帝国大学赤門由来 三田村鳶魚 丹塗と真黒な女夫門  赤門といえば、すぐに帝国大学のことだと諒解される。そうして、学界の寵児、現 代の新知識は、ここからばかり出るように思われてもいる。その赤門は、今日、正門 が石柱鉄扉、嚴《いかめ》しく立てられても、依然たる東京名物で、慣用のままに、帝国大学の 代名詞に呼ばれる。もし、赤門が最高学府の前に立っていなかったら、あるいは、早 く破壊されてしまったかもしれぬ。たとえ残っておって、名物扱いにされるにしても、 今日のように嘖称《さくしよう》されはしまい。一体、赤門は何のために建てられたか、しかも、男 のためではなく、女のために建てられた。そこは、いうまでもない百万石の大諸侯、 加州金沢の殿様の邸地。前田家へは、江戸の将軍の娘が、前後三度嫁入りをした。第 一は二代将軍秀忠の娘|子々姫《ねねひめ》で、慶長六年九月二十八日に、能登の三万石を持参に、 筑前守利常に嫁した。第二は五代将軍綱吉の養女松姫が、宝永五年十一月十八日に、 若狭守吉治へ入輿した。第三は文政九年十一月二十七日、十一代将軍家斉の第三十四 子|溶姫《ようひめ》が、中将|斉泰《なりやす》と結婚した。この第三回目の婚礼を見掛けて、明治・大正の駿才 逸足の出る赤門は建てられた。因縁は争われぬもの、帝国大学の出身者が婿になりた がるのは、女房の選択に浮身を竃すのは、とかく利権の伴う婚礼を懸望してやまない のは。あの赤門は、昔から赤門と呼ばれてはおらぬ。安政二年、前田斉泰が大納言に なった時、溶姫夫人も、お住居の称を改めて、御守殿といったのだけれども、その前 から御守殿門と呼ばれたのである。御守殿とは、音の詑りに引かれた誤記で、本当に は御主殿と書く。一邸惣構えの内の、主たる建造物を指す称呼である。ところが、身 分の高い妻を迎えた大名は、主人たる自分の住む主殿のほかに、お嫁さんの主殿を新 築する。主殿の二個所ある屋敷、すなわち高等細君を持った大名ということになり、 奥方様とはいわずに御主殿様という例で、江戸時代には、将軍の娘を貰った場合に限 って、御主殿様ということに心得ておったが、鎌倉以来の例によれば、自分より身分 の高い妻ならば、将軍の娘に限った称呼ではないのである。江戸時代では、五代綱吉 大正中頃の帝国大学赤門 が、龍女|大典侍《おおすけ》の兄清閑寺大納言|煕定《ひろさだ》の女 竹姫を養女にして、島津大隅守継豊に与え たのに対して、享保十八年四月に、また、 八代吉宗が、紀伊大納言宗直の女|利根姫《とねひめ》を 養女にして、伊達陸奥守宗村に与えたに対 して、元文四年九月に、御主殿の称号を許 して以来、しばらく絶えておった。御主殿 の称号は、将軍の女が三家・三卿に嫁した のに限るようにも思われて、寛政以後に、 尾張に一つ、水戸に二つあるのみで、紀州 にむ、田安・清水にもなかった。家斉将軍 は子供が多い。盗《ンマつ》も五女の門に入らず、嫁 入りを度々させれば、親が貧乏をする。そ こで、将軍の女だ、と肩で風を切らせての 嫁入りはさせられない。格下げをして、御 輿入れというところを御引移り、ついでに蕎麦も配らなかったろうが、チト引越女房 の気味がある。御主殿とはいわせずに、お住居といった。幕府の表向きは大いに抑損 したつもりでも、財政に無頓着な奥向きの女連は、文政の悪貨濫造で、通貨膨脹の付 け景気に瞑眩した余勢凄じく、勝手な熱を吹くから、折角の嫁格抑損も、幕府の倹約 にはなろうが、貰う方の大名の費用は、決して節減されなかった。越前へいった浅姫 は霊巌島お住居、佐賀へいった盛姫が日比谷御門お住居、といったあんばいに、三家 以外に嫁した分は、お住居といった。無論に前田家へ入輿の溶姫も、本郷お住居なの であるが、加州では矢張御主殿扱いにした。溶姫が十一歳の文政六年二月十一日に、 御縁組の沙汰があって、万端お手軽の旨申し渡されたけれども、加州家では、すこぶ るお手重《ておも》なことであった。同九年には、御用掛老中松平和泉守|乗寛《のりひろ》(参州西尾城主六 万石)・若年寄堀田摂津守|正敦《まさあつ》(江州堅田一万三千石)・奥御右筆組頭青木忠左衛門・奥 御右筆田中竜之助・同長谷川又三郎が任命される。春初から加州邸では工事が始めら れた。普請奉行岡田十郎左衛門・松原半兵衛、大工頭中村半次・同頭取西田清平・服 部覚太夫・石出吉太夫、大工棟梁湯島天沢寺前甚蔵・本郷金助町吉兵衛、岡本町吉蔵 が承って、新御主殿の工事を急いでいる。今の帝国大学の構内に、御殿と呼ばれてい るあの建物の処に、溶姫の主殿が新造された・と聞き及んだ。それから、そのお庭にす るといって、当時は久しく廃地になり、草莱《そうらい》の茂るに任かせた梅の御殿の旧地積を、 三月二十日から七月二十日まで、毎日百人余の人足で経理した。しかるに、その地面 から三万余個の丸石が発掘され、その片付けに、一石ごとに銀二匁五分ずつ掛ったと いうのでみれば、この費用のみでも、千二百五十両を要する。新御主殿は輪奥《りんかん》の美を 極めたもので、富裕な加州家は、存分な建築費を投じたものらしい。当時「姫君、加 州へ御入輿あらせ給ふ、御主殿の経営をはじめとして、無双の壮観を尽さしめらる、 昔台徳院殿(秀忠)の姫君、小松中納言利常卿、御入輿有し先縦《せんしよう》に随ひ給は父、頓《やが》て 彼亭へ渡御被レ有べきにや、目出度御事と奉し中べし」(『道聴塗説』)と、新建造の結 構を喧伝し、ともに家斉将軍の臨邸を予想されたが、果して文政十一年二月十三日に、 本郷のお住居を訪問された。その時に、加州邸の正門は、今の帝国大学の正門の位置 に黒いのがあって、新御主殿の門は、丹塗のが建てられたのである。 「御守殿が出来て町屋も片はづし」、その頃の川柳であるが、赤門の建造された文政 十年に、その前面に当る本郷五丁目の半分と六丁目全部に亙って、西側の民家をこと ごとく取り払った。それを、御殿女中のお約束の髭の名の、片はずしに持ち掛けた落 首なのである。文政十年九月十一日に、                           松平加賀守  溶姫様御引移之義万端手軽に候得者、大奥御守殿等之振合に不二相泥《あひなづまず》(可レ成丈手  軽代々之妻女共相替候義無レ之様との御沙汰に候。 と達してあっても、赤門の新建のためにさえ、前面数百の民戸を取り払うのだから、 この種の幕命は全く空文である。溶姫様御付女中、それが盛んに御本丸風を吹かせる。 本郷六丁目の東側ぐらいを飛ばせるのは、わけもない。本郷邸の腿風を起す人数は、 大上繭一人、小女繭一人、介添二人、御年寄二人、中年寄三人、御中蕩頭一人、御中 薦八人、御小姓一人、表使《おもてづかい》三人、御右筆三人、御次《おつぎ》六人、呉服の間五人、御三の間 七人、御末頭《おすえがしら》二人、御中居三人、使番《つかいぱん》三人、小間遣三人、御半下《おはした》二十人という同勢、 それに、御用人二人、御用達一人、御侍八人、御医師一人、これはいずれも男子であ る。お住居法度の第一条に、「奥方の儀万事家之法度に任せ不レ可二相背一事」とはあ るが、老中下知状の第一条に、「姫君様御為第一に奉レ存、加賀守義是又疎略に不レ存、 御奉公油断|有間敷《あるまじき》事」で、女中等は、姫君本位になにもかも解釈する。第二条の「表 方之面々と申合など不レ可レ仕、併表方六ヶ敷義申間敷候」、嫁にいった先で、随分む つかしいことを持ち出しそうなのを予想して、禁令を設けても、まことに効能はない。 女中どもは、前田家の家来と申し合せはしないが、御付の御用人を通じて、勝手な注 文を強制する。御用人は自分等と同じに、幕府の奥から来ている。同臭味の人物だか ら相對《あいたす》巾けて、将軍様の御威光を振り回す。御付女中が、加賀守加賀守というのを、溶 姫様がお聴きなすって、「それは身が殿のことを申すのか」といわれたという話があ る。御付女中の分際で、主人たる溶姫の配偶者を、敬称も用いずに、加賀守とやるの はけしからぬ。それを溶姫が妙に思われて尋ねられるほどであっても、誰も制止する 者はない。久しい因襲は、そうしたはずのように思わせていた。千代田の大奥では、 天下の諸侯をことごとく下に轍《み》て、御台所が大名出である場合、その生家に対して敬 称を用いない。,たとえ、千代田の奥にさような例があるにしても、ここは前田氏の邸 第で、溶姫は将軍の娘でも、今は加州家の新妻なのだ。内外親疎の弁別のないことは 驚くに堪えた女中等であるのに、その無識な女中等を、かえって、外間では御本丸風 と感心し、顕貴な生活はあんなものだろう、と賞美する。こうしたお荷物を持参され た前田家こそ、いい面の皮。姫君は大切な御主様だが、加賀守は主人ではない、これ また、疎略には思わないまでのもの。溶姫の穿物《はきもの》はとるが、加侯斉泰の穿物は、御本 丸から付いて来た女中は、誰も直さなかった。さすがに、お姫様も見かねて、自身に この斉泰侯の穿物を直されたという。お姫様らしい伝説もある。その伝説が錦絵にな っている。御付女中は、美しい溶姫の挙措を見ても、改俊の情状がすこしもなかった。 それでも、お姫様は叱りもしない。そこに芝居で見たようなところが、鮮やかに窺わ れる。 奥女中の放将  我等は、この赤門内の空気を想察して、たとえば、必然な景況が述べられるにもせ よ、決してさようするには忍びない。「世に風聞すらく、十一月十七日(文政十一年) に、加州溶姫君の用人鈴木一学、思召有レ之、御役御免ありて、このことに就き、種 種の浮説あり、本郷(原注、加州の第)御住居近辺喜福寺(この寺は今日でも赤門の前 にある)と云に観音堂あり、御附女中参詣と申たて\実は遊山に出たりしが、露顕 せし故とか、又、御住居の御慰に歌舞伎を仰付られしが、いつも其者共は、女子なる ゆゑ、来りても四五夜は滞留することなるが、その中に蔭間《かげま》(原注、男色なり)一両 人雑りゐたるを、御附男子の輩、小便する所を見て知り、是より起りしとか、又、御 附女中にも御役御免の者もあり、表使一人御似行あり、其外宅預けの者も多かりしと流 言す」(『甲子夜話』続編)とあるのを読んで、御入輿の後三年目には、御主殿に付属 する女中等は、さんざんに威張るのみでなく、随分放将を働いたものと思う。天保六 年八月に、湯島称仰院門前金蔵店女画師文啓事すみ(三十三歳)が、火付盗賊改の手 で捕縛された。この女流画家は、松平播磨守の奥に勤め、そこを追い出されて、加州 の奥へ奉公して、また不首尾で出て、巣鴨仲丁の町医者周三の囲い者になった後も、 加州の御広敷へ出入りをして、女中の部屋部屋にも懇意が多く、それらの買い物の周 旋をしていた。ところが、この女画師は、端役で納まる代物ではなかった。何にせよ、 六十三になる母親のおとみ、四十三になる姉のおつる、おつるの埣角之助十三歳、一 家四人を文啓の形管《とうかん》では過されぬ。気楽そうに暮してゆくには、囲い物の月手当二両 や三両の活計では不足する。大済しの文啓女史、そんな項細な収入に頓着してはいな い。呉服屋から取り次ぐ品物の値段を二三割も引いて、御主殿の女中等に売った。何 にも知らない椎曹《しいたけ》連中は、すみの持って来る反物は安いと、長局中で買い流行《はや》らせた。 呉服屋の方では月々の売高を積って、文啓さんを手に入れて、御主殿の御用を承わる ようにもなれば、一年の店卸《たなおろ》しが違う、店繁昌の根本は、文啓女史の御機嫌取りにあ ると、取らぬ狸の皮算用をして、代物をいうなりに持ち込めば、売掛けも催促しない。 そのくらいの寸法は先刻承知の文啓は、小石川|陸尺丁《ろくしやくまち》の筑波山神主山辺大隅を置主に、 寄合本多|帯刀《たてわき》の家来宮本源之進、浅草寺寺中自性院地借長谷川東馬を受人に持えて、 池之端仲町の鮫屋《さめや》伊兵衛ほか四軒の質屋へ、千二三百両も質に置いた。横山町一丁目 呉服屋|藤助《とうすけ》ほか四人の被害高は、三千七百四十三両余に達した。臓品《ぞうひん》の多数は、値段 に拘らず売り払われ、残ったのが典物になっているという始末。こうした横着女が出 てくるのも、御主殿女中の濫買のためである。濫買の資金はどこから出るのか、それ は問うまでもないことであろう。 幕末の御主殿様  文政十二年五月四日の午刻、溶姫の出産、それが御男子というので、本郷邸は大恭 悦。この二三代は本腹に出生のなかったところへ、将軍家から来た日本一のお嫁さん が、惣領を安産したのだから、祝賀の声も一入《ひとしお》高く揚げられた。吉例によって、犬千 代丸と命名され、百万石の十四代目|慶寧《よしやす》というのは、この赤ン坊の大きくなったので ある。御主殿女中の景気付いたのも、今まではただ御威光一点張りだったのが、犬千 代丸出生という大煽りを喰っての上のことでみれば、まことによんどころない次第で もあった。引き続いて鈎次郎の出生、その上にも、鳥取へ婿にいった慶栄《よしたか》も生れた。 何にしろおめでたいわけで、やがて安政二年には、お婿様の斉泰《なりやす》は大納言になり、溶 姫も、本郷お住居を改めて、御主殿といわせることに格上げをされた。この辺までは、 内面には迷惑だらけであっても、外面には、この、お嫁さんのために、加州家はすこぶ る面目を施す場合が多かった。家門の栄誉から考えれば、御主殿様を厄介がるばかり では相済むまい。厄介と栄誉の差引き勘定、それも算盤の持てた間の話。徳川氏の覇 業にも命数がある。溶姫の兄さん十二代将軍家慶、甥の十三代将軍家定が嘉去の後、 紀州公方様といわれた十四代将軍|定茂《いえもち》の時代にたハって、だんだん行き詰ってくる幕運 の一転化、文久三年八月十八日、大和行幸の御儀はにわかに御変替えとなり、長藩の 在京を禁ぜられ、七卿の都落ちとなった時、本郷の御主殿様は、十八歳で産んだ長子 慶寧が三十四歳、御自身も五十一歳になっておった。その頃加州を題にしたよしこの 「お客くといはれていれど、まさかちごたらまふとなる」、甚だ曖昧な態度を唄われ、 その翌年(文久四年)には、『ゆかたの相談』という戯文が出た。  娘「ネイおツかさん、浴衣をほしいから何にしたらよからうネイ。母「薩摩上布は。  娘「上布は去年高くだして買て見たが、此頃は大ぶん垢付たから、中川(中川宮朝  仁親王)へもつていて洗ふたら、色もさめて地合もよわりそうで、中く常衣《じやうい》(撰  夷)にやならねい。母「そんなら加賀縞何ぞ染たらどふだねイ。娘「サア光琳菊と  か二葉葵とか、い三模様に迷ふて思案して見ると、あつちヘ引ッ付、こつちへひつ  付、べた付て、是も常衣になりそもない。母「それでは因州伯州あたりの木綿にし  たらどふだネイ。娘「つよくつて常衣にやよからうが、何分丈ケがないわ。母「そ  れなら久留米島はどうだネイ。娘「アリャ色もよく随分強てよいが、幅がないから  常衣にやならない。母「それなら色もよくて糸の光りもあり、地性も強くて常衣に  なり、いまの人気にも合ふのは、長州より外にないノウ。娘「サアそれならはやく  常衣にしてもらひたいよ。  これで加州が首鼠両端《しゆそりようたん》を持していた様子がよく知れよう。溶姫はすでに百万石の母 親である。警《おびただ》しく動揺する世間をよそに、御主殿の奥深く、栄華の夢を続けていたろ うか。姻戚関係で、生家のために無二の味方になるベきはずなのに、と怨みもしたろ うか。だが、幕府の主は、兄でもない、甥でもない、縁の遠い紀州から来た人である。 肉身の情合いを外れて、覇業の興亡などを、御主殿様が感慨するものじゃない。けれ ども、いわゆる御威光を失った幕府を実家とするだけに、徳川氏の栄枯はすぐに溶姫 の肩幅を拡窄《かくさく》する。引き続いて松平春嶽の改革で、諸大名の江戸に置いた妻女を、本 国に還すことになった。江戸も江戸、嫁に来てさえ、取り巻いている奥女中の口に喧 しい御本丸と、本郷邸の奥よりほかに知らない老婦、それが東海・東山・北陸の三道 に掛けての旅程四百二十里、雪を献上物にさえした金沢ヘ永住するのは、何程心細か ったろう。加州は曖昧な態度から黎明期にはいらなければならなかった。その時は、 もう御主殿様ではない徳川|僧子《ともこ》、藩主の母でも、徳川氏というだけが邪魔になるnそ れが三十年前には、家門の栄誉でもあったものの、形勢観望中でさえ、幕府と親戚な のが余程掛酌された。いよいよ薩長の尻馬に乗る段になれば、判然と厄介物である。 今日のように娯ア孝行の人間のなかった時世、お気の毒なのは穏当なお姫様の晩年、 家庭ばかりに屈託して、世間を一向に忘れていス一のが悪いという口の下から、損得の 勘定ずくで、妻たり母たる者を商品扱いにした昔の大名を罵るのも、二つながら、道 理に乖《そむ》いた話だと思われるからのこと。江戸城明渡しも済み、前将軍慶喜が水戸へ蟄 居した明治元年の五月朔日、奥州では白河城が陥.…落し、江戸では上野の彰義隊が、加 州邸内に敷いた砲列の砲弾を浴びている最中に、溶姫は金沢で逝去された。五十六年 の生涯は、ただこれだけの浮沈を一期として、景徳院殿舜操惟喬大禅定尼となれたの ではない。江戸の黄金時代を盛りに過した溶姫、その生母中野氏によって生じた、幾 多の波欄葛藤と、話はすこぶる長くなるが、その前に、子福者であった十一代将軍を 父とした、本郷の御主殿様の兄弟姉妹の有様を一瞥すると、加州家が初めに御主殿様 に威張られ、末に勤王運動の障碍とあって、老いたる溶姫を冷殺したのみでは大団円 にならたかった事情も、諒解されよう。 二 騒動婿に厄介嫁  家斉将軍には、子女が五十四人あった。御家門繁昌がおめでたいならば、江戸の三 百年にこの将軍ほどめでたい人はない。「めでためでたの若松様よ、枝も栄えて葉も 茂る」とは、この際に嘘でないところである。しかし、公方様と尊重される幕府の主 人だけに、有り余る子女の分配について、痛切にマルサスの人口論が証明される。い かにも結婚の範囲が狭い。無理無体な嫁やら婿やらが、六十余州の大名圏内に天降る。 それが厄介がられ、迷惑がられて済むのは、自他ともに僥倖なので、その多くは騒動 物であった。中に鎮圧されて、切歯施腕ながらに嫁取り・婿取りをしたものもあるら しい。子女の分配によって、幕府の親戚は激増-、)た。松平の称号が許される、金紋先 箱だ、引馬だ、打物だと、大名の虚栄心を唆《そその》かして、御一門に准ぜられたのを恭悦が らせようとした。それで幕府を親類に持ったありがたみを、誰が中心から感じるだろ う。男子があるのに押し付けられた婿様、養父でみれば、わが子を廃棄しなければな らぬ。殿様は馬面に生れ付いているのが多いにホせよ、大名の悲しさをここで嘆息し ないわけにはゆくまい。藩主に対する一家中の同情、わけて若殿の御家督を懸望して、 その成育を楽しんでいた者どもは、密接な利害関係があるだけに、反感も強い。ても さても、幕府の仕方の残酷さを怨嵯する。お嫁さんにしたところが、莫大な費用に一 藩の疲弊を招き、かわいや新郎は、生涯頭の榛《あが》らない女房を貰い、一家中は御主殿様 のお付人に頸骨腰骨を痛めても、それが大名の家来の当然と眺められ、盛んに御本丸 風を吹かせる。家風も藩制も、勝手次第に躁躍されて、我盤放題を謹しんで御仰せに 従わなければならぬ。であるから、お婿さんによって、大ロな御預地の恩命が下り、 急に財政の余裕を得るとか、小口にしても、御賄料《おまかないりよう》に賑わされ、お嫁さんの御持参、 御化粧料の潤沢を蒙る程度の窮迫大名は格別、いやしくも、雄藩巨室といわれる大名 は、殿様も、御自身も、藩中も、一切絨黙しているが、ただ脅威されてよんどころな い無言なので、言いたいことは山々なのである。幕府の運数が極った時に、どんな大 名が佐幕論をしたか、家斉の子女を強制分布された諸大名は、本来の親族たる三家 (尾・紀・水)の中にさえ、倒幕運動の尻馬に乗ったものがある。まして、よんどころ なく親戚になった連中の向背は、知るべきのみだ。戊辰の際における列藩の向背は、 家斉将軍の子女強制分配の成績を明瞭にした。しかもその時は、婿さん嫁さんが大抵 家々を相続していたのに、すこしも親戚らしい模様はなかった。戦国時代から大分行 われていた婚姻政略は、こうまでも効能のない魂胆なのであったろうか。家斉の婚姻 政略は、水野出羽守と水野越前守とによって行われた。その意味は多い子供を片付け るというまでで、慣行されきたったものとは違っていた。婚姻政略は、安全有効なも のではなくとも、殊更に敵を持えるほどに有害ではなかったのに、強制分布の罰は、 あまり観面《てきめん》に厳峻であった。新しい言葉を選ぶまでもない。明快直裁と因果応報であ る。家斉将軍は子女を多殖して、婚姻政略を行おうと考えたこともない、何の意味も なく、色に愛で香に酔って、二十一妾を蓄えたに過ぎぬ。三后、九媛、二十七世婦、 八十一御妻、輪番に直夜す。これでは、古の聖王も一牡百牝《いちぽひやくひん》の膿肋贋《おつとせい》だ、と口軽な儒   生の酒落《しやれ》ほどではないが、名古屋コーチンよろ1、)くの家斉将軍に、子供の多いのも不   思議はない。その名古屋コーチンも、需要を考身ずに卵子の多産を遣らせたのだから。   ナニ卵子ならば腐敗させるまでの話、ところが人間の子供だけに、事柄が簡単に済ま   ない。持えようとも思わずに出来た子供の数が仏芦くなれば、それが御家門繁昌、幕運   長久の第一ならば、世間に心配や苦労の根は即座に絶える。しかるに、家斉将軍には、   子供の増殖は全く不慮の出来事であった。予想へしていない案件であった。植民地計   画などは夢にも見ない間に、人口は暴殖してきた。急案即考で、大名を植民地扱いに   せざるを得ない形勢になった。一体植民政策は葛藤の多いもの、倒巧な赤髭児でさえ、   いろいろと孜究につとめている。決して無策無術や不慮の算段ではいけるはずがない。 算盤はある、弾いてみずにも知れる帳合をよそにしての取引き、それも否がいわれな かっただけ、つらさは百倍千倍だ。戦争に敗れたよりも苦痛は強かったろうと、長過 ぎるほどの枕を置く。いずれも婚姻の話であるからとも酒落ないが、もしや、江戸時 代の大名は、大馬鹿小馬鹿、みなばかの朝臣のお揃いだから、公方様の娘を女房に持 つのが嬉しかったり、将軍家からの婿の来るのを名誉と心得る連中のみだろうなどと、 見当違いをされては、大変の大小柱暦に綴暦、太陰暦●太陽暦とは、今日でも「懐中 日記」に併記してある。 明石源内寝覚鉄砲  まず、騒動婿について著聞した、二三の例を話そう。播州明石の城主松平左兵衛督 |斉詔《なりつぐ》の養子になった、家斉の第五十三号の子供、幼名|周丸《ちかまる》、それが兵部大輔従四位上 |斉宣《なりのぷ》という殿様になって、持高十万石の半分、五万石を幕府ヘ献じ、参観道中斬捨御 免を交換条件にした、と噂された。それは噂だけであるが、征夷大将軍の埣だという ので、親仁を光らせること霧しい。さてこそ、当時に「明石源内寝覚鉄砲」と、ちょ んがれ節に唄われる大椿事を製造に及んだ。『甲子夜話』に、「明石侯旅行の状を見し に、駕廻《かごまはり》従士の輩、皆脇指一刀のみ帯び、半てん股引にて野服の体なり、その陪僕 は、侯の槍馬の後より、各その主の刀を革袋に納れてかつぎ群れ行く」とある。大名 の道中にしては随分奇怪なさまで、何のためにお祭りのような例の行列を廃したのか と不審されるが、これは尾張侯の領地を限って潜行される体裁なのである。明石侯斉 宣が、かつて木曾路を通過の際に、猟夫源内(り目幼児、僅かに三歳になったばかりのが、 御威勢御威勢とお世辞に唯し立てられるのを真に受けて、天下一睨みの気になった坊 チャン殿様の行列の前を横切ったからたまらない。それ「道切り」とあって取り押え た。当夜の御本陣へは、前後の宿駅から多勢で幼児の貰い下げに出た。神主も坊主も、 御用捨御宥免の嘆願は、耳脂《みみかしま》しいほどに繰り返されたのに、血気の兵部大輔殿は、幼 年にもあれ、予が行列を犯す上は決して宥免罷成らぬと、東西の弁えもない幼児を斬 って捨てられた。それを知った尾州家では、いかにしても、明石の乱暴は棄ておけな いとあって、早速使者を遣わし、先日のごとき理無尽を働らかるるにおいては、今後 当家の領土を通行御無用である、と断られた。明石と江戸との通路、何としても尾州 家の領土を通らずには済まぬ。東海道も木曾路も往返が出来ないことになっては、全 く交通断絶である。それでも参観しないでは済まない。詮方なしの潜行、世に凄じい 大名の身をもって、蛆虫のようにも思う町人・百姓等が潤歩する天下の大道を、自分 で窄ばめて、無理に窮屈にした体裁を、あいにく松浦静山公に書かれたわけなのであ る。明石侯の方は、面目を損じて、すこぶる御威勢なる者を殺がれたのを不快に思っ たろうが、斬捨てにされた幼児の親は、無慈悲に横道を働く狂気大名めと、悲しみよ りも憤りが深い。愛子の仇敵、おのれやれ民部大輔、と猟師の源内は、山稼ぎの飛道 具、密々に機会を規っていた。弘化元年六月二日、明石侯斉宣の喪は発せられた。享 年二十歳、源内の筒の先から硝煙の散りやらぬ間に、馬鹿殿は木曾路の露と消えたの である。 前後四回の押付養子  親族だけに、尾州家は四度も家斉の子女を押し付けられ、義直以来の系統を、さん ざんに捏ね返されてしまった。そのそもそもは、大納言|宗睦《むねちか》の嗣子五郎太へ、第一号 の娘|淑姫《ひでひめ》を配当されたところが、五郎太はその年(寛政六年)九月三日に逝去された。 幕府は執念深く、第六号の敬之助《たかのすけ》、当年二歳になるのを宗睦の養子にして、淑姫のあ ぶれと差し引くことにした。しかるに、敬之助も寛政九年三月十二日に夫折した。ぜ でもひでも子女押付けを敢行しなければ困るのだから、相手について何の用捨もない。 淑姫は寛政八年二月五日に一橋|榿千代《よしちよ》ヘ再縁させ、その燈千代を尾州家の養子にした。 榿千代の尾張大納言斉朝は夫婦養子で、淑姫は五郎太夫人にはならなかったけれども、 一橋へ迂回して、ついに金競城の主婦にはなった。その斉朝の養子には、四十五号の 直七郎|斉温《なりはる》が、天保五年六月十三日に配当され、その御簾中様は、田安|斉匡《なりただ》の女愛姫 と定っていたから、尾州へ再度の夫婦養子が閣入するはずであったところが、斉温が 天保十年三月二十六日二十二で早世されると、兄が弟の相続人になった。それは、田 安へやってあった第二十八号の斉荘《なりたか》と、その妻田安右衛門督斉匡の女猶姫とを、尾州 家へ三度目の夫婦養子に強制したからである、この斉荘は幼名を要之丞といって、三 歳で田安の婿になった。田安には益千代という九歳になる世子があるのに、虚弱だと いって排擁し、まだ健康状態などのたしかめられない赤坊の要之丞を割り込ませたの で、妹猶姫が兄を日蔭者にして押付婿を頂いたために、家督相続をする都合になった。 真に益千代が多病であっても、群之助(後田安慶頼、今の徳川家達公の父)という弟も あるのでみれば、些少も婿さんの入用はない。さすがに、義理も欠けない、人情も棄 てられない。そこで斉荘夫妻を尾張へ押し付けて、田安の実子を世に出さなければな らぬことになる。さりとて、尾張にも相続人になるべき分家や支藩もある。その方へ の義理人情は何としたものだ。無理なことは、どこまでも無理遣繰りで埋め合せが付 くはずもない。当時の落書に、    縁 起 |抑此《そもそも》御符は、無体山法外寺の越前和尚(老中御勝手方水野越前守忠邦)より藪から 棒に授けられし霊符なり、一たび戴く輩は、親子兄弟一家中納得なしとも、田安《たやす》く 破談離別は叶ひませぬ。 宗 傳 禽〉毒 と事体を簡明に道破してある。また、家斉の当代に、嬰婿強制を専行したのは、水野 出羽守忠成であったが、代は家慶になり、老中も水野越前守に替ったけれども、替ら ぬものは公子女の強制分布であった。特に一読悲凄の感のあるのは、尾藩の馬廻大橋 善之丞が、第三回の夫婦養子の押掛けに際しての上書である。事情を暴白し、道理を |娼尽《けつじん》したところは、大いに同情の涙を誘う。  乍恐以《おそれながら》二書付一奉レ伺候 去月二十六日、御大変(斉温亮去)御弘め仰出され候処、即日上使を以て、田安中 納言様(斉荘)え御家(尾州)御相続仰出され、御遺領相違なく進ぜられ候に付、 中納言様に御奉公只今迄の通相勤候様仰渡され候段、恐れながら、右は大御所様 (家斉、前将軍)御内意等、上様(家慶、当将軍)にも仰合されの上、仰出され候筋 にも相当り居申す可くと承知奉り候得共、大御所様は、頼朝以来古今|未曾有《みぞう》五十ヶ 年余将軍御在職、天下泰平格別之御大徳、諸国人民一般御恩沢を蒙り、天子より御 褒賞太政大臣御昇転(文政十年三月十八日に拝任)在らせられ候程之御仁徳之段、仰 ぎ奉らざる者も御座なく候処、今般仰渡され之趣、深く思慮仕相考候者、御趣意相 貫かず、御意味合ひ観齢《そご》仕候様にも存じ奉りも左候ては、全く御老中之内邪智姦曲 之私心を以て、篤《とく》と高聴に及ばずして取計ひ申され候儀と、存じ奉り候、全く、大 御所様を初め、上様之思召より出候訳には御座ある間敷哉と、恐れながら推察奉り 候、其訳は、先年(文政十二年十月)水戸当中納言様(斉昭)御家督之|勘《みぎり》、御三家方 より御相続之御内意も在らせられ候趣、水戸御家中承知奉り、即刻三十騎余、早馬 にて駆登り、大学様(支藩松平頼信)御屋敷に相詰、敬三郎様(斉昭の前名)御家督 に相成らず候ては、御国人民一統承知奉らず段申上、以ての外騒動に相成、御三家 方より御相続御内意相止められ、当時之水戸中納言様御家督仰出され候よし、風聞 承知奉り候、右之儀、御老中方存じ居りながら、今般、尾張御家中は腰抜侍にて武 威も之れ無く、遠路駈下り候勢はこれ有る間敷と、侮り申され候儀にも候哉、即日 上使を以つて御相続仰出され候儀、御触書日限を以つて相考候得者、前大納言様 (斉朝、この時存生)に御申上候儀は不二行届《ゆきとどかざる》一筋に付、全く公辺計の御|目論見《もくろみ》と相見 へ、姦曲之筋にて御国を纂奪之姿に相見へ、浅智之謀計と恐察奉り候、元来、東照 宮之御血脈、公儀御方国之儀、当中納言(斉荘)は源僖《げんき》様(斉温の論号)御令兄様 之御続柄にて在らせられ、御名君とも存じ奉らず候得共、上に申上候筋は御座なく 候得共、讐を以つて申上候は父、町人百姓軽き身分にても、本家之差図を以つて、 別家、隠居、家族等これ有る者、並に、家来、召仕共え沙汰仕らず、本家之子を以 て押付家督致させ候ては、たとへ一旦相済候とも、一家治り申さず、終には相乱候 趣も出来仕るべく哉、況《まして》当御家は日本諸大名の目当、鏡とも相成るべく御大国之御 相続、押領寡奪の姿にては、日本国中諸大名初め人気穏ならず、恐れながら、乱世 之基にも相成るべく哉と歎敷《なげかはしく》存じ奉り候、且又、御近例も之れ無く、田安より、 御家老、御用人を初め、御附人多数之れ有り候、常とても、増方之儀は当時御勘考 も在らせられ候哉之御時節柄、弥多《いよいよ》数相増申候間、是迄御勝手御不如意之上、去 年(天保九年)西丸炎上御献木上納金以来、八…、、般之御入用莫大に付、御家中に上金 も仰付られ、町人百姓共よりは、年々引続上ケ金御用達仰付られ、別けて去年は、 町中(名古屋)富有之者は勿論、後家|嬬《やもめ》等に至る迄、少々之金迄も御取上ゲに相 成候上の義、又々多人数御家中相増候ては、御宛行《おんあてがひ》並諸雑費も相増申すべく、左候 ては、百万石とも申す可き御領国の御取稼、人造とは申しながら、御繰合出来兼、 御勝手御差迫相成候節は、是又御一ケ国乱之基ひとも存じ奉り候、且聖人之戒も之 れ有り、不勤之私共、恐れを顧みず申上候段、不敬に相当り申すべく哉にも存じ奉 り候得共、累代知行頂戴御奉公相勤候冥加と存じ奉り、愚按之趣申上候、何にても 前顕の御仕向にては、惣御家中を始め、御領分中万民に至る迄、御帰伏申上げ奉ら ざる哉に付、此上別段之御勘弁を以て、御家御治り方仰出され候方にも候半哉と、 了簡之趣御伺申上候、以上  亥(天保十年)四月 幕府が独断で、隠居の斉朝にも諮《はか》らず、斉温の喪を発するや否や、相続者を決定し た。こうした場合に、幕府は在江戸の老職権臣と諜じ合せて、いつも大事を敢行する のであったが、今や一藩の動揺が甚しいので、幕意を迎合した連中も、近く実賭《じつと》した 水戸騒動を思い出して不安を感じたらしく、そこで一藩の所存書を出させた。その上 書の中に、前掲の大橋善之丞と吉田平内とが、猛烈な押付養子拒絶論を唱えたのであ る。すなわち、幕府は尾張の封土を纂奪する者だと極言し、水戸では騒いで天降り婿 を防止したが、尾張は遠方でもあり、腰抜武士ばかりで何も出来まいと侮って、我盤 をされたのだろうと憤慨し、斉荘をば、名君とは存じ奉らずと指摘し、一藩の財政は、 ばからしい、仰山な押付養子の費用に堪えぬ、と痛突した。家老の竹腰山城守が、激 昂する藩士を慰諭する手書の中に、斉荘を「恐れながら御出来の宜敷御方」とあるの も、名君とは存じ奉らずというのに対して、おもしろく感ぜられる。家斉将軍は、有 史以来、空前絶後の生殖家であるが、名古屋コーチンのように、多産でも不良の卵子 を持えないのとは違って、甚だ粗製濫造なのだ。知能の不足したのや、虚弱なのや、 不具なのや、まことに御出来のよろしくないのが多かった。また、前様《さきさま》(斉朝)は大 御所様(家斉)の御甥の続柄で、斉朝と斉荘とは従弟なのであるから、必ず幕命を承 服されるに違いない、ただ老職の者が言上もせずに御請けをしてしまったのは、恐れ 入ったことである、しかし、お詫の仕方については、所存があるといっている。家斉 は一橋民部卿|治済《はるさだ》の長子で、宗家を継いだ人、弟の治国が一橋を相続して、刑部卿と いった。尾州の隠居、淑姫の婿の斉朝は、治国の、子なのだ。淑姫と斉朝との結婚は、 従弟同士は鴨の味とさえ、俗諺にいう。敬之助も、斉温も、斉荘も、皆淑姫の異母弟 でみれば、幕府の御主殿本位からみれば、すこぶる当然の継承者であるけれども、そ れでは尾州家というものを全く忘れた話になろう。大御番組の吉田平内は、二度上書 をしている。その第一書では、押付養子を、隠居の斉朝にも言上せず、老職が主人を 蔑視して、じきに幕命を承服したことは、尾州家の大恥辱で、世間の誹諺を免れ難い と嘆じ、第二書では、事はすでに決した後に後悔したところが詮はない、速やかに、 専断で幕命を受けた成瀬|隼人正《はやとのしよう》の不忠姦倭を蝉劾し、四谷の秀之助(伊賀町、今も津 の守といっている、ここに尾州の分家三万石美濃の高須の屋敷があった。代々松平摂津守と いったので、土地の俗称にも残ったのである)か一押付婿の養子にして、その系統を続け させないようにしたいと、尾張本位の善後策を述べた。尾張のみでなく、封建の代に は、一藩が一家の規模であった。君公を中心に生命を懸けて忠義を誓う武士、その武 士が、お家のため、お国のためといえば、主人を押込め隠居にもすれば、親類縁者を 見立てて相続もさせる。新主擁立の場合に親族血脈を辿るのは、争いがたい事項の下 に行おうとするからだともみられる。元来、長子の相続権なるものも、争うことの出 来ない誕生の遅速を盾に取ったものである。誰でも主人になれるなら、力ずく腕ずく の争奪で、恒に平和が保たれない。主人たる資格の第一を血統とすれば、強弱賢愚は 勿論、何物を持ち出しても争えない。争いのないところに中心をおいて、一藩の動揺 を未然に防ぐ。世禄世職の武士は、君国の有る限り生活は保証されている、栄誉も持 続される。計算勘定からも、君国を必死に大切がるようになっていた。他人のことで はない、自家の上である。真に一家の感をなしていた。諸侍を藩中ともいうが、家中 ともいった。実に、一藩の上下は、同じ倉虞《そうりん》の米を喰い、棟宇を同じゅうして住むの である。封土の亡失と並んで恐しいのは、一藩の中心が動揺することだ。各自の安固 が得られないから、嫌わなければならぬ、士民でも理屈は同じだけれども、包容が警 しいだけに、大名の相続論がいつも大騒動になるのは当然であろう。押付養子のごと きは、既成組織の大破壊であって、藩中一切の関係をとみに変易するからたまらない。 こうした場合でなくても、一藩のことといえば、上下|教力《りくりよく》して担当する。かえって殿 様は何も知らぬ。ことごとく家来が処理してしまう。自分のことだと思って働く家来 に任せておくのだから、間違いはない。それが殿様をばからしくみせることにもなっ た。一藩の利害休戚といえば、君公でも決して磁予はしない。そうした時に、藩国は あるが君公も家来もない、事の小大軽重となく、その家の栄辱となれば、一藩の君臣 共同の問題である。家といっても、一人の家でけ…ない。たとえ、本家分家の間柄でも、 愚にされた隠居斉朝が舶来物にしても、尾州家を蔑視されたのである。鎗持や中間の 過失でも、金饒の毅瑛になるのだものを、まして、これほどな大恥辱を面目に掛けて 争わないようでは、六十一万九千五百石に生きた人間は、いないも同様だ。 水戸の天降拒止運動  尾張はついに泣き寝入ってしまったが、ただ有心の輩は、水戸の天降拒止運動を羨 ましく思ったらしい。羨まれるほどな水戸の防禦作用は、いかに行われたか。水戸侯 |治紀《はるとし》には男子が三人あって、長子は当家を相続した斉修《なりなが》(艇之助)、季子は出でて讃 州高松を嗣いだ鐙之允で、仲子が部屋住みでありた敬三郎、この敬三郎が烈公である。 事は斉修の御簾中から起る。一体、水戸の貧乏は久しいもので、毎度ながら、藩の財 政は逼迫が続いた。随分幕府も借り倒された。特に先代治紀は、放逸な方であったか ら、困窮も一層甚しい。水戸は娯ア勤王といわれるだけに、藩祖頼房以来、小君は京 都から迎えるのが多かった。国家老の赤林八郎左衛門、江戸家老の榊原淡路守は、肝 胆を砕いて藩の財政を案じた末に、幕府に子女が多過ぎて困っているのに気が付いた。 そこで、水野出羽守と通じて、公女天降りを計画し、第十三号の峰姫を新中納言斉修 の御簾中に迎え、文化十一年十一月二十二日御入輿、御化粧料が一万両。文政八年二 月九日には、水戸殿へ御手当として、毎年一万両ずつを給せられるとの幕命を得て、 都合二万両の新財源が、新夫人美子のために湧き出したのみならず、同時に、これま での拝借金二万二千両の元利とも返済に及ばず、と達せられ、古借金までも片付いた。 この婿賃一万両は追年値上げの気味で、文政三年から年額三千両ずつであったのを、 同六年から六千両に増額し、羅《せ》り上げた果てが一万両なのである。二万両といえば、 今日の話にしては大きくない、それが小判だといったって、豪勢に聞えないかもしれ ぬ。水戸の身代三十五万石、それを貨幣に換算した実収額は、十万両に足らないとこ ろへ、`一割強の増収確実な新財源なのだから、新夫人の御利生の験著さは、臓脇に沁 みたろう。こうしたわけで、水戸の天降り嫁は厄介ではなかった。これだけは、除外 例にもされそうであったけれど、やっばり御多分に漏れず、どうやら騒動を背後に持 っていた。中納言斉修が文政十二年十月十四日に逝去された。跡相続は弟の敬三郎が する順序なのを、榊原淡路守等は、女でさえ二万両の財源になるのだから、男を貰え ば水戸藩が貧乏離れも出来よう、と考えた。水野出羽守も、公子を天降らせた方が幕 府の都合がよいので、第四十七号の恒之丞が、ト方石持って清水を嗣ぎ、宮内卿|斉彊《なりちか》 といっているのを、水戸へ押し付ける相談がすこぶる捗った。清水斉彊の迎立につい ては、表向きの老職・重臣の財源欲求と、奥向きの勢力争奪とが搦み付いて、騒動の 根底を深くした。斉修は幕府の御家人松永氏の娘が産んだのであるが、斉昭(敬三 郎)は京紳《くげ》外山氏の女の腹から出た。共に治紀(旧子供ではあるものの、異腹の兄弟な のだから、水戸の奥向きの権勢は、兄弟の迭《てつり》⊥-によって、たちまちに、各《ラ》生母の上を 去来する。松永・外山二女の運命を冷暖にする。松永氏に付随する奥女中は、峰姫の 付人と合して、敬三郎の相続を沮《はぱ》み、清水斉彊を迎えて、自分の春を幾分でも永くし たい。それに反して、外山氏を中心とする一派は、敬三郎を半刻も早く世に出し、月 も花もわが庭のみの眺めにしたい。それには天降りの沮止が肝要だ。表裏内外に線《よじ》れ て、大混雑を生じた。この争擾が、後々に有名な、水戸の俗論天狗の党争を醸したこ となどは、当時に誰も気の付いた話でない。ただ夢中になって、目前の利害を考えて、 |禽奔獣走《きんぽんじゆうそう》したのである。思えば、峰姫の入輿、二万両の新財源が、水戸家を災したの が寒心される。それさえなくば、清水斉彊の迎立は策せられぬ。奥向きの松永氏が快 心の笑みを洩し、藤田東湖の伝記が賑わしくなって、財源論者の棚ぼた党は一敗地に |塗《まみ》れ、清水天降り一件は沮止されたけれども、後年に収拾すべからざる紛紙を残した。 もし敬三郎が日蔭者になってしまったならば、一藩は無事であろうか、イヤ決してさ ようではあるまい。対時した両派は、藩中を二分して、到底は同じことになろう。何 としても禍根を培《つちか》うようになる。押付養子の茶毒《とどく》は劇《はげ》しい。諾否ともに幸福を伴わぬ。 二万石持参から啓婿  尾張は泣き寝入った。水戸は擾ね付けた。擾ね付けたのが、必ずしも幸福ではない。 幕府は水戸の経験によって、とっさの間に尾張へ押し付けた。即日の命令なのだから、 運動計画も隙がない。時間の猶予を与えぬ。めでたいはずの御祝儀も、一藩の動揺を 案じて、種々な窮策を行わなければ済まない。騒動婿・厄介嫁なのは、幕府も十分知 っている。知っていればこそ、こうまで苦心惨憺を極める。無理は承知で押し付ける のだから、幕府にして楽な事業ではない。背に腹は代えられぬのであろう。それを、 押し付けられる方になってみれば、下手に逃げると、幕府との関係を悪くして、あっ ばれ外患を生じる。御無理を御尤もにすれば、とかく内証の種子になる。何でも、一 度幕府から睨められたら往生だ。第十九号の浅姫が福井侯斉承と縁組されると、翌年 (文政元年)五月朔日、二万石増封された。聞けは、縁約が九月二十四日で、もうそ の暮には増封の内願をしたという。まだ嫁さんが来ないのに、手回しよく無心を持ち 込むなぞは、おエライわけである。この二万石(りお嫁さんが産んだ長子|於義丸《おぎまる》が、天 保六年四月四日に死ぬや否や、同年閏七月十一口に、第四十八号の千三郎を押し付け られた。まだ跡から産れるかもしれない若夫婦に対して、いかに多過ぎる子供の始末 を急ぐにしても、余り手回しが早いように思われた。しかし、その翌年に福井侯斉承 も卒去され、やがて押付婿は、正四位下少将越前守斉善朝臣に成り済したから、勝手 らしくもみえた。一体、この押付婿は眼疾であった。天保七年の狂詩に、「盲目押付 為二養子一片輪家督已済」、また、「開運到来盲目公」などとあるのは、この四十八号 のことで、江戸時代は、大名でも、旗本でも、御家人でも、一同に軍人なのであるか ら、盲目碕形は勿論、巌弱《るいじやく》な体質の者は、武職にたえない、常に相続権はこれがため に消滅した。大名も大名、七十五万石の大諸侯の相続者が啓者《こしや》であるとは、先例古格 にもない。一時は盲官の上長にする内議もあったとやらで、検校《けんぎよう》・勾当《こうとう》等の盲群は、 自分達の位置を進める機会はこの時だと、大喜びに喜んで、機会促進の運動をした。 それが越前家御養子と急変したために、盲群は大失望であったという。『鉋庵遺稿《ほうあんいこう》』 に、「十一代将軍(家斉)が晩年最愛の子に仙三郎君(文政三年の出生、家斉は四十八 歳)と申すありしが、幼少より眼気悪しく、時あつて昏花して物を見る能はざるより、 下々にては、盲者なりなどと評したりき、天保年中、後宮婦人の薦めに因り、西郊鼠 山に法華宗感応寺を建られしも、一は、日蓮、日朝に薦り、郎君が眼気の平癒ありし に因ると申たる程なりき、此仙三郎君、後に出で、越前福井侯の家を嗣ぎ、少将に任 ぜられたりければ、例の坊主(落首を得意にしたのは、お坊主衆といって、柳営の給仕を 勤める輩であった)の口より出たる滑稽に、乞弓《こつがい》の啓者が路に彷裡して、『盲目に越前 (一膳と音通)下されまし、大御所(家斉をいう、後生と音通)で五坐り升』と請ひたれ ば、或る家の窓より『少々(越前家は代々少将に任ず)遣《やら》ふ』と云ひたり」とある。た とえ、盲目というほどではなかったにもせよ、少将斉善に、普通の視力はなかったら しい。無論、廃物であるべき婿さんを背負い込んで、外間に毫《ごう》も紛紙を聞せなかった 福井藩は、辛抱強い人のみのお揃いであったのか、それとも、腰骨の構成が違ってい たのか。 姫君が芝居のロ ハ見  家斉将軍が、子女の強制分配で盛んに親族を荒した中に、紀州は一番被害が少かっ たらしいが、そこには、第十五号の菊千代を治宝《はるとみ》卿の女豊姫の婿養子に迎えて、大変 な賛沢をされ、俄貧乏をした。その後は、久しく家道振わず、杉本茂十郎などという 怪しい御用商人が、紀州家の繰り回しを縁故にして、江戸の商業を脅したような出来 事もあった。家付きの女房豊姫が派手好きな・ところへ、お婿さんの付人が御本丸風を 吹かせ、御威勢を光らせる。その風が奥向きを吹き通し、その光が女中達へも照り返 して、まだ、お婿さんは、『武鑑』に御嫡と書いてある文政二年、葺屋町の玉川座は、 当月の三日から『病花千人禿《やよいのはなせんにんかぷろ》』、二番目が『助六|所縁《ゆかりの》江戸桜』、七代目団十郎の助六、 堺町の中村座も、三月二日から『病花女雛形《やよいのはなおんなひながた》n、二番目『助六|曲輪《くるわのもも》 菊《よぐさ》』、三代目菊 五郎の助六、両座は競争で、助六競べの芝居が開場され、七代目と三代目とは、この 狂言から不和になったというほどな騒ぎ。従って、八百八町の人気、四里四方の見物 を集めた興行であった。紀州の新夫人豊姫は、まだ二十歳の若盛り、三月二十五日に、 浜町の居邸から本供《ほんども》の勢堂々と、赤坂の上邸へゆく途中を迂回して、芝居町御通過と いうことであった。その模様は、『芝居秘伝集』にこう書いてある。「紀ノ国様姫君、 浜町ノ御館へ御出ノ節、御途中ヨリ急ニ、葺屋町、堺町御通行トナリ、和国橋ノ河岸 ヨリ御近習駈付来リ、御通行ノ節、木戸取ハラヒ明放シニセヨトノ御触故、葺屋町玉 川座ニテ、三升二番目ノ助六ヲ興行中、殊ニ三月芝居ナレバ大入ナリ、丁度助六ノ出 ノ所へ、御先供御出ニナリ、御下知故、木戸ヲ押開キ、木戸番ノ者下座ヲスル、程ナ ク御乗物、河岸通ヨリ葺屋町二入ル、玉川座芝居ノ前二|御駕《おかご》ヲ差上、御腰掛ヘノセ、 御駕ノ戸ヲ細目ニアケテ、暫ク中ノ様子ヲ御見物アツテ、夫ヨリ隣町堺町へ御出ニナ リ、又々右ノ通ニテ御覧アリ、此年三月両座トモ助六ニテ、三升、梅幸両人ノ大当大 入繁昌ニテ、予ハ玉川座二出勤セリ、其日八ツ半頃(午後三時)ニテ、葺屋町市川屋 軒下ニテ、大坂町名主名倉氏ト南北埣、直江屋重兵衛ノ三人ニテ下座シテ、芝居表ノ 様子見物セシガ、人留ト云フデハナケレド、往来ザンジ留リ、ヒツソリトセシコソ御 位ト見ヘタレ、夫ヨリ四五日タッテノ樽ニハ、其日ノ御供ノ内、重キ御方一人切腹、 外二二三人ノ近習御暇トナリシト聞タリ、古今例シナキ珍ラシキ事、姫君ハ紀ノ国ヘ |押込《おしこみ》ニナラセラレシトヵ」、三升屋二三治が眼前に見た記事である。紀州家が、後年 財政難によって、種々な策略を行ったのに比較すれば、これほどのことは何でもない。 とはいえ、時間を見計って出掛けた上に、芝居(り木戸を開放させたのをみれば、急に 路筋を変更したのではない、元来、予定の行動なのが知れる。果して「紀伊国やの御 新もじ、御駕籠の中から芝居をでんぼう」(『寝ぬ夜のすさび』)といわれた。そして、 押し込められたというのは、事実でなかろう。御供の切腹は、『甲子夜話続編』にも 書いてある。気の毒千万にも、とんだ御物数寄のために、生命を進上した武士もあっ たのだろう。この時代には、貴族の芝居見物は禁ぜられていた。江戸の女の好物な芝 居と薩摩芋、国腹の豊姫も、さすがに時世の女に違いない。『先代萩』の文句じゃな いが、千万人の果報を集めた紀州侯の惣領娘でも、貴族の悲しさ、ほしいままに大好 物が賞翫されぬ。それをそのままに、人形のように、ただ美しく暮さないのが豊姫の 性分、暮させないのが驕慢な御付女中の操縦力、である。その操縦力は、お供頭に出た 侍の生命を看劇料にもしたのみか、文化七年の八月、芝三田の土州中屋敷前を豊姫様 がお通りの時に、辻番の番士に土下座をさせた、天明二年の法令で、御三家・御三卿 の御通過には、辻番の番士は下座台、徒士は砂利下座、足軽は土下座ときめてあるの を、豊姫様の供方は、法外にも、番士に足軽と同様な敬礼をさせた。かくまでに驕傲 になり、法律制度を無視するようになったのも、本家から婿を取ったためである。そ の翌年(文化八年)十月二十二日、紀伊宰相斉順卿(童名菊千代)が、また土佐の中屋 敷の前を通る時に、先供は辻番の番士に土下座を迫った。けれども、先例がないとい って承知しない。かれこれ論判している中に、御駕籠が近くなったので、交渉もうや むやにたってしまった。その日の夜にはいっての帰途、紀侯の先供は土州の辻番に対 して、最強硬な談判を持ち込んだ。腹の中に、去年は女房(豊姫)にさえ土下座をし ているのに、その亭主の斉順が通るのだものを、何も言い草があるものか、先例とい えば去年のも先例だ、というのが幡《わだかま》っている。土州の方でも、天明二年の法令に遵由《じゆんゆう》 して、不法な紀州の先供の要求を斥《しりぞ》けた。双方言い募った末は、紀州の先供は、乱暴 にも土州の番士を打郷《ちようちやく》し、剰《あまつさ》え負傷させた。それでは土州も捨ておけない。向後のた めに、御三家に対する敬礼振りを伺いたい、今度のような混雑があっては迷惑仕る、 と一種の辞令をもって、幕府にヤンワリと詰問した。紀州家からも、従来の礼は軽き に失していた、松平土佐守・松平因幡守●松平肥後守・松平鶴太郎・小笠原大膳大 夫●蜂須賀阿波守・酒井|雅楽頭《うたのかみ》の番士は、前田加賀守・松平豊後守・伊達陸奥守の番 士が砂利下座をするのに比べてみれば、土下座にさせたいと要求した。さすがに、幕 府も法度に背いた要求には応じられぬ。前例の一遍り、と指令して、驕慢な紀州をへこ め、穏当な土州を慰めた。詮もない馬鹿威張りを御威光と心得る人間に、天降りの婿 さんを与えて、とんだ世間騒がせをする。 貧病に悩む佐賀侯  紀州の貧病は、徐々として婁《やつ》れるのであったが、佐賀のは端的な悩みであった。文 政八年十一月二十七日、佐賀侍従斉直の嗣子直丸ヘ、年額三千両五百俵の化粧料付き で天降ったのは、第三十一号の盛姫であった。大郷信斎《おおさとしんさい》の書いた『道聴塗説《どうちようとせつ》』(文政 十一年のところ)に、「鍋島遅参、道路の流言にi御入輿も済ければ、早く参府有レ之 べきよし、内々御沙汰ありけれども、病と称し今に東行の挙なし、これは彼の大臣有 司の中に国財を摩費し、長崎御固めの軍儲まで底を空して用ひ尽せし故、其党類厳科 に処せらる」もの警し、か二る上は、国主も其罪なきにあらず、是より直に隠居なる べし、といふ、江戸の邸第は、去々年(文政八年)以来、土木の輪奥を極め、目出度 御入輿万歳と称する中に、かく内憂あること借むべし」とある。埣に嫁を取る散財ゆ えに、気の毒にも親仁どのは、参観の費用がなくなって、発足が出来ない苦しさを、 病気と披露して紛らかすありさま。九州大名が国役として負担する、長崎警備の出兵 費をも、消耗してしまった。若殿の婚資にもせよ、主家の急入用にもせよ、国役が勤 らないようなことをした以上は、その筋の者を処分しなければならぬ。九州の雄藩、 三十五万七千石の財力を娼尽《けつじん》するほどの経費を要したとは、どんな婚礼であったのか、 僅かにその一斑を知られるのは、新夫人盛姫の住居を営作するのに、その結構の指図 を柳営の奥向きに求めたら、早速に指令された。二階の梯子を黒塗りにすベし、御通 路のことなれば、その上に羅紗《らしや》を敷いてよろしかろうというので、鍋島の上下を驚か したそうだが、この調子で賛を極められては、たまらないのも無理はない。 品川宿の大狼籍 「相聾が喰合をする一っ鍋」という落首が出来た。一件の相手は、盛姫を頂戴した松 平肥前守斉正(初名直丸)が帰国掛け、頃は天保七年三月十七日、場所は東海道の第 一姑品川宿。第四十四号永姫のお婿さん一橋民部卿斉位が、川崎辺へ出遊の途中、雇 従《こしよう》していた徒士《かち》中島吉太郎・平井東吉・九里亀次郎の三人で、昼食に宿場の茶屋半七 方へはいって、つい一杯が嵩じて、お供先にはあるまじき大酩酊、目の前の往来に建 ててある関札、松平肥前守旅宿と大書しているのを見て、お目障りになるから取り除 けよう、と言い出した。大名の道中には、宿割ズ目バ先発して、投宿の箇所はあらかじめ 関札を建てる例であった。一橋の酔ッばらい徒上は、同じ大御所様のお婿さんでも、 九州の田舎大名と俺の旦那とは違う、一橋家は一御三家(尾・紀・水)よりも公方様に 近い御親類の御三卿(田安・清水・一橋をいう)だぞ、と妙に相婿なのが癩であったら しい。三人は同輩の止めるのも聴かずに、関札を取り除けようとした。そこへ佐賀侯 の旅宿に当った品川宿本陣の下男が飛んで来て、佐賀の家来衆へ無断でお取除けにな っては成りません、と遮って言っても、酔いに気の嵩《かさ》んだ連中は、耳にも入れない。 たちまちに関札を抜き取った。下男が驚いてその関札を持ち帰って、本陣の勝手の膳 の上へ置くのを、追い掛けて来た吉太郎が見て、我々どもが見ていると思って、わざ と大切そうに下へも置かぬのは、面当てをするつもりなのか、何の田舎大名が、と土 足に掛けて関札を踏み躁った。サア大変、両家の交渉は凄じい。鍋島は田舎大名でも 姉婿である。無礼者を当方へ引渡せ、と真向大上段に構えた。けれども、一橋が承知 しない。ついに法外の狼籍、松平の御称号を認めてあるものを土足に掛けた大不敬、 肥前守は勿論、家来一同の恥辱、と幕府へ訴え出たので、中島は獄門、平井東吉・九 里亀次郎●大井源次郎が遠島、そのほかに三人押込めになった。公方様の息男息女と いうのが、妙に家来の鼻息を荒くする。この騒ぎの二十三年前の文化十一年三月十六 日にも、紀州へ婿にいった菊千代が目黒へ出掛けた際、やはり品川で加州と大悶着を やっている。 命懸けの中仕切門  菊千代の細君豊姫の芝居覗きで、紀州の家来は痛い腹を切らせられたが、姫路の家 老は中仕切門故に敢ない最期を遂げさせられた。四十三号の喜代姫が、姫路の酒井|雅 楽頭《びつたのかみ》忠実の世子忠学へ、天保三年十二月二十八日に入輿された。金箔付きの嫁取り前、 天降りの婚礼を控えた竜の口の酒井邸は、惣普請を始め、朱門|粉摘《ふんしよう》、美々しく工事は 竣功した。特に新築の中仕切門は厳めしい。昨年までの姫路藩邸とは違って、福井侯 の門構と同様に見える。江戸時代の大名の階級け一すこぶる繁多なもので、行装の次第 に格式がある通り、居屋敷の構造にも、家々に規定されたものがある。大名を二分し て、外様と譜代とする。外様大名は徳川氏に来付した大名、譜代大名は三州以来の古 い家来の成り上った大名、酒井は、いうまでもなく譜代大名であった。福井は、秀康 卿の由緒で御一門と称し、全く、尾張・紀伊二小戸、田安・清水・一橋のように親類 扱いはされないが、他の御門葉といわれる家ムニリように、家来待遇でもなかった。譜 代●外様と二大別したほかに、御三家・御三卿という親類があるのに対して、越前家 は、親類扱いと家来扱いの中間の待遇を受けたともいえよう。譜代大名の酒井が、公 方様の婿になったと心得て、他に類のない越前山}、かの格式を奪って、中仕切門を建てた のである。閣老の水野出羽守の黙諾を経たと樽されたが、そのままに放置すれば、公 方家の兄に当る家筋と肩を並べさせることになる。そこで、彦根侯が水野閣老へ一本 参った。もう御入輿に七日しか間のない十二月二十二日に、中仕切門撤去の命を伝え て、大急ぎで立派に落成したのを破壊して、礎石までも取り除ける騒ぎ、何故に先例 故格を破って暦上な建築をしたというお尤《とが》めのない内にと、実は水野閣老の内意を得 てあったらしいのに、家老の河合隼之助は切腹したとやら、早速の一句、「辰の口中 門(注文)違ひ水の(閣老出羽守忠成)あわ」、十七文字では不足とみえて、   辰の口井伊あんばいにねじられてもふこれからは水の出羽なし   知耳だから河合家老(かわいがろう)と世の口に雅楽(唄)はれたのが中門(注文)   の外   わが家老よ家老(よかろう)とての御家老と口惜し家老おし家老さぞ   中門が違つて水野泡となり河合さふだと人は云ふなり などと落首が出来た。この際、行列の打物をも許され、格式が一等進んだのに心驕っ て、准御家門の列にはいろうとした形跡がないでもない。何としても、天降りのお嫁 さんは禍である。      因州の婿災取女禍 鳥取の池田少将|斉稜《なりとし》は、まだ養子を急ぐ時機ではなかったが、幕府は、例の御都合 から、当時五歳であった三十一号の乙五郎を長女喜代姫の婿に押し付けた。それは文 政元年二月二十一日である。そうして三年目(文政三年)の七月二十五日に、誠之助 という男の子が生れた。哀れ提封《ていほう》三十二万五千石、因幡●伯老日両国の所領と、正当な 相続者とを、家斉将軍の粗製濫造の犠牲に供すべき状態であった。饒倖にして、天降 りのお婿様が文政九年三月十四日に早世したので、実子誠之助は、からくも日蔭から 旬い出せた。そうすると、兄の跡は妹だと、十四歳になる第五十四号の泰姫が、天保 十一年十二月三日に、花嫁御でお輿入れ。しかるに、従四位下侍従因幡守|斉訓《なりみち》になっ た誠之助は、果報拙なく、二十二歳で、天保十二年五月十六日卒去された。寡夫人泰 姫も、足掛け三年目の天保十四年正月三日に、逝去と披露された。立派な碑石が建て てあるけれども、それは表向きの話で、内実は、御名を改めて、死んだと思った泰姫 様は、お釈迦様でも御存知あろうはずもない、御再縁なされた、という伝説がある。 斉訓の後は、分家壱岐守|仲律《なかのり》の長子|慶行《よしゆき》を立イー、た。この家は、相模守光仲の弟壱岐守 仲澄を祖とする、池田の血統である。この慶行O早世に乗じて、十二代将軍家慶は、 命令をもって、松平加賀守|斉泰《なりやす》の三男|慶栄《よしたか》を嗣了にさせ、慶行の妹を連れて来て配偶 した。その加州家の三男は、溶姫の産んだ子供の一人で、家慶将軍は伯父に当るので ある。慶栄の後は、幕命をもって、水戸中納言|慶篤《よしあつ》の弟|慶徳《よしのり》を嗣子に定められ、つい に輝政の系統はこの家から消滅してしまった。  ざっと我等が記憶する、家斉将軍から発生した諸大名の婿災取女禍は、大略かくのご とくであるが、畢寛、世間に知れた惨害に過ぎぬ。もし精しく尋ねたなら、世間未知 の悲況も少くはあるまい。 辛婚辣姻目録  話の中に葛藤する家斉将軍の粗製濫造の結果、すなわち五十四人の子女、その天蕩 して成育に及ばないものを除いた表示を作っておくのが、この諏の分野を明瞭にする 便利があろうと思う。 番号 一 四 六 八 十三 峰綾敬穿敏淑事乳   之の次 名 姫姫助再郎姫身 (実名) 生母 (鎮子)櫃氏 (家慶《いえよし》)瑠氏 (早世)祷氏 (早世)樗氏 (美子《よしこ》)評氏 縁先 尾張 徳川十 二代 尾張 仙台 水戸 結婚年月 寛政十一年 十一月 文政元年 十二月 寛政八年 二月 同 文化十一年 十一月 十五 十九 二十一 二十四 二十六 二十七 二十八 三十 三十一 三十二 三十四 三十六 四十一 四十三 四十四 菊千代 浅 姫 虎千代 元 姫 文 姫 |保之丞《やすのじよう》 要之丞 盛 姫 乙五郎 口  臣 イ不  ⊥μ 溶 姫 銀之助 末 姫 喜代姫 永 姫 (斉順《なりゆき》) (湖子《すみこ》) (早世) (幸子《さちこ》) (結子《ゆいこ》) (斉明) (斉荘《なりたか》) (国子) (斉衆《なりひろ》) (操子《もちこ》) (借子《ともこ》) (斉民) (貴子《たけこ》) (都子《みやこ》) (賢子《かたこ》) 同 木村氏 美尾 曾根氏 蝶 諸星氏 やち 吉江氏 そで 土屋氏 八重 曾根氏 蝶 土屋氏 八重 同 曾根氏 蝶 中野氏 美代 土屋氏 八重 中野氏 美代 土屋氏 八重 高木氏 いと 一姫安津加萩鳥佐尾清高会紀越紀 橋路芸山賀 取賀州水松津州前州 同十一一.ヰ 十一弓 文政一.年 十一月 同 文政四年 二月 同 六年 十一R目 文化+.二年 十二日. 天保卜午 三月 文政へ年 十一月 文政二年 六月 文政-⊥年 十一月 文政r任 十一月 文化-←町年 十二月 天保四年 十一月 天保戸 十二ー月 天保六年 十ー月 四十五 四十六 四十七 四十八 四十九 五十二 五十三 五十四 泰‡周嘉紀乞松千恒徳直   五ご 三之之七 姫募丸き郎ξ菊郎丞佐郎 (斉温《なりはる》)炉佃氏 (斉良《なりまさ》)鑓氏 (斉彊《なりちか》)麓氏 (斉善《なりよし》)塙抹氏 (斉裕《なりひろ》)鑓氏 (斉省《なりやす》)塙抹氏 (斉宣《なりのぶ》)同 (益子)編氏  寛政十一年から天保十一年まで、 繁昌、大名騒動というべきである。 鳥明川阿越清館尾 取石越波前水林張 文政五年 十一月 同 文政十年 十一月 天保六年 九月 文政十年 十二月 同 文政十一年 十一月 天保十一年 十二月 四十二年の間に二十六組の婚礼が行われた。 家門 三お美代の方  溶姫の生母は、お美代の方といって、家斉将軍後年の寵姫であった。将軍が四十一 歳の文化十年三月二十七日に溶姫、四十三歳の文化十二年十月十六日に仲姫、四十五 歳の文化十四年九月十八日に末姫を産んだ。仲姫は成育しなかったけれども、溶姫は 加州へ、末姫は広島へ嫁入りをした。お美代の方は、百三万七百石と四十三万六千石、 あわせて四個国へ掛けて百四十五万三千石の婿を持った。このお美代の方は、絶世の 美人であった。それも「沈魚落雁閉月差花」と形容されて、金魚が落雁を喰って、祝 儀に屍を垂れた、と駄酒落に雑ぜ返される女でない。当時陪臣の四天王といわれた、 老中水野出羽守の用人土方丹下、御側衆林肥後血、の家来広部広平、御小姓組頭水野美 濃守の家来黒田仲左衛門、御側衆土岐豊前守の、用人保田茂左衛門、この四人の働き手 の才気を一つにしたほどの、怜倒|捷給《しようきゆう》な女だ♪、いわれた。当世に優れた才貌の所有 者お美代の方は、容貌で鼻の下の寸法を引き延ばし、十一代将軍を背後に光らせて、 余った才気を何に使用したか。系譜の上では中野播磨守清茂養女、実は内藤|造酒允 就相《みきのじようよりすけ》女とあるが、この美人は、武士の家に生れはしなかった。中山法華経寺派の堕落 坊主、智泉院流の日啓という一祈薦僧の破戒の現証として、産殖されたのである。日 啓の密子は男女四人あって、長男は智泉院住持になった光住、次男は船橋の旅籠屋市 兵衛、その次の娘がお美代の方、季女《すえ》のおみせは、伝通院の住持の梵妻になった。お 美代は兄市兵衛を受人に、駿河台の中野清茂の屋敷へ奉公に来た。御小姓であった中 野は、十一代将軍の寵臣とあって、文化三年の六月には、御小納戸頭取に陞任《しようにん》した。 羽振りのいい中野は、油断なく君寵を固めようとする。新参者の下総女のおみよの繧 致《きりよしつ》に素早く着眼し、間もなく、養女にして千代田の大奥へ出した。眼尻の下った家斉 を釣るには、この上なしの好餌であった。それが中野の僥倖になったのみか、道楽坊 主でも親父なのだから、売僧《まいす》日啓の運勢を開くことになった。ここで思い出すのは、 正徳年中に天野信景が書いておいた『塩尻』の一章である。 「近世諸家の貴人、京都より妾を召さる」に、多くは日蓮宗なり、其故は、日蓮宗の 僧等、其の檀那と心をあはせ、下賎の数ならぬものにも、かほよくむまれ出し処女あ れば、金銭を与へ育てしめ、艶芸を習はず、年や、たけゆく時、日蓮宗の法義を教へ 侍る、是は、若し大家の妾となり、幸ひせられば、必ず主家を勧めて、我宗を其の邦 へひろくせんたくみ也、邪徒の好曲こ\に至れり、と京の人かたりし」。お妾伝道は、 浄土に塊《かたま》った天野の筆だけに、安心して請け取れもせぬが、元禄以来、江戸の仏教界 は、浄土宗、日蓮宗の分野であった。柳営のみならず、諸侯の奥向きにも、不思議な ほど団扇太鼓《うちわだいこ》党が多かった。化政度には、一貫三百どうでもいいと、万燈を振り窮す 江戸ッ子の群が目に立った。堀の内のお祖師様も、天明に家斉将軍が御野駆《おのがけ》の折柄、 お通抜けとあって、実は参詣されてから、信楽《しがらさ》のノッペイが名物になり、新宿の青楼 が堀の内の帰り掛けに賑やかされた。文化に入。一、ては、お張り御符の御利益が八百八 町に知られるような成行き。何にも、お美代(り方を待って、家斉将軍がナン、・・ヨウホ ウレンゲイキョウに随喜渇仰したのではない。しかし、公方様の御信心は、美人を授 った嬉しさに、深さ篤さを増加したに相違もあるまい。正徳の旧計画は信疑不詳でも、 化政の巧まないお妾伝道はたしかである。捗びは偶然でも、効果は確実だ。家斉将軍 が隠居して西丸に移った後、西丸の奥女中は題日、当将軍家慶の本丸は奥女中が一統 に念仏、ドンドンチャンチャン、盛んに宗旨喧嘩が始まった。 大奥女中の題目組●念仏組  御本丸が念仏、西丸が題目と立ち別れての宗旨喧嘩は、家斉の傍らでは全く口蓮宗 の勝利になってしまったからのこと、まだ大御所様にならない時代は、本丸で久しい 間の混戦、御殿女中根性を露出しての争い、それに手伝う坊主根性、どんな光景であ ったろうか。惜しいことに、何の消息も伝わっておらぬ。文化三年の頃から、民間の 団扇太鼓の音が一層勇しくなって、開帳の送り迎えの大幟が目立ってくる。『日蓮上 伝通院(江戸名所図会) 人一代記』は、芝居となり、読本となっ て、景気を付ける。お美代の方が溶姫を 産んだ文化十年には、御本丸にも余程題 目組が頭を撞《もた》げたらしい。それに反抗し て、念仏組も対抗運動に勉強したらしい。 近世の高僧|徳本《とくほん》上人は、享和三年十二月 から、小石川の伝通院に留錫《りゆうしやく》された。御 本丸の念仏女中は、対抗運動の資料とし て、徳本行者を担ぐ分別、いかにも、当 時の日蓮宗には、破戒で日本橋へ晒され る坊主のほかに、目に付く程の西瓜頭《すいかあたま》も ない。文化十一年六月二十日以降、増上 寺に、伝通院に、徳本行者に謁して、日 課念仏を誓受した本丸・西丸の奥女中は、 実に霧《おぴただ》しい数である。中でも、本丸の歌 橋・飛鳥井《あすかい》などという有力な御年寄と、第一口|烹《ふ》、似姫《でひめ》の生母お万の方が注視される。諸 大名の表奥、貴賎男女の群参も著しいが、一橋`田安の御一統、わけても尾張中納言 斉朝は、御主殿様の淑姫と一日おいて誓受された。紀州のキャン夫人豊姫は、お婿さ んの大納言|斉順《なりゆき》と同日に参拝している。紀州は一体題目組のはずだのに、こうしたこ とは、第十五号の生母おとせの方が、念仏組であったからであろう。後に廃仏殿釈《はいぷつきしやく》の 急先鋒であった水戸の烈公も、まだ敬三郎といソておられた、その敬三郎が徳本行者 を礼拝して、日課念仏の御弟子になられたのは、思いも寄らぬ御信心ではあるまいか。 念仏組の大頭目は、お万の方であったらしい。文化十四年五月二十日、尾州の淑姫の 逝去の際も、老女村田をもって、経帷子へ徳本行者の名号染筆を求めた。しかし、市 ヶ谷の尾州邸でも、奥女中が揃って念仏組ではない。その年の八月になって、増上寺 の方丈は、御本丸風を市ヶ谷へ吹かせて貰いたいと、長文の書面を、柳営の大奥へ持 ち込んだ。  神祖、台廟両尊君、浄土宗御帰依被レ為レ成候儀は、種《いろいろ》々尊慮被レ為レ含候御儀と奉  レ存候、念仏に十方諸仏擁護証誠し、和光諸神も修行護念し給ふ、御当家御崇敬の  山王権現は、末法万年余経悉滅、弥陀一教、利物偏増の文を、毎日四十八篇可レ唱 よしを御託宣ありて、社頭常念仏堂有レ之、又、諸宗の祖師も修行有レ之候筈の大 法に候へば、高野山、叡山等、何も念仏堂有レ之候、又、南岳大師、天台大師も、 念仏往生の発願文を作り給ふ、また代々の天子も念仏往生を信敬被レ為レ在、ある ひは、円光大師伝記に良翰を被レ為レ染、或は、年会の度毎に勅詮被レ下候は現前の 事にて、又、別て御当家御高祖清和天皇御出宮之後、念仏常に口に絶ず、と古事談 に見へ申候、相嗣ぐ皇子王孫、右念仏門に御帰依有レ之、就中《なかんづく》、御始祖新田義重は 円光大師念仏門之御弟子に成、其以後、三河御八代様共浄土宗御帰依にて、親忠様 御男超誉貞吟上人と申御出家、京都智恩院二十五代之御住職、尚又、広忠様御舎弟、 神君様御叔父成誉上人、三州大樹寺御住職被レ為レ在、勇以《かたがたもつて》、別て神君様の、厭離 械土欣求浄土《えんりゑどごんぐじやうど》之御旗被レ為レ揚、天下平均、常々六万遍の念仏御修行被レ為レ在候由、 是則、末法万年御家御長久御威光偏増の無量寿仏之御法号と御光徳を御双《おんならべ》被レ遊 候思召難レ有奉レ存候、此故、念仏繁昌を諸天神祇も随喜擁護有レ之、御武運長久之 祈願不レ可レ怠候、然に、近来諸宗|無得道《むとくどう》に立候十方諸仏井釈尊を誹り、尚亦、大 小之神祇を諺《そしり》、又、天子井御先祖御代々様を諺るに当候、此大邪見之宗、御殿にて 次第に相募候て、末々は何様の邪謀を企も難レ計、既に、天台、浄土、華厳、真言、  禅宗等、いづれも正宗にて、八宗九宗之玄義をあがめ候、八宗綱要等の書籍も、日  蓮を邪義之立宗者に加へ申候、然るに、御殿にては、当時諸宗一合しても、日蓮宗  の盛りには不レ及候、近比松平越前守(福井侯治好)殿内室麗照院殿と申逝去被レ致  候、天徳寺に被レ葬候も、其附の女中剃髪のホ、の、菩提所、葬地にて剃髪の外、自  分勝手に剃髪之者江は、扶持米等無レ之由、又、尾張殿御息女感有院殿と申、禅宗  之菩提所被レ葬、其取計全く越前家同様の由にて、今後為二御菩提'御附之衆(淑姫  の)剃髪被二相願一候由、其中多分彼邪宗にて剃髪被レ致候由、尤銘々先祖之宗旨に  候者、一往其道理有レ之候へ共、先祖より、天台宗、浄土宗にて邪宗の剃髪被レ致  候心得之由風聞承り候へ共、此儀者其分にて、以後之処御含置被レ下度候、愚僧之  義、法義に拘り候事故、若格別之不筋之儀候者、相糺候は職分に候得者不レ得二止  事→此段御内々申上候。  淑姫逝去の後に、御付女中の剃髪する者が、主家の宗旨でもない日蓮宗に帰するの を見て、今度は仕方がないけれども、こうしたことの二度とないようにと、念仏組の 有力女中に、応援を求めたのである。御付女中は、主人が死ねば用もなくなる、お暇 が出れば扶持放れであるから、追慕哀悼の情に堪えない。せめて剃髪して御冥福を祈 りたい、と願い出るのが多い。それがことごとく扶持放れを除ける方略でもなかった ろうけれども、生涯遊んでいても空腹にならぬ禁呪《まじない》にした者もあったろう。ところが、 文中に嘆息してある通り、「当時諸宗一合しても、日蓮宗の盛りには不レ及候」とい う景気なのだから、同じ剃髪するのも、お題目の方がいいというふうであった。それ に、念仏は往生極楽で、後世のための修行、題目は現証利益《げんしようりやく》で、今が今の祈薦願懸 けの霊験があると思い込んでいる。負けない気で、念仏宗も、安永・天明からは、法 談にも著述にも、称名の現世利益を説き、祈念祈薦の効能を吹聴《ふいちよう》もした。その例も多 いが、文化十三年十月二十三日、西丸御簾中、有栖川中務卿|織仁《おりひと》親王の御女|楽宮喬 子《ささのみやたかこ》が三度目の御産の時、徳本行者染筆の名号を嚥《の》まれて、早速姫君の御誕生があった と騒いでいたなどは、最も適切であろう。徳本行者の日課念仏を優先に誓受した歌 橋・飛鳥井は、増上寺の書面を見て、  御文の様拝見致まいらせ候、まづく上々様御機嫌克被レ在候御事、御めでたくあ  りがたく存上まいらせ候、弥御《いよいよ》手前様にも、秋冷之時分御障もなされず候御事、  御文承り御目出度悦まいらせ候、さ様に御座候へば、御別紙御書付一通御廻しなさ  れ、早速拝見致候、誠に申べき様も御座なく候、御尤に存候、難レ有御筆にて、上  の御為と申、何も御書付の趣かしこまりまいらせ候、誠にく此度の所ふかく御痛  心御座なされ候事、上へ対し奉り、誠に恐入候御事に御座候、此程内より林肥後守  殿(御側衆四千石、忠英)此度之御事度々厚く御世話御座候て、追々大奥より市ケ  谷に懸合に及び候処、剃髪被二仰付}候油、目蓮宗の者ども改宗致候由、治定致し  まいらせ候御事に御座候、わたくし共も、大にく安心致まいらせ候、此段御悦  被二成下一候様早々申上候、くれぐれ御書付之趣御尤に拝見申上まいらせ候、恐入  候御事に御座候、右御書付、長く心得の為、此方へ留置申候故、御返し不レ申候、  此段御断申上候、段々厚く思召上られ候事、何もくいろく難レ有き御儀と存ま  いらせ候、御書付の通り、酒井若狭守殿(忠進、西丸老中)、林肥後守どのえも御差  図のよし、是また承知致候、何もく御返事まで、早々、めでたくかしく。 と答えた。御本丸の念仏組は、家斉将軍の周囲だけでなく、手を市ヶ谷の御主殿にま で伸べた。それも、「大奥より市ヶ谷へ懸合に及び」という権幕で、御本丸風を吹き 掛けた。それで、剃髪の許可を得るには、従来日蓮宗であった者でも、尾州家の帰依 した禅宗にならねばならぬことにした。こうしたありさまであったから、柳営の奥深 くのみ生活するものと考えては、御殿女中を諒解されるわけのものではない。世間へ 及ぼすその勢力は、意外に広くかつ大きい。特に、江戸の宗教の上に、御殿女中の勢 力は偉大の影響を及ぽし、よく一宗の興廃を容易にした。こうした問に、念仏組の大 頭目お万の方は、天保五年十二月二十五日に死んでしまった。お万の方は、家斉将軍 の十六の妾中でも優先《まつさき》の寵女で、義妹種姫付の中繭であったのに、寛政元年三月二十 五日に、淑姫を産ませたのである。家斉の夫人は島津薩摩守|重豪《しげひで》の女|室子《ただこ》で、寛政元 年二月四日に結婚した。その時に、お万の方は懐胎九箇月であった。その後七年間に、 男女三人の所生があったけれども、皆成育しない。寛政八年以後に所生のないのをみ れば、寵愛が衰えたのかもしれぬ。偶然であるかもしれないが、お万の方の死ぬ前年 に、感応寺一件が発生している。無論お美代の方一人の力とはいわないが、文政にな って、御本丸は題目組にほぼ統一されたらしいのは、全くお美代の方を算盤のほかに もおかれまいと思う。 感応寺の奪還  徳川十一世は、五十一年間征夷大将軍であった。天保八年からは大御所様で、浮世 を外に、西丸の歓楽の中に暮した。政治に倦んだのだともいわれた。就職の初め、寛 政の三忠臣という松平越中守定信・本多弾正少弼|忠壽《ただかず》・加納遠江守|久周《ひさちか》が窮屈な改革 沙汰、定信は去っても、松平伊豆守信明・大久保加賀守|忠真《ただざね》が出てきて、一向我盤を させない。文化になって、田沼|主殿頭意次《とのものかみおきつぐ》の相棒で名高い水野出羽守忠友の子|忠成《ただあきら》が、 徐々に手腕をみせた。「水の出て元の田沼になりにけり」、彼は通貨改鋳を決行して、 文化・文政の江戸を昏酔させた。徳川十一世は、水野忠成を獲て、遠慮なしな牛活を 始めた。お美代の方は、実父日啓のために機会を規っていたが、四十八号の千三郎の 眼疾、これを究寛《くつきよう》として、中山智泉院の御加持をさせ、早速御平癒とありがたみをつ け、ひそかにその次の機会を待った。天保五年、水戸の烈公の畝傍山陵修築の建言の 中に、「此度感応寺御建立の儀杯は、西丸様(当時世子であった家慶)御厄年故にも 可レ有レ之哉、又は御武運御長久の御祈願にも可レ有レ之哉と推察いたし候」とある。 寛政五年生れの家慶世子は、この年あたかも四卜二歳であった。口実さえあれば、お 美代の方の境遇で、しかも英れた才気がある、内外に呼応する役人等も多い、日啓を 安置する場所くらいを持えるのは、何の造作もいらぬ。新寺の創建を願わずに、何の ために谷中感応寺の復宗を望んだか。安永以来、この寺に富突が公許されていた。お 美代の方が感応寺に目星を付けたのは、ほかでもない、富突から獲る利得をもあわせ て、櫻ませたかったのであろうが、 たい、と出願させた。 とにかく、 表面からは、 池上本門寺の隠居寺にし 行厳院の抗議  元禄四年四月二十八日、谷中の感応寺、三田の中道寺、碑文谷の法華寺、四谷の自 証寺、千駄ヶ谷の寂光寺の当住が、不受不施義《ふじゅふせぎ》を執する科《とが》によって遠流に処せられた 時に、上野の御門主|大明院宮《だいみよういんのみや》公弁法親王が、五箇寺ともにお預りということになっ たから、日蓮宗を改めて天台宗になった。それから百四十余年後の天保四年十一月五 日、上野の執当真覚院が、寺社奉行脇坂淡路守|安董《やすただ》の屋敷へ呼ばれ、「此度谷中感応 寺事、格別之訳を以、日蓮宗へ帰宗可レ被二仰付一候、両宮御承知に候は父、当住は転 住被二仰付一寺院之儀老、夫々御助成薄く不二相成一候様取計も可レ有レ之哉に候、両宮 思召相伺可レ被二申聞}候」と内意を伝えた。一応評議の上、七日に、真覚院は宮(自 在心院舜仁法親王)の御請書を脇坂の手許まで差し出した。しかるに、御雇従《おこしよう》の院家《いんげ》 行厳院は、もってのほかの儀である、感応寺は並々のお預けと申すではない、感応寺 日饒が、不受不施の執義の故に、当山へお預けと成ったもので、大明院宮の御思召を もって、寛永寺を延暦寺とすれば、感応寺は鞍馬に擬《なずら》うべきわけゆえ、毘沙門天をも 安置された由緒を、にわかに移動すべきはずがない、それを、一山の評席が知らずに、 御請書を呈出するとは言語道断だ、とあって、十日に執当不穿馨の段を陳べ、感応寺 復旧には不同意なる理由を詳述した書面を出し、十一日に脇坂邸に至り、鞍馬を滅却 するは延暦寺の破壊なり、感応寺を復旧するは、叡山に擬して寛永寺を創建したる素 意に乖《そむ》く、今度の御内意は上野を遺棄されると同様である、と強硬に抗議を唱えて、 脇坂の手から、七日付の御請書を取り戻した上に、十七日に、日光准后宮御使として、 元光院は、老中松平和泉守|乗寛《のりひろ》へ、「谷中感応キリ儀、此度格別之訳を以、日蓮宗に帰 宗可レ被二仰付一候間、右者、元禄年中大明院宮御職務中、天台宗に被レ為レ成進候節、 御城擁護比叡山鞍馬之例に准じ、開祖伝教大師彫刻深秘之毘沙門天霊像安置、永世公 儀御祈薦修行之道場に相定、元禄度新に御失印も被レ下候、格別之訳柄も有レ之候寺 院に付、何卒是迄之通被二成置]度旨、厚被レ為一頼入一候事」という御書付を差し出さ れた。当時の機密を書いた『あつめ草』には、「右は全く左様の思召には無レ之候得 共、御広敷向《おひろしさむき》より厚く御願に付、被二仰出一由には有レ之候得共、強ての事にも無レ之、 尤京都村雲の御所と申、日蓮宗の尼寺を、右感応寺に再建致候企にて、是迄年来の志 願の由、右願成就致候は父、三十万両程公儀御益に相成候様にと、大阪表にて金主有 レ之候由」とある。文政四年からは、富突の公許がとみに増加し、江戸で毎月開催の ものが五箇所、年四回興行のものが二十六箇所になった。感応寺の富は、勿論毎月開 催である。年額三十万両の幕府の利益というのは、ただ、感応寺が元禄の昔に立ち戻 って、日蓮宗になったって、そうした財源が出てくるわけはない、富興行についての 計画を言外に潜めてでなければ、そんな申し立は出来はせぬ。折角の策略も、行厳院 の抗議で腰を折られた。旧例古格を尊重する幕府は、五代将軍が仕置かれた感応寺お 預け、認承された毘沙門天勧請、まして、三代将軍の寛永寺草創の意義を、放棄する とはいわれない。天保四年十二月十二日、池上本門寺、差添二本榎朗性寺に対して、 「谷中感応寺帰宗之儀、前以て思召を以感応寺帰宗之積にて、一寺新規御取建被レ成 候間、可レ致二末寺一候旨被二仰渡一候」と達し、谷中の感応寺は護国山天王寺と改め、 新寺へ長耀山感応寺という名を与えられた。一体、寺号を望んだのではないのに、た だ名前だけ貰うようになった。従って、眼懸けた富突はフイになってしまったが、何 といっても、お美代の方の根本策、親仁日啓の安置だけは、さすがに妨害されない。 翌六年五月二十三日、新寺建立の敷地として、雑司ヶ谷鼠山の安藤対馬守の下屋敷二 鼠山感応寺(東都本化道場記) 万八千百九十三坪七合五夕を下され、七 年九月から工事が始まり、当時の狂詩に、 「感応再建千本突、奥向女中亦搬レ土」 とある。翌年の春に造営を畢った。この 新しい感応寺の結構は、僅かに、天保十 、年十月刊行の『東都本化道場記《とうとほんけどうじようき》』の挿 画と記載とによって知られる、その文に、  鼠山 寺領三+石 一本寺 長耀山感応寺  開山日源聖人、元禄年中天台宗となり、  大保七年、依二台命一御再建、中與池  上四十八世日万上人、祖師堂尊像は如《ぢよ》  水の作、公儀御普請。  有徳大君御鼓被レ為レ打候旧跡あり、  稲荷杜は安藤侯の屋敷の時よりあり。  鐘楼、鼓楼  寺中源性院、一如庵 とある。世間では鯛の味に讐えて賞美した椎萱髭《しいたけたぽ》、しかも、驕慢な御殿女中が、鼠山 の千本突には出て来て、土搬《つちはこ》びをした。その評判、その見物は、大体なことでない。 幕府は、お美代の方のために、親仁の日啓坊主を安置するのに、莫大な工費を支出し、 入院の御礼は御白書院、年頭の御礼は大広間独座と、破戒無漸な助平坊主を、大名扱 いにしなければならなかった。鼠山の新感応寺へ安置のため、仏師を御本丸へ召し寄 せて、家斉将軍の等身に、日蓮上人の座像を彫塗させ、その面貌をも似せた上に、鎧 下を着せて持え、それに法衣袈裟を着せた。家斉の似顔のお祖師様の像は、池上本門 寺に納め、更に鼠山へ寄進されるというので、何にもあれ、将軍家の御奉納、通過す る路筋は、歯簿《ろぽ》正しく、警躍厳めしく、往来止めをする騒ぎ、江戸の宗旨は日蓮宗ば かりのようにも思われ、真に、一天四海皆帰妙法の観をなした。現在では、この家斉 の肖像と見るべきお祖師様は、市外柏木の常円寺にあると聞いて就見したが、木像の みか、感応寺の旧図、その他も厳存している。 智泉院の寄せ祈薦  日啓も鼠山へ据り込むまでには、だんだん道筋がある。彼が若い時分は、牛込七軒 寺町(今の弁天町八十一番地)の正栄山仏性寺に、役僧を勤めていた。この仏性寺は、 昌平橋内に住む御小姓中野清茂の菩提所である。猜才に富んだ日啓、中野の屋敷へ出 入りする問に、娘のお美代を奉公させておき、中野を宿にしている御本丸御年寄伊佐 野と懇意になったのを縁に、今度はお美代を御十生丸の奥ヘ出すようにした。それから、 智泉院の住持になると、あたかも御本丸を引い.η、閑散な伊佐野を丸めて、御年寄の滝 山・野村・瀬山、御客応答《おきやくあしらい》の花沢、表使《おもてづかい》の岩井喜滝沢・島田、御伽坊主の栄嘉、御台 所付の御年寄花崎、御客応答の染岡・波江などを信者にした。文化の初めには、智泉 院の護符を、家斉将軍にも御台所|皇子《ただこ》にも、内々ながら差し上げるようになり、文政 三年九月には、中山法華経寺を御祈薦所とし、御法用は智泉院で取り扱うことになっ た。やがておてうの方(享姫●時之助・虎千代・友松・斉荘・和姫・久五郎生母)●おる りの方(斉温・泰姫生母)・おいとの方(琴姫・永姫・斉省・斉善・斉宣生母)・お八重の 方(斉朋・盛姫・斉裕・斉衆・斉良・斉民・喜代姫・信之進生母)と娘のお美代の方、都 合五人の寵女がしきりにありがたがる。家斉夫人付御年寄花町、御中萬頭すま浦、御 中蕩鳥沢・杉岡、家慶付御年寄浜岡、御客応答志賀山、峰姫付御年寄久米浦、浅姫付 御年寄染村、溶姫付御年寄染山、家定付御年寄浦尾・岩岡、御客応答園岡などの高級 女中が参加して、題目組は大いに党勢拡張し、御主殿・お住居方面へ御札護符がはい り、奥向きでの御加持はすこぶる盛んになってきた。智泉院が御加持を承り始めた頃、 家斉将軍は、例ならぬ容体になられた。御付の花沢は、大帰依のことであるから、早 速智泉院へ、何かお障りでもありはせぬか、と寄せ祈薦を頼むと申し越した。ズク入 日啓は、ここだとばかりに大喜び、取り敢えず、寄せ口の趣を申し立てた。先年、田 沼主殿頭意次、上様を一橋御屋形より御本丸へお迎え申し上ぐる勘《みぎり》、かねがねこのこ と成就の上は、御城内へ秋葉一社造立の心願を立て、首尾よく十一代将軍には成らせ られたけれども、主殿頭は斥鷺《せきちゆつ》されたので、秋葉杜勧進の御沙汰は今日もない、これ 一つ。一橋より御相続に相成ったのも、十代家治将軍の世子家基卿が、十八で早世さ れたためである、それも家基世子が新井へ放鷹の途上で発病し、帰城の暇もなく、駕 籠の中で卒去された、その果報拙き尊霊が、今の栄華な上様をお羨しくお思召される、 これ一つ。お障りはこの二件である。家基は良死でない、駕籠の中の捻り声が凄じか った、と伝説されてもいる。長局に怪談は付きもの、脅して抱き付かせる呼吸は、さ すがに日啓ほどあって、いかにも御殿女中に当て嵌めた持ち込み方である。安永八年 二月二十四日の家基の死は、伝説とともに、女÷等の頭脳に、怪しく深く記憶されて いるから、巧妙な日啓の持ち込みを、ゾッとして請け取った。いよいよ明年は孝恭院 (家基)様御五十回忌という文政十年になって、大奥の不安はますます増長してくる。 足掛け七年も、折々女中等から吹き込まれる。家斉将軍も変な気がしたらしく、にわ かに「法華経要文」を腹籠りにした二魑の木像を彫塑させた。一体は家基、一体は家 斉、それを智泉院へ下付して、若宮八幡に崇め、6せることになった。その杜殿が中山 法華経寺の境内徳ヶ岡へ造営され、五十三石の御朱印も頂戴し、御別当守玄院も建っ た。日啓はうまうまと守玄院へ据《すわ》り込んで、真赤な舌を吐いたであろう。天保九年三 月、もう家斉は大御所で、西丸におられた。その西丸が炎上した後で、西丸付老女か ら日啓に対して、来る二十三日、仏性寺ヘ出頭せよ、と通じた。日啓がいってみると、 御年寄の野村と表使の島田がいて、この後御火難のないように、西丸の御庭の内へ秋 葉社御勧請の思召しがある、登城の上お場所を見分し、方位等を考えて言上するよう に、との内達を聞いて、先年寄せ祈薦の節に、二つの障りを申し上げた、残りの半分 も物になるのだなと合点したが、チト年数物になったから、ここで色揚げをした方が よいと思い付いた。日啓は真顔になって、いかにも秋葉の崇りも恐ろしゅう存ずる、 寛政五年六月二十四日、西丸御広敷御建広げの勘、山里のお庭にあった古木の楓をお 伐り払いになると、同時刻(酉上刻)に竹千代様(第三号だが長男である)が御逝去に なった、楓と申せば秋葉でござる、などと一席弁じた。この秋葉社の造立後は、毎月 二十三日に御法楽とあって、日啓は必ず登城していたのみならず、なお、市中に火気 もあるやに存ぜられる、この上にも、御本丸炎上のほども計り難い、御信心堅固、御 祈薦専要、と都合のよいような脅し文句を聞かせておった。 長持の中の女人形  天保八年四月二日に西丸ヘ移られた家斉将軍は、大御所様に成りすまし、お美代の 方の嬌勢は狙獄《しようけつ》を極め、題目組の艶炎は猛烈になってくる。出来たての感応寺へは、 奥向きから御代参というので、多勢の女中が鋲打乗物を列ねて、永当永当の御参詣。 この時の景況を、『燈前一睡夢《とうぜんいつすいむ》』に、「世上にて延命院の事跡を喋々すれども、此の感 応寺の不将不始末不届に比して見る時は、日道、柳全が罪悪は、所謂大倉の梯米《ていまい》な り」といってある。延命院日道が女犯の科で死罪になったのは、享和三年七月十八日 で、彼は、坂東三津五郎・市川男女蔵●沢村源之助・岩井粂三郎を寺ヘ招いておいて、 大奥女中の饗応にした。鼠山の僧中は、別に人手を借りなかったが、老僧、若僧打込 みで、懸命に女中等を取り持った。寺杜奉行の文書によれば、高級女中の内でも、家 斉付の御年寄で、西丸へゆかずに、家慶将軍付考、女の首席になった瀬山、家斉夫人付 御年寄花町の両人が、鼠山参詣の選手であって、お美代の方の召仕いひわ、西《ちち》丸|御次 頭《おつぎかしら》勝井の召仕いくに、御《 ち》本丸御客応答志賀山召仕いでん、溶《 ち》姫付御年寄染山召仕い りと、長局の用達に出入りするれん・まちが、種々斡旋をしたとある。西丸老中脇坂 中務大輔|安董《やすただ》、坊主退治で名高い人だけに、鼠山信仰に注意して、大目付の検断を促 した。女中等は、御代参のほかに、自分の参詣を願い、その上に、衣類へ加持を頼む とか、寄進をするとかいって、しばしば長持を感応寺へ搬ぶ。その長持を、大目付が 審検すると、生人形の女が出た。これは穏便士義の役人言葉であろう。正徳の昔に、 中村大吉が長持の中に潜んで、尾州家の奥へ出入りしたというが、三浦三崎の俗謡の 偲ばれるこの長持、女の方から忍んで通ったとみえる。この生人形の女の一件で、十 二代将軍の大奥の幅ききといわれた瀬山も、天深十一年六月二十四日に、永のお暇が 出て、大奥を逐れてしまったが、奥向きのことだけに、顛末は極秘に付せられた。こ の後は、七ツロという奥女中の出入り口に天秤が置かれ、長持の重量を検定する用に 供した。天秤の存置によって、 残っておったのである。 生人形一件の跡かたは、 依然として江戸開城の時まで 七十一歳の女犯僧  大御所様の西丸生活も、四年の歓楽であった。本丸時代も、文化からは遠慮なく我 儘をしたが、思い切って勝手の出来たのは、西丸生活である。天保十二年閏正月三十 日、六十九度の春を祝した後、お世辞にいわれる千秋万歳を、真に受けていたかもし れないが、ついに、文恭院という詮号を受けることになられた。すぐに、吉例の連歌 に擬して、戯文が出来た。その中に、   思召是から先は出ぬなり 奥向    内願事も止むが重畳 取計   向島石の隠居も淋しくて  権門    おみよもろ共法華三昧  妙法 とある。大御所様は隠居したのだけれども、「思召しにより」という触れ出しが、い ろいろな控制を新将軍に加えた。「内願」といって、西丸女中が種々な要求を持ち出 す。それが大抵思召しに化けて、幕閣を悩めた。「石の隠居」は、お美代の方の養父 中野播磨守が、隠居後に石翁といって、向島に別壁を持えていた。末の一句は、家斉 の衆妾の中で、誰が最も晩年に寵幸されて権勢があったかを、教えるものであろう。 さらに『七福神共善悪申渡之条々』を見れば、     弁 天                    お美代  其方儀、所持の三味線とは事替り候得共、鳴物所持致し、酒宴之席へ取持に出、酌  取杯致し候儀、以来堅く可レ為二無用一候事。     布,袋                    智泉院  其方儀、住持職の身分にて、囲女《かこひもの》を致し、子供|数多《あまた》育て、唐子と名付寵愛致し候由、  不届之至に候、依レ之破戒。     福禄寿                     石  翁  其方儀、隠居の身分として、下屋敷へ鶴など飼置候儀、如何之事に候、以来無用た  るべき事。 とある。世間が、大御所様の亮後、いかにお美代の方の周囲に注意したかが知れよう。 それとともに、「造りもの見れば法華の寺人は今年御難の体ばかりなり」といって、 題目組の凋落を嘲った。それのみでなく、四月十六日、若年寄林肥後守(上総貝淵一 万石)・御側衆水野美濃守(三千石)●御小納戸頭取《おこなんどとうどり》美濃部筑前守(八百石)が不時に 免職になった。「太田(老中備後守資始、遠州掛川)が天下の真中で、林と美濃部をし てやつた、みのがみ五千石た父すてた(水野忠篤の加増五千石を剥ぐ)、こんな肥後い めに太田《ちち》事はない」と、大坂天満の替唄で酒落《しやれ》のめした者もある。一体、幕府の官吏 誕責の先例は、前日に奉書をもって、当日午前十時の登城を命じ、麻上下、服紗小袖 着用で出掛ける。それに、林肥後守・水野美濃守は、何事も知らずに肩衣袴の平服で 登城し、当日は家定世子の御誕生日とあって、御祝肴をも頂戴し、水野は、退出後に、 本所の下屋敷の園庭へ新たに大石燈籠を据えたのを、見分にいく予定であったという。 大御所様の寵臣四人の中の三人が、急激に排斥された。剰すところの一人は、お美代 の方の養父中野播磨守であるが、彼はもう隠居しておった。もし、水野出羽守|忠成《ただあきら》が 天保五年二月二十八日に死なずに、今日まで生存していたら、どんなであったろう。 水野美濃守はお梅の方の兄で、お梅の方が寛政六年五月二日臨終の勘に、一期のお願 いに、甥忠篤の儀を幾重にもお取立てを、と涙を流して家斉将軍に願うと、忘れはお かぬ、汝の前名みのをそのままに、忠篤を美濃守にして取らしょう、と誕雑りの任命 で、八千石の御旗本が製造された。林のように機才のある人ではないが、多分御秘蔵 であったらしい。老中にも揮かられ、諸大名にも恐れられていた三人すら、この始末 になっては、もうお美代の方も何もあったものでない。老中水野越前守は、寺社奉行 阿部伊勢守正弘に命じて、性急に、智泉院を訂発せよ、早速に感応寺を処分せよ、と しきりに馬力を掛ける。天保の大改革を断行しようとする経論を抱いた水野忠邦が、 老中になれた襖子《けつし》はどこから獲たのか、旧領地肥前唐津は、長崎警備の任があるので 老中になれない。老中になろうと思い込んだ忠邦は、転封の方略を最先にしなければ ならなかった。ここに大奥の株連蔓引を求め、幕閣に列するまでの間には、特にお美 代の方のお蔭を蒙ってもいる。けれども、大御所様の嘉後、雄飛の時期の近づいたの を知っては、事功《ことこもつ》を急ぐから、昔のお蔭などを考える隙もない。寺杜奉行の阿部伊勢 守は、ようやく二十三歳であったが、二十五歳一て老中になり、弘化・嘉永の間に処し て、江戸第一の外交家と認められるほどの人物だけに、最も穏和な匡求策《きようきゆうさく》を案出し、 まず、守玄院日啓・智泉院日尚を捕え、日啓の梵妻田尻村文蔵後家りもを尼僧にして 妙栄といわせてあった、それを一時水戸へ隠匿してあったのを捜索し、日尚は船橋の 旅籠屋長兵衛の下女ます(方言に八兵衛という土娼)を買ったのを許発して、日啓を遠 島に、日尚を三日晒しに処する案を立て、毫も奥女中との関係を持ち出さずに、重大 事件を普通の破戒坊主の裁判で済す算段をした。ところが、日啓も日尚も牢死したか ら、申渡しはいよいよ軽妙になって、天保十二年十月五日に、りも・ますの両女を、 押込みにするだけになってしまった。谷中の破戒僧延命院日道は四十歳だが、納所の 柳全は六十二歳であったのを驚いていたのに、感応寺の日啓は七十一歳であった。阿 部伊勢守の処置は巧妙であったから、大奥の濫襖《ぽろ》は更に世間へ知れずにしまった。天 保十三年の『新作知世保具礼《しんさくちよぽくれ》』にも、「汐風喰らつてねぢれた浜松(水野越前守居城) 広い世界を小さい心で、せつかんばかりじやなかくいけねへ、隠居(家斉)の死な れて、わづか半年、立つやた、ぬに堂寺つぶして……」と、倹約のために感応寺を破 棄したようにいってある。りもとますとに宣告のあった日に、鼠山の朱印を取り上げ、 什物は池上本門寺に交付し、敷地を官没し、堂宇を撤去すべき命を伝えた。中山の徳 ヶ岡八幡も、別当守玄院も、同様の命を承けた。またお美代の方の腹から産れた末姫 (加州御主殿の妹)が芸州へ入輿したのを縁に、松平安芸守御願いというので、青山隠 田の熊野権現を同家の下屋敷へ取り込み、身延の七面と芸州の七浦明神を和合して、 末広和合大明神と勧請し、天保十一年六月三日に遷宮を済せ、末姫様御守本尊とあっ て、五十石五人扶持の別当観理院を立て、智泉院の先住日量を入れてあったのも、こ の際一併に撤去された。中山智泉院女犯僧一件といって、僅かに百姓女や私娼を処分 して済す。大山鳴動して鼠一匹飛び出したようづ、もあるが、実は大山を鳴動させずに、 鼠山の七堂伽藍を打ち壊す幕閣の苦心が想いやられる。思えば、文化から天保まで三 十余年の間、六十余州に、宗旨といえば日蓮宗のみのように持て唯させた日啓が、百 姓の後家と首引で結末になる哀れさ、功名富貴しか知らない人間の慾然さ。中山の智 泉院も明治元年に焼けて、大正元年に仮堂宇の建つまでは、跡形もなかった。今日で は、日啓の艶福を偲ぶべきものもない。ただ猪オの悌《おもかげ》とも見られるのは、家基と家斉 の木像が、二個の厨子の中に塵に埋れているばかりのこと。お美代の方は、傾く運命 を大御所様のお隠れゆえと諦めて、是非もなき世の中を、卿《かこ》ち顔しているような無策 無謀の女でない。それまでに、三百年間絶無|稀有《け へ》の闇中飛躍が試みられたのである。 脇坂安董の暴死  大御所様の御中陰が済まない天保十二年二月七日(表向きは二十四日)に、西丸老 中脇坂中務大輔|安董《やすただ》が頓死した。この人は播州竜野五万千八十九石の殿様、二本道具 ある。彼は仙石左京以下を糺弾して、 得て、脇坂は名声|噴《さくさく》々たるものであったが、 中に陞任《しようにん》した。けれども、経歴上、脇坂は坊主の仇敵である。 ける堕落僧から忌避されるのみでなく、    の投げ鞘が招の皮なので名高い。寺社奉    行として、谷中の延命院を処分し、女犯    僧を酷く退治したので恐れられ、天保元    年、寺杜奉行に再任の時、「又た出たと 翻像 坊主びつくり紹の皮」「ふるいたちまた "画 灘出て寺をさわがせる」という川柳もあれ 鰍御 ば、『戯文流行物語』に、「招の投鞘二度    の花、そこで大黒(梵妻のこと)極秘ぶ    つ」ともある。脇坂が再び寺社奉行にな    ったのは、当時の難件であった仙石騒動    を裁断させるために、復職を命じたので 事理明白な処置をした。剛毅果断の称を当時に    果して、天保七年九月二十七日、西丸老            御祈薦と女犯を働き分  御信心の厚い奥向きからも煙たがられていた。 鼠山を衝撃されて肝胆を寒からしめた、林肥後守・水野美濃守・美濃部筑前守・中野 石翁等は、徳川十一世の枢を前に、今や最後(り闇中飛躍を試みようとしては、脇坂は どんなに怖ろしかったろう。「御懇意が積つて御供冥途まで、輪違」といわれ、「地獄 王城にては、閻魔大王相替らず高座に登り、羊図致居候処へ、俄に厳敷《きぴしく》、下たに居 ろくと、鉄棒を立申に付、赤青の鬼共始め下たに居ける故、大王も止む事なく、高 座より下りて下座致し候処に、右殿様は地獄御通抜にて御通り相済ける、然る処に、 |又候《またぞろ》、下たにくと申故、閻魔も不思議と態《わざわさ》々承り候処、全くCDのよし」という落 語も出来た。輪違いは脇坂の紋である。お通抜目一りは徳川十一世の慣用で、堀の内妙法 寺参詣も、水野出羽守の新邸(今の吾妻橋傍Lリ(旧。札幌麦酒会社)、本郷お住居の訪問、 その他にも沢山ある、いずれも、お通抜けというので、実はそこへいったのである。 その通抜けを、地獄に応用したのもおもしろい、大御所様の後から、すぐに脇坂が来 た。脇坂の通過に制止声を掛けたのは、輪違い(脇坂の紋所)ではない、間違いだと 落した。脇坂の死は、老年でもあったから、ただ、有名な人が大御所様に引き続いて 死んだのを、世間では評判したまでのようだが、『燈前一睡夢《とうぜんいつすいむ》』には、大御所様の残 してゆかれた寵臣が、毒殺したのだ、と書いてある。彼等は最後の闇中飛躍に際して、 邪魔払いの一服を進上したのであろう。大御所様の亮後には、西丸の諸役人は、一同 に閑職につかなければたらぬ。栄華に慣れ、驕奢に染った連中だけに、急に閑散の生 涯に移るのが著しい苦痛であったから、闇中飛躍の一味連判帳は、なかなか賑わしい。 内藤安房守・瓦島飛騨守・竹本主水正(これは十二代将軍の寵女おきんの方の養父)な ど、御小納戸組が奮起して、秘計密謀を箒助するに勉めた。それは水野越前守を陥擁《かんせい》 する運動である。水野越前守が大奥に倹約政治を強行したのも、大いに報復の気味が ある。後年に奥向きから突き落される悪因縁は、十一世莞後の闇中飛躍に対する、攻 守関係によって発生した。それに懲りて、奥向きの御機嫌を取って大政治家になれた のが、阿部正弘である。彼等の闇中飛躍は、水野越前守を鷺《しりぞ》け、林肥後守は老中、水 野美濃守は若年寄、美濃部越前守は御用御取次になって、いずれも本丸に転じ、十二 世の下に従来の通りの権勢を続けようとしたのである。西丸の寵臣は、当将軍家慶を、 大御所様思召しというので、手もなく左右してきた。甘くみてもおったから、一気に 自分勝手な運動が成功するものとも信じたろう。 犬千代丸擁立の陰謀  彼等が徳川十二世の御本丸に権勢を持ち続けた暁には、家慶将軍を西丸ヘ隠居させ、 大御所様に祭り上げ、右大将様(世子家定、妙に百を振る癖があって、後に瘡性公方様と さえいわれた)を十三代に持ち出し、十一世の外孫、溶姫の産んだ犬千代丸を加州か ら迎えて、世子に立てる魂胆をした。幕府の継嗣は、八代吉宗から、田安・一橋・清 水、いわゆる御三卿が出来て、だんだん本家・と縁遠くなる三家からの相続を必要とし ない方法が立ててある。貞享に大老堀田筑前山寸止俊は、「頃日松平加賀守と交りを深 く結びて知音となり、紀の国の中将殿をば御智に仕、御親しみを深くし、扱《さて》、加賀を 以て御三家の列に加へ、尾張をたをし申べき心なり」(『御当代記』)といわれて、好人 呼ばりもされたが、徳川氏から婿を取らせて、加州を三家並に引き上げる策で、前田 氏の男子に徳川家の統を承けさせるのではなかった。堀田の権勢、威望、腕力でさえ 出来なかったものを、西丸の寵臣等の計画は、拙田以上の難件である。幕府にしては 破天荒の新作業なのを、顧みなかった彼等の盲勇も凄じい。大御所家斉が重体になっ た頃から、寵臣等は、一味以外の者を病床に近つけなかった。寵女の中でもお側へ出 られなかった者もあるのを、御台所も怪しゅう…忠われた。ところへ、美濃部筑前守が 認めた御遺命の御墨付が、美濃部から中野石翁を経てお美代の方の手許へ来て、お美 代の方から御台所|官《ただ》疋|子《こ》の御覧に入れた。表方へ出さずに奥向きから発表しようとした のは、随分駆け引いたものさ。御墨付には、家定の嗣子に犬千代丸を迎えよ、とある。 あいにく、御台所様がその手に乗らないのみか、それを証拠に、家慶将軍へ、西丸の 近臣等の匪謀を告げられた。世子家定は愚昧でもなかったが、巌弱《るいじやく》な身質で引っ込み がちだったから、すこぶる窒塞《ようそく》されやすい境遇にあった。この人は養子問題に悩む宿 命があったのか、ついに猛烈な継嗣争いの中に莞去された。家定毒殺の秘計は持ち越 しになってもおったのか、大御所様の亮去の前年(天保十一年)秋頃がら、世子家定 は、一人で西丸へ参入されぬ、きっと父君十二世と同行であった上に、西丸では一切 飲食されなかった。本丸でも警戒して、西丸からの飲食物は、決して受用されないこ ととしてあった。十二世は、大御所様亮去の後は、油断のない体であったが、大御台 所の密告に驚かれたのか、四月に入っては、太田備中守●水野越前守を召して、お人 払いで内議の数も度嵩なった。この頃であったろう、御朦中の御徒然を慰め申すべき ものを、認めて差し出せ、と奥儒者成島邦之助(後に図書頭司直、柳北の祖父)へ命ぜ られたのを機会に、『老のくり言』一篇を草し、もっばら、君側の小人が横柄を私す るの弊を論じた文章を進覧して、立身の端緒を得たのも。かねて匪謀に加担していた 奥医師某は、急に反忠《かえりちゆう》をして、従来の計画を十二世に直訴し、もし御英断がないなら ば、身命を批《なげう》ち、二十一日殿中において、水野美濃守・美濃部筑前守を刺し殺します る、と言上したので、さすがの家慶将軍も落着いてはおられず、矢庭に前代の三寵臣 を免黙《めんちゆつ》してしまったのである。折角の闇中飛躍は、全く最後の努力であったが、一敗 地に塗れて、また起つべき気力もないほどにや^、付けられた。酔いが醒めたような体 裁になっても、水野忠篤は執念を絶たなかったか、内藤外記の妻になっている娘の手 で、大井村の修験教光院を呼び寄せ、水野越前守を呪誼させた。彼の御祈薦熱が思い やられる。苛察《かさつ》で後世にも知られた町奉行鳥居甲斐守が、そんなことを脱《のが》すはずもな い。教光院はたちまち捕えられた。新義異流の祈薦をした科に擬せられ、七月一`日に、 水野美濃守は、行跡よろしからずとあって、更に蟄居を申し付けられ、翌年六月二十 九日には、諏訪因幡守へ永預けになった。お美代の方は、水野美濃守等の廃黙で、持 ち合せた怜倒も、効能がないことになってしま'ノた。三月二十三日、うた・てふ・や え・いと・るり等の衆妾とともに、御遺金《ごゆいきん》二百両と、  文恭院様御在世中、年来出精相勤候に付、上鴉年寄上座に被二仰付(御充行《おんあてがひ》上繭年  寄並に被二増下→別段御手当金三百両充被レ下候、且又、剃髪相願候得共不レ及二其  儀→摘髪《つみがみ》被二仰付一候、御切米《おきりまい》五十石、御合力金六十両、御扶持方十人扶持、薪二  十|束《そく》、炭十五俵、湯の木(五月より八月迄二十束、九月より四月まで十五束)、五菜銀  二百匁一分、別段御手当年々金三百両充、右之通向後被レ下レ之。 という辞令を頂戴した。お美代の方は、最後の運動には、大御台皇子を担ぐ腹であっ たのに、かえって策謀を御本丸へ密告される始末に、ザマをお美代と、念仏組に目引 き袖引き、笑われたあげくの果てに、自身も押込めを命ぜられた。いかに凋落の秋|閲《た》 けたにもせよ、望んで遂げられないことのなかった昨日に忍びない。老中も奉行も、 厚化粧した顔色の見分けられないのを心配させたお美代の方が、身を窄めた一室に監 禁される口惜しさ。からくも溶姫様御願いと持えて、本郷御主殿ヘ押込めとなって、 赤門の内へはいり込み、門外へは出られないが、内実はすこぶる優待厚遇を極めたと はいうものの、これから後の年ごとに、花も紅葉も浮世にはありながら、お美代の方 には春も秋もなかった。 四向島の石隠居  鹿児島の殿様島津薩摩守|重豪《しげひで》、隠居しては栄翁といって、大いに豪快がった人であ った。それが家斉夫人皇子の父で、十万両献上などと、酒落たことをしたが、一時は 薩藩も大分苦しかった。内縁を伝手《つて》に、厘門《アモイ》の密貿易をする資金三十万両を、金鉱開 掘の名義で幕府から借り出し、後には船商いで、巨大な利益を得て、福々大名になれた。 この利得が懐中に温めてあったから、嫡孫|斉興《なりおき》り代に、お由羅騒動を撞《もた》げもするし、 曾孫の斉彬《なりあきら》●久光の時になって、倒幕の事業も起せたのである。それが皆娘のお陰な のである。お陰が過ぎるほど大きく与えた幕府は、この時のみ鷹揚であったのではな い。先例、後例、甚だ鮮やかなものが多い。痩坊主の日啓さえ大名扱いにされる世の 中に、持高は三百俵でこそあれ、代々御小姓を勤めて来た中野播磨守清茂、お美代の 方の養父だものを、文化三年六月、御小納戸頭取に転じ、文政六年十二月二十二日に、 五百石に加増され、十年十二月八日に新御番頭格、二千石高、奥勤如レ元と昇進する くらいはいささかな話。変通の才のある中野は、天保の初めに、隠居して責任の地位 を避けたが、勤務は前の通りで、宿直さえも欠かさなかった。彼は、隅田堤、今の大 倉の別荘の所へ、抱邸を新築し、「花も見むいく春こ、に隅田川たぐひもなみの恵な りとは」などとすまし込み、名をも石翁と改めた。石翁の用人山本三次郎が、船橋の 旅籠屋市兵衛の次男で、お美代の方には甥に当る男だというのも、見逸されぬ。この 石翁を輝って、花見に出た若い旗本・御家人等は、わざわざ秋葉の方へ迂回したとや ら。何故にかく別塁の前を通るのさえ嫌ったか。「石あたま加賀(老中大久保加賀守忠 真)、周防(老中松平周防守康任)とも歯がた、ず」といわれ、「葵沢潟《あふひおもだか》虎の皮、御馬 が三疋何ぢややら(老中水野忠成が葵の御紋を許され、虎の皮の鞍覆御曳馬を拝領し、権 勢第一なのをいう)、金を取るのが権家の御役、仲間たらしの石坊主」といわれ、隠居 しても老中を凌ぐ権勢を持っていた。天保四年の『当世千代保《とうせいちよぽ》くれ』には「ヤレく 今時、役替する気の兄さん、聞ても置ねへ、今度長崎御奉行が明《あい》たり、夫から大坂、 其又となりの堺があいたで、世上の間ぬけがやたらに気をもみ、とふく駿府(勤 番)におつしめられたり、大手(老中水野忠成の本邸)の伯父さん、呉服橋(若年寄林 肥後守邸)の兄さん、駿河台(中野石翁本邸)の坊さん、小川町(御用取次御側衆土岐 豊前守、白須甲斐守の邸宅あり)から桜田辺(水野美濃守邸)まで、まごつき歩行《あるい》て、 すべつてころんで勤めた計りさ、今時や池すの鯉や鱒や鰻は、おんでもない事、一寸 時候の御見舞なんどに羽二重縮緬五匹十匹、菓子折袴地なんのかのとて、名目計りで 生で握らせ、百や二百の小判はチヤアフゥ、夫も薬の加減がわるいと、功はなさずに、 薬毒のこつて、勝手は内損、あげくの果には、勤道具も、どふやらかふやら、なくし てしまつて、諸大夫(旗本出身の幕吏は五位の諸人夫に至るを極度とする)処か、其身 は】生、ほヲいほい(第二等の立身は布衣以上、第三等を目見以上、第四等を目見以下と いう)」。猟官運動は賄賂の盛行をきたし、それが大御所様の寵臣に向って集中する。 旗本や御家人の猟官運動の贈賄は、多寡の知れたものである。中野は大名の猟官連動 を封巾助した。真田信濃守幸貫は白河楽翁の外孫4、、一寸評判男だったが、いまだ定例 の京都所司代か、大坂城代かを勤めない内に、老中になろうとして中野を頼んだ。松 代藩は貧乏であったのに、中野が心安く引き受汗)たので、借財までしてしきりに賄賂 を搬んだ。家中ヘ渡す扶持米給金に差し支えるほど注ぎ込ませた上に、中野は、お気 の毒だが先例がない抜擢ゆえ、周旋いたしかねる、と逃げた。先例のないのは初めか ら知れている、何か一物あって松代を絞ったのでもあろうが、大名でもこうした目に 逢う。けれども、中野によって成功した老は多い。水野出羽守の時から水野越前守の 時代へ掛けて、本尊の大御所様のある間は、猟官漁位には著しい御利生があったとみ えて、当時こうした引札を戯作してある。      乍レ輝書付を以奉二申上一候 、各様益御機嫌能被レ遊二御座→恐悦至極に奉レ存候、随而《したがつて》私役向之儀者、御蔭を 以日増に繁昌仕、冥加至極難レ有仕合奉レ存候、尚又当十二月上旬より、諸品相 改下直に売出し申候間、不レ限二多少一御用向被二仰付一被レ下候様奉二願上一候、尤 某御家柄に不レ拘、御用向被二仰付一候御方は、御外見御外聞共、宜敷様御為第一 に相考、御用向精々出精之内、成就仕候様差上申候間、御願競被レ遊可レ被レ下候、 依レ之諸品御直段左之通に御座候。 、 金紋挟箱蓑箱共 虎之皮御鞍覆 御枕鑓拉御打物 宰相之御昇進 中将へ御昇進 大将へ御昇進 代金一万両より 代金五千両より 代金八千両より 代金一万両より 代金五千両より 代金五千両より 右之通に御座候、其外侍従以下御側衆三奉行老不レ及レ申、諸御役々御役付御望 之方者、代金思召次第に、可二相成一出精相働、御役付被レ成候様仕差上可レ申候、 御大名様方御役にても、金銀にて被二仰付一候は父、如何様六《いかやうむつか》ケ敷《しき》御用向にても、 格別に相働き、下直に差上可レ申候、且又、金銀吹替之儀は、元来渡世に御座候 間、兼々金銀座へ申談じ、度々吹替之儀為相願一申候、右古金者高直に頂戴仕 候、新金は下直に差上申候間、何卒御用向不レ限二多少|一無《とどこほ》レ滞被《りなく》二仰付一可レ被レ下 候、遠国へ御差出し被レ遊候御方にても、御徳分と相成候様仕法仕度、別紙御触 之通相違無二御座一候間、無二遅滞一引替被レ遊被レ下候様、呉々も此段|偏《ひとへ》に奉二願 上一候、恐憧謹言  現金掛直なし                     本国遠州浜松 匝                     出張江戸馬場先御門内                     西ノ丸下角 ー                          水野越前大橡     コ                     取次売弘所向島                          中 野 隠 居 |追而不《おつてとほか》レ遠《らず》奥州棚倉(不首尾の大名が転封先は棚倉ときまっていた。水越の前途を端 摩《しま》していったのである)へ所替仕候間、無二御油断一唯今之内、御用向被二仰付一可 レ被レ下候様奉二願上一候、以上  随分愚弄したものではあるが、中野のブローカー振りは、世間でよく知っていた証 拠になろう。天保十二年三月二十五日の夜、美濃部筑前守の垣根を破って、田口加賀 守喜行が長持五樟の賄賂を持ち込んだ。そうすると、四月十五日に、長崎奉行から勘 定奉行に栄転した。それは家慶将軍も知らずにいられたそうだ。大御所様の寵臣を信 心すると、御利益はこう観面《てきめん》である。同じ十一年の冬の頃、十二代将軍が庭苑を閑歩 しておられるところへ、突然美濃部が来てお側に寄り、何か言上し、御思召し御思召 しを繰り返すと、御思召しにもせよ、余は嫌じゃ、といわれる。美濃部は、懸命に、 御思召し御思召し、と言って立ち去った。四五日して、白鴨|一番《ひとつがい》の献上があった。家 慶将軍は、御小姓荒尾土佐守に、「筑前(美濃部)の口入れで、丹後(土岐)の献上物 じゃ、この鳥二羽でよいことをしたいのであろう」と苦笑いをされたが、果してその 暮に、五百石の御加増があった。こうした振合いなのであるから、同じ寵臣の中野の ことも、推量に難くない。霊験もあるのだから、信心も盛んになる。向島の植木屋平 作は、別塁へ出入りして石翁の気に入りなので、この平作に贈賄をする者が多い。平 作同伴で別壁へ出掛け、笑顔作って平作から口上を言わせ、容易に猟官運動に成功す ることは、珍しくなかったという。他の寵臣とは違って、中野はおもしろいところも あった。別壁の夜番が、時刻を間違えて拍子太を打ち回ると、家来が答めに来た。夜 番は、旦那が持ってござる千両もするとかいう匹洋の時計さえ、時々機械が壊れて狂 うじゃないか、一年三両の俺だものを、たまには時刻が間違っても、安いものだから 仕方もあるまい、と言った。それを中野が聞いて、もっともだもっともだと大笑した。 蒼くなった新五左 近きころのことになんありける、大国領し玉へる諸侯の国につかへまつる二人の武 士ありけり、こたび江戸の館に召されて国を出しが、百余里の道程を経て江戸に付 けり、初て君にまみえ奉ることをはりて、々蔓てれぞれの役儀をぞ受たまはりける、 公事のいとまあることに、城外に出て見るに、目なれぬことのみおほくて、いと興 あるま\に、今日は深川八幡、あすの日は浅草観音と、名所々々を打めぐり楽しみ ける、夏の初め頃、日の永きに朝とく出で、此日は隅田縄手《すみだなはて》を行て、牛島、白髭、 梅若塚、関屋の里など見廻り、此あたりの植木の花つくりが家に入ては、家毎に見 廻りければ、見なれぬ鉢植どもの多く、いと珍らかなり、大きやかなる家は、門の か、り風流にして、座敷の様、籠結び廻せし様、池の作り、石竹いろくの美を尽 せし庭の景色、こなたの家にて見たると、彼方の家にて見たると、又別々の趣あり て、何れが勝れる、何れが劣れるなどかたり合て見るま二に、幾家ともなく見てけ り、最後に入たる家は、殊に門のか工り風流にして、入て見れば、二重の板塀あり て、とみには入得ず、奥の方ぞゆかしとて見廻るに、板戸の開らきてあるより入た り、水そ、ぎ塵はらふ男の三人四人出来て、いづくよりと問ふ、いやくるしからず、 何某が家の子なるが、こたび初て武蔵の国に来にたれば、名所古跡見廻るとて、此 あたり迄来にけるが、植木の花作り共が、心も及ばず手を尽したる庭の面白くて、 一と家《や》くと見てければ、此方は殊に大やかなる構へに見受侍れば、奥の方ゆかし くて、こ、迄は入来れり、ゆるして見せ玉へといへば、こはふしぎの者どもが来に けりと打どよめくを、耳にも留めで、離に添て入けり、主めける道服着たる法師が 是を見て、今の言葉に相違もあるまじ、苦しからず、こなたへといひて入けり、こ れは今迄見しとは、又一きわ立て大きなる石の、いろくなる形あるもあれば、石 の燈籠大きなるに、見も及ばぬ脱物《ぬぎもの》したるもあり、池の廻り松の枝、横に竪に思ふ まにまに作りなして、珍卉珍木《ちんきちんぼく》数をしらず植込めたり、四ツ足の亭に唐木の珍らし きもて彫りたる柱、うつばり、縁板、讐《のさ》のたる木迄、思ひくの珍木を集めたるも あり、大やかなる家の作り、又わびたる家の作り、其所々によりていろいろに作れ り、廻りくて元来し道のほとりに来りて見れば、池に臨みたる家の、美を尽して 作りたる縁前に大石を置、先の法師が縁にこし打懸けて居にけり、扱もく見事な る手入かなとた、へてければ、これにて茶一つまゐるべしといふにぞ、辱《かたじけな》しとお し並んで腰かけたり、清らかなる女の童が茶を汲て持ちて来るに、今一人の女の童 が、見るに目なれぬむし菓子を、玉の器に盛りて持て来にけり、一つまゐり玉へと いふに任せて、手に取り見るに、是も目に見たる事もなき飴の如きもの、煉り詰た るに、砂糖に氷なせるを打砕きてかけたる様なるにこそありける、二人のもの一つ づ、たうべたるに、得もいはれずうまかりければ、茶も二つ三っ乞ひて飲けり、法 師もよろこべる様にて、酒まゐり玉はんやといふにぞ、元より好める所とこたへけ れば、いざといひて縁に上れば、先の女の童が、酒壼、酒づき、其外いろノ\の酒 肴持出たり、武蔵にては、初鰹《はつがつを》とて四月の初より松魚《かつを》を賞翫するよしは兼て聞つれ ども、未だ節に作れるより、外は見しことも無きを、差身に作りて出したれば、問 はで鰹なるべしとは知りけり、玉の鉢に盛り入たるは、名もしらぬもの、色々に煮 染たるを、三品五品取揃へて小皿に取分て、一人一人の前に差置き、酒つぎめぐら してす、めける、扱もか、る富貴なる家の植木の花作りもありけり、人の入来る間 もなくて、か二る珍味を取揃へて出しぬるは、絶えせず客の来ることにや、吾国は 山野なれば、見る事毎に珍らしく、今日程の楽しみは世に覚えなきことに侍るなど 聞えければ、法師はた父うなづく計り、おほく物談《ものがたり》もせで座して居にけり、二人の 者は酒の廻り数重りければ、いと父心よくいろくのこと語り出で、吾国主の庭も よしといへども、手の入方おろかなれば、中々にかくは得及ばず、今日是迄多く見 し家々もこれには及ばず、殊に主の様、又主ぶりもかくは行届き侍らず、且もてな しぶりのみならず、種々の珍味に飽てけり、酒も数盃に及びたれば、今は辞し侍る といふに、一人がいふ、かく迄もてなしぶりよきに、如何なる謝儀の計らひにして 帰らんといへば、今一人がいふ、吾聞及びしは、江戸の風として茶を乞ひたらんに は茶の価を取らせ、酒肴を出したらんには酒肴の価をとらすとこそきく、かLる富 貴めける家にても、其価はかはることなし、吾計ひ侍らんとて、懐中より細金《こまがね》一つ 取出て紙におしつ、み、これは少し計りなれども、いさ、か先程よりの謝儀として、 二人の者より送り侍るとて差出しければ、法師はいなみもやらず、心づかひなし給 ひそ、とて火入箱の上に置けり、二人はよろこびて、おもふに違はず受け納めぬれ ば、吾ながらよく計ひけりとて、いとまを乞ひて立ぬ、一人がいふ、かく迄によき 主ぶりの家は又なきを、再び来りて訪ひもー、)、又何某々々など打連れて来らんに、 家の名を問ひ侍らでは叶ひがたしとて、家の名をとひしに、法師がこれ持玉へとて 札紙にかきし物を出せり、請取て紙挟みに入れたれば後日に見んとて、立出で家に 帰りけり、明けの日は国主の館につかへま(ソる日なりければ、二人の者も出で、諸 人と様々の物語する中に、扱も昨日の遊び程面白かりつることは覚えず、隅田川の 堤は絶景に侍れども、殊に勝れたるは、植木の花作りが家の園なり、そが中にも白 髭の社のこなたなるあたりに、殊に勝れたる目植木師がり立よりて、酒肴のもてなし に預りたるは、又なく心よく覚ゆるなど語るに、諸人問ひ侍りて、その家は何とか いふ家ぞといふに、一人がいふ、札紙にしるせし名を請取たれども、家に残しおき たれば思ひ出でず、一人がいふ、われは名は間ひ侍らねども、座敷の鴨居のうへに、 石摺にしたる大文字を額に張りて懸けたるが、主じの名かと思ひ侍る、しかしとく とも覚え侍らねども、石へんに頁したる字と、いま一字は忘れたり、扱其の家の様、 主の法師の様、細やかに問ふに、答ふるところ其あたりの植木師が家にあらず、諸 人の内に心付きたるものありていふ、先きに聞けることあり、もろこしに沈徳潜《しんとくせん》と いへる人ありて、しか人\の文字を書て額に張りしを、後の人石摺となして、長崎 の津に持て来にけり、こ二にまた何がしといへる有徳人あり、当都将軍の御覚深く て今は仕へをやめて法師となりて、隅田川のつ、みにいませるよし、其名石摺の文 字と音おなじければ、さる人送り奉りしより、額にはりて掛け玉ふときく、其文字 に疑ひなし、其御人ならば、今仕へは止め給へども、常に将軍の御召しにより登城 もなし給ひ、御覚え以前にかはらず、此御人にとり入ることあらば、如何なる望み ある人も叶はずといふことなし、こ、をもていづれの国主城主たりとも、この御名 を聞ときは、おそれ玉はずといふことなし、かの二人がもしあやまりて植木作りの 家と見て、無礼のことあらば一大事なり、とくノ\家に行て名書の札紙もてこよと いふに、二人も大におどろき左なりけるか、当所不按内のことなれば、是非なしと はいへども、云訳もなき粗忽なりけりといふ内に、一人が帰り来て、違はざりけり とて、差出す名札は、まさに其人の名にて有ければ、こはいかにせんと、みな一同 にかたづをのみけり、かくて二人のものをば先家におしこめ置て、国主には告げで、 重役のつかさ人より使者もて、隅田川づ、みの館に言入けるは、国主の家の者なる が、今度国より出たれば、物のわきまへもなく、昨日御館に推参して、上なき無礼  に及びしよし申出侍るにより、二人ともに家におしこめて置て候が、いよくさあ  らんには、如何なる刑に行ひ申べきや、此むわ伺ひのため参越したる旨申入ければ、  頓《やが》て使者の趣取次で申入けるに、使者こなたへよべとて召しけり、おそるく入け  れば、先の二人が申つる法師、しとねの上にありて、きのふ来りしは田舎の人なる  べきが、庭の草木見んと望むに任せて、ゆるして見せたるなれば、決して無礼のこ  となし、おしこめ置たりとは大なるひがごとなり、国主の耳に入べき理《ことわ》りなし、と  く帰りて此趣き申聞けべしとて帰しける、其後は如何になり行て事済けんか、しら  ず、此法師も世を去り、故ありて隅田の花園も、今は田畠となりて跡もなし。  田舎侍が向島の中野の別塁へ飛び込んで、石翁を植木屋の老爺と心得て、茶代の細 金を与えて帰った珍諏を、御書物奉行で名高いμ鈴木岩次郎白藤の長子孫兵衛桃野とい う昌平畏の教授が書いたのである。これを、寛政の咄家石井宗叔にでも、一席申し上 げさせたら、と思われる。この滑稽の中に、向島の石翁亭の様子も、中野清茂の風采 も、大名の狼狽振りも、宛然として見られる。この後繕いは、いわずと知れた苞萱《ほうしよ》で ある。千両取られたか二千両取られたか、この石翁が大御所様御遺命のお墨付きを持 えさせて、江戸三百年に無類の大芝居を興行しようとした、その台本の作者だから驚 く。彼は、清儒沈徳潜の真蹟、「碩翁亭」とある扁額を、大御所様から拝領して、向 島別肇の楯間に掲げ、碩の字の頁を去って石翁と号した。 国芳の錦絵  水野越前守忠邦は、十二代将軍の大奥に蚤縁《いんえん》を求めて立脚地を築き、特に一妾を薦 めて、その寵春を固め、大御所の嘉後に、改革の機会を撰んだ。天保十二年五月十四 日の早朝に登城した越前守は、お人払いを願い、十二世の膝下に進み、備後(太田|資 始《すけとも》)が建白の趣を御許容あらば、私事今日御役御免を願う、また私の献議を御採用の 儀ならば、備後儀は即日御役御免を仰せ付けられたい、と言上した。十二世は大いに 驚かれたが、早速に判断の仕様もなかったので、その方に任す、といわれた。と同時 に、老中太田備後守は免職になった。これは丸で水野美濃や美濃部筑前の型をいった のである。越前守は、自己の政策を妨げる者に対しては、閣僚でもこうした調子で擾 ね飛ばした。その勢いで、御主殿、お住居の経費までも、半減にしてしまう。さてい よいよ難物の大奥へ手を付ける時、上薦年寄の姉小路を説伏しないと、必ず異議が出 でて行われまいと考えたから、自身に面接して、改革の御趣意を縷陳した。姉小路は 子細に聞き取って、ごもっともの儀、至極御同意だ、と答えたので、越前守もホッと 溜息を吐くと、姉小路は、越前守殿に伺いたい、貴所にも定めて御内室や御部屋はお ありでがなあろう、と聞かれて、越前守は気ホ、付かず、お尋ねまでもない、といった。 姉小路は、いかにもさようあるべきはずと存じられる、一体人間には飲食男女の欲は きまったもののように思われるのに、大奥の女山⊥同は、いずれも独身で暮している、 女は人間でなかろうか、男子と同じものならば、一方で欠けたところを、美服美食に 易えて欲情を満足させるのも、よんどころはあるまいかと存じる、この辺の儀は、越 前殿には何とお考えなさるのか、と切り込まれて、返答に詰ったまま、忠邦は御広敷 を逃げ出したという。姉小路は傑出した女であ。[、たから、さすがの越前守を閉nさせ たとのみ考えては違う。状箱の紐がばかばかしく長いから、半分にしても十分用は弁 じる、といったら、それは御寿命紐という、上《らえ  え》々の御寿命を縮めるのは不吉である、 さまで大分の費用でもないのに、縁起でもないことはせずともよろしかろう、といっ て、短くさせなかった無名の女中もいた。貧乏公卿や御家人の娘が立身出世した大奥 女中、同輩|猜疑娼嫉《さいぎぽうしつ》の間を掬《す》り脱けて進んでφく才分は恐ろしい。大名の子が育った 老中とは、下地も違えば苦労も違う、相撲にならないのも無理はない。しかるに、越 前守は、一度この度し難い大奥女中を 制し、特に大奥女中を味方に持った西 丸の寵臣を駆除したのは腕前である。 彼は大事に当るには人物が小さ過ぎた。 あまりに事功を急いで、手段を選まな 過ぎた。ついに、奥向きから致命傷を 負わせられたが、とにかく根ざしの深 い西丸の寵臣だけは、征服してしまっ たのである。天保十四年、越前守が蹉 蹟《さち》した頃に、『源頼光公館土蜘作妖 怪図《みなもとのよりみつこうやかたつちぐもようかいをなすず》』という調刺の錦絵が発行された。 頼光は十二世、季武は越前守(沢潟の 紋)に見立て、土蜘の額上には、廃調 された矢部駿河守の紋所を隠し、妖怪 の中には、天保の改革で困懸した者を のつもりでもあったろうが、気味のいいことをしたものである。 蹟よりも先に、天保十三年五月十二日、 た牛込七軒寺町の仏性寺へ葬られた。この寺も、 大法寺へ合併され、巫山《ふざん》の雲雨の跡も、 もない。哀れや、堀の内の墓域に、中野氏の碑碍はただ一基、 いる。高運院殿石翁日勇大居士という法名も 石は売り払われたとやら、さしも化政時代に豪著闊達であった大御所様の寵臣も、    描き、景物心でお美代の方や中野石翁、    感応寺も出ている。中野は、天保十二    年五月十五日、享保●寛政の御趣意に 萄 よって新たに改革される趣を発表され  同 ろと、数寄を尽した向島の別塁を、一  (    夜の中に破壊して、翌朝は畑地にして    しまった。痴癩紛れでもあったろう。    遅れて察度《さつと》されるよりも、一足お先へ            そして、越前守の蹉 七十四歳で没して、かつて大奥女中を籠絡し     五六年前に市外堀の内村字松の木の 大正式尚り借家が建ち、神女の矯夢を尋ねる術           斜《ひけつを》陽蔓草の中に立って   、過去帳の上に残ったばかり、数多い墓                    権 威に誇った時だけの人、 ない。 今では誰も記憶していないどころか、 香火を供する子孫さえ 五法華駆け込む阿弥陀堂  赤門の内に封じ籠められたお美代の方は、御本丸を逐われて一年の間に、実父の日 啓が牢死し、養父の石翁も死んでしまった。闇中飛躍にも失敗したが、外孫に当る犬 千代丸は、十四代将軍になれなくっても、いながら百万石の相続人なのを思い出に、 これから後の月日を暮した。しかるに、溶姫様はお国入りになって、遠く加州金沢へ ゆかれることになり、余儀なく、お美代の方は赤門を出て、末姫の扶持を受けること になって、霞ヶ関へ引き取られたが、間もなく末姫も本国芸州広島へゆかれるので、 頼む木蔭に雨が漏る。詮方なしに、本郷邸へ扶助を願う身の上になった。加州家でも 棄ておけないから、下谷池之端に住む奥坊主平井善朴の家を借り入れ、お美代の方を 住まわせておいた。この間に、溶姫も金沢で逝去され、唇気楼の消えるように幕府も 亡びて、無禄移住の旗本●御家人が住み慣れた江戸を離れて、駿府へいってしまった 143 帝国大学赤門由来 後の淋しさ、見渡す世間のありさまも、お美代の方と御同様。それでも加州家では、 明治二年の四月からお美代の方を本郷無縁坂の講安寺に移し、足軽二人、昼夜寺内ヘ 詰め切りという待遇。  一、三十三両一歩  上白米《じやうはくまい》三石六斗代     但、専行院(お美代の法名)、飯米一日一升、一月三斗計りにして、一年分総     計なり  一、百七両二歩    中白米十二石六斗代     但、附女中七人、飯米一日三升五合、一月一石五升計りにして、一年分総計     なり 、 百二十両     専行院手当金  但、一月十両宛、一年分総計なり 二百五十両    附女中七人手当金  但、一月一人三両宛、一年分総計なり 百五十両     別途扶助金  但、従来年々附給額     外に五十両    講安寺堂内借賃一年分      計七百十両三歩  零落したお美代の方は、御厄介になる時代がきても、付女中の七人も使っていた。 この時分は、民間の下女ならば、年給七八両は貰えないのに、月給三両といえば、普 通な碑女ではなかったのが知れる。船橋の八兵衛屋の妹として江戸へ出たのや、堕落 坊主の内証子に生れたのは、忘れもしたろう。三十余年の大奥生活、御本丸・西丸で 生れも付かぬ栄耀栄華に馴れ込んだお美代の方も、こうなっては、朝夕が痛ましいの みならず、老中・若年寄を自分の手足にして、犬千代丸に徳川の天下を取らせる才覚 をさえした昔に対して、感慨に堪えなかったらしい。それで、加州家へもいろいろの 注文を持ち出しては、家職の人達を迷惑がらせ、嬉しがられない厄介婆アに成り果て た。大御所様の茜屍後は、他の衆妾とともに、御位牌を頂戴し、摘髪《つみがみ》になって、法号を 専行院といった。加州御主殿まさ、と書いたものもある。それがおそらく実名であろ う。幕府の恩給がなくなっても、彼は専行院様で食客をしているのだ。それでも、講 安寺が浄土宗だったのが御愛嬌である。「夕立や法華駈け込む阿弥陀堂」、題目組の領 袖お美代の方の最後の住所は、実に念仏三昧の道場であった。 落語のような皮肉  まだ大御所様の西丸が時代の花であった頃、竹尾|善筑《ぜんちく》が「西御丸を始め、諸大名の 奥女中、多分は日蓮を信仰せられ、はては我生和来りし先祖より伝ふる所の宗をすて、 此宗にいること、古今同じく、其数甚多し、是*.、宗の僧のす\むる所にして、又、先 先の女中たがひにす」め逢へるが致す所也、然るに、愚按には、法の通塞は凡人のは かりうたがふ所にあらず、定て、其女中前生に法華を信受し結縁ある事、今日の女中 方のごとし、凡正信正行せば出離生死《しゆつりじやうじ》もある、又は、浄土にも諦経の方にて生じさせ らるべけれど、結縁と云、又は勝他の心、又は御奉公大切の為に、有漏に廻向あられ し故、其功徳空しからず、又、今生に女身をうけ、尊貴の身となられしかど、本心出 離の為ならず、法華読諦の生れ来る所の果報故に、今生又其門を信受せらる、ところ 成るべし、念仏を信ずるものは、正真の修行人は浄土に往生する故に、機土《ゑど》に立かへ る者少き故に、女中の行者少しと思ふべし、凡物皆前因に感ずる所也」といった。剰 されものが法華になるとは、いかにも皮肉な文句だ。それに、浄土坊主の還俗した善 筑だけに、念仏の功力で娑婆へ戻って来ないからというのは、多分都合のいい落ちで もあろう。それは後世に掛けての話、これは、現世に大御所様の二十一妾の中でも、 随一の長寿であったお美代の方、それが花のお江戸の剰され物になったのも、御祈薦 の本場中山智泉院の御加持の御利益かもしれないが、明治五年六月十一日の夜まで生 き残った。遺骸は駒込の長元寺に痙《うず》めた。これは日蓮宗であるが、市区改正のために、 |埜域《えいいき》の変更を必要とする時がきて、金沢市外野田山へ移葬されたから、禅宗になって しまったわけである。お美代の方は、晩年の欝憤、特にトラヤアトラヤアの御回向は、 定めて泉下の怨みも深かろう。それかあらぬか、赤門内の学者先生に、ありがたがら ずに、しきりに日蓮を振り回す人も出た。ただし、お美代の方の怨霊が愚《つ》いたのでも あるまい。などと思い続けて、赤門の前では常に通り掛りの足が止まる。何をボンヤ リと考えているのだろうか、と訪る人があるかもしれない。だが、我等の頭脳は、そ の時大変に繁劇なのである。