芝居の「すみだ川」 水上滝太郎  夏目漱石先生の小説「坊っちゃん」は、先生生涯の作品中最も通俗の面白さに富むもので、多 分に含む機智|諧謔《かいぎやく》をもって読者を甘やかせ、称讃《しようさん》をほしいままにした。平生《もいぜい》小説を読んだ事のな い人にも面白く、紅葉山人と弦斎|居士《こじ》の優劣をきめ兼《かね》る人にも面白く、積極的に小説の存在を呪《のろ》 う人さえ、例外として認めて、腹を抱《かか》えて笑おうという小説である。、  これを誰かが脚色して、人気物の猿之助《えんのすけ》並にその一党が演じ、近来無比の大人をとったのは、 |偏《ひとえ》に原作が数十版-数百版かーを重ねているおかげである。正直にいうと、私は彼の小説を 脚色したと聞いて、その大胆不敵な根性に驚いたのであるが、それはああいう非戯曲的な小説を、 いかにして戯曲化するかという真面目《まじめ》な心配を持っていたためである。しかー-・、余計な御世話だ った。場面々々のおかしささえあれば、大方の観客は悦喜するのである。  とにかく、明治時代の人気小説が芝居営業上の成功を収めたのだ。直ぐに第二陣を立てる事は 明白である。改造社が『日本文学全集』であてたとなると『明治大正文学全集』が出る。『世界 文学全集』が出る。何が出る彼《かに》が出るで共喰いの状態を現出するのが今日の浮世の姿だ。山本改 造|子《し》を一人|立《だち》の英雄にして置かないのと同様「坊っちゃん」と王座を争わんとするものが続出す るに違いない。当分明治大正時代の小説は、向う見ずの脚色者の手垢《てあか》によって汚《よご》される事だろう と思っていると、果してそうだ。しかも人の意表に出て、選ばれたのは永井荷風先生の傑作「す みだ川」であった。  「すみだ川」は明治四十二年、先生三十一歳の時の作である。文壇は久しく自然派の横暴を許 したが、その堅塁にむかって、最も勇敢に、最もはなぱなしくたたかったのは先生である。代表 作「すみだ川」は、その意味において歴史的にも尊ぶべきもので、早熟なる天才は三十を越《こえ》る事 |僅《わず》かに一歳にして既に円熟の境に達していた。西欧文化の複雑多岐なる諸相をうたった二十代の 情熱にかわって、われわれが生れ、われわれの祖先が残した東洋特殊の自然と人事とに回顧のお もいを寄せるに至った先生は、江戸時代の名残《なごり》の風景を、主としてすみだ川のほとりに見出した。  空気はしめっぽく、土は黒いそのあたりに住む人は、隅田堤《すみだつつみ》の風景が、烟突《えんとつ》と自動車の捲上《まきあげ》る |砂塵《さじん》に汚されて行くように、他国から侵入して来る生存力の強い人種に圧迫されて亡《ほろ》ぶのであろ う。主人公長吉は心身共に弱く、到底|喧騒《けんそう》なるカフェの卓にウイスキイを飲んで、マルクスを論 じ普選をあげつらう青年ではない。七歳八歳の頃から三味線をもてあそび、学校は落第していや になり、役者になりたいといううまれつきだ。役者になったところで、剣劇の舞台では使いみち もなさそうな人柄に想われる。その幼馴染《おさななじみ》のお糸は、父親が死んで頼りがなくなり、橋場の御新 造《こしんぞ》の世話になり、そんなこんなの義理ばかりでなく、双方の好意から自然と芸者になる経路に、 何の疑《うたがい》をもさしはさまない娘だ。公娼廃止に耳を傾ける柄ではない。長吉の母親は我児《わがこ》を立派な 学生に仕立てたいばかりに、女の身ひとつで生活と戦って来た常磐津《ときわず》のお師匠さんだ。世界の平 和は婦人の双肩にかかっているという議論などは飲み込む事さえ覚束《おほつか》ない。そのまた兄の松風庵 蘿月《しようふうあんらげつ》は、若い時分にしたい放題身を持崩《もちくず》した俳諧師だ。新傾向の俳句とは何であるか、プロレタ リアの芸術が何であるかに頭を悩ます必要のない人間だ。その女房に至っては、むかし金瓶大黒《きんぺいだいこく》 の華魁《おいらん》で、明治の始め吉原解放の時、蘿月をたよって来ていっしょになった女だ。動物愛護も花 の日会もわきまえないに違いない。すべての登場人物が、現代の中心には遠く、しかも何処かに 残っている事、あたかも隅田川にも僅かに昔の面影のうかがわれるに等しい。  その人々の住むところは、竹垣に朝顔のからむ小梅瓦《こうめかわら》町の蘿月の侘住居《わびずまい》、何となく水の香の漂 う地面の低い今戸《いまど》の文字豊《もじとよ》の家、うす暗く埃《ほこり》臭い宮戸座の立見場、隅田川から大川へかけての両 岸の、泥水と煤烟《ぱいえん》とのしみ込んだ陰惨なおちつきを見せた風景だ。作者のねばり強い筆は、これ らの人と景色をつつむに春秋の季節の微妙なうつり変りをもってし、日本人のみが沁《しみじみ》々感じる気 象の触覚までも紙上に描き出した。人と景と何らの不調和を許さず、あかるるばかりのなさけと 哀感を漂《たた》える事に成功した。  もとより一貫した筋もあるが、作品の特質は筋よりも、その筋の展開に必要な場面と人との調 和にある。それは単なる写生ではない。一篇を貫くしっとりした詩境を盛上《もりあげ》るために択ばれた、 ぬきさしならぬ場面なのだ。就中《なかんずく》、宮戸座の立見場から、十六夜清心《いざよいせいしん》の舞台をのぞく一場面の如 きは、一度この作を読んだ人の永久に忘れ能《あた》わぬところであろう。  「すみだ川」が後代にほこるべき明治時代の逸品である事には疑がないが、それは詩的小説で あって、戯曲的小説ではない。主人公長吉の若き愁《うれい》は、ゆく水の如く川上から川下へ流れてゆく ばかりで、岩に…激し淵《ふち》に淀《よど》むものではない。彼のはかない思慕に対して、お糸の心はこれを迎え て火と燃《もゆ》る事なく、全く違う方向か、あるいは幾十|間《けん》か先を無関心にかけて行ってしまうのであ る。葛藤《かつとう》のないところに劇はないという名言は、ここにも適例を示すのである。いかによき小説 といえども、戯曲化されてよき効果を挙《あげ》るかどうかは、疑うだけ野暮だ。永井先生の作品の多く は抒情詩である。「すみだ川」にはよほど立入って客観的描法を用いてあるが、しかも作品の底 をつらぬく主調は、昨日の東京に対する追慕の情に外ならぬ。  これらの非戯曲的な特色をかえりみずに、四幕六場の大芝居とした脚色者の大胆が、開幕前の 私をひどく心配させた。  序幕は初秋の夕ぐれと指定して、今戸橋の欄干に凭《もた》れて長吉が水面を見下しているところから 始まる。いわゆる原作尊重というのであろう、永井先生の丹念な描写をそのまま舞台に持って来 ようと心がけた事がわかる。正面に川を距《へだ》てて、黄昏《たそがれ》の隅田の土堤《どて》を見渡し、上手《かみて》には門口に柳 のある、格子《こうし》づくりの二階家を見せた舞台だ。小村|雪岱《せつたい》氏の舞台装置という事だったが、いつも の小村氏のものに似ず線の細かく行儀のよいところがなく、おちつきが悪かった。限られたる舞 台に、不相応に大きい橋を中心にしたため、調和を保つ事がむずかしかったのか、大道具の不手 際《ふてぎわ》のためか、配光の強|過《すぎ》る事と共に遺憾だった。芝居だから為方《しかた》がないという芝居道の人の慣用 語を是認すればとにかく、原作に描かれた夏の終りの寂しい水|辺《べ》の黄昏の味は出なかった。   最初に橋を渡って来た人影は黒い麻の僧衣《ころも》を着た坊主であった。つづいて尻端折《しりはしおり》の股引《ももひき》に。コ   ム靴《ぐつ》をはいた請負師《うけおいし》らしい男の通った後《あと》、暫《しばら》くしてから、蝙蝠傘《こうもりがさ》と小包を提《さ》げた貧し気《げ》な女   房が日和下駄《ひよりげた》で…… と本文にある通りのしだしの外に、うるさく通行人をつけ加えたのも、静かなるべき舞台をいた ずらに煩雑にした。橋の上に長吉がいて、静かに月がのぼるだけで充分だ。殊《こと》にうるさいのは、 ホーカイ節《ぶし》の男女を二度舞台にあらわしたり、酔払《よつぼらい》の職人がうるさくわめいたり、長吉とお糸の 色模様とも見るべき場面におかしみを加えるための邪魔者として壮士を出したりした事だ。ホー カイ節は一度で沢山だ。外のは出て来るに及ばない。  しだしは新派がうまい。いったい私は、通俗小説の焼直《やきなおし》を専一とし、それでかたまった型にと っつかれてしまった新派の芝居を好まないのだが、何時も感心するのはしだしのうまさだ。別段 やかましい舞台監督のいない時でも、しだしだけは生きている。尤も、華族の邸《やしき》の園遊会だとか、 大広間の親族会議だとか、山の手の景色になるとなっていないが、往来の風景詩を模する事にか けては素晴しく器用だ。単に扮装《ふんそう》上の写実に止《とど》まらず、雰囲気《ふんいき》をこまやかに示し、しばしば詩趣 を横溢《おういつ》させる。立物《たてもの》がいい気になってあくどい芝居をしているのに反し、しだしは頗《すごぶ》る生真面目《きまじめ》 に一瞬間の舞台をつとめている。どうしてこうもしだしに関する神経だけが極端に発達したのか 不思議である。  何故旧派のしだしが新派のそれに比して劣るかというと、しだしに対する観念の相違に帰すべ きものと思う。旧派のしだしは、しだしの効果を認めていない。ただ賑《にぎや》かしに舞台を横断するも のだと考えている。それに反して新派の方では、しだしにも相当の存在権を認めている。彼らに よって舞台効果があがるか、ひどく害されるかを問題にしている。認められれば力を入れるし、 認められなければいい加減にするのは人情の自然だ。彼がふざけ、これが自重《じちよう》するのには理由が ある。  この場のしだしも甚《はなは》だ不出来だった。ただ下手《しもて》から上手《かみて》へ橋を渡って消えるだけの人間が、立 物に舞台裏的尊敬を示して、自分たちの安っぽさと、無価値を露骨にあらわした。これは主とし て舞台監督の罪に帰すべきであろう。  しだしは下手《へた》だったが立物はうまかった。長吉は年齢十八、下町|育《そだち》の中学生である。相当の年 配の役者にとって、二十《はたち》前の少年に扮《ふん》するのは難事である。時代物ならまだしもごまかせるが、 現代物では化け悪《にく》い。鴈治郎《がんじろう》が十次郎になって若い若いとほめられて得意になっても、ざんぎり 紺がすりさつま下駄の書生さんになって脚光を浴《あび》る事は出来ない。  寿美蔵《すみぞう》の苦心は、小心翼々たる彼の芸風と相俟《あいま》って、些《いささ》か窮屈になる事は免かれなかったが、 さすがに芸の底力で、たくみに破綻《はたん》を切抜けた。少年と見せなければならない、学生と見せなけ ればならない、またこのはげしい生存競争には堪えられない弱い人間に生れた運命を背負ってい る姿を見せなければならない。それらは総て自分を殺す消極的の努力によらねばならないのだ。 日かげの努力だ。寿美蔵の育ちのいい心がけは、とにかくこの難役を持堪《もちこた》えた。  内へ内へと身をせばめる事に努めなければならない寿美蔵に比べて、松蔦《しようちよう》のお糸はもっと明る く、外へ芸をあらわす事の出来る役柄だ。何処かに屋敷風の品格のある人だから、下町の娘や芸 者には一分二分なり切れないところのあるのはやむをえないが、行儀のいいうまさを充分見せた。 くよくよ思い悩む長吉と対照させる事に力を入れて、姿態の描き出す線がはでになり、きつくな り、またしばしば正面を向いて十六、七の下町娘になりおおせましたと誇示する風のあったのは 遺憾だった。  道具が廻ると葭町《よしちよう》になる。芸者家町の路地内で、四軒目の家を見せようというのだから、舞台 装置は殆んど不可能事を強《し》いられているようなものだ。この場の装置が一番悪い世評を受けたそ うだが、無理のない話である。しかし私には、他の場面よりは小村氏の特色が出ていて面白かっ た。平面の格子づくりの家が紙細工のように並んでいるのも、写実を離れた見方をすれば悪くな い。  長吉が学校を怠《なま》けて、芸者になってしまったお糸の住む葭町の路地をさまようところは、原作 では叮嚀《ていねい》綿密な筆致で描写してあって、当時われわれは深く感動を受けたものだった。小説家小 島政二郎氏は、長吉と同じ十八歳の中学生だったそうだが、永井先生の霊筆に感激し、自分自身 長吉のように、葭町の路地をうろついたそうだが、私もその例にもれない。恐らくは、長吉のよ うに学校を休み、宮戸座の立見をしたり、人形町|界隈《かいわい》をさまよったわか者の数は素晴しいもので あろう。  二幕目は文字豊の家だ。兄の松風庵蘿月が来ていて、長吉のこの頃の事などを、愚痴っぽい母 親の口から聞かされている。金|釦《ボタン》の制服姿の長吉が帰って来る。蘿月が辞去すると、いれ違い に幌俥《ほろぐるま》に乗ったお糸が来る。  紅若の文字豊は少し時代が古く、土用干《どようごし》で祖母の着たという小紋にめぐりあったような、なさ けないなつかしさがあった。  友右《ともえ》衛|門《もん》の蘿月は、鰹《かつお》の刺身を註文したのに、鮪《まぐろ》を持って来られた形で、しかも大とろだった。 ここは松蔦の見せ場である。本人もそのつもりで、思うさま誇張して見せる事、時にはさわりの 如き感があった。長吉の胸には永久に変らぬお糸が描かれているのだが、ほんのちょいと出たば かりで、言葉も表情も芸者たらんとしている女を、原作者は何らの露骨な皮肉もなく、冷笑さえ おもてには示さずに、しかしかんどこを力強く押えて描いているが、舞台にこれを示すには、松 蔦のとった道即ち誇張を愛嬌《あいきよう》とする遣口《やりくち》に出るのはやむをえない。その点を是認して、松蔦のう まさを称讃したい。  それにひきかえて、制服を着せられた長吉は、一層気の毒な立場になった。学生服で若者に扮 する事は至難である。きりょう自慢の伊井蓉峰《いいようほう》はしばしば金|釦《 ボタン》の学生になるが、とても見られ たものではない。寿美蔵もいよいよ固くなって、肩の窮屈が同情に値いした。  幕切にお糸が縮緬《ちりめん》のふくさだか風呂敷だかを忘れて行く。長吉が拾って胸のところでじいっと 握りしめるのは脚色者の工風だろうが、いたずらに幕切をつくるための浅智恵で感心しなかった。  三幕目は浅草公園、五重の塔の下の大銀杏《おおいちよう》の根方《ねかた》で、長吉が煩悶《はんもん》している。浅草公園は原作に も出て来るが、床屋の吉さん今は新派の女形《おやま》玉水三郎とめぐりあうのは宮戸座の立見場で、前に も書いたが、遥《はる》かに遠い舞台の上で演ずる十六夜清心《いざよいせいしん》の一幕は、描写芸術の最高位にあるべきも ので、作者の至妙に驚くのであるが、立見場を舞台で見せるのは構成派の様式にでもよらなくて は無理だから、残念ながら浅草公園でも為方《しかた》がない。しかし、考えて見るとこの一場は全然無用 で、長吉の心の経過を語るためにも蛇足《だそく》である。もしも、原作の一番すぐれた描写が宮戸座にあ るのに引かれて、その面影をせめても伝えるためにこの場を出したのならば、脚色者の心持には 同情するが、結果においてはいけなかった。殊に長吉の優柔不断と対照させるために、二人の同 級生を出して強健らしく振舞わせたのは、旧派新派共通の常套《じようとう》手段だが、悪趣味たるを免かれな い。殊にその二人の中学生がなっていないのだから尚更《なおさら》困る。たぶん、 一座で威張っている役者 の息子のために役をつくる必要があったのであろうが、迷惑な事である。 舞台が廻る隷巖小梅蘿月の蠻量なるのだが、舞台づらは決して侘住居ではなかった。 舞台監督の行届かない事、権威のない事がいよいよ明白になった。れっきとした商家のあととり と生れながら、道楽のあげく家倉をつぶした俳諧師の住居とはうけとれない。金持の息子が、好 きこのんで弟に家督を譲り、気随|気儘《鬼ざ まま》に遊び暮らしている景色だ。みなりも肉体も、左活力の強 そうに見える友右衛門の蘿月が、むかしは吉原の華魁《おいらん》だったという女房と差向《さしむかい》で、行火《あんカ》にあたり ながら飲んでいるのを見ると、小金を蓄《た》めた妹をだまかして横領するか、長吉の気の弱いのにつ け込んで、お糸を横取りして妾《めかけ》にするたくらみをしているのではないかと心配しても無理はない。  羽三郎の女房は言語道断だった。  この場の長吉は文学青年になり過ぎた。原作の長吉は決して文学青年ではない。『梅暦《うめごよみ》』の名 は原作にも出ているが、それを懐《ふところ》に入れて持って歩いたのがいけなかった。遊芸は好き、体操は 嫌いには違いないが、思索に悩む近代青年ではないのだ。彼の悩みは若い者に共通のやるせなさ と、生れつきの心弱さ、母親の希望する学校生活が性《しよう》に合わないのと、お糸が遠くへ行ってしま った事にあるのだ。それを表現するのはむずかしいに違いないから、つい意味あり気な心いれを して、文士の玉子らしく見せてしまったのである。  この幕切にも脚色者は創作をして、長吉の帰った後で軒先の松の枝が一陣の風にもまれて折れ るところを見せた。ぽっきりと枝を折られて雪の松かと、蘿月にせりふをいわせて幕切の形をつ くったのだ。変に幕切に色気のある人と見える。  大詰《おおづめ》は文字豊の家で、長吉が死んだ通夜《つや》の晩という事になっている。これは全然脚色者の考案 で、原作では長吉が病気になるところで結末になっていて、死ぬという暗示は全然ない。何故死 なせたのか、私にはわからない。幕切好きの脚色者が、最後にはっきりとけりをつけて、思い残 りのないように殺してしまったのであろう。  ここでもおしまいに蘿月をして感傷的な文句をいわせ、友右衛門は義太夫《ぎだゆう》物の老役《ふけやく》らしく、む やみに首を細かく刻んで振り立てながら、泣くのである。参考のために記す。   蘿月。(悲しみをかくして)久し振りでお糸ちゃんと、隅田堤の花を見ながら、酔えるだけ酔      って見るか。は」乂乂乂乂。(ト笑いながら文字豊を顧み)おい、お豊。これは先刻《さつき》長      吉の、日記の間に入っていたんだ。(ト仏間へこなし)あいつの思いの種だから、棺の      中へ入れて遣《や》んなよ。      (蘿月は懐中から紙包を取出して、文字豊の膝《ひざ》の上へ投げてやる。文字豊が包みを開      けると、出の姿をしたお糸の写真と、長吉が書きかけて引裂いた長い手紙なので、不      審そうにひろげて読みかけ、驚く。)   文字豊。兄さん。こりゃあ長吉が。(ト言いかけるのへ冠《かぶ》せて)   蘿月。何にも言うな。開きかかった花が散らあな。(ト密《ひそか》にお糸の方を指《さ》す。)      (お糸は気附かず、帯揚《おびあげ》を締め直している。折から降り出す雨の音に誘われて、文字      豊は手紙をひしと抱きしめ、遂に其処へ泣き倒れる。)  これではどうしても大芝居にならざるを得ない。友右衛門の解釈ももっともかもしれない。 木村富子という人の手腕は別として、芸術に対する理解には始めから不安を感じていたが、そ の心配はあだにはならなかった。原作から受けて宝玉《ほうぎよく》のように大切にしまって置いた印象は、ま がいものの侵入によって害された恨がある。私は小説の戯曲化を喜ばない。殊によき小説の脚色 される事を拒みたい。小説と戯曲とは形式において、内容において異るのが当然である。筋を主 とし、いつでも来いで脚色者を待っているのは別として、描写に命を托《たく》す小説を、極端に時間と 人によって制限され、ことばとしぐさであらわす芝居にしくむのは無理だ。敢《あえ》て「すみだ川」に 限らず、私はよき小説の脚色される事を望まない。  もう一つつけ加えていって置くが、由来偉い作家の小説の脚色される場合、原作を尊重し、出 来るだけ原作通りに脚色するという事を売物にするならわしがあるが、私には疑がある。原作に 忠実という事が、場面を同一にしたり、会話をそのまま用いたり、あるいは地の文にある事を会 話に直したりする事ならば、それは何らの意味がない。声なき文字を以て描くのと、脚光を浴び、 姿をあらわし、科白《せりふ》をもって表現するのとは全く違う。「すみだ川」の脚色も、原作尊重主義を 売物にした形がありながら、少しもその精神には触れる事が出来なかった。殊にいけないのは、 形の上においても末節には原作忠実主義をとりながら、大詰のつくりかえや、幕切ごとの芝居が かった遣口《やりくち》で、原作破壊を行った事である。  但し、私は些《いささ》かも戯曲でない原作「すみだ川」を、ここまでお芝居にしたうで達者《だつしや》を認めるも のである。原作に同情を持たず、脚色者の味方をすれば、よくもこうまでお芝居らしい筋を立て たとほめてもいい位だ。  演出には誰が携《たずさわ》ったのか知らないが、舞台に原作の情趣を漂わせ、作中の人々の心を生かす事 には不念であった。季節のうつろいに対する作者の敏感と、これを描く巧妙とは定評のあるもの であるが、それにも心が配られなかった。  また蘿月の解釈の如きは全然なっていない。これも友右衛門のみを責むべきでなく、舞台監督 の鈍感か無力かを示す一例と見て差支《さしつかえ》あるまい。多分友右衛門は原作「すみだ川」を読んでいな いだろう。あるいは、読んでも深くはわからない側の人だろう。彼は新時代の人らしい頭の働き を示す役者ではない。何となく緞帳《どんちよう》芝居の臭味の濃い、古めかしい役者だ。したがって蘿月を解 釈するのに、大どこの若|旦那《だんな》で、道楽者で、家をつぶしたという事に力点を置く程度のはき違い はあったであろう。こしらえも、態度も、金持の旦那らしさを失わなさ過ぎた。原作の蘿月は、 もっと世の中の片隅に、脂肪分乏しく暮らしているよなげた人だ。義太夫めかした腹で行っては いけないのである。  そういえば他の人々も、永井先生の描ける隅田川と一体になって生残っている人たちとは時代 を異にしている。この人々は、余りに電車通に出過ぎた感じがある。小梅や今戸の風情《ふぜい》というも のは、現代の役者の体にはそぐわなくなり切ったのであろう。  いろいろの事をいうものの、私は松蔦と寿美蔵を称讃したい。想ったよりも面白く見ていられ たのは、この二人の力だ。  松蔦と寿美蔵は近来めっきりうまくなった。そのうまくなる階段を踏むのに、他の役者とは違 う心懸《こころかけ》を見せたように思う。二人とも一時的の喝采《かつさい》をめやすにしない慎み深さをもって、よく己《おの》 れを知り、わき目をふらずに修業した。新人ぶったり、舞台を武術の道場化したり、軽業《かるわざ》を見せ たり、怒鳴ったり、あばれたりしないで、自分たちの持味を忠実に磨《みが》いた。その結果が、次第に あぶなっけのないうでを身につけた。殊に松蔦は、つつましやかな芸風に自信を得て、近頃は達 者と呼ばれてもいいほど進出して来た。彼の芸風が明るく、大きくなり、描き出す輪郭の強くな った事は祝福すべきである。  私は寿美蔵が立派な座頭《ざがしら》になろうとは思わない。しかし松蔦やこの人のような心懸の役者を珍 しく思う。手前勝手で、天狗《てんぐ》で、早呑込《はやのみこみ》で、売名病で困るのは敢て役者ばかりではなく、われわ れも日に三度かえりみてつつしまなければならないのだ。松蔦や寿美蔵のような芸道修業の心懸 は、とって範となすべきであろう。 (昭和三年四月八日)                             ー『三田文学』昭和三年五月号