい。この類の怪しげた、小児の片ことのような、造語や名称が、一般に 通用するかどうか。  さて旗本退屈男と異名を取った早乙女主水之介、屋敷は本所長割下水、禄は直参旗本の千二百 石というのですが、諸大名の家来には、旗本と申しません習いでした。旗本は徳川氏の家来にの みいわれました。従って直参でない旗本はありません。旗本に限らず、御家人でも、徳川氏の家 来を直参といい、諸大名の家来を陪臣というのが、江戸時代の習いなのでした。ですから「生粋 の直参旗本」というのは、何のことだか分りません。「凡そ直参旗本の本来なる職分は、天下騒 乱、有事の際をおもんばかつて備へられた筈のものである」、有事の日に備えるといえば、徳川 氏の家来ばかりではない。諸大名のにしても同様です。いずれも武士だから、直参に限らず、旗 本に限らない、一体作者は旗本とは何のことか知っているのか、いないのか。 「大身旗本のこの名物男早乙女主水之介」、千二百石を大身という、小身からは千二百石も大身 に相違ないが、江戸時代に高の人といえば、三千石以上のことであったと聞く。大身といえば、 万石以上のことにしていたようだ。旗本は九千九百九十石まで、万石とたれば大名なのだから、 昔の書類には、万石以上、以下という区別をして書いてありました。また「無役なりとも表高千 二百石の大身」ともありますか、無役というのは、小普請のことであろう。これは三千石以下、 |御目見《おめみえ》以下一同に、御役なしの者をもって、小普請組とした。この組も十二組ないし八組のこと があった。表高というのは内高に対していう言葉なのですが、作者は何のつもりでここへ表高と 書いたのか、小普請というべきところを、無役とばかり書く作者だけに、何事も覚束ない。  早乙女主水之介の屋敷のことをいうところで、一「下働きの女三人、庭番男が二人、門番兼役の 若党がひとりと、下廻りの者は無人乍らも形を整へてゐましたが、肝腎の上働に従事する腰元侍 女小間使ひの類は、唯の半分も姿を見せぬ」といってもいるが、下働きの上働きのというのは町 家のことで、大小とたく、武家屋敷に、下働きの上働きのという女はいません。また下廻りとは 何のことだろう。芝居者じゃあるまいし、武家の奉公人には、聞いたことのない称えです。それ に庭番男、初めて聞きました。更に門番兼役の若党というのは、面妖な代物だ。一体若党とはど んなものか知っているのか。千二百石取の屋敷とすれば、その門はどんななのか、門番はいかた る人体のものがするか、いずれにも、若党の門番兼勤ということは、江戸あって以来かつてあっ たものとは思われない。歌舞伎芝居で見ても知れたものでしょう。若党がどんな風をしているか、 何たることを書くのだろう。  旗本というのは、禄高による分限でなく、格式からの称えであった。将軍に謁見することの出 来る資格と解してよかろう。故に御目見以上、以下とわけてあった。旗本は御目見以上のことで、 禄高の方は相応の軍役があるから、家来の数も定まっていました。それに釣り合せて、奥向の召 仕い、すたわち女中の数もおおよそきまっていました。それですから、千二百石はおろか、五十 俵の武士でも、分限相応の人は持っていなければなりません。旗本のごく安いのには、百俵十人 扶持のもありましたが、それでも一人|歩行《あるき》はいたしません。旗本は忍びと申しても、若党に草履 取は連れております。微行でも二人のお供はある。槍一筋といえば三百石、馬一疋といえば五百 石のことと解していたのです。槍といえば槍持がなければなりません。馬といえば、その上に口 取りが入ります。しかるに千二百石の早乙女主水之介が、いかに小普請で閑散な身分にもせよ、 夜間に単身で、勝手次第に飛び回れるわけのものではありません。まして本所の割下水から吉原 まで、テクテクやるのでみれば、相応の時間が掛ります。夜深けに往来していたら、世間の風聞 にもなる。小普請には組支配という監督者があって、もし組内に善悪ともに噂の立つような者が あれば、それぞれ|取質《とりただ》しをいたしまして、必ず処分することになっておりました。江戸中を暴れ あるく長藩の七人組とやら、そんなものは幕末でなくてはありません。長州でも薩州でも、江戸 へ来ては、揃って無事安全ばかり心懸けて、少しでも江戸を騒がせるようなことは、藩主がさせ ません。旗本衆と大名の家来が、争闘でも致したら大変です。殺された大名の家来が、士籍を|硼《けず》 られるだけでは済みません。まして御直参を傷つけたとすれば、藩主が処分を受けなければたり ません。また喧嘩のために負傷いたした旗本も、事の次第を調べられて、これも不問に付せられ ない。いかたる野蛮な国でも、政府があるほどならば、法律制度のないはずはない。むやみに刃 物三昧をして、切ったり殺されたりして、処分も刑罰もないというはずはありません。江戸時代 に限らず、いつどこにしても変りはない。切っても殺してもおかまいなしで済む。いかに小説に しても、あまりといえば没常識ではあるまいか。それでも人間の世界なのだろうか。  主水之介が吉原へ来て、「|素見《ひやかし》一つするでもな、〈、、勿論|登《あが》らうといふやうな気勢は更になく」 とありますけれども、相応な武士は、後々までも、揚屋・茶屋を経ずに、登楼するものと思って いる作者がお気の毒だ。揚屋はいかなるもので、いつ頃まであったのか、茶屋はいつからいかな る機関であったか、吉原のことはまことに知れにくいことが多いけれども、大概は知れている。 娼家へ|直付《じかづ》けに行って、牛太郎の鼠鳴きを聞流しに、階子をトントンなどのけしからぬことは、 誰も知っている。鷹揚であった元禄度の武士、わけて旗本衆が、それほどげびたものと思うのは 情けない。  ヘー高い山から谷底見れば      瓜や|茄子《なすぴ》の花ざかり   アリヤ、メデタイナ、メデタイナ  これは唄なのか、何なのだろう。唯子らしいが、厄払いのようだ。これで三味線が何となろう。 「向うの二階から、ドンチヤカ、ヂヤカヂヤカと言ふ鳴り物に合はして」、これはいかなる鳴り物 か、聞いたこともない音のする楽器だ、日本にはなさそうな鳴り物だ。これは娼家の二階での騒 ぎらしい。  角町に淡路楼という娼家があったように書いてあるが、元禄の新吉原に、楼名を付けた娼家の ないことは、当時の細見図で明白に知れる。楼名は天明度にならないと出来て来ない。その淡路 楼の|散茶《さんちや》女郎水浪が、主水之介にウッポレたというが、その女が飛び出して来て、主水之介に言 葉を掛ける。散茶女郎は高級な遊女ではないが、さりとて馴染でもない男、馴染であっても、往 来へ飛び出して来るはずはない。なにかというのに、例のアリンス言葉をつかう。元禄にはどの 階級の遊女にしても、アリンス語を用いる者はたい。それは江戸に生れて江戸を離れたことのな い主水之介が、「小娘ぢやらうと存じてゐた」と九州語を用いるのと同様に、何としてもありそ うなことではない。 「丁度四つ半下り、ー|流連《ゐつどけ》客以外には、もう登楼もまゝにならぬ深夜に近い時刻です」、四ツ 半は午後十一時、あまり深夜とも思えたい。元禄の吉原は、まだ夜の世界ではなかった。けれど も散茶店や|柿暖簾《かきのれん》などは、上れないことはない。その他にしても、江戸から吉原へは遠いから、 夜深けて来る客がなかったまでで、客が来ればいつでも拒むものではない。殊に揚屋などは、大 尽の申付次第で、おいでを待っているはずでみれば、刻限の嫌いがあろうとは思えません。  早乙女主水之介は、殿様といわれる身分なのです、その殿様が自分の屋敷の出入りに、送る者 も迎える者もない、そんなはずがあろうか。旗本衆でない、御家人、イヤ町家にしても、主人の 出入りがそういうようではありますまい。行ってくるよ、行っていらっしゃい、帰りました、お 帰りなさいましたか、ぐらいな辞儀はきっとある。千二百石の旗本なら、中間・小者のほかに、 用人以下帯刀の者が、すくなくとも両三人はいましょう。それらが主人の出入りを知らずにいる はずがない。殿様が一人で飛びあるくのも嘘だが、自邸の出入りを風のようにするのも、あるべ きはずのないことです。その上に「一人の妻妾すらも蓄へてゐないのでしたから、何びとが寝起 きの介抱、乃至は身の廻りの世話をするか、甚だそれが気にかゝることでした」といっているが、 それはいささかの心配もないことなのです。こういうことは、全く武家の生活を知らない者のい うことであって、身分のない者ほど、かようのことに婦女の手を使うので、大名たどになると、 すべて異性の労作を要せずに、用は足りる。上下大小の別たく、武士の髪は婦女に結わせません から、身分次第に、小姓・若党・小者が、主人の髪を結いました。この主水之介という殿様は、 十七にたる妹があって、それが兄さんの世話をしているように書いていますが、どこの旗本屋敷 にも、先代からの持越しの老碑がいました。夜具までもその妹が敷くように書いてあるが、御嬢 様付の女中もありますから、妹の菊路が自身にそうした用事をせずとも済みます。また妻も妾も たい時には、主水之介たどの分限なら、奥の方の用事を若党や小姓がします。妻があっても、そ んな用事を配偶者がいたすものではありません。妾でもヤハリいたしません。女は女付きで、妻 のない場合には、奥に女中もいない、大体武士の生活には奥表ということがあります。主水之介 などの身上では、型ばかりのものですけれども、奥表の意味を失うようなことはありません。こ の意味あいを知らずに、武家生活の話が出来るものではないのです。  帰って来た主水之介が、夜具の上へ大の字なりにたった。二本さしたままで仰臥したという。 そんな武士が、いつどこにありましょう。玄関で大刀は迎えに出た者に渡す。その者が殿様のお 刀を持って、お居間まで付いて来るにきまったものです。妹が無言で大の字の側まで来て、寝間 着に替えさせた。兄も無作法、むやみな武士にあるまじき男だが、妹もそれに負けない無躾な失 礼な女だ。挨拶もせずに尊属の側へ進むとは、慮外千万な挙動です。本来居室の外で礼をして、 声が掛らなければ、室内へは入らない。もし声が掛らないのに進入する時には、御免あそばせく らいな辞儀は必ずします。それは改まってするというほどでもなく、無意識でもする。多年そう いう癖がついていました。こういうことは、武門武士の家庭を知らないから書けるのでしょう。  この菊路という女は、何としても旗本衆の家に生れた異性とは思われない。その心持、そのい うところ、少しマシな町家の娘、町家でも旦那といわれる、大町人といわれるほどでない者でも、 番頭の一人もつかう者の娘なり妹ならば、ここに描かれたような様子のものではありません。こ の菊路は私通した男のあることを、兄主水之介に告げるのに、嬋る様子もたい。のみならず、 「毎夜お兄様がお出ましのあとを見計らつて、必ずお越し下さりましたのに……」私通した男を、 兄の不在の間を窺って、屋敷へ引っ込んで楽しむことまで、平気で報告しております。これが江 戸時代、元禄といえば、ようやく戦国気分から脱したばかりの武門武士の家庭なのだ。昭和の今 日にしても、男を栫…えた小娘が、父兄の不在の間には、情人を引き込んで恋愛遊戯をやらかす、 それを父兄に報告するのに、こんな態度でするだろうか。いずれの家庭にしても、これほどな放 恣な小娘を肯定するでしょうか。  芝居や浄瑠璃でお馴染なはずだが、武門武士にあっては、恋愛が自由でない。君父の命のほか に、嫁娶することを許しません。ですから、不義は御家の御法度と言い慣らされてもおりました。 不義者成敗と申して、手討にするのが定例です。この不義者成敗も、綱吉将軍の生類御憐みの余 波を受けて、手討はすべての場合に減少してまいりました、首にはしなかったが、そのままには 差し置けません。それ故に、君父の知らぬ間に逃してしまうように取り計らうふうを生じました。  主水之介の屋敷は、ダラシのない屋敷であったのは、いうまでもありません。妹が不義密通す るだけで、十二分な家事不取締りだのに、自分のおらぬ時には、男を引っ張り込んでいたとなれ ば、何とも申しようのないことです。それほど乱脈な家に成育したから、羞恥心を失った、無節 制な菊路も出てくるのだ。これだけで退屈男どころではたい、大馬鹿男なのが知れます。一家の 主人として、自分の家の始末のつかない男なのですものを。  菊路の情人は楙原大内記の家来で、その下屋敷に勤める霧島京弥というものであった。いつも 五ツ(午後八時)から四ツ(午後十時)前に来るのに、今夜は来ない。来ないのみか、使いが来て、 その人が行方知れずになったとしらせた。この情人の身の上が心配でなりませんから、探して貰 いたいという頼み、主水之介は妹の私通を聞いて、「偉いぞ! 偉いぞ!」と褒め、「なかく隅 におけぬ奴ぢや」と感心する。こういう武士が元禄にあったら、薩長二氏の御苦労を掛けずに、 牛太・芋作の放屍一発で、倒幕が出来たろうに、さても残念なことだった。よく取ったといわぬ ばかりの猫ぼめをする兄さんだけに、「人の恋路の手助けをするのも存外にわるい気持のしない もののやうぢや」と大いに鼻唄じみた様子も見せる。「自慢せい。自慢せい。そちも一緒になつ て自慢せい。早乙女主水之介は退屈する時は、人並以上に退屈するが、いざ起つとならば、ほら この通り、諸羽流と直参千二百石の音がするわい」、どこで何の音がするのだろう。何が自慢な のだろう。淫奔な妹の相手がいなくなった、それを探しに行くのに大騒ぎをする。こんなことで 退屈でなくなる退屈なら、あくびでも続けてしたら済みそうだ。「首尾ようつれて参つたらのろ けを聞かしたその罰に、うんと芋粥の馳走をしろよ」、これが殿様の言葉だろうか、御旗本なら 殿様に違いない。御馳走が芋粥とは、いかにも御安直なものだ。それにその芋粥を妹に栫えさせ でもするように聞える。この辺は作者の生活からの思付きらしい。旗本に親類は無論あるまい。 イヤ懇意もなさそうだ。臆面もなく無鉄砲に書けるところが、豪勢だと思う。  隅田川べりの下屋敷、元禄に隅田川沿岸に大名の下屋敷があったでしょうか。楙原大内記とい うのは、十二万石の大名だという。主水之介はそこヘ出掛けて行きました。「勿論正々堂々と押 し入つたにしても、主水之介とて無役乍らも天下御直参のいち人とすれば、榊原十二万石位何の その恐るゝところではなかつたが-…」、諸大名の家来に対して、御直参風を吹かせたには相違 もないが、大名でない何者の屋敷にしても、御直参であったからとて、殊に夜分などに押し掛け られるわけのものではない。自分の妹の情人だといっても、それが何の理由にもならない。不義 密通の相手だからといって、下手に騒げば、自分の家事不取締りを暴露するまでのことで、いい 笑い草になるに過ぎない。ましてその箇条で掛け合うのでもない。行方を詮議するにしても、霧 島京弥は榊原の家来でみれば、筋違いたのだ。榊原の家来は、榊原家で探すなり、処分するなり、 いずれにも他の干渉を許さない。「正面切つて押入つた」ところで、主水之介に何といわせるつ もりたのだろう。「事件を隠蔽される懸念がありましたので」、邸外に身を潜めて様子を窺ったと いうが、もし霧島のことをかれこれと言ったところで、榊原家で相手にならない。きっと乱心者 の取扱いを受けるまでだろう。こういう場合に妹の情人だから、榊原家に対して、霧島の行方を 訊問することが出来ると思うのは、作者の心理状態が怪しまれる。また「深夜の九ッ過ぎに御門 番詰所の中から、なほ灯りの見えてゐることは、未だに誰か外出してゐる事を証明してゐました」、 大名の下屋敷の門を何と考えていいのか、御門番詰所というのは、何のことか分りません。門番 の詰所、そんなものがあったのでしょうか。「屈強な御番士が門を預つてゐる」ともありますが、 士分の者が門番をするはずはない。それに灯のあるのは外出者のためだと解する。何故そう解し たのだろう。下屋敷だって門限に変りはない。門番が待っているなどということがありはしませ ん。門限の後には出入りのあるべきでない。菊路の言葉に、兄主水之介の不在の間に、京弥が早 乙女の屋敷へ来るといったが、武家屋敷の出入りが我儘勝手に出来るものでない。これは出来な い相談です。しかるに夜分京弥が来るようにいう、けしからぬ話の行止りです。  それから主水之介が河童の声色をつかワて、門番に不審がらせ、ついに門番が門外へ出て来た のを引っ捉えて、門番を小脇に抱え、門番詰所へ押し上り、霧島京弥の行方を取り調べる。いか に下屋敷にしても、そんな真似が出来ると思うのは奇怪だ。また門番が臆したにもせよ、「御貴 殿」などというでしょうか。貴殿とは誰もいうが、御の字を付けていうのはあるまい。「はつ、 申します….-、申します、その代りこのねぢあげてゐる手をおほどき下さりませ」、ほどくとは 何のことか分らない。そうかと思うと、「御門番と言へば番士の中でも手だれ者を配置いたすべ きが定なのに」と主水之介がいう。畢竟門番はいかなる者が勤めるかを知らないから、こういう ことになる。わけもなく「申します申します」程度が勤めるものなのか、それとも手だれの者を 選んで勤めさせるものか、いやしくも武芸のある者とすれば、腕前が違うから押えられたにして も、「申します申します」ではあまり安手で、柄行きが違い過ぎる。  それから門番はその夜、京弥が外出して立ち戻ったところへ、書状を持った使いが来て、京弥 がまた出掛ける。すぐ門前で格闘がはじまった様子だから、出てみると、七八人の黒い影が、一 挺の駕籠を取り囲んで逃げ去るところであった。その跡に京弥の脇差とこの手紙が落ちていた。 それで京弥どのの身辺に変事でもあってはと、日頃京弥の立ち回る箇所へ、人を出して問い合せ ましたが、知りませんという。これで榊原の下屋敷には門限もなく、夜中でも勝手に出入りして いたことになる。そんな武家屋敷はない。まして門番が家中の者の行く先を知っている9情婦の ところへ忍んで行く、その行く先さえ知っていたから、早乙女の屋敷へも聞き合せにやったのだ。 そんな門番がいつの世にあったろう。  主水之介は門番の拾った手紙をみると、妹菊路の名で書いた、それも偽筆だ。その用紙は|展《の》べ 紙で、べっとりと油じみている。展べ紙も変なものだが、妹のは白夢香だのに、これは梅花香だ という。そういう勣扎漉を元禄に使用したか、婦女の髮に膏油を用いるのは、いつからだと思って いるのか。ところへ「御門番どの、只今帰りまして厶ります。おあけ下されませい」と|陸尺《ろくしやく》が帰 って来た。もうこうたってはいうこともたい。ここへ帰って来た駕籠がびっくりものであるが、 作者は「|金鋲《きんぴやう》打つた飾り駕籠に不審はなかつたが」といっている。しかし「金鋲打つた」駕籠と はどんた駕籠なのか、我等などは見たことも聞いたこともない。おそらく約三百年の江戸時代に あったものではなかろう。それが「不審がない」のだから、不審でならない。その駕籠が赤い|提《ちよう》 轍をつけて来た。これだけは作者も不審している。その提燈は「丸に丁と云ふ文字を染めぬいた、 ひどく艶めかしい紋でした……見覚えておいた|曲輪《くるわ》五町街の往来途上なぞでよく目にかけた太夫 |花魁《おいらん》共の紋提燈です」、一体紋提燈などというものが、日本の遊廓のみならず、どこにあったの でしょう。あれは箱提燈というものです。そうして遊女の名と紋とが書いてある。この場合でも 丁の字だけのはずはたい。丁字となければなるまい。「朱骨造り」の提燈だとあるが、朱骨造り の提燈というのはどんなものか、「太夫花魁」、前のは「花魁太夫」だったが、今度は「太夫花魁」 とある。これは太夫と花魁と二つなのか、太夫花魁、花魁太夫は一つの名称なのか、一つとすれ ば、そんな名称は決して吉原のみならず、京にも大阪にもない、日本中にない。二つとすれば、 オイランという称えは、太夫のなくなった後に出てきたもので、同時の存在でたいのです。「も う客止めの大門は閉ぢられてゐました」というほどな作者に、吉原の話は無用だ。吉原の大門は 開っ放しなのをさえ知らないのだから、散茶女郎の水浪を「小格子女郎」というのも、「会所の 曲輪役人」というのも、聞いてみるだけ御苦労さまでしょう。  榊原大内記の愛妾お杉の方が、当下屋敷へ病気保養に来ている。そんたばかげたことがある と思っている作者だ。大名の奥には、「メカヶ」とか、勿論「愛妾」とかいう称えはない。御中 繭・御小姓といった側向らしい名で呼ばれ、身分もあまり高くはない。従って「方」などという 尊称を用いたいのが定例です。勿論家来なのですから、病気になれば生家へ下って養生します。 愛妾お杉がいかなることがあったにしても、夜間外出するはずはありません。いずれの大名屋敷 でも、そんたことを許すところはない。お杉は吉原へ行ったらしいのだが、とんだ話です。また お杉が京弥に恋着してもいるという。そうしたことを榊原の家中が知っているほどになった。し かもお杉が御奉公を続けられるのでみれば、榊原家は大名並を外れ、武家生活を脱した大名とみ えます。  お杉が乗って吉原へ行き、空駕籠で戻って来た。それは「御上様の御乗用駕籠」だという。こ れは女乗物なのだから、榊原大内記の奥方の駕籠らしい。何程その家の高級な女中にしても、主 人である内君の駕籠に乗れるはずはない。家来たちも乗せて出すわけがありません。また下屋敷 に奥方の御駕籠が出るはずもたい、この辺はない尽しです。主水之介が空で帰って来た女乗物へ 乗って吉原へ行く。他家の乗物に乗り、他家の陸尺に|舁《か》かせる。そんなことが出来ると思うのだ から、江戸のことなどを書かない方がよろしい。時代物を全く時代知識なしに書く。その胆力は 感服すべきものであるかもしれないが、これほどムチャなことを書くのは、随分人を喰った話だ。 それを読む人、ばかにされて嬉しがっているのかと思うと、これはまた言語道断だ。大衆小説は 読者を愚弄する意味をもって出現したのではあるまい。相応な理由のあることは、我等も知って いる。 子母沢寛の『国定忠治』  大衆小説では、|士《さむらい 》のものもいけないし、下町のものもいけない。|博奕打《ぱくちうち》のものなどが、手勝手 もよし、書きよさそうにもみえる。が、この本をあけて読むと、その一番初めの頁に、甲州街道 の日野の渡場のことが書いてある。ここで川を渡った男-というのは、主人公の国定忠治なん ですが、その男のことを「|褌一《したおび》つの素ツ裸で肌についた銀の小粒のやうた水を拭つて、大急ぎで 著物をきてゐる」と書いている。この「銀の小粒のやうな」というのが、わけのわからないこと なので、小判小粒と一口にいいます。その時の「小粒」は一分金のことで、銀の小粒ということ はたいはずなのです。水の|身体《からだ》についているのが、短冊形をした一分金のように見えるわけもな し、第一黄色い水なんていうものがあるわけもない。ところで上方では、豆板銀のことを小粒と いって、一分金の方は分判という。これはきっと上方言葉から思いついた形容なので、関東で小 粒といえば、一分金のことだというのを知らたいから起ったことでしょう。そんなに取り立てて いうほどのことでもないようですが、この小説の後の方でも、小粒が間違って出て来ますから、 まずここで断っておかねばなるまいと思う。  この忠治の川渡りの様子を見て、そこにある茶店の親仁が、「月を越せば師走といふ凍るやう なこの川を著物を頭に、首まで漬つて徒歩渡りをするなどといふ、世には無法な男も有るもんで ござりますなア」と言っている。けれども日野の渡場のところは、平生でも水が少うございます。 殊に冬なんぞになれば、なおさら少いから、|徒渉《かちわた》りが十分出来る。「著物を頭に、首まで漬」っ たりするほど、深い川ではないのです。  五頁になって、「冬の|最中《さなか》に、多摩川十七里、将軍家献上の鮎の飼ひ場と聞こえた水の荒れえ 流れを」云々ということがありますが、多摩川を鮎の飼場といったことは、いまだかつてない。 無論鮎を飼っておく場所が別にあるのではない。それに日野辺で捕った鮎を献上するのではあり ません。  十七頁に、前の茶店の親仁のことを書いて、「ところがら、渡し船の客などの、喧嘩の揚句の 斬つた|鄰《は》つたには、いくらか馴れてもゐるんだが」とありますけれども、これは天保度の話でも ありますし、日野の渡場は、あの辺でも小さなものですから、そう大勢人が乗ることもない。 「喧嘩の揚句の切つた攤つたに」馴れるというほど、喧嘩があるわけもない。そんな物騒なとこ ろではないのです。  この茶店にさっきから、後に日光の円蔵といわれる、あの坊主上りの|晃円《こうえん》が休んでいる。それ が「ゆつくり立ち上りたがら、ぽーンと小粒をおやぢの前ヘ投げて」と書いてある。一分判と致 しますと、なかたかぽーンと投げるような、重さのあるものではない。上方でいう小玉銀のこと にしても、一匁内外のものが多いのですから、やはりぽーンと投げるのは具合が悪い。作者はこ ういうふうに、小粒を間違えている。前に小粒のことを断っておかなければいけないと思ったの は、こういうことがあるからです。  一九頁に、「真ッ赤になつた漆の木を交へた雑木林」と書いてある。最初のところには、「|山毛 欅《やまぶな》の|赫《あか》い枯れ葉」ということもあります。雑木林はいいけれども、あの辺に漆や山毛欅の生えて いるところはありません。  それから国定忠治が府中の宿へ入って来て、煙草店の婆さんにものを尋ねている。「すンませ ん。お客ぢやねえんです。実ア、一寸おたづね申してえことがあつてー」、これが忠治の言葉 なんですが、こいつは例の上州言葉ー活字で説明するのはむずかしいけれども、ネギインゲン の調子でたい。大衆小説で、一番目立ち、耳立つことは、この言葉をうつしてゆく模様ですが、 これはどうしたって、上州の人間の言うべき調子合ではありません。これに対する婆さんの返事 が、「さうかの、何んぢやア」だ。こんな言葉を遣う婆さんが、府中あたりにいたとは思われな い。  忠治はまた「あの親分さんは、どちらへお引越しでござんせう。御存知ならお教へいたどきた うごぜえますが」とも言っている。こんな言葉つきが、博奕打なんぞの口から出るわけのものじ ゃありません。  二八頁になって、府中の藤吉という親分の娘、これは小花といって、柳橋で芸者をしている女 で、ちょっと府中に帰っているんですが、この女が朝湯から帰って来る。府中に朝湯なんぞがあ ると思っているんだから恐しい。まして「七つ道具を抱へるやうにして」とある。七つ道具たん ていうものは、これが江戸にしたところで、天保時代にはありゃしないのです。  この柳橋の芸者どんが、「のねえ」とか、「のよ」とかいう女学生言葉を盛んに遣っている。忠 治はこれに対して、やたらに語尾に「ごぜえます」ばかりつけている。好一対の御愛敬だ。  三四頁で、藤吉が忠治に「今夜ア八幡宿の六所明神の神官猿渡近江様へ仕へるお小者部屋の奴 ンとこで旦那方ばかりの賭場が立つんだ」と言っている。「賭場が立つ」という言葉があったか、 どうか。  それから忠治は、「小花の置いた金のおひねりを、台所の土間へぽーンと蹴つて、|其奴《そいつ》を見向 きもせず」井戸端ヘ水を汲みに行った。また「ぽ1ン」ですが、どうも作者はおおげさに考えて いるらしい。これが金にしろ、銀にしろ、かなり大きな包でないと、なかなかぽーンというわけ にゆかない。|鳥目《おあし》ならば一貫でも百丈でもいいでしょうが、少し前のところをみると、このおひ ねりが、例の「小粒」なのです。作者が「ぽ1ン」を濫用するのは、金の大きさや目方について、 考えていないためじゃないかと思う。  三八頁になって、藤吉が忠治を供に連れて出かける。そこに「脇差」と書いて、「どす」とい う仮名がついている。脇差のドスは、その前にもあったようですが、脇差のことをドスというか、 いわないか。私などはこの本ではじめて見たのです。  それから今度は、藤吉がさっき言った賭場のところにたる。猿渡というのは有名な神主で、代 代府中の六所明神の神職をつとめている。無論小者ぐらいは使える身分ですが、ここには「表は 駄菓子屋。裹に小さな納屋があつて、そこが今夜の賭場にたつてゐる。主は、六所明神へお小者 に出てゐる土地もンだが、どうせは納屋を場所に貸して、いくらかの寺割にありつかうといふ小 ばくち打ち」と書いてある。府中の猿渡たらば、小者の部屋ぐらいはたしかにあったはずです。 小者が内職に小商いをしている、なんていうことがあるもんじゃない。  そこでその博奕はどういうものかというと、「駒札なしの小粒張り」だとある。こういうのは 「銀張り」というはずだ。「小粒張り」なんていう博奕のあったことは、書いたものでは無論見な いが、話に聞いたこともたい。  博奕が済んで外へ出る。そこに「黙つてゐると、霜の降るのが聞えるやうだ。空は一ばいの星、 流星がすうーッと長く尾を曳いた」と書いてありますが、流れ星は冬のものじゃないはずだ。四 六頁を見ると、今度は「行く手の空に、天の川が、ひどくはつきりと、美しく見えてゐる」と書 いてある。この辺のことは、天象もよほどおかしい。  五〇頁のところで、藤吉が|匿《かく》まっている女のところへやって来る。そこに「羽織の裾がめくれ て、脇差の|鐺《こじり》へ、ちらりと星が映つた」と書いてありますが、星のうつる鐺なんていうものは、 そもそも何の金で出来て、どんなことになっているか。こいつは不思議千万た物だ。  この女というのは、古寺の庵室のようなところに隠れているんですが、これが藤吉と話してい るうちに、今夜その寺の堂守のようなことをしている坊主のところにお客があったので、この女 の取って置きの酒を譲ってくれ、と言って来た。しかも地酒の一升入っている徳利を、一両で持 って行った、ということがある。このお客というのは、例の晃円なので、どうせあぶく銭なので はありますが、天保度の一両、小判ですよ、持ちつけないにしても、米ならマアニ俵は買えると いうものだ。あまりばかばかしい銭の遣いようだと思います。  六一頁になると、忠治の言葉に、「うぬの心にねえ事ア唇三寸の外へ出さねえ」というのがあ りますが、「唇三寸」というのはどういうことか。あるいは舌と間違えたのかしらん。  それから夜が明けたところで、「|三抱《みだ》きもある六所明神馬場跡の|大欅《おほけやき》の下へしやがんで、その 落ち葉を、一枚づゝ縞麗に掌へ並べては、|其奴《そいつ》をまたぶツと吹き散らして、暇ッ潰しをしてゐる のは、ゆうべ以来の、袷に冷飯草履の忠治郎だ」と書いてある。「三抱きもある」なんていうの も、随分変な言葉ですが、それよりもこの様子です。それとここで忠治が藤吉を殺すことを書い た中に、「力任せに藤吉の指を噛んだ」ということ・これらは実に変なことで、一体作者は、 忠治をどんな人間と考えて描いているのか。国定忠治ともあろう者が、いかに退屈だからといっ て、落葉を掌の上へ一枚ずつ並べて、ぷッと吹き散してみたり、女のように指へ噛みついたりす る。こういうところからみると、作者は、人格とか、性格とかいうものを描くのを、忘れている ような気がする。  七三頁に、藤吉の脇差が「ぴかりと青く光つた」ということがある。刀の刃が青く光ることは、 この後にもまだ出てきますが、どうして青く光るのか、おかしな話だと思います。  八一頁に、忠治の様子を書いて、「眉を寄せたがーといつても例の笑窪があいてゐる」とい っている。最初の日野の渡場のところにも、やはり「頬へ大きな笑窪があいてゐる」とあるので すが、「笑窪があいてゐる」ということは、かつて聞いたことがない。一体|魘《えくぽ》がどうしたんです か。  これから八州廻りの役人が来て、|処成敗《ところせいぱい》があるという話になるのですが、その処成敗になる一 人は、去年から馬場の仮牢へ入っている追落しだとわかるけれども、もう一人の方は、見当がつ かない、ということになっている。こういう場合には、成敗は土地でしましても、地方の犯罪人 は、必ず江戸の郡代屋敷へ持って来て、申渡しが済んでから処分するもののはずです。このもう 一人のやつというのも、あとのところでわかりますが、眼ッかちの何とかいうので、この本の最 初のところで、国定忠治に腕の骨を折られるやつだ。こいつなんぞも、ここで首を打たれるよう になり行くのですが、どうも一度江戸へ差し立てて、申渡しが済んでから、またここへ連れて来 て処分する、という順序を経ていないらしい。この本で読んでみると、まだいくらも日がたって いないのに、すでに申渡しが済んで、刑を執行するというふうにたっている。これはこの作者が、 八州廻りの役人が、直ちに刑の宣告もすれば、執行もするように考えている結果だろうと思う。 この人には限りませんが、大衆小説の連中というものは、江戸時代には、法律がなかったものと 考えているようだ。  九二頁になりますと、例の小花という柳橋芸者について来た箱屋が、大変な気烙を吐いている。 「|何《な》にもこれがどなた様の抱へといふではなし、大名旗本が束で来ようと、びくともしない男嫌 ひの一本立ち、触ればばりばり音のする松葉家の小花姐さん」というんですがね。これは全く当 時の江戸のありさまを知らないから、こんなことを言わせるので、芸者なんていうものが、当時 どんな気位でいたか、世の中の扱いはどうであったか、そういうことの全くわからない者でなけ れば、こんなばかなことは書けない。  それから九四頁に、忠治の言葉として、「御天領の出来事には、勿体ねえが公方様程に御威光 のある八州お廻りの旦那様」というのがある。幕府の|直《じき》の領分を「天領」とは申しましたが、 「御天領」というのは、まだ見たことがありません。「公方様程に御威光のある八州お廻りの旦那 様」に至っては、何を間違えて、こんたばかなことをいうのか。八州廻りなどというものは、御 代官手代で、二十俵二人扶持という安い人間、それも一代抱のものです。実に軽い身分の者で、 八丁堀の同心より、もっと位地が低い。ばかに威張ったものには違いないが、いくら威張ったと ころで、もともとそういう身分の者なんですから、こんなばかな比較が出来たものではないので す。  ちょっと似たような言葉でもう一つ、九三頁で晃円が、「何んと云つても相手はお|上様《かみさま》の十手 を預かる目明しのこと」と言っている。この「お上様」もおかしい。うっかりすると、おかみさ ん(女房)と間違えそうだ。  一〇二頁になりまして、前に言った眼ッかちの何とかいうやつが、いよいよ処成敗になるとい う話がある。それは|小仏《こぼとけ》の関所を破ったためだというのですが、関所破りならば、なかなか打首 ぐらいでは済まない。このきまりは『御定書百箇条』などにも書いてあります。これはどうして も江戸の郡代屋敷へ連れて来なければならない。もっと軽い罪にしても、やはり郡代屋敷へ連れ て来るのですが、関所破りは重罪でありますから、非常に厳重な手続を取るはずです。  一〇六頁に「街道の枯れ木林の|彼方《あつち》に、関の小さな陣笠が見えた」と書いてある。これは八州 見廻りの|関畝四郎《せきあぜしろう》のことなのですが、八州見廻りなんていうものが、陣笠を被っていると思うん だからたまらない。そんなことがあるもんじゃない。  言葉の変なのは大分ありますが、まあいい加減にして、一二二頁を見ると、忠治が晃円に向っ て、「八王子の千人隊が百余りも|助《す》けに繰出してゐやがつたよ」と言っている。送りになって来 る浪人者があって、その護衛として繰り出したということなのですが、「千人隊」というのは、 正しい名ではありません。「千人同心」が正しいのです。それが罪人を護送するために、百人余 も出て来たというけれども、一体誰が命じてそんたところへ出て来るでしょう。八王子の千人同 心というものは、ちゃんと御役がきまっておりまして、日光の御火の番が職掌になっている。こ れは一年替りに日光へ勤番するので、そのほかには千人同心の御用というものはありません。だ からこの場合、誰も千人同心に罪人の護送を命ずる者もなし、誰が何といったって、彼等の役向 にないことをするはずもないのです。  そうすると今度は晃円が、「牢の囲りが筆火だらけで、槍で知られた千人隊が、どぎくした 奴を押立てゝ、がちりくと夜ツぴて廻つてゐたんぢやア」とか何とか言っている。これは|唐丸 籠《とうまるかご》が府中の宿へ泊って、その警衛をしていることらしい。成程千人同心の者は、槍一本ずつ持っ て、日光へも行ったに相違ない。槍組のことですから、槍を持ってはいましたが、この槍という のが、実に滑稽なものなんです。樫の木の一間柄で、どぎどぎどころじゃない、猫の飛び付きそ うなものだ。これは嘘じゃありません、現に私の家にも一本あったんですから、間違いない話で す。「槍で知られた」というのは本当ですが、その槍が夜ッぴて光っていたなんていうのは、何 を間違えたんだか、随分ばかばかしいことを書いたもんだ。  それに続いて、「千人隊が江戸までの大公儀御用の|序手《ついで》とあつて、五十余りが|宿《しゆく》まで一緒に来 るさうだ」ということもあります。御用のついでに罪人を護衛して行くなんていうことは、何役 にしたって、あるわけのもんじゃたい。勿論千人同心も、幕府から呼ばれないことはありません。 けれどもそのついでに何をするなんていうことは、決してあるはずがないのです。  一二五頁に、やはり千人同心のことを、「揃ひの陣笠に、鞘をかけた槍を持つてゐる」と書い ている。これもとんでもない話で、千人同心が揃いの陣笠なんぞを持っているはずがない。また 千人同心でありませんでも、鞘をかけた槍を持っているのは、きまりきった話です。  ここで御愛敬なのは、「天下の|切所《せつしよ》、小仏峠を護るために置かれたといふ俗に千人同心、槍を もつたら一人残らず千石ものだと噂があつたのだから、偉いもんだ」というのです。「俗に千人 同心」ではたい。千人同心の方が正しいのですが、それが小仏峠を護るために置かれたなどとい うのは、ここではじめて聞く話だ。のみならず、千人同心などというものは、三十俵二人扶持が 通り相場で、実に少い禄を戴いている。サといってムライはあるかないかわからないくらい、吹 けば飛ぶような軽い者です。それが「槍をもつたら一人残らず千石ものだ」というんだから、と んでもないのも、マア行き止りの方の話でしょう。長州征伐の時に、特別な御用だというので、 八王子の千人同心どもも出かけて行った。そうして長州境まで攻め込んだのはいいが、鉄砲の音 が聞えるというと、昼鈑の握飯が手の上で踊りを躍った、という話があるくらいだ。昔は甲信二 州の浪人、武田家の怠が懸った|士《さむらい》どもの残りで、多少強そうなところもありましたが、その後は 安給金でへこたれて、河童の庇のようになってしまった人間どもなのであります。  それからそのすぐ後のところに、「傍らに、千草の股引に黒の手甲脚絆をして十手をもつたひ よろくした奴が、二三人随いてゐる」と書いてありますが、これは何のことをいったのか、千 草の股引といえば、町家の小僧どもが穿いているものです。それに黒の手甲脚絆というと、どう いう人間だか。前の方には「槍の鞘を払つた侍が十人余りも輪のやうに取包んでゐる」ともあり ますが、これも何のことだか、私どもにはわからたい。  一二六頁になると、「ぷーンと、匂のするやうな新しい真ッ青い竹で編んだ例の不吉籠」とい うことがある。これは唐丸籠のことでしょうが、匂いのする竹というのも、何だか耳馴れない言 葉で、変だと思う。この唐丸籠には、木の札がぶら下っていて、「無宿浪人大手剛造」と書いて あるという。無宿の浪人という言葉も、考えてみなければならない。どういうことを言おうとし たのですか、作者はどういう意味に使っているのか、私どもにはやはりわからない。  この剛造のなりを見ると、「亀甲縄の下に黒い羽二重の紋付を著てゐる」とあります。「亀甲 縄」というのは、本縄のかかったことでしょうが、黒い羽二重の紋付は、どんた身柄の人なのか、 浪人にもピンからキリまである。浪人でないにしたところで、そう黒羽二重の着物を着ている人 間ばかりじゃない。ましてこの人は御家人くずれという風采だという。「御家人くづれ」とはど ういうことか。御家人といえば、幕府の家来で|御目見《おめみえ》以下の者です。その禄高はまちまちになっ ていますが、まず大概の御家人では、始終黒羽二重の着物を着ていられない方が多い。今日のこ とにしてみても、黒羽二重の着物を着ているのは、どのくらいの生活をする人かということを、 考えてみなければなりますまい。百俵や百五十俵では、なかなか不断に黒羽二重なんぞを着てい られるものではない。それが浪人であれば、たおさらいうまでもない話です。  一二九頁になると、忠治が炉のところに素裸で突っ立って、「ぴかく光るやうな木綿の布を」 ぐるぐる腹へ巻いている。ぴかぴか光る木綿の布というのは、どんなものでしょう。これもお初 にお目にかかるわけだ。  一三三頁で、例の大手剛造という浪人が、唐丸籠の番をしている士に向って、「冷や酒でもよ ろしい。一ばいぐツとやつたら天国の夢でも見れると思ひますがなア」と言っている。この番人 が士であったということも、随分わからない話ですが、この時分の人間が「天国」なんていうこ とを言うか言わないか。もし言ったとしたら、今度は|切支丹破天連《キリソタンバテレン》の方で、大きな騒ぎが出来て きやしたいか。  それから剛造は、ついにこの番人の士に、酒の無心をする。唐丸籠の中に入っている罪人が、 酒の無心をするなんていうことがあるもんじゃない。これが士でなしに、宿役人にしたところが、 あるいは目明しにしたところが、|囚人《めしうど》から酒の無心をされるわけのものではない。すぐ叱りつけ てしまうべきものだ。しかるにこの「若い侍」なる者が、見当違いなやつで、「待ちなさい。相 談して来る」と言って出て行った。  それを見た剛造が、「あの若さで、拙者、寒さ凌ぎの酒一ばいで、上役と相談をしなくちやア 取計らひが出来んやうでは、あの仁も大した事には成らんですねえ」と言っている。こいつもま た気違いだ。本気の沙汰じゃたい。罪人が酒を飲ましてくれろと言ったからといって、相談に行 くやつも変だが、そんなことが当り前のように要求出来ると思っているのは、この時代のそうい う境遇に落ちた人間の心持が、まるでわかっていないからのことです。  またこの男の言い草の中に、「この思ひ遣りが人間生活に一番大切なことです。圧制、権力- そんなことで人間の集りのすべてのことがうまく行くなら、世の中は氷のやうになるで御座ら う」ということがある。この時代に、「人間生活」だの、「圧制」だの、「権力」だのという言葉 を、やたらに遣っているわけのものではない。いかにも時代外れのした言葉だ。  二一一七頁になりますと、剛造は更にこんな滅法界なことを言っている。「例ヘば今日まで徳川 の閣老といふやうな権力の上に坐つてゐても、明日御役御免になるや否や、鼻もひツかける奴が 無くなるなんてのは沢山ある」というのですが、この時分には、普通御老中といった。「閣老」 というにしても、別に「徳川」ということを断らないだって、ほかに閣老はないんだから、「徳 川の閣老」なんていうことはない。閣老になります者は、譜代大名にきまっているのですから、 御役御免になったところで、大名の位地がなくなるのではたい。今日の御役人様とはわけが違う。 もっとも|漢《はな》たんぞを引っかけられては迷惑千万だから、引っかけて貰わない方がいいけれども   0  それから一三八頁に、「御支配添役からのお話」ということがあり、一三九頁には、「御酒宴中 の御支配衆」ということもある。支配というのが、千人同心の|頭立《かしらだ》った者のようになっておりま すが、千人同心には頭という者があり、その下に|与頭《くみがしら》という者がある。けれども「支配添役」だ の「支配」だのという者はかつてありません。  一四〇頁になると、剛造のやつは、とうとう酒にありついた。そこで「御好意は感謝しますよ。 愉快々々」なんて言っている。これじゃまるで書生さんだ。  一四二頁に、千人同心が見回りすることを書いて、「提燈を持つてゐるのも、槍をついてゐる のも、みんな袖付の合羽を著て、|羅紗《らしや》の頭巾をかぶつてゐる」といっている。一体千人同心が罪 人の護衛たんぞをするはずもなし、罪人がないにしたって、こんなところで見回りに出るはずも ない。日光で勤番するのは御火の番ですから、その時は見回りにも出るでしょう。が、そういう 場合にしても、「袖付の合羽」だの、「羅紗の頭巾」だのというものは、用いてはおりません。一 四四頁には、千人同心が「|呼笛《よぴこ》」を吹いているところがありますが、何からこんたことを持ち出 したものか、一向わからない。  ここで府中に火事が起って、千人同心が駆け付ける話がある、一四六頁に「中に、手旗を持つ た偉さうなのが」と書いてありますが、千人同心には、手旗は勿論、旗の類は一木もなかったの です。  それから八王子の千人同心の支配役と、八州見廻りの関畝四郎という者とが、府中宿の本陣で 寄り合って、藤吉の娘の小花に取持ちをさせて酒を飲んだ、なんていう話が出て来ますが、八王 子の槍組同心などは、いかなる場合でも、地方役人と同席して酒を飲むようなことは、かつてた かったのであります。  一六九頁になると、府中の女郎屋の田中屋万五郎、これは八州の方の目明しです。一体八州の 方の目明しどもは、目明しとは申しません。案内人と申しているのが多かったようで、従って十 手などは渡してないのです。この万五郎のやつが、十手をお預りしていることは、前の方にもあ りましたが、ここには「帯の前のところに、十手をぴかくさせて」と書いてある。十手を帯の 前の方にさしますのは、八丁堀の与力衆で、同心は後へさしたそうです。小者といいまして、八 丁堀の同心に使われてある者などは、後も後、帯の結びッ玉の辺に十手をさしていた、というこ とを聞いている。田中屋万五郎は、十手をお預りしているといいながら、十手をどこにさすもの だか、知らたかったとみえる。  この万五郎の言葉の中に、「関の旦那や千人隊の殿さン方」ということがあります。少し前の ところで、国定忠治も「お殿さン方」という言葉を遣っていますが、千人同心に殿様なんていう 者は一人もいない。何にしても、三十俵二人扶持というのですから、誰に見せたって、殿様なん ていう奴はなかった。目明しをするくらいの人間が、そんなことを知らないはずはない。八州廻 りの「旦那」はいいでしょうが、千人同心の殿様に至っては、呆れ返ってものが言えない。  一七二頁で晃円が「忠治郎兄イ、天下の形勢一変だ」と言っている。泥坊もすれば博奕も打つ という滅法界な人間が、「天下の形勢」たんて言うか、言わないか。何しろ時代は天保です。こ ういう言葉がひょいひょい一般の人間の口から出ると思っているのは、凄じいと思う。  それから一七六頁にたって、大手剛造が「|鶏籠《とうまる》見張の侍」に「おい、まだ出発はせんのか?」 と言って聞くと、士が「はッ、もう、出発でござる」と答えている。この応対は何事でしょう。 一方は囚人です。この唐丸見張りの者は、前にも言った通り、士ではあるまいと思いますが、よ しんばこれが不浄役人であったにしたところで、宿役人であったにしたところで、こういう言葉 を遣う気遣いはない。それどころじゃない、囚人に対して、対等の言葉を遣う気遣いもないので す。こういうことは言葉の違いだけでなしに、応対の作法として、あるべからざることだ。作者 は囚人がどういうふうに扱われるか、ということも知らず、役向の者はどうそれを捌いてゆくか、 ということも知らないのです。  それからいよいよ処成敗のところになって、晃円が忠治にこんなことを言う、「日頃出世前の からだは見ては不吉とされてゐる罪状深い人も、処成敗は見てやれば見てやるだけ、己れの身も 御信心の罪亡ぽしと云はれてゐるのぢや」(一八一頁)ーこれは何のことだか、全くわかりませ ん。「御信心の罪亡ぽし」とは何のことか。大衆小説ならば、もう少し誰にもわかる言葉を遣っ て貰いたい。一語一句がわからないのみたらず、大体に解せない言葉を、作者は何で用いるのだ ろう。  この忠治と晃円の応対の中に、「何アんだ、あの大仰た人数は? 田中屋が中頃で、役人やら 目明しやらざツと数へて百余りだ」という言葉がある。これは差立てになって行く唐丸籠を見て の話なんですが、差立ての籠に、百人なんて大勢の人がついて行くものだと思っているんでしょ うか。  一八四頁の御仕置の光景を書いて、「少し離れて床几へ腰かけた関畝四郎の陣笠へ、きらく と陽が射す」とある。陣笠のことは前に言いました。それに続いて、「一人、罪状書を見物人達 へ聞こえるやうに大きな声で、読み聞かせる武士があつて」と書いてある。これは刑を執行する 前に読んで聞かせるので、この型は例の『白木屋お駒』の鈴ヶ森の場、浄瑠璃でもざっと書いて ありますが、あの時でも「代官お駒に向ひ」とあったようにおぽえています。必ず代官自身がや るので、代官手代の者などが読み聞かせるものではありません。  この仕置場に「首斬役」というものが出て来る。首斬役というものがあると思っているのは甚 しい間違いで、これは江戸でもどこでも同じことですが、別に首斬役というものはきまっていた い。江戸の牢屋でも、仕置場でも、同心が斬ることになっている。例の浅右衛門は、その首斬同 心の代りをつとめることになっていたので、表向の人間ではたいのです。ですからこの場合にお いては、誰か代官手代の者に斬らせたければならないわけになる。この文章でみると、首斬役と いうものがあったようにたっていて、何度も首斬役という言葉が出てきますが、これはいけませ ん。  まずこの小説はこの辺が一切になっていますから、評判記もここらで切り上げましょう。こま かいことを指摘してゆけば、際限もたい話だし、中には他の小説の時にいったものもあるから、 いい加減にとばしたところもあります。大衆小説は博奕打を書いても、やはりうまくゆかないこ とは、これだけでも十分おわかりのことと思います。