小山内先生終焉の夜 水上滝太郎  大阪北の新地の名妓《めいぎ》おかよ事|毛利《もうり》おふでさんが東京に進出して、新橋駅裏|烏森《からすもり》に、ふでやとい う宿屋を開業した。私は先年大阪住居の当時、知を辱《かたじけな》くした一人であるが、暮の二十五日に、 かねてこの人のひととなりを崇拝する友達が上京して泊り、招かれて行って酒になった。  神妙に丸髷《まるまげ》を頂いたおかみさんはとりすましているけれど、根がうわばみの事だから、呑《のみ》友達 を右左に、次第に盃の数しげく、雲を得た竜とならんとする潮時だった。正確に時間を記憶して いないが、多分七時十分か十五分過ぎた頃であろう、私の家から電話がかかって来て、たった今 亀島町の偕楽園《かいらくえん》で、小山内先生が重態に陥ったと知らせて来た。私は咄嗟《とつさ》に、もう間に合わない と思った。友達とは久々の会合だったが、盃を捨てて立上った。  「おかえりにまたどうぞ。」  それほどの事と思わないおかみさんの声をうしろに、円タクは凸凹《でこぼこ》の往来の水|溜《たま》りを蹴飛《けと》ばし て、大揺れに揺れながらかけ出した。新橋、銀座、築地、新富《しんとみ》町、桜橋、岡崎町——じれったい 道中の間、小山内先生の姿は彷彿《ほうふつ》として眼前にあった。  正直のところ私には、先生の身の上に今日ある事は遠くなく思われた。それは、先生が露西亜《ロシア》 から帰って来られたのを東京駅に出迎えた時からの私の直感だ。先生はこの二、三年著しく健康 を害していたが、それにもかかわらず不断の活動をつづけた。一生童心を失わなかった先生には、 仕事が遊戯の如く楽しかったらしい。殊《こと》に今日日本人にとって、一種のお伽噺《とぎぱなし》の国とも見るべき 露西亜へ招かれて行く事は、ピイタア・パンの心を持つ先生にとって、素晴しくもの珍しい事だ ったに違いない。先生は疑もなく、自分の健康の傾いている事は自覚していたと思うが、からだ の大事をとるよりも、心の飛躍を願にかけて、敢て招かれて行かれたのであろう。私は東京駅を 立つ時の、先生を中心とする景色をはっきり覚えている。  顔の広い先生の事だから、見送人は多かった。御一門の方々、文士、画家、新旧最新並に活動 写真の役者、いろいろの顔が入りまじり、混乱した中に、先生の大理石の顔が微笑していた。  その人々の群る歩廊《プラットフオ ム》をさしはさんで、二輛の汽車が出発の時刻を待っていたが、先生の乗 る方のでないのに、何処の国の女学生か、黒い着物に黒い袴《はかま》の、十五、六歳の一隊が乗っていた。 それが何かのきっかけで、俄《にわ》かに動揺し始めたと思うと、忽ち勇敢なのが数人|下《お》りて来て、先生 の正に乗らんとする汽車を目がけて突進して来た。まだ充分に発育し切らないフラッパアは、遠 慮会釈なくわれわれを掻《か》きわけ、血眼《ちまなこ》になって、人と人の問をくぐって行く。あたかも、ルウ ズ・スクラムを組むラグビイ選手の姿だった。ははあ、小山内先生もまだ女学生に人気があるの かなあと、私はあっけにとられて見ていた。ところが、何たる事ぞ、その女の子たちは、デンメ イ、デンメイ、デンメイと、念仏のようにささやきあっているのだ。活動写真を見に行かない私 には、最初は何の事だかわからなかったが、それは小山内先生を見送りに来ている鈴木伝明の姿 を見つけて、突進して来たのだった。何たる猥褻《わいせつ》なる小動物であろう。或者はその俳優の外套《がいとう》に 手を触るる事を以て無上の喜びとし、歓喜の声をあげて再び自分たちの汽車にかけ戻って行った。 そんな事は知らずに、小山内先生は、心から嬉《うれ》しそうな笑顔《えがお》で、ゆるぎ出した車上の人となった。  私には、露西亜が小山内先生にとって、それほど珍しいものを提供すろ宝庫とは考えられなか った。恐らく先生は、往年芸術座の演技に驚喜したと同じ驚《おどろき》を期待して行かれたのであろうが、 存外今日の露西亜の劇壇からは、学ぶ事の少ないのを嘆じつつ帰って来られるのではあるまいか、 同時にこの数年間自分が築地小劇場で行って来た一切の事に、深い自信を得て帰られるであろう と想像した。  三週間後、同じ駅に先生の帰郷を迎えた時、不吉な直覚が私を襲った。その時の先生の顔の色 は、すっかり血の気がなく、土色に変っていた。露西亜で毒を盛られたのではないかと、根拠の ない事を想像した位、私は先生の生命を気づかった。  近年むやみに忙しくなった私は、どちらにも御無沙汰《ごぶさた》がちで、先生に御日にかかる機会も極め て少なかった。よそながら、先生の健康が旧の如くでないとはきいていたが、親しく御見舞に伺 う事もなく過ぎてしまった。極度の神経衰弱だともきき、動脈硬化だともきいた。しかも先生は 医療を受けながら、築地小劇場の仕事を一身に背負い、また不断に創作評論の筆をつづけておら れた。私は、時々先生の顔を見ると、休養の必要を説いたが、先生は笑って答えなかった。  先生は仕事をする事に人一倍価値を置いていた。仕事をしない人間は生存の理由を持たないよ うに考えておられた。しかも先生の仕事たるや並々の仕事ではない。常に劇壇の先駆者として、 実力上の第一人者として、公の人として働かなければならないのだ。その一方に、先生の家族は 多く、かつ先生の地位として、生活ははでになりやすい。生計の負担は、病躯《びようく》にとって堪えがた いものであったろう。  いつだったか、島崎藤村先生に御目にかかり、小山内先生の健康の勝《すぐ》れない事を話したら、  「小山内君は働き過《すき》る。あれではからだを殺してしまう。」 という意味の事をいって心配されたが、それが本当になってしまった。  去年三月十七日には、真夜中に門を叩《たた》く人があるので、起きて見ると、小山内先生の御宅から の御使で、先生の呼吸が絶え、意識を失ったというしらせだった。その時は間もなく回復された が、主治医は絶対安静の必要を力説したそうである。だが先生は働く事を休まなかった。自分に とっては絶対安静は死に等しい、それよりも倒れるまで働きたいといって拒んだときいている。  がたがた揺れる円タクの中で、私は先生の覚悟の念力に打たれて暗然とした。  偕楽園では、直に二階に案内してくれた。広い座敷の床の間に近く、先生は意識を失って寝か されていた。数人の医師が取囲み、先生の太股《ふともも》に注射するところだった。奥さんや御子さんたち の外に、岡田夫人その他の御親族の方々がおられ、また築地小劇場の人たちが多勢《おおぜい》いた。私は先 生の足の方に坐って、重大な宣告の下るのを覚悟していた。  間もなく主治医と他の医師とが、かわるがわる聴診器を先生の胸にあて、低い声でささやきあ った。歔欷《すすりなき》の声が、座敷にみちた。私は一生懸命で涙をこらえていた。  自動車の用意がととのい、担架が運ばれ、先生のからだは四谷南寺町の御宅へ帰る事になった。 その間偕楽園の主人夫妻、女中男衆は実によく行届き、平素の訓練がはっきりわかった。  みんなの自動車が行ってしまった後に、まだ一台残っていた。私はそれに乗って、あとを追か け、四谷|見附《みつけ》でやっと追いついた。  死んでも構わないから働くといった先生はほんとに死ぬまで働き通した。この日も築地小劇場 に行き、そこで奥さんと別れて偕楽園の招宴にのぞまれたのだが、元気はふだんよりも遥《はる》かによ かったそうだ。現に奥さんは、先生と別れて帝国ホテルへ行き、そこで親戚《しんせぎ》の方と落合い、先生 が極めて元気である事を話していたところ、突然偕楽園からの電話で驚かされたという事である。 私としては、その数日前、新橋演舞場の文楽《ぶんらく》を聴きに行き、先生と同列の席を占めたのが最後の 会見となった。その時先生は中途で帰られたので、しみじみ御話するひまもなかった。  先生のなきがらは御宅の二階に横たわり、人々は忽ち葬儀の準備に尽さなければならなくなっ た。何という馬鹿々々しい人生なんだ。私はあんまりあっけなく先生を奪われた腹立たしさを感 じた。そしてこの憤りは、翌暁家へ帰る時最も強く胸を圧した。月か星か、まだあけきらない空 なのに、昼のようにあかるく真青に澄んでいた。その澄みわたった空の色は、無慈悲に惨酷《ざんこく》に見 えた。人間の世の中なんかには、何のかかわりもないといったような、冷かにすました面《かお》つきだ った.、私は、天にむかって唾《つば》をし、何かしら面罵《めんば》してやりたい忿懣《ふんまん》に堪えられなかった。 (昭和 四年一月十五日)                            !『三田文学』昭和四年二月号