宇野四郎氏を憶《おも》う 水上滝太郎  『三田文学』の同人も、新顔が殖《ふ》える一方に、古い方が欠けてゆく。久米秀治氏が死に、井川 滋氏が死に、沢木四方吉《さわきよもきち》氏が死に、宇野四郎氏が死んだ。  去年十一月沢木氏が死に、その告別式の日に、私は宇野さんをつかまえ、沢木氏の追悼文を 『三田文学』に寄稿してくれるように頼んだ。宇野さんはこころよく引受けたが、結局書いては くれなかった。その宇野さんの追憶をわれわれが書かなければならなくなった。  その後、十二月十日に宇野さんは拙宅へ見えた。私のうちでは、大正十五年『三田文学』復活 以来、毎月第二水曜日を同人の集まる日と定め、宇野さんも時々来ては元気よく談笑した。しか し、十二月の時は顔色が悪く、胆石を患《わずら》った後で食餌《しよくじ》に注意を加えているという話をした。それ でも、いつものように元気よく、高調子で、相手をきめつけるような話振《はなしぶり》だった。たまたま一座 の年長の人たちが、久米井川沢木三氏の次は誰の番だろうと、いわないでもいい事をいい合った 時、宇野さんもともども或一人を名ざして「おい、こんどはお前の番だぞ」とからかった。神経 質の相手がいやな顔をしているのには気がつかず、独特の朗《ほがら》かな声で笑った。  だが、みんなの帰った後で、うちのものは宇野さんの血色|甚《はなは》だ冴《さ》えず、全身に力の欠けている 事をしきりに気にしていた。それが宇野さんと私との最後の会見だった。  十二月下旬から一歳違いの従兄が急性|腎臓炎《じんぞうえん》で入院し、重態に陥り、正月十三日に、七十四歳 の母親と、産後の妻と、八人の子供を残して死んだ。病中から葬儀にかけて私も忙しく、告別式 を済ませると、がっかりした身心の疲に乗じた流行の風邪《かぜ》に襲われた。いつもの手で、ウイスキ イを飲んでみたり、梅酒を飲んでみたが、しつっこく咳《せき》が出、耳が痛み、鼻がつまり、凡《およそ》一ヵ月 を不快に送った。その間に、宇野さんが腸|窒扶斯《チフス》で鎌倉病院に入院した噂《うわさ》をきいた。私も十七、 八の頃同病で、夏中その病院に収容されていた事があるが、この頃は医療益々進歩し、窒扶斯で 死ぬ者は極めて少ないときいていたので、万一の事があろうとは想わなかった。快方に向った頃 見舞に行き、あの朗《ほがらか》な笑声を聞こうと思っていた。かつて自分が世話になり、無事に退院した病 院だという事にも信頼していたのだ。  二月のはじめに、和木清三郎氏から、宇野さんの容体がよくないそうだというしらせを受け、 私は次の日曜日には必ず見舞に行くと断言して電話を切ったが、その翌日また和木さんから電話 がかかり、宇野さんは峠を越しておちついたそうだから安心しろという知らせがあった。日曜日 はひどい風で、また発熱しそうな予感があり、寒気がするので、申訳のない気はしたが、終日|籠 居《ろうきよ》し、遂に鎌倉には行かなかった。その夜中から大雪になり、隙《すき》もる風はことのほか冷めたかっ たが、暁方《あけがた》宇野さんは死んだのである。  宇野さんが慶応義塾に入ったのは、私がその学校を卒業した直後で、かつ私は間もなく外国へ 行き数年を費したので、学生時代の宇野さんを少しも知らない。また宇野さんが卒業した年の秋、 私は勤務先の命令で大阪へ赴任し、足かけ三年間えげつない都に住んだ。だから、私が宇野さん を知ったのは、その人よりもその作品の方が先だった。とはいえ、仮に私が大阪から帰って来て 間もなくのつきあいとして、既に十二、三年にはなるはずだから、古い馴染《なじみ》の一人には違いない。  その癖、私は宇野さんと二人きりで、長く対座した事は一度もなく、しみじみ話をした事も一 度もない。年齢の相違はあるが、私は宇野さんの正義感、宇野さんのかんしゃくの起し方、宇野 さんの公憤を発した時のはっきりしたもののいい方などに、始終同感を持っていた。山の手の子 として受けた家庭の教育に、一脈相通じるところがあったのではないかと思う。それにもかかわ らず、私は宇野さんと心を開いて話をした事がない。  『三田文学』は明治四十三年の創刊で、その翌年に同誌によって紹介された久保田万太郎氏と 私とを一番の古顔とし、それから暫《しばら》く中が絶えて、五、六年経過した後、一時に秀才を輩出した。 宇野四郎南部修太郎|井汲清治《いくみきよはる》三宅周太郎小島政二郎水木京太の諸氏がはなぱなしく世の中へ打っ て出で、自分たちがいいはじめたのか、世間でいいはやしたのか、一般に新三田派と呼んだ。仮 にここにあげた六人の中で、宇野さんが一番早く文学的活動を始めたように聞いている。私は見 た事もないのだが、『とりで』という雑誌に、伊豆《いず》四郎の筆名で何かを書いたり、その『とりで』 の同人は、帝国ホテルで芝居をしたりしたそうで、果して宇野さんがその仲間のどういう役割を 演じたのか知らないが、『とりで』の伊豆四郎として、早くから人に知られていたらしい。それ は宇野さんが慶応義塾大学部予科時代の事に違いない。博覧強記の久保田さんは、『とりで』の 伊豆四郎なるものがいかなる文学青年であったかを、しばしば酒席で公表して、宇野さんをいや がらせた。  人々の伝うるところに拠《よ》れば『とりで』の伊豆四郎は、ちょっと気障《ぎざ》に思われる位の文学青年 だったらしい。  そういう風に伝えきいていた宇野さんが、帝国劇場株式会社に入社した事は、われわれを驚か した。これよりさき、久保田さんと同級の久米秀治氏が帝劇に入っていたが、久米さんは実にい い人で、あるいはあまりにいい人過ぎて、全然芝居のわからない人だった。そのかわり、帝国劇 場株式会社の事務員として、頗《すこぶ》る適材だった。しかるに宇野さんは生一本《きいつぼん》の文学青年だ。芸術至 上主義者だ。それが営利本位の劇場に入ってどうして勤まるか、真向《まつこう》から新しがった意見を持出 して縮尻《しくじ》ってしまいはしないだろうかーそれが不安だった。  ところが、その後劇場であって見ると、宇野さんは始終目尻に微笑を湛《たん》え、腰は低く、愛想が よく、決して異説を唱えない。時にはあまりに在来の芝居者じみた口もきくのであった。それが 私にはほんとの宇野さんでないように思われた。この、ほんとでないという感じを、私は最後ま で消す事が出来なかった。  幸いにして私の杞憂《きゆう》は事実を以て打破られ、宇野さんは先輩久米さんと共に、帝国劇場株式会 社専務取締役山本久三郎氏の信任を得て、段々重く用いられるようになった。ここで一言したい のは、山本さんという人は人一倍熱情家で、まこころを以て人を使う親分肌の人と見え、死んだ 久米さんでも宇野さんでも、小屋貸業となり果てた今の帝国劇場に踏みとどまっている荻野《おぎの》忠治 郎さんでも、みんながこの人のためならどんな事でも忍ぶという心持をいだいていた事だ。荻野 さんの如きは、山本さんが死ねといったら死に兼ない位尽している。  さて、うまくゆくまいと思ったお勤の方は、とんとん拍子に行ったが、うまくゆくだろうと思 った文学的活動は、遂に充分に伸びる時を得ないで終った。宇野さんには、小説戯曲演劇評論の 創作があり、戯曲の中には上演されたものもあるが、それらの分野のどの方面でも、あの人が持 っていただけの力を出していない。ただ一っすぐれたものと思うのは、大正八年の八月から数カ 月にわたって『三田文学』に連載した小説「正義派と大野」である。これは、お茶の水の高等師 範附属中学に通った時代の宇野さんの自伝とも見るべきものであるが、つとめて客観的描写法に 拠って書いてある。この一文を草するにあたって、再び読んでみたが、今もなお新鮮感を失わず、 私は深い感動を受けた。  ここに正義派というのは勿論嘲笑《もちろんちょうしょう》を含んだ称呼で、何処の学校にもある一部のものが、正義 に名をかりて団結し、正当の理由もなく暴力を以て制裁を加える一群の事で、これに対抗する大 野は勿論宇野さん自身である。不義卑劣を憎む熱情家にとって、正義派の存在は一大事件に違い ない。フット・ボオルの練習をし、模擬戦の勝敗を一生懸命に争う中学生が、正義派の横暴とそ の背後にある官立学校型の教師に対し、根強く抗争し、遂には暴に酬《むく》ゆるに暴を以てし、全校の 学生の大半が団結して逆に正義派に制裁を加え、解散させる事件を描いたものだ。各場面の描写 はいきいきと、明るく朗かに、情熱をもって描かれ、正義派に対抗する大野とその同志のほんと の正義感、なぐられても脅かされても屈せず、百千万といえどもわれゆかんという精神は、撥剌《はつらつ》 として躍動している。無理に難をいえば、事件の展開が進めば進むほど、中心主題が弱くなり、 集中力を欠く点にあるが、とにかく宇野さん一生の傑作であり、また当時の文壇の水準を遥《はる》かに 抜いた作品であった。小説家としての宇野さんははっきり手腕を示し、広く世間の好評を博し、 忽ちにして他の雑誌から寄稿を求められるに至った。  宇野さん自身も気をよくし、つづいて二、三の小説を発表したが、不幸にして「正義派と大野」 の系統を追わず、全く方角の違う半玉《はんぎよく》小説などを書いて、われわれを失望させた。尤《もつと》も『三田文 学』には「遠藤先生と大野」と題する小説を寄せたが、これは中途で呼吸《いき》が切れて、未完のまま でおしまいになった。  その後宇野さんは次第に創作家としての努力を尽さなくなり、「正義派と大野」に感激したわ れわれの期待をうらぎった。  そのかわり、劇場内における宇野さんの地位は確立したが、不幸にして帝国劇場は震災の打撃 をうけ、かつまた独裁君主の強味を有する松竹に対し、臆病《おくびよう》未練の老耄《ろうもう》株主の掣肘《せいちゆう》をうける立場 から、到底|太刀打《たちうち》が出来なくなり、遂に本城を敵手にゆだね、家主として存在するだけになり、 宇野さんも多勢《おおぜい》の男女優と共に松竹の人となった。  松竹における宇野さんの地位と、実際の働きについては審《つぶさ》に知らないが、帝国劇場と違って、 昔からの芝居者根性の人間が幅を利《き》かせているところだから、坊ちゃん育ちの宇野さんは、いじ められ追出されはしないかと心配していたが、消息通の話では、宇野さんを敬遠し、ほんとには 腕を振わせないような待遇をしていたという事である。それが宇野さんにとって、すくなからず 不平だった事はいうまでもあるまい。  宇野さんという人は、何事にも無頓着《むとんじやく》なような見せかけをしながら、実は何かはでな仕事をし て見せたい慾望を持っていた人だと思う。しかし宇野さんには、成敗《せいはいか》を顧《えりみ》ずに突き進んでゆく押 がなかった。馬鹿な目にあいたくなく、馬鹿にされたくない、笑われたくないという心構えが、 年中つきまとっていて、野望を阻止したように見える。正義派の暴力に対抗して屈しなかった大 野の精神は、中学時代の宇野さんにあって、その後の宇野さんには乏しくなったのではないだろ うか。あるいは、宇野さんは比較的順調に進んだため底力を出すきっかけを持たなかったのでは ないだろうか。またあるいは、宇野さんは自分自身の強い感情を赴《おもむ》くがままに赴かせる事に危険 を感じ、世馴《よな》れた人の態度を学んで処世の術とする事に心を労し過ぎていたのではないだろうか。  宇野さんは酒を好み、酔うと上機嫌《じようきげん》になって止度《とめど》がなくなり、とっ拍子もない酔態を見せると いう噂《うわさ》だったが、私は一度もそういう景色を見た事がない。時たまわれわれの会合の席上では、 |平生《へいぜい》のこしらえものの感じのするほど叮嚀過《ていねいすぎ》るものこしを捨て、極めて親《したし》むべき宇野さんとなっ た。私は、ほどよく酔った宇野さんにしばしばほんものの宇野さんを感じた。平生は世間を憚《はばか》る ように、声をひそめ、半分しか物をいわない形式をとったが、酔うと自説を明確にし、日頃の不 平をいうにしても素晴らしく明快清朗だった。それは決して愚痴にならず、この人の心の中に、 仁侠《にんきよう》の気を蔵し、常に正義を愛し、不義を憎む精神の鬱勃《うつぼつ》たるもののあるのを見せた。ふだんか らよく響く高笑を得意としたが、酔って真赤になり、胡坐《あぐら》に組んだ自分の脚《あし》を持ったままそっく りかえって笑う時は、思いよこしまなしという風格を示した。こっちも酔った嬉《うれ》しさに「おい、 宇野さん、近日いっしょに飲もうかLと声をかけると、「ええ飲みましょう」と即座に応じる。 しかしその次にあって、酒の気なしで誘いをかけると、宇野さんは大概冗談にして笑ってしまっ た。「いやあ、この頃はまるで飲まないんですよ。ええ、どうも体の具合が悪くて」などと、真 顔になっていうのである。同じ言葉を二度三度繰返す事の出来ないのが私の性分で、それっきり 別れてしまうのがおきまりだった。良家に育った宇野さんは長幼の別が正しく、私なども先輩扱 いにし、礼儀を守られたが、その上に宇野さんの個性は、出来るだけ我儘《わがまま》に伸《のびのび》々とする事が好き で、年齢の違う人間と飲む窮屈を嫌い、またその場合年長者におごられるおいめを喜ばなかった のであろう。  「宇野は悧巧《りこう》過る」とは、しばしば彼の友人から聞かされた言葉だ。私は、多分それとは違う 意味で、同じ言葉を口にした事がある。私が悧巧過るというのは、前にも書いたように、宇野さ んには始終、馬鹿な目にあいたくない、馬鹿にされたくないという気が働き過ぎた事だ。宇野さ んが小説を書き、戯曲を書き、演劇評論を書きながら、そのどれにも一生.懸命になれなかったの は、やはりこの心構えのためではなかったろうか。弱味を見せる事を極端に惧《おそ》れたためではなか ったろうか。ひとつの事をあくまでも追及して行って、万一へまをやったらどうしようかという 事を心配し過ぎたためではなかったろうか。例えば何か仕事をする。それか評判になった場合に は、同じ系列のものを再び手がけて、単なる繰返しに過ぎないと罵《ののし》られる事を惧れ、忽ち手を変 えてしまうのである。例えば何か仕事をする。それが評判にならなかった場合には、これでもか という意気でもう一度同じ手で押して出て、万一しくじればぬきさしならなくなるから、全く違 う手で出直す事にする。そういう意味の悧巧が度を過《すご》してはいなかったろうか。物わかりがよす ぎるのだ。都会育ちの人間には、押の強さがないのだ。  いったい人間は、心的活動の範囲が狭く、方向の一定した人ほど早く完成しやすい。俳人や歌 人が、年少にして一家を成し、同時に早く固まってしまう傾向のあるのはその証拠だ。宇野さん のように物わかりがよく、ひろく知識を求めた人は、これを統一して完全に己《おのれ》のものにするには 長い年月を要し、なお多くの齢《よわい》を重ねなければならなかった。  宇野さんは年齢不惑に近づいて、今までの生活態度に革命を行い、自己完成の仕事にとりかか ろうと欲したらしい。『三田文学』に坂下一六の筆名をもって、演劇評論と海外劇信を連載した が、文に精彩あり、熱情あり、忽ち人々の注目するところとなった。私はこれを宇野さんの筆と 気づかず、編輯者《へんしゆうしや》に質問して始めて知った。これを読むと、宇野さんが最近新知識の吸収に熱中 した事がうかがわれるが、死後奥さんから伺ったところでは、宇野さんは誰にも知らせず海外留 学を企て、先ず露西亜《ロシア》に一年間滞在の予定で手続を運び、その許可証は臨終の枕頭《ちんとう》に送達された そうである。「俺も行き詰ったから、どうにかしなくてはならない」といっていたそうだ。広く 知識を求め、見聞を深める欲求もあったであろうが、それよりも自分の生涯の仕事を定め、築こ うとするこころざしが、ようやく強くなって来ていたのであろう。ほんものの宇野さんが大手を 振って舞台に登場するかど出の海外留学だったろうに、意地の悪い運命は死を以て酬《むく》いた。宇野 さんこそはこれからの人だったのに、惜い事をしてしまった。しかし、私は宇野さんが今までの 安逸な生活をなげうって、新しい一歩を踏み出そうとした決心を知ったのは嬉しかった。その悲 壮なる決心は、われわれを鞭《むち》うち、 我友宇野四郎氏を一層よき友達として偲《しの》ぶよすがとなったの である。 (昭和六年二月二十八日)             ーー『三田文学』昭和六年四月号