山の手の子 水上滝太郎  お屋敷の子と生れた悲哀《かなしみ》を、沁《し》み々々と知り初《そ》めた のは何時《いつ》からであったろう。  一日《ひとひ》一日と限り無き喜悦《よろこび》に満ちた世界に近付いて行 行くのだと、未来を待った少年の若々しい心も、時の進 行《すゝみ》に連れて何時かしら、何気なく過ぎて来た帰らぬ昨日に、身も魂も投出して 追憶の甘き愁《うれい》に耽《ふけ》り度いとい う果敢《はか》無い慰籍《なぐさめ》を弄《もてあそ》ぶようになってから、私は私に 何時も斯《こ》う尋ねるのであった。  山の手の高台もやがて尽きようというだらだら坂を 丁度登り切った角屋。敷の黒門の中に生れた私は、幼《いとけな》 き日の日分を其黒門と切離して想起《おもいおこ》すことは出来無 い。私の家を終りとして丘の上は屋敷門の薄暗い底に は何物か潜《ひそ》んで居るように、牢獄《ひとヤ》のような大きな構造《かまえ》 の家が厳《いか》めしい塀を連ねて、何処《どこ》の家でも広く取囲ん だ庭には欝蒼《うつそう》と茂った樹木の問に春は梅、桜、桃、李《ずもし》 が咲揃って、風の吹く日には何処の家の梢から散るの か見も.知らぬ種々《いろ/\》の花が庭に散り敷いた。そればかり ではない、もう二十年も前に其の丘を去った私の幼い 心にも深く沁み込んで忘れられないのは、寂然した屋 敷屋敷から、花の頃月の宵などには甲合せたように単 調な懶い、古びた琴の音が洩れ聞えて淋しい涙を誘う のであった。私は斯うした丘の上に生れた。静寂《しずか》な重 苦しい陰鬱な此の丘の端《はず》れから狭いだらだら坂を下《くだ》|る と、カラリと四囲《あたり》の空気は変ってせゝこましい、軒《のき》の 低い家ばかりの場末の町が帯のように繁華な下町の真 中へと続いて居た。  今も静に眼《め》を閉《とじ》て昔を描けば、坂の両側の小さな、 つゝましやかな商家がとびとびながらも瞭然《はつきり》と浮んで 来る。赤々と禿《はげ》た、肥った翁《おやじ》が丸い鉄火鉢を膝子《ひざつこ》のよ うに抱《だ》いて、睡《ねむ》た相《そう》に店番をして居た唐物屋《からものや》は、長崎 屋といった。其頃の人々には未だ見馴れなかった西洋 の帽子や、肩掛や、リボンや、種々《いろ/\》の派手な色彩を掛 連ねた店は子供の眼には寧《むし》ろ、不可思議に映った。其店 で私は、動物、植物或は又|滑稽《おどけ》人形の絵を切って湯に 浮かせ、つぶつぶと紙面に汗をかくのを待って白紙《しらかみ》に 押付けると、其の獣《けもの》や花や人の絵が奇麗に映る西洋押 絵というものを買いに行った。 「坊ちゃん。今度はメリケンから上等舶来の押絵が参 りましたよ。」  と禿頭《はげあたま》は玻璃棚《ガラスだな》からクルクルと巻いたのを出しては 膚先に拡げた。子供には想像も付かない遠い靆いメリ ケンから海を渡って来た奇妙な慰藉品《なぐさめ》を私は何んなに |憧憬《あこがれ》を以て見たろう。油絵で見る様な天使が大きな白 鳥と遊んで居る有《あり》と有《あら》ゆる美しい花鳥《はなとり》を集めた異国を 想像して何《ど》んなに懐《なつ》かしみ焦《こが》れたろう。実際|在来《ありきたり》の独 楽《こま》、凧《たこ》、太鼓《たいこ》、そんな物に飽《あき》た御屋敷の子は珍物好《めずらしものずさ》 の心から烈《はげ》しい異国趣味に陥って何でも上等舶来とい われなければ喜ばなかった。長崎屋の筋向《すじむこう》の玩呉屋《おもちやや》 の、私はいゝ花客《おとくい》だった。洋刀《サアベル》、喇叭《ラツパ》、鉄砲を肩に、 腰にした坊ちゃんの勇しい姿を坂下の子等は何《ど》んなに 羨しく妬《ねたま》しく見送ったろう。何時だったか父母《ちゝはゝ》が旅中 御祖母様と御留守居の御褒美に西洋木馬を買って頂い たのも其の家であった。白斑《ぶち》の大きな木馬の鞍の上に 小さい主人が、両足を蹈張《ふんば》って跨《また》がると、白い房々し た鬣《たてがみ》を動かして馬は前後に揺れるのだった。 「マア、玩具にまで何両という品が出来るのですかね え、今時の子供は幸福《しあわせ》ですねえ。」  と御祖母様はニコニコして見ていらっしゃった。玩 具屋の側《かわ》を次第に下って行くと坂の下には絵双紙屋《えぞうしや》が |在《あ》った。此の店には手代紙を買いに行く、私の姉のお |河童《かつば》さんの姿も屡々《しば/\》見えた。芳年《よしとし》の三十六怪選の勇し くも物恐ろしい妖怪|変化《へんげ》の絵や、三枚続の武者絵に、 |乳母《うば》や女中に手を曳かれた坊ちゃんの足は幾度《いくど》もその 前で動かなくなった。就中《なかにも》忘れられないのは古い錦絵《にしさえ》 で、誰の筆か滝夜叉姫《たきやしやひめ》の一枚絵。私が誕生日の祝物に 何が欲《ほし》いと聞かれて、彼《あれ》と答えたので散歩がてらに父 に連れられて行った時「之《これ》は売物では御座いません」 と六《むず》ケしい顔の亭主がいってから亭主を憎いと思うよ りも一層、姫の美しい姿絵が懐しくなった。其他|其処《そこ》ら には呉服屋、陶器屋《せとものや》、葉茶屋、なぞがあったようだが 私はそれらに付《つい》て懐しい何の思い出も無い。坂下も亦 絵双紙屋の側の熊野神社、それと向合《むかいあ》った柳の木に軒 燈の隠れた小さな煙《たば》草屋《こや》の外は矢張り記憶から消えて |了《しま》ったけれども其の小さな煙草屋の玻璃棚《ガヲスだな》が並ベられ で、僅《わずか》に板敷を残した店先に、私の幼《いとけな》かった姿が瞭 然《はつきり》と佇《たヒず》むのである。  私の生れた黒門の内は、家も庭もじめじめと暗かっ た。さる旗本の古屋敷で、往来から見ても塀の上に蒼黒 い樹木の茂りが家を隠して居た。可成《かなり》広い庭も、大木 が造る影に全体苔蒸して日中も夜のようだった。それ でも流石《さすが》に春は植込の花の木が思いがけない庭の隅々 にも咲いたけれど、やがて五月雨《さみだれ》の頃にでもなろうも のなら絶間もなく降る雨はしとしと苔に沁みて一日や 二日からりと晴ても乾く事ではなく、だゞっ広い家の 踏めばぶよぶよと海のように思われる室々《へや/\》の畳の上に |蛞蝓《なめくじ》の落《おち》て匍《は》うようなことも多かった。物心つく頃か ら私は此の陰気な家を嫌った。そして時たま乳母の背 に負われて黒門を出る機会《おリ》があると坂下のカラカラに 乾き切った往来で、独楽《こま》回しやメンコをする町の子を 見て、白分も乳母の手を離れて、あんなに多勢《おゝぜい》の友達 と一緒に遊び度いと思う心を強くするのみであった。 乳母は、 「町っ子とお遊びになってはいけません。」  と痩せた蒼白《あおじろ》い顔を殊更真面日《ことさらまじめ》にして誡《いまし》めた。何故《なぜ》 という事は無しに私は町っ子と遊んでは不可ないもの だと思って居る程幼なかった。其頃私は毎晩母の懐《ふとこう》に |抱《いだ》かれて、竹取の翁が見|付《つけ》た小さいお姫様や、継母《まゝはゝ》に いじめられる可哀そうな落窪《おちくぼ》のお話を他人事《ひとごと》とは思わ ずに身にしみて、時には涙を溢《こぼ》して聞きながら何時か しら寝入るのであったが或晩から私は乳母に添寝され るようになった。 「もう直き赤さんがお生れになると、新様はお兄いさ んにお成になるのですから、お母様に甘ったれていら っしゃってはいけません。」  と言い聞かされて、私は小さい赤坊《あかんぼ》の兄になるのを 嬉しくは思ったが母の懐に別れなければならない事の 悲さに涙ぐまれて冷い乳母の胸に顔を押当てた。  間もなく母は寝所《しんじよ》を出ない身となった。家内の者は 何かしら気忙《きぜわ》しそうに、物言いも声を潜めるようにな り相手をして呉れる事もなくなった。私の乳母さえも 年役に、若い女のともすれば騒ぎたがるのを叱りなが らそわそわ立働いて居て私をば顧《かえもりみ》る事が少なくなっ た。出産の準備《したく》に混乱した家の甲で私は孤独《ひとリ》をつくづ く淋しいと思った。お祖母様のお気に入で夜も廊下続 きの隠居所に寝る姉も、其頃習い初めた琴を弾く事さ え止《と》められて、一人で人形を抱えては、遊び相手を欲 がって常は疳癪《かんしやく》を恐れて避けて居る弟をもお祖母様の |傍《そば》に呼んで飯事《まゝごと》の旦那様にするのであったが、それも |直《じ》きと私の方で飽《あき》が来てふとしたことから腕白が出て は姉を泣かすのでお祖母様や乳母に叱られる種となっ た。腕白盛《いたずらざかり》の坊ちゃんは「静にしていらっしゃい」と 言われて人気の少ない、室《へや》の片隅に手遊品《てあそび》を並べても |少時《しぼらく》経つと厭になって忙しい人々に相手を求めるので 「ちっとお庭にでも出てお遊びなさい」と家の内から 追い立てられる。  黒土《くろつち》の上に透間《すきま》も無い苔は木立の問に形ばかり付い て居た小道をも埋めて踏めばじとじとと音も無く水の 湧出る小暗《おぐら》い庭は、話に聞いた種々《いろ/\》の恐ろしい物の住 家のように思われ、自由に遊び回る気にはなれないの で縁近い処で満《つま》らなくすくんで居た。けれども次第に 馴れて来ると未だ見ぬ庭の木立の奥が何となく心を引 くので、恐々《こわ/\゛》ながらも幾年か箒目《ほうきめ》も入らずに朽敗した 落葉を踏んでは、未知の国土を探究する冒険家のよう に、不安と好奇心で日に日に少しずつ繁った枝を潜り 潜り奥深く進入《すゝみい》るようになった。手入をしない古庭は 植物の朽《くち》た匂いが充《みち》て居た。数知れぬ羽虫は到る所に 影のように飛で居た。森閑《しんかん》として木下闇《このしたやみ》に枯葉を踏む 自分の足音が幾度か耳を脅《おびやか》した。蜘蛛《くも》の巣に顔を包 まれては土蜘蛛の精を思い出して逃げかえった。然《しか》し 斯うして踏馴《ふみなれ》た道を知らず/\に造って私は遂に我家 の庭の奥底を究《きわ》めたのであった。暗緑のしめっぽい木 立を抜けるとカラリと晴た日を充分《いつぱい》に受けて、其処は まばらに結った竹垣も何時か倒れては居たが垣の外は 打立てたような崖で、眼の下には坂下の町の屋根が遠 く迄昼の光の中に連《つらな》って居る。その果てに品川の海が |真蒼《まつさお》に輝いて居た。今迄思いもかけなかった眼《め》新し い、広い景色を自分一人の力で見出した嬉しさに私は 雨さえ降らなければ毎日一度は必ず崖の土に小さい姿 を現わすようになった。そして馴《なれ》るに従って日一日と 何かしら珍しい物を発見した。熊野神社の大鳥居も見 えた。三吉座《みよしざ》という小芝居の白壁に幾筋かの贔負幟《ひいぎのぼり》が 風に吹かれて居るのを、一様に黒い屋根の間に見出し た時は殊に嬉しかった。芝居|好《ずき》の車夫の藤次郎が父の 役所の休日には私の守をしながら、 「乳母《ばあや》には秘密《ないしよ》ですぜ。」  といっては肩車に乗せて其の三吉座の立見に連れて 行く。父母と共に行く歌舞伎座や新富座の緋毛氈の美 しい桟敷《さじき》とは打って変って薄暗い鉄格子《てつこうし》の中から人の 頭を越して覗いたケレン沢山の小芝居の舞台は子供の 目には反って不思議に面白かった。殊に大向うといわ ず土間も桟敷も、一斉に贔負々々の名を呼び立《たて》て、若《も》し か敵役《かたきやく》でも出ようものなら熱誠を籠めた怒《ど》罵《ば》の声が場 内に課になる不秩序な賑やかさが心も躍るように思 わせたのに違いない。私は藤次郎のいうまゝに乳母に は隠れて度々《たび/\》連れて行って貰ったものだった。静寂な 木立を後《うしろ》にして崖の上に立《たつ》て居ると芝居の内部の鳴物 の音《ね》が暸然《はグキリ》と耳に響くように思われて彼《あ》の坂下の賑わ いの中に飛で行き度い程一人ぼっちの自分がうら淋し く思われた。  それは確に早春の事であった。日毎に一人で訪《おと》ずれ る崖には一夜の中に著しく延びて緑を増す雑草の中に 見る限りいたいた草の花が咲いて居た。其草の中にス クスクと抜出た虎杖《すかんぽ》を取る為に崖下に打続く裏、長屋の 子供等が、嶮《けわ》しい崖の草の中をがさがさあさって居 た。小汚ない服装《みなり》をした鼻垂しではあったが犬のよう に軽快な身のこなしで、群を作って放肆《ほしいまゝ》に遊び回って 居るのが遊相手の無い私には何《ど》んなに懐しくも羨しく 思われたろう。足の下を覗くように崖端《がけばた》へ出て、自分 が一人ぼっちで立って居る事を子供等に知って貰い度 いと思ったが此方から声を掛ける程の勇気もなかっ た。全く違った国を見るように一挙一動の掛放《かけはな》れた彼 等と、自分も同じように振舞い度いと思って手の届く 所に生えて居る虎杖《すかんぽ》を力|充分《いつばい》に抜いて、子供達のする ように青い柔い茎《くき》を噛んでも見た。しくしくと冷め度《た》 い酸《すつば》い草の汁が虫歯の虚孔《うろ》に沁み入った。  斯うした果敢《はか》ない子供心の遣瀬《やるせ》なさを感じながら日 毎同じ場所に立つ御屋敷の子の白いエプロンを掛けた 小さい姿を、やがて長屋の子等が崖下から認めた迄に は、如何《どう》にかして、自分の存在を彼等に知せようとす る瓦を積んでは崩すような取り止めも無い謀略《はかりごと》が幼い 胸中に幾度か徒事《あだ》に回《めぐ》らされたのであったが遂々《とう/\》何の |手段《てだて》をも自分からする事なく或日崖下の子の一人が私 を見付てくれたが偶然上を見た子が意外な場所に佇む 私を見るとさも吃驚《びつくり》したような顔をして仲間の者にひ そひそと私語《さ」や》く気配だった。かさかさ草の中を潜って 居た子供の顔は人馴ぬ獣《けもの》のように疑深い眼付で一様に 私を仰ぎ見た。  其の翌日。もう長屋の子と友達になったような気が して、何日《いつ》もよりも勇んで私は崖に立って待って居 た。やがてがやがや列を作ってやって来た子供達も私 の姿を見て怪しまなかった。 「坊ちゃん、お遊びな。」  と軽く節《ふし》を付けて昨日《きのう》私を見付けた子が馴々しく呼 んだ。私は何と答えていゝのか解らなかった。「町っ 子と遊んではいけません」といった乳母の言葉を想起《おもいおこ》 して何か大きな悪い事をしてしまったように心を痛め た。それでも、 「坊ちゃんお出でよ。」  と気軽に呼ぶ子供に誘われて、つい一言二言《ひとことふたζと》は口返 えしをするようになったが悪戯子《いたずらつこ》も、流石《さすが》に高い崖を |攀登《よじのぼ》って来る事は出来ないので大きな声で呼び交すよ り詮方《しかた》が無かった。  此様《こん》な日が続いた或日、崖上の私を初めて発見した 魚屋の金ちゃんは表門から町へ出て来いという知恵を 私に与えた。暫時《しばらく》は不安心に思い迷ったが遊び度い一 心から産婆や看護婦にまじって乳母も女中達も産所《さんじよ》に 足を運んで居る最中を私の小さな姿は黒門を忍び出た のである。曽《かつ》て一度も人手を離れて家の外を歩いた事 の無かった私は、烈しい車馬の往来が危《あぶな》っかしくて、 |折角《せつかく》出た門の柱に噛り付いて不可思議な世間の活動を 臆病な眼で見て居るのであった。  麗《うらゝか》な春の昼は、勢よく坂を馳下《はせくだ》って行く俥《くるま》の輪があ げる軽塵にも知られた。目まぐるしい坂下の町を暫《しばらく》 眺めて居ると天から地から満ち溢《あふ》れた日光の中を影法 師のような一隊が横町から現われて坂を上って来た。 「坊ちゃんお遊びな。」  と遠くから声を揃えて迎いに来た町っ子を近々と見 た時私は思わず門内に駆込んで了った。汚ならしい着 物の、埃まみれの顔の、眼ばかり光る鼻垂しは手手《てんで》に 棒切を持って居た。 「坊ちゃん、お出でな皆《みんな》で遊ぶからよ。」  中では一番|年増《としかさ》の金ちゃんは尻切草履《しりきれぞうり》を引ずって門《もん》 |柱《ばしら》に手を掛けながら扉の陰《かげ》にかくれて恐々《こわ/\゛》覗いて居る 私を誘った。坊ちゃんの小さい姿は町っ子の群に取巻 かれて坂を下った。  間も無く私は兄になった。其の当座の混雑は、私を して自由に町っ子となる機会を与えた。或は邪魔者の 居ない方がかゝる折には結句いゝと思って家の者は知 っても黙って居たのかも知れない。  比較的に気の弱いお屋敷の子は荒々しい町っ子に混 って負《ひけ》を取らないで遊ぶ事は出来なかったが彼らは物 珍しがって私をばちやほやする。私は又何をしても敵《かな》 いそうもない喧嘩早い子供達を恐いとは思いつゝも窮 屈な陰気な家に居るよりも誰に咎められる事も無く気 儘に土の上を駆回るのが面白くて、遊びに疲れた別れ 際に「明日もきっとお出で」と言われるまゝに日毎に 其の群に加《くわわ》つた。  私達の遊び場となったのは熊野神社の境内と柳屋と いう烟草屋の店先とであった。柳屋の店には何時でも 若い娘が坐って居た。何という客だったか忘れてしま ったけれども色白の肥った優しい女だった。私は柳屋 の娘というと黄縞《きじま》に黒襟で赤い帯を年が年中して居た、 ように印象されて居る。弟の清《せい》ちゃんは私が一番の仲 よしで町ッ子の群の中では小ざっばりした服装《なり》をして 居た。そして私と清ちゃんが年も脊丈も誰よりも小さ かった。柳屋の姉弟《きようだい》にはお母《つか》さんが無く病身のお父《とつ》さ んが、何時でも奥で咳をして居た。店先には夏と限ら ずに縁台が出してあったもので、私達ばかりか近所の 店の息子や小僧が面白ずくの烟草《たばこ》をふかしながら騒い で居た。 「彼奴等《あいつら》は清ちゃんの姉さんを張りに来てやがるんだ よ。」  という金ちゃんの言葉の意昧は解らぬながらも私は 娘の為に心を配《わずら》わした。けれども果敢ない私の思い出 の中心となるのは此の柳屋の娘ではなかった。  都もやがて高台の花は風も無いのに散尽《ちりつく》す頃であっ た。或日私は何時もの通り黒門を出て坂を小走りに馳《はせ》 下った。其日に限って私より先には誰も出て来て居な いので、私は暫く待つ積りで柳屋の縁台に腰かけた。 店番の人も見えなかったが程無く清《せい》ちゃんが奥から駆 出して来る。続いて清ちゃんの姉さんも出て来て、 「オヤ、坊ちゃん一人ッきり。」  と言いながら私の傍《そば》に坐った。派手な着物を着て桜 の花簪《はなかんざし》をさして居た。私の頬《ほお》にすれ/\゛の顔には白 粉が濃かった。 「今口は皆遊びに来ないのかい。」 「エヽ、町内のお花見で皆で向島に行くの。だから坊 ちゃんは又|明日《あした》遊びにお出で。」  娘は諭《さと》すように私の顔を覗き込んだ。  間もなく「今日《こんち》は」と仇っぽい声を先にして横町か ら町内の人達だろう、若衆や娘がまじって金ちゃんも 鉄公も千吉も今日は泥の付かない着物を着て出て来 た。三味線を担《かつ》いだ男も居た。 「アラ、今丁度出掛けようと思って居た処《とこ》なの。如何《どう》 もわざ/\誘って頂いて済みません。」  清ちゃんの姉さんはいそ/\と立上った。私は人々 に顔を見られるのが気まりが悪くてもじくして居 た。 「どうも扮装《おつくり》に手間がとれまして困ります。サア出掛 けようじゃあがあせんか。」  と赤い手拭《てぬぐい》を四角に畳んで禿頭に載せたじゞいが剽 軽《ひようきん》な声を出したので皆一度に吹出した。 「厭な小父《おじ》さんねえ。」  と柳屋の娘は袂《たもと》を振上《ふりあげ》て一寸睨んだ。  どやくと歩き出す人々にまじった娘は「明日お出 で」といって私を振向いた。 「坊ちゃんは行かないのかい、一緒にお出でよ。」  と金ちゃんが叫んだけれども誰も何ともいって呉る 人は無かった。私は埃を上げてさんざめかして行く後 姿を淋しく見送って居ると、人々の一番|後《うしろ》に残って、 柳屋の娘と何か私語《さ」や》き合って居た、先刻《さつき》「今日は」と |真先《まつさき》に立って来た娘がしげ/\と私を振かえって見て 居たが、小戻《こもどり》して不意に私を抱き上げて何もいわない で頬ずりした。驚いて見上る私を蓮葉《はすつば》に眼で笑って其 のまゝ清ちゃんの姉さんと手を引合って人々の後を追 って行った。それが金ちゃんの姉のお鶴《つる》だという事は 後で知ったが紫と白の派手な手綱染《たづなぞめ》の着物の裾《すそ》を端折《はしお》 ッて紅《くれない》の長襦袢《ながじゆばん》がすらりとした長い脛《はき》に絡《から》んで居 た。銀杏返《いちようがえし》に大きな桜の花簪《はなかんざし》は清ちゃんの姉さんと お揃いで襟には色染の桜の手拭を結んで居た姿は深く 眼に残った。私は一人|悄然《しようぜん》と町内のお花見の連中が春 の町を練って行く後姿が、町角に消える迄立尽したが それも見えなくなると俄に、取残された悲しさに胸が迫 って来て思わず涙が浮んで来た。  多数者の中で人々と共に喜び共に狂う事も出来ない 淋しい孤独の生活を送る私の一生は御屋敷の子と生れ た事実から切離す事の出来無い運命であったのだ。 小さな坊ちゃんの姿は一人花見連とは、反対に坂を登っ て、やがて恨めしい黒門の中に吸われた。  珍しい玩具《おもちゃ》も五日十日とたつ中には投出されたまゝ |顧《かえりみ》られなくなるように、最初の中こそ「坊ちゃん坊 ちゃん」と囃《はや》し立てた子供も、やがて烟草屋の店先の 柳の葉も延び切った頃には全く私に飽《あき》て了って坊ちゃ んは最早《もはや》大将としての尊敬は失われて金ちゃんの手下 の一人に過ぎなかった。 「何んでえ弱虫。」  斯ういって肱《ひじ》を張って突かゝって来る鼻垂しに逆ら う丈の力も味方も無かった。けれども矢張毎日のよう に遊び仲間を求めて町へ出たのは小さい妹の為に家《うち》中 の愛を奪われ、乳母をさえも奪われたが為に家を嫌っ たよりもお鶴といった魚屋の娘に逢い度いためであっ た。  子供の眼には自分より年上の人、殊に女の年齢《とし》は全 く測る事が尚出来ない。お鶴も柳屋の娘も私には唯娘で あったとばかりで其年頃を明確《はつきり》という事は思いも及ば ない事に属して居る。お鶴は烟草屋の柳の陰の縁台の 女主人公であった。色の蒼白い背丈の割合に顔の小さ い女で私は今、そのすらりとした後姿を見せて蓮葉《ほすつぱ》に |日和下駄《ひょりげた》を鳴らして行くお鶴と、物をいわない時でも 底深く漂う水のような涼しい眼を持ったお鶴とを殊更 |瞭然《はつきり》と想い出す事が出来る。  きら/\と暑い初夏の日がだらだら坂の上から真直 に流れた往来は下駄の歯がよく冴えて響く。日に幾度 となく撒水車《みずまきぐるま》が町角から現われては、商家の軒下迄も |濡《ぬら》して行くが、見る間に又乾き切って白埃《しらほこり》になって了 う。酒屋の軒には燕《つはめ》の子が嘴《くちばし》を揃えて巣に啼いた。 氷屋が砂漠の緑地のように僅に涼しく眺められる。一 日一日と道行く人の着物が白くなって行くと柳屋の縁 台は愈々《いよ/\》賑やかになった。派手な浴衣のお鶴も、街《ちまた》に 影の落る頃きっと横町から姿を見せるのであった。 「今日は」と遠くから声を掛けて若衆の中でも構わず に割込んで腰を下した。 「坊ちゃん。此処《こゝ》にいらっしゃい。」  とお鶴は何時も私を其膝に抱いて後から頬ずりしな がら話の中心になって居た。私はもう汗みずくになっ て熊野神社の鳥居を回って鬼ごっこをする金ちゃんに 従って行こうとはしないで、よくは解らぬながらも縁 台の話を聞いて居た。勿論《もちろん》話は近所の噂で符徴《ふちよう》まじり のものだった。「お安くないね」「御馳走さま」という ような言葉を小耳に挾んで帰って、乳母に叱られた事 もあった。若い娘の軽い口から三吉座の評判も屡々《しば/\》出 た。お鶴は口癖のように、 「死んだと思ったお富たあ……お釈迦《しやか》様でも気がつく めえ。」  と一寸済ましてやる声色《こわいろ》は「ヨウ/\梅ちゃんそっ くり」という若者達の囃《はや》す中で聞かされて私も時たま 人の居ない庭の中などでは小声ながらも同じ文句を 繰返した。尾上梅之助という若い役者が三吉座を覗く 場末の町の娘子《むすめつこ》をしてどんなにか胸を躍らせたもので あったろう。藤次郎の背に乗った私は、「色男」「女殺 し」という若者のわめきにまじる「いゝわねえ」「奇 麗ねえ」と、感激に息も出来ない娘達の吐息《といき》のような |私語《さゝやき》を聞き洩さなかった。私も何時も奇麗《きれい》な男になる 梅之助が好きだったけれど余りにお鶴がほめる時は微《かす》 かに反感を懐いた。 「平生着馴《ふだんきなれ》た振袖から、髷《まげ》も島田に由井ケ浜、女に化 けて美人局《つ丶もたせ》……。ねえ坊ちゃん。梅之助が一番でしょ う。」  といってお鶴は例のように頬を付ける。私は人前の 気恥かしさに、 「梅之助なんか厭だい。」  というのだった。実際連中は、お鶴が何時も私を抱 いて居るので面白ずくによく戯弄《からか》った。 「お鶴さんは坊ちゃんに惚れてるよ。」  私は何かしら真赤になってお鶴の膝を抜出ようとす るとお鶴は故意《わざ》と力を入れて抱締《だきし》める。 「左様《そう》ですねえ。私の旦那様だもの。皆焼いてるんだ よ。」 「嘘だい/\。」  足をばたばたやりながら擦付ける頬を打とうとす る、その手を取ってお鶴はチュッと音をさせて唇に吸 う。 「ア丶ア、私は坊ちゃんに嫌われて了った。」  さも落胆《がツがり》したように言うのであった。  やがて今日も坂上にのみ残って薄明《うすらあかり》も坂下から次 第に暮初《くれそ》めると誰からともなく口々に、 「夕焼小焼、明日天気になあれ。」  と子供等は歌いながら彼処此処《あつちこつち》の横町や露路《ろし》に遊び 疲れた足を物の匂いの漂う家路へと夕餉《ゆうげ》の為に散って 行く。 「お土産《みやげ》三つで気が済んだ。」  と背中をどやして逃出す素早い奴を追掛けてお鶴も 「明日又お出で」といって、別れ際に今日の終りの頬 擦をして横町へ曲って行く。  私は何時も父母の前にキチンと坐って、食膳に着く のにさえ掟のある、堅苦しい家に帰るのが何だか心細 く、遠ざかり行く子供の声を果敢ない別れのように聞 きながら一人で坂を上って黒門を這入った。夕暮は遠 い空の雲にさえ取止もない想《おもい》を走《はしら》せてしっとりと心も うちしめり訳もなく涙ぐまれる悲しい癖を幼い時から 私は持って居た。  玄関を這入ると古びた家の匂いがプンと鼻を衝く。 |駄々広《だゞつぴろ》い家の真中に掛かる燈火《ともしび》の光の薄らぐ隅々には 壁虫が死絶えるような低い声で啼《た》く。家内《やうち》を歩く足音 が水底《みなぞこ》のように冷めたく心の中へも響いて聞える。世 間では最も楽しい時と聞く晩餐時さえ厳めしい父に習 って行儀よく笑声《わらいご亥》を聞くこともなく終了《おしまい》になって了う 音楽の無い家の佗しさは又私の心であった。お祖母様 や乳母や誰彼に聞かされたお化の話は総《すべ》て我家にあっ た出来事ではないかと夜は何時でも微かな物音にさえ |愕《おび》え易《やす》かった。自然と私は朝を待った。町っ子の気儘 な生活を羨んだ。  カラリと晴れた青空の下に物皆《ものみキ》が動いて居る町へ出 ると蘇生《よみがえ》ったように胸が躍って全身の血が勢よく回 る。早くも街には夏が漲《みなぎ》って白く輝く夏帽子が坂の 上、下へと汗を拭き/\消えて行く。殊更暑い日中を 択んで菅笠を被った金魚屋が「日高、金魚」と焼付く ような人の耳に、涼しい水音を偲《しリ》ばせる売声を競《きそ》う後 からだらりと白く乾いた舌を垂して犬がさも肉体を持 余《もであま》したようについて行く。夏が来た/\。其の夏の熊 野神社の祭礼も忘れられない思い出の一頁を占めねば ならぬ。  町内の表通りの家の軒には何処も揃いの提灯《ちようちん》を出し たが屋根と屋根との打続く坂下は奇《き》麗に花々《はな/\゛》しく見え るのに、塀と塀とは続いても隣の家の物音さえ間えな い坂上は大きな屋敷門に提灯の配合《うつり》が悪く、反って墓 場のように淋しかった。そればかりか私の家なぞは祭 といっても別段何をするのでもないのに引替《ひきかえ》て商家で は稼業を休んでまでも店先に金屏風《きんびようぶ》を立回し、緋毛 氈《ひもうせん》を敷き、曲りくねった遠州流の生花を飾って客を待 つ。娘達も平生《ふたん》とは見違える様に奇麗に着飾って何か につけてはれがましく仰山《ぎようさん》な声を上げる。若衆子《わかいしゆ》供は |夫々《それ/\゛》|揃《ノろい》の浴衣で威勢よく駆回る。ワッショウ/\/\ と神輿《みこし》を担ぐ声はたゞさえ汗ばんだ町中の大路小路に 暑苦しく聞える。斯ういう時に日頃町内から憎まれて 居たり、祝儀《しゆうぎ》の心付が少なかったりした家は思わぬ返 報《しかえし》をされるものだった。坂上の屋敷へも鉄棒でガチャ ン/\と地面を打って脅《おびやか》す奴を真先に何れも酒気を 吐いてワッショイ/\と神輿を担ぎ込む。それをば、 もう来る頃と待って居て若干《いくらか》祝儀を出すと又ワッショ ウ/\と温和《おとなし》く引上て行くが何時の祭の時だったかお 隣の大竹さんでは心付《こレろづけ》が少ないというので神輿の先棒 で板塀を滅茶々々《めちや/\》に衝《つき》破られた事があったのを、我家《わがや》 も同じ目に逢わされはしないかと限りなき恐怖を以て 私は玄関の障子を細目にあけながら乳母の袖の下に隠 れて恐々神輿が黒門の外の明るい町へと引上て行くの を覗いたものだった。子供連も手々《てんで》に樽神輿を担ぎ回 って喧嘩の花を咲かせる。揃の浴衣《ゆかた》に黄色く染めた麻 糸に鈴を付けた襷《たすき》をして、真新しい手拭を向う鉢巻に し、白足袋《しろたび》の足にまでも汗を流してヤッチョウ/\と 駆出すと背中の鈴がチャラチャラ|った。女中に手を |曳《ひか》れて人込におど/\しながら町の片端を平生《ふだん》の服装 で賑わいを見物するお屋敷の子は、金ちゃんや清ちゃ んの汗みずくになって飛回る姿をどんなに羨しくも悲 しくも見送ったろう。  やがて祭が終っても柳屋の店先はお祭の話ばかりだ った。自う横町の樽神輿と衝突した子供達の功名談を 妬《ねたま》しい程勇ましいと思った。若衆の間に評判される踊《おどり》 屋台にお鶴が出たという事は限りなく美しいものに憧 るる私の心を喜ばせたと共に自分がそれを見なかった |口惜《くちお》しさもいかばかり深いものであったろう。けれど も私は直ぐさま我が羨望《せんぽう》の的《まと》だった絵双紙屋の店先の 滝夜叉姫の一枚絵をお鶴と結び付てしまった。お鶴の 膝に抱《だか》れながら私は聞いた。 「お鶴さんは、踊屋台に出て何をしたの。」 「何《なん》だったろう。当て御覧。」 「滝夜叉かい。」 「エ丶何故。」 「だって滝夜叉が一番いゝんだもの。」  お鶴は嬉しそうに笑って又頬擦をするのだった。真 実《ほんと》にお鶴が滝夜叉姫になったのか如何《どう》か。私のいうま まに、良《い》い加減に左様《そう》だと答えたものなのか私は知ら ないが、古い錦絵の滝夜叉姫と踊屋台に立ったお鶴と は全く同一《おんなじ》だったように思われて、踊屋台を見なかっ たにも拘《カゝ》わらず二十年後の今もなお私はまざ/\゛と美 しい絵にしてそれを幻に見る事が出来る。  土用の中は海近い南の浜辺で暮した。一時として静 まらぬ海の不思議が既に子供心を奪って了ったので私 は物欲《ものほし》い心持を知らずに過ぎた。けれども海岸の防風 林にも無情《つれな》い風が日に/\吹きつのり別荘町も淋しく なる八月の末には都へ帰らなければならなかった。帰 った当座は住馴《すみなれ》た我家も何《なん》だか物珍しく思われたが夏 の緑に常よりも一層暗くなった室の中に大人のように ぐったりと昼寝する辛棒《しんぼう》も出来ないので私は又久し振 で町をおとずれた。木陰の少ない町中は瓦屋根にキラ キラと残暑が光って亀裂《きれつ》の出来た往来は通魔《とおりま》のした後 のように時々一人として行人の影を止めないで森閑と して了う。柳屋の店先に立った私を迎えたのは、店棚 の陰に白い団扇《うちわ》を手にして坐って居た清ちゃんの姉さ ん一人だ。 「マア、暫振《しばらくぶ》りねえ。何処へ行って居らしったの。其様《そんな》 に日に焼けて。」  娘はニコ/\して私を店に腰掛けさせ団、扇で煽《あお》ぎな がら話掛けた。 「誰も居ないのかい。清ちゃんも。」 「エ丶。今しがた皆《みんな》で蝉《せみ》を取るって崖へ行ったようで すよ。」 「誰も来ないのかなあ。」  満《つま》らなそうに私は繰返していった。 「誰もって誰さ。ア丶解った。坊ちゃんの仲よしのお 鶴さんでなくっちゃいけないんだねえ。私ともちっと 仲よしにおなりな。」  娘は面白そうに笑った。  夕食の後、家内の者は団扇を手に縁端《えんばな》で涼んで居る 中、こっそりと私は未だ明《あかる》い町へ抜出した。早くも燈 火《ともしぴ》のついた柳屋の店先にはもう二三人若者が集って居 た。子供達は私を珍しがって種々《いろ/\》と海辺の話を聞きた がったがそれにも飽《あき》ると餓鬼大将の金ちゃんを真先に 清ちゃん迄も口を揃えて、 「お尻の用心御用心。」  とお互同志で着物の裾を捲《まく》り合ってキャッくと悪 戯《わるふざけ》を始めたが了いには止め度がなくなってお使にやら れる通りすがりの見も知らぬ子のお尻を捲ってピチャ ピチャと平手で叩いて泣かせる、若者は画白ずくに嗾《け》 しかける。私は店先に腰かけて黙って見て居たが小さ な女の子までも同じ憂目《うきめ》に逢ってワアッと泣いて行く のを可哀そうに思った。  間もなく町は灯《ひ》になって見る間《ホ》にあわたゞしく日が 沈めば何処からともなく暮初《くれそめ》て坂の上のほんのり片明 りした空に星がチロリ/\と現われて烟草屋の柳に涼 しい風の渡る夏の夜《よる》となる。 「お尻の用心御用心。」  と調子付いた子供の声は益々《ます/\》高くなってゆく。 「オイ/\彼処《あすご》へ来たのはお鶴ちゃんだろう。」  斯ういった若者の一人は清ちゃんの姉さんが止める のも聞かずに、面白がる仲間にやれ/\といわれて子 供達に命令《いいつ》けた。 「誰でもいゝからお鶴ちゃんの着物を捲ったら氷水を おごるぜ。」  流石に金ちゃんは姉の事として承知しなかったが車 屋の鉄公はゲラ/\笑いながら電信柱の後《うしろ》に隠れる。 私は息を殺してお鶴の為に胸を波打たせた。夜目に際 立って白い浴衣のすらりとした姿をチラくと店灯《みせあかり》に 浮上らせてお鶴は何時もの通り蓮葉に日和下駄をカラ コロと鳴してやって来る。やり過して地びたを這っ て後へ回った鉄公の手がお鶴の裾にかゝったかと思う と紅が翻《ひるがえ》って高く捲れた着物から真白な脛《はぎ》が見え た。同時に振返ったお鶴は鉄公の頭をピシャ/\と平 手でひっぱたいてクルリと踵《きびづ》をかえすと元来た方ヘ カラコロとやがて横町の闇に消えてしまった。気を呑 まれた若者は白けた顔を見合せておかしくもなく笑っ た。私は強い味方を持てる気強さと滝夜叉のように凄 い程美しい我がお鶴を堪らなく嬉しく懐しく思ったの であったが待設《まちもう》けた人に逢われぬ本意なさに未だ崩れ ない集りを抜けて帰った。  暗聞の多い坂上の屋敷町は、私をして若い女や子供 が一人で夜歩きすると何処からか出て来て生血《いきち》を吸う という野衾《のぶすま》の話を想起《おもいおこ》させた。その話をして聞かせた 乳母の里での村一番の美しい娘が人に逢い度いとて闇 夜に家を抜出して鎮守の森で待って居る内に野衾に血 を吸《すわ》れて冷《つ》めたくなって居たそうだ。氷を踏むような 白分の足音が冷え初《そ》めた夜の町に冴え渡るのを心細く 聞くにつけ野衾が今にも出やしないかとビク/\しな がら、一人で夜歩きをした事をつく/\゛悔いたのであ った。覆《おゝ》いかゝった葉柳に蒼澄んだ瓦斯燈《ガスとう》がうすぼん やりと照して屈る我家の黒門は、固くしまって扉に打 った鉄鋲《てつびよう》が魔物のように睨んで居た。私は重い潜戸《くにりど》を |如何《どう》して這入る事が出来たのだったろう。明るい玄関 の格子戸から家の内へ駆込むと中の間《ま》から飛んで出て 来た乳母は緊《しっか》りと私を抱き締めた。 「新様|貴方《あたた》はマア何処に今頃、迄遊んでいらっしゃった のです.。」  あれ程いって置くのに何故町へ出るのかと幾度か繰 返して言い聞かせた後《のち》、 「もう二度と町っ子なんかとお遊びになるんじゃあり ません乳母《ばあや》がお母様に叱られます。」  と私の涙を誘うように掻口説《かきくど》くので、何時も私がい う事をきかないと「もう乳母は里へ帰ってしまいま す」というのが真実《ほんと》になりはしないかと思われて知ら ず知らずホロリとして来たが、 「新次や新次や。」  と奥で呼んでいらっしゃるお母様のお声のカに私は 駆出して行った。  御屋敷の子と生れた悲哀《かなしさ》は沁々《しみ/\゛》と刻まれた。 「卑しい町の子と遊ぶと、何時の間にか自分も卑しい 者になって了ってお父様のような偉い人にはなれませ ん。これからはお母様のいう事を聞いてお家でお遊び 、なさい。それでも町の子と遊び度いなら、町の子にし てしまいます。」  という母の誡《いましめ》を厳《おごそ》かに聞かされてから私は又掟の 中に囚《とら》われて居なければならなかった。暫《しばらく》は宅中《うちじゆう》玩 具箱をひっくり返して、数を尽して並べても「真田三 代記」や「甲越軍談」の絵本を幼い手ぶりで彩《いろど》って も、陰欝な家の空気は遊び度い盛りの坊ちゃんを長く 捕えては居られない。私は又雑草をわけ木立の中を犬 のように潜って崖端へ出て見はるかす町々の賑いに果 敢なく憧《あご》憬《が》れる子となった。 「何故《なぜ》御屋敷の坊ちゃんは町っ子と遊んではいけない のだろう。」  斯う自分に尋ねて見たが如何《どう》しても解らなかった。 後年、此の時分の、解き難い謎を抱いて青空を流れる 雲の行衛《ゆくえ》を見守った遣瀬《やるせ》ない心持が、水のように湧き 出して私は物の哀れを知初めるという少年の頃に手飼 の金糸雀《かなりや》の籠《かご》の戸をあけて折柄《おりから》の秋の底迄も藍を湛え た青空に二羽の小鳥を放してやった事がある。  崖に射す日光は日に日に弱って油を焦すようだった 蝉の音も次第に消えて行くと、夏もやがて暮|初《そ》めて草土 手を吹く風はいとゞ堪え難く悲哀《かなしみ》を誘う。烈しかった |丈《だけ》に逝《ゆ》く夏は肉体の疲れからも反って身に沁みて惜ま れる。本の莫も凋落《ちようらく》する寂寥《せきりよう》の秋が迫るに連れて癒《いや》し 難き傷手《いたで》に冷え/\゛と風の沁むように何とも解らない ながらも、幼心《おさなごころ》に行きて帰らぬもののうら悲しさを私 は沁々と知ったように思われる。斯うして秋を迎えた 私は果敢なくお鶴と別れなければならなかった。  或日私は崖下の子供達の声に誘われて母の誡《いましめ》を破 って柳屋の店先の縁台に母よりも懐しかったお鶴の膝 に抱《いだ》かれた。 「何故此頃はちっとも来なかったの。私が嫌《いや》になった んだよ憎らしいねえ。」  と柔かい頬を寄せ、 「私もう坊ちやんに嫌われて満《つま》らないから芸者の子に なって了うんだ。」  といったお鶴の言葉はどんなに私を驚かしたろう。 遠い下町の、華《はな》やかな淫らな街に売られて行くのを出 世のように思って画白そうに嬉しそうにお鶴の話すの を私はどんなに悲しく聞いたろう。然しそれも今は忘 れようとしても忘れる事の出来ない懐しい思い出とな って了った。  お鶴は既に、明日にも、買われて行く可《べ》き家に連れ て行かれる身であった。其処は鉄道馬車に乗って三時 間もかゝって行く隅田川の辺《ほと》りで一町内|全体《ずつかり》芸者屋 で、芸者の子になると美味物《おいしいもの》が食べられて、奇麗な着 物は着たいほうだい、踊を踊ったり、三味線を弾いた りして毎日賑やかに遊んで居られるのだとお鶴はいっ た。 「私もいゝ芸者になるから坊ちゃんも早く偉い人にな って遊びに来ておくれ。」  お鶴は明日の日の幸福を確く信じて疑わない顔をし ていった。平生《ふだん》よりも一層はしゃいで苦の無い声でよ く笑った。 「今度遊びに行っていゝかい。」  と私がいったのを、 「子供の癖に芸者が買えるかい。」  と囃《はや》し立てた子供連にまじってお鶴のはれた声も笑 った。そして何時もよりも早く帰えると言い出して別 れ際《ぎわ》に、 「私を忘れちゃ厭だよ、きっと偉い人になって遊びに 来ておくれ。」  と幾度《いくたび》か頬擦をした結《あげ》局《く》に野衾《のぶすま》のように私の頬を強 く強く吸った。「あばよ」といって、蓮葉にカラコロ と歩いて行く姿が瞭然《はつきり》と私に残った。  悄然と黒門の内に帰った私は二度とお鶴に逢う時が 無かった。忘れる事の出来ないお鶴に就いて私の追想 は余りに屡々《しば/\》繰返えされたので、もう幼かった当時の 私の心持、を其の儘《まゝ》に記《しる》す事は出来ないであろう。私は 長じた後の日に彩《いろど》った記憶だと知りながら、お鶴に別 れた夕暮の私を懐しいものとして忘れない。 「お鶴は行って了うのだ。」  と思うと眼が霞んで何《なんに》も見えなくなって、今迄にお 鶴が私語《さゝや》いた断々《きれ/\゛》の言葉や、未だ残って居る頬擦や接 吻《くちづけ》の温《あたゝか》さ柔かさも総て涙の中に溶けて行って私に残 るものは悲哀《かなしみ》ばかりかと思われる。堪《こら》えようとしても 浮ぶ涙を紛《まぎ》らす為めに庭へ出て崖端に立った。「お鶴 の家は何処だろう」傾く日ざしが僅に残る、「様に黒 い長屋造りの場末の町とて如何してそれが見分けられ よう。悲哀に満ちた胸を抱いて放肆《ほしいまゝ》に町へも出られな い掟と誡めとに縛られる御屋敷の子は明日にもお鶴が 売られて行く遠い下町に限りも知らず憧《あご》がれた。「子 供には買えないという芸者になるお鶴と一日も早く大 人になって遊び度い。」  見る見る落日の薄明《うすらあかり》も名残なく消えて行けば、 「蛙が鳴いたから帰えろ/\。」  と子供の声も黄昏《たモが》れて水底《みなそこ》のように初秋の夕霧が流 れ渡る町々にチラ/\と灯《ともしび》がともると何処かで三味 線の音が微かに聞え出した。ポツンポツンと絶え絶え に崖の上迄も通う音色《ねいろ》を私は如何してもお鶴が弾くの だと思わないでは居られなかった。そして何《なん》だか其の |絃《いと》に身も魂も誘われて行くようにいとせめて遣瀬ない 思いが小さな胸に充分《いつばい》になった。「お鶴は行って了う のだ」「一人ぼっちになって了うのだ」とうら悲しさ に迫り来る夜の闇の中に泣濡れて立って居た。  ふと私は木立を越した家の方で「新様新様」と呼ぶ 女中の声に気が付くと始めて闇に取巻かれうなだれて 佇む自分を見出して夜の恐怖に襲われた。息も出来な いで夢中に木立を抜けた私は縁側から座敷へ駆上ると |突然《いきなリ》端近に坐って居た母の懐にひしと縋《すが》って声も惜し まずに泣いた。涙が尽きるまで泣いた。  あゝ思い出の懐《なつ》かしさよ。大人になって、偉い人に なって、遊びに行くと誓った私は御屋敷の子の悲哀を 抱いて掟《おきて》られ縛《いまし》められ僅に過し日を顧みて慰むのみで ある。お鶴は何処に居るのか知らないが過し目の果敢 なき美しき追想に私はお鶴に別れた夕暮、母の懐に縋 って涙を流した心持をば、悲しくも懐かしくも嬉しき 思い出として二十歳《はたち》の今日も沁み沁みと味うことが出 来るのである。                  (明治四十四年)