親馬鹿の記 水上滝太郎  われ鍋《なべ》にとじぶたが出来て十年目に生れた優蔵も、七月三十日で満二歳になった。体重三貫二 百十匁。健康で、腕白《わんぱく》で、水に濡《ぬ》れ、土にまみれ、かなぶんぶんや蟻《あり》を踏躙《ふみにじ》って遊んでいる。年 とってから出来た子供は、生れつきませている惧《おそ》れがあるが、優蔵もおない年位の子供に比べる と、おしゃべりで、おませのようだ。きょうだいがなく、大人とばかり遊んでいるので、つい智 恵がつき過《すぎ》るのではないかと思う。物心のついた時から、おやじの本を読む姿を見つけているた めか「ゴコン」—御本—は早くから好きだった。まる一年になるかならない頃から、新聞や 雑誌を両手で持ち、仔細《しさい》らしく小首を傾けながら、タドタドタドと読んだ。この頃は、自分の知 っている限りの言葉を組合せて、大きな声で朗読する。「鴉《からす》はお山へ行きました」というのが最 も得意だが、時には鴉のかわりに太郎さんがお山へ行ったり、次郎さんがお山へ行ったりする。 果してこれに類する読本《とくほん》があるのかどうか、いまだ明かでない。絵本の中に自分の知っている鳥 獣虫魚を見出す時の得意と、自分の知らないものに出あった時の驚《おどろき》とは、瞳《ひとみ》の色にもはっきりと うかがわれる。或時はまた、其処に父親を発見し、母親を発見し、自分を発見する。白い割烹着《かつぼうぎ》 をきて食卓の用意をしているのは母親で、背広姿で電車を追かけるサラリイ・マンは父親で、赤 い水着で蟹《かに》に手を挟《はさ》まれているのは自分にたとえ、背嚢《ラソドセル》しょって学校へ急ぐ子供には未来の自分 を空想している。大家さんの御子さんたちの学校へ通うのが、今は何よりの羨《うらやま》しさだが、やがて おやじと同じような学校|嫌《ぎらい》になるのではないかと、行末|甚《はなは》だ心許《こころもと》ない。  優蔵のもうひとつの楽みは音楽である。生れて問もなく、銀座の大勝堂で買って来たオルゴル は、一番気に入ったおもちゃである。蘇格蘭《スコツトラソド》の民謡や、仏蘭西《フラソス》の俗曲の五つ六つ入っているのを |枕《まくら》もとに置き、螺旋《ねじ》をまくと、赤坊はその音を捉《とら》えようとするらしく、耳と眼で音楽の後を追か ける様子だった。  ラジオが家にあると、つい聴《きき》入って時間を空《むな》しくするから、私は長く拒んでいたが、女中たち の慰安のために、女中部屋に引く事を許した。これも優蔵の喜ぶものに違いないと思ったが、ど ういうものかあまり興味を持たず、それとは違って蓄音機には夢中になった。目の前でくるくる 廻るしかけが面白いのか、子供向の曲譜が気に入ったのか、あるいは子供の耳は正直で、ラジオ よりもこの方の音色を美しいと感じるのか、とにかく「コンキ」ll蓄音機iは、朝も昼も晩 も、一日も欠かさず鳴りつづける。白状すると、この蓄音機は借物だ。先頃優蔵が病気をした時、 愚妻の妹が御見舞に貸してくれたので、爾来「雀《すずめ》の学校の先生」や「かっぼかっぼかっぽ兵隊さ んが通る」や「出て来い出て来い池の鯉」は、彼が砂いじりの時でも、飯を喰う時でも、身辺に 据えて置いて、聞かなければ承知しないものとなった。つまり、楽隊入りで暮らしているのだ。 何しろ使用回数が多く、おまけに自分で手を出して機械操縦を楽むものだから、レコオドは罅《ひび》が 入ったり、欠けたり、粉微塵《こなみじん》になったりするので、早く返してしまえというのだが、気に入り方 が一通《ひととおり》でないので、愚妻も取上げ兼ると見え、いまだにそのままになっている。私も先年蓄音…機 が欲しく、弟の世話でその友達のお古を譲受けたが、折から愚妻が病気になり、ものいりが多く、 レコオドを買うどころではなくなって、結局鳴らない蓄音機を暫時《しばらく》身辺に眺《なが》めたばかりで、また 人手に渡してしまったが、それから今日まで凡《およそ》十一年、今度こそは好きなレコオド数百枚と共に 買って見せるぞと思いながら、やはりこころざしを果さないうちに、思いもかけない子供が生れ て来た。子供がいてはいい機械を買っても滅茶々々にされるから、やめにしようと思っていると、 かほどまで「コンキ遊び」に夢中なので、満二歳の誕生日に優蔵専用のを買ってやろうといって いたが、愚妻はその妹のおともをして、双方子供|連《つれ》で逗子《ずし》へ行くといい出したので、かれこれぞ ろばんを弾《はじ》いて、うやむやにしてしまった。どうしてこうまで蓄音機に縁遠いのかと嘆息したが、 さりとて子供向のレコオド専門で、朝から晩まで「夕焼小焼で日が暮れて」や「たんとんたんと んたんとんとん」ばかり聞かされるのでは、ない方が遥《はる》かにましだから、二十幾年来の夢である 蓄音機の事は、二度と口に出すまいと思っている。  既にオルゴルと蓄音機に一心に耳を傾ける位だから、母親や女中たちがうたって聞かせる唱歌 のひとくさりを覚え、舌の廻らないうちからよくうたった。一番最初は、雨の日に母親が傘《かさ》を持 って学校へ迎いに来る、迎いに来られた子供は得《とくとく》々として家路へ急ぐと、傘のない子が柳の根元 で泣いているといった風な歌詞の唱歌で、その繰返しが何の意味か「ちっぶちっぶちゃっぶちゃ っぷらんらんらん」というやつだ。それを僅《わずか》に「ちっぶちっぷ」とだけ覚えて、これを口にする 時は必ず得意と羞《はずか》しさとの入りまじった表情をして見せた。それを大人も面白がって、いっしょ になってちっぶちっぶちゃっぶちゃっぶなどというものだから、子供は益々いい気になり、何か 失敗したり、いたずらをたしなめられると、「ちっぶちっぷ」とそらとぼけてはぐらかしてしま うのであった。  メートル法の実施は、最近の国粋主義、ファシズムの流行と共に、またまた議論百出し、さき にはこれに反対するものは固陋《ころう》のそしりを受け、今度はこれに賛するものが国賊の如く罵《ののし》られ、 目下行悩みのありさまで、今更メートルで難渋する不便に心配していたわれわれに一息つかせて くれたが、国粋主義の親玉、ファシズムの本尊の如く思われ、かつ現在政治を左右するかに見え る軍閥は、メートル法採用の先駆者ではないのか。私は我が皇軍の威厳のために、速《すみや》かにメート ル法を廃し、敵は十三丁前方にありという風に改善されん事を希望するものである。同じ大和 魂《やまとだましい》で、私は我子にパパと呼ばれる事をいさぎよしとせず、幸に愚妻も頑固《がんし》おやじに育てられた ので、ママと呼ばれるくすぐったさは知っている。いったい私ども幼少の頃、東京の一般家庭で は父親をおとっつあん、母親をおっかさんと呼ぶのが普通だったが、文部省の方針か、田舎出の 教員がむやみに上品ぶってきめたのか、今ではおとっつあんおっかさんなどというと、小学校で 笑いものにされるそうで、随分前からおとうさまおかあさまに変った。優蔵は口がきけるように なると、父親を「タッタアチャン」と聞える呼び方をし、母親を「ジャアチャン」と呼んだ。東 京の或一部でお母さんというところをああちゃんといい、ちいさい子供に対してちゃあちゃんと 呼ぶが、それに倣《なら》ったわけではなく、他の者が母親をお母さまとか、お母ちゃんとかいうのを耳 にして「ジャアチャン」と転訛《てんか》したものらしい。今では父親はお父ちゃまになったが、母親の方 はお母ちゃまと呼ばれる事もあり、相変らずの「ジャアチャン」の事もある。私としては昔なつ かしさに、おとっつあんおっかさんと呼ばせて見たかったが、それは望んでも無理だった。何故 かといえば、周囲の誰一人そんな古風な呼び方はしないからだ。  仏蘭西人はHを発音しないが、日本人でも彼地で生れると鼻を「アナ」といい星を「オシ」と いうそうである。優蔵もどうしたものか、つい先頃まで鼻も花も「アナ」であった。マミムメモ の発音もむずかしいものらしく、まだが「バダ」みんなが「ビンナ」、もうひとつが「ボウトツ」 だった。  その廻らぬ舌でお話をするのも得意である。まだあんよは出来ても上手でない頃だったと思う が、二階の縁側で遊んでいる時、象の形をしたおもちゃを庭に投捨てた事がある。忽ち下にいた 犬がくわえて逃げたので、母親があわててかけて行って取戻して来たのを、一篇の物語に仕組ん だ。  ジョウ バアン バイヤ アッチ ジャアチャン ノオノオノオ  「ジョウ」はもとより象で「バアン」は自分が投げた勢を形容し「バイヤ」はセント・バアナ アド種の雌犬マリヤの事で「アッチ」はあちら「ジャアチャン」は上述の通り母親で、その母親 が「ノオノオノオ」いけないいけないと犬を叱《しか》ったというのである。うっかり投げた象の玩具《おもちや》が、 忽ち手の届かないところへ飛んで行き、犬にさらわれた出来事は、深い感銘を残したと見え、こ の話はしばらくの間繰返して人に聞かせた。これが彼の経験にもとつく第一の創作であった。今 日この頃は言葉数が多くなったから、自分の見聞を語る事は楽になり、時には人にきいた桃太郎 の話を翻案して、おじいさんが柴刈《しばかり》のかわりにはばかりへ行くような筋にもなるのである。  言葉の創作も子供にとっての大仕事である。それについて私が一番面白く思ったのは、誰かの くれた花火の中に、しゅうしゅう火花の散った後で、蛇《へび》のような形に灰の固まるのがあった。こ れは子供を嬉《うれ》しがらせたが、彼は花火というものをはじめて見たので、その名を知らない。数日 後にこれをねだる時「蛇出るの物|頂戴《ちょうだい》な」という表現を考案して用いた。それに成功したので、 当分の間「バイヤ喰べるの物」1犬のごはんllだの「蟻叩《ありたた》くの物」Ii蝿《はえ》たたきーなどと いうのがつづけさまに出て来た。しかしこういう自分の工夫ででっちあげた言葉は、周囲の者が 一人も使わないので、忽ちおかしいと思ってやめてしまう。  拙宅は市内に似もやらず、附近に樹木の多い屋敷があるためか、一年の中五カ月は蚊帳《かや》を釣る 位で、虫の飛来するものが頗る多い。それに馴《な》れたのか、生れつきか、まだあんよも出来ない頃 から、金《かな》ぶんぶんを握りつぶしたり、黄金虫《こがねむし》をもみくちゃにしたが、手足の自由がきいて来ると、 目に触れる虫はみんな踏躙《ふみにじ》ってしまう。この間「おかちな虫」がいるといってつまんで来たのが、 |百足《むかで》の死骸《しがい》の頭と尻尾《しつぼ》に大きな蟻のくらいついてぶら下っているやつだった。御本尊の百足は動 かないが、蟻が懸命に引ずるので、生きているものと思ったらしい。私は芋虫でも毛虫でも手づ かみだが、愚妻はいたって弱虫で、それらの虫を見ると悲鳴をあげて震えあがる方だから、息子 のやり口にはほとほと閉口している。殊《こと》に、夏になって金魚の季節となり、縁日ものの丈夫なの を水鉢《みずげち》に入れてあてがったところ、うっかりすると手づかみにして握りつぶす。そんな事をして はいけないとたしなめ、可哀そうだからおよしといわれても「可哀そうない」といってきかない。 私は恐くも気味悪くもないが、いたいけな虫を殺す事は好まない。どんな虫でも、よくよく見る と、実に可愛らしく美しく出来ている。人の喜ぶ蝶や玉虫は申すまでもないが、人のいやがる蜘 蛛《くも》でも蚰蜒《げじげじ》でも蜥蜴《とかげ》でもとりどりの美と面白さを恵まれていて、見れば見るほど味が深い。人間 のように大ざっぱなグロテスクなものではなく、精巧を極めた造物で、まことにいつくしむべき ものに思われる。そのいつくしむべきものの命を奪うのは全く可哀そうに違いないし、兇暴《きょうぽう》性を つのらせる心配もあるであろうが、さてこの浮世に生れて、はげしい人間闘争の舞台へ登場する ものが、虫も殺さないで生きて行かれるかどうか、かよわいものを憐《あわれ》みいつくしむ心も勿論《もちろん》ほし いが、あまりに繊弱な神経を養い培《つちか》うのは、行末のためにどうであろうか。私は倅《せがれ》の殺生を奨励 はしないが、強いて押とどめもしず、黙って見ていようと思うのである。その昔私も常習的の金 魚殺しだった。どういうわけで殺したくなるのかわからないが、追廻し追廻してとっつかまえ、 息の根をとめたのは数知れずだ。おやじ似だといわれる倅に、こんな事まで遺伝するのかと思う と、自分の持っているいやな根性が、やがて優蔵にもはっきりあらわれて来るのではないかと、 さすがの親馬鹿も心が寒くなる。  そういえば、既にその一端はかくせない。先ず第一に強情で、これには母親が一番難渋してい る。例えば夜中に目が覚《さ》めると、きまって「瓶《びん》バイバイ」をほしがる。「バイバイ」はばいばい の訛《なまり》で、母親の乳が出なくなってから、代用のクリイムが即ち「瓶バイバイ」である。「ああジ ャアチャン、瓶バイバイ」と一人目ざめた優蔵は、知らずに寝ている親どもを呼び起す。今こし らえて来て上《あげ》るから待っていらっしゃいと、母親が台所へ行こうとすると「待てないよう」とじ ぶくる。待てますと重ねていうと、「待てまちえん」と向うも繰返す。優蔵はお利口だから待て ますと母親も意地になって来る。「優蔵お利口ない」いいえ、お利口です、「お利口ないよう」わ いわい泣きながら、十分でも二十分でも双方譲らず争っている。しっこの時もきまってそっくり かえって反抗する。「まだないよう」というのが断りの言葉である。いいえ、出ます、「まだない よう」ありますよ、「ないないない」手網の中の蛯《えび》のように全身であばれるのを抱上げておまる にかかると、あくまでも「まだないよう」を叫びながら、勢よくしゃあしゃあやっている。そし てけろりとして「おしまいちゃんちゃん」と宣告する。いやだといい出したらあくまでもいやで 通そうとする片意地に、母親はしばしばてこずらされ、どうしてこう強情なんでしょうと嘆息す る。それがおやじ似なんだとさと、いいながら、親馬鹿は肚《はら》の中で、あくまでも所信を貫かんと する精神もここから生れて来るのだぞと、内々|頼母《たのも》しく思っているのだ。  子供の聯想というものは意外に鋭い。優蔵はたった一度母親につれられて鎌倉に行ったのと、 父親の旅の帰りを二度ほど出迎えただけであるが、或時海軍省の赤|煉瓦《れんが》の建物の前を自動車で通 ると、「東京駅々々々」と叫び出した。それを東京駅と間違えたのか、あるいは東京駅に似てい るというのか、どっちだかわからないが、必ずしも間違とは断じられない。或晩、優蔵の夕方の 散歩に、泉先生御夫婦を誘い出し、町内を呑気《のんき》に歩いていると、突然「キリン、キリン」といっ て上の方をゆびさした。或家の塀《へい》の外に、百日紅《さるすべり》の滑《なめら》かな幹が、にゅうっとつき出ているのから 麒麟《きりん》を聯想したのである。この場合は確かに麒麟と間違えたのではなく、それに似ていると感じ たのであろう。もうひとつ例をあげると、魚屋から貰《もら》った鰌《どじよう》をばけつに入れてやったところ、一 見して「オネズ」と叫んだ。あれの顔つきというものは、全く鼠《ねずみ》そっくりではないか。  優蔵は勿論おんもが好きだ。自動車が通る。自転車が通る。オート・バイが通る。馬に乗って 兵隊さんが通る。交番のおじさんが抱っこしてくれる。子供がかけ出す。物売が来る。驢馬《ろば》に車 を曳《ひ》かせ、喇叭《ラツパ》を吹いてパン屋が来る。それよりも何よりもチンドン屋は面白い。だっこして、 おんぶしておんもに出たがったが、あんよが上手になってからは、靴《くつ》をはいたり、結《ゆわ》いつけ下駄《げた》 で出かける。頭が大きく、肩や胴廻りがふと過《すぎ》るためか、同い年の子供に比して、実はあんよは 上手とはいいにくい。よたよたかけて行ったかと思うと転《ころ》んでしまう。足|馴《な》らしと、腹ごなしの 目的で、私は優蔵をつれて毎夕町内を一廻りする事にきめた。「チャンポ、チャンポ」と喜んで 出るには出るが、途中できっと「アッコ」1だっこーになる。どうも上体が重《おも》た過るようだ。  この散歩には、泉先生の御宅の前を通り、二階の万年床で新聞や雑誌を読んでいる先生を呼び おろしたり、お風呂最中の奥さんを誘い出したりする。先生は子供を面白がらせるために、鼻か ら烟草《タバコ》の煙を出して見せて下さる。「汽車々々」と喜ぶので、先生の汽車はさかんに煙を吐く。 ああ苦しい。こいつはなかなか楽じゃあないと、ひといき入れようとすると、子供の方では「も っと、もっと」とあとねだりだ。それじゃあ、もう一本と、先生は奥さんの敷島を貰って、また 鼻孔から煙を吹く。この一代の文豪が、往来のまん中で、かかる芸当をしているのは、まことに 御気の毒な、もったいない風景である。散歩に疲れて父親の腕に抱きあげられ、すこし眠くなっ て家路へ帰る頃、首ががくんとなって上を向くと、高い高い大空に、満月に遠い「こわれたお月 さま」を発見するのである。  こう書くと、いかにも子供は父親になついているようだが、実はなかなかおやじの側には寄つ かない。女中が何か気に入らない事をすると「ダイドコ、ダイドコ」と叫び、台所へ引込んでい ろというのと同じく、父親が叱《しか》ったり、いましめたりすると「お父ちゃま、勉強」といってしり ぞける。余計な世話を焼かないで、机に向っていうという意味である。そうかと思うと、何か新 しい遊び事を見せたいような場合には、二階にくすぶっているおやじにむかって「お父ちゃまお りて来い」と叫ぶ。おやじは〆切の迫った原稿をおっぽり出して飛んで行くが、聞もなくあきら れてしまって「お父ちゃま勉強々々」をくらって、再び二階へ追いあげられる。  これはついこの間、愚妻がその妹の御供を仰せつかって逗子く、貸家を見に出かけた日の事だ。 妹の方には小学校と幼稚園へ通う男女の子供があり、その体のために夏場を海岸で過そうという ので、愚妻も優蔵をつれて同居させてもらうというのだった。私が机に向っている隣に昼寝の優 蔵を寝かしつけ、愚妻は足音を忍んで出て行った。間もなく目を覚まし、いつもなら必ず母親を 呼ぶはずなのに、ぽっかり目を開いたまま起上らない。女中が何かおめざを持って来ても「いけ ない」といって受附けない。大好物の冷した番茶も「いけない」といハ、て押戻す。何をしても 「いけない」の一点ばりで、おそろしく不機嫌《ふきげん》だ。女中はおやじの邪魔と見て、抱いて階下《した》に下《お》 り、やがて庭に出て砂遊びや水遊びがはじまったようだったが、暫《しばらく》してのぞいて見ると、元気な く女申に抱かれている。あやしいそと思ったので、私も下へおりてゆき、額に手をあてて見ると 熱がある。検温器ではかると三十七度少しだったが、やがて高熱となる予感があった。これはい けないと思って二階へつれて行き、床の上に置くと、ぐったり横になって動かない。そのうちに |吐瀉《としや》し、熱は三十九度七分にのぼった。早速甲乙両医に電話をかけたが、いずれも留守だ。全身 火のようにあつくなって「お母ちゃまは」と訊《き》き出した。女中が手を出しても承知しない。お母 ちゃまは御用があって遠くへ行き、お留守だといってきかせると、素直にあきらめて、それっき り母親の事は何もいわなくなったが、そのかわりに私にぴったり抱きついて離れなくなった。二 度目の吐瀉があり、大事に至らんとするもののように思われるので、おやじはすっかりあわてて しまった。そのおやじの懐《ふところ》に手を差入れ、乳をさぐりながら不安心な顔をしているので、抱いて 歩いたり、添寝《そいね》をしたり、いつまでも帰って来ない愚妻を憎んだり、なかなかやって来ない医者 を怨《うら》んだり、手のつけようもなくへこたれてしまった。ようやく甲医が来て診察し、呼吸音が切 迫しているけれど平生《へいぜい》丈夫だから大した事はあるまい、暑気あたりと見受るから、腹の中を洗っ てしまおうと、浣腸《かんちよう》し、蓖麻子油《ひましゅ》をのませて帰ったが、それもちっともいやがらず、ぴったりと 父親に噛《かじ》りついて離れない。ふだんはちっともやって来ないのだから、私にとっては我児《わがこ》の体温 を、こうまで直接に肌《はだ》に感じたのははじめてだ。けだものの情愛のような、いうにいわれぬもの があった。ああ男親というものは、女親が感じるほどの親子の情を、ふだんは知らずにいるのだ なと、その時|沁《しみじみ》々思ったのである。子供は結局母親のものだと、嫉妬《しつと》に近い感情も胸を打った。 きいきが直ったら優蔵の好きな物をあげましょうと、気力をつけてやると、「なあに」と眼をみ はった。ついぞ父親の口から聞いた事のない言葉だった。何でも、何がほしいというと、「ジョ ウ」と答えた。象のおもちゃがいいというのだ。  夜になって乙医も来、やがて極楽蜻蛉《ごくらくとんま》の愚妻も帰って来た。子供は手当がきいたのか、熱も下 り、元気もやや回復し、口も少しはきくようになっていたが、母親の姿を見ると忽ち父親の手を 離れて、しがみついた。なんだ、今まであんなに頼《たよ》りにしていたくせに、もう御用はないのか、 私は憤懣《ふんまん》に堪えず、こっちへ来いと手を出すと、子供はそっけなく「お父ちゃま勉強々々」と、 あらぬ方をゆびさすのであった。  翌日はけろりと直ったが、約束は約束だから象のおもちゃを買ってやってくれと、愚妻にこと わけを話しているのをきいて、優蔵は忽ち元気百倍し「行きまちょう、ミチュコシ」1三越 1と、母親の顔をのぞき込んだ。  こいつ馬鹿ではないそと父親馬鹿がいうと、母親馬鹿はたださえ目尻《めじり》の下った目を皺《しわ》の中にく しゃくしゃにして、満足そうにうなずくのであった。 (昭和八年八月四日) ー『三田文学』昭和八年九月号 続親馬鹿の記  ひと夏を逗子でくらした優蔵は、真黒になって帰って来た。留守番をした父親に、面白かった 逗子の話をきかせようとするのであるが、意あまりあって言葉足らず、「ね、ね、ね、ね」とい つまでも相手に呼びかけながら、結局話にならないで、おしまいになる事もあれば、「ええと、 ええと、ええと、優ちゃんね、逗子に行った。おもちうかった。」と冒頭から直に結論に飛んで しまう事もある。しかし、海の偉大と、トンネルの不思議と、大船駅で買った鯛《たい》めしのうまさは、 この夏の間の彼の経験の中で、最も忘れがたいものとなったようである。朝、目がさめると、蚊 帳《かや》の中であっちこっちころげ廻り、殊《こと》に蒲団《ふとん》の外の畳の上で手足をばたばたやるのが海の思い出 を楽むしぐさで、時々「波が来た」と叫んで母親の懐《ふところ》にもぐり込む。トンネルの方は、座敷のま んなかに立はだかり、大の字の形でこれを示すのであるが、その股《また》ぐらに汽車のおもちゃを通さ せたり、おやじにくぐれと命令したりする。親馬鹿は忽ち四這《よつんば》いになり、こうがったんこうがっ たんといいながら、トンネルに頭を突込むのである。こどもは有頂天になって喜び、トンネルの 位置を変えては、東京、品川、横浜、鎌倉、逗子と知っている限りの駅名を叫ぶのであるが、汽 車はしばしば鯛めしを聯想させ、「おいちいかったねえ」と真剣になって親の顔をのぞき込む。 御近所のありがたさで、そんなに好きならうちでこしらえてやろうじゃあないか、うちのはもっ とうまいやーと、泉先生が約束して下さった。先生のとこの奥さんは、これが御得意なんだ。 いっ来るかいつ来るかと待っているが、まだ来ない。こどもは忘れてしまったらしいが、親馬鹿 は忘れず、先生んとこの鯛めし、いつ来るんだろうと、愚妻をかえりみて怨《bうら》みがましくいうのも 一度や二度ではない。  泉先生御夫婦を誘って上野の動物園へ行く約束も久しいものだった。優蔵が最初に動物園へ行 く時は、おじちゃんもおばちゃんもいっしょにつれて行ってあげまし.小うと、こどもが生れて間 もない頃から、おやじの馬鹿がいい出して、よし行こうという返事を受取った。その後親類の子 供たちの出かける時誘われた事もあるのだが、先生との約束を重んじて参加させなかった。何し ろいきものは好きだから、戸外に馬蹄《ばてい》の響を聞けばかけ出そうとし、近所の犬にゆきあえば尻尾《しつぼ》 をつかんで放さず、絵本の中でも動物のが一番の気に入りで、獅子《しし》も虎も熊も象も麒麟《きりん》も形だけ は知っているのだから、「ほんとの動物園」を見せたらどんなに喜ぶでしょうと、母親の方がそ の日を待兼ていた。  うちにもセント・バアナアド種の犬がいるし、鳩《はと》もいるし、十姉妹《じゆうしまつ》もいるし、金魚もいるし、 鯉もいるし、近頃になっては白鷺《しらさぎ》もいるので、これを「優蔵の動物園」と名づけ、しきりにおや じは面白がって見せるのだが、こどもはとっくに見飽きてしまった。「鷺さん、けんかんしてい けないから、ひとつ返しましょう」などと生意気をいうのである。  いったいこの白鷺は、今年の夏の或日、私の留守に、横山さんの御使と名告《なの》る人が持って来た というばかりで、最初は何処の横山さんが、何処でつかまえたのかわからなかった。まだ十分に は巣ばなれしない二羽の雛《ひな》を、とりあえず犬舎に入れたが、ひとりだちの出来るまでは、口を割 って鰌《どじよう》を咽喉《のど》へ入れてやらなければならなかった。皆が厄介《やつかい》がっているところへ、また三羽追加 して来た。この時は私も在宅し、玄関へ出て見ると、洗濯《せんたく》したての糊《のり》のよくきいた白地のかすり の着物に、小倉の袴《はかま》を裾《すそ》短かにはき、白足袋《しろたび》、白緒の薩摩下駄《さつまげた》といういでたちの、若い坊さんが、 |竹籠《たけかご》をさげ、上野の寛永寺から参りましたといって添状《そえじよう》を出した。それによると、慶応義塾の国 文学の先生|横山重《よこやましげる》氏のいいつけで、更に白鷺三羽を御届するとあった。私はすっかり恐縮し、実 は先日の二羽で既に充分なので、これは御断《おことわり》したいといったが、若い坊さんはあたかも聞えない ものの如く、竹籠の紐《ひも》を解きはじめた。仏に仕える外には一切他念のなさそうな人柄だから、俗 人の言葉は耳に入らないらしい。先日御届したのの様子も見届て帰りたいというので、私も観念 して、庭先の犬舎に案内すると、これならば上等だと大層満足してくれた。その犬舎に新参の三 羽も放たれたが、今度のは前のよりも発育が悪く、きりょうも劣るようだった。坊さんの話では、 上野のお山には毎年鷺が来て巣をかけるが、奏,年は特別で、ちょっと数えただけでも凡《およそ》六百の巣 を営み、五位鷺《ごいさぎ》一千羽、白鷺百羽位|群《むらが》っているという事だった。偶《たまたま》々古文書の研究に通っている 横山氏がそれを見て、こどもの慰みに貰ってくれたのであった。不幸にして、後から来た三羽は 死んでしまったが、前の二羽は日に日に大人びた形になって来たので、池を掘り、禽舎《きんしや》をつくっ て移した。どういう性質なのか、この鳥は好物の鰌を与えると、めいめい別々に喰べようとはし ないで、一方がくわえると他の奴はその嘴《くちばし》から奪いとろうとする。異様な声を発して争うのを、 こどもは喧嘩《けんか》と見ているので、「しゃぎしゃんけんかんしていけないから、ひとつ返しましょう」 としたり顔で親どもに同感を強《しい》るのである。正邪いずれにあるかは別とするも、喧嘩する者を成 敗しようとする心持が働きはじめたのだ。  泉先生には「白鷺」と題する長篇小説がある位で、凄艶《せいえん》な姿のこの鳥は御贔負《ごひいき》と思われるから、 うちの白鷺を見に来て下さいというのだけれど、鷺は見たいが犬がいやあがるので、iと身震 いまでして真平《まつびら》の形をし、それよりもいっそ動物園へ行こうといわれるので、いよいよ予ての約 束を果す事になったのである。日曜は混雑するに違いないから、平日をえらび、私は勤を休む事 にした。九月下旬、これが今年になってはじめての休暇だ。先生は何処へ行くにも放さない魔法 |壜《びん》に熱燗《あつかん》の酒をつめたのを大事に抱《かか》え、奥さんはお昼のお弁当の包を持ち、親馬鹿はいたずらも のを焼香《しようこう》場の三法師のようにだっこして、申分のない秋晴の朝、上野の山へ出かけたのである。 先生は動物園なんか、幾年にも来た事はあるまいと思うと、案外そうではなく、園内の改造も知 っている。私の方は、記憶はおぼろだが、たしか一番上の兄の長男が小学校へ通う前につれて来 たのが最後で、その子供が上野の森の鴉《からす》をつかまえろといって、この叔父《おじ》さんを困らせた事を思 い出した。それが今は三十歳近いのだから正に二十四、五年前の事である。  門を入ると、とっつきが白鳥の池で、自分のからだよりも大きい鳥が悠《ゆうゆう》々と水に輪を描いて泳 いでいるのを見ると、こどもの足は早くも釘《くぎ》づけになってしまった。動物園々々々ときかされて はいたが、かほどまでに広大なものとは想像もつかなかったろうから、ただただ目をみはり、き よとんとして、傍《かたわら》に親どものいる事さえ忘れ果てたる様子だった。黙って放って置いたら、いつ まででも動きそうもないけしきだったが、さきにはもっと喜びそうなものが沢山いるのだから、 促して進んだ。かねておもちゃや絵本でお馴染《なじみ》のけだもの、巨大な象は長い鼻を振り、よその子 供の投《なげ》るビスケットをまき上げて喰い、河馬《かば》は盥《たらい》の口をあけて水の中から面を出し、獅子《しし》はたて がみを震わせて咆吼《ほうこう》する。何から何まで珍らしく、不思議で、面白い。ひと廻りするとすっかり 疲れてしまい、親馬鹿にだっこしないではいられなくなった。ちょうど正午だったので、園内の 茶店で優蔵は母親の用意して来たビスケットとチョコレートをたべ、その上奥さんの手づくりの、 でんぶと海苔《のり》のかかった御飯を頂き、泉先生と私は魔法壜の御厄介になった。  親馬鹿はこのどんたくに味をしめ、その翌日、もう一日休暇を貰い、この日は終日家にいて、 優蔵と遊びくらした。効験いやちこで、その日以来父親は一層くみしやすい遊び相手として認め られた。いったい父親は、いくら勉強したからって、四這《よつんばい》になって股ぐらをくぐっても、熊にな ってひっくりかえっても、こどもをひきつける事にかけては母親の敵でない。向《むこう》は叱《しか》っても、か まいつけなくても、時々は押入《おしいれ》に入れても、こどもは益々慕い寄って来るが、こっちはのべつ幕 なしに御機嫌《ごきげん》をとり結ぼうとしても、忽ちあきられてしまいがちだ。哺乳《ほにゆう》動物にはかなわない ーーと常々嘆息するのであるが、この第二日目の休暇に発明した「お馬遊び」だけは、父親の専 売として我子の嘉称するところとなった。我家では一番広い八畳の室の真中の畳二枚を座蒲団《ざぶとん》で 埋め、その周囲をぐるぐるかけ廻るだけで、一向智恵のない話だが、こいつがことのほか気に入 った。爾来父親の姿を見ると「お馬遊びしよう」と誘いに来て、着物の色から自分を白い馬、お やじを黒い馬に見立て、ぐるぐる廻《まわり》を強請する事になった。黒い馬は忽らくたびれて、蒲団の上 に寝ころび、はあはあいっていると、白い馬はいっかな承知せず、「黒いお馬、もっとかけ出せ」 と命令する。黒い馬は従順だから、むっくり起きて、またしてもぐるぐる廻だ。おかげではじめ て知ったのは、四十五歳十ヵ月の男子よりも、二歳ニカ月の男児の方が、ぐるぐる廻の呼吸《いき》が続 くという事だ。  「お馬遊び」に関聯して、私が不思議に思うのは、優蔵は左ぎっちょではないのに、この遊び の場合には、どうしても右廻をしないのである。あまり一方からばかりだと目が廻るから、今度 はこっちと教えても、「ううんこっち」といって、絶対に承知しない。時計は左廻だが、野球も 競馬も右廻だ。将来のためにも右廻にさせようと努めるが、まだ一回も成功しない。古渓波多野 承五郎先生には、右廻左廻の研究があったが、私には我子の左廻が何故《なにゆえ》であるか、どうしてもわ からない。  こどもに対する私どもの自戒のひとつは、なるべくものを教えないという事だが、遊び相手の 女中に教わったり、往来で聞噛《ききかじ》って来たりして、とんでもない事を口走る。真面目《まじめ》な顔をして、 アイウエオカキクケコと、何の事かわけもわからずに叫んでいるかと思うと、アラヨイヨイヨイ と転向して行く。一ツ、ニツ、三ツ、四ツ、五ツ、六ツ、七ツ、八ツ、九ツ、十、十一、十二と 数え、誰に教わったのだろうと父母が驚いていると、その次は十三七ツとうたってけろりとする。  凡《およそ》世の中に芝ξと国o≦がなければ進歩はないといわれるが、智恵のつくさかりのこどもに とっては、あらゆる事が「何故」であり「どうして」である。「お父ちぬ、ま、何処へ行くの」と 殆んど毎朝きく。会社へ行くのと答えると、「何処の会社」とか何の会社とたたみかけて来る。 この返答は頗《すこぶ》るむずかしい。何故かといえば、こどもの理解の届く範囲内で適当の返事を見出さ なければならないからである。丸の内の会社などといったのでは返事にならない。やむをえず、 東京駅のそばの会社というとうなずいてくれる。「お父ちゃま、何してるの」というのに対して、 御本読んでるのと答えると、必ず、「何の御本」と来る。『三田文学』を読んでいるんだよでは返 事にならない。御話の御本というと「何の御話」と何処までもきりがない。いろんな御話と逃げ ても「何のいろいろ」とあくまでも追かけて来る。苦しまぎれに、こどもにはわからない御話と いうと、甚《はなはだ》しく不満足で「優ちゃんわかる」と怒った顔をする。試みにこっちからも質問してみ た。優ちゃんこの間何処へ行ったのというと、即座にコ逗子Lと答えたから、ここぞとばかり、 何処の逗子だときいた。恐らくこれには困って、海の逗子だとか、汽車の逗子だとかいうのだろ うと思っていると、こどもの頭には迷いがなく、言下に「葉山の逗子」と答えた。尤も、ちょっ と間を置いて、「優ちゃんねえ、鯛めしみんなお姉ちゃんにやっちゃった」とつけ加えた。例の 大船の鯛めしを思い出したので、お姉ちゃんというのは親類のこどもの事である。  父母と同じ食卓で、優蔵だけはいたずらをしないように籐椅子《とういす》の上に乗って食事をするのであ るが、大人の喰べる物を喰べてみたい慾望は頗る強い。殊《こと》に漬物《つけもの》の茄子《なす》や生瓜《きゆうり》の色彩は目をひく ものと見え「優ちゃんもおつけのものたべる」と毎日せびるのである。これはこどものたべる物 でないというと、大概は一度であきらめるが、旋毛《つむじ》をまげると「優ちゃん、もう大きくなった」 といってきかない。漬物というものは三度々々目に触れるので、始終頭を去らないらしく、何か の拍子に「大きくなったら」という言葉をきくと、直にそいつを思い出す。優蔵も大きくなった ら学校へ行くのだというと、「そしておつけのものたべるの」とつけ加えるのである。  してはいけないという事をわざとしたり、大人のいう事にわざと反対したりするのも、今日こ の頃の道楽のひとつである。そんな事をしてはいけませんというと「していいのよ」という。優 蔵はいい子だからよしましょうというと「優ちゃんいい子でない」という。親類へ遊びにゆく時、 向うの子供と仲よくするんですよといいきかされると「いや、けんかんする」と叫ぶ。何処かで 聞噛って来た唱歌のひとくさりに、ごめんください花子さんというのがあって、得意になって繰 返すから、親馬鹿も声を合せてうたうと「違う、花子さんでない。優蔵しゃまだ」という。そん なら、そうしようと、ごめんください優蔵さんとうたうと「優蔵しゃんでない。花子さんだ」と いう。花子さんといえば優蔵しゃまだといい、優蔵さんといえば花子さんだといい張ってさいげ んがない。それほどまがった旋毛《つむじ》もいつか真中におさまって、親と子がいっしょにうたう時こそ 親馬鹿のしあわせである。   雀《すずめ》、雀きょうもまた   暗いみちをただひとり   林の奥の竹藪《たけやぶ》の   寂しいおうちにかえるのか  こういう風に、こどもの相手をして親馬鹿の限りを尽している時、私はしばしば亡父をおもい 出す。八男四女の父として、亡父はかつて親馬鹿の態を見せた事がなかった。極端に無口で、我 子とも口をきく事は稀《まれ》だったから、ましていわんや馬になり、犬になり、河馬《かば》になるが如き事は 到底出来なかった。生来の気むずかしさを、自制する事で一生闘ったような父には、親馬鹿の味 はわからなかったか、あるいはわかっていても敢て行う気持になれなかったのであろう。父の性 格の不幸だった事をおもうと共にその父に心配をかけ通した自分を、今になって遣瀬《やるせ》なく考える のである。  そんな事がおやじの胸に去来しているとは知るよしもない優蔵は、或時|膝《ひざ》の上に乗っておやじ の顔をつくづく見ていたが、「お父ちゃまの顔、きたない顔ねえ。どうしたの」としんそこから |汚《きた》なさを痛感.したような声を発した。不覚にも私は、半巾《ハソケチ》で自分の顔を拭《ふ》いたが、それは墨がつ いているのでもなく、泥がついているのでもない。老いたる父の、皺《しわ》の多い、髯《ひげ》の密生した、し みだらけの顔が、こどもの目には忌《いまいま》々しく映じたのであった。私は苦笑して、傍《かたわら》の妻をかえりみ ると、愚妻は半分は痛快だが、半分は嬉《うれ》しくなさそうな顔つきで、これも苦笑いの外に手を知ら なかった。 (昭和八年十月五日)                            ー『三田文学』昭和八年十一月号