撒水車 水上滝太郎  生れたのは麻布《あざぶ》の飯倉だけれど、五歳の年に芝に越して、三田で育った自分である。慶応義塾 を中心にして、次第に発展した附近の町々、田圃《たんぽ》や空地が年ごとに住宅地に変って、やがて隙間《すきま》 もない人口|稠密《ちゆうみつ》の、繁昌の町になった三十年間の変遷は、その間、健康な肉体の成長を制御しき れないで、飛廻り、あばれ廻った自分の姿と共に、歴然として眼前に展開される。  明治の最後の年から数年間を海外に暮らし、帰って来て一年たつかたたないうちに大阪にやら れ、足掛三年の下宿|住居《ずまい》の後で、再び東京におちつく事になると同時に、独身者の新所帯を、赤 坂|氷川《ひかわ》町に構えたのであったが、其処には二月《ふたつき》もいないで、住み馴《な》れた三田に引越した時、故郷 に帰ったような気のしたのは、あながち無理ではないのである。  家は、自分が長年お世話になった慶応義塾の地続で、俗に稲荷山《いなりやま》という大銀杏《おおいちよう》のそそり立つ学 校の庭の真下にあたる二階家で、家主は三田の福沢さんだった。三田の大通から綱町、豊岡町へ つながる一筋の、かなり繁昌する町筋で、小売店が軒を並べた中に、三軒並んだ二階家が、三軒 |揃《そろ》ってやもめだった。右隣は小泉さん、左隣は小山さん、まん中にやや見劣りのする自分が住ん だのである。  小泉さんは、当主の信三君は結婚以来鎌倉に住んでいるので、三田の本宅には女中相手にお母 さんが住まっていた。頭脳明敏|眉目《ぴもく》秀麗を以て聞えた先代の小泉先生は、壮年にして世を去られ たので、いうまでもなくお母さんは、長の年月のやもめである。  小山さんは、福沢先生のお孫さんにあたる美しい夫人が、二人のちいさいお嬢さんを残してな くなってから、数年間のやもめである。  その両隣に挟《はさ》まれて、既に婚期を過ぎんとしつつある男やもめの自分が、二階四室、階下四室 半の外に玄関の二畳を数える、身分不相応な家に納まった。伝え聞くところに拠《よ》れば、福沢先生 の嫡男《ちやくなん》、即ち現在の慶応義塾社頭の福沢さんが、新婚当時建てられた家で、その後自分の知る限 りにおいても、正金《しようきん》銀行の鈴木島吉さんも住み、小山さんも新婚当時は此処に住んだはずである。  「名士の住む家だなあ。」 と自分をからかうものが五指を越えた。  往来から見ると、亜鉛《トタン》の塀《へい》で囲まれていて、三段になった石段を上って、格子戸《こうしど》の玄関にかか る事になるのだが、間口の割に奥行はない地勢だった。稲荷山の崖《がけ》が裏手に迫っていて、知らな い者が見ると、その崖上の有名なる大銀杏《おおいちよう》さえ、この家の構内のもののように見えるのであった。  本箱と自分は二階に住む事にきめ、玄関から右手の二室は、本来主婦が長火鉢《ながひばち》でも据え込んで、 女中に小言《こごと》をいいながらお茶でも飲んでいる室《へや》らしかったが、其処は二人の女中の自由に任せた。 日当りもよく、僅《わず》かながらも縁先に空地があって、前住者が縁日で買った草花を移したらしい花 壇さえあった。  玄関を上って左側にも二室あったが、裏手の方は日光が入らない上に、稲荷山の崖がのぞき込 むように迫っているので、水はけが悪く、湿気《しけ》るためか、根太《ねだ》が腐っていて、物の役には立ちそ うもなかった。おもてに向いている八畳は、自分の食事をする室にした。縁先には一本の碧梧桐《あおぎり》 と、三本の痩《や》せた八手《やつで》と、外に名の知れない樟《くす》科の樹《き》が一本あって、その根方《ねかた》に、畳一枚に少し 足りない位の瓢箪《ひようたん》池があった。と書くと相当の広さらしく思われるかもしれないが、決してそう ではなく、瓢箪池の廻りには散歩する余地もないのである。亜鉛の塀の外は直ぐに往来で、年を 経たこの家は、自動車や荷車が通ると、地震のように揺れた。  とやかくいうものの、馴染《なじみ》の深い三田で、身分不相応に広い家に住んだのだから、その当座の 喜びは大したものだった。  ところが間もなく不愉快な事件が持上った。それは塀の外の往来を泥海のようにする撒水車《さんすいしや》に かかわる事である。ちょうど引越してから二月ばかりたった或口、留守中に、その撒水車を引張 って水を撒《ま》く人足が来て、撒水費は今まで弐円だったが、物価騰貴の今日それではやりきれない から、今後弐円五拾銭にする、町内の他の家も承知したから、この家も承知してくれといい残し て帰ったそうだ。  月給を貰《もら》うと直ぐに女中に渡して、家計の事には一切かかわらない自分は、それまで毎月弐円 の撒水費を払っていたのを知らなかった。毎朝勤務先に行く時も、毎夕勤務先から帰る時も、雨 上りの泥濘《ぬかるみ》と同程度に水を撒き、草履《ぞうり》では歩けないほどにする撒水車の暴虐を呪《のろ》っていた。天下 の公道の事だからこういう仕事はおかみの仕事であろうが、綺麗《きれい》に手際《てぎわ》よく撒いたのでは乾《かわ》きが 早く、また撒き直さなければならないので、横着をきめているのだろうと黒っていた。他所行《よそゆき》の とりすました奥さんやお嬢さんが、空気草履では歩けないで、ところどころ水気の少い所を拾っ て、あられもなくふと股《もも》を出して跨《また》ぎ跨ぎ歩いて行くのもみっともなかったが、芝浦辺の工場へ 通う女工たちの五人十人かたまって、歩き悩んでいるのを見ると、聖坂《ひじりざか》の下の三叉路《さんさろ》に立って威 張りちらしている交通巡査は、何故《なにゆえ》にこの暴虐を許して置くのかと、義憤を発した事もあった。 それなのに、意外にもおかみの仕事ではなく、われわれ町内の者が金を出しあってやっているの だと知った時は、迂闊《うかつ》を恥じて呆然《ぼうぜん》とした。  第一、東京市内で、今でも町内でそんな事をする所があるだろうか。随分高い税金を払ってい るのだから、市の仕事として、当然水位は撒いてくれるはずである。また、朔内でやるにしても、 月弐円は法外であろう。しかもその弐円では足りないといって、更に五十銭増そうというのだ。 自分はこの町内の数十軒が、軒並《のきなみ》に弐円五拾銭とられるものと思って、あさましい話だが、人足 の収入を胸算用であたって、その莫大《ばくだい》なのを密《ひそ》かに羨《うらや》んだ。雨の多い東京の事だから、撒かない で済む日もあろう。そういう時には家に寝転《ねころ》んでいて、小説でも書く事にしご、いっそ月給取を やめて撒水人足になった方がましだなどと、その時ふと空想した位である。  法外だ。確かに法外だと思いはしたが、そういう事に拘泥するのは嫌《きら》いだから、為方《しかた》がないと 思ってうっちゃって置いた。しかるに、誰しも法外だと認めるのであろう、御近所の親切な方が 値上の不当を論じ、一致して撒水拒絶をしようと申入れられた。その人はこの撒水について相当 の研究を積まれたと見えて、町内の撒水史に通じ、かつ現在の撒水制度も細《こまごま》々と教えてくれた。 その話に拠《よ》ると、むかしおかみが撒水の世話をやかなかった時代には、この町内の世話人が組合 をこしらえ、各戸の間口に応じて毎月の負担額を定め、人足を雇って一日三回ずつ撒水車を引張 らせる事にした。ところが、月日の小車《おぐるま》は小止《こや》みなく、追々おかみの手が行届くようになって、 区役所名入りの撒水車が市中をうるおして廻る事になったので、町内で撒く必要はなくなった。 其処で世話人も相談して、撒水組合を廃止し、一切おかみにお任せする事になった。驚いたのは 人足で、明日から飯が喰えなくなる。彼は世話人に泣きついて、組合は解散しても、個人の商売 として続けて行く事を、大目に見てもらう事になった。その時から、甚《はなは》だ変則なる撒水制度が、 この町内に残ったのである。  万事お任せして置けば間違いなくおかみで撒いてくれるものを、人足が勝手に撒いているので、 いいしあわせにしてか、または人足の飯粒を取上げるのを気の毒に思ってか、区役所名入りの撒 水車は、この町内の入口まで来て引返して行く。  町内の人の多くは、以前からの惰性で、詳しい事は何も知らずに撒水費を払っている。尤《もつと》も組 合が解散したのだから、一理窟こねて、爾後《じご》まるまる払わない者もあるかわりに、ちょいちょい 目立たないように値上げして、沢山払わせられているのもある。最初自分が軒並に弐円五拾銭だ と思って羨んだほどの事はないのだが、小山さんや小泉さんは今までが既に弐円五拾銭で、今後 は参円に値上げされる運命が迫っていた。  御近所の親切な方の御話は右の通りで、また下の通りなのである。即ち今度の値上げも、町内 全体のあずかり知る所ではなく、人足が自分勝手の目分量で、文句をいいそうもないしもたやか ら増徴し、常日頃顔|馴染《なじみ》の家には触れないのだそうである。  「実に怪《け》しからん。第一、弐円参円の撒水費なんて法外です。府市税よりも高いんですからね。 何処に行ったってそんな馬鹿な話はありません。」 と御近所の親切な方は話を結んだ。  「全くです。そんな事を見のがして置くおかみも怪しかりません。」  自分も悉《ごとごと》く賛成した。あの撒水車がなくなれば、毎朝毎夕|穿物《はきもの》を泥だらけにする事もなくなる であろう。他所行《よそゆき》の奥さんお嬢さんが、あられもなくふと股《もも》をあらわす事も免かれるであろう。 芝浦通いの女工さんは、草履の持ちがよくなって喜ぶであろう。つまりこの機会に撒水拒絶同盟 に加入する事は、町民の責任であり、公衆に対する義務であると考えた。自分は一も二もなく、 御近所の親切な方の御勧めに応じて同盟の一人に加わった。  早速《さつそく》撒水拒絶を人足に通告したばかりでなく、たまたまお隣に遊ひに行った時は、小泉母堂に もこの話をし、此処でも賛成加盟を得て、よせばいいのに代筆で、撒水拒絶通知を人足に発した。 同盟が日増しに勢力を得て来る事は、甚だ喜ぶべき現象であった。  泡《あわ》を喰ったのは人足である。文句をいいそうもない甘口の連中だと見くびって、値上げを申入 れたところ、一斉に拒絶して来たので、元々必要に迫られた要求ではなく、横着《おりちやく》根性から晩酌の 量をふやそうと考えた仕事だから、ひとたまりもなく降参して、自分よりも口先の達者な女房を 力にして、一軒々々|謝《あや》まって歩いた。  女房の言葉によると、亭主は生来馬鹿野郎で、今度の事も他人におだてられて、黙って出しそ うなところに無心《むしん》をふっかけたのだという事だった。  「決して値上げなんか申上げられた義理じゃ御座いません。」 と繰返してあやまったそうである。  そういう事は留守番の女中に聞いたけれども、何分撒水拒絶は単独行為ではないのだから、馬 鹿な亭主を持った女房に免じて許してやってもいいとは思いつつ、同盟の義理合上今更拒絶取消 は出来なかった。  「何といって来ても、おかみさんが泣いて来ても構わない。水撒きはお断りだといえばいい。」  そう女中にいいつけて、自分はやはり泥濘《ぬかるみ》に毎朝毎夕悩みながら、月末になって料金を取りに 来たって、いったん断った以上はやるものかと、腹の中で考えていた。  すると、或日撒水人から手紙が来た。その文に曰《いわ》く、   拝呈撒水の事に付貴殿は従前の事を御存じの事に候《そうろう》か但し存じなきか存じなくばお話|致《いた》さん   この撒水は大正四年七月十五日△△△△、x×××、○○○○、□□□□、右四名の皆様が   先に立ち町内皆々様に話しを致して今日に到《いた》るまで継続|仕《っかまっ》る次第|故《ゆえ》さよう御承知|被下度《くだされたく》つ   いては小生もロバ今は日に三回ずっ撒水仕る故貴殿方でも向《むかい》の店にほこりのたたざるよう日に   三回ずつ撒くよにして下さればそれでよいのである故それに貴殿方を撒水致さぬからという   て今日に困る次第にはこれなく故あえて撒水費を申受けたき事はこれなき故小生撒水致す時   は貴殿方にても水を表に撒き町内のめいわくに成らぬようすべしそれにこの後もある事故《ことゆえ》貴   殿の身分にかかわる故右のようなる事は御面《ごめん》を願います  破格の文章の面白さ、たとえば宇野浩二氏の文章を読む時のような気持で読了した。  「こんな手紙を寄越《よこ》しました。」  自分はその翌日顔を合せた御近所の親切な方に見せて笑った。  「ふうむ、お宅には女房がお詫《わ》びには行きませんでしたか。私どもではあんまりうるさく泣言 を並べるので元通りやらしてやる事にしましたが。」  事もなく先方はいったけれども、自分は全く意外だった。  「あたしとこでも女中がいやがるので、元の値段で承知してやりましたよ。」  味方に思う小泉さんでも、何時の間にか折合っていたのだ。そうとは知らないで、同盟の強固 な事を信じ、手強《てこわ》くはねつけて通していたのは自分一人だったのだ。人足が目の敵《かたき》にして、手紙 を寄越したのも無理はない。しまったなと思ったが、今更|退《ひ》くにひかれなくなったのは、人足は こっちに手紙を出すと同時に、自分の本家i両親の家に宛《あ》てても一通を出した事だ。その文句 は、あなたのところの息子が近頃こっちの町内に引越して来たが、町内の迷惑をかえりみず、撒 水費を出さない、甚だ不都合だから叱ってくれという意味だった。  「たかが僅《わず》かばかりのお金の事で、人足と喧嘩《けんか》をしなくてもいいではありませんか。」 と母は小言をいった後で、それがお前の悪い癖ですよというような、心もとない色を見せた。し ばしば人と争う息子の身の上は、親心の心配の種に違いない。  「畜生、やりゃあがったな。」  自分は本当に腹が立った。自分に対してとやかくいって来るのは差支《さしつか》えないが、年とった父母 にまで、つまらないいいがかりをつけた人足は許せなかった。どんな事があったって、撒水拒絶 だ、自分一人義理堅く拒絶しているうちに、何時の間にかみんな軟化してしまったのも不愉快だ った。こうなってはもう引かれない。母のいう通り、悪い癖には違いないが、悪い精神ではない と思った。  ゆくりなくもその時思い出したのは、これと同じはめに陥《おちい》った事が、今日までに幾度あるかわ からない事だった。慶応義塾にいた頃、簿記の教師が気に喰わないといって、級中がストライキ をやる決議をした事があった。当時全く人づきあいを避けていた自分は、その教師の何処が悪い のかちっとも知らなかったが、見たところ虫の好かない事は疑もないと思っていた。しかしスト ライキの面白さも中学時代に過ぎてしまい、そんなお祭騒ぎはふっつり嫌いになっていたから、 なかなか相談には乗らなかった。しかし大勢は決行に傾いて、最後に発起人が自分の賛成を求め に来た。あくまでも排斥し、一学期、二学期、三学期iつまり一年間ぶっ通しのストライキだ というのだった。簿記なんてものを大学校で教えなくてもいいと自分は思っていたから、別段異 を立てるまでもあるまいと思って加盟した。但し全生徒が、きっと休みつづけるのかと、幾度も 念を押した。それっきり自分は簿記の時問は出席しなかった。級中残らず休みつづけているもの と信じていた。ところが、何時《いつ》の間にか、一人出、二人出、十人出、二十人出て、たった一人の 自分を残して、みんな出席していたのである。しかし自分は一年間ぶっ通して休んでしまった。  「またあの手にかかったかな。」  世渡りには第一に損な手を繰返す自分をかえりみて、心寂しくも感じたのである。しかし今更 |如何《いかん》とも為方《しかた》がない。自分は最後の通牒《つうちよう》を人足に発して、あくまでも撒水を拒絶した。  その日から、自分の家の前だけは水を撒《ま》かなくなった。一筋の往来を、東から西に、西から東 に、ゆきかえりして日に三度撒水車を引張るのが、我家の前に来るとわざわざ遠廻りして向側に 道をよけ、一滴もこぼすまいとするのであった。花時《はなどき》から初夏へかけて、晴れても曇っても風の 吹く日が多く、だぶだぶに水を撒いた部分には波が立ち、我家の前の乾き切った部分は、渦を巻 いて埃《ほこり》が舞い立つのであった。  どろどろにこねかえす道に、たった一ヵ所真白な土の色は著しく目立っキ。二階の窓からみる と、東から来る人も西から来る人も、ぬかるみに難渋《なんじゆう》しているのが、その乾いたところにわざわ ざ迂廻《うかい》して来て、気安そうに穿物《はきもの》の泥を振い落して行った。砂漠《さばく》の中の緑地の如《こと》く、行人は喜ん だろうと、自分は勝手な想像をほしいままにした。  人足はたまに往来で擦《す》れ違っても敵意を見せて、故意に撒水|栓《せん》を抜いて、水をはねかそうとす る事も度々あった。そうされればされるほど、自分は彼の出ようによっては、往来でステッキを 振う事さえ避けたくない気持になった。  或時は警察からさし紙が来た。朝早く呼出されて行って見ると、道路法違反の件だという。外 でもない撒水の事で、水を撒かなければいけないと説諭するのだった。そんな馬鹿な事はない。 元来撒水は市でやるべきで、われわれが人夫をやとっているのなんか変則だと、むかっ腹を立て て弁じたら、係のおまわりさんはよくわかった人で、なるほどなるほどと感服し、  「いや、わざわざお呼び出しして済《すみ》ませんでした。全くそれは市でやるべき事業でしょうな。 全く。」  あまたたび鍵匣て釈放してくれた・撒水人足が近所の交番の巡査をおだててやった仕事だった そうである。  ただ困ったのは、たった一軒撒かないだけでも、やはり向う側の店家《みせや》には埃が多く舞い込むの か、今川焼屋の足の悪いおじいさんが、跛《びつこ》を引きながら、大柄杓《おおびしやく》で溝《みぞ》の水をしゃくっては、此方 の前まで来て撒いている事だった。これにはつくづく弱って、ほんとに町内の迷惑になっては申 訳ないと思うと、その町内にはいたたまれない気がした。安楽な、我家に帰るような気持で引越 して来た三田なのに、また何処か外に移りたい心さえ動いた。それでも、此処まで争った以上は、 どうしても撒水人足に凱歌《がいか》はあげさせられなかった。  ええ為方《しかた》がない、女中の苦痛にならないで、時間さえあれば自分自身でも取扱える物を買って 来ようと心にきめて、台所の水道栓から往来までとどく長い長い護謨《ゴム》の管を仕入れた。ぬるぬる |へび《まふたちま》 蛇のように地面に遭わせて、門の石段に立って水を出すと勢よく噴き出して忽ち適度に往来を濡 らした。決して撒水車のようなぬかるみにはしなかった。名案々々と悦喜《えつき》したが、これは直ぐに 巡査に差止められた。水道の水を往来に撒いてはいけないというのである。  撒かないでいると、幾度も幾度も巡査が来て、撒かなければいけないという。撒けばまた水道 の水ではいけないという。市で撒くのが当然だといっても承知しない。要之《ようするに》、これもまた撒水人 足の入智恵《いれちえ》か、勝手にしろと思って突放した。それで自分は済んだが、可哀そうなのは女中で、 なお幾度も巡査の小言を聞かされたらしい。さぞかしわからずやの主人だと思って自分を恨んだ であろう。  春夏秋冬、春夏秋冬ー二年二ヵ月の間、一筋の往来にただ一ヵ所の白い⊥を残して、撒水車 は東から西に西から東にゆきかえり泥濘《ぬかるみ》をこねかえし、奥さんお嬢さん女工さんその他いろんな 人を悩まし、またその一点の白い土は、風の吹く度に埃をあげて、附近の家を悩ました。自分の 心もまた、たったその一点の白い土のために、絶えず悩まされたといってもいい。平気でその往 来を通る事はなかったのである。  今年の春青山に引越す事になった時、自分が一番|嬉《5れ》しく思ったのは、その往来に別れる事であ った。引越した後で、たまたま旧居の前を通った事があったが、今度の主人は金弐円也、毎月お となしく納めているのだろう、一筋の道は見る限りの泥の海で、折悪《おりあ》しく草履《ぞうり》を穿《は》いていた自分 はすっかり悩まされたが、久しく気にかけた一点の白い土を見ない事は、何となく大きな安心だ った。  しかし自分の本当の心は、今もなお自分の取った態度を是認している。それは世の中を渡るに は損かも知れない。損は損でも、この世の中になくてならない精神ではないだろうか。すべてが 泥濘にまみれて、まみるるに任せる時、御都合をしりぞけ、妥協を廃し、たとえ自分の心は寂し くとも、乾いた土として残りたいのである。 (大正十一年十月二十四日) ー『三田文学』大正十一年十「月号