築地小劇場をたたう 水上滝太郎  ついこの間、築地《つきじ》小劇場で、同劇場創立満四周年を記念する講演会が催され、私も口説《くど》かれて 壇上の人となった。係の人の話では、講演者は特に関係の深い人に限ったということで、武者小 路実篤《むしやのこうじさねあつ》、中村吉蔵《なかむらきちぞう》、藤森成吉《ふじもりせいきち》、北村小松《きたむらこまつ》氏等の名前がつらねてあった。この人々の創作戯曲は、 かってここの舞台に上演された事があるから、その意味で近しい人と呼ばれて然《しか》るべきだが、い ったい私は何だ。関係の深い人に限りましたという劇場の人の言葉に対して、些《いささ》か顔を赫《あか》らめざ るを得ない。私にも数篇の戯曲があるが、残念ながら上演に値すべきものはない。ひそかに自分 自身にたずねて見た結果、私は自分が最も熱心なる築地|贔屓《びいき》の一人たる事を認めて強いて安んじ た。  その夜は定刻から芝居の興行があるので、講演会の方は五時にはすませたいと、係の人からき かされていたのであるが、私が会社の勤をしまってかけつけた時は、既に四時を過ぎていた。講 演をすませた人は帰ったと見えて、楽屋は寂しく、舞台では中村吉蔵氏のお話が進行中だった。  結局私に順番の廻って来たのは、閉会時刻の五時に近かった。時計を気にしながら喋《しやべ》ったが、 忽ち時間は過ぎてしまったので、いいたい事の半分もいわずにやめてしまった。いつも講演をし た後はひどく不愉快になるならわしだが、思う事を充分尽さなかっただけ、その日は一層胸が重 かった。演壇から引さがると直ぐに、ろくに挨拶《あいさつ》もしないで戸外に出た。聴衆の誰よりも早く、 往来の空気を呼吸した。馴染《なじみ》の飲屋にかけ込んで休息し、一時は不快を忘れたが、その後日がた っても、意を尽さなかった話の滓《かす》は安|珈琲《コ ヒ 》の茶碗《ちやわん》の底のように舌ざわり悪く残っていて、一人で でも喋ってしまいたいようないらだたしさを感じるのであった。ああいう筋の立たない話をきか された人は、さぞかし馬鹿々々しかったろう。ああいう筋の立たない事をさかせっぱなしにして 置いては、自分も不愉快だ。私は、当日喋るべきはずで喋り足りなかった事を、文字にして、そ の日の聴衆に読んでもらえる機会をつくり、同時に外の人々にも、私の所論に賛成を求めたいの である。  講演会の日に、私の掲げた演題は「築地小劇場に感謝す」というのであった。  築地小劇場の出来たのは、ついこの間の事のように思われるが、もう四年を完全に経過したの だ。夏は藪蚊《やぶか》が脚をさし、冬は寒気の骨にしみる、墓場の如き劇場も、区画整理のために隣接地 へ移転すると同時に、新装をこらして面目をあらためるそうである。何よりも目出度《めでた》い事で当事 者でない私も感慨なきを得ない。  正直のところ、私は築地小劇場が、こう長つづきしようとは想像しなかった。大正十三年八月 の『三田文学』に、私は「築地小劇場について」と題する一文を載せた。文中、この事業の継続 の困難なるべき事を繰返して述べたが、その時|肚《はら》の中では、どうかして長つづきしてもらいたい ものだが、たぶんつづきはしないだろうと考えていたのだ。そのためにも言葉を強めて、この劇 場の使命を説き、存続が短かければ、発生の意義の少ないことを説いた。何故ならば、この劇団 は自由劇場のような既成俳優の研究やうでだめしとは違って、全く新しい領土を開拓すべき新し い俳優を養成しなければならないのだから、正統なる訓練を授けるのに長い時間を必要とする。 近代劇はこういうものだという手本を示し、観客を教育して行く使命も、この劇団に負担させて 考えた。それには、今までいくつもあらわれた素人芝居類似の小劇団のような泡沫《ほうまつ》的存在では駄 目《だめ》なのである。  明治の末期から今日まで、いったいいくつの小劇団が存在したか。どれもこれも立派な宣言を して生れ出たが、すごやかに成長したものがひとつでもあるか。何某劇団第一回公演というびら を見る事は度々あったが、第二回公演の数は少なく、第三回とつづくものは、十指を越《こえ》るか越な いかではなかったろうか。それでは、旧劇の方のすきしゃが、真白に塗ってあらわれたがるなぐ さみ芝居と大差がない。成長も発展もなく、ただその日限りのいい気持を演者自身が味わうばか りだ。  私は、泡沫的小劇団を罵《ののし》るつもりはない。いかにこの種の事業が困難であるかを実証したいの である。俗衆のよろこびに迎合する仕事でない限りは、多大の忍苦が必要である。面白ずくでは 駄目だ。「築地小劇場について」の中で、私は当事者に不快を与えはしないかをおそれながら、 |執拗《しつよう》に忍苦の必要を力説した。全く長つづきしそうに思われなかったからである。  何故永続しまいと考えたかというと、第一には経済問題である。築地小劇場は他の小劇団と違 って、小屋を持っている強味はある。たぶん、その建築費は土方与志《ひじかたよし》氏の負担したものであろう。 しかし、こういう性質の劇団の興行が、商売になり、儲《もう》かるはずはない。収支相償う事は到底望 めない。僅《わず》かなる例外は別として、大体は興行ごとに損をするものと見なければならない。しか も、その損失は大きいであろう。そうすると、よほどの資源がなくては出来ない仕事だ。世の中 の人は、金持や貴族に対しては常に眼がくらんでいる。或者はひどく尊敬しすぎ、或者はむげに 憎み過ぎる。親の作った金ならば、なくなしたって平気じゃあないかと、事もなくいい捨てたが るところだ。だが、冷静に考えれば、親譲《おやゆずり》の金なればこそ、使いにくい場合も多いのである。出 資者が貴族だという事も、仕事を困難にするひとっの原因に数えられる.、華族は皇室の藩屏《はんぺい》だと いう。その行動には常にうるさい監視がついている。わずらわしい殻を脱しようとしても、周囲 の圧迫は容易に譲るまい。そのうるささは、到底われわれ平民の想像出来ない所であろう。そう いう不自由な境遇の人が、つい半世紀前まで、河原乞食《かわらこじき》とまで罵《ののし》っていた階級の仕事に身を投じ ようというのだ。お家の大事とばかりに、引とめようとつとめるに違いない。世が世ならば、三 太夫の一人位は、切腹して諌止《かんし》するほどの出来事である。それを押切って敢行する勇気は、尊敬 に値するが、勇気はありあまっても、資金にはおおよそ限りがあるであろう。そして興行が儲か らないとすれば、寿命は長く保つまい。それが第一の心配であった。  第二には、内部の人の結束である。かんじんの小山内先生に対して、私はこの心配を持ってい た。度々いう通り、先生は劇文学者として、演出者として、世界の舞台に出して恥しくない人だ。 |殊《こと》に先生の演出に対して、私は深く信頼するものである。しかし、先生の根気には信頼出来ない。 先生を一口にうつり気だというのはあたらないかもしれないが、幼童の如きひとむきの心を以て、 新奇を追う傾向が著しく、意地を張って一所に足をふんばって立つ事は、先生の得意としないと ころだった。先生は、一でなければ二だという議論を好む。あれほど細かく心の働く人でありな がら、議論にはゆとりがない。何か新しい事に熱中すると、それだけが尊く、今までのものは一 切つまらないもののように振捨てようとする。一でもあり、二でもあるとはどうしても考えない。 一と二の中間のものは認めようとしない。だから、その時の自分の意見に反対のものにぶつかる と、さばさばした態度をとる事をいさぎよしとして、どっちでもいい事柄でも妥協しない。その 上、先生には宣言癖がある。何か仕事をはじめる時には勇しく宣言する。その仕事をうっちゃる 時もまた勇しく宣言する。宣言の手前、いよいよ一でなければ二の態度に出なければならなくな る。少しの無理は忍んでも、最初の目的を貫くために進もうとする我慢が乏しいように思われる。 築地小劇場は、小山内先生あるがために重きをなすと同時に、小山内先生あるがために長つづき しない事はないかIl私にはそういう疑があった。  ところが、事実は美事《みごと》に私の心配の無用なる事を証明して、築地小劇場は満四周年を迎えたの である。しかし、その四年は決して楽な四年ではなかったであろう。我国の演劇史の幾|頁《べ ジ》かを |占《しむ》るに足る立派な仕事をした裏面には、人の知らない苦痛があったに違いない。  私が一番心配した営業成績はどうなのか、ほんとの事は知らないが、僅《わず》かなる例外を除いて、 四年間の大概は、損失を繰返していたものと見て差支《さしつかえ》ないであろう。満員になったところで、五 百人位しか入るまいと思う観客席の十分の一そこそこの入りの夜も度々見た。立派な小屋、パノ ラマ式の背景、いい男|振《ぶり》の役者、綺麗《きれい》な衣裳《いしよう》、甘いか賑《にぎや》かかどっちかの筋立てーそういうよう な、今の大衆客の喜ぶものは、ひとつも築地にはないのだ。其処には汚《きた》ない小屋、質素な背景、 ぶこつな役者、粗末な衣裳、むずかしい脚本がある。売物になるものがなくて、どうして客が来 るものか。  いったい今の芝居の大多数の客は、役者を見る客で、戯曲の演出を見る客ではない。芸を見る 客さえ極めて少ない有様だ。だから、活動役者の実演ほど大衆を喜ばせる事はない。  そういう大勢《たいせい》の中で、築地小劇場は役者を見せる芝居をしていない。はっきりいえば、ここで は演出を見せる事を主としているのだ。だから、築地|贔屓《びいき》の人といえば、文学書生か演劇学徒に 限られている。営業成績のいい事を望むのは無理だ。  しかし、私が築地小劇場に感謝するのはここにある。物質的に酬《むく》いられざる事|甚《はなはだ》しい中で、 決して妥協せず、どこまでもよき選択を経た戯曲の演出を主とし、劇場全体の人が、固い結束を もって進んで行く。近代戯曲の古典とはしりとは、共にわれわれの眼の前に豊富なる見本を展覧 した。  築地小劇場は民衆のために存在するというような意味の事が、創設当時の小山内先生の宣言の 中にあったと記憶する。民衆とは何であるか、その意味の解釈次第で右にも左にもなるが、最も 普通の意味に解すれば、大多数の世間の人と見ていいのであろう。果してそうとすれば、民衆は 築地小劇場などに引かれる心を持合せてはいない。民衆の要求する芝居は、立派な小屋、パノラ マ式の背景、いい男振の役者、綺麗な衣裳、甘いか賑かかどっちかの筋立てだ。沢田正二郎《さわだしようじろう》か、 五九郎か、活動役者の実演で充分|堪能《たんのう》するのである。  私は、築地小劇場はその道の専門家のために存在すると宣言してもらいたい。過去四年間のこ の劇場の功績も、その意味において偉大なものだと思うのである。恐らく、築地|贔屓《びいき》の演劇学徒 は、みんな同感であろう。築地あって、はじめてわれわれはよき戯曲のよき演出を見る事が出来 るのである。  それは極めて地味な仕事だ。酬いられない仕事だ。にもかかわらず、演出者も、俳優も、舞台 のかげで働く人も、切符を売る人も、受附の人も、尊い犠牲を払って押通して行くのに対しては、 ただただ感謝の外はない。  たぶん、築地小劇場に働く人は、些少《さしよう》の報酬しか得られないのであろう。殊に俳優は、剣劇か |駄洒落《だじやれ》喜劇か、活動写真に走れば、いくらでもみいりのいい仕事で、かつ喝采《かつさい》を身に浴びる事が あるはずなのに、じいっと根をはやして、こつこつと暗い舞台で働きつづけているのは偉い。そ の上、築地小劇場は、前にもいった通り、演出本位の劇団だ。役者個人のはなぱなしい存在を明 かにする機会は、原則として与えられない。厳《きび》しい訓練の下に、一団体としての演技を見せる事 に甘んじなければならない。舞台の上の花形となろうという誘惑は随分強いものであろうが、こ の劇場の俳優は、その慾望を強情に斥《しりそ》けている。  今、日本では思想国難が叫ばれている。それは主としてマルクシズムかレエ一=一ズムに対する 恐怖であろうが、それよりも深く人心をうばったのは、映画とジャズが代表する亜米利加《アメリカ》流の享 楽主義だ。亜米利加は底の知れない富力に恵まれた大国で、映画の亜米利加、ジャズの亜米利加 は僅かにその国の一面にしか過ぎない。山の頂までも耕作されている日本とは違って、いまだ神 経の通わない山や広野が横《よこた》わっている。そこに住む人間だ。あらゆる方面の活動的な元気者ヤン キイは、頗《すこぶ》る健全な肉体と強い神経をもっていて、馬鹿々々しくはでな映画の世界や、素晴しく 騒々しい音楽の世界にあっても、新鮮なる空気を呑吐《どんと》するように平気なのだ。彼らは、映画や音 楽に魂を奪われるほど繊細には出来ていない。ありあまる土地を所有する国民には、敗頽《はいたい》的の心 持はまだ知られないのである。それに引かえて、この国では、忽ち全生活をあげて映画とジャズ の支配を受けんとしつつある。安っぽい享楽に根底から動かされてしまうのである。恐るべき事 には、日本ほど全国的に流行の波動の及ぶところはない。はやらないとか、人気がないとかいう けぶりを見てとると、忽ちみきわめをつけて転換する。何かはじめて、はなぱなしい喝采をうけ ればよし、そうでなければ素早く見捨ててしまう。是が非でも、石に噛《かじ》りついてもやり通すとい う精神は稀薄《きはく》である。  こういう時代にあって、我が築地小劇場は強情の美徳を発揮した。感謝せざるを得ないではな いか。  感謝の意を明かにするために、私はひとつの提議をしたい。それは、われわれ築地贔屓が挙《こぞ》っ て集って、お祭を催すのである。あたかもよし、この劇場の新築落成し、近く新舞台が開かれよ うとしている。この思いつきを、私は講演会の日の話の中にとり入れた。その時は、築地の名女 優|山本安英《やまもとやすえ》さんの名を特に拝借して、同嬢の不断の努力を表彰してはどうかといってみた。築地 小劇場には多くの尊敬すべき俳優がいる。汐見洋《しおみょう》氏や友田恭助《ともだきようすけ》氏が、一歩々々築いて行った伎芸 の如きは特記すべきである。その外の人たちも、一団として感謝すべきであるが、お祭ははなや かなるをよしとする。即ち山本さんを引出した。  勿論《もちろん》私は山本さんのひととなりを知らないのだが、あの人の舞台を見ると、この人こそ強情の 象徴の如き気がするのである。自由の国と自慢する亜米利加の大都、紐育《ニユモヨ ク》の湾頭には自由を象 徴する女神の像が立っているが、築地小劇場における山本さんは、同劇場の強情の美徳を象徴す るように想われる。  山本さんは肉体的には恵まれていない。近代劇を演じるには、もっとすごやかに発育した肉体 を要求する。山本さんの顔は、玉子に目鼻の旧式な型に近く、決して近代的ではない。それにも かかわらず舞台の上に白熱した美しさを示すのは、あの人の持っている意志の力が、すべての欠 点を圧倒してしまうからであろう。山本さんには感覚的の魅力は乏しいはずだ。感情的の芸風で はないはずだ。しかも、意力を以て熱情をつくり出す。完全に成功を収める時の如きは、つめた い大理石が人肌にあたためられて汗ばんで来るような不思議な感覚を示す。  私は時々、築地小劇場帰りの山本さんと乗合自動車に同乗する事がある。女優というとはでな もの、はなやかなものと世間ではきめているが、それはそこいらのお妾《めかけ》女優の事で、山本さんは 極端に質素だ。小柄で、顔色が冴《さ》えず、少し猫背《ねこぜ》のような感じがあって、この頃の銀行会社商店 の婦人事務員よりももっとくすんでいる。込合《こみあ》う車内で、伏目になってちいさく腰かけているが、 そのくせ何処となく強い精神力を身に備えている。あたかもそれは、墓場の如く薄暗い築地小劇 場が、今日の劇界において一番しっかりした仕事をしているのと同じ姿だ。私が、築地小劇場に 対する感謝の心の発表を、山本さんの名をかりてしてはどうかという所以《ゆえん》である。  お祭は賑かなのに限る。山本さんを花車《だし》に乗せて銀座を練るのもひとつの景色だが、その方の 事は若い人の工夫に一任して、私は築地小劇場の改築を機とし、感謝の意を表するために何か催 してはどうかという事を提議する。 (昭和三年九月二十八日) ー『三田文学』昭和三年十一月号