江戸の女気質 三田村鳶魚 女の少い江戸  江戸の女というものは、上方に比べて見ると威勢が強いので、中から下の暮しを見れば、亭主 よりは女房の方が一段と上位にいるように見えます。上方で|爺嚊《ととかか》で暮している人達にも、そうい う風がありますけれども、それよりもちょっと調子が高い。自体江戸は女に勢いをつける土地柄 であるようです。武家の方は除けて、市中で見渡しましたところが、男の方が多くって女の方が 少い。その割合をいいますと、男が八九分で女が漸く一二分というような工合に見えるので、女 が少いために、自然と女が景気立って来て、威勢がいいんだろうと思われます。それですから女 の子を産めば|縹緻《きりよもつ》がよければ申すまでもありませんが、まずい子であっても、何か知らん芸を仕 込んで、屋敷奉公にでも出す、といった風がある。それも行先はいくらでもあるので、小娘のう ちから気が強い。そういう調子だから、自然女房に威勢がついて、亭主野郎は頭が上らないらし い、ということを、西沢一鳳が「皇都午睡」の中で云って居ります。  江戸に男が多くって女が少いということは、何も嘉永の頃に云い出したことではない、大分古 くから云われていることなのです。江戸には限りません、植民地などというところは、いつもそ ういう傾きがある。江戸のような新しく開けたところを、古くから開けている上方の人の眼から 見れば、そういうことが際立って見えるというのも、無理もない話ではありますが、江戸の町方 に就いて、そういう方面を睨めたものは、古いところにはあまり書残されたものが見当らない。 貞享五年に出版した「色里三所世帯」に、浅草の裹町の模様が書いてありますが、それは随分思 いきった書き方で、書きも書いたりと云いたいくらい、思いきった筆つきになって居ります。江 戸の市井の様子を書いたものは、これが最も古いものだろうと思われるので、勿論それとても上 方人の眼で、江戸を見て書いたものではありますが、|裹店《うらだな》の長屋に住む人達の生活を観察した末 に、「我身ながらあきれて、いかなる女人にても|爰《ここ》にむかひ、第十八番の願文をす、めさづけん と、みなやもめずみのなげきに、江戸は女のすくなき所を今|覚《さとつ》て、尤この数百万人の男に其相手 はたらぬはずなり」と結んであります。  その後にも上方人が同じような見方をして書いたものはいくらもありますが、それを書くに就 いて、どういう根拠があるといって提出することは、上方人にも出来ますまい。ただ眼で見た有 様を云ったに過ぎぬのですが、そういうことであるならば、関東の人も京は女の多いところだと 云って居ります。これも別に根拠のある話ではなく、眼で見て直ぐ云ったまでですけれども、あ まり間違ってはいないようです。従って上方人の江戸を見ていうことも、間違いではないように 思います。 「|諸分《しよわけ》は島原、|口舌《くぜつ》は新町、張強きは吉原」ということも、云い慣らされて居りますが、吉原に 張りの強い女がいたということも、よく売れるということから来ている。遊女がよく売れるとい うことは、女の少い土地柄として如何にもありそうに考えられますが、それを直ぐ鵜呑みにする わけにも参りますまい。吉原にはコロリという名のついた、百文の女もいたのです。一日稼いで 十八文とか、二十文とかいう銭しか取れなかった世界で、百文の女を買うこともなかなか容易な 話ではない。元禄の吉原は町人の世界になってしまったのですが、そこには六十匁の女もある。 三匁、五匁という女もある。百文の女ばかりでは勿論ありません。 元来江戸は三民の住所であります。士、工、商で百姓がいない。それを二つ分けにしたのが、 武家と町家というものたので、その生活ぶりは武家、町家という二大別の下にあるわけなのです。 そこで今度は武家というものを眺めて見ますと、武家には勤番といいまして、殿様について来て 殿様について帰る者と、|定府《じようふ》といって江戸に居きりの者とある。荻生徂徠が江戸は旅宿暮しだと 云ったのも、先ずは主として武家の暮しに就いて云ったのですが、町人どもの方を見ても、やっ ばり旅宿暮しである。商家の事にしますと、江戸店といいますのは、上方に本店を持っているも ので、江戸の方が支店にたる。江戸に本店があるのは、|地店《じだな》と申しまして、これは十に一も無い くらいのものでありました。 それから労働階級の人を見ますと、これも寄り集りの人が多い。工商とも同様に旅稼ぎの人が 多いのです。それですから町人などの理想は、大坂に生れ、江戸に稼ぎ、京に隠居するというこ とであったのですが、職人どもの方としますと、先ず地の人、その次は落著く人-他郷で生れ ても江戸に居著いてしまう人で、その次が出入りの人——これは期間の長いのもあれば短いのも ありまして、大分まちまちになって居ります。 人口統計の上から  そういうわけでありまして、武士も町人も皆旅宿暮しであったのですから、家族を持っている 者が少いのですが、果して男が多くって女が少いかどうか、それを統計によって考えようとする ことは、なかたかむずかしいのです。統計でたしに眼で見たところ、概して江戸の暮しが旅宿の 暮しであることから考えれば、家族がいないのですから、女が少いということも考えられる。併 し|人別《にんべつ》の方で往ったら、もっとしっかりして来るかと思って、少し調べて見ましたが、享保以前 のものは無いのです。享保以後のものにしても、あまり安心出来る人口統計は無いし、統計の取 り方も、その時々でいろいろな心持になって居ります。それどころじゃない、人口の総数を挙げ ただけで、男女の内訳をしていないのも残っているのですから、とても安心出来るわけのものじ ゃありませんが、安心出来なくても、一応人口統計を辿って見ることに致します。  文政年間の総国人別を見ますと、二千五百六十二万九百五十七人ということになって居りまし て、そのうち男が千三百四十二万七千二百四十九人、女が千二百十九万四千七百八人ですから、 人口の総体に対して四割七分二厘、男に対して勘定すると、九割八厘ということになる。男と女 の釣合というものは、全国的に見れば二厘の差しか無いのです。これを標準にして、今度は江戸 の人口統計を眺める。尤も江戸の人口統計は、市街地に住んでいる老だけ、即ち町奉行の支配地 だけということになっているのですが、それも享保の初めから見ると、だんだん|歩《ぶ》がよくなって 居ります。享保四年のもの、これは男女とも十五歳以上ということにたって居りますが、しばら くこれによって見ますと、総数五十三万四千六百三十三人のうち、男が三十八万九千九百十八人、 女が十四万四千七百十五人で、総数に対しては二割七分強、男に対しては三割七分一厘強という のですから、これは大分釣合が取れて居りません。同じく六年のは総数が少し減って居りますが、 四十八万四千五十人のうち、男が二十三万千百七十五人、女が二十五万二千八百七十五人で、女 の方が殖えて居ります。総人口に対しては五割二分強、男に対する比例は一、○割九分三厘余と いうことになる。それが十六年になりますと、総人口もちょっと殖えて、五十二万五千七百人、 男が三十万五百十人、女が二十三万五千百人になって居ります。今度は総人口に対して四割四分 七厘、男に対しては六割八分三厘ですが、六年以来ずっと女の方が殖えて来ているわけです。  寛保三年のは五十一万五千百二十一人で、男が三十万十三人、女が二十万五千人、総人口に対 して三割九分七厘強、男に対する割合は六割八分三厘ということになりますから、ここでは女が 少し減って居ります。延享三年になっても、五十万四千二百七十七人のうち、男が三十二万七千 六百九十人、女が十八万六千五百五十一人、総人口に対して三割六分九厘強、男に対して云えば 五割五分二厘になる。天明六年のを見ますと——これは饑饅に対する御救いの時の人数たので、 従前のものに比べれば、大変数が殖えて居ります。前のは人別帳に書いてあるだけの数だったの でしょうが、今度は実地に就いて現在を調べるので、こういう風に増加したのでしょう。こうい うことから考えても、人別帳に載っていない人間の多かったことがわかりますが、その数は百二 十八万五千三百人で、男が五十八万七千八百余人、女が六十九万五百余人、大変に女の方が殖え て居ります。割合もここでは五割三分七厘強、男に対しては一、一割七分四厘ということになっ ている。天明時分に、こういう風に女が多かったということは、思いやられることがあります。 天保八年になりますと、これも現数を調べたものらしく思われますが、百二十八万四千八百十 五人で、男が五十八万七千八百十人、女は六十九万七千五人ですから、割合は五割四分二厘強と いうものになり、男に対しては一、一割八分五厘になって居ります。嘉永六年のは人別帳から挙 げたのでしょう。総数は五十七万四千二百二十七人に減りまして、男が二十九万五千四百五十三 人、女が二十七万九千四百七十四人、総数に対しては四割八分六厘強、男に対して云えば九割四 分五厘ということになります。  しっかりしない統計ですから、まことにぽんやりして居りますが、そのぼんやりしたものを眺 めて、ぽんやりと江戸の移り行く様を考えることが出来る。それによりますと、女がだんだんだ んだん多くたって来ているので、江戸には女が少くって男が多い、と一概に云切ってしまうこと も、何だかむずかしくはないかと思われます。けれどもこれは市街地だけの統計で、町奉行の支 配以外の人間は書いてありません。寺杜奉行の支配の人間などは、無論入っていない。これは数 に於ても大したことはないからいいとしても、武家の屋敷地に住っている者は一つも入っていな い。この方の統計は全く無いのです。 武家の方は幕府をはじめとして、諸大名、諸旗本、そういう方面の人数はどういうことであり ましたか、全くわかりませんが、小宮山南梁翁の概算によりますと、享保に二十六万三千四百六 十六人、天保に二十九万九千三百十三人、という見当のものであろう、ということです。男女の 内訳はありませんが、この方の女の数が大変少いものにたることはわかって居ります。武家の方 の人間を、町方の人間と打込にして、江戸市の状況を眺めることになりますと、どんな比例にな りますか、そいつは殆どわからない。だんだん市街地の方が増加して来るようですが、武家の方 の人数-中間や小者まで入れると、随分数が上って来ます。小宮山翁の推定の中には、そうい う者まで入っているのですが、そういう者や、勤番士の中でも軽い身柄の人達なんていうものは、 随分数が多かったのですから、それまで算えて男女の釣合を取って見ましたならば、愈々女の数 が少いことになって行くだろうと思います。  それに注意すべきことは、実数に於て女の多い町家と、武家とを掲交ぜて比べて見ますと、女 が少いということになるばかりでなく、何にしても旅宿の住いでありますから、たとい女が多か ったところでも、男にも女にも独身者の方が多数なのです。独身ではないにしましても、勤番の |士衆《さむらい》の如きは、妻子は国に在るので、江戸には居りません。町家の番頭、手代の如きは勿論独 身であります。男の方にも女の方にも、独身者が多いわけなのですから、人口統計で見た男女の 釣合より外に、更にチグハグになっていたことがわかります。それに女はあまり外へ出ませんし、 男は外へ出るというようなことからも、見た眼には余計男が多いように感ぜられたこともあった でしょう。 遠国他国者の寄り集り  一体武家が土著していないということに就いては、いろいろな議論もありますけれども、旗本 や御家人はとにかくとして、最も多数の諸大名は、いずれも皆本国がありますから、江戸へ集っ て来た者は旅宿の境涯である。町人にしましても、関東——.殊に江戸には元来町人が無い。江戸 の町割をします時分に集めた町人どもは、新開の土地でもあり、近所にはいないのですから、皆 遠国他国から集めた者である。これは江戸の成立を考えればわかることですが、関東には昔から 兵と農だけで、商も工も無い。商人の大体、職人の大体は皆遠国他国から集って来たものですか ら、武家の暮しが旅宿らしいばかりじゃない、町家の者も同様なので、江戸は寄せ集め物ばかり で出来ている、といってもいいような姿であります。これは江戸に限ったことでもないでしょう。 都会という都会は皆そういう風があるのですが、江戸は後から開けた土地だけに、殊にそういう 心持が多かったのです。旅にいるような心持でいますから、例の「旅の恥はかき捨て」というや つで、面白くない心持の人問が多い。礼儀廉恥が都会の外ヘ置いてきぼりになるわけもここに在 るのでありまして、どっち道独身者が多い。独身者でなくても、家族は国にいる人が多いので、 売笑という困ったことも生じなければなりません。私娼とか、公娼とかいうものの需要も、大変 高まって居ります。 そこで遊廓の状況を見ましても、京都は如何にも|讐《う》ろう笞ろうとしている、江戸は買おう買お うとする風がある、大坂はその中間に居る、といった有様が見えます。京都の遊女はなまめいた 様子で、自分の方へ招き寄せようとする風があり、江戸の方を見ると、何か高く矜恃していると いった様子で、力み返っている風がある。これが即ち「張り」ということを提起して来ているの ですが、同時に遊女に対する心持も、江戸に於ては男がこれを屈服させて、愉快であると感ずる 風が出来て来た。延宝の頃までは吉原は武士の世界でありまして、元禄以後はじめて町人の世界 になり、資力次第ということになりました。資力次第ということは、資力の多い者が世の中の勢 威を占め、世の中の栄誉を占めるということになるので、これは江戸に限った話ではありません が、江戸の民間の事柄は元禄以降がめっきり目立って来るようになったのです。民間の話を書い たものは、いずれにしても元禄前後といううちに以後に多い。江戸の民間の話は、そう古いのが 無い、ということになるのであります。 そういう風に眺めて参りますと、売笑という事柄及び遊廓というものが、なかなか意味のある ものになって来る。従ってまた天明年間に書きました「|夢語《ゆめがたり》」などを見ますと、江戸のような繁 華な地には、四箇所も五箇所も遊廓を御免になった方がよかろう、そうして吉原のように一|曲輪《くるわ》 として、市街地から離隔した場所に持えたらいいだろう、またごく下等な娼婦の居り所も、やは り一曲輪一曲輪として、市街地からかけ離すようにすれば弊害がなくてよかろう、ということを 主張して居ります。そういう議論は如何にも必要なものだったと見えまして、あの有名な寛政の 改革にも、吉原は勿論の事、深川とか、四宿とかいうところに対して、そういう方に厳重な松平 越中守が手を著けなかったのは、大いに考えなければたらぬことだと思います。 そういう実況に居りましたから、江戸の女は男好きといわれるほどの恥は無いとして居った。 そういうことを女どもが思うというのは前に申したところに深い根拠を持っているからで、女が 力んだり、威張ったり、栄耀がましく構えたり、我儘勝手を働いたりすることも、同じところに 在るのですが、女の気位が高い、景気を見せた女の相場というものは、無根拠に算え出されたも のではありません。そういう場所柄として、一人の女を独占する、即ち妻を得るということは、 已に贅沢らしくも眺められて居ったのです。上方の方では、女房は|半身上《はんしんしよう》といい、女房は所帯の 薬といい、稼ぐ亭主に繰廻す女房、という風に云って居る。また栄耀には女房は持っていない、 とも云いました。女房を栄耀と考えるのはおかしな話ですが、そういうことを云わせた世の中、 その時世というものを考えて見なければたりません。実際に共稼ぎは出来ませんが、往々「夫婦 共稼ぎ」ということを称えた。それは栄耀で女房を持つのでない、ということなのですが、これ は専ら商人の畠で云ったので、職人や労働者の方になると「二人口は食ヘるが一人口は食ヘな い」と云いました。またさもしい、弱ったような生活ぶりを意味するために、あれはまだ女房も 持たない、と云ったものです。それを最も明白に現したのが「男やもめに蛆がわく、女やもめに 花が咲く」という言葉で、これは自ら男より女の相場の高いことを現して居ります。女尊男卑と いっても似つかわしくないが、値打がある、相場が高い、といった方がいいかと思います。 こういう杜会になりますと、商人の方ならまだ共稼ぎが出来ないことも無いかも知れない。亭 主は商売を勉強している、女房は台所の方の事やら、内々の繰廻しやらをして行くので、それが 立派な共稼ぎになるかも知れませんが、職人ではそうは往かない。労働者でも車力の女房なら、 まだ後押も出来るけれども、駕籠舁の女房じゃ片棒を担ぐわけに往きません。そういう者は内職 をするとか、すすぎ洗濯、裁縫というようなことで、多少共稼ぎに類した働きをする。勿論亭主 の働きと釣合の取れるものではありませんが、全然共稼ぎでないとも云えない。けれども商家の ように、亭主の働きに近いことをするのはむずかしいので、概して云えば、女房を持つことは亭 主の働きがあることになり、それが栄耀でもあったのです。 開闢以来の悪風俗 いずれにしても旅稼ぎの間に妻を得ることは困難でありまして、必ずしも女が多いから、少い からというためばかりではない。旅先だから得難いのです。その得難いという度合のひどかった 為に、一面には反動が生じて来まして、女房を虐待するのが男前のいいことのように思われてい ました。階級にもよる話ですが、女房を大事にするのは、みっともないことのように思われて居 ったので、概して云えば四民ともに妻を卑しむ傾向があったのは、世の中の有様に対する反感、 反動とも云えましょう。びたびたしているのは上方者らしいといって、江戸前の女は嫌ったのみ ならず、虐待するやつは男らしい、といって喜ぶ変た傾向もある。そういう気味が募って来て、 ぶたれる覚悟のわしや結び髮、色で逢ふときや斯うぢやない。 逢へばいつでもふんだり蹴たり、島田の蹴鞠はありやしまい。 ものもいはずにふんだりけたり、壬生の踊ぢやあるまいし。 といったような、変な俗謡が出来るようになりました。またそうやって虐待するようなことが、 却って愛欲を増長させるような模様もあったので、 野暮なお方の情あるよりも、意気で邪見がわしや可愛。 というような唄もある。そういう心意気からは、ひどい目に遭うのが恋愛を募らせる、というよ うなことにもなるので、この意味の俗謡はいくらもありますが、ここには僅かに…二を挙げて置 きます。 うちなと蹴りなとい亠よにさんせ、苦楽まかせた此からだ、へかうなるまでが、たいていぢ やないわいな。 たぶさとる手にすがりつき、訳を聞かして下さんせ、私が悪けりやあやまりませう、邪見も 時によるわいな。 鬢のそ亠毛をかきあげて、膝にもたれて眼に涙、さうしたお前のかんしやくは、いつもの事 とは云ひながら、訳も云はずに腹立て二、せかずに訳を云はしやんせ。 そういう情味が如何にもこたえられぬように思われたのは、今日から見ると面白いようであり ますが、実際は困りものであった江戸ッ子の夫婦生活は、そうした事によって倦怠を来さなかっ たので、疵や|痣《あざ》から生命を見出すとでもいいますか。特殊な江戸ッ子に在っては、何も彼も極端 に現れて居りますが、こういう俚謡を見ても、その味が深いと思います。それは必ずしも泥水に 育った者ばかりでなく、真水に育った中にも、そういう女があって、それを一種の趣味として居 ったように見えるのです。その反面には、そういう強い反動を起すようになると、更に一層も二 層も女の気象が強くなる。実体なところがなくなって、気嵩にのみたっているところへ、持って いる愛欲もだんだん賛沢な、奢侈なものになる。その我儘の利くところから、放埒にもなって来 ますし、他面に於ては利欲に募るようにもなって、その利欲のために、遂に男女の道は売物買物 になり、盗み物にもなり、夫婦共謀、親子相談して、利益のために色情を売る者も出て来れば、 奢侈のために不義密通する者も出て来ました。江戸の世盛り、黄金時代と信ぜられている化政度 には、そういう様子がひどくなって来ましたので、日本開闢以来の悪風俗の時代である、といっ て当時の識者は歎じて居ります。 この時分には色と恋とを二つに分けて、恋は真剣なもの、色の方は「浮気やその日の出来心」 といった風に解せられて居りますが、皆が恋より色に流れるようになった。相愛の間でなしに、 知合であるものを、誰さんとは色だと普通に云うようになり、惚れた、惚れられたということか ら、惚れっぽい、仇っぽいという言葉が使われ、その辺の融通のいいのを|粋《すい》といって褒め、そう でないのを野暮といって御笑い草にする、という風になりました。江戸の女という女は皆娼婦型 になって、どこまでが素人で、どこまでが玄人だかわからない。江戸市の内外の境界がよくわか らないように、|地女《じおんな》と娼婦との境も、どこまでだかわからずに広げられるようになって参りまし た。 時代の思想として、儒教も仏教も神道も、あまり役に立ちません。夫婦は人倫の大本であると いう儒者の睨みは、何を見出しての事であるか。無明や煩悩を断っても断たないでも、邪淫戒や 不淫戒を真先に立てているお釈迦様の眼玉の光というものも、また凄まじいと云わなければなり ますまい。そこを離れて一つ考えて見るということは、どっち道大分方角の変った事柄に相違た いので、人間を扱うには、外のところからでは、どうしても根本的にやれないのです。近いとこ ろで、赤くたるとか、白くたるとかいうことでも、ここから考えて行かなければたりませんし、 対策というものがあるか無いかも、外から考えてはいかんと思います。狩野亨吉君の話に、有名 な弁証法も、そういうところを差措いているから駄目だ、と云われたと聞いている。お色気を差 措いて御話は出来ませんというのは、古い落語の言い草ですが、それは何時になっても動かぬ事 だと思います。 曝天下の風 相手が相手だからでもありますが、時代の風潮というものは|去嫌《さりきらい》のない、よく行渡っているも ので、上流の方の人の事ばかりでなしに、裹店の嚊にまで徹底して居ります。一九とか、三馬と かいう人達の書いている中に、御笑い草として出て来るのはいくらもありますけれども、そうい う種類のものはあまり多過ぎますから、「世事見聞録」に指摘しているところを、ここヘ挙げて 置きましょう。 今軽き裏店のもの、其日|稼《かせぎ》のものどもの|体《てい》を見るに、親は辛き渡世を送るに、娘は髪化粧、 能き衣類を著て遊芸又は男狂ひをなし、亦夫は未明より草履草韃にて|棒手振抔《ぼてふりなど》の家業に出る に、妻は夫の留守を幸に、近所合壁の女房同志寄集り、己が夫を不甲斐性ものに申なし、互 に身の|蕩楽《どうがく》なる事を咄し合、又紋かるためくり抔いふ小博奕をいたし、或は若き男を相手に 酒を|給《た》べ、或は芝居見物其外遊山物参り等に同道いたし、雑司ヶ谷、堀の内、目黒、亀井戸、 王子、深川、隅田川、梅若抔へ参り、又此道筋、近来料理茶屋、水茶屋の類、沢山に出来た る故、右等の所へ立入、又は二階抔へ上り、金銭を費して|緩《ゆるゆる》々休息し、又晩に及んで、夫の 帰りし時、終日の労をも厭ひ|遣《やら》ず、却て水を汲ませ、煮焚を致させ、夫を|誑《たぷらか》し|賺《すか》して使ふ を手柄とし、女房は主人の如く、夫は下人の如くなり、|邂逅《たまさか》密夫抔のなきは、其貞実を恩に きせて、夫れを|嵩《たかぶ》り、是又兎にも角にも気随我儘をたすたり。 お前さん、その足で水を一杯汲んで来ておくれ、といった風は、鮮かに女房の力み、我櫨を見 せているものでありますが、そういう風は文化度に至って俄かに起ったのではない、宝暦頃に已 に目立って見えて居ります。その前はどうであったか、よくわかりませんが、それが更に増長し て、黄金時代には甚しくなったのでしょう。メカスという流行語がありますが、江戸の女は寛政 度から綺麗になりました。江戸は結構なところだが、女のきたないのが情けない、と従来云われ て居ったのが、寛政度から綺麗になっている。それもその筈で、裏店の嚊まですり磨きをするよ うになった、と驚かれて居ります。綺麗な上にもっと綺麗にしたいので、光り輝くともいえば、 鏡と顔と光を比べるともいう。誰さんの顔にはものが映るくらいだ、と美しい女を形容したり、 黒塗の簟笥がきまりが悪い、などとも云ったものです。上玉なんていうのも面白い言葉で、如何 にも玉のようなということを理想にして、女を眺めたことがよくわかります。 こういう時節になりますと、低い階級の女どもがそうなるばかりではありません。奥様より上 |御息所《みやすどころ》とか、|御台所《みだいどころ》とか、御簾中とかいう貴いところは差措きまして、奥様以下——即ち大 名の妻以下を見る。女房の称呼も随分いろいろあって、御新造、|御上《おかみ》さん、カカア、山の神、|下 歯《したぱ》、|化臍《ばけべそ》という風に、沢山の種類に分れて居りますが、時世というものは妙なもので、女の調子 の高くなっている時は、大名の家庭にまでそれが及んで居ります。大名の奥方がどんな風であっ たかということは「昇平夜話」などによく書いてありますから、その数行をここヘ出して置くこ とに致します。 諸侯の奥方は御身みづから日々の行事定りたる事なければ、朝は甚遅し、不手廻しなり、昼 前には髪化粧済かね、御近親方御見舞にても昼前は御対面も成り難し。殊に君主御在国、御 留守抔は一入御心儘に成り易し。 自体この大名というものは、参覲交代がありますので、本国と江戸と二所暮しになっている。 従って何方の住いも、半分は御留守ということになりますから、自然奥方は我靂が出来るわけで あり、また我饉にもなるわけであります。「昇平夜話」などは、御目覚めは午前六時、御引けは 午後十時にしたい、と希望条件にしているくらいで、これによって大名の妻は、朝も勝手次第に 寝ているし、夜も勝手次第に|更《ふか》す、といったようなものであったことがよくわかります。諸大名 の家々というものは、いずれも貧乏なのが多く、家来達は半知とか、|分一借上《ぶいちかりあげ》とかいって、知行 を完全に貰う者はありません。割引をされて、大概半分ぐらいになって居りますので、|表方《おもてかた》の費 用はうるさいほど倹約倹約といって詰められている中に、幕府をはじめ諸大名の奥向では、嘗て 倹約を行われたことがないのです。女中の御手当には、分一も借上もない。半知どころじゃない、 皆丸々いただいて居ります上に、特別な御手当さえ受取って居ります。旗本衆などになりますと、 若党中間は減しても、下女|半下《はした》はずんずん殖している、という有様でありました。これで江戸の 女というものは、上も下もなく、急所を押えて贅沢、我麕をしていたものであるということが、 大凡わかるだろうと思います。 色男の変遷 女の奢侈、そこから湧き出して来るものに、色男というやつがありますが、この言葉が盛に用 いられるようになったのは、明和度からのようです。芝居の方では若衆方という名前であったの が、その外に「つツころばし」というような称えになり、色男役などとも云っている。どっち道 芝居は尖端を行くものであります。もう少し前のところでは、浮世草子と芝居とが新しい、早い ということを競っているような風があって、寧ろ芝居の方が後れているような姿でありましたが、 当流浄瑠璃が盛んに行われるに至って、浮世草子よりも新しい、早いところを往くようになりま した。そうして歌舞伎狂言というものが、相次いで新しい方に走って来たのですが、明和の頃に たりますと、そこが存分に往けるようになり、まして文化、文政になっては、世の中を芝居が指 導する有様で、新しい、早いところを専らやるようになって参りましたから、芝居に現れるもの というのは、世間の事柄としては最も新しい、早い。そこに人気の帰著しているもの、もしくは そこに到らんとしているものを持出して来たのですから、その時分には色男なるものを現すのに、 いつも役者が標本になって居ります。 それですから「太平国恩哩談」などを見ますと、武家の方では若い士衆は、沢村宗十郎や坂東 彦三郎の風儀を生写しにして、当世がっていたということが書いてある。これは武家の方ですが、 町家の方としましては、坂東三津五郎とか、尾上菊五郎とかいうところが標本にされて居りまし た。従ってまた色の白い、姿のやさしい、女のようである男を、いい男というようになって来た。 刀にしても、長い刀や長い脇差を嫌いますし、著物の|桁《ゆき》丈も長くなって、小紋か何かのジミな模 様の著物を、揃えて一つ前に著るとか、|紅《もみ》の襦袢を著るとか、仕立も女の著物のようにして、気 持もやさしく、綺麗にして行こうという風になって来る。これは女の奢侈、贅沢から起る現象な ので、それはやがて不義密通という方に走って行こうとするものと思われます。 女がいろいろとそういうことに就いての註文を出して、その希望が世の中にとにかく現れて来 る。そこを描き出したものが例の人情本でありまして、「娘節用」の金五郎のような者も出て来 れば「梅暦」の丹次郎のような者も出て来る。これらは芝居にしても、何だか|擽《くすぐ》ったいような役 どころです。こういう時節になりますと、いろいろな註文が出て来るもので、色男もただそこだ けでなしに、何だか親切ずくのようなのが欲しくもなり、少し文句のついた色男になって来る。 顔が綺麗なだけでたしに、男振りも苦み走っているのがいいという。これは色里で早く云ってい ることで、甘肌、苦肌などという言葉が古くから用いられていますが、「二筋道」の文里とか、 「梅暦」の藤兵衛とかいう者が出て参ります。 そうしますとまた一方では、色情の奢侈が募って、貧欲の風を生じて来る。「|医者風流解《いしやふりげ》」の 中に出て居りますように、今時の娘は少しぐらい男が悪くても、|銀《かね》のあるところへ行きたいと思 う、男がいいからといって、男が食われるものではなし、朝から晩まで顔ばかり眺めていても、 腹が一杯になるわけでもない、少しぐらいまずい男にしたところが、衣類でも沢山持えてくれて、 物に不自由のない男のところへ嫁入した方がいい、という風になる。そうなると夫婦喧嘩をして も、亭主はなかなか女房に勝つことが出来ない。物見遊山もろくにさせず、著物も十分に著せて くれないと罵る。甚しきに至っては、女一人が養えぬ癖に、それでも亭主か、というようなこと を云い出す。替り目のたびに芝居ぐらい見せそうなものだ、なんて云う。こういう女は亭主を自 分の我靂勝手の資本主のように考えているので、それが増長して来ますと、娼婦にまで行かない でも、娼婦に行くべき道筋を辿って、一種の売笑をやる。看板のない売笑です。 そういう二つのものが一緒になって来ますから、もう弘化度になりますと、一枚摺の「世界穴 さがし」の中にも、 流行おくれ、にやけた色男 といって、従来の「つツころばし」とか、お|平《ひら》の長芋とか、ただ生っ白いとかいうようなものを 見捨てているのです。「にやけた」というのは褒める言葉ではない、厭わしい意味に使われてい る。「にやけ」は文字で書けば若気で、その若は若道の若です。「にやけた」というのは色の自 い男のことで、この時分になると、あの人なら一苦労して見たいという。「潮来すくなよおまへ に惚れて、苦労するのも心柄」と唄う。|惚気《のろけ》たのか、|諦《あきら》めたのか分らないことにもなる。この惚 れっぽいとか、仇っぽいとかいうようなことは、寛政以来の傾向で、それが新内趣味とでもいい ますか、そういうものは恋でもなければ色でもない、随分物騒なものですが、それでも浮気でな く見せたがっている。けれどもどんなに見せたがっていても、それが本気の沙汰でないから、享 保から文化、文政まで百年ほどの間に、情死から駈落に変っている。もう命を懸けるような気持 はないので、ただ自分の思うように、我儘勝手がしたいのであります。