天覧野球試合陪観之記 水上瀧太郎  天子様にべエス・ボオルを御目にかけたい。これはかねてよりの私の心からなる願いで あった。  吾々民草は、御治世のありがたさで、勝手気儘に行楽をほしいままにしているが、天子様 には日夜此の国のまつりごとに大御心を煩わされ、いかなる御仕事があるのか吾々にはうか がい知る事も許されないが、御精励の程仰ぐもかしこしとうけたまわる。それにも拘らず不 心得の役人どもは、砂利を喰い鉄を喰い、不正のお金を懐中したり、最もだいそれた奴にな ると、おそれおおくも天子様より下したまわる勲章を金ずくで買ったり、言語道断のふるま いが多く、宸襟を悩ましたてまつるとは、何たる申訳の無い事であろう。  たださえ御忙しいところを、奸臣どもが御心を煩わす事が多いのであるから、たまには青 空の下に雪白の熱球の飛ぶ壮観を御目にかけ、御慰め申|上《あげ》るのが、善良なる人民の忠義のひ とつである。身分いやしくして、御側近くへ侍する事はかなわずとも、せめては嘘いつわり の無い遊びの庭に台臨を仰ぎ、うるわしきみけしきをおろがみまつる事こそ、こよなき喜び であらねばならぬ。  この心持は、敢て私のみのものでは無かったと見えて、この度明治神宮体育大会の六日目 に、各種競技をみそなわせられ、慶応と早稲田の野球試合をも御覧遊ばされたのである。吾 等が幸い何にかたぐえん。その日スタンドの一隅に卑賤の身を謹んで陪観の栄に浴した私は、 些か感想を記して子孫の為に伝えようと思うのである。  慶応と早稲田とは、あらゆる意味に於て対立している。両校の創立者福沢大隈の一生が描 き出した風格をそのまま校風とする以上、源氏と平家、上杉と武田、独逸と仏蘭西、紅葉と 露伴、常陸山と梅ケ谷、団十郎と菊五郎、ケムブリッジとオックスフォオドといった具合に、 何彼につけて結びつけられ、比べられ、ほめられそしられるのは免れざる運命である。とは いうものの、それは蛇と蛙、鰻と梅干というような喧嘩づらや喰い合せのたぐいでは無く、 りょうりょう相|下《くだ》らざるおおもので、一方を欠いては完全の景色とならない事正に鶴と亀、 竜と虎の如きものである事は、断る迄も無いのである。一方が実学問の教にはぐくまれ、ま かりまちがうと創立者の高邁なる精神を忘れて意気地なしとなるおそれはありと雖も、兎に 角間違の少ない銀行員や会社員を世の中にはびこらせれぽ、片方は些か空漠たる憾はありと するも、高遠の理想を呼吸して、天下を乗取らんとこころざす院外団や|操觚《そうこ》者を世に瀰漫さ せ、一方がおしゃれと罵られる場合があれば、他方は野蛮とあざけられる事もあって、山王 様と明神様のおみこしが一時におでましになったような盛観を呈しているのである。但しそ の拠って来るところは、私立の二大学という意味もあるにはあるが、主として昂奮と感激の 歴史を有するベエス・ボオルのおかげと見なければならない.、  扨てその野球試合だが、往年早稲田の応援団が機略にはしって約束を無視し、人数の制限 を破り、ごろつきを糾合し、兇器を懐に呑むもの、審判官に脅迫状を送るものを出し、遂に 不名誉なる中止の止む無きに立到った迄の試合は完全に見たが、復活後は、復活当初早稲田 断然優勢を示した二試合と、久しき後慶応がようやく勝ちはじめた頃二度見た事がある丈で、 日常の稼ぎに追われて球場に臨む事を得ず、僅かにプレイヤア・ボオルドによって慰められ たのであった。  ところが、近頃終始顔を合せる連中の中に、きちがいと呼んでも異議を申立てそうも無い ファンが沢山いる。「三田文学」編輯担任者和木清三郎氏、同編輯委員横山重氏はその最た るものである。此の二人の如きは、春秋二季に熱狂するばかりで無く、一年中昂奮し、追懐 と予想に耽って、或は満足し、或は慨歎しているのである。二人にとっては、慶応と早稲田 の野球試合は、空気であり、日光であり、水であり、火であり、米の飯である。これなくし ては健全に生きていられない有様にさえ見受られる。  この両雄の熱情に動かされ、遂に私も六大学リイグ戦のスタンドに、一喜一憂を味う身と なったのである。  公平に見て、復活以後二三シイズンは比較にならない程早稲田が強かったが、今日の両軍 の力量は、六分四分で慶応を強しとするのが常識で、戦前多数学生集会の席上、斯道の先輩 飛田、蘆田二氏も、実力に於ては慶応が上位に在る事を断言したそうである。此のシイズン の最初から試合を見て来た私も、勿論慶応の勝を信じていた。若し早稲田が勝つならば、第 一回戦丈で、万一第一回戦を失えば、直線的に敗退する外は無いと思っていた。理由は簡単 だ。慶応の健棒の前に、陣を堅くするに足る投手は小川ただ一人であるからだ。  茲で断って置き度いのは、私は勿論慶応贔屓であるが、ベエス・ボオルに於ては早稲田を 讃称する事を惜まない。昔から慶応には天才プレイヤアが多く、本場の選手のように、大試 合に臨んでも自由奔放に、いかにも野球技そのものを享楽しているような美技を演じるのに 比べて、早稲田のは頗る島国的で、どうでも勝とうという精神の強さが、技倆の巧緻をたの しむ余裕を与えない程さかんなのだ。たとえば宮武山下の如き大打者や、加藤本郷水原|楠見《くすみ》 の如き天衣無縫とも称す可きうまさは、少なくとも今の早稲田には一人もいない。それは事 実だ。だが、伊丹|水上《みずかみ》水原森の如き、はなばなしさは欠きながら、刻苦勉励のあげくに底力 を養い、日本式武芸者の鍛練を想わせるもののあるのも亦称讃すべきである。そして、本場 らしい慶応のうまさをたたえるのは玄人筋に多く、日本的負じ魂の強さをほめるのは素人大 衆ファンに多いのも事実である。曾て菊池寛氏は、慶応義塾の大ホオルに開かれた講演会の 壇上で、文学は三田の方が好きだが、野球は早稲田の方が好きだと云ったのも、菊池氏らし い好みで面白い。  それは余談だが、兎に角今秋の両軍の実力は、六分四分で慶応の勝と見るのが当然だった。 にも拘らず、慶応は一回戦に負け、二回戦に勝ち、もう大丈夫となっていながら、決勝戦の 最後に於て意想外の籤を引き、敗北の憂目を見た。何が試合を逆転させたか。運だ。結果論 としては、八回に一点回復された時宮武水原の交代を行った事が難ぜらるるであろう。しか し、それはベンチの頭脳的失敗では無い。寧ろ鋭ど|過《すぎ》るやり口を、運命が憎んだのだと考え る外は無い。早稲田には幸運が宿り、慶応は完全に見捨てられた。水原が無死の時打った投 手足下を抜くグラウンダアは、土を噛んで中堅迄達すべき筈でありながら、二塁のべエスに 当って高くはずみ、富永をしてファイン・プレイを演ぜしめた。かと思うと、第四回目に早 稲田の森の遊匍はイレギュラア・バウンドとなって生き、これがやがて点となった。九回、 伊達が二ストライキを取られ、閉口し切って打ったあたりそこないは、彼自らも予期しない テキサスとなり、更に小川のバントは、一度線外に出て、その儘ファウルとなる可き球質だ ったのに、全く見えざるものの手がいたずらをしたのであろう、ふらふらとダイヤモンド内 に戻って、水原の大暴投を招いた。恐らくあの球は、ファウル線外の小石か土塊の為に方向 を転換したのに違い無い。若しもその小石か土塊が無かったら……  幸運に恵まれた早稲田は、六対三という意外の開きを見せて勝ったのだ。早大側の応援団 が狂喜し、その夜神楽坂や新宿のカフェで大騒を演じたのは無理の無い所である。慶応が勝 って学生が銀座に進出すると、大々的のみだしをつけて悪意の報道をする新聞が、一斉に沈 黙を守ったのも、新聞王国を|牛耳《ぎゆうじ》る早稲田出身者の態度として之亦重々無理の無い事である。  勝ったと思った試合に負けた慶応の選手の気の毒さは今更いう迄も無いが、その味方のフ ァンの中には、完全に食慾を失ったのもあり、家庭不和の源ともなったのである。  我が熱烈なる院外団的応援者、和木横山両氏の如きも、累を奥さんに及ぼした事は疑も無 いが、恰もよし前代未聞の天覧試合が行われる事になったので、一年の中に春を二度迎えた ような陽気を回復した。  扨て当日は早朝から入場しないと、いい場席がなくなるし、御警衛の為に交通の遮断され る心配もあるので、和木氏と同行、午前八時前に三塁側本塁近くのスタンドに席を占めた。 午前中に、中等学校の試合がふたつあったが、あまり面白くなかった。  此の日天子様の御前であるにも拘らず、平静の通り応援をさしゆるされたのは、ありがた い思召である。殊に私が天覧のありがたさを痛感したのは、早稲田の応援隊が、いつもと違 って極めておとなしい様子をしていた事である。慶応は常に制服を着用しているが、早稲田 と来ると、木綿の紋つきの羽織、白袴、素足に足駄をはき、中には白だすきという凄いのも あり、軍扇をかざすのはまだしもいい方で、何の必要があるのか棍棒や、弓の折れ、木刀な どをひっさげたのもあり、苦々しい事に思っていたが、此の日はみんな制服で、一人も異風 の者を見なかったのは気持がよかった。例の芝居がかりの豪傑風が、天子様の御目に触れて はおそれおおいという理由で差控えたのかとも思うが、一説には、前以ておかみの注意を受 けたのだとも云う。どっちにしても、天子様の御前に出られないような無礼な風体は、平生 から慎むのが当前だから、今後はあまり人を脅かすようなよそおいはやめる方がいい。  この日は朝来曇天だったが、天子様が御臨場になる少し前、俄に球場をうす日がさした。 えらいもんだなあ、天子様がいらっしゃったら後光がさしたと、誰かうしろの方でつぶやい た。  愈々天子様がいらっしゃった。練習を切上げた両軍の選手も、朝の試合に出た中等学校の 選手も、審判官も列をつくってお迎え申上げ、吾々陪観者も一斉に起立した。  帽子をとれ、帽子をとれと、他人の頭の蠅を追うように怒鳴るのは早稲田側のスタンドで、 慶応側には大声を発する者は一人もなかった。  陸軍軍楽隊が君が代の曲を奏し、四万の人民が頭をさげて敬礼する。おそれおおい事では あるが、私は玉座の方を一心に見詰めていた。  あ、平沼さんだ——そう思った時、いつも元気よく、鳥打帽をかぶり、足の裏にばねのつ いているような歩き方をする平沼さんが、今日はシルク・ハットを手にして静々と御先導申 |上《あげ》る。直ぐに天子様の玉体が拝された。カアキイ色のマントオをおつけ遊ばされ、かしこく も一同の者に対して礼を御かえしになり、御着席遊ばされた。  秩父宮様の御姿も拝した。御兄弟とは申せ、吾々下々の者とは違って、御礼儀が正しいの であるから、宮様は天子様のななめうしろに、稍間隔を置いて御叮重なる礼を遊ばされ、少 し離れた椅子に御かけになった。妃殿下もいらっしゃった。その他の宮様方も御揃いだ。秩 父宮様のおうしろに、社会民衆党の大だてもの安部磯雄氏と長与又郎博士が控えている。  ここで私が、早稲田という学校がいかにすぐれたる政治家であるかに感服したのは、天子 様が玉座に御つきになると直ぐに、応援団が声を限りに校歌をうたい出した事だ。恐らく、 機略に富む者がいて、かねて示し合せてあったのであろう。慶応側はあわてて、追かけて応 援歌をうたい出した。たしかに一歩二歩も遅れていた。  審判も大事をとって四人がかりで、慶応先攻で試合は開始された。気がつくと、天子様に は御風気のおあとと承るのに、マントオを御脱ぎになり、陸軍通常御礼服の御姿凜々しく、 子等が遊びをみそなわすのであった。  両軍の応援団は熱狂する。秩父宮様は天子様の御側に行かれ、先ず早稲田側を指さし、次 に慶応側を指さして何か御説明遊ばされた。天子様にはいちいち大きくうなずかせ給うので あった。  茲に是非共記し度いのは、此の日のライン・アップを見た時、慶軍は今秋のシイズン中、 あまり出場する機会を与えられなかった岡田主将を捕手に、三谷を二塁に、|梶上《かじうえ》を右翼に置 いたので、すっかり満足した事である。空前の天覧試合だ。長く苦労して来た古顔の選手に 位置を与えるという事は甚だ結構だ。私は涙ぐましい心持さえ感じつつ、腰本寿氏の心の中 を奥床しく思った。  第一打者楠見が出た。  戦前和木氏は、和木氏一流の断定癖で、若し劈頭に楠見が安打して出れば、その一球が勝 敗を決定すると云っていた。私には斯ういう風に威勢のいい、同時にあまりに唯心論的なも のの見方は出来ないのであるが、果然楠見が一二塁を抜いて出塁した時は、慶軍はやくも栄 冠を頂いた事を感じた。あの一打が、いかに味方に力強く影響し、同時に敵軍の胆をうばっ たかを、くだくだしくいうを要さないであろう。この時楠見は遺憾ながら残塁となったが、 たとえ点にはならなかったにしろ、完全に敵投手を威嚇しつくした功績第一等である。ただ さえ神経質な小川が、天子様の御前試合でかたくなっているところを、容赦なく死地に突落 してしまったのだ。  梶上がバントで送り、山下が長棍を振りながらあらわれると、秩父宮様は天子様の御側に 立たれ、何か御説明遊ばされた。宮様方はどういう御言葉を御使いになるのか知らないが、 たぶん、あれは山下と申すリイディング・バッタアでありますという意味の御説明があった のであろうと拝察する。天子様は大きく御うなずき遊ばされた。  山下が四球で歩くと、宮武がボックスに立つ。秩父宮様は再び何をか天子様に御説明にな る。たぶん、これも大変なうち手でありますという意味の事を御耳に入れたのだろうと拝察 する。  得点はなかったが、慶応はさかんに圧迫し、早稲田は手軽にしりぞけられて第一回を終り、 第二回には町田が三塁を強襲して出塁し、岡田の犠打、加藤の二匍で三塁に達し、再び小川 の胆を寒からしめた。そして第三回目に、遂に早稲田の陣は潰滅した。私はここに試合の経 過を書こうとは思わない。ただ、慶応が小川を打ちまくり、小川は顔色を失って先ず四球の 押出しで一点を入れた後で、岡田主将の一撃よく三塁打となり、三走者を一掃した事丈を特 記し度い。ライン・アップを見てこの人の出場を喜び迎えた私は、この人の為にも腰本監督 の為にも、目出度い三塁打を祝福しなければならないのだ。天子様は、慶軍主将の勇姿を永 く御記憶遊ばすであろう。  この回慶応は五点を収めて完全に勝利を確保し、早稲田は引つづき宮武に打撃を封ぜられ て、攻守共に美技を御覧に入れる事が出来なかった。  天子様には三回迄御覧遊ばされたが、随員が一度二度何かを言上すると、御うなずき遊ば され、やがて還御の時となった。  ふたたび君が代の奏楽のうちに、天子様の尊き御姿は、玉座をはなれさせ給い、池田審判 官の発声で、吾々人民は声を尽して万歳を三唱した。  試合はつづけられたが、慶応は益々調子づき、早稲田は混乱に混乱を重ね、小川は四回に ノック・アウトされ、かわる松木も忽ち|多勢《たせ》と交代しなければならなかった。おまけに打撃 はちっとも当らず、遂に三塁を踏む者も無く、十二対零で薄暮の為、八回でコオルド・ゲエ ムとなった。  前代未聞の天覧試合が、かくの如き愚戦を以て終ったのは、天子様に対し申訳の無い次第 であるが、おそれおおい事ながら、野球競技は、天子様の御心にかなったように拝し参らせ た。尊い御体であり、又御政務がお忙しいのであろうから、望んでもかなわない事かもしれ ないが、出来る事ならば最終回迄御目にかけ度かった。そして来春からは、慶応と早稲田と の試合の度毎に天覧を忝くする光栄に浴し度いものである。  天皇陛下万歳。万歳。万歳。(昭和四年十一月九日)