小山内家後事 水上滝太郎  小山内薫先生のおかくれになったのはつい昨日の事のように思われ、また時に、先生は今もな お世に在《あ》るような気もするが、はやく既に百力日も過ぎた。いろいろの雑誌が追悼号を出し、多 くの人が先生の一生の仕事の功績をたたえ、先生の人としてのなつかしさを書いて手向《たむ》けたが、 事につけ折にふれ、先生が生きていてくれたらばと思う事が多く、惜みいたむ心は日を経てかえ って深くなって行く。  私も『三田文学』の追悼号に執筆したが、更に新たに先生の仕事を丹念に研究し、その本質を 明かにし、その功績を一層はっきりさせたいと思っている。しかし、外の仕事に追われているの で、何時になったらその意を果すかわからない。あるいは何時までたってもそういう時は来ない かもしれない。それより先に、私には先生のために働かなければならない事が沢山ある。先ず第 一に先生の遺族の事が、私の心に重い負担を加えている。  先生在世中、私はあまりしげしげと御宅へ出入した事がない。先生の方から私をたずねて下さ った事は一度もない。先生は年中忙しいからだだったから、用事の時は簡単な手紙か、お使の口 上《こうじよう》で済まされた。私も先生に劣らぬ忙しいからだなので、火事地震病気の御見舞の外に進んで先 生を訪問した事はない。私がまだ両親の家にいた時、泉先生や久保田氏といっしょに先生を御招 きした事が一度ある。また、大正九年の耶蘇《ヤソ》降誕祭の夜四谷坂町の先生の御宅へ御よばれした事 があるが、先生が私の家の飯を食べ、私が先生の御宅の御酒を頂いたのは、お互にそれっきりだ。  度々書いた通り、私は直接先生の教を受けた弟子ではない。たまたま慶応義塾で講義されるの を傍聴しただけに過ぎないのだ。そのくせ、先生のためならばみがわりになる事も辞さないよう な心持をはじめから持っていた。私の性分として、そういう崇拝の念があればあるで、遠慮なく 先生にぶつかって行く事もあった。先生の議論や、態度に合点《がてん》のゆかぬ事があると、つっ込んだ 進言もした。多分先生は、うるさい奴、野暮な奴とも思って居られたであろう。しかし、私を自 分の味方の一人だとも考えて下さったであろう。それはあながち私の自惚《うぬぼれ》ではないと信じている。  先生のおかくれになった日、御親類や築地の人々を除いて、私は最も早くかけつけた一人であ る。その関係から、何の御役にもたたないのに、お葬式の御相談にまであずかった。  先生|逝去《せいきよ》の晩、御親戚の或る方の御話では、先生は自分の死後全集発行の事あらば、その編輯《へんしゆう》 は水木京太氏に頼め、家事の面倒があったらば、気の毒だが水上に相談しろといわれたそうであ る。  この事を伝えた時、水木氏は感激の涙をかくさなかった。氏は小山内先生を神の如く崇拝して いた。もし先生の悪口をいうものがあると、忽ち顔色を変えて怒る。打てば響くという形容をこ こに使うのは些《いささ》か可笑《おかし》いが、それほど適確に反応があらわれる。怒るのが面白いといって、わざ と小山内先生の悪口をいう者もある位だった。それにもかかわらず、水木氏は先生に可愛がられ た弟子ではない。あるいは、少なくとも或時代には、むしろ憎まれた弟子であったかもしれない。 東北的の強情、多勢《おおぜい》の中にまじって神盥《みこし》ハのかつげない性格は、可愛がられるよりも誤解されやす い傾向を伴うはずだ。  とはいうものの、その性格の頼母《たのも》しさも、小山内先生は知っていた。水木氏は先生の媒酌によ って好配を授けられた。ほんとに授けられたというべき良妻なのだ。だから、よしんば一時的に 御覚え目出度《めでた》くなかったとしても、先生の心の底の底には、氏に信頼するものがあったのである。 全集の事は水木氏に頼めと近親の方にいい遺《のこ》されたのも故《ゆえ》ある事といわねばならぬ。恐らく水木 氏は、やはり先生は自分を知っていて下さったのだという、深い感慨をいだいたであろう。氏は、 あらゆる事を犠牲にして働く決心をされた。  それにひきかえ私は、後事《こういし》の御相談をうけた時、こいつは弱ったぞと思ったのである。逃げら れるものなら逃出したいと考えた。  小山内先生は一生涯働きつづけに働き、我国の文化のために素晴しい功績をのこされたが、物 質的に酬《むく》いられる事は薄かった。先生は多くの人のために働く事を理想とし、実行したが、それ によって自分自身が充分の報酬を受けようという慾はちっともなかった。したがって、先生は死 後に財産らしいものを遺さなかった。  しかも先生の家族は少なくない。未亡人、三人の坊ちゃんの外に、生来病身の令姉がいる。こ の方は実に御気の毒な方で、始終誰かが附添っていなければならない。御子さん方は十六と十四 と十二で、いずれも成城学校に通っている。その御世話だけでも奥さんの御苦労は一方ならぬも のであろう。殊《こと》に御子さん方は頗《すこぶ》る怜悧《れいり》で、芸術的才能の豊かなところなど、父上の血統の争わ れぬものがあるが、合憎頑丈《あいにくがんじよう》な体質でない。  その御遺族の今後の事を考えると、私はただ憂鬱《ゆううつ》なる同情をもってなぐさめの言葉を尽すだけ ではすまないと思った。そうかといって、微力な自分などが差出がましい振舞をしたところで、 どうにもなるものではない。私が先ず逃出したいと考えたのは、卑怯《ひきよう》ともずるいとも罵《ののし》らるべき であるが、一面おのれを知るものとして許さるべきであろう。  幸いな事に、小山内先生御夫婦の仲人《なこうど》、平岡権八郎氏が未亡人の相談役として一切の事を引受 けられ、その他先生の友人知己御弟子の人々が一生懸命に働こうといわれるので、私も危く踏《ふみ》と どまって「芝居の恩人」のために尽そうと決心したのであった。  われわれは今、小山内先生遺族のために、三つの仕事を分担している。第一は小山内文庫の保 存、第二は『小山内薫全集』の出版、第三は小山内薫遺児教育基金の募集である。  伝え聞くところによると、坪内博士が早稲田大学に寄附した演劇に関する書籍は約五千冊とい う事である。小山内先生の蔵書はおおよそ八千冊で、その大部分は劇に関するものである。いず れも驚くべき分量だ。坪内博士の方の事は知らないが、小山内先生の蔵書は水木氏を主任として 整理し、大体の目録は出来上った。たまたま家計緊縮のため未亡人は転宅を断行され、充分の置 場所がないので困っていたが、慶応義塾図書館の好意で、同所に無料で預ってもらう事にした。 もし特志の方があって義侠《ぎきよう》的に買求め、小山内文庫の創設を企てて下さうならば、何よりもあり がたいのである。  『小山内薫全集』は、老舗《しにせ》春陽堂から出版される事になった。この方の交渉は一切|里見韓《さとみとん》民が 担任し、行届いた取計《とりはからい》をしてくれた。編輯委員は島崎藤村、谷崎潤一郎、吉井勇、長田秀雄、 秋田|雨雀《うじやく》、久保田万太郎、里見諄の諸氏に私を加えた八人で、大体の案を定《き》めるのであるが、事 務の進行を速《すみや》かならしむるため、特に吉井久保田両氏を煩わし、細目に至るまでの事務監督をし てもらう事にした。上記の委員は小山内先生の遺志にしたがい、編輯事務を水木京太氏に委嘱す る事に決した。島崎先生は内容見本のはしがきを執筆し、装幀《そうてい》は有島生馬《ありしまいくま》氏が担当する。何しろ 仕事が大仕事なので、委員は更に先生生前の知己に助力を求《もとめ》る事はいうまでもない。  小山内薫遺児教育基金の募集は、仮に数|箇《こ》の団体を想像し、各団体それぞれ世話人を委嘱し、 募集の方法は各団体の任意と定めた。吉野博士が中心になって、学士会が働いてくれる。国民文 芸会や劇団の人々がいっしょになって働いてくれる。築地小劇場と、劇と評論同人も、映画方面 の人々も働く。慶応義塾は、明治四十三年以来小山内先生が教鞭《きようべん》をとったところだ。当時|僅《わず》かに 数人の生徒しかなかった文科が、今日は本科予科合せて五百人以上になったという事である。そ ういう隆昌を招来する上に、先生の与えた力は大きかった。ここでは教職員、先輩、三田文学同 人が協力して働く事になった。  その間に処して、私も微力ながら一切の仕事の下働をつとめている。うまく運んでくれればい いがと年中心配しながら、かけ廻っている。それにつけても何とかして、お子さんたちを丈夫に したい、活撥《かつばつ》にしたい、明るい心持を持たせたいと祈っている。年少にして父親に別れた敏感な 少年は、女中も書生もいなくなった家にあって、ママの教訓に服し、以前よりも目立っヴ はげむようになったそうだ。勉強はいい、しかしからだが何よりも大切である。  そこで私が肝入役《きもいりやく》を勤め、勤務先の運動場を借用し、小山内三人兄弟を中心とする組と、里見 弾氏の二人の子供を中心とする組とで野球試合を行う事にした。一方は小山内家の御親戚でかつ 先生の主治医だった蘆原《あしはら》氏の末子十二歳の義ちゃんが投手、小山内家の末子十二歳の喬君が捕手、 長男の徹さんが一塁、次男の宏さんが二塁、中堅は三十六歳の水木京太氏、右翼は四十三歳の私 といった顔触《かおぶれ》で、向うは鎌倉師範附属の小学校の六年生がバッテリイ、里見氏の長男が二塁、次 男が遊撃、四十二歳のおやじは右翼、その外里見氏の友人田中氏の子供の中学生が二人に、その 身内の慶応の大学生が一人といった顔触であった。たたかわない先から人分|技倆《ぎりよう》に距《へだた》りのある事 はわかっていたが、結局四回で十四対二という大差を生じて、コオルド・ゲエムとなった。勿論《もちろん》 こっちが負けたのである。  少年選手の中には、前夜から御飯が咽喉《のど》を通らないというほど緊張しているのもあったが、こ うまで差が出来ては敵愾心《てきがいしん》も起らず、負けた方が泣出さずに済んだのは何よりだった。あとは仲 よく混合ティームをつくり、終日…遊びくらした。  三人兄弟には珍しい一日だったらしく、しきりに復讐戦《ふくしゆうせん》について論じあっていたが、結局相手 が強過ぎて面白くないから、今度は自分たちと里見さんの兄弟とそのお友達とが一組となり、三 田文学同人を負かしてやろうと力んでいる。当年四十一歳、体重十九貫何百と称する久保田さん のおじさんのかけ出す姿を想像して、止度《とめど》なくはしゃぐ事もある。  小山内先生の御遺族はどうしていらっしゃるだろうと心配している人が多いときくので、御近 所に住み、往ったり来たりしている私から御報告する事にした。 (昭和四年四月十日)                              ー『三田文学』昭和四年五月号