清順院貞室恵京大姉一周忌 水上滝太郎  ことし十一月十六日、清順院貞室恵京大姉久保田お京さんの一周忌法要は、お京さんが最後ま で熱烈に愛した良人《おつと》のこころざしによって、いとねんごろに営まれた。親戚《しんせき》のものと極く親しい 友人ばかりでーという事だったが、私も親しい友人の中に加えられ、本郷の赤門前の喜福寺に |詣《.もう》でた。他の人を見ると、お経が済み、焼香が済んでから墓参すべきもののようであるが、私は 先ず御墓にお詫《わび》に行かなければ気が済まなかった。門を入り、長い石畳を踏み、本堂の左手の墓 地へ入ると、とっつきが久保田家の御墓で、石碑を囲み埋めて、折からの菊の花が、香烟《こうえん》と共に ほのかに香《かお》っていた。うすぐもりの日で、土はしめっぽく、踏石は水に濡《ぬ》れ、地下の霊も寒そう に思われた。お京さん、すみません1私は手を合せ、頭を垂《た》れた。菊の花は面をうつばかり、 高く香った。私はお京さんに買かぶられ、子供の事、良人の事、亡き後々の事までも、何かと親 身に心配しなければならないような、身にあまる信頼をうけていたように思われる。それにもか かわらず、私の片意地は、今や次第に久保田家から遠ざかろうとし、お京さんがあれほど可愛が り頼りにした御子さんは丈夫かどうか、学校は何年生になったのか、パパは果してよきパパであ るか、主婦のない家というものがどうなっているものか、一切何も知らないのである。私の古い 道徳は、この事で常に私を責めている。  本堂に隣《とな》る控の間には、久保田さん父子、親戚の方々の外に、知った顔も多かった。挨拶《あいさつ》して 席につくと、直ぐに、今日のお世話人が、小型の本をくれた。亡《な》き妻の一周忌記念として、久保 田氏がこの一年に「かの女をめぐってのわたくしの生活」をしるした文章三つを集めたものであ る。早速《さつそく》開いてみると、先ず最初にお京さんが、お京さん特有の大きな廂髪《ひさしがみ》で、こころもち微笑 している写真、それにぴったりくっつき、母の手に縋《すが》っているいとけない耕一君のいるのがあら われた。お京さんの年齢も、耕一君の年齢も、私にはちょっと判断しにくいのだが、そのお京さ んの笑顔は、母親としての、人妻としての、嬉《うれ》しさと満足のみちあふれたものである。胸が迫り、 お京さん、すみませんーーと、お詫びしなければならないのであった。   衣《きぬ》ずれの音のきこゆる花野かな  鏡花  巻頭に泉先生の句が載っている。先生はお京さんが大の御贔負《ごひいき》で、というと先生は、御贔負な どと失礼な、僕は崇拝していたんだとおっしゃるに違いないが、まこと女らしく、やさしい、美 しい、しとやかな人として、始終ほめたたえていらっしゃった。われわれの時代の浪漫派の巨匠 は、この句の中に、お京さんのありし日の姿を偲《しの》ばれるのであろう。  私はお京さんを、久保田夫人としてみる前に知っていた。それも勿論久保田さんのひきあわせ には違いなかったが、当時私は、二人が結婚する事になろうとは思わなかった。お京さんが久保 田家のお嫁さんとなった時、私は大阪につとめていた。私は久保田さんのために祝福した。やが て私も東京に帰り、しげしげ久保田家に出入した。久保田さんは、既に第一流の文人として名を 成していた。そこに耕一君が生れた。お京さんはいつも笑顔だった。一周忌記念文集の中の「可 哀想な彼女」のかき出しには、父親が、こどもに、亡き母のどのような顔をおもい出すかときく、 涙ぐましい対話がある。こどもは「機嫌《きげん》のいい顔だね」と答えている。父親も、自分も機嫌のい い顔しか感じられないといっている。ところが、私には、お京さんの極めて不機嫌な、ヒステリ ックな、蒼白《そうはく》の顔が、一番さきに浮んで来る。それは私が、最後にお京さんを見た時の相貌《そうぼう》であ る。お京さんの長からぬ生涯の終に近い頃で、病気のために心悸《しんき》たかぶり、ねたみ心の深くなっ たお京さんをなだめに、深夜訪問の役目を負わされて行った。寝ていたお京さんは起きて来て、 自分で門を開いて迎えてくれた。久保田さんは、文集の中の「引越しのこと」の中で、「放漫な、 でたらめな、しめくくりのない生活」と自分を鞭《むち》打ってみせたが、お京さんはそれらの悪徳には 極めて寛大だった。この文学的表現は、決して深刻なる自省を伴わず、従って読者も、些《いささ》かの憎 しみを感じないに違いないが、お京さんもこの点については、むしろそれを、善良なる性格のあ らわれと認めていた。だが、その外の悪徳、嘘《うそ》の多い生活には堪えられないといって、かつてな いうわずった声で、あたかも私を咎《とが》めるようにせき込んだ。しかし、そのあいまあいまに、いか に自分が夫を愛し、夫のためには苦労を忍んだか、切々と語られるのには、私も胸を打たれた。 こうまで夫を熱愛する妻というものがあるのかと、私は驚いた。熱烈に愛すればこそ、殊《こと》には病 中の、とかくひがみも深くなるのがあたりまえなのだと同情した。お京さん、私はあなたの味方 ですーと、私は肚《はら》の中で叫んだ。  お葬式の済んだあと、「これを機会に、こどもは寄宿舎に入れること、おやじはアパァトに住 むこと」と、私がこれを最後の進言として敢《あえ》て言ったのは、甚《はなはだ》しく久保田さんの御不興をかった ようで、これに対する抗議が即ち「引越しのこと」なのだが、私の真意は「嘘の多い生活」の中 にこどもを置く事を不可としたのである。寄宿に入れる事や、アパアトに住む事は二の次なのだ。 お京さんの希《ねが》ったようなパパであれば、また何をかいわん。  だが、私はその進言をほんとに最後として、お京さんの信頼に背《そむ》いているのだ。読経《どきよう》が終り、 われわれの焼香の順の廻って来た時、私は香を拈《ねん》じつつ、お京さんすみませんと頭をさげた。 (昭和十一年十一月二十日)                    ー「時事新報」昭和十一年十一月二十一日・二十二日