男女の道 三田村鳶魚 号令結婚は武家の規模 一体男女の欲ということ、それを万人が行って、一つも|過《あやま》ちがないようにする。一人一人に過 ちがないのみならず、世の中にも差支ないような仕方、そこに於て男女の欲は男女の道になるの です。自然から眺めて見ますと、どうしてもそれは生殖作用で、たしかに子孫繁昌ということに なって行く。そこで例の生殖器崇拝などということも起るのですが、人が人を作る、これは実に 霊妙な働きで、天地の大作用でありますから、それを崇拝するのは、男女の道を尊重することに なる。一休和尚がコ切衆生迷悟処。三世諸仏出世門」といって礼拝したという心持、それと同 じ気持であるとすれば、人智が開けなかった為に、生殖器崇拝があるのではないようにも思われ る。如何にも大切に行うべきものを冒濱し易い。それを娯楽と考え違いをするから、売買するよ うにもなって来るのです。 昔の農村は素樸で、枯淡な暮し向でありましたから、その潤いのために盆踊もあれば、御祭や 日待もありました。そうして早婚というものは、人民の離散する足止めの効用にもなったので、 早婚をさせるから子供が早い。そこからまた堕胎、避妊等を生じても来るのですが、そこのとこ ろに政治の働きがあるので、御代官の手際もあれば、村成敗なんていうこともあります。自分の 村の女に他村の者が手を付ければ、大問題になるけれども、村内の者ならどうもならないという 習慣、あれも食い逃げをさせぬ仕方なので、田吾作の娘は兵吾助の伜が貰わなければならぬ、と いうような働きまでつけさせて置いたのです。その農村もだんだん副業のあるところが盛になっ て、副業のないところは寂れる。盛になれば金廻りがよくなり、人の出入りが多くなる。それが 自然都会風になって行きますと、男女の道であるべき筈のものが、やはり男女の欲になってしま う。欲であるから、それが娯楽になって行って、村落も都会もどうやら弊風を同じくするものに なって来るのであります。 売る買うということの外に、売らぬ買わぬ方の者までが、娯楽として扱われるようになりまし て、夫婦の問柄さえ、娯楽と見るようになる。だんだんに娯楽と見る方の幅が広くたって参りま す。従って風俗はだんだん悪くなる。政治のよしあしは風俗で知れると云われて居りますが、風 俗が悪くなって来れば、如何なるいい政治も行うことが出来なくなって来る。経済や法律はある が政治でないのは勿論の話で、経済や法律で外形を取締ることが出来るにしても、それで人心を 支配して行けるわけのものではありません。一体号令結婚を以て男女の道を捌いて行く。それは 武家の規模でありまして、その規模を以て天下の規模とするように、何故したかということも、 大いに考えて見なければならぬことであります。 よく子供の|玩具絵《おもちやえ》にある|猪隈《いのくま》入道、あれは少将|教利《のりとし》といった御公家さんでありますが、強い|公《く》 |家悪《げあく》と思われて、大江山の酒顛童子などと一緒に扱われて居ります。猪隈の名前は酒落本や中本 の中にも出て参りますし、常磐津や清元の中にも出て来る。これは慶長十二年二月に勅勘を蒙り まして、京都を出奔して、十四年十月に豊後で取押えられ、京都へ引戻されて来て、|兼康豊後《かねやすぶんご》と 共に斬罪になった人です。自体御公家さんの風俗が悪くなりまして、禁裹に当番を勤めることを 忘れる者が多い。禁裹へ出仕する者も正服を著ないで、略服で出る者が多くなった。そこで、慶 長八年九月に|戒飭《かいちよく》するところの法令も出て居るのですが、十四年の七月には烏丸光広、|大炊御門《おおいみかど》 頼国などという御公家さんが、宮中の女官等と種々不行儀な事がありましたので、後陽成天皇は 大層御立腹遊ばされました。この逆鱗事件というものが大きな問題になりまして、それが武家の 号令結婚を以て天下の規模とするように、だんだん導いて行ったのであります。 その時に所司代を勤めて居りましたのが、板倉勝重でありまして、この不行儀な御公家さん達 のことに就いて、禁裏から所司代へ御相談があった。板倉は命を奉じて、駿府の家康に伝え、そ れから所司代が京都と駿府との間を往来しました結果、遂に家康は思召によって宮中を廓清する ことになりまして、御公家さん七人というものが流罪になり、関係のある宮女も悉く処分されま した。この公家衆の不行儀問題の先頭をなすものが猪隈入道なので、後来も大悪人として取扱っ て居りますが、その大悪人の罪科というのも、男女の道を娯楽と心得て不行儀を働いたというこ とにたるのであります。 この時家康が思召を以て宮中の廓清に手を著けた。宮中は宮中だけでその始末が出来なかった 為に、それまで幕府が日本中で手の著けられぬのは、京都の御所の御築地の中だけだったのです が、勅命がありましたので、関東の手がはじめて御築地の中へ延びるように相成りました。家康 が勅許を得てございました孫女、即ち秀忠の女の和子が、|入内《じゆだい》することになって居りまして、遂 に元和六年六月に入内致しましたが、その前に宮中の御模様がどうも綺麗でないから、已に家康 が先帝から勅許を得ているのですけれども、自分の女を入内させることは、この際御辞退致した い、ということを秀忠が申出ました。朝廷では已に先帝の思召で決著していることを、関東から 御辞退申上げる、それも宮中の御模様故にとありましては、さし措くことも出来ませんので、宮 中で御評議があり、御側の公家衆数人を流罪にして、秀忠を宥められ、とにかく入内のことを済 ませました。この時に宮中の廓清に就いては、関東へ御任せになる、ということでありまして、 天野豊後守、大橋越後守の両人が与力十騎、同心五十人を従えて、|女御《にようご》様御用人というわけで、 はじめて京都へ乗込んで参りました。これが後には御付の武家ということになるのです。寛永三 年には中宮法度なども出来て参りまして、その後ずっと禁裹付になり、関東から宮中御取締のた めに、武士を差出すことになりました。また仙洞御所の方にも御付の武家があるようになりまし た。 昔を振返る心持 それから以後は、いつの所司代でも、宮中及び公家衆の風儀に関する役目が一つ出て参りまし て、いろいろた話もありますが、江戸の話ではありませんから、一つ二つの事にとどめて置きま しょう。ぐっと後になりますが、享保度に松平伊賀守が所司代を勤めている時、この人は御公家 さんと懇意な人で、禁裹で「伊勢物語」の御講釈に列しましたところ、大分昔男を羨んだような 話が出た。その時に伊賀守が堂上方に対して、万一今時業平のような不行儀な公家衆があったな らば、斯く申す伊賀守が幸い関東の|目代《もくだい》として居る以上、どうして傍観して居ろうか、立どころ に取って押えて、流罪なり死罪なりにして、公家衆の捉を正さなければたらぬ、と云った話があ ります。こういう風に公家衆を睨みつけたのみならず、公家衆の非行に就いてやかましく云った 者もありますが、御公家さんの行儀の始末がつかないので、いつの所司代も持て余して居った。 ただ時々随分ひどい処分をしたので、僅かに支えられていたのです。 神沢其蜩などは「翁草」の中で、東福門院様の御入内があってから、御所の御作法が改って、 男女の別が出来、御風俗も正しくなって参った、それは最も宮中の御模様が御宜しくなかった頃 より百余年も後の話で、やっと柳営の正しい捉を、天地と共に雲上へ差上げたからだ、と書いて 居ります。東福門院というのは、前に申した和子の事ですが、その御入内以来、武家のきまりを 禁中で執り行うようになり、一般の公家衆の風儀が悉く改らないまでも、猪隈や烏丸のように乱 暴な、業平もどきの不行儀な御公家さんが、宮中にいないようになったのであります。 如何にも風儀が一遍によくなった。成程、武家の遣方というものはきまりがいい、というので、 大層感賞されたわけでありますが、それまでは実に面自からぬ風儀で、何とも仕様がなくて、倦 み果てている時ですから、不義は御法度となって、ぴたりと一遍にきまるような往き方が、大い に効果があったので、世間を挙げて倣うようになった。遂にそれが天下の規模になるというよう なことになりましたが、それから後八十年たった元禄時代に及んで、民間の方からそれを窮屈に 思う者が出て来れば、士達の方にも迷惑千万に感ずるやつが出て来まして、だんだん動き出して 参りました。 元禄度の人々は、寛永度の振合を見て、昔風と申して居りますが、享保度になると、元禄時代 を昔風というようになっている。安永、天明にたりますと、享保を昔風と云うし、化政度には寛 政を指して、昔風というようになった。この切れで見ると、先ず元禄が一切れで、そこが境で大 きく替り、それから先はだんだん小さく区切がついているらしい、これは経済状態、生活状態か ら、切れ目切れ目を見ることが出来ますが、この生活の替りは何から来て居るか。無論経済法律 からも来ているに相違ありませんが、武士の金看板である不義は御法度というやつ、その金着板 に手がかかって外されかけたのは、享保以来の事と思われる。それが一つの切れになるわけです。 元禄と享保との二つの切れ目が、どういうところに在るかといいますと、前のは武士の金看板 に不服を懐き、窮屈を感ずるところに在り、後のは武士の金看板を取外そうとすることに在るよ うです。享保度は法律の世の中で、その時には町人どもなどの間に、金という字を草書で書くと、 人という字と主という字になるので、|人主金《ひとぬしかね》といいました。人主金という僅称は、前に申しまし た「天網島」に出た五左衛門の如き者で、金がたければ幕府でも維持することが出来ない、金さ えあればというのに係っているので、その時はまた世の中に曲りくねりを生じた時ですから、享 すが北 保以来という言葉も、そこから来た世の中の相であります。 徂徠などは四代将軍の末、五代将軍の初めということを云い、それが革新の最もいい時機だ、 と云って居ります。その時は町人達が一般に太り出した時でありまして、後には江戸の初めから 元禄、寛永までは人情が厚く、御政道も盛に行われた、と申して居りますが、それはいずれも 「不義は御家の御法度」という武士の金看板が、ちゃんとして居った時の事だったのです。化政 度の人は元文、寛保の時代を「四貫相場に米八斗」といって、結構な世の中だとして居りますが、 それなら果してその時がよかったかというと、この時が江戸で心中沙汰の多かった時であります。 それから宝暦、天明の間になりますと、男女の道が売買取引せられるようになりかけた時で、文 化、文政度には、それが珍しげもないようになった。宝暦、天明には珍しかったことが、文化、 文政には目立たなくなっている。然るに天保度になると、文化の世界をもう一度見たい、といっ て翹望するようになっていたのです。大御所様の時代といって、家斉将軍在世の時代を、何より も結構な時代として、謳歌するような有様でしたが、如何にも幕府の末になって衰世の相を現し て居ります。 すべてを娯楽視 天保以後のところで振返って見ますと、江戸のどの時代を見ても悪くは見えない。 文だと思いますが、ここに|隠題《かくしだい》の文句が十以上あります。 うしほにの鯛の賞味や名も高し吉原 切売のまぐろのさしみ味もよし深川 文政度の戯 酒呑のよく喰たがる干がれひ すつぽんの値段を聞て恐れけり 白魚は子持になるといやになる あつさりと綺麗に見えし洗鯉 匂ひには誰もこがる二鰻かな すましにはまだ水くさしさより哉 喰へばくふ果ては気のたき|海鼠《なまこ》かな 鰻汁をくらへば跡で気味わろし つまみ喰あとなまぐさきいわし哉 どこにでもたくてはならぬ鰹節 品川 芳町 囲者 芸者 御守殿 木娘 乳母 間男 下女 女房 これらはすべてのものを娯楽と見ているという様子がわかりますが、その外にまた 春むすめ夏は芸者で秋は女郎冬はおかこで暮は女房 というようなのもある。これらを元文度に出来た戯文の「秘密献立」と引合わして見ますと、こ の間に何ほど移り変って来ているかということがわかります。自分の妻をさえ、娯楽の|代物《しろもの》と見 る。妻という売らぬ買わぬものと、売買される他の者と同じように眺める。何から見て同じよう に見得るかというと、無論同じに見る見方があるのです。その娯楽として見る心持が、元文と文 政とでは余程幅が広くなって居ります。 鱠盛端女郎盛かた次第にていか程もくゑる 汁地女いかほども出したがる 香の物若衆歯のわるい面々は手を付ず 飯女房なくてはならず又珍敷もなし こくせう野良しつこくてうまみあり しゆんかん比丘尼見懸は能てもつめたし 花柚振袖けいき|計《ばかり》にてあぢたし 向付鯛格子女郎いつ見てもよふだいは 台引太夫客がいただきさ亠ぐ 指身鰹夜鷹からしなくてはいけず、喰て跡気遣ひなり こういう風に見て参りますと、男も女も御互い様にいいわけではない。武門武士の婦女が自分 で自分の立て前を壊す上に、町家から入込む女奉公人が手伝って、武士を標準にして取立てた世 の中を、さんざんに敲き壊したのです。男女の道を娯楽と見る心持は、女ばかり悪いのでもなけ れば、男ばかり悪いのでもありません。本来御主殿と申すのは、将軍の女が諸大名へ嫁入した場 合の称ですが、当時一般の大名の奥向をも含めた称にもして居りましたので、奥向の奉公を御主 殿奉公と申しました。武家の奉公人というと、町人の家から出ても、武家の女になったのである。 ところで文政の末に、両国の見世物にビードロ船というものがありまして、「御殿女中とピード ロ船は乗つちや見られず見るばかり」というようた俗謡が行われたことがある。天明の頃から、 町人百姓の娘の御殿奉公をすることが殖えて、嫁入前の三四年は、是非とも御殿奉公で過さなけ れば、いい御嫁さんにはなれない、という癖がつぎましたが、そういう女達は無論|沽《びつ》らん哉です から、世間から娯楽視されるのも、仕方のない話であります。武家奉公をすることを、栄耀と思 うくらいならまだいいが、それを飛び越して、嫁入する時の値売のいいように、と考えるように なって来たのです。 慶安度の落首に 当世は付金いせき智遺跡敷金娘に御城上繭 と申しました時分には、目に付いたに違いないけれども、相手は世間一般ではなく、武士であっ たのです。春日局の下に有名な奥女中として伝えられた寿林尼という人がありますが、この人が 三代将軍が亡くなって、奥向の女中に御暇が出た時に、各々は御城から下られたら、皆がその人 柄をゆかしく思いますから、早速呼び迎える人が多いであろう、と申して居ります。これは「源 平盛衰記」や「太平記」に、関東武士が京都ヘ上って、御公家さんの女達を見て、人間でないよ うに思い、天上界の老のように眺めて珍重したことが書いてある。最初はそうした気分で奥女中 を迎えたのであります。それには無論そういう人を迎えることを、栄耀としたような心持も多か ったのですが、その奥女中を迎えるのが栄耀であるということから、だんだんに流れて行って、 遂には嫁入に都合のいいように取做され、町人百姓のつまらない者の娘達まで、奥向の奉公をす るようになりました。そういう者は便宜に奉公するのですから、武家の奉公というものを知らな い。君臣主従の弁えもない。武家の奉公をしているから、自分は武家の人であるということも知 らない。それですから遂には奥女中に使われている|又者《またもの》、或は部屋方とも称する者などは、町奉 行も町人百姓並に扱う、という風にさえなりました。 幕府倒壊の最大原因 もう已に法律が、武家所属の人間でも武家相当の取扱いをしたい、というほどまでになって来 ているのですから、安く見られても仕方がない。それもその筈です。文政十二年に戯文の御札が ありますが、その文句を読んで見ますと、「|寺郎平《じろべい》さん楽な所の御守殿ゑ年期奉公におらがあま つてうをやりたい」と書いてある。それには象書の朱印が捺してあって「米が百に七合五勺だか ら」という文句になっている。これは「見聞雑録」に出ているのですが、私はその後天保五年に 出来たのを持っていますから、ここへ出して置きましょう。文句は同じ事ですが、ただ朱印が 「米が百に五合だから」とたっていて、「これ」という字を梵字めかして書いてある、それだけの 違いです。そういう心持で「おらがあまつてう」という程度の人間まで、御主殿ヘ奉公に出した いという。武家奉公は主人に命を捧げて仕えるのだ、などということは思いもよりません。武家 の義理が如何なるものであるかということなども、こういう連中の考え及ばぬところである。世 間の規模として武家流儀を押立てて行くなどということは、あったものではないのです。けれど も江戸時代というものは、ともかくも武士中心の世界でありまして、殊に江戸は武の都とさえさ れているところである。が、本当の武門武士の女でも、一合取っても武士の妻、という気概気節 がなくなっている。自分も娯楽と見られ、他をも娯楽と見る。男女の道を面白半分のものとして、 眺められているのみならず、 ます。 自らも眺めるに至って、 武士の世界は全く壊れてしまったのであり 書惧 陀於長尾 総鬱一息六 伽羅於尼公 守 甫桑● 議之伐 平民寺 こういう時分になりますと、鼠色灰色の女が世間並なので、根性はどうでも、役者のような男 と、金の切れる男が通りがいい。そうなって参りますと、小説や芝居などにも、大変色合いのも のとして御殿女中が出て来る。他に目立つところの女郎も、芸者も、女房も、皆ごちゃごちゃに なって、同じものに眺められて来る。武家の廃頽は云わずと知れた話でありますが、その廃頽は 一体何から胚胎しているか、それを考えて見なければならない。文化、文政は江戸の黄金時代と 云われて居りますが、この時早く衰世の相を現して居ります。 幕府の衰亡ということに就いては、程朱の学問を尊崇して、王覇の別を教えたから、勤王論が 起って、そのために亡びたのだ、という説もあります。幕府自ら造幣に著手して、貨幣経済の世 の中にしたから、そのために亡びたのだ、という説もあります。或は軍国の財政をそのまま持越 していた為に、時世の変化から取残されて、財政の点から崩壤したければならなくなったともい い、また黒船が来て以来、|頓《とみ》に外事多端になって、そのために倒れたのだ、ともいわれて居りま す。幕府の衰亡に就いては、いろいろな見方がありまして、それは皆一理屈あるに相違ありませ んが、男女の道が紊れた結果、遂に武家を破り、武家を倒すに至った、武家がなくなったから、 幕府も倒れたのだ、という見方は、従来誰もして居らぬように思う。これは是非とも考えて見な ければならぬことであります。勿論これは幕府とか、武士とかいうだけの問題ではない。武士が 持えた世界だから、武士が壊れて幕府が倒れた、ということにたりますが、男女の道の破れとい うものは、実に人間を破壊するものである。思想とか、知識とか、財政とかいうものに先立って、 世の中をたたき壤して行くものはこれであります。 くれぐれも物は見方でありまして、あの無残た闘牛、闘犬、闘鶏などを、楽しんで見て居る人 がある。それもその人には娯楽たのでしょう。こう考えれば男女の道を娯楽と思い込むのも、衰 世の人なら仕方がないのかも知れません。律儀者で通っている土屋但馬守数直は、四代将軍の時 に十五六年も老中を勤めた人ですが、寛文五年十二月、閣老に就任した時に、奥方に対して、今 年五十余まで、夫婦の間睦まじく暮して来たけれども、天下の政務に|与《あずか》る上は、闔中に入り楽し むの心なし、この上の忠勤に一年も命を延べたい、重ねては闥へは入るまい、心持を変えたとは 思うな、その上は妾は勿論、小姓でも堅く召仕わない、と云ったというので、誰も彼も感服して 居ります。心がけはよろしいが、娯楽だと思うのは大間違いである。その大間違いには当入の土 屋閣老も気が付かず、今日に至るまで、誰一人気の付いた者がない。恐ろしいことではありませ んか。