井伊大老の家族 三田村鳶魚 彦根と水戸、高松とは姻戚  井伊家の三十七世、今の直忠伯は、掃部頭|直弼《なおすけ》の嫡孫である。直弼の冑子|直憲《なおのり》を父 とし、有栖川宮八世|幟仁《たかひと》親王の王女|宜子《よしこ》を母として生れた。幟仁親王の第二王女|糖 宮《もりのみや》様が彦根へお輿入れのあったのは、明治二年二月二十三日であって、桜田の変のあ った万延元年三月三日からは、十年一昔の後である。烈公の世子|慶篤《よしあつ》が、幟仁親王第 一王女|線宮《いとのみや》幟子をお迎え申したのは、嘉永五年十二月十五日であるから、彦根の婚 儀より十八年早い。だが、水戸と彦根とが姻戚になった。その間の十八年の内に、桜 田事件があるのに拘らず、両家が相婿になったのが何だか奇異にも思われる。直忠伯 からいうと、水戸の御簾中幟子は、伯母に当る。血縁もあるようになった。もう一歩 進めると、烈公の御簾中吉子は、有栖川宮六世|織仁《おりひと》親王の王女で、慶篤・直憲両夫人 の大叔母に当る。それゆえ、直忠伯は、再従姪の子ということになる。宮家の御系譜 から係累する部分だけを抄出すると、 呈撃讐讐讐 で、幟仁親王の第一子|熾仁《たるひと》親王は、対清戦役に参謀総長の宮と申し上げたので、世人 の記憶も鮮やかである。それから慶篤・直憲両夫人、それから利子女王(伏見宮貞愛 親王妃)、それから宮家の十世|威仁《たけひと》親王という御順位で、御五方は御兄弟である。直 忠伯からは慶篤夫人は伯母である。それがなくても、烈公夫人吉子は、母宜子の大叔 母である、こうした続き柄、縁戚関係は、ついに血属になっている。更に高松侯にな ると、一段深い関係になる。松平|頼寿《よりなが》伯の先代|頼聡《よりとし》が、井伊直弼の女千代子を取女った。 その腹に今の伯爵が生れた。頼寿伯は、正しい直弼の外孫である。その頼寿夫人は、 徳川慶喜の女であるから、   頼寿-頼聡夫人-直弼   頼寿夫人-慶喜-斉昭  あるいは仇讐《きゆうしゆう》のようにも思われる水戸と彦根とは、姻戚であるのみか、水戸の分家 たる旧高松藩主の家では、双方の孫が夫妻にたって、頼寿伯の嗣子によって、斉昭と 直弼との血統は合一されるのである。高松と彦根とは、頼聡夫人によって姻戚になっ たのではない。井伊家の三十五世|直亮《なおあき》も、松平讃岐守頼起の女を迎えた。この人は直 弼中将の先代、実は兄であるから、千代子と頼聡とは縁の従弟であって、重縁なので あった。千代子は安政五年四月二十一日に高松藩邸ヘ入輿して、文久三年四月に生家 へ戻られ、維新後に松平家へ復帰され、現に伯爵家の後室様である。そうして、千代 子の井伊家へ戻られたのは、直弼中将以下が追罰されて、井伊家が十万石を取り上げ られた文久二年十一月から、五箇月を隔てた文久三年四月であった。その時は、一橋 刑部卿(慶喜)が後見職、松平|慶永《よしなが》(越前家、後の春嶽)が政事総裁職についておられ た。その時に、高松藩は、井伊氏の女を逐《お》わなげればならない事情があったとすれば、 幕府が倒れて明治の御代になっては、全く遠慮のないことになったのであろう。しか し、直弼中将の銅像は、除幕式さえ行われぬ。井伊家に妙な圧力の加わるのは、江戸 が亡びてもなおやまない。水戸を継承する薩長氏があるのを忘れてはならぬ。たしか 千代子夫人が松平家へ復帰されるよりも前に、直憲夫人は彦根へ御輿入れをたされた。 |恭《かたじけな》い王女の降嫁、それが、外間から怨仇のようにも思われた水戸家と、新たに姻戚 になって親睦するのみならず、違勅の人とも見倣された直弼中将の家の新婦として、 宜子女王をお迎え申し上げるのを、勅勘御免の意味に考えるものが少くなかった。そ れからは、井伊家でも気安くたったらしいように、世間では眺めた。我等はお気の毒 にも思い、すまじきものは宮仕えの感も深い。松平越中守定信が、尊号事件について の苦衷を並べて、切に当局の心事を悲しく思う、熱い熱い涙が出る。宜子女王の降嫁 には、定めて直弼中将の孤忠を憐れんだ、水戸殿(慶篤)の御副意もあったろう。闇 藩の人士も惨櫓たるものがあったろう。そうして、宮家の御同情を得たのであろう。 今日でも、水戸の天狗連の系統に属する文書を資料として、薩長諸家の主張を解説に する。それとは反対な資料、反対な解説に聴いたら、何となる。また、両端を叩けば どんな音がするか、何人も静かに考慮したがよい。 井伊大老の内行  直弼中将には、沢山な悪評諺評がある。その†で、貧欲であったこと、内行の修《おさま》ら なかったこと、彼の公事に対する論目は、すでに提供されたのが多いが、素行につい ては、あまり着目されていない。井伊大老ばかりでなく、誰でも色と欲とには、品性 を暴露するものである。公私二面にわけて人物を論じるのは、御尤もらしいけれども、 理論の上ではとにかく、実際の人間は、果して云私両様に自分を遣いわけるだろうか、 私人として、醜穣《えんあい》な心術、下劣な品性な者が、公人としては、全く固有したものを排 除して、別な心術、違った品性になれようとは思われぬ。我等はさきに、水戸侯斉昭 の内行について、いささか言い試みたことがある。それと同じ意味で、井伊大老の女 関係をここで一瞥したい。井伊大老は、彦根侯|直中《ヘハ おなか》の子である。直中の子女は、九腹 に二十一人あるから、随分な子福者であった。水戸の前様(斉昭)の十腹二十二人に 比べても、あまりお恥しくもないが、直弼中将は三腹十五子に過ぎぬ。四十六歳で卒 去したのであるから、まだその先がどうか、前様だけの年齢までおられたならば、と もいわれよう。しかし、前様は二十六歳から四十六歳までに、六腹二十子を挙げてお られるのに、井伊大老は、 直弼の年齢 二十九 三十 三十一 三十四 三十五 三十七 三十九 四十 同 四十一 四十二 四十三 女女女女男女直直芸直套千男女子          代 葵 子子子子子子安威ξ憲2子子子名 生母 千田氏(静江) 同 同 西村氏(里和) 同 同 同 北川氏(勝) 西村氏 北川氏 同 西村氏 年号 天保十四年 弘化元年 同二年 嘉永元年 同二年 同四年 同六年 安政元年 同 同二年 同三年 同四年   四十四  鋳《さえ》 麿《まろ》  北川氏     同 五年   同  直達 西村氏   同   四十六  女 子  北川氏     万延元年 で、井伊大老は、二十九から四十六までの十七年間に、十五子を挙げたのであるから、 毎年○・八八二の割合になる。前様《さきさま》は一という割合である。側室にしても、井伊家は 三人、水戸殿は五人で、すべてが劣っている。  弘化三年に、三十二歳で世嗣となり、嘉永一一一年に、三十六歳で三十五万石の主とな り、安政五年、四十四歳で大老になった。正室篠山侯信豪の女との縁約は、世嗣にな った弘化三年である。先代直亮は、特に小藩を選んで通婚したという。この夫人には 子女がなかった。側室千田氏に二女一男あった、その一男一女は早世したが、皆彦根 尾末町での所生である。西村氏に四男三女あった。愛麿《よしまろ》(直憲の幼名)・智麿《としまろ》(直威の 幼名)等は江戸出生である。彦根の尾末町というのは、藩の抱屋敷の所在で、一二百俵 の宛行《あてがい》を受けておられた時の住所である。そこでは四五の付人はあっても、中上相当 の生活をしておられた。千田氏の所生は彦根で、西村氏の所生が江戸であるのを見て、 尾末町では千田氏のみ随侍していたのが知れる、側室が二人になったのは、弘化三年 以後であろう。この千田氏は、名を静江といい、定府の士秋山勘七の四女であるのに、 彦根在勤の騎馬徒《さぱがち》千田某の養女にした。何の理由によって養女にしたのか、みだりに 臆測するのもよろしくないが、秋山は中士であったから、庶公子にしては、妻には軽 く、妾には重い。帯にゃ短し手裡《たすき》にゃ長し、といったところで、こうした算段もあっ たのかと思われる。庶公子などには、妾ばかりで、妻がなくてしまわれるのも珍しい 話でない。その事情は、自分の位地が妙なものだけに、相当な妻が得られないからで ある。側室といっても、正室はない。専房の寵はあっても、妾は妾であるが、この千 田氏は妻妾兼帯の人であろう。文政七年の生れといえば、井伊大老よりは九つ若い。 そうして、二十、二十一、二十二と三年続けて所生があった後に、懐孕しなかった。 西村氏は、名を里和といって、足軽忠次の四女、千田氏に仕えていた。直弼中将が世 嗣になって東下する際、産後であった千田氏に代って従行した。文政九年の生れで、 主公よりは十一歳劣っていた。二十三歳で公子愛麿を産み、引き続いて、都合七人の お腹様になった。いかにも殊寵を蒙ったらしい北川氏は、名を勝といった。五人のお 腹でありながら、御出生様がことごとく御成人なさらない。この人は、後にお暇を願 って、主家を去ったという。この北川氏については、我等はほとんど聞くところがな い。ただ側室であったことと、相応に恩春を受什たこととは認められる。井伊大老が 放恣な人であったならば、一妻三妾はすくない。もっと奥が賑わしくなければならぬ。 一妻三妾は、小さな大名でも算える数である。得意になったら耽りそうなものだのに、 僅かに、北川氏一人が、嘉永以後に増されたに漏、〜ぎぬ。例によって、懐孕しない寵女 もあろうが、系譜からみれば、律儀者の子沢山"、しくもある。 夫人松平氏の外聞  外間に聞えない、新聞に書き立てられないのが、賢母良妻だというのに、間違いが ないならば、直弼夫人も賢良だったであろう。我等が耳貧乏なためかもしれたいけれ ども、いまだかつて、この夫人について聞き得たことがない。水戸の前様には、戸田 忠太夫・藤田虎之助が付いていたが、井伊大老の長野主膳・宇津木六之丞とは比較に ならぬ。戸田・藤田と、長野・宇津木と、人物が違うから比較にならないのではない。 勿論人物も大分違うが、前様は、戸田・藤田に動かされておられたのに反して、大老 は、長野・宇津木を働かせておったのだから、かれとこれとを、同様には見られない のである。特に御簾中(吉子)について、勝海舟は、烈公は内行が修らなかったゆえ、 夫人には頭が上がらなかった、と言った。しかし、それは前様が御行儀が悪かったた めのみではあるまい。『燈前一睡夢』に、「此御簾中と唱ふる御方は、有栖川宮の御息 女なるよしなるが、頗る女丈夫にて、景山公(斉昭の雅号)も一チ目を置玉ひ、万事 を骨議《あひぎ》するほどの悪才逞しき婦人なり」とあるように、尋常一様な賢母良妻ではなか ったのである。我等は『燈前一睡夢』の著者大谷木忠醇が、烈公の先代斉修の御守殿 付であった大谷木藤左衛門の孫であって、親しく祖父の話を筆受したのであるから、 格別にこの記述を掛目するのである。天保十一年以来、烈公の在国の久しきに及びて、 御簾中の水戸下向を情願され、天保十二年七月と弘化元年正月と二度までも、幕府の 制度を顧みずして、切に御簾中の下向を仰願したのを、『徳川慶喜公伝』のごとく、 単に夫人索居の情に堪えざるがためとするのは、あまりに現代的な見方ではあるまい か。幕制によって、諸侯の夫人は、いずれも江戸の藩邸にある定めであって、参観交 替の際、主公の本国にある期間は、すべての小君が独栖されるのであった。無論、烈 公のように数年に亙って、在国されることはない。従って、夫人も、幾度か葛裏を換 えるような、長い独栖を続けることはなかった。武人の造った家庭は、上下貴賎とな く、私事をもって公事に及ぽすのを恥じた。異例な在国がいかに長かろうとも、閨閻《けいこん》 の情況のために、天下の法度に例外を設けて下されと内請するのは、夫人の不謹慎を 暴露することになる。あくまでも、勘平ではないが、それは項細な内証事、といって おらなければならぬところである。また、一藩の重職が、決して小君の幽悶の故に、 かかる内請をあえてするはずもない。賢明な御篤中は、さような情況を打ち出して、 重職を労し、あまつさえ幕府の法規をも携めるようなことをなさるまい。果してしか らば、内請の理由を経費節約のためとしたのが事実であろうか。当時、水戸藩は随分 窮迫しておった。幾分でも経費が節約されることならば、仰望せずにはおられぬ場合 でもあったろうけれども、御簾中の水戸行で、江戸邸の奥向きはなくなっても、国の 方の奥向きへ合併するまでであって、多分の節約になろうとは思われぬ。それを幕府 の嫌疑の盛んな時、烈公の首尾のおもしろくない折柄でもあるのに、好んで幕府との 交渉を開始した。その真の理由は、御簾中の幽悶のためでもなく、経費節約のためで もなく、戸田・藤田が必要である以上に、御簾中を烈公にお付け申しておかなければ ならなかったのであろう。何故なれば、御簾中か、時々、虎之助(藤田東湖の名)に も似合わぬことだ、と仰せられた。さすがの東湖も、その都度恐れ入っていたほどで、 実に御才知の勝れさせられた御方なのはいうまでもないが、その縦横の機略は、いわ ゆる京都お手入れについて考うべきである。烈公が、安政元年内裏炎上の後に、琵琶 を献上せられし時の表に、「今舷甲寅夏、皇居罹レ災、駐二躍《ちうひつ》外一於亡レ幾、那虜航レ海、 泊二摂之浪華浦一|掩留《えんりう》旬余、畿内騒然、臣斉昭、仰想下行宮狭険、無三以慰二良衷か傭 慨下醜虜猫獄、未レ能レ伸二皇威ゴ屡陣二卑見於征夷府一而才疎論迂、未レ審二用捨如何一 也、斉昭、頃獲二華欄材長三尺許(手製二琵琶一面'窃謂、方二行宮之災'雅楽宝器、 得レ無レ属二烏有一耶、乃、因二関白政通公→献二之行宮^豊敢望レ補二宝器之闘一乎、万機 之暇、或命二侍臣→弾二還城之楽一歌二太平之頒→洋々乎盈レ耳、乃、内以経二哀憂一外 以鎮二妖邪→此器有レ栄焉、臣窃為二天下一祝レ之とあり、此表は当時の偽作なりと云 は父夫迄の事なりと錐も、果して事実にてあらば、老公は幕府の法禁を犯し、此時よ り、早くも暗々裏に於て、京都の壌夷論を促し、幕閣の政略に反対の方向を執り、遂 に障碍を与ふるの端緒を開かれたりとの評を免かれざる老なり、更に一歩を進めて論 ずる時は、安政五年に至りて、京都手入の事は、早く此表に其兆を顕はしたりと云は んも亦、不可なかるべき歎」(『幕府衰亡論』)。安政五年七月五日、烈公は慎隠《つつしみ》居を 命ぜられ、駒込の邸に籠られた頃に、御簾中吉子は、御姪の輪王寺宮慈性法親王(大 楽王院宮)へ御文通で、京都方面への御策画をなされたというのと、琵琶献上とを思 い合せて、しきりに、京都御手入れと御簾中との関係が案ぜられる。烈公と御簾中と は、千字文で覚えた夫唱婦随の情況にあったとは思われないとともに、烈公が在国四 年の間に、重臣等が再度御簾中の水戸行を内請した消息も模索される。決して閨閻の 幽悶などによったことではなかろう。こうまで間題にされる水戸の御簾中様に対して、 彦根の奥方はいかにも淋しい。関《げき》として音もない。烈公と大老とは、性格も違えば、 主張も反対であったが、その夫人も天淵|月驚《げつべつ》、比較に絶えておった。 参観道中の女性  彦根中将は、国から江戸へ、江戸から国への住来に、二妾を召し連れて道中をされ た。大概の大名は、江戸に奥方を置き、国には准妻とか権妻《ごんさい》とかいうべきお国御前を おいた。これは衆妾の上首で、第二夫人である。烈公は唐橋を京都から呼び戻して水 戸へおかれ、それに浮身を婁されたが、その唐橋がお国御前であったらしい。彦根中 将は、二妾を帯びて道中をしても、お国御前はなかった。江戸に出られた後は、国に 一妾もおりはしない。しかし、大名が道中に女性を連れることはどうか。平素表泊り の多い殿様生活、男子のみの中に起臥して、思ったよりも、妻妾とは遠い。ただ、奥 泊りをする時だけ、後房に眠るのである。表泊り・奥泊りという名称のあるだけでも、 平民の日常とは違ったものなのが想像されよう。田安の慶頼《よしより》卿のお若い頃、御小姓の 若いのが、明日は御奥泊りでございますと揶揄《やゆ》して、卿のお顔の薄紅くなるのを眺め たという話も、聞いている。それは三卿の家のこと、三十五万石の井伊家でも、大名 だけに、それほどの行儀はなかろう。三卿にしても、年が閲《た》けられると、我儘もなさ れよう。大名ならばなおさらのこと。だが、家治将軍は、しばしば、昼間御台所と御 対座があったと、珍しがって言い唯された。将軍家や大名は、間隙さえあれば奥へ引 き込んで、妻妾の側ヘヘばり付いているものだと思うのは、全く町人・百姓の家庭か らの推想で、彼等の実際に通用する話でない。将軍家ならば、御表は幕府の政庁であ る。彦根侯にしても、表は藩庁である。奥は私宅なのである。それゆえ、表には妻妾 をおかれぬ。公私の差別は、明確厳正に、奥、表と、立て隔ててあった。そう考える と、表泊りは殿様が宿直されるのである。奥と表の通路は三箇所あって、井伊家では、 上のお錠口《じようぐち》にお錠前番が八人、下のお錠口に中の口番が四人詰めていた。これは表か らの勤務で、いずれも男子である。奥からも女中が相当に配置されてあるはずだが、 我等は奥から何人勤務したか知らない。お錠口は、その名のごとく、杉戸《すぎと》へ錠が掛か るのであるが、朝暮の開閉には、役々が立ち会って厳重に扱われた。この二所のほか に、御鈴口というのがある。殿が奥への出入りに、双方から索を引いて鈴を鳴らすの で、御鈴口という名称もあるのである。ここは殿様に限った通路なので、公子女でも 通用はされぬ。この御鈴口で、殿様の出入りの度、に、御剣を老女と御小姓とが授受す る。奥方や公子女の送迎も、ここまでは来られない。それよりは一間隔てた中の間ま でしか送迎されぬから、君側の人達、御小姓のような側近い人でも、老女以外奥向き の女中の顔を見ることはない。現に、伊勢の素封家川喜多久太夫氏が知人の家へ来て、 妻女がその良人を送迎する様を見て、羨しいと言った。町人の川喜多氏の妻女でさえ、 店先までは送迎しない。それだから、足駄よ傘よと心付ける世話女房振りが、いかに も親しく懐しく見えたのである。古風を守る町人ならば、大名でなくても、川喜多氏 のようなのが、今日でもまだある。武家の行儀、末になっても江戸時代の大名の家庭 は、下宿屋や寄宿舎で成人した人間からは、想像するのも大分困難であろう。奥へ出 入りする男子は、十五歳以下、六十歳以上に限定されていた。井伊家では、お子達の 御伽・御賄・御櫛役・御用取次ぎのほかに、医者、これだけが奥へはいった。勿論、 年齢の制限の下に任命されたのである。大名の子供は、幼年には奥で養育されるが、 十三四歳になれば、婦女の手から脱れて表住いになる。近く彦根侯にしても、直憲・ 直威の方々もさようであった。それが前からの仕来りであった。家来に対してのみな らず、家族でも、十五歳以上の者は、奥へおかなかった。  女の中に埋まったようにも思われている大名が、風呂場で女中に手を付けるなどと いう話があるが、いかに年の若い時のことにしても、そんなに女が珍しいのかと、外 間からは不審されるものの、行儀が厳重であって、自分の家でも、我盤勝手が存分に は働かれない。おのれの妻妾であっても、気盤に引き付けておかれないから、実のと ころは、女珍しいのである。そうした大名の一般の風儀から、参観交替の往来に、侍 妾を引き連れるのは、世間の耳目を從耳たせた。旅をするのに女を放さなかった尾張の 宗春卿、姫路侯榊原政峯などは、享保の猛者《もさ》として、記録を今日に伝えた。井伊大老 も、たしかにその御連中であった。とはいえ、井伊大老が、兄玄蕃頭直元が早世して、 捜綾子は俊操院《しゆんそういん》といっていた。その寡鰻《ごけ》と通じ、俊操院が妊娠するに及んで、よんど ころなく自殺した、桜田事変はその寡捜の三周忌であったと、当時盛んに風説したこ とを、八町堀与力であった中田氏の老母から聞いた。直弼中将は、果して風説のよう な惇倫行為を、揮らなかったろうか、俊操院は、安政二年に彦根ヘ帰住し、万延元年 四月二十四日の逝去でみれば、この風説は、穿墾するほどの価値もない。井伊大老は、 ただ兄の寡妻というのでなく、直元は世子であったから、早世さえせずば、俊操院も 彦根侯の内君として、浮世に栄えた月日も多いはずであるのに、まだ三十にもならぬ 身を、垂れ籠めて淋しく暮らされるのを、ひどく気の毒がって、懇篤に慰籍の手段を 尽されたために、かえって、託伝謬伝をさえ生じたのであろう。 側室の位地  大名の住居の奥と表の境界は厳重で、男女雑処することがほとんどない。それのみ か、いずれの大名でも、奥限りに印を付けて称謂に代えた。先年「島津家のお由羅騒 動」を書く時に、お由羅の方が蔦印《つたじるし》と呼ばれていた、と聞いた。井伊家でも、直弼中 将のは知らないが、直憲が松印様といわれ、夫人宜子は祝い印、御兄弟の智麿は亀印、 重麿は鶴印、側室西村氏は梶印と呼ばれた。御三家の一たる紀州家では、今も頼倫《よりみち》侯 が松印で、御自身に電話に立って、奥向きへいわれる時に、松印といわれる。今の井 伊家では、何印などということはないらしいが、昔は今の紀州家のごとく、自他とも に何印といっていたのである。将軍家では、上付御中薦が側室であるが、井伊家では 御小姓(女の御小姓)がお妾であった。一体、女小姓というものは、公家にはない、 武家にのみあるものであった。将軍家の奥向きでは、御中薦が御台所付と将軍付とあ ったから、ただ御中繭ではわからない。それゆえ、上様付、御台様付と言い分ける必 要があった。女の御小姓は御台所や姫君にばかり付いていて、将軍その他男性には付 いていない。井伊家では、男性、特に君公に御小姓が付いていて、御中薦は付いてい なかった。なにもかも、大体を似せたものであるのに、これらは甚しい違いである。 井伊家の殿様付御小姓は側室《そくしつ》であって、柳営の上付御中蕩は側室《そぱしつ》である。何がために この差異を生じたか、他でもない、格式の等級、取扱いの厚薄からきたことである。 御中繭は、柳営では第五番目の女中で、御小姓は第六番目であるから、一級低い。側 室を柳営では第五級にするのを、井伊家では第六級に扱ったというような違いらしい。 井伊家の公子女付の女中の最高級者が、御小姓格であった。この御小姓格までを、お |目見《めみえ》以上とされていたが、柳営では、御中薦の下になお二級あって、それまでをお目 見以上とした。そう比較すれば、将軍の側室は五級、井伊家の側室は七級で、-級も 違った待遇なのだ。大名の規模は、当然柳営よりも些少であるから、奥向きの編成も 余程簡易になり、従って、女中の職級も少いわけでみれば、井伊家では、目見以上の 女中に、七級なかったかもしれぬ。それ故に、五級七級と対比して、たしかに格式待 遇の高低をいわれぬかもしれないが、何としても、井伊家の側室が、比較的格安に取 り扱われていたのは疑いもない。直弼中将の半後は、二人の側室が薙髪して、宗観院 殿柳暁覚翁大居士という殿様の法誰の、柳暁(㌣柳の字を分けて、直憲・直威・直安の 御腹様の西村氏里和が柳村院、千代子のお腹様千田氏静江が柳江院といって、例のご とくお上通《かみどお》りになって、井伊家の家族として取リ扱われた。これは、すべての大名・ 旗下の普通の習わしである。このほかに、井伊家を去った北川氏勝も、幕府が倒れず に江戸の制度が持続したならば、お上通りになって家族の待遇を受けることはなくて も、一生を彦根侯の奥で暮すはずであるのに、維新大変革によって、旧例故格は皆破 壊された。そこで、勝女は井伊家を去りもした、、井伊家も、先君遺愛の人の辞退する のを許しもしたが、元来奥向きの奉公をする者は、側室でなくとも、終身の勤士を誓 うのが例で、一生奉公といわれたものである。我等はなお一人、井伊大老の御小姓を 勤めた女を聞いている。それは京橋辺の質屋の娘とかで、後年、中原南天棒の会下《えか》に、 竹内妙容といった老婆子がある、相応な得力もあって、気宇瞼峻な婆子であった。桜 田事件は、この婆子が十六七の時であったろう。妙齢の彼は、いまだ懐孕するには及 ばなかった。本より側侍する時間も多くはなかったが、終生嫁せず、先君のために節 を守ったと聞いている。遠城謙道師を女にした人である。しかるに、所出がないから、 『井伊家譜』にもその名を留めず、豪徳寺でお墓守りもしなかったので、世間からも 知られていない。我等は、別に妙容婆子のために、若干の記述を勉めたく思っている。 鬼を見たことがあるか  井伊大老の家常《かじよう》について、ホンの概略を述ベたが、直弼中将の風格を見るベき逸話 を添えて、この編を結びたい。中将がまだ彦根尾末町の抱邸におらるる頃、お付人で あった三居孫太夫という家来がある。この孫太夫が、六十歳で隠居願いが聴許されて、 お礼言上のために罷り出ると、中将はそれはめでたいと喜ばれ、隠居後はむずかしい 名を付けなよ、一通りの名にせよ、といわれた。江戸時代には、隠居後は、道号、法 名など、音に読む称呼にする例で、それもなにかと捻った文字を選ぶふうがあったか ら、特に注意されたのであろう。孫太夫は言下に、只今のお言葉をありがたく頂戴仕 ると、すぐに一通という名に改めた。すると中将は、コ通りすんで又た出る高砂や」 と短冊へ、即吟を書いて与えられた。これは彦根藩の世嗣になられた三年目、中将が 三十四歳の時である。お馴染といい、老人のことであるから、しばしば夜間に奥ヘ一 通を召されて、御子方とともに閑話を聴かれることさえあった。ある時、度々召され るのに、寄合があると申して再三お断りをした後に、一通が奥へ出ると、中将は、こ の頃はしきりと寄合をするそうであるが、一体老人どもが度々寄り合って、何を話す のか、と尋ねられた。一通は、毎々殿の御政治の善悪を批評いたすために寄り合いま する、とお答をした。中将は首肯して、それはいいが、他人の悪口だけはすな、と微 笑されたという。  中将が鬼の念仏の画を描かれるのを、おそばで一通が見ていると、左右の足の指が 同じ方向に付いてしまったので、「それは御前違いましょう」と申し上げた。すると 中将は、「一通は鬼を見たことがあるか」といって、大いに笑われた。これは珍しい 鬼であるから拝領がいたしたい、と願って、今日ではこの崎足の鬼の画は、三居一通 の子孫の家に持ち伝えられている。  質素な生活を忘れられない中将は、顕栄な地位につかれての後も、手ずから柚子味 噌《ゆずみそ》を持えられることがあった。それへ「御礼之儀は申上置候」という書付を添えて、 度々臣下に与えられた。いささかの物でも、君公からの拝領といえば、家来の栄誉で もあり、主従の礼として、一々お礼言上に出なければならない、ここを察して、御礼 済の書付を添えて下される。それで別段にお礼に出なくても済んだ。一通はお手製の 柚子味噌を頂戴することから思い付いて、八月朔日の式日出仕に、自分の畑の大 束蒲塞《おおかぽちや》を、縄搦げで奥へ提げ込み、手作りの束蒲塞というので献上した。中将はすぐ に、「八朔やもろたかぼちやの礼をさき」と書いて与えられた。式日の御礼口上より も先へ、この方から束蒲塞の礼をいうぞ、という心持ちで、親しくもあり、いかにも 気軽な様子がよく現われている。  こうした零話《こぽれぱなし》によって、大老在職中、忙しく険しい間にも、毫も鋭いところがなか ったのが知れよう。