山を想う 水上滝太郎  富士の嶺《ね》はをみなも登り水無月《みなづき》の氷のなかに尿垂《いばりた》るとふ  与謝野寛《よさのひろし》氏の歌だ。近頃の山登《やまのぼり》の流行は素晴しい。断髪洋装で舞踏場に出入し、西洋人に身を 任せる事を競う女と共に、新興国の産物である。一国の文化に古びがついて来ると、人々はむや みに流行を追わなくなるが、国を挙《あ》げてモダアンという言葉に不当の値打をつけている心根のは びこる限り、生理的に山などへ登ってはいけない時期にある娘もいっしょになって神域を汚す事 は、活動写真じこみの身振《みぶり》と共にすたらないであろう。高きに登りて小便をするほど壮快な事は ないといった人があるが、女もその快感を味わわんがために、汗臭くなって健脚をほこり、土踏 まずのない足で富士の嶺を踏つけ、日本アルプスを蹴飛《けと》ばすのか。  机にむかって無責任にこんな事を考ている私は、むげに登山熱に反対するものではない。実は 私も充分時間があったら、山頂の暁に放尿する快感を味わいたいのである。望んで行えないので、 些《いささ》かやけ気味になっているかもしれない。  日常生活に追われている私には時間がない。自由に遊ぶ休息の時間が充分に恵まれていない。 勤務先の会社の内規としては、一年間に二週間を限って請暇を認められているが担当している仕 事の性質上、私はそれだけの休暇をとった事がない。今年の如きは、上役が突然退職したので、 一日も休めなかった。あるいは今後も、世間|所謂《いうところの》使用人の地位を脱しない限り、幾年の間休暇 のない生活を送るのではないかとさえ悲観する事もある。そして、机にむかいつつ海を想い山を 想うのである。年齢の関係か、年々海よりも山の姿に心が向くようになった。むかし富士山に登 った時、砂走《すなぽしり》で転《ころ》んで擦《すり》むいた膝子《ひざつこ》の傷痕《きずあと》を撫《な》でながら、日本晴の空にそそり立つこの国の山々 の姿を想い描くのである。  山というと、私は第一に浅間山をなつかしく思う。焼土ばかりの富上の山は、遥《はる》かに下界から 仰ぎ見るをよしとする。空気の固く冷たい信濃《しなの》の高原の落葉松《からまつ》の林の向うに烟《けむり》を吐く浅間は生き ている。詩がある。私はまだ、山の彼方《かなた》に幸いの国があると夢見ていた少年の日に登った。  もっとも、一度は麓《ふもと》まで行って大雨のために追払われてしまった。既に二十二、三年前の事で ある。当時の相棒と東京を立つ時は、先ず長野に行き、それから軽井沢に引返して浅間へ登ろう という計画だった。  古びた記憶の中に、旅で逢《あ》った二、三の人の姿がはっきりと残っている。その中には、汽車に 乗合せた旅役者の群もある。座頭《ざがしら》らしい薄痘瘡《うすあばた》の男、その女房、十二、三の娘、色の青白い黒眼 鏡の女形《おやま》らしい男、その男に寄添っている十八、九の田舎《いなか》娘。空想|好《ずき》の私は、外の者とは口もき かず、むしろおどおどしながら、ひたすら隣席の男に身も心もゆだねた様子でもたれかかってい る田舎風の女を見て、旅役者にだまされて家を捨てたのではないかと想い.、硯友社《けんゆうしや》時代の小説の ようにはかない行末を作りあげて同情した。しかし、そういう女がいたという事ははっきり記憶 しているのだが、その顔かたちはすっかり忘れてしまった。否、その女ばかりではなく、一座の 者の顔かたちも、たった一人の座頭の外はすっかり忘れてしまった。どうしたものか薄痘瘡の座 頭だけは、その後歌舞伎座や帝国劇場の大舞台を見ている時、何のきっかけもなく想い出すので ある。色の褪《さ》めた大形の鳥打《とりうち》帽子、浴衣《ゆかた》の上に腑《ふ》のぬけた絽《ろ》の羽織を着て、仲間うちでは格式を |そば《まげまんじゆう》 示しながら、側にいる唐人髷の娘に饅頭を二つに割って半分を与え、あとの半分をさもうまそう に喰べていた姿を、三等の汽車に特有のお弁当のにおいと共に想い出すのである。大歌舞伎の舞 台を見ながら旅役者を想い出すのは、如何いう連想の脈が成立っているのか知らないが、こんな 無益に立派な劇場を一日買切って、ああいうどん底の役者に思う存分の芝居をさせて見たいと思 うのである。 |うすい《ゆりだでしこはぎききようしおんおみなえし》  八月のなかばだったが、碓氷峠を越《こえ》ると秋の景色だった。百合撫子萩桔梗紫苑女郎花を吹く風 の色が白かった。草津へ通う馬の背の客の上半身が草の穂の上にあらわれていた。浅間は男性的 な姿を空に描いていた。  長野の町はわれわれの気に入らなかった。善光寺の御堂も浅草の観音様ほどなつかしくなかっ た。御灯明をあげ、お階段廻りをして外に出ると、山の影が町に迫って既に暗かった。  此処に一泊するのはつまらないというので、姨捨《おばすて》の月を見る事にした。  駅の待合室で見た光景も忘れがたいものであった。手に手に提灯《ちようちん》を持った巡査、フロック.コ オトや、紋附の役人や土地の有志に取巻《とりまか》れている、群を抜いた大男と、川島武男のように気取っ た士官と、喪服の婦人を見た。大男は知事で馬鹿々々しく尊大な態度だった。喪服の婦人の良人《おつと》 で、海軍士官の兄に当る人がこの地で死んで、遺骨が見送られる場面だった。それだけの事なら ば長く記憶に残るはずはないのだが、その婦人が勝《すぐ》れて美しいという方ではなかったけれど四囲 と調和しないほど粋《いき》なからだつきで、泣いた頬《ほお》におくれ毛のへばりついたまま、冷々として見送 の人を見ていたのである。そのめつきは、ながしめといってもよく、きつく結んだ口辺には冷笑 に似た影さえあった。芸者の風情《ふぜい》を持つその婦人は、喜多村緑郎が手がける泉鏡花先生作中の人 物のように思われた。私と相棒とは、後々までこの婦人にさまざまの色彩をつけ足して噂《うわさ》した。  屋代《やしろ》で汽車を下《お》りて車に乗った。折からの名月で、爽《さわや》かな音を立てて流れる千曲川《ちくまがわ》は銀色に光 っていた。長い橋を渡る時|欄干《らんかん》に腰かけている二人の女を見た。その一人がこの辺には珍しい都 の風情だった。白いうなじと広い帯を車上から見て過ぎたが、前の車に乗っている相棒も振返っ て見ていた。  車やに連れこまれたのは汚《きた》ない旅人宿だった。麦酒《ビ ル》と林檎《りんご》を持って直に姨捨《おばダて》に登った。稲が延 びているので田毎《たごと》の月の趣はなかったが、虫の音が満山をこめて幼稚な詩情を誘った。  宿に帰ると、あがりがまちに先刻《さつき》の車やの一人が酒を飲んでいた。われわれを見ると、これか ら郡の大雲寺というのに案内するといい出した。  「わしゃあ銭ほしいじゃあねえでこわす。道歩くのが道楽でこわすから。郡の大雲寺の石垣は まず大きいものでこわすわ。わしゃあ知んねえが広い東京にもあれだけのものはこわすまい。春 はまず桜の名所でこわすわ。わしゃあ銭ほしいじゃあねえでこわす。」 と呂律《ろれつ》の廻らないのがしきりに御伴《おとも》するという。こんな汚ない宿屋にいても面白くないから、勧 めるままに従った。車やは千鳥足で先に立ったが、ふらふら揺れて行く月下の影は狐《きつね》のようだっ た。  ある家の洋灯《ラソプ》の下に五、六人車座になって賽《さい》ころを振っているのを見た。車やは其処で烟草《タバコ》を 買った。  「やい、誰だ。此処まで来て寄らねえっつうことがあるか。やい、面《つら》あ出しゃあがれ。」 と外に待っているわれわれを見て怒鳴った男があった。頬髯《ほおひげ》の凄《すご》い男だった。  大雲寺というのまで三十丁もあった。境内には大きい池と、それを取巻く桜があった。花見の 時にはこの池に舟を浮かべて遊ぶ。  「そん時はお女郎がわしらの車に乗ってくれるでこわす。」 と車やはひどく光栄がっていた。池と桜とは月光を浴びて私の記憶にあるが、どんな寺だったか、 いかなる由緒《ゆいしよ》があるのか一切忘れてしまった。酔払いの車やは、それからお女郎のいる所へ案内 してくれるといったが、ようやく断った。宿に帰って二階の座敷に寝たが、夜且ハの悪臭はまだし もとして、忽ち全身に蚤《のみ》が這《は》い始めた。四|疋《ひき》五疋つかまえてつぶしているうちに、手足腹胸首背 中、全身はれあがってしまった。一睡も出来ないで暁の光を見た。  朝の飯は臭くて咽喉《のど》を通らなかった。われわれをあてこんで同じ宿に泊った車やが、もう一人 つれて来て駅まで乗せて行った。  われわれは上田《うえだ》へ寄って、その日軽井沢へ行った。停車場前の油屋という宿屋にとまった。時 々雲は去来したが、空は真青に晴れていたので、その晩十時から登山のために出立し、翌朝下山 したら直ぐに汽車に乗って、途中妙義山に登ろうと日程を定めた。縁側に出て見ると、浅間は鼻 の先にあった。湯に入《はい》って長々と寝そべっていると、不意に障子《しょうじ》が暗くなった。あけてみると、 山の方はすっかり霧にかくれ、風は水のほとばしるように草を分けて吹いた。忽ち大粒の雨が縁 側を打って横ざまにしぶいて来た。  翌日も雨はやまなかった。隣室の客が、この雨は東から来たから五、六日は晴れまいと話して いるのを聞いて、急に思い切って帰る事にした。ふりかえっても振返っても、浅間は姿を見せな かった。  翌年、ちょうど同じ頃に、私は一人で東京を立った。前の年の相棒も同行の約束だったが、俄《にわか》 に都合が悪くなって断って来た。しかし、今度は浅間|山麓《さんろく》に一人の友達が待っていた。   小諸《こもろ》なる古城のほとり   雲白く遊子《ゆうし》悲しむ と島崎藤村先生のうたった城趾《じようし》を訪《おとな》い、また先生や三宅克己丸山晩霞《みやけかつみまるやまばんか》などという人が教鞭《きようべん》を執っ たという小諸義塾も見た。友達も其処で学んだのであった。  山国の石の多い、傾斜した町の姿は面白かった。恵まれない天然に抵抗して土にしがみついて 生きてゆく信濃《しなの》の国は人の心を嶮《けわ》しくしている。議論|好《ずき》で、堅意地《かたいじ》で、どうしても負けないそと いう根性が深い。そういう人の姿が、焼土にしっかりとまきついて離れない蔓草《つるくさ》にも想い見る事 が出来た。歓楽を知らない町の向うに、不平そうな顔をした浅間が烟《けむり》を吹いていた。  友達の家は小諸から小一里あった。土地の旧家で、ひっそりと広い家だった。縁も柱も磨き込 んで黒光《くろびかり》していた。私に与えられたのは新建の二階で、長方形のあたかも小学校の教室のような 部屋で、畳をかぞえたら二十五枚あった。窓から首を出すと、空気が澄んでいて、遠方の山の肌 まではっきり見えた。青い草は香が高そうだった。窓の下には細流があった。大きな柳のかげに 水車が廻っていた。その流から水を引いた池には、肥《ふと》った鯉《こい》が群っていた。夕方の景色は一層美 しく、夜は星が数限りなく輝いた。山風のひやひやする野に出て見た。田圃《たんぽ》道で出あう人が、み んな、  「おつかれ。」 という挨拶《あいさつ》をした。  次の日の朝、丘の向うの聖護院《しようこいん》という禅寺から、  「東京のお客さんが見えているならお遊びにお出でなすって。」 という使が来た。七十を越《こし》た老僧がたいくつして困っているのだ。露を踏んで、なだらかな丘を |越《こえ》て行った。  小柄な住職は、少し黄ばんだ白髯《はくぜん》をしごきながら、信州弁で喋《しやべ》った。ペロリノ丶と舌を出して、 |上唇《うわくちびる》をなめる癖があった。  「近頃こちらには窒扶斯《チフス》がはやりやしてなあ、昨夜もこの先の村の者が一人いけなくなりやし たが、全体窒扶斯つうものは喰いたがる病だから、構わずうんと喰わせるがいいでこわすわ。そ いっを今時の医者は、やれ何を喰わしてはいけねえのっつうて喰いたがるやつを喰わせねえで殺 してしまうでさあ。わしら若い時|飛騨《ひだ》に行きやしたが、あちらあ赤痢が地方病でこわしてなあ、 まるで村中赤痢だっつうに死ぬ者あ一人もねえでこわす。それっつうが、みんな赤痢の性質をわ きまえているからなんで、なんでも赤痢は命にかかわる病ではねえやつで、病人がしきりに糞《くそ》を まりたがっちゃあ便《、、》所へ行きやしょう、ところが出てえには出てえだが、さて出ねえのがこの病 のきまりでこわすから、何度通っても同じだ。ただからだをこわすばかでこわすわ。これで皆い けなくなりやすが、それにゃあ病人を便所へやらねえ工風をしねえじゃあいけやせん。まず炉の 上に板を渡し、またその上に蒲団《ふとん》を敷き、蒲団も板も病人の着物も、ちょうどお尻の当るところ をまるく切抜きやして、病人がまりたがったっちゃあ寝《、、》かしたままでやらせるようにするでこわ すわ。それで医者の薬は駄目《だめ》でこわすから無花果《いちじく》の葉を煎《せん》じていやっつうほど飲ませるがいいで こわす。飛騨ではみんなそれで助かるんで、なあに医者の薬なんかきくもんじゃあごわしねえ。 一体薬っつうものは人間の寿命を延ばす事は出来ねえもので、ただ苦痛をすくなくするばかでこ わす。人間つうものは生れた時から十歳で死ぬか七十で死ぬかちゃんときめられて来るものだで、 薬だろうが何だろうが寿命だけはどうする事も出来るもんじゃあごわしねえ。人間何時死ぬかつ う事も、親の生れた時と子の生れた時さえはっきりわかってせえいりゃあ、すっかり知れるもの でこわすからなあ。××寺の先の隠居なんか何月何日何時に死ぬって知ってたから、さあその日 になりやすと、頭を綺麗《きれい》に剃《そ》りやして、白い着物を着て、さあ今死ぬぞっつうて弟子やなんかを 呼集めたが、一時間たっても二時間たっても死なねえわ。そんなはずはねえがっていったって、 現在死なねえだからしょうがねえ。そんな理窟《りくつ》はねえはずだといったが、その日はとうとう死な ずに済んで、隠居も首をひねりやした。ところがどうだ、これが生れた時を間違えて勘定してい た事がわかって、さあこれから二百七十日たつと、今度こそはほんとに死ぬそって事になりやし た。それが二百七十日目に、ころりと死んでしまいやしたぞ。つまり誰でも死ぬ時はきまってい るでこわすわ。わしらとこの息子も二人とも十歳にもならねえでいけなくなりやしたが、これも |定命《じようみよう》で、実はこの人間の生れる月というものは一年のうちに四月《よつき》しかねえでこわす。その外の 月に生れた子はどうしても十歳より上に生延《いきのび》る事がこわせん。もう三千年も前の人でお釈迦《しやか》様っ つう人は究理家でこわしたなあ。人は三百六十の骨、四万八千の毛穴ありと、ちゃんと本に書い ていやすからなあ。そればかりじゃあごわせん。何の動物には何本の骨がある。何の虫には幾本 の骨がある。何の鳥には何本の毛がある。ちゃあんとしらべがとどいていやすわ。ところがこれ も理窟を知って見ればわけのねえ事で、すべて動物は胎生卵生湿気生化生の四つに分《わけ》られている ものでこの四つしかねえだから、そこまで考えてみれば何の不思議もねえ、わけのねえ事ですわ なあ。で、すべて血のあるものには骨がある。骨のねえものには血がねえと、こうきまったもの だ。それ、みみずには血がねえ、骨がねえ。あの海にいる海鼠《なまこ》でこわしたかなあ、あいつなぞも 血がねえ、骨がねえ。L  和尚《おしよう》の話は何時までも尽きなかった。浅問山には天狗(てんごと発音する)が住んでいて、現に 自分も若い時に見た事、近頃もいるにはいるが、あまり里には出て来なくなった事などを、一人 ではなし、一人でうなずいて倦《あ》きなかった。面白いには面白いのだが、面白過ぎて参ってしまっ た。しまいには逃出すように辞去した。  その日の夕方登山の支度《したく》をして出た。友達も私も単衣《ひとえ》一枚で、草鞋《わらじ》を穿《に》き、落葉松《からまつ》の杖《つえ》をつい た。友達は杖銃を肩にかけた。下男の孝治さんというのが、今夜と翌朝の食料と毛布を一包にし て背負った。おあつらえのちぐさ色の股引《ももひき》に縞《しま》のぬのこを着て、腰には大きな烟草入をぶらさげ ていた。  山は荒気味で、吹下《ふきおろ》す風が強かった。道ばたの蕎麦《そば》の畑から山鳩《やまばと》が飛んだ。友達は直に身構え た。銃声が山に響いてこだました。傷ついた鳩は少しさきの豆畑に落ちた。.  だらだら登《のぼり》の松原にかかった。林中で夕陽《ゆうひ》を見た。風が止《や》んで、虫の音がしげくなった。林は いつか落葉松に変った。枝も葉も細かく隙間《すきま》のない林と林の間の防火線を行くのだ。時々|足下《あしもと》か ら兎《うさぎ》があらわれて、また草にかくれた。日が暮れて提灯《ちようちん》をつけた。歩いていると暑いが、足をや すめると寒い。私は何処かで、小銭の入っている蟇口《がまぐち》を落した。  道は次第に急になって、杖の力による事が多くなった。時々流にかけた丸木橋を渡った。三時 間の後、山の三分の二の位置にあるという小屋に着いた。  「お疲れ。」 といいながら友達が先に入った。この小屋はその年はじめて出来たもので、まだ大工や屋根屋や |樵夫《もざこり》がいた。みんないっぱい…機嫌だった。  炉ばたで、持って行った握飯《にぎりめし》を喰った。榾《ほだ》の烟が目にしみて、だらしなく涙がこぼれた。腹が はると眠くなった。山の上は五十五、六度だという。毛布をかぶって横になったが、私は眠れな かった。寒さと蚤《のみ》のためだ。それなのに外の者はみんな楽々と眠ってしまった。誰だか、しきり におならをした。  二時頃、静かな山の下の方から、ほいほいとかけ声して登山者が来た。戸をあけて、六、七人の 一行が、へとへとになって入って来た。みんな炉のそばに倒れるように寝てしまった。  その連中は一時間ばかり休んでから、早く登らないと頂上で朝日が拝めないといって出かけた。 われわれも起きて、また握飯を喰った。  孝治さんは小屋に残った。友達と二人で外に出ると、暗い立木の梢《こずえ》に、細く青い月がかかって いた。あの澄んだ色を見ろ、東京の月とは違うからと友達がいった。頂上までもう一里あるので あった。  右に聾《そび》えているのがぎっぱ山だ。人々は鬼の牙《きば》の形と見ている。木立が尽《つき》ると俄《にわ》かに寒くなっ た。道は焼石ばかりになった。風がまともにおろして来て、しばしば帽子を奪おうとする。  東の空がやや明るくなった。遥《はる》かに下の方の山々の腰を囲《めぐ》って自い雲が湧上《わきあが》って来た。急傾斜 で息切《いきぎれ》がするが、友達の足は早い。彼は八度目の登山だった。私は負けない気を出して踏張《ふんば》った。 風は益々|烈《はげ》しく、山鳴《やまなり》が聞えて来た。小屋を出て一時間の後、われわれは絶頂の噴火口のふちに 立った。  硫黄《いおう》臭い黒烟のうずまく底に、真紅の火が見える。たとえるものがなかった。  ついこの間、長野の町の女学校の生徒が、妊娠のからだを此処に捨てた。摺鉢形《すりばちがた》になっている ので、底の火の中まで落ちて行かずに、申途の岩に引かかって、何時までも白い足が二本むき出 しになって見えたそうだ。  雲を破って日が登った。もくもくと湧く白雲の海の向うに、はっきりと富士山が見えた。岩の かげから、拍手が起った。われわれより後から小屋に来て、先に出た連中だった。  くだりは早く、かけ足で天狗《てんぐ》の露地《うじ》というところまで下《お》りた。其処には草花が咲き乱れていた。 露に濡《ぬ》れている地梨《じなし》の紅《あか》い実や、こんまらっぱじきと呼ばれる黒い実を摘んで喰った。  小屋まで戻ると、昨夜の若衆たちは、木を削ったり壁を塗ったり、せっせと働いていた。   浅間山から鬼が尻出して   鎌でかっ切るような屁《へ》をたれた と怒鳴っている奴があった。  夜中で気が付かなかったが、小屋の前にはもう一つちいさい小屋があった。樵夫《きこり》の親子が住ん でいるのだそうで、十八、九の娘がいた。特別の村の者なので、同じ小屋には住まないのだそう |てぬぐい《あねろばた》 だ。新しい手拭を姐さんかぶりにした可愛らしい娘だった。昨夜炉辺で若衆たちが、どうしても 五、六日中に何とかしてしまおうなどと乱暴な事をいっていた話の主題がようやくわかった。  東京に帰ってから、当時イヴァン・ツルゲネフの小説を耽読《たんどく》していた私は「山の少女」という 題で、小説まがいのものを書いた。  小屋を出て、朝露を踏んで山を下りた。登る時は夜中でただ闇《やみ》だったところが、花に埋れてい るのであった。称讃の辞《ことば》をみちばたに投捨てながら忽ち麓《ふもと》までかけ下りてしまった。 「今度の、小説ですか。」  私が汗を流しながら浅間登山のこの紀行文を書いている横から、家内が口を出した。折角高原 の晴わたった朝の空を仰ぎながら、若々しい詩情にひたろうとするところなのに、前かけにはお |醤油《しょうゆ》のしみがついているのである。  「今度は紀行文だ。浅間登山の記だ。」  「へええ、浅間山なんかに登った事があるんですか。何時。」  「もう先《せん》だよ。十八だったかなあ。十七だったかなあ。」  「そんな不精《ぶしよう》な人によく登れましたねえ。」  「そりゃあ若かったもの。」  年をとった亭主を持った家内は、そんな時代なんか想像もつかないような顔つきだ。  「今ではもう駄目でしょ。御酒《おさけ》を飲んで贅肉《ぜいにく》がついてしまったから。」  「なあにこれで鍛《きた》えたからだなんだ。時間さえあれば今だって浅間位わけなしだ。」  憮然《ぶぜん》として軒先の空を仰いだ。そそり立つ高峰《たかね》を想いながら。 (大正十五年九月二日) 1『三田文学』大正十五年十月号