武家風儀の崩れ 行われなかった奥向の倹約 板倉重矩などは、何ほど気に入った女中であっても、二十五歳を限りにして、必ず暇を出さな ければならぬ、と云って居ります。吉宗将軍もそういうことを云われて、柳営の中の一生奉公の 女というものを無くしたいと考えられたことがある。この吉宗の考えというものは、遂に実行さ れるに至りませんでしたが、その心持というものを考えて見なければなりません。何しろ「不義 は御家の御法度」という金看板の下から、直ちにボロが出て、そこから武門武士の生活が土崩瓦 解して行くようになります。 奥向に勤めて居ります者は、一生奉公といいまして、高級の女中になりますと、嫁にも行けず、 婿も取れず、禁欲で暮さなければならぬのですが、生活は保障されているのだから、今日ならば 有閑婦人とでもいうべきものであります。町人の方はもっと解放されているので、この方の有閑 婦人と来たら、実に飛んでもないことを仕出来しますが、武家奉公をしている女としても暇はあ ながつぼ拗 る。長局では自由が出来ないので、支えられていますけれども、随分険呑なものである。これは 柳営ばかりではない、諸大名などになりますと、奉公人といったところで、必ずそれが武士の娘 とはきまっていない。その多くは貧乏|士《ざむらい》の子供でありますが、一方には金を持った町人百姓の 娘も随分あったのです。ここではつまり武家と町家が入りまじりになっている。|御公家《おくげ》さんの方 の仕来りは、あの代々の歌集を見てもわかりますが、あの通り沢山恋歌があるようなものですし、 町家の方は全く自由なのですから、これも勝手気儘が出来る。この町家の者や、恋歌の製造者で ある公家の娘達-ただ幸いに公家の娘達は貧乏だから銭が遣えない。士の娘も貧乏者であるが ために、実家を|見次《みつ》がなければならない。これも公家と同じように、財布の方から無法な事はさ せない。が、町家から来ているやつは、そういう牽制されるものがないから、こいつが勝手を働 くのです。 奥向の方の話としても、柳営にはあまり著しい事がありません。世間の耳目に残った事は、江 島と生島新五郎の事件、延命院の一件ぐらいなもので、皆算えたってそう沢山はない。が、諸大 名以下の町人の娘の沢山入込んでいるところになると、なかなかそうは往かぬのです。そればか りではない、奥向の御機嫌を取らなければ、政治家がやって行かれないので、柳沢にしたところ が、田沼にしたところが、阿部さんにしたところが、皆奥向へいいように仕向けて、自分の政権 を維持して行った。 奥向の倹約は柳営のみならず、諸大名にもありません。大名などになりますと、前にも申しま した通り、自分の家来の禄の借上げをして、俸禄の半分か三分の一しか渡してないのですが、奥 女中の方の給料を減したのは一つもない。寛政以来、奥向倹約論を盛に振廻しているのみならず、 幕府の末になって、大いに振合いの変って来ている時でも、奥向の倹約は行われていない。だか ら藤森天山の如きは、今日のような時こそ、奥向は改革すべき時だ、という議論をしているくら いであります。 一体武門武士の間では、女房の里方の格式をそのままに持って嫁に来るわけでありまして、姫 宮様が御降嫁になれば、それが将軍なり大名なりの夫人でありましても、その身分は内親王様で あります。また|御主殿《ごしゆでん》様なんていう者があって、そういう奥方を迎えられた家は、不時に貧乏す るものになって居りました。尤もこれはずっと突き貫いた話で、姫宮様や五摂家から来た君様の 外に、公家衆の女もある。また大名の女は旗本へ、旗本の女は家中の者へ、家中の者は領分の百 姓へ、という風になっている。或は国腹の女、即ち第二夫人の持った子供などは、金持の商人の ところへ嫁に来ることもありますが、それが皆里方の勢いをそっくり背負って来て、その格式で 通します。町家同士にしても、|身上《しんしよう》の多寡によって階級が出来ていますが、それが皆上から下へ と、やはり同じ事になる。そういうわけでありますから、夫である人が妻を牽制し、抑制するこ とは出来ない。幕府をはじめとして、諸大名、旗本に至るまで、いくら倹約しようとしても、い つでも奥向から壊されるので、これはなかなか徹底して居りました。つまり奥様なり、お上さん なりの幅が利くために、武家でも町人でも、どうしても女の好みがはびこることになるのです。 いろいろな女のいる奥女中 守山二万石の松平|頼寛《よりひろ》という人の息子に、|頼起《よりおき》という人がありました。徂徠派の学問をされた 人で、鷲岳公子といえば、寛政頃はなかなか名高い人でしたが、この人の書いたものにこんなこ とがある。大名の妻ほど埒のないものはない、女の第一の業とする縫針は駄目で、自分の著物さ え仕立てることが出来ない、三味線や踊を不断の慰みとして、夜は大方夜更しをする、朝も八時 から十時頃まで寝ている、というのですが、これは守山侯の若殿が指摘しているだけでたしに、 「昇平夜話」などにも書いてあることは、前に述べた通りであります。だから殿様にも随分困り ものが多かったが、奥方もそれに負けない困りものであったことは、これでよくわかります。 臠岳公子はまたこういうことも云って居ります。上総の百姓には習慣があって、女が嫁入をし てから二十日ぐらいたって、里へ帰る時分には、木棉を一反織るほどの綿を、夫の家から貰って 行って、三十日ほど里にいる間に、それを糸に取って、木棉一反を織って帰る、そうしてそれを 仕立てて夫に著せる、というのがきまりであった、百姓の家にはこういう古い例が残っていて結 構であるが、大名や武家にはそういうものは残っていない、まことに百姓にも劣ったことである、 といって感歎して居りますが、これは上総ばかりじゃありません。私の知っているだけでも、土 佐や中国にもあったようです。近いことが飾物になっている|御厨子棚《みずしだな》なんていうものも、本来は 勝手道具でなければたりませんし、御台所をミダイドコロと読むのでも、夫の食物を女房が持え るほどの事は、如何に上流の人でも、知って居りそうなものだと思うのに、なかなかそんたわけ ではありませんでした。 奥方がそういう我麕をしますから、付き随う老も自然我驤になるので、「昇平夜話」は奥女中 に就いてこんなことを云って居ります。大名の奥方の女中奉公は心安いものである、ここで気に 入らなければかしこ、この家が工合が悪ければ他の家へ行く、ということは勝手である、傍輩も 町人百姓の子供の多いところは、物の云合せもやりいい、家中の子供の多いところは勤めにくい、 ということである——。これが中から下の大名になりますと、愈々甚しくなって、武家でありな がら、武門武十の娘が御奉公に出ないで、却って町家、農家の者が多く採択される、という風に なって居ります。大きいところになりましても、|御末《おすえ》や御使番、|御中居《おなかい》なんていう老は、大概土 の子供でないのが多い。そうしてここにも書いてある通り渡り奉公で、彼方にも此方にもいるの です。 「昇平夜話」はまた、奥女中になる者は浄瑠璃、三味線が出来なければ、奉公が出来ないように たっている、奥方もそういうことが御好きであるばかりでなく、御自分で遊芸をなさる方さえ少 くない、ともいって居りますが、これは安永、天明あたりから著しいことになりまして、幕末に なればなるほど、その度合が強くなっている。大名の嫁入の時に、|里付《さとつき》といって踊子を連れて来 ることは、享保度以来の話でありますが、そういうものに與じて、殿様の奥入りが多くたると、 御夫婦仲がよくってめでたい、といって喜ぶ風がある。誕生祝いがあっても、元服祝いがあって も、相続祝いがあっても、とにかく祝儀という祝儀には必ず内宴があって、踊や三味線がなけれ ば、御用が済まないようにもなって居ります。 それですからその女中の中には、随分いろいろな女が入っているので、柳里恭の書いた「独 寝」の中に、こんな話があります。あの人が十七ばかりの時に、奥ヘ入って御次で|御酒《ごしゆ》下されの あった時、おいろというのが悪酒落の劫を経た女で、柳里恭にじゃれついて困らした、これは実 は御前様の御指図なので、柳里恭が赧い顔をして困りきっているのを、|御透見《おすきみ》なすったのだとい うのです。「独寝」のこの条を読むたびに思い出すのは、「伊達目貫」の東山花見のところで、 |角前髪《すみまえがみ》の亀井六郎に、|権頭《ごんのかみ》兼房の娘が戯れかかって、六郎が困っているところへ、幕を絞らせ て静御前が出て来る、あそこが連想されます。近松の書いたものには、目の敵のように奥女中の 悪口が書いてありますが、昔から奥女中にはそういうことがあったらしいのです。 それが嵩じて来ますと、御|煤掃《すすはき》の時に人足がなくたったとか、御出入りの商人がなくなったと かいう話になるので、天下泰平、国家安穏の文化、文政度には、そういうことも多かったろうと 思われます。「清談若緑」の中に、御小姓の金之介さんは好男子だということで、奥中の大評判 だから、金之介の紋を簪につけている女中がある、ということが書いてある。そうして伯母の養 女で、斯波家へ腰元に上っているお政が、御狂言のあった晩に金之介と密会する、という趣向に なって居ります。「梅見舟」の方には、お化獵燭を種に、御殿さがりで来ていた若い娘と、峯次 郎が密会することが書いてある。芝居にもそういうことを仕組んだのがいくらもありますが、実 際にも随分あったことであろうと思います。 芝居好きな奥向 だんだんそういう風になって居りますから、色男の標本陳列場のように思われて居った芝居な どは、奥女中の嬉しがるのは勿論の話でありまして、役者の紋のついた著物や持物や簪などを持 っている者はいくらもあった。それどころじゃない、私どもの先輩であった山中共古翁、あの人 は若い時分には美しい人だったそうですが、御末などの中には——これは御本丸の話で、諸大名 よりは風儀がいい筈であるに拘らず——山中翁の紋を簪に打たせていた女があったといいます。 そこで享保六年四月にきめた女中誓詞の中に、好色がましい儀は申すに及ばず、|宿下《やどさが》りの時分 に物見遊山に参ってはならぬ、ということがあるのですが、そんな事はなかなか役に立たない。 |御目見《おめみえ》以上の女中には宿下りがありませんが、低い階級の女中は皆宿下りをする。諸大名の方に なると、目見以上の者でも宿下りをしました。まして部屋方、又者といいまして、階級の高い女 中衆に使われている女達は、ずんずん宿下りをする。三月は宿下りがあるというので、江戸の三 座は特に華やかな狂言を選んで出しましたが、尾上岩藤の鏡山などは、宿下りの女中に見せるた めに仕組まれたのだ、とさえ云伝えられて居ります。不断そういう風でありましたから、随分奥 女中の役者蟲屓はひどかった。井上金峨の「病間長語」の中にも、制度のある以上は、官服を著 て芝居見などには行かれぬ筈だから、身分のある者は自然芝居には行かれない、芝居というもの は下々の楽しみになりそうなものであるのに、今日では立派な身柄のある家の婦女も、市中の者 と同じように芝居を持灘し、誰々は誰が蟲屓だなどといって、自分の家の紋を捨てて役者の紋を つけたり、役者の著物の模様をそのままに染めて著たりする、まことに見苦しいことである、そ れどころじゃない、大谷広次の墓参に、|僕《しもべ》を連れた奥女中の来たのを見た、歎息千万の次第であ る、と書いてあります。 それからまた「近世諸家美談」などを見ますと、大方はどこの奥方様でも、芝居好きの通り者 が多い、然るべき方々の家に仕えるところの女中が、通り者なのはよろしくない、やはり野暮な 方がいい、然るに酒を飲まぬのは面白くないとか、物を食わぬのは|初《ういうい》々しいとかいって、大勢人 の見ている芝居小屋などで菓子を食べたり、はしたなく大声を揚げて笑ったり、よその桟敷を指 さして曝いたりするのは、甚だはしたないものである、そればかりじゃない、役者に何か手蔓を 求めて、扇や樅紗に物を書かせて、それを珍重がっている、そういう手蔓がなくって、役者の筆 蹟などを持っていない者は、何だか気が利かぬように思われて、持っている者を羨んでいる、と いうことが書いてある。これはもっと古いところで、遊女の筆蹟を喜んで、本にして出版してい るのがありますが、それと同じことで、明和以来、役者の筆蹟をそのまま版にしたのが、私の知 っているだけでも幾点かあります。私の祖母の妹は埼玉県の百姓の娘で、紀州家へ御奉公に上っ て居りまして、別に役老を買うわけではないけれども、今云ったような物好みがあるので、わざ わざ八代目団十郎に頼んで、扇子に発句を書いて貰った。それが手許に残っていたのを、先年三 升に進上しましたが、そういう物が残っているので、「近世諸家美談」に書いてあるのは嘘でな いことがわかります。 「近世諸家美談」は寛政度に書いたもののようですが、また進んでこういうことも云っている。 御年寄には思いの外浮気なのがあって、いろいろ御勧めして、無理に芝居などへ御供をするのも ある、年寄女中の芝居好ぎには、前後を忘却したのがある——。寛政より少し前になりますが、 安永五年の二月十八日頃、或大名の奥家老が、奥様が御内々で芝居見物をなさる時の手配を誤っ た為に、堺町の芝居茶屋の二階で切腹したということを、大田南畝が「半日閑話」の中に書いて 居ります。こういう話で有名たのは、文政二年二月二十五日に、家斉将軍の公子で紀州に迎えら れた|治宝《はるとみ》卿の奥方、家付の女の豊姫が、芝居町御通行ということで、玉川座と中村座の芝居を御 駕籠の中から御覧になった話です。諸大名といううちにも殊に重い三家の御簾中様が、そういう 風にして芝居を御覧になったということは、文政にはじめてあった話でしょうが、大名の奥方と して芝居を見においでになることは、随分古くからあったらしい。正徳に江島がしくじってから、 ほんの暫くの間は、奥方といわれるような方、奥女中らしい奥女中は、芝居を見に行かなかった でしょうが、|幾何《いくばく》もなく|挨《より》が戻ってしまいまして、正徳からそれほど間もない享保、元文の際に、 諸家の奥向からぞろぞろ芝居へ出かけたということを、松崎観瀾が書いて居ります。勿論それか らも引続いて盛であったのですが、これは「近世諸家美談」が云っているように、御年寄や御局 にはなかなか無法なのがいて、自分が有頂天になって奥様を煽り立てるようなことも、随分あっ たらしく思われます。 見分けのつかぬ風俗 そういうことによって、芝居の風俗が奥向に移って参ります。一方では町家の子供がどんどん 奥へ入り込んで来る。それがまた自然と奥様、御簾中の御物数寄ということになりまして、女の 好みが家中にひろがって参りますから、武門武士の家に使われている者の風俗が変って来る。そ こで「近世諸家美談」はこうも云って居ります。髪の結い方から衣裳まで、だんだん町家の風に 移って往く、一体大名の奥女中は古風なもので、衣裳も縫の金糸などで、衣紋も気高く見えて、 鷹揚なのが本当の姿であろう、それだのに紅裹を隠したり、大模様を厭がったり、化粧も薄くし て前髪を立てなかったり、御化粧のない、自然の様子を見せようとする、即ち町家の風であるが、 そのもとはと云えば遊女のする事である、一体髪結い化粧というものは、風流にすることではな い、武家の礼儀である、大模様だとか、縫の金糸だとかいうものは、町家では著用することを許 されていない、武家の威光を見せたものなのであるが、それを嫌うようになって行くのは何事で あるか、というのですが、それよりもっと早く、明和年間に書いた「雑交苦口記」などによりま すと、近年の世の中を見るのに、大名、高家、御主殿方の召仕の女達、または歴々の御士の奥方 でも、遊女や役者の真似をする人が多く、風俗までそういう風になっている、町人風が喜ばれる から、裾模様、または小紋模様なんていうものにして、大模様は愚痴だといって著ないようであ る、ということが書いてあります。 それですから「聞上手」の二篇、これは安永度に出来た小咄ですが、その中にある一話などは、 だしぬけでは何の事かわからないかも知れません。併し前の二つの話に引合せて見れば、おのず からわかって来るかと思う。これによると文化、文政でない、もっと前から武家と町家の風俗の 見分けがつかないようであったことがわかります。その話というのは、両国橋の上を派手な女中 が通るのを、皆が立止って見送っている。あれは屋敷であろう、いや町であろう、と云ってとり どりに評判して居りますと、そこへ橋番が出て来て、いや、あれは瓦けむだ、と云った。これは 橋場の瓦を焼く煙のことで、番人の方は橋から火事を眺めているものと考えたことにして、こう いうオチになっているのですが、この話は町風と屋敷風とがごちゃごちゃになって、見分けがつ かないことを云ったのです。 それが文化、文政度になりますと、この風が益々烈しくなって参りまして、姿や風俗が武家ら しくないばかりじゃない、心持まで移って参ります。本当の武門武士の女でさえ、そういう風に なって来るのですから、武家奉公に出る町家や農家の女達は、武家らしくなるよりも、町家なり 農家なりのままを光らせるようになり行くのであります。安政四年の正月と申しますと、丁度前 の話から九十年ほどの間がありますが、この時分は武家の風儀が愈々崩れて、武家生活は土崩瓦 解して居ります。幕府の覆ったのを、明治の初めには皆が瓦解瓦解と申して居りましたが、幕府 の政権が消滅するよりずっと早く、武家の根性が亡びている。それがまた我国の倫理道徳の大き な変遷でありまして、安政四年に書いた鼠小僧の芝居に、松山の台詞がある。これは鼠小僧が泥 坊だから、お前は厭になるだろう、と云った返答なのです。 なんでいやになる物かね、是もみんな其身のすき人\、お嬢さんと云はれるのが、ちひさい 時から、あたしは嫌ひ、油でかためた高髢よりも、つぶし島田に結ひたい願ひ、御殿模様の 文字入りより、二の字繋ぎのどてらが著たく、御新造さんや奥さんといはれるよりも内のや つ、内の人がといひたさに、親をば捨てて勘当受け、おまへの女房にたつたわたし。 武家に生れたって、たかなか四角な事を云っていられるものじゃない、という調子を丸く出し た言葉ですが、成程このくらいのことは、舞台の外でも実際ある筈なので、心持がもうそこまで 往って居ります。そうなって来れば、もう町人のような気持なので、町人なら惚れたも腫れたも 勝手次第である。大町人というような者でも、資産の釣合をはずして、恋女房、裸嫁、恋婿、手 ぶら婿なんていうものが少くありません。|縹緻《きりよさつ》望みという婚姻もある。見染めるなんていうこと は、沢山あって珍しくないのです。 尤も見染めるというやつは武家の方にもあるので、例の坂崎出羽守の話なんぞも、秀忠の女の 千姫様、天樹院といわれた方が大坂から江戸へ下って来る間に、本多中務大夫|忠刻《ただとき》が、桑名の|渡《わたし》 へ御出迎えに出ていたのを見染めて、是非とも本多へ輿入をしたい、と云われた、それからああ いう騒ぎが出来たのです。あばれ旗本の巨魁でありました水野十郎左衛門の母、あれは蜂須賀阿 波守|至鎮《よししげ》の女ですが、福山侯の分家水野出雲守成貞のところへ嫁に来た。成貞はハチ鬢で、恐ろ しいイカツな人だったので、その様子を見て、是非あすこへ行きたい、ということになったので す。吉良上野介義央の妻は、上杉弾正大弼定勝の女で、義央の御公家さんみたいな、上品なとこ ろが気に入って嫁に来た。こんなことを尋ねれば、武家の方にも、諸大名や旗本の方にも随分あ ります。 その方はまだそれでも算えきれるかも知れませんが、町人の方はとても算えることは出来ませ ん。武家の方にしても、御姫様の恋煩いはだんだん多くなって往きますが、町家の方はそれを手 軽にして、例の「ジレツタイ」というやつだ。都々逸の中に出て来る「ジレツタイ」は、真水で なしに泥水で育った方だから、少し勝手が違って来ますが、安永六年の「役者穿鑿論」に、中村 |野塩《のしお》のところに娘組として わつちや|袖可《しゆうか》さんの、アノ気にはもう、工丶じれつたい、どうせう。 と書いてある。ジレッタイはこの頃からはじまったのです。これは恋煩いを御手軽に、無造作に 往くので、こんなのがどんどん発達する。町人の方はこれが遠慮なく出来ますが、一口に町人と いっても、地主もあれば地借もあり、|店借《たながり》もあれば裏店住いもある。もう地借といって家作を持 っているくらいの身上でも、婿を引ずり込むとか、嫁を引ずり込むとかいうような、勝手ずく、 馴合ずくは出来ませんが、それ以下の連中——店借の借家人になりますと、表店を張って居りま しても、勝手に惚れて、勝手に引張り込んだり、飛出したりすることが出来るのです。 更に裹店住いとなれば、殆ど道連れのような夫婦がありますが、それでも「浮気やその日の出 来心」という風には往かない。ジレッタイという度毎に相手を取替えるというようなことは、道 連れのような夫婦でも出来ません。そこでちょっと見てちょっと惚れる、という工合のところが 往きたいものは、泥水稼業の気持でないといけないので、人情本に出て来る女というものは、ど れも泥水稼業のような気持で居ります。それが文化、文政度の新しい女なのでありまして、今日 泥水稼業の女といえば、いうまでもなく娼婦型ということになりますが、華魁などというものに なると、意地もあれば張りもあり、義理もある。だから昔の女郎買というものは、自分の家で嚊 相手に寝たり起きたりしているより、遙かに骨が折れたものだったそうです。ここで泥水稼業と いうのは、私娼風のもので公娼風ではない。この私娼風の女、即ち文化、文政度の新しい女に就 いて、先ず考えて見なければならぬのは「|情《なさけ》」という言葉で、情という言葉の意味と、文化、文 政度の新しい女の気持と、どんな風に違うかということも、一つ考えて見なければなるまいと思 います。 情しらずの菊太郎 中村勘三郎の芝居に居ります役者のうちで、情しらずの菊太郎といわれて、享保の末に名高く たった者があります。これは或旗本の娘-なかなかの大身であったらしいので、付の女中も大 勢いるのですが、この娘が長いこと不加減で、鬱々としているものですから、付々の女中からだ んだん話を聞いて、それが菊太郎に就いての恋煩いであることが知れた。両親もいろいろ医療に 手を尽して見ても効がないので、困り抜いているところだったものですから、実は斯々のわけで 御煩いなさるのだということを、付の女中から内々で申出ました。そうするとこの両親、即ち殿 様、奥様が、最愛の娘の病気に困っている時でもあったから、そういう気持になったのかと思わ れますが、武門武士にはあるまじき心がけの人で——尤もそういう人の子供だから、役者に恋煩 いをするような者が出来たのかも知れません。女中達の内証話を聞いて、如何にも気の毒がりま して、娘の命には替えられぬから、気分さえよくなることであるたら、表向にこそ出来ないけれ ども、内々でお前方が如何ようにも取はからってよかろう、ということでありました。そこで奥 家老が御供をして、堺町の茶屋へ忍びで出かけて参りまして、菊太郎を呼んだわけです。 だんだん菊太郎に話して見ますと、菊太郎の方では案外に思った。というのは、自分は奥家老 に買われるものと思って出て来たのに、そうではなくて、旗本の御嬢様に買われるというのです から、びっくりしてしまったのです。今日御呼びになったのは、御手前様の御相手を致すことと 思いましたのに、思いの外の御話で当惑致しました、かねがね親方からも申付けられて居りまし て、御女中様方の御相手は一切御断り致すことにして居ります、また親方のみたらず、仲間内の 口も|姦《かしま》しいことですから、如何ように仰せがありましても、御女中様方と一座致すことは出来か ねます、と云って帰ってしまった。折角思う男に逢うことが出来たと思ったら、そういうことに なりましたので、娘は愈々悶えて、それから三日ばかりして死んでしまいました。この噂が江戸 中に伝わりまして、誰いうとなく「情しらずの菊太郎」ということで、評判になったのでありま す。 これは役者の方にして見ますと、生島新五郎が江島一件で島流しにたりましたのが、正徳四年 の二月の事で、役者仲間からも罪人を出し、作者も処分されて、遂に山村座というものは廃座に なっている。またそれより少し前に、新五郎の弟の大吉という者があって、中村座に出て居りま したが、これが尾州家の奥女中の蟲屓を受けて居った。丁度この時の尾州家は四代目の吉通で、 御簾中は九条|輔実《すけざね》公の御娘御でありました。この生島大吉が、本町の伊豆蔵という商人の呉服長 持、これは|通長《かよい》持というものがあって、御註文の品を入れて運ぶのですが、その中へ入って尾州 家の奥へ忍び込んだ。これは宝永三年の出来事で、有名な話でありますが、この時の処分はそう 重くはなかった。大吉は入牢しましたけれども、結局過料で済んだので、中村座の休座も僅かた 間でありました。が、それに引続いて新五郎の事件があったので、芝居町の老は武門武士との関 係をひどく恐れている。だから菊太郎も恐れて帰ったのです。役者の方は山村座一件で懲りてい るんだから、何でもない話ですが、これは真面目に考えても、そういう不義密通を避けて逃げて 帰ったとしたら、褒められることはあっても、誹られることはない筈である。然るに菊太郎は誹 られたような有様になって居ります。 それよりもなお不思議なのは、旗本衆の家庭の事柄として、たとい如何なる場合にしろ、自分 の娘が役者買をすることを、父母が黙認するというのは、実に驚くべき事でありまして、武門武 士の生活の大きな破れであると思われる。けれども世間はその方は云わないで、却って「情しら ず」と云って菊太郎を誹った。この「情知り」ということは「恋知り」などというのと同じく、 西鶴や近松がよく使っている言葉でありますが、そういう言葉の起って来るもとを尋ねますと、 「|名女情比《めいじよなさけくらべ》」の中に「我心にすきぬるばかりを思ふを、なさけとはいふベからず」といい、ま た「た父心の一筋を思ひいれ、命にかえし心中は菩薩の慈悲にも劣ることなし」ともいって居り ます。人から命がけに思われるほどの心持は、実に尊いものであるから、それに対してすげない ことをしてはならぬ、というのであります。それですから「名女情比」では、袈裟御前が盛遠の 切なる心を悲しんで、それに靡いてやりたいが、それには夫の|渡《わたる》という者がある、その方の事も 考えて思い余ったから、自分で自分を殺すような方法を選んだのだ、ただ貞女というものではな いと云っている。つまりこういうのが情なので、人の思いを無駄にしないのです。「艷道通鑑」 の中で、母が盛遠に脅かされて何とも仕様がないから、自分が殺されたのだ、という風に見てい るのは、「名女情比」に比ベると、大分見方が浅い。こんな話は古いところにはよくあるので、 誰も知っている真間の手児奈が、二人の男から慕われて、どっちに従うことも出来ないから、自 分を殺した。ああいうのが情知りなのであります。 恋知り情知りの東遷 併しこの情ということは、大いに考えて見たければならぬことであろうと思います。小説や戯 曲や何かの上ではなしに、実際の話に就いて見ますと、三州長縄の城主大膳大夫秀元の弟に、|大 河内造酒允秀孝《おおこうちみきのじようひでたか》という人がある。これは三河武士の骨頂でありまして、大河内氏は大久保氏など と並んで一族の多い、徳川譜代の家筋であり、その家に生れて数度の戦功もある人ですが、この 大河内造酒允の恋文があるのです。慶長の頃に書いたものでしょう。私はよほど珍しいものだと 思いますので、その全文をここへ出して置きます。 あまりたへかね、御心の内も御恥かしながら、一筆をそめ参らせ候、さてくそもじ様を過 つる年きさらぎの頃、ちらと見そめしより此方深き思の淵に沈みまゐらせ候、浮世の習なれ ば、そもじ様露塵ほどの御心ざしもあるまじき処に、我等かやうに、ひとり身を|焦《こが》しまゐら せし事、如何なる過去の因果にやと、身を怨みまゐらせ候、あはれ何たる神仏の御誓にて、 せめては夢の間ばかり、御物語りなりとも申度と、日頃心を尽しまゐらせ候事、すこし心を はらし度願まゐらせ候、我等心の内御すもし被レ下度候、あはれと思しめし可レ給候、|結縁《けちえん》 と思召候て、御心ざしは候はず共、御返事の一筆をたまはり候は父、御目にか\り候心地し て眺入可レ申候、昔よりなさけの道と申候、浅からぬ事にて、かやうに思ひ思はる亠も花の 盛りにて候、まことに人の|齢《よわい》と申も|夢幻《ゆめまぽろし》の如くにて、又々何と我等思ひ候とても、そもじ 様われわれに物御申候事もいやに思召すやうに候得|者《ぼ》、是非に及ばぬ事にて候、夢の間ばか り御物申ほどの事は、人を助くる道なれば、苦しからぬ事と思召す御心ざし、すこしにても 御座候て、人知れず何処になりとも、せめて御物語申参らせ度候、たとへにも申候也、如何 なるたけき鬼神も歎くはあはれむ習とやらんうけ|給候《たまわり》、兎角おろかの筆には尽し難く故申止 め候、めでたくかしく。 |返《かえすがえす》々二とせにあまり、我等心の内あはれと思召被レ下度候、いろ/\御見もじに入、ちら とたりとも語り申度こそ願ひまゐらせ候かしく。 きみをのみせめてゆめにもみる物をさめてそつらきわか思かな 君思ふ心のやみにかきくれてかよふうき身をあはれとは見よ おいね様江さけのぜうより こういうことが情ということの根本をなすもので、これはたしかに女を|驕《おご》らしむることにもな って行きます。女が自ら高く持して、男の手にも乗らぬようになって行く。これが悍婦、驕女を 作り出して行く筋道になるのですが、更に奢侈性に移って、放縦になり、男を漁ることになりま すと、己れを高く持することは出来ませんから、どうやら回復して平常になる。平常になるかと 思うと、その余勢で益々奢侈性になり、男が女を漁るのでなしに、女が男を漁るようになって、 その方から世の中の乱れになって行く。それは後の事でありますが、さし向きこの大河内造酒允 の恋文を見て、戦国時代には|乱妨取《らんぽうどり》といって、女童を奪い取って来たことを考えますと、太平に なりました心持が、こういう方面にも著しい変化を見せている。これは心の中で思うばかりでな く、その外の働きとしても、やはり違って来ます。生活というものが、法律や経済によって固め られ、動かされて居ります外に、内面からこういうことで動かされることも注意されます。 そこでこの情ということは、相手方には同情ということが起る。この同情が即ち恋知り、情知 りであります。恋知り、情知りでないということは、一方に於てはそれが無情であり、残忍でも あるわけになる。戦国気分の抜けきれぬ時に於ては、その同情が大変役に立ちもするので、平和 の女神などという言葉の起って来る陰には、そういう意味合があったように思われます。恋知り、 情知りも、時によっては何の弊害もなく、却って利益があるようなことにもなって行きますが、 幼児の片手に乳房を握っている心が、成長すれば泥坊をする心にもたって行く。勿論赤ン坊が乳 房を握っている時の心は、盗心ということは出来ません。ただその成長し方によって、盗心とも なって行くことを考えますと、美しかりそうな同情という言葉、恋知り、情知りということも、 人心を寒からしむる気味があるのです。 寛永から延宝までの間に、幾版も重ねている「薄雪物語」などを見ますと、盛に恋知り、情知 りのことが書いてある。「薄雪物語」だけには限りません、寛永以降にいろいろ出ている仮名草 子の中には、この情に就いて書かれているものが大分あります。それはまことに美しいわけであ りますが、同情なるものをそのままにして置けば、彼方にも摩けば此方にも靡く、いたずら者に もなって行く。一体恋知り、情知りというものは、両性の間に発生したものでなく、男色の方か ら来ている事であります。男色の方は相愛-——御互い様ではありません、己れを知る者に許すの で、見込まれたからそれを喜ぶ、という心持から来ている。その心持は西鶴の書いたものなどに も出て居りますが、それ以前の男色を書いたものにも、よく繰返されて居ります。男色が一度世 の中に喜ばれることになりまして、最初のうちは坊主や陣中に限られて居った男色が、平時に持 越して世間一般に喜ばれるようになった時、あらゆる婦女が男装をはじめて来た。この婦女が男 装を好んでするという心持から、また恋知り、情知りの女が出て来るわけにもなったのです。 そうしますと「薄雪物語」の中にもありますが、「たとヘ主ある花なりとも木かげの一枝折る は常のならひなり」という風になって来る。師宣の絵本の「|大和《やまと》の|大寄《おおよせ》」にも「たとヘ神木なり ともゆるし玉へ一折をらん」と書いてある。もうここになると、異性から訴えられた為に、その 情に動いて女性が同情するということが、殆ど必然のようになって参りまして、恋知り、情知り といえば、それがきまったことのようになってしまう。だから「たとへ主ある花なりとも」とい うことになるのです。それがだんだん進んで参りましたから、享保度には劼鄰離誠と申しまして、 姦夫姦婦の成敗を家庭外に持出して、武士たる者が大骨を折る、ということが新しく出来て来た。 それが上方西国のみの事かというと、世間に知られた名高いのは、上方西国の事でありましたが、 江戸にもなかなか沢山あったのです。そういう方から眺めて見ますと、恋知り、情知りという言 葉なり、そういう心持なりが、武士の都だと思われても居り、実際そうでもあった江戸に普及し ていた、ということに思い寄るのであります。それですから太宰春台も享保度に書きましたもの の中で、近年は関東の風俗が変って、京大坂のようなことが多く見える、と云っている。その多 いという事の一つが、この恋知り、情知りであったと思う。また恋知り、情知りであったればこ そ、京大坂の風俗が関東へ移って来たのでもあると思われます。