春窓院梅誉妙音大姉 水上滝太郎  女の年をとったのは、若い時に無理をして、やさしがったり、なまめかしがったり、しとやか がったりした反動で、慾張と意地悪の表象のような面《つら》がまえになりがちのものであるが、春窓院 さまは、六十と七十のまんなかどころでおなくなりになるまで、木《こ》の間《ま》がくれの初花のように、 ほのかな色気をたもたれ、御うまれも江戸ではあるし、長く東京下町の御内儀《おないぎ》として世に処され たので、おみなりも、身のこなしも、言葉づかいも、粋《いき》ですっきりしたものであった。私がはじ めて御目にかかったのは昭和五年の春で、私のつとめさきの秀才が、春窓院さまの御縁つづきの 美しいお嬢さんとみょうとの契《ちぎり》を結ぶ事になったσがきっかけである。御子息の白水郎さんとは 随分長いつきあいだが、私の生れつきの不精が気軽にひとの家を訪問する事をしないので、つい ぞ御目にかかる機会がなかったのである。  私は春窓院さまの美しさにひきつけられた。細い目には始終柔かいさざ波を湛《たた》え、形のいい顎《あご》 を少しばかり上に向け、極端にちいさい口もとには、むしろ小憎らしい色気があった。それに大 変御話が上手《じようず》で、それからそれと尽きないのであった。これには泉鏡花先生も悉《ことこと》く感服し、どう もあのさようでぎざんすというとこなんかたまらなくいいよといわれるので、そんな事をいいま すか、いやあしないでしょうと反問すると、いいえいいます、横寺町(そのむかし尾崎紅葉先生 |牛込《うしごめ》のその町に住みたまえり)のお年寄もいいました、ごとぎの間《ヘへ》の音でね1先生は、寺木ド クトルを度々煩わす歯で、歯ぎしりをするような形を見せた。私も依怙地《いこじ》になって御本人にきい てみたところ、春窓院さまはたまらなくおかしいという風で、誰がそんな事をいうものですかと お笑いになった。だが、泉先生も旋毛《つむじ》まがりだから、そんな事を本人にきいたって、はい申しま すというものかと承服しないに違いないから、私はいまだに向うは向う、こっちはこっちときめ て、春窓院さまはぎざんすとはおっしゃらなかったと信じている。  春窓院さまの四方山《よもやま》の御話のうちに、よほどいぜん芝の豊岡町に住んでいた事があるとうかが った。私はその隣の松坂町に五歳の春から二十年間住んでいたので、凡《およそ》四十年前のその近所の景 色が、対座している春窓院さまと私との間の数尺の空間に、忽ちあざやかに浮び上った。春窓院 さまの御住居のあったところは、水の谷の原という名で、私の記憶にありありと残っている。そ の原は、水の谷という大名の屋敷跡だと聞いているが、林があり、竹藪《たけやぶ》があり、大きな池があっ て、近所の子供が凧《たこ》をあげ、球を投げ、蜻蛉《とんぼ》をつり、螽斯《ばつた》を追いかけ、蛙《かえる》をいじめる好適の空地 だった。その池はもっともっと大きく深かったのだが次第に埋もれ、その原はもっともっと広か ったのが、段々家が建ち並んで狭ばめられたのだと聞いたが、しまいには水たまりもなく、雑草 のかげさえ見えない町になってしまった。  先年久保田万太郎氏の句に、水の谷の池うめられつ空に凧《たこ》というのがあって、水の谷といえば 芝区三田豊岡町とばかり心得ていた私は、浅草生れの傘雨《さんう》宗匠が、どうして知っているのか不思 議に思った。しかるに久保田氏の水の谷は吉原の近くだそうで、水の谷家の下屋敷の跡だという 事を白水郎夫人の御話で承知した。  意外にも水の谷家は春窓院さまの旧藩主で、春窓院さまの生家中野家の本家は、家老格の家柄 だった。春窓院さまも若い時、旧主の屋敷に御奉公をされたそうで、さてこそ芝区三田豊岡町に 住まわれたはずなのである。  ここに面白いといっては少しおかしいが、水の谷家の事については、春窓院さまの実子の白水 郎さんは案外何も知らず、夫人の方が姑《しゆうとめむ》の昔語《かしがたり》を審《つぶ》さに聞き覚えていられるのである。よめし ゆうとめの仲むつましい御家庭のさまもおもいやられて床《ゆか》しい。たとえば上記の、濁りのないあ ざやかな景色の中に昔なつかしいやるせなさを籠《ご》めた傘雨宗匠の秀句についても、白水郎さんは 料理屋の庭の跡だろうというような解釈を下した。あるいは水の谷家没落後その下屋敷が料理屋 の手に渡った事もあるかもしれないが、句意はあくまでも大名屋敷の跡のあれ果てた空地に残る 池、それも埋められたあたりの空にあがる凧に、詩人の感傷を托《たく》したものと見なければ面白くな い。あれはおばあちゃんの殿様のお下屋敷ですよと、その時夫人が私に教えてくれたのである。 夫人のお話によると、水の谷家は山陰地方に領地を持っていたが、関東関西お手ぎれの際西方に 味方したかどで徳川に憎まれ、元来大名の一番ちいさいものだったのが、旗本格に下げられて、 旗本としては一番大きいものとして残ったというのである。もとより春窓院さまの直話であろう が、口から耳へ伝えられたもので、はっきりしたよりどころはないのである。そういう事があっ たものかどうか、取調べる興味は私にはない。それよりも、大名のびりが、旗本の頭《かしら》に格下げに なったという昔|噺《ぱなし》の面白さで十分である。  その水の谷家は、後年|不敏《ふびん》の殿様がつづいてあらわれ、明治年間に完全に没落してしまった。 別段お家にまつわる怪談はないそうだけれども、代々残虐の行為に駆られる殿様が出て、最後に は庭のくさむらに蛇、蟇《がま》を探し求めて鉄砲をうち、池に遊ぶつがいの鴛鴦《おしどウ》をうち、松上に舞う鶴 をうち、それが次第に嵩《こう》じては、鵞鳥《がちょう》の羽に油をそそぎ火をつけて、火炎の立上るのを池に放っ て満足するという変質の殿様もあらわれた。あれではお家のつぶれるのもあたりまえでござんし ょうと、春窓院さまは物語られたのである。  私は芝居や草双紙《くさぞうし》で養われた知識で、忽ち悪逆無道の殿様や、佞奸《ねいかん》邪智の家来や、忠義の士や、 美しい腰元のあらわれるグロテスクな御殿を空想し、陰謀、切諫《せつかん》、拷問、御手打、切腹、刃傷《にんじよう》な どの場面をいうどる金襖《きんぶすま》や、血紅の色彩の中に、高島田に紫|矢絣《やがすり》のきもの、帯をたてやのじに結 んだ妙齢の春窓院さまをおもい描いて気が気でなかった。殿様か、若殿様か、悪ざむらいか、無 体の恋慕をしかけ、狼藉《ろうぜき》に及ばんとしたものはなかったか。ききての私が勝手な想像をしている 事には気づかれず、話手の春窓院さまはいつに変らぬにこやかな表情で、昔をなつかしむものの ように話をつづけられた。  御家没落の後、若殿様の一人は下級船員となり、もう一人は春窓院さまのお里の本家にあたる その昔の家老の家柄で、当時新派の俳優として聞えた中野信近をたよって弟子となり、しだしに 使われて舞台を踏んだ事もあるそうだが、いずれも香《かん》ばしい事はなく、御家再興の望みは絶えた のである。この春窓院さまの御話は、近年物語風の小説に完璧《かんぺき》のうでをほしいままにしている谷 崎潤一郎氏でも煩わしたら、何か根深い因縁をからませて、豊かな想像の赴《おもむ》くままに、怪奇|凄艶《せいえん》 なるロマンスを構成するであろう。  春・窓院さまは、まだまだ面白い御話を、いくらでも持っていらっしゃったが、私はいたってき き下手《べた》で、話のいとぐちをみつけても、それを何処々々までも手繰《たぐ》ってゆく才覚がないので、後 では惜い事をしたと悔みながら、ついききもらしてしまうのであった。そのくせ春窓院さまの御 話の面白さと、お年寄には珍しい色気のある御ようすに心を引かれ、白水郎さんがいるといない とに頓着《とんじやく》なく、家内や伜《せがれ》をつれて伺う事を楽みにした。  去年の夏は、春窓院さまの養老保険が目出度《めでたく》満期になったので、その金子《ぎんす》でお庭にはなれを建 増され、座敷開きに御招《おまね》きをうけた。私はいつもの事で、遠慮もなくしたたか頂戴《ちようだい》したが、この 日は珍しく春窓院さまも二つ三つは盃を重ね、ほんのりと色に出る位だった。いつまでも美しさ の消えない、上品なお年寄の少しは心浮立つさま、すぐれてなまめかしく拝したのであるが、そ の新築のはなれが、やがて臨終の床になろうとは、まことにはかない事であった。  殊に遺憾なのは、年の始の忙しさに、御病気とは知りながら、つい例の不精が出て、家内に度 々|叱《しか》られながら御見舞にも伺わなかったところ、如月《きさらき》十二日風寒き日に、最後までお若い時の美 しさの偲《しの》ばれるのが、紅梅の散るように永き眠につかれた事である。おもえば長からぬ御縁では あったが、お年をめしても美しさとなまめかしさを失わなかった婦人として、春窓院さまは私の 記憶にいつまでも生きていらっしゃるであろう。 (昭和八年六月二十六日) -『文藝春秋』昭和八年八月号