大阪の宿     一の一  夥《おびたゞ》しい煤煙《ばいえん》の為めに、年中どんよりした感じのする 大阪の空も、初夏《はつなつ》の頃は藍《あい》の色を濃くして、浮雲も白 く光り始めた。  泥臭い水ではあるが、その空の色をありありと映す 川は、水嵩《みずかさ》も増して、躍《おど》るようなさゞ波を立てて流れ て居る。  川岸の御旅館|酔月《すいげつ》の二階の縁側の籐椅子《とういす》に腰かけ て、三田は上り下りの舟を、見迎え見送って居た。目 新しい景色は、何時《いつ》迄見て居てもあきなかった。此の 宿に引越して来て二日目の、それが幸《さいわい》なる日曜だっ た。  三田は、大阪へ来て、まだ半年にしかならない。其《その》 間《あいだ》、天満橋《てんまばし》を南へ上《あが》る、御城の近くの下宿に居たが、 因業貪欲|吝嗇《りんしよく》の標本のような宿の主人《あるじ》や、その姉に当 る婆さんが、彼のおひとよしにつけ込んで、事毎《ごとごと》に非 道を働くのに憤慨し、越して行く先も考えずに飛出し てしまった。大きな旅鞄《たひかばん》と、夜具|布団《ふとん》と、机を荷車に 積み、自分で後を押して、梅田の駅前の旅人宿に一時 の寝所《ねどころ》を定めたが、宿の内部の騒々しさに加えて、往 来を通る電車のきしり、汽車の発着毎にけたゝましく 響きわたる笛の音《ね》、人声と穿物《はきもの》の三和土《たゝき》にこすれる雑 音などが、外部からひた押に押して来て、部屋の障子 が震える程で、机にむかって本を読んだり、かきもの をしたりするおちつきを与えて呉れなかった。それで も半月は辛抱した。人にも頼み、自分でも会社のゆき かえりに方々見て回ったが、扨《さ》て格好《かつこう》のうちは無い。 気に入ったところは宿料が高く、安いところは気に入 らなかった。つい気のおちつかないまゝに、夜は宿を 出てうろつき回った。  そんな時に足をやすめる場所は、関東煮《かんとうだき》がおきまり だった。懐中《ふところ》の都合もあり、カフエは虫が好かないの で、自然と大鍋の前に立って、蛸《たこ》の足を噛りながら、 こっぷ酒をひっかける事になる。天神橋の蛸安《たこやす》は、前 の下宿時代からの深い馴染《なじみ》だった。 「何処《どこ》かに、安くて居心地のいゝ下宿屋は無いかし ら。」  いっぱい機嫌で、若い主人に訊《き》いて見た。 「安うて居心《いこころ》のえゝ宿屋だっか。」  真面目《まじめ》にとりあっているのか、いないのか、腰の煙 草入《たばこいれ》から煙管《きせる》をぬいて、悠々と烟《けむり》を吹きながら、お義 理らしい小首を傾けた。 「大将。」  先刻《さつき》から大分《だいぶ》酩酊して、居睡《いねむり》をしそうになって居た 汚ならしいじいさんが、いきなり横あいから声をかけ た。 「安うて居心《いこころ》のえゝ宿屋やったらな、土佐堀の酔月 や。」  厚ぼったい唇をなめながら、鍋の上につんのめりそ うな形だった。少し舌が長過ぎるのか、酔って居る為 めにもつれるのか、じいさんのいう事は聞取りにくか ったが、要之《ようするに》その酔月という宿屋は、きれいで静で安 くて、食物《たべもの》は上等で、おかみさんも女中も親切で、こ れ程居心地のいゝうちは無いという意味の事を繰返し て喋《しヤペ》って居るのだった。  三田は酒のみの癖に酔払《よつばらい》が嫌いなので、何をいわれ ても取合わなかったが、酔月という名は忘れなかっ た。そして、翌日会社の帰りに土佐堀の川岸を順々に 探して行って、此の家を見つけたのである。  普通の宿泊料ではやりきれないので、男のような口 のきゝ方をする大柄《おゝがら》のかみさんに談判して、月極《つきぎめ》にし て割引いて貰う事にした。 「よろしゅおまッ。うちは儲けようと思うて御商売し てるのとは違うさかい、まあ来て見とくんなはれ。」  活気のある声でからから笑って、先方から話をうち 切った。  次の日、三田は又大鞄と夜具と机を積んだ荷車の後《あと》 を押して引越して来たのである。     一の二  昨日《きのう》は荷物を部屋に運び終ると、直《す》ぐに御影《みかげ》に住む 友達、田原の家によばれて行った。酒倉のうちつゞく 浜端《はまばた》の一地点に建てられた二階家の欄干《てすり》に近々と浪が 寄せて、潮の香の鼻をつく座敷で、夜の更《ふ》ける迄酒を 飲んだ。大阪に帰ったのは十二時過ぎで、引越して来 た最初の晩に、宿のおもての戸を叩かなければならな かった。  それにも拘《か」っ》らず入コ朝は早く起きた。雨戸の無い家は あけ安く、縁側の破璃戸《ガラスど》の内側に引いてある白いカア テンは、川水に光参躍る朝日を反映して、まぼしかっ た。深酒《ふかざけ》の翌朝《あくるあさ》の早起は、自分自身に対しても負嫌《まけぎらい》で 押通す三田のならわしだった。  梯子段《はしごだん》をずしんずしん踏鳴らしながら降りて行く と、 「お早う御座います。」 「お早うさん。」  二三人女の声が、台所と帳場から、いちどきに挨拶 した。新来の客を珍しがる視線を避けるように、彼は 地下室へ急いだ。  暗い湯殿に続く洗面場には、ひゞの入った姿見がか かって居た。三田はその前に立って、これが一生の面 倒に思われる無類の濃い髯《ひげ》を剃っていた。安全かみそ りの歯冖の音が、心地悪く響いた。 「旦《だん》さん、えら早よおまんなあ。」  湯殿の洗場をごしごし洗って居たじいさんが、後《うしろ》か ら声をかけた。 「お早う.」  半分は石鹸《シヤボン》のあぶくだらけの顔で振向いて返事をし たが、 「おゝ。}  平べったい顔を見ると、おもわず驚きの声が出てし まった。 「何やら見覚えのあるお方のように思うてましたが、 旦さんでしたか。先夜はえらいひつれいしました。」  しまりの無い日のきゝ方に特徴のあるじいさんは、 此間天神橋の蛸安で、安くて居心地のいゝ旅館酔月 を、教えて呉れた酔払いだった。 「なあんだい、君は此のうちの人なのか。」 「へえ、時折手伝うていまんのや。」  じいさんはにたにた笑を浮べて、寧《むし》ろ得意そうに答 えた。  顔を洗って二階へ戻ると、きれいに寝床はかたつい 鍬 ていて、縁側のカアテンをしぼり、玻璃戸《ガラスど》をあけ放し たところに、籐椅子が据えてあった。それに腰かけ て、朝凵のさす対岸の家や、川の流や、上り下りの船 を見て居たのである。  しばらく辛抱していた天満橋を南へ上《あが》る、御城の近 断の下宿に比べて、月に十円違いではあるが、その差 は十出以上に思われた。最初にあったおかみさんのか らりと晴れた熊度と、因業貪欲吝嗇《いんこうどんよくりんしよく》の内心を、ねちね ちした御世辞で包んだ先の下宿の人間に比べて、いか に心地よく思われたか。あの下宿では、女中に給金を 払うのを惜んで、何時も手不足で困っていたが、此の 宿には女手も相当にあるらしい。独身|者《もの》のならいとし て、その女中がきれいであってくれればいふがと、虫 のいゝ事も願って居た。  斯《こ》ういう明るい部屋ならば、屹度《きっと》物を書くのにもい いに違い無い。かねて腹案は熟し切って居る長編小説 を、いっそ今日から書始めようかしら。会社から貰う 月給だけでは、宿料を払って余裕が無いのだから、小 説を完成させるのは、財政⊥からも必要に迫られて居 るのであった。彼は、自分自身を鞭撻《べんたつ》するように、初 夏の青空に向って深呼吸をした。 一の三 「お待ちどうさま。」  廊下の方から、上草履《うわぞうり》の音をさせて、女中が御膳を 運んで来た。 「うちの御客さんは皆さん寝坊なのに、あなたは御早 いんですねえ。」 「月給取はふだん寝坊して居られないので、つい癖に なって、折角《せつかく》の日曜にも早く目が覚めてしまうんです よ。」  三田は籐椅子から腰をあげて、部屋のなかの膳につ いた。 「咋夜《ゆうへ》は大変遅かったんですねえ。御友達のところに 行くといってらっしゃったけれど、女の御友達のとこ ろで引きとめられて御帰りになれないのじゃあないか と思いました。」 「あゝ、おもての戸をあけてくれたのは君だったかね え。」  それをきっかけに、部厚な膝の上に御盆をのせてひ かえて居る相手の顔を見た。ひどい癖毛を銀杏返《いらようがえし》に 結った、面皰《》の痕《ちしこ》の満面にはびこる、くりくり肥った、 二十六七には確かになる女だった。何処にひとつ取晒《とh二乳》 の幅{い女だが、その面皰《に真・一ぴ》ヂ崗《づら》が胎州終にこにこ笑ってい る。いかに噛入がよさそうで、且《かつ》きりょうのよくない のが、面とむかって居てもひけめを感じないで、気安 かった。 q衷京はどちらです。あたしも東京に叔母さんがあ.っ て、行ってた事があるんですよ。」 「僕は鞠町《ざコうコ まら》」 「あたしの叔慨さんは本所。もっとも今では荻窪《おぎくぼ》とか に越しちまったそうだけれど。」  三田は歯が悪いので、米の飯を喰う亊は.不得手《二 を て》だっ た。相手は.もっと日をきいて貰い度《た》いらしいのだが、 彼はうっかり口をキqくと飯粒がこぼれそうなので、 一 4懸疏でもぐもぐ噛んでいた。 「あたし、生れはいちごなんですよ。」  きかれぬし.ないのに、生れ故郷まで持出して話をっ づけた、 「へえ、越後かい。どうりでいとえの区別が無いと想 った。」 「あらやだ。すっかり直ったつもりでいたけんど∴煽 欝けないかねえ・」  みそっ歯の口を惜気も無くあけて、たまらなく面・日 そうに笑った。 「東京に二年、伊、島の方にも行っていたし、静岡にも いたし、大阪にもこれで満《コ.气》一年半に.たるんですよ。女 甲奉公はしているけれど、それでも国になんか帰り度《孔一、》 いと・も思いませんねえ。田舎《いなか》はふんとにやだやだ。」 「そんな事を..肖ったって、国には君の帰るのを待って る人があるんだろう。」 「あらやだよ。あたしなんか家を飛出して来ち画、った んですからねえ。」  とうとうお竜うつぼにはまったといい度そうな満是 の顔色をして、身の上話を始めた。  酒こそ飲むけれどおやじは善人で、酌婦十りの後安 の尻に敷かれ、その後妻は一家の権方を握って横暴の 振舞いが多く、殊に継子《》の自分を邪魔にしていじめる ので、いたたまれなくなって逃出したというので.ある. よくあゑ・つさといい度そうな・興の乗らない相半勳 の能砲度には頓い肩偏酬く、額際《げか いぎ わ》.を汗冖ばませて喋った。  元来無口の三田は、つとめて相槌《あいつち》を打とうとは思う のだが、結局つきあい切れなくて、黙々として二ぜん めの御飯を丹念に噛んでいた。 「もうよう.しいんですか。」 「僕にはどうしても飯粒の味がわからないんだ。」  一仆事丁済ませたような顔つきで箸を…直いた。 「飯粒だなんて、罰が当りますよ。」  睨んで概いてから、又みそっ歯をあからさまに笑っ た。 「よろしゅおあがり。」  わざと大阪言葉を真似して、真赤な舌を出した。 一の四  女中が行ってしまうと、思い立ったが吉日だと、三 田は直ぐに机にむかって、新しい原稿紙をひろげた。 彼は会社員として衣食して居るので、ほかの作家のよ うに十分時間を持って居ないから、止むを得ず真夜中 にも筆を執《レ」》らなけれぼならないのであるが、ほんとは 朝の光が好きなのである。真白い肌に艶《つや》を持って、ほ のかに脂肪の浮いているような紙の上に、一字一字白 分の文字の並んで行くのは気持がよかった。此の分だ と、 一口十五枚という今迄の最高記録を破って、二十 枚三十枚四十枚も書けるかもしれない。それを新聞社 に売って受取る金高迄、浅ましくも想《おも》いうかべた。  けれども、その進行は問も無く妨げられた。川にむ かった縁側と、その反対側の廊下を、女中達が掃除し 始めたのである。騒々しくばたばたする上草履の音 は、高々と端折上《はしよりあ》げて太股《ふともレ》もあらわに四這《よつんばい》になり、頭 よりもお尻を高く持あげて真一文字に廊下を蹴って行 く姿を、まざまざと想像させる。 「御免やす。」  不意に囗の前に、想像通りの姿が現われた。やさし くて、ほがらかな声だったが、濡雑巾《ぬれぞうきん》を手にして立上 った姿は、たっぷり上背《うわぜ》もある肥大なものだった。あ んこの沢出入っている大束髪《おゝそくはつ》を手拭《てぬぐい》でつゝんでいる が、その手拭の下に僅《わず》かにあらわれている細い目と、 低い鼻と、不釣合にちいさい口が、一斉に笑ってい た。淡紅色《ときいろ》の腰巻の下から、ずんどの足がぶよぶよと 波を打ちそうに見えた。しかし、その皮膚は、小田原 蒲鉾《おだわらかまぼこ》に似て、気味の悪い位白かった。 「あんさん、うちのおっさんに聞いて御越しやしたん やってなあ。今、階下《した》で話してはりましてん。天神橋 の蛸安で逢うたんやと、こない言うてなあ。」  これも人のよさそうな笑顔で、へだての無いUをき いた。 「おっさんていう人は、あれは此のうちの何をして居 る人?」  三田は正むを得ず洋筆《ペン》を置いて、成《な》る可《べ》く淡紅色の 腰巻より十に視線を保ちながら、相手に対した。 「おかみさんの御母さんの兄さんかいな。弟さんかい な。」  独言《ひレ」り,ζと》のようにいいながら、首をかしげて考えてい た。 「ふうむ、あれが。」  あんな汚ならしいおじいさんが、此のうちのおかみ さんの母親の兄弟かと、意外に思った。 「あのおっさんべろべろに酔払って、土佐掘の酔月の 広告をしていた。うちが綺麗で、静かで、女中さんは 親切で別嬪だって。」 「しょうむない。おっさんは御酒《こしゆ》あ.がったらわやや わ。」  口ではそういったけれど、矢張笑っている。笑の外 に表絃旧の無いような佩麒であった。 「あんさんもたんと上ってだっか。」 「先ずたんとの方だろうねえ。」 「ほしたら御昼に一本つけましょか。」 「尽肌は喰ハベ亠ない。 僕匹は一一|食《じ歯」》だQ」 「へ占ん、二食「?」  声だけは驚いても、矢張表情は笑っていた。 「そんなら晩に御酌させて貰いまっさ。」 「僕は御酌されるのは嫌いだ。手酌で無いと折角の酒 がうまくない。」  三田は正直にほんとの事をいったのだけれど、相手 は冗談として受取ったらしい。 「おやおや、えらい嫌われ様《よつ》。」  目も鼻も口もいっしょにして笑ったが、ばたりと雑 巾を縁に落すと、四這《よつんばい》になって、小田原蒲鉾の足を忙 しく動かしながら、するすると遠くへ行ってしまっ た。 一の五 「おい、人が寝ているのに、ばたばたしてやかましい じゃあないか。」  突然、一間《ひとオ》置いて向の部屋.から、冗談らしく怒鳴《どな》る 声がして、障子のあ.く音が続いた。三田の部屋が束の 端《はし》とすると、その部屋は縁つゞきの西の端になる。 「えら捺、冶みませんなあ。」  と正直に詫《わ》びているのは、優しくてほがらかな声だ った。 「なあんだ、おつぎさんか。気がきかないじゃあない か。犬に喰われて死ぬがいゝや。」  わざとでは無いかと思われる程太い声の男は、縁側 に出て来た気配だった。 「えらい悪《わる》おましたなあ。」  もう一度詫言葉を繰返したが、・今度のは相手の調子 に合せた冗談めかしたものだった。 「大貫.さん、あんた何時《なんどき》か知ってはりまんの。」 「九時頃かい。」 「晦呆《あほ》らしい。十一時だっせ。お日様《ひいざん》が笑うていやは り・まんがな。」  からかいな,がら、 一段と」L草履をばたつかせて、も う一度三田の部屋の方へ、四這になって拭いて来る。 「なんだいその格好は。さかりのついた豚みたいだ。 こう、まるでこうだぜ。」 「いやあ.、大貫さん。」  悲鳴をあげて、三田の鼻さき迄逃げて来た女の足下《あしもと》 に、簿禿の頭を突出して四這になって居る男があっ た。浴衣《ゆかた》の尻をくるりとまくって、越中褌《えつちゆうふんどし》をまざま ざと見せたのが、ひょいと.顔をあげると三田の視線に ぶつかった。 「いや、こりゃあ失敬。」  あわてて立上って、頭を掻きながら姿を消した。 「なんだい、お客さんがいるのか。昨口迄あいていた じゃあないか。」  と、負惜《まけおしみ》らしく誰かにいって居るのが聞えた。 「さあ、大貫さんも顔でも洗ってらっしゃい。お客さ んは、階下《した》で御化粧最中ですよ。」  といってるのは越後女の声だった。  男は顔を洗いに行ったのであろう、直ぐに越後女は 縁側へ出て来て、誰|樺《よ『か》らぬ声でおつぎに話かけた。 「いやんなっちゃうねえ。さっさと起きて呉れればい いのに、何時迄たったって片づきゃあしない。あの看 護婦さんも看謹婦さんじぬ、あないか。よく羞《はずル》しくない 竜んだねえ。」  これも裾を姻粫折《はしよ》って、虫外いものを見せた次冥で、はた きを手に持って居る。 「ほんまにいやらしいた.あ。」  おつぎは相変らぬ笑顔で受けた。 「あんな部屋の掃除なんかしてやらないからいゝや。」 「あ.んた焼いてるのやないのんか。」 「何いってるのさ。」  舌うちして、まるまると肥った低いのが、背延びを して大女の背中をどやしつけた。そして二人と竜、止 度《とめど》無く笑った。  笑い止むと、二人が交々《(わるがわ》に、向《る》の部屋の有様を、三 田に話して聞かせるのであった。 一の六 三番の御客大貫さんは、市内の某病院の医員だった が、院長の娘といゝ仲になったのでずるずるに養子に なり、副院長として納まって居たが、生来の女好《市んなすき》で、 患者に対して怪《け》しからない振舞があ.ったとか、看護婦 にも手を出したとか、.面白くない噂があって、年中風 波の絶間《たえま》が無かったが、最近に及んで又々一人の看護 婦とくっつき、今度のは相手がえら物《ぶツ》なので騒動が大 きくなり、養父の院長がかんかんに怒ってしまったの で、とうとう病院を飛出してしまった。白分は酔月に 宿をとり、保険会社の診査医になり、女は派出看護婦 会に入って働いて居るが、時々斯ういう風に逢いに来 て、泊って行くのだという話だった。 「それに、おかしいのは奥さんだねえ。あんなやくざ. た亭生に未練があって、親達にかくれて逢いに来るん だから。」  越後は三田の机のぞぱに坐り込んで、夢中になって 喋《しやべ》った。 「それがなあ、尽.目中《ひなか》でも、ちゃあんと寝床《ねま》とらせ て、やすんで行かはりまんがな。」 おつぎは自身羞しくなって・まっかになりながら・鯢 一大事らしくつけ加えた。 「看護婦さんも看護婦さんだよ。女の癖によくも平気 で居られるもんだねえ。何時《いつ》だって、十二時頃迄あれ なんだもの。あれで大貫さんみたいなのが色魔ってい うのかもしれないねえ。男ぶりは悪いし、のんだくれ だし、怒《おこり》っぽいし……」 「禿ちゃびんだし。」  かけあいで悪口をいって、えへらえへら笑った。 「叱《し》っ。看護婦さんが戻って来やはった。笑うたらあ かんし。」  笑い止まない朋輩に手を振って見せたが、肝心《かんじん》の自 分は顔中笑っている。 「あんた、一寸見て御覧なさい。し  越後は三田にさゝやいて、身を乗出して向の方をの ぞいている。  十分好奇心はあるにはあるのだが、顔を突出しての ぞく丈の勇気は無かった。 「別嬪《べつびん》かい。」  と、てれかくしにいってみた。 「さあ、別嬪いう程の事もおまへん。なあ、おりかさ ん、あてやったらお米さんの方がえゝ女子《おなご》やと思う が。」 「大貴さんに訊《き》いて見なけれやわからないよ。両手に 花だもの。どっちもいゝって言うかもしれない。」 「大《むつ》きい声したらあかん。」  おつぎも大きなからだを部屋の中に運んで来て、暑 苦しく双方《そうほう》から押合って、二人は声を忍びながら、全 身を動かして笑った。   もしもし亀《かめ》よ亀さんよ   世界のうちでお前ほど   あゆみののろいものは無い   どうしてそんなにのろいのか  突然、縁側に出て居る看護婦であろう、實美歌をう たうのにふさわしい細い声で、幼いものの歌をうたい 出した。 「あなた、亀の子がいてよ。」 「なに、亀がいる。」  太い男の声が部屋の中から応じて、これも縁側に出 たらしい。  その声に誘われて、おつぎとおりかが駆《かけ》出して行っ た。 「あらあら泳いでいる泳いでいる。」 「あんた、来てごらんなさい。大.きな亀が泳いでいる んですよ。」  おりかは三田のところへ戻って来て、促《〉なが》し立てる。 亀の了よりも人間の方に興、味を持って、彼も誘われる まゝに縁に出た。自うの端の部屋の前に、先刻《さツぎ》の男と 並んで、宿の浴衣の胴中に、ちぎれる程|伊達巻《だてまき》の喰い 込んだ後姿を見せて、小柄な女.が立っていた。欄干《てすり》に つかまって半身乗出して見ると、目の下の川波にゆら れながら、大きな泥亀が悠々と泳ぎ回っていた。 一の七  三田の勉強心は妨げられてしまった。ひとつ置いて 向の部屋にいた男女の、みだりがましい姿を想像する と、心はおちつきを失ってしまう。最初の勢に似もや らず、夕方迄かゝって十枚にも及ばなかった。その癖 すっかり疲れて、部屋のなかば迄もさし込む酉日に辟 易《すっかり疲れて、部屋のなかば迄もさし込む酉日に辟《へきえキ.》しながら、ぐったりと畳の上に寝ころんでいた。 「えらいお待遠さんで御座いました。」  夜食の膳を持って来たのは、又別の女中だった。三 田は起上って、大きな伸《のび》をした。長い間机にむかって いたために、肩が凝っていた。 「折角のお休に大層御勉強です.な。」  小ちんまりと利口な顔つきの、十八九に見えるの が、素早く机の上の原稿紙へ目を走らせて、御愛想を いった。 「済まないが一本つけて来て下さいな。」 「御酒《こしゆ》だっか。」  凝った肩を拳骨でやけに叩きながら、三田のうなず くのを見てとって、素早く立って行った。  ほっそりと姿のい餌、川魚の感じのする女だった。  間も無く酒が来ると、 「どうか置いて行って下さい。僕はうまれつき独身|者《もの》 の性分と見えて、手酌が一番勝手がいゝ。」  と三田は真面目な顔つきで、頼むようにいうのであ る。 「あてのお酌ではあきまへんか。」 「決してそんなわけでは無いけれど、お酌をされる と・どうしても蟻齋出て・鱗ていったらいゝかな繝 あ、つまりもひとつ味ないんだよ。」 「よかったな。」  むっつりと愛嬌気《あいを ようげ》の無い三田の口から、大阪言葉を 真似したのが出て来たので、しんからおかしそうに笑 った。笑うと金歯がきらきらしたQ  三田は親譲《おやゆすり》の酒飲で、これなくしては食欲の乏しさ に悩む位だった。まゝにならない下宿|住居《ずまい》でも、晩酌 だけはうまく飲み度いと念じて居た。何事につけて も、他人に強いられる事の嫌いな性分で、お酌をして 貰うのを窮屈がるのも、彼にとっては切なるものであ った。  しかし相手は全く冗談だと思っていて、黙って引さ がりはしない。 「まあ、そないな事いわんと、もひとつお酌させて貰 いまっさ。」  そういわれると、口数が少なく、且同じ事を繰返し ていう事をしない三田は、つがれるまゝに飲む外は無 かった。 「あの越後の人はおりかさんで、もう一人の人はおつ ぎさんだね。君は何ていうの。名前を覚えて置かない と不.便だから。」 「あてだっか。米《よね》と申します。」  わざと切口上で答えて、丁寧《ていねい》に頭をさげた。 「年齢《とし》は?」 「もうおばあちゃんだっせ。」  蜂く首を横に振って答えない。そういう細かいとこ ろに、外の二人とは違って、客商売に駲れた人間の風 情《ふぜい》があった。 「お米さあん。おゝい、お米さあん。」  ひとつ置いて向の部屋から、大きな声で呼んだ。 「看護婦さんが帰らはったので、御機嫌がわるおまん ねぜ。」  くすっと笑ったが、もうひとつお酌をして置いて、 「一寸《ちよつと》御免やす。」  というと、なおしきりに呼び立てる三番へ、小走に かけて行った。  三田はとり残されて始めてゆっくりした気持になっ た。前の下宿とは違って、手綺麗な料理で、酒も意外 に結…構だ、った。手酌で飲んで、さっさと飯も済ませて しまった。  日が暮れると、対岸の家々の灯火《ともしび》が水に映って、あ たりの景色は一段と立勝《たちまさ》った。川風の涼しい縁側の椅 子に腰かけていると、三番でお米を相手にくどくどと 管《くガ》を巻いてる93の声が聞えて来るQ 「あれえ、わるさしたらあ.かん。」  どたんばたん揉《もみ》あう物音につゞいて、陽気に笑う声 も聞えた。  三田は夜の空を仰ぎ見ながら、旅愁を感じていた。 二の一  御旅館酔月は嬶天《かLあ》下だった。亭主はおかみさんより も年下で、或る工業会社の事務員を勤め、宿屋の事に は一切日出しをしなかった。朝は早く出勤し、夜はお かみさんの相手をして晩酌の盃をなめるが、到底|太刀 打《たちうち》の出来る柄《がら》では無く、女房の酒の済むのを待って飯 を喰うと、少しの分量でも長く酔を保っ酒に負けて、 ごろりと横になっていゝ気持でうたゝ寝をする。極端 なだんまりやで、止宿人と顔を合せても、軽く頭を下《さげ》 るばかりで、口をきく事は殆《ほとん》ど無い。会社の同僚との つきあいも無く、飲んだり喰ったり、見たり聴いたり の道楽も無い。たった一つ、此の人にしてと意外に思 われるのは花合《は・なちわ巳》で、二百六十紀口|札《なバこ》をヂにしないUは 無い。その方の仲間が集コ、来ると,夜どむし勝負を 争う事もある。そうで無いと、帳場をレまって、湯に 入って、からだの楽になったかみさんと、さしで遊《、、》ふ のがおきまりだ。 「あんた、一二二年いきましょか。茅、たいして居たら嵐, 邪引きまっせ。」  とおかみさんに揺り起される迄は寝ている。それか ら差向で十二時近く迄やって居るが、亭主の方は勝っ ても負けても、うんともすんともいわ無いで、念入り に考えて札を打つ。おかみさんの方は勝っても負けて も、一人ではしゃいで喋っている。猪《しち》の出るのは五段 凵やとか、ありがた・出の時鳥《ほし=ギす》とか、いずれあやめとひ きぞわずろうとか、坊主まる儲けとか、出まかせな汰 酒落《 打《ダ すほ》の出来る柄《カダコ》では無く、女房の酒の済むのを待って飯緯わずろうとか、坊主まる儲け・、か、出まかせ農《ァドも》 を喰うと、少しの分量でも長く酔を保っ酒に負けて、  酒落を、年中繰返して居る。 ごろりと横になっていゝ気持でうたゝ寝をする。極繍 おかみさんは、肉体的にも鴛を衝する索、持っ なだん奄やで、止宿人と嬲壌口せても、軽く頭を下て居た。田冂弱者覧るよう姦讃朔きの、細っこ書- るばかりで、口をきく事は殆ど無い。会社の同僚との  い亭主にひきかえて、がっしりと惟幅のいゝ、顔色も胼っきあいも無く、飲んだり喰ったり、見たり聴いたり讐して、饗もはっ言している・、男性的の声け郎 の道楽も無い。たった一つ、此の人にしてと意外に思  あけっ放しの性質そのまゝであった。若い時には何処》|》を、年中繰返して居る。 おかみさんは、肉体的にも媚羅を衝す.劣ゐ、持っ て居た。自弱者に見るような蒼黒い顔つきの、細っこ い亭主にひきかえて、がっしりと恰幅のいゝ、顔色も 讐して・饗もはっ言しているし・男性的の声け躍 あけっ放しの性質、そのまゝであった。若い時には何処 とかの新地に出て居たとかいう事で、その面影は多少 残って居た。宿屋を始めたのは余程前で、世話になっ て居た人が死んでから、止宿人の一人と一緒になっ た。それが今の亭主であった。  おかみさんには子供が無かった。女の子を一人貰っ て育てて、今は十五になるが、後々《だんだん》呂昇はんのような 娘|義太夫《ぎたゆう》にするといって、文楽の男太夫《わとこだゆう》に本式の稽古 をして貰って居る。きりょうはよく無いが、おかみさ んの実の娘だといっても通りそうないゝ体格で、流石《さすが》 に咽喉《のど》の太さが日につくのであった。おかみさん自身 もなかなか顔を見せなかったが、娘は絶対に客の部屋 には出さなかった。  おっさんおっさんと呼ばれて居るのは、おかみさん の母親の弟で、何をしても物にならず、身内の者に迷 惑をかけながら六十近くなってしまった人間で、酔月 にころがりこんでからでも数年になる。川岸を利用し た上方風の、地下室とでもいう可き風呂場'をうけ持っ て居る丈で、小遣銭《こづかいせん》を貰った時は何処かに飲みに行く し、まるっきり懐甲《ふところ》の空っぽの時でも、何処というあ て無しにうろついて居るやくざで、其の日其の日をも て余し切って居た。  外には若い料理人が一人と、おつぎおりかお米の三 人の女由・が居た。 「うちの女子衆《おなごしゆ》は蟹《かド》みたいなもんや。ひっくりかえし て見ん事には、雄《おす》やら雌やらわからへん。」  と、それがおかみさんの得意の冗談だった。     二の二  客室は六つあった。二階の川に臨《りぞ》む方に三つ、反対 の往来の方に向いて二つ、階下《した》に一つで、三田の占領 して居る川を見下す六畳が一番、其隣の十畳が二番、 大貫の居る八畳が三番、三田の部屋と廊下をへだてた 八畳が四番、それと襖二《ふすま》重の六畳が五番、階下の六畳 一か亠ハ番だった。  いったいに夏場は閑散《ひオ》なので、時折一晩二晩泊る人 があるばかりで、今では月極の三田と大貫の外には客 が無かった。  日がたっても、気安く口のきけ無い三田は、宿の者 に不思議な人間と思われて居た。朝、会社に行って、 夕方帰って来ると、湯に入って一本飲んで飯にして、 それから机にむかうと、そのま餌十二時一時になるの が通例で、その間にお茶を飲む事も無く、手を叩いて 人を呼んだ占茸は一度も嘸か。時々は他所《よそ》で食事を済ま ぜて来る事もあるし、夜更に戸を叩くような事毛あっ て、そんな時には屹度《へ㌔つと》深酒の香がしたが、別段|足下《うしロもし 》も ふらつかずに、さっさと二階に上って行く。酌って竜. 麟わなくても、だんまりむっつりで、味もそっけも無 いのが、みんなにとって気づまりだった。小孫.口も一冒わ ず、注文もない、凡《ムよ》そこれ程手のかゝら無い客は曽《かつ》て 無いのだが、それがかえって窮屈だった。 「大貫さんみたいな好かん人無いわ。」 「酔いたんぼで、いやらしい事ばかりいうて。」  と口々に悪くいいながら、三田などとは比べものに ならない程人気があった。酔うと必ず手を握ったり、 抱きついたり、引倒したりするし、夜更でも手を叩い て水を持って来させたり、茶をいれさせたりするし、 用努が遅いと怒鳴りつけるし、おまけに刀末の勘定噛 溜っているのだが、それでも会社の診査用で地方へ出 張でもして、数日帰らない事があると、 「大貫さんは何時戻って見えるのやろ。」  と誰かの日から、さ妥,待侘《まちbび》るような.百葉が漏混るの であった。 「あて、三田さん何やらこわいような気《ρ「V》がしてかなわ ん。」  新客好きで、未だ見ぬ客の前に膳を持って行く事の 好きなわ米さえ、三田の御給仕は二三度で懲《こ》り「て、成 る可く外の者に譲る事にしている。 「あの膿《めえ》がこわいのや。あて、あのように目《で》げたきせ ん眼を見た事無いわ。」  おつぎも多少.同感で、直ぐに相槌をうった。 「けったいな人いうたらあれへんなあ。何いうても、 ふんふん言うだけで、あれで何が面目いのやろ。」 -用事があったら何なりというて下さいと言っても、 、用事は無いよと、こない言わはるのや。」 「かなわんなあ。」  と投げ・・たようにいうものもあった。 「あれでも女子を見たら、何とか思わはるやろか。」 「阿呆《あほ》らしい。女子の嫌いな男って見た事無いわ。」  勝手な評定《ゆようじよう》をしては笑草にしたあげくが、「けった いな人」だという結論を繰返すぼかり.だ⊃た。 二の三  何時迄も三田が「けったいな人」の域を出ないのに ひきかえて、彼の友達田原は、時々遊びに来ては、人 気を一身にしょって行った。  田原は三田と同窓であるが、持って生れた熱情と、 生《キず》一本の正直がわざわいして、方々の会社に勤めは勤 めても、上役と衝突したり、職工の味方になって株主 攻撃の演説をしたりして、紡績会社でも、汽船会社で も、電力会社でも永続しなかった。れっきとした父親 と、親類うちに立派な政治家や事業家のある御陰で、 今は阪神間に在《あ》る車両会社の専務取締役を勤めて居 る。到底下役はつとまらないから、いっそ重役にして 見ようという一門の考えであった。 「匙《さじ》を技げた結果が重役か。」  と口の悪い三田は友達をいやがらせた。  始めて田原が酔月にやって来た時は、素晴しく立派 な会社の自動車で乗りつけた。 「三田公いますか。」  と玄関に立はだかって、大きな声でいった。 「三田さんですか、いらっしゃいますよ。」  飛んで出たのはおりかだったが、おもてに待って居 る自動車を見ると、丁寧に膝をついて改めて頭を下げ た。 「いるなら上るよ。」  いうかと思うと靴を脱いで、梯子段を先に立って上 った。 「あら、そちらではありません。そっちははゞかりで す。」  うしろからついて来たのが、あわてて注意すると、 「あゝそうか、失敬々々。」  とざんぎりの頭を掻きながら真赤《まつか》になった。誰襌ら ぬ高調子だが、その実ひどいはにかみやで、荒しがる 度に白皙《はくせき》の面《かお》が真赤になる。 「おい、静かにしないか。外《ほか》のお客さんの迷惑だ。」  友達の声をききつけて、苦り切った三田が部屋の中 から廊下に出て来た。 「外に御客なんかいそうもないそ。なあ、姐《ねえ》さん。」  負惜《まけおしみ》をいいながら、田原は早くも女中に親しさを示 した。 「よう、素晴しい部屋だなあ。おまけに姐さん達が別 嬪と来てるから、お城のねきの高等御下宿とは比較に ならんぞ。三田公の月給では、月末が心許《こ」脅つもレ」》ないなあ。」  狭い部屋のなかを、洋服の長い脚で歩き回りなが ら、床の間の松に鶴《つる》のかけものを、わざと丁寧に見た り、縁側に出て川の景色を眺めたりした。 「まあ坐らないか。騒々しくて為方《しかた》が無い。」 「いや坐らないよ。三田公の新居検分も済んだから、 これから新地へ御ともを仰せつける。たまにはうまい 酒も飲ましてやらないと、東京にいる三田公のお母《つか》さ んに済まないからなあ。姐さん、こいつのお母さんが ねえ、田原さんせがれが大阪に参りましたら、ようく 監督して下さい。どうぞ一人前の人間になれるように 目をかけて下さいと、涙を流して頼んだものだ。こん な強突張《ごうつくばり》でも、我子となると可愛いゝんだそうだ。」 「いゝ加減にしないか。暑苦しいふざけ方はよしてく れ。折角湯から上ったところなんだ。」  おりかが腹を抱えて笑いこけているので、一層三田 は不機嫌になった。 「よし、それでは支度しろ。口動車が待たせてあるん だ。」 「いやだ。今日は此処《ζム》でうまい油を飲ましてやろう。 おりかさん、此の社長さんにお膳を出してやって下さ い。し 「そうか。こいつはいやだと言い出すと始末の悪い奴 なんだ。よしよし、社長さんも下情《カじよう》に通じとく必要が あるからなあ。」  田原は淡白に同意して、廊下に出て行ったと思う と、梯子段のところから階下《しか 》に向って、大きな声で叫 んだ。 「おゝい、小笠、原。自動車帰ってよおし。」 二の四  階下に下りて来たおりかは、帳場にいる者に面白い お客さんとして出.原の事を紹介した。 「立派な自動車に乗っていらっしゃったが、社長さん だって事ですよ。」 「へ玉え、社長さん?三田さんの会社の社長さんか。」 おかみさんも乗出してきいた。 「その癖ちっともたかぶらない、面白い事ばかり言っ ていて、三田さんの事でも三田公三田公だってさ。」  おりかは苦虫《にがむし》を噛みつぶしている三山の様子迄も想 い出して、外の者をうらやましがらせる程笑った。  御膳が揃《そろ》うと、 「あても行《い》て見よ。」  お米もおりかの後《うしろ》について、一つ宛《ずつ》運んで二階に上 った。 「いよう、こいっあ驚いた。俺も此のうちに宿替《やどがえ》しよ う。」  田原は仰山《きようさム》に後へ身を反《そ》らした。羞しさをまぎらす 為めには、どうしても冗談口をきかなくてはいたたま れないのであった。 「なんですの。あての顔になんぞ書いておまっか。」  自分のきりょうに十分自信のあるお米は、うっすり 化粧した顔をあかりの方へ向けた。 「書いてあるとも。シャンと書いてある。」 「いやあ、悪いお方。そないな事いわれるのやった 」ら、取めっち一へいに・まっき一。」  わざと立上ろうとするのを、 hう玉ゝ、待ってくれ、待ってくれ。もう何もいわん からお酌お酌。」  拝むような手つきをして引とめて、盃を取上げた。 二人の女は、それが社長さんだと思えば一層おかしく て、脇腹を抑《おさ》えて笑い倒れた。  三田は額に八の字を描いて、黙々として盃を重ねて いた。彼は友達の肚《はら》の底迄知り尽《つく》していた。此の男は、 正面《しら》の切れない人間なのだ。てれかくしに下手《へた》な軽口 を叩いているうちに、止度《とめど》が無くなって、自分でも困 っていながら、きれいに切上るうでが無い。その弱味 をかくす為めに、又ふざける。俺のような重苦しい根 性もよくないが、此の男の態度も面白くない。-彼 はそんな事を考えていた。 「三田公、此の酒は飲めるよ。お前の宿だから、どう せ高等御下宿程度だろうとたかをくゝって来たが、こ いつあ掘当てたぞ。実際いゝ酒だ。」 「そんならもう一つ。」 「いかんいかん、俺はお米さんのお酌でなければ飲ま ないよ。おりかさんは三田公の方についでやってく れ。」 「あらやだ。社長さんはそんな悪口なんかいうもんじ あ、あり疾せんよ。」 「あ・んた、一、一田さんとこの社、長♪、」んだっか。」  どうも様子が社長らしく無いとも思われるし、社長 だとするとお酌甲斐があるような気もして、お米は膝 を来出した。 「うむ。三田公んとこの社長さ。こいつの首を切ろう とも、月給をあげてやろうとも、此の胸.二寸にあるん だ。」  上着をぬぎ拾てたホワイト・シャツの胸を叩いて見 せた. 「ほんまだっか、三田さん。」 「ほんまだ。」  三田は面倒くさそうに首を縦《たこ》に振った。  豪酒の三田は何時迄も盃を放さなかったが、田原は 急《たちま》ち酔ってしまった。 「さあ、外にも別嬪がいるなら連れて来い。23家内《いえ》は んも御寮《ごりよん》さんも娘《とう》はんも呼んで来い。何んでえ、何ん でえ、三田公。下らねえ面あしやがって、眼王ばかり 光らせてやがら。」  わけのわからない事を、本性たがわない生酔《なまよ》いで、 持前の甲高《か化が、か》い声で怒・鴨っていたが、夙《とツく》に分量を.過した 酒に背骨がしゃんとしなくなって、いきなり真後《まらしろ》にぶ っ倒れたま㌦、畠財《いび費.》をかいて寝てしまった。 二の五  田原がご一田の勤務先の社長で無い聾はわかったが、 立-派な車両会社の垂役だという事で、少なからず宿屋 の尊敬をうけ、そんな地位の人があ入迄砕けていると いうのが、 一段と人気を集めた。その御陰は三田もこ うむった.、車両会社の重役で、自動車を乗回す人を友 達に持ち、対等のつきあいをして居るというのが、何 となく盃味をつけ加える事になった。 「社長さんどないしてはりまんのやろう。面白い方だ んな。」  徹頭徹尾、別嬪でシャンだトテ・シャンだとおだて られたお米は、殊《こと》に田原|贔負《ぴいをし》だった。 「あゝ見えて、あの男程真正直な人悶も少ないし、あ れ程内気な奴も無いんだぜ。」  当の本人のいない時は、三田はしきりに共ひとと応 躍 りをほめたが、その批評は女達には信じ兼る事ぼかり だった。正直だとか、内気だとか、涙脆《なみだもろ》いとか、人が よすぎるとか、品行方正だとかいうのは、みんなの期 待する事では無かった。それよりも、気さくだとか、 さばけているとか、冗談ばかりいうとか、面白い人だ とか、そういう美徳であり度かった。 「いっしょに学校を出やはったのやそうやが、矢張《やつばり》出 世する人は何処か違うとるなあ。」  帳場にいるおかみさん迄も、三田と比べて田原の性 質をほめ度がった。  その田原が二度日の・訪問は、全くみんなの待遠しが るところだった。  或晩遅く、田原から三田に電話がかゝって来た。 「もしもし、僕三田です。」 「あんた三田さんだっか。えらいお久しおまんなあ。」  と答えたのは女の声だった。 「田原さんでは無いのですか。」 「田原さんも此処にいてはります。あんた、あてだん が。」  北の新地で蟒《うわばみ》とあだなを取った女だった。田原の 会社の取引先の宴会で、これから二次会というところ だが、つまらない連甲だから逃げ出して、外《ほか》のうちで ゆっくり飲むから、出て来いという電話だった。 「今晩は駄目だ。僕は書物《かきもり》が忙しいから失敬すると出 原に言ってくれたまえ。第一もう十時過ぎだぜ。」 「十時だって十二時だってかめしまへん。三田公とも 昌.口われるものが出て来んなんて卑怯だっせ。」  何時もの事だが、蟒《うわばみ》は十二分に酔払って居るらし い。 「あゝ卑怯だとも。さよなら。」  三田は面倒くさくなって、さっさと電話を切ってし. まった。部屋にかえって書きかけの原稿を続けたが、 間も無くお竜てに自動車がとまって、田原の高調子が 筒ぬけに聞えて来た。 「やあ、今晩は。いようお米シャン。相変らず綺麗や なあ。」  どしんばたん梯子段を上る入りまじった足音がした が、襖をあけて先ずのめり込んだのは、蟒だった。 二の六 人にすぐれて背の高いのが、ぐでんぐでんに酔払っ て、長々と畳の上に身を横たえた。田原も酒でくたび れて、床柱に上半身をもたせかけ、両足を前に投出し て、今にも舟を漕《こ》ぎそうな有様だ。 「姐ちゃん、お酒おくんなれ。あつうくして。」 「いけないよ。此処は待合ではな.いんだ。こんな夜更《にふけ》 に酔払が飛込んで来る丈《だけ》でも迷惑なんだ。」  三田は洋筆を置いて、手のつけられない相手をたし なめてみた。 「えらい済んまへんな。そやけどなあ、そないえらそ うに言わんかてよろしおまっしゃろ。夜更で竜夜あけ でも、人を泊めるのが宿屋の商売だっせ。」 「そりゃあ人を泊めるのは商売だろうが、これから酒 を飲むのは営業妨害だよ。外の御客に申訳が無い。」 「かめへん、かめへん。あんたは飲まんかてよろし い。そんな卑怯もんはほっといて、あては車掌さんと 飲むのや。姐ちゃん、一本二本飲んだかてかめしめへ んなあ。」 「えゝえゝ、どうぞたんと上《あが》っとくれやす。」  お米を始め三人の女中は、廊下に立ってあっけにと られて居たが、うなずきあって階下《した》に下りて行った。  酒が来ると、蟒《うわばみ》はコップを求めて、 「さ、三田公。むつかしい顔せんと飲みなれな。あん たのえ瓦ところは酒の飲っぷり丈や。外に木は無い、 えゝ笹ばかり。こりゃこりゃと。」  ぐぐぐぐっと半分ばかり飲んだのを、三田の鼻先へ つきつけた。 「おい、田原。寝ちまっちゃあ困るよ。」  果してこくりこくり居睡を始めたのをよび覚まし て、 「為方《しカ々》が無いから此のコップは飲むが、飲干《のみほ》し・たら帰 ってくれ。人騒がせは嫌いなんだ。」  とまだしも正体のある友達の方にいいきかせて、蟒 の手からコップを受取ると、 一息に干してしまった。 「あかんあかん。そんな半分しかない酒なんか飲んだ ら、三田公の名折れだっせ。」  蟒は手を叩いておかわりをいいつけて、又なみなみ とついだのを強いた。三田は何もいわずに、それも亦 一息に飲んでしまった。 ぎ・田原・約束通り帰ってくれ・」 「帰る。おい帰るよ。」  田原はふらふら立上って、一人で部屋を出て行った が、蟒はおちつき払って、手酌でコップ酒を浴びて居 る。  田原は危ない足どりで梯チ段を下りて行った。 「社長さん、お帰りだっか。あんたの御つれさんは?」 「あいつは三田公に惚れてやあがるんだよ。うっちゃ っとけ、うっちゃっとけ。冖  女中達に見送られて、待たせてあった自動車で行っ てしまった。 「えらいげいこはんがあるもんやなあ。」 「あの人ほんまに三田さんに惚れていやはるのやろ か。」 「えゝ取組やし。」  勝手な事をいっていたが、すっかり好奇心をそゝら れてしまった。十二時を聞いて大戸をおろした時、お りかは足音を忍んで二階に上って行った。三田の部屋 をひそかにのぞいて見ると、女は覺の上に真うつむけ に寝ていたが、三田は机にむかって、何かせっせと書 いていた。  翌朝早く、おりかは口が覚めると直ぐに、再び三田 の部屋をのぞいて見た。ほのぼのと朔の光のさし込む 部屋のなかで、女は三田の男枕をして、足の方には夜 励 着をかけて熟睡していたが、三田は咋夜《ゆうべ》と同じ姿で、 机にむかって書き褶のをつゞけて居た。 三の一  例年よりも、 一層堪え難い夏だった。 一番の部屋 も、朝のうちこそ川風が涼しいが、夕方三田が会社か ら帰って来る頃は、、西日の真盛《まつさかり》で、川水もどんよりと 澱《よど》み、部屋いっぱいに差込む日脚《ひあ 》を除《よ》ける為助にカア テンを引くと、風は少しも通さない。西日の室《むろ》のよう な部屋に帰るのは気が進まなかったが、会社に居る時 間も辛かった。心懸《こ・うがけ》が悪くて、未だに間着《あいタ》の紺サアジ を着て、汗みどろになって居たのである。  厳格な家に育って、学生時代は、どんな儀式があろ うとも、薩摩鰓《さフまがづり》の着物に小倉の袴《はかぽ》ときあられて居た。 大学を卒業した時、始めて世間並の春夏秋冬《はるなうあhとふゆ》の衣類・を 一通《ひととおり》こしらえて貰ったが、其後月給取になってから は、全く親の扶助を絶たれてしまったので、自分の取 高では、到底着物たんか出来るわけが無かった。卒業 の時にこしらえて貰った着物が、年寿着吉されて行く ばかりで、新しい竜のけ一枚も殖えなかった。}兀来衣 類には無頓薫だったから、盆暮の賞与が手に入って も、着物をごしらえる彦剃にはたらないで、みんな酒に なってしまった9  夏になると、勤人は一斉に、白いずぼんに白い靴、 アルパカか何かのぺらぺらした上着を着て、涼しい噸 をして居るのが普通だが、三田け川月頃から引続い て、たゞ一艶瑁の紺サアジだった。  今年こそは盆の賞与で夏服をつくろうと、兼々望ん では居たのだが、洋服に回す丈の余裕が無く、結局我 慢してしまった。どうもあのぴかぴか光るアルパカ や、縫《ぬい》ぐるみの狐《タうね》のような白ずぼんに自靴竜、いゝ好 みでは無いと、負惜みはいうものの、紺サアジの色の 褪《あ》せた間着姿も、決して見た目のい」ものでは無かっ た。どうしても原稿を稼ぐ外に途《みら》は無いと決心だけは したものの、一編の小説を.組立るのは、なかなか容易 の事で無かった。毎晩々々机に噛りついて、全・身汗に なって苦労しているうちに、何時しか七月もなかばに なった。  毎日紺サアジを気にしながら、会社に出ると、 一斉 に上着を脱いで仕事をしている事務室の中で、たった 一人自分丈が、自鷺《〜しヤ㌧屯》の群にいじめられる鴉《みドてオ 》のよ弓だっ た。  洋服が汚なく、日.時候違いであ.るばかりで無く、靴 もひどかった。かけがえが無いので、ばくばく口の開 いたのを我漫して穿《は》いていたが、・全く絶望になったの で、此の方は金吉司も洋服に比して遥かに少ないので、 何時も会社のゆきかえりに前を通る靴屋で、半靴・をあ つらえた。  一週間たって、宿へ届いた靴を穿いて見ると、まる っきり犬きさが違う。 「これはおかしい。これでは中歩けやあしない。」  宿屋の十岡で、引擦るような足取で二三悲運んでみ た。 「あ.らやだよう。なんて問抜な靴屋なんだろう。他所《トのを》 のうちに持ってくのと間違えたに違い無いよ。」  その靴を靴屋の小僧から受.取ったおりかは、頓狂に 叫んで笑った・額に鵡雛を寄せて・不機嫌そのものの黜 ような三田が、重たそうに足を引擦っている姿がいゝ 笑いものだった。 三の二  元の通り箱に納めたのを抱えて、三田は会社の行き がけに靴屋へ寄った。 「此の靴は誰か外の人の注文したものでは無いだろう か。ためしに穿いてみたところが、二回も三回も大き くて、とても歩けやあしない。」  店頭で仕事をしている主人らしいのに、箱から取出 したのを見せた。  白地の仕事着のむざんに汚れた膝の上に、出来かゝ りの踵《かエと》の高い女靴をのせて、丹念に検分していた爛目《たどれめ》 のおやじは、鉄縁の眼鏡をかけ直して、仏頂画《ぶつちようづら》をして 出て来た。何の挨拶もしずに、暫時靴を取上げて、三 田の顔と見比べて居たが、 「違う事あらへん。」  と独言《ひとりごと》のように無愛想な口をきいた。 「だって穿いて見せればわかるが、まるでぶかぶかだ ぜ。此悶寸法を取ったのは、若い人だったが、あの下 図っていうのか、足型というのか、あれを出して見れ ぼわかると思うが。」  おやじは面倒くさそうに手を延ばして、仕事台の下 から雑記帳仕立の寸法帳を取出した。 「お名前は。」 「三田。」  いちいち指先を舐《な》めながら、一枚々々めくって、 「違う事あらへん。三田様とちゃあんと書いてある。」  そういって、ぽんと帳面を叩いて向うに投出した。 「よし、そんなら穿いて見せよう。」  三田は相手の強情らしい、不精髯《ぶしようひげ》のまばらな.顔を睨 むように見ながら、店口に腰をかけ、自分の破靴《やれぐつ》を片 方だけ脱いで、新しいのを穿いて見せた。 「見給え。こんなにだぶだぶしているじゃあないか。 出来あいならば知らないが、あつらえて寸法を取った ものが、これ程大きさが違う筈がない。これは屹度外 の御客のだぜ。」 「いんえ、違う事あらへん。寸法もきちんと合うてあ る。」  もう片々《か疫力跿》の靴を顔の高さ迄持上げて、出来上りに満 足しているような目つきをして見ている。 「寸法があってるって? そんなら寸法の取違いか。 それにしても余《あん誰》り.違い過ぎるじゃあないか。」 「うちは此の商売を二十年からやっているが、.寸法違 いなんて事は、 一度もあらしめへん。」 「だって此の通り足に合わ無いじゃあないか。」  不死身のようなおやじのわからずに苛々《いら/\》して、三田 はぶかぶかの靴を穿いている足に力を入れて空《ノ、う》を蹴っ た。しまったと思うひまも無く、紐はしっかりと結ん であるのに、大きな靴はすぽんと脱げて、丁度店の前 で遊んでいたお河童《かつば》の女の子の横面に飛んで行った。  不意を喰《くら》って女の子は、おびえた顔をして三田の方 にふりかえったが、いきなり大きな声で泣出して、店 のなかに駆込んで来た。驚いて立上った三田の側をす りぬけると、奥の間に消えてしまった。其処《そこ》には母親 がいるのであろ.う。何かいう女の声につれて、泣声は 嗣段と高く聞えた。  三田はち.んちんもがもがで、往来の靴を拾って来 た。すっかり恐縮してしまった。 「これでは為方《しかた》が無いから、問違いでないのなら直し てくれたまえ。」  そういって、あわてて自分の破靴を窪いた。 「…置いて行《レ》ておくんなれ。」  おやじは愈々《いよく》仏頂面をして、いい捨てたまゝ仕事台 の前に戻って、どっかりと胡座《あぐら》を組んだ。それっき り、仕事にかゝってしまった。 三の三  その口の夕方、三田は同僚の一人と途中迄連立って 帰路についた。靴屋の前を通るのは心がひけたが、運 悪く今朝の女の子が、二三人の友達と、大きな毬《庄り》を股 ぐらをくゞらせくゞらせ突いているところだった。  ころころと転がったのを追かけて、往来のまん中に 駆出して来たお河童が、ひょいと.顔をあげて三田を見 ると、ぱたばた店の中へ飛んでかえって、 「阿呆《あほ》。」  と叫んだ。畜生と思って振かえると、店の中の仕事 場から、おやじの爛目《たgれめ》が睨んでいた。  それっきり、三田は靴屋の前を通るのがいやになっ た・  四五日たって、靴は又届けられたが、入口が少しば かり狭くなった丈で、大きい事には変りが無かった。 堅く堅く紐を結んでも、靴箆《くつべら》を指先の援助もかりず に、穿く事も脱ぐ事も出来た。それは便利だが、一歩 一歩歩く度に、足のうらから風が吹くような気持がす る。どうしても,靴屋が他所《よそ》の注文に応じて作ったの を間違か、故意にごまかして寄越《よこ》したか、若しそうで 無いとすると、最初は飛んだ間違いをしたが、今では いったん張り出した強情だから、あく迄もそれを押通 そうとするのであろう。それだと尚更《なおさう》憎む可きであ る。どうしてももう一度直させるか、これを突返して 新規に作らせるか、どっちかにしなければならないと は思ったが、すぽんと脱げた靴が女の子に当った時 の、自分の大人気《おとなげ》無い姿を思い出すと、三田は再びあ の靴屋の店に足踏みする気にはならなかった。  赤禿の、まばら髯《ひげ》の、爛目《たゞれめ》のおやじの仏頂面と、お 河童の女の子の青んぶくれの顔を思い出して、其のぶ かぶかの靴の踵で踏躪《ふみにじ》ってやり度かった。そんな靴を おめおめ穿いている姿を、靴屋のおやじに見られ度く 癒か4、た。三田が遠回りして会社へ通う心持は、ひと しお深くなった。  みちをかえてから、殆ど毎日出あう娘があって、三 田は遠回りを少しもいとわなかった。何故もっと早 く、此の道を撰ばなかったかと思った位、最初から其 の人に心を引かれた。年齢《とし》は十七八か、まだすっかり 発育し切らない、いわば八分目位大人になりかけたみ ずみずしさだった。あんまり多過ぎない髪は何時も銀 杏返《いちようがえし》で、洗いざらした単衣《ひとえ》ものに、めりんすの帯を しめた哀れっぽい姿の、うしろつきがひどくよかった。 彼の学生時代に、万竜静江などと並び称された絵葉書 美人の浜勇というのに、優しさと憂《うれ》いを含ませた顔立 ちだった。  此の人に対して、三田は紺サアジとぶかぶかの靴に は全く閉口してしまった。大概出あう場所は朝も夕方 も同じで、裏通りの余り広くない町筋を、向うから来 たと見ると、たゞさえ歩きにくい足もとは、一段と重 たくなって、涼しい風の通る朝の凵陰にも、彼は背中 迄汗になった。  段々近づいて、擦れ違う時は、三田は動悸が高く打 って、無闘に足が早くなる。先方は年頃の娘によくあ・ る梢《やト》伏日の姿勢で、電信柱とすれすれに、はじっこの 方を通って行って了《しま》う。中肉中背というよりも、ちっ とぼかり丈の高い後姿|丈《だけ》が、三田の憚《はゴか》り褶なく見送る ところだった。みなりの粗末なのに似ないで、いつも 洗い立ての足袋《たび》を穿いているのが、殊の外三田の好み に媚びた。 三の四  その娘が、どういう身柄であるか、なかなか見当が つかなかった。すべての様子は、町かたの貧しい家の 娘で、母親の手助をしながら御針《おはけ》でも内職にしていそ うな風だが、征朝毎夕同じ時刻に同じとこで逢うとこ ろから考えると、矢張何処かの会社か銀行に勤めてい るのかもしれない。それにしては、近代の社会的経済 的産物なる所謂《いわゆ6》職業婦人の型にははずれ過ぎて居る。 そのはずれて居るところがいゝのだがーと三田のあ たまには、その娘のことが絶えず浮んでいた。  三十を越して一人でいる三田は、自分自身は独身の 気安さを悪く無く思って居るが、両親、殊に母親は、 一日も早く嫁を持たせ度いと思って、八「迄にも他家の 令嬢の写真などを見せた事もあった。しかし、三田に は令嬢趣味がちっとも無かった。同年輩の文学者など が、令嬢崇拝だとか、賛美だとか、女学生はとても堪ら ないなどと興奮《rうふん》した笨致で書いたり、.唇を乾かして喋 ったりするのを、何か真実で無い心持のように思って いた。すっかり親に庇護されて、白分自身には何の力 も無いくせに、いやにつんとすまして居るのがいやだ った。あのなか味《ノ》はからっぼの気位が堪らないのだ。  そんなら、又他の小説家や、彼の会社の逗甲などが 夢中になる程、玄人《くろうと》の特徴も.頂けなかった。お座つき の如くきまりきった酒落《しやれ》のやりとりや、何もわからな いお客相手の芸事に得意になって、先祖代々贅沢をし あきて来たような顔をしている芸者の、何処が粋《いき》なん だか、すっきりしているのだかわからなかった。  子供の時分の事で、恋とはいえないが、うちの近所 の塩煎餅屋《しお琶んべいや》の娘を、ひそかになつかしく思っていた事 がある。その娘は、あいにく芸者になってしまった が、次には菩提所《ぼだいしよ》の門番の娘に同じ心を寄せた。つま り、素人だろうが玄人だろうが、値うちも無いくせ に・おもいあがっている奴が嫌いなのだ・  その点で、朝夕往来であう娘は、ぴったりと彼の好 みにはまったのである。沢山見かける職業婦人が、耳 かくしだ、七三だと噺観を競《きそ》い、寝巻のような洋服を 着て見たり、白粉と紅丈ではいくら濃く塗り立てても 満足出来なくなって、まゆずみを使ったり、黒子《ほくろ》を描 いたりしているのに、あの娘は何時もつくろわぬ銀杏 返で、白粉も刷《は》いているかいないかわからない位だ。 はでな日傘をさし、手首には人造石のぴかぴか光る手 提鞄《てさげかばん》をぶらさげるのが多いのに、あの娘は色の褪《さ》めた 洋傘をつぼめたまゝ手に持っている。日があたって暑 い時など、半巾《ハンケチ》で顔を押えている事もあったが、その 傘は矢張開かれなかった。あんまり古びてしまったの で羞しくてさせないのかと想うと、 一層いとしかっ た。自分の紺サアジとぶくぶく靴にひきくらべて、そ の羞しさは底の底迄同情する事が出来た。何とかして 先方でも、自分の紺サアジに同情してくれないだろう かと考えて、あまりの馬鹿々々しさに赤面した事もあ る。  何といっても、先方は此方《こつち》の存在を認めていないの が物足りなかった。つゝしみ深い性質なのであろう、 曽て一度も、ゆきあってから振返った事が無い。少な くとも、三田は何時でもふりかえって、娘の後姿を十 分享楽するのだが、先方の視線とかち合った事は一度 も無いのだ。  彼は自分の容貌の、女の目をひく丈美しく無い事を 忌々《いまいま》しく思った。 三の五  或日、勤務先に田原が立寄って、結局三田の宿で一 緒に飯を喰うというので、連立って来る途中、いつも のとおり、銀杏返の娘にあった。 「えゝ娘やなあ。」  擦違《すれちが》うと直ぐに、田原はおどけた調子でいって、目 をまるくして見せた。 「なんでえ、三田公。あかくなってやがら。」  田原は三田の背中を思いきってどやしつけた。 「忍ぶれど色に出にけり我恋はかなあ。」  あくまでも弱味を見せまいとする三田の根性は、さ も平気らしくつぶやかせたが、その癖彼は一層顔が赤 くなって、無闇に半巾で汗を拭いた。気のいゝ田原は 別段追及もしないで、一緒になって笑ったが、三田は 内心閉口していた。しかし、どうして不覚に毫.顔を染 めたか、俺の心は本気かなと、三十男のずうずうしさ で、自分を遠方に置いて考える余地があった。 「今日《こんち》はあ。お米さんはどないしてはる。」 「まあま、うちの社長さんだっか。」  あるじの三田はそっちのけで、 「さあ、お米さんの御酌で飲みましょか。酒だ、酒 だ。」  と甲高い声を張上げる。 「あ.んさんはそないえらそうに言わはってもあきまへ んなあ。せんどみたいに酔うてしもうたら、どもなら ん。」 「あれは為方《セカた》が無いよ。タンク見たような三田公や、 名にし負う蟒《うわばみ》を相手にしちゃあ、とて竜堪らないよ。 わいはお米さんと二人で、しんみり飲み度いんだ。」 「蟒さんかいな。あの御方は面白い御方だんな。」 「すこし面白過て弱るんだ。あいつは物好きで三田公 に惚れてやあがるんだぜ。此間の晩竜俺をだしにつか って、泊っていきゃあがったんだろう。」 「おい、おい。人ぎきがよ過るぜ。泊って行ったとい うと色っぽいが、蟒のはとぐろを巻いて行ったんだか らひどいよ。し  三田は紺冖サアジを浴衣《ゆかた》に着換えながら目を挾んだ。 「あてら、あの御方さん社長さんの御てかけさんかと 思うてましてん。・ 「ところがあいつは変物《かわりをの》だから、夏も冬服を着ている 三田公のような甲斐性無しと腐れあおうっていうの さ。変物は変物同士、こっちはお米さんと・:己 「あれえ、わるさしたらあきまへん。」  それをきっかけに、お米は御膳をとりに行った。  酒が来ると、田原は一層はしゃいで、高調子のお 喋《しやべり》は正度《とめど》が無くなって来る。 「なあ、三田公。先刻《さつ雪》の娘《とう》はん素敵やったなあ。」  すっかり忘れていたろうと思ったのが、又からかう たねになった。 「お米さん、三田公はね、こんなおっかねえ、面《つら》あしゃ あがって、他所《よそ》の娘はんに参っていやあがるんだぜ。 物やおもうと人の問うまでなんて、自分でり.口ってやあ がるのさ・」  彼は面白がって、途上で見た娘の美しい事、三田が 叢しがって赤くなった事などを、一流の大袈裟《おゝげさ》な話ぶ りできかせた。 「何を、言ってるんだい、往来でゆきちがったばかりじ ゃあないか。」  三田は黙々として飲んでいたが、何となし思い当る 心持がして、つい真面口に取消す気になった。 「へえ、三田さんみたいな方でも、恋わずらいいう事 おまっかいな。」  お米は仰出《ぎようさん》に後へ反《そ》って、ほんとに驚いたように三 田の顔を見た。  三田は又不覚にも顔の赤くなるのを止め兼た。     三の六  田原が尾鰭《おひれ》をつけて話して行ったのを、宿の者は勿 論《もちろん》信じはしないのだが、全く変人あつかいにして居る 三田をからかうには、けっく面白い材料だった。 「三田さん、あんたその娘さんに、毎日道で逢うてで すの。」 「毎日って事も無いけれど。」 「何処の娘さんです。」 「知らない。」 「何処ぞへ勤めていやはるのと違いまっか。」 「それもわからない。」 「たより無い恋やなあ。」  そんな事を、三田の顔さえ見ればいうのであった。 それはお米ばかりでは無く、更に伝え聞いたおりかも おつぎも、面白がってからかった。しまいには三田の 方も此の話に擦れ切ってしまって、 「今日は朝も晩も逢えなかったから、気持が悪い。」  とか、 「今目はゆきにもかえりにも逢えたから、御銚子のお かわり。」  などというようになった。  あんまりのべつに安っぼくからかわれ、口分も冗談 口のたねにしているので、ひどくふざけた心持になっ てしまったが、それでも三田の本心は、もっとその娘 の事をよく知り度いと思っていた。  何時も出あうところは同じだが、それからさきはど っちの方角に行くのか、つけて見度いとも思った。夕 方かえりみちを待ちうけて、何処に住んでいるか、ど んな家なのか突とめ度いとも思った。しかし、そうい う軽々しい行いをしては、つゝましやかな娘に対して 由・訳無いなどとも考えた9  その娘と出あう道が、 一週間ばかり水道工事の為め に片側往来正になった事がある。いつもは西から東へ 行く三田と、東から西へ来る娘とが、双方左側の端を 通るのであったが、片側通行止の御陰で、擦れ擦れに 擦れ違う事になった。三田は汗臭い紺サアジを気にし ながらも、娘の胸のつゝましやかなふくらみや、まつ げの長い日の特徴などを、前よりもはっきりと認めた ばかりでなく、右の耳の下に黒子《ほくろ》のあるのも発見し た◎  たゞさえ工事の為めに狭《せば》められたところへ、荷卓が 通りかゝって、恰《あたか》もゆきあった娘ともろ共に、弔厄信柱 のうら側へよけなければならなかった時は、娘の袂《たもと》が 彼の手に触れて過ぎた。三田の心持の上で、その袂は 人肌のように弾力のある感触を残して行った。三田は 白分の手の中に、何時迄もその感触をとゞめて置き度 かったが、もとより愚《おろ・か》な願いだった。児戯に類すると は瓜いながら、その手の甲を唇に持って行った。自分 の汗の塩辛さの外には、阿等の味も無かった。  水道工事が済んで、道の広さが元の通りになると、 三田と娘とは、向側と此方側との端と端を歩く事にな った。なんとなく往来の幅が、広くなってしまった気 がして、掘かえされた土の色のまだ生々しいのに、ば らばら蒔《ま》いた小砂利《こしやり》の上を、三田はぶかぶかの靴で、 やけになって踏んで行った。 四の一  八月に入ると、三田は休暇を貰った。一年間に二週 間を公休日とする会社の内規だった。久振《ひ声しぶり》で東京に行 って見ようかとも考えたが、此の休暇を利用して長編 小説を書上げてしまわないと、これから年末迄の生活 費にも小遣銭にも困る事は明らかなので、肚《はら》を据えて 籠城ときめた。 「三田さん、あんたお休みにも御勉強だっか。湯.治か 海水にでもいんだらどうですか。」  と訊かれると、肩身の狭いおもいをした。此頃- 殊に大阪ではー休みといえぱ何処か・海か山に遊び瓣 に行くのがはやりなのに、狭くて暑い一室にとじ籠っ て、原稿の上に額の汗が落ちて洋墨《インギ》の滲《にじ》むような事も 度々ある有様は、なさけなくもあり、又悲壮でもあっ た。  宿の人は、彼が小説を書くという事は知らないの で、何か会社の仕事を持って帰ってしているのだろう と考えて居た。本を読むとか、字を書くとかいえば、 すべて勉強というほめ言葉をあてはめるのがおきまり だから、ふだんは気ぶっせいな、とっつき場の無い一二 田ではあるが、矢張うちに居る人だという一種の贔負《ひいき》 から、他人にむかっては、勉強家という一点でしきり・ ・にほめた。 『うちの一番の御客さんなあ、あんな感心な人も珍ら しおまっせ。朝から晩までちいんと机の前に坐って、 あてらにはわからんむつかしい事書いていやはるわ。 夜は夜で、十二時前に寝床《ねま》に入らはった事は無いのや で。一時二時になる事も珍らしい事あらへん。」  とおかみさんが第一に、自分の友達や、御花の仲間 や、時には出入の車屋や、八百屋にまで自慢した。  それにひきかえて、三番の大貫は、朝は十時頃に起 きて会社に出て行き、市内の診査をかこつけに早々帰 って来てしまう事もあるし、そうかと思うと会社の方 のおもてむきは地方へ出張する事にして旅費と日当を 貰い、実は半分は宿に寝ていたりする事もあった。 「大貫さん、あんたも三田さんのように早うに起きて 山勤せんと月給が上りまへんで。」  などと、女中のおこしている声の聞えて来る事もあ った。 「あんたも三田さんを見習うて、まちっと勉強したら どうですの。」 「三田さん三田さんと、若い男ばかりちやほやしやあ がって、怪《け》しからんぞ。俺様だって勉強しているん だ。いゝかい、そもそも医学上男女というものはだ ね……」 「きゃあ、誰ぞ来てえ。大貫さんがてんこうしやはる し。」  布団の中へ引擦り込もうとするのであろう、どたば た騒ぐ物音の、手に取るように聞えて来る事もあっ た。  相変らず看護婦が泊りに来る様子だった。おりかの 話では、お米もお相手をさせられる事もあるという事 だった。 「あのお米さんて人が、若いくせに大変なんですよ。 なんでも十四の年から男を知っているんだって事だも のねえ。」  自分達とは比べものにならない程きりょうもよく、 すべてに利口ではしっこいのに対し、おりかとおつぎ は攻宀寸連合の形であった。 四の二  看礎婦は小柄ながらに、眉毛の濃い日のはっきりし た、口の締ったきつい顔で、いかにも度胸のよさそう な女だった。男のところへ泊込みに来ても、誰をも憚《はどか》 る色が無かった。廊下であったり、縁側の籐椅子に腰 かけていると先方も縁側へ出て来たりして、三田も 屡々《しばしば》顔を合せたが、先方の方がおちつき払っていて、 此方の方が目をそらす位だった。女中などには無闇に いろんな用事をいいつけ、たまには大貫にかわって、 小臨.面をいう事もあった。  大貫の妻だという、ひょろひょろと背の高い、生際《はえぎお》 の薄い、出歯の女も見た。別れている夫に逢いに来る 為めか、夏の盛りだというのに、真自に臼粉を塗り、 着物の好みなども派手だった。  その日三田は何時もの通り、縁の籐椅子に腰かけて 新聞を読んでいたが、夫人は三番の部屋から何気なく 出て来て、思いもかけ・ぬ人間に驚いて直ぐに引込んで しまった。何かひそひそ話をしていたが、風の無いむ し暑い日なのにも拘らず、やがて障子をしめてひっそ りしてしまつた。 「いつも寝床《ねま》敷いてやすんで行かはるのだっせ。」  と女中の言ったのを思い出して、三田は浅ましくも 耳を鋭くしていた。  或日の如きは、夫人は四歳《よつつ》か五歳《いつレ》ばかりの男の子を 連れて来た。 「さ、あんたは縁で遊んでおいで。」  という声と共に、矢張り.障子はしまってしまった。 とことごとことこ小刻《こきざみ》にかける足音がしたと思うと、 せっせと原稿を書いて居る三田の目の前に、母親に似 て上唇の厚ぼったくとんがったひよわそうな子供が、 口尻によだれを垂らしながらあらわれた・たぎえ子勁 供好きのしない三田の顔を、怖《こわ》そうに見ている子供の 様子は、可愛らしくなかった。殊にその親どものふし だらにむらむらしている三田の大きな眼玉は、おのず から子供を睨むようだったQ  子供はロの中にキャラメルか何かを含んでいるらし く、白いエプロンに落ちるよだれは桃色だった。来る 途で買って貰ったのであろう、ヂグスのようなじいさ んの乗っている臼動車のおもちゃをしっかりと胸に抱 いていた。じいっと三田の顔を見返していたが、くる りと方向を転換すると、たどたどしい足取で逃げて行 った。  ほっとして、机に向直ると、間も無く又とことこと ごとこ駆けて来て、ばあとでもいい度《、、》そうに、三田の 眼の前に姿を出す。此方が愛.想笑でもするのを待構え でいるような様子だったが、三田は怖い顔をして追払 つた。けれども同じ事を繰返すうちに、子供の遊戯心 は反覆の律動《リズム》にぴったりとはまってしまった。三度目 に来た時は、大事に抱《だ》いていた自動・甫+を、三田の部屋 と縁側との間の敷居の溝に走らせて見せた。その小ざ かしさが憎らしくて、畜生と思いながら、三田は大袈 裟に拳骨を振上げて脅《おど》して見た。ところが、その誇張 した動作が芝居じみておかしかったのか、子供はげら げら笑い出した。  叱《し》ッ、あっちへ行け、というふりをして見せると、 子供の方でも手を振上げて、かえって三田の方へ近づ いて来た。三田が否々《いやいや》というつもりで首を横に振る と、子供もそれをうち消すように頭を横に振る。三田 はすっかり参ってしまって、思わず苦笑した。  子供はその笑を見逃さなかった。而手を前に突出す と、全然相手を甘く見た態度で、いきなりどしんとぶ つかって来た。驚いて向直った三田の懐《ふとこる》に、全身倒れ かゝる勢いで飛込んでしまった。 「よせったらよせ。」  三田は流石《さ'が》に声を憚りながら、しがみつこうとする 子供を胸から離したが、よだれにしめっぽいエプロン を、生温く掌《てのひら》に感じた。 「清、清。」  いったんしめた障子を残らずあ.け放す気配と共に、 母親の我子を呼ぶ声が聞えた。 四の三  そん氤な査の生活も長くは続かなかった。看護 婦が泊り込んで、例の通り正午迄寝込んでいたと。ろ へ・査左人が予供を連れて来たのである。  「あ、剛べさん、 一寸お待ちやして。」   台所で働いていたおつぎが、一奈レぼかり飛んで  "よらとするのを、帳場で煙輩を飲んで居たわかみさ 耐は・   「ほっとけ、ほっとけ。」   と小声で正め.て、   ぎあ・奥さんお上りやして、ぼんぼん、えらい大き  ゅうならはったなあ。」   准かすような御世辞を投げて、又悠々と煙を吹い  た。   「御免やす。」   夫人は何も知らないで、子供の手を引きながら二階  に上って行った。   「おかみさん、よろしおまんのか。」   「かめへん・かめへん。あてのうちは待合茶屋とは違 媚うさかい。」 娵持前の男性的の麌をしながら、おかみさんは少な からず痛快がった。 悶も無〜三階の二、番では騒動が持上った。階ドの帳 易にはよく聞えないが、ゴ.由の部屋には筒抜だった. 「あ.んた・これは何《Jr》という事ですの。」 「鴨箆ッ。何だって許しを得ないで人の座敷に入って 来だ21 どすのきいた太い声に続いて、怒に震えるきちゑ じみた叫びと同時に、子供が高《コ》く泣《ら》きHt疫《をノコリの》 「お前さんは出て行ぞおくれ。出て行け、けがらわ しい。」  「静かにしろ。みっとも無い。」  「みっともないのはあなたですが。こんなじごくを引 ずりこんで……」  「なんだと。貴様こそ恥痴らずだ。」 「恥知らずはそっちゃの事《こく》た。」  いつ迄も夫を…蠍譌して正まない妻に対して、内心す っかり閉口しながら、大貫は気勢を見せる為めに、  コ馬瓸ッ。{  「貴様こそとっとと帰れ。」  などと怒鳴って居た。看護婦はどうしたのか声も立 てず、子供は時々思い出しては、一段と声を.張上げて 泣いた。  梯チ段にも廊下にも、宿の女中や娘や料理人が、興 奮した様子で、しかも.面白そうに聞耳《ききみ」》を立てて居た。  だが、何時迄も同じ事を繰返すばかりで、解決はつ かないので、弥次馬は次第にあきて来た。いゝ気味だ と思いながら、微笑を噛殺していたおかみさんも、あ んまり埓《らち》があかないのに腹が立って来た。生来気の早 い方だから、一肌抜いでてきぱきとさばいてやり度い 心も動いて来た。うちの女中達に、自分のうでのある ところを見せてやり度くもあった。 「ほんまにしょうむない人達たらあらへん。」  と舌打しながら、おもたい体を起して二階に上って 行った。     四の四  あくびの出そうな顔つきで、部屋の中の騒動を立聴《たちぎき》 して居た女中達の、一斉に緊張した目に見送られなが ら、おかみさんは少なからず芝居がかりの気持で、三 番の襖をあけた。 「ごめんやす。」  部屋の真中・にたった一つ敷いてある布団の上には、 胡座《あぐら》を組んだ大貫と、二つの枕がのっかって居た。涙 で白粉を斑《まだう》にした夫人は、その裾《すそ》のところに半分膝を 乗せて、すっかり取乱した姿だった。看護婦は布団の 外に滑り出て、寝衣《ねまき》に細帯できちんと坐っていた。子 供は母親の背後の壁.にくっついて、泣きじゃくって居 た。  暑くるしい夏の一夜を、しめ切って寝ていたまゝ昼 過に及んだので、むうっと人臭いにおいが鼻を打っ た。おかみさんはその為めに一層腹が立った。 「大貫さん、あんた此の有様なんだんね。」  苦々しげに一座を見回しながら、ずうっと縁側の方 まで通って、蒸《む》されて腐ったような室内のいきれと共 に、此の人々の関係を唾棄《だき》するような手荒な調子で障 子をあけた。油を漂わす川水が、強い光を天井に反射 して来た。 「おかみ、まあうっちゃっといてくれ。直ぐにかたを つけるから。」  宿料の借があって、ふだんから頭・の上らない相手に 出て来られたので、大貫の声には力が無かった。 「,うっちゃっとけいうたかて、これがほっとけますか いな..」  おかみさんの男のような大きな声は、時にとって威 圧する力を持って居た。夫人も看護婦も男の子も、堅 くなワて息を呑んだ。 「奥さん、何もいわんと今凵は帰っとくんなはれ。こ ないな所でぐじぐじいうていやはったら御身分にさわ りまっせ。あとのことはあてがあんじょうしますさか い、ぼんぼん連乳ていんどくんなはれ。」  先ず、厄介者を一人々々片づけようと、おかみさん は、あさましい姿をして居る夫人の方に正面切ってい い出した。 「あては長々と御談義をする事はようしまへんで、わ がの胸によう問うて見とくんなはれ。大貫さんのして はる事がよう無いのはわかってあるが、それかという てあんたもなあ.、親御《おやこ》さんの手前は綺麗に別れた人や おまへんか、あてはそない聞いとります。そやったら なあ・、よそのうちへ来て、大きい声しやはるような事 は慎むのが人の道だっしゃろ。あては女学校へも行か んしょうむない女子《むなご》やけれど、物の理屈いうものは、 教育があろうと無かろうと、つゞまり同じ事やろうと 思うとりまんね。」  諄々《じゆんじゆん》と説得する積りは積りなのだが、声の調子を 低める事の出来ない性分なので、叱咤《しツた》するように聞え るのであ一った。 「なあ、腹も立ちまっしゃろ。無理も無いとはあてか て思いますが、悋気《りんき》したらあかんという事は、浄瑠璃《じようるり》 にもおまんがな。」  なんにも言わずに帰ってくれれば、後は自分がなり 代って大質の不心得を糺弾《暫ゆうだん》してやるというのがおかみ さんの言葉の内容だった。  細君は亭主にむかった時とはうってかわって、 一言 の返答もしずにうなだれて聞いて居たが、心の中では 口惜《くちおし》いのか、何時の間にか半巾《ハンケチ》を.顔にあてて泣いてい た。その泣.顔をみんなに見られるのがいやなのであろ う、おかみさんの言葉が切れると同時に、静かに立上 って身じまいを直すと・何もいわずに子供の手をとっ聯 て、部屋の外へ出て行ってしまった。 四の五  細君の後姿を見送って、自分の成功に満足したおか みさんは、 「さ、次はあんたの番だっせ。」  と看護婦の方へ向直った。 「おい、おかみ。わかったよ、わかったよ。」  大貫は意外に根強くやりそうなおかみさんの態度に 怖れをなして、嘆願するような、冗談にしてしまい度 いような調子でさえぎった。 「あんたには発言権はおまへ.ん。」  柄にない漢語をつかったが、冗談では無く大真面目 だった。 「あんた、あてに仰山ものをいわせんと、帰っとくん なれな。大貫さんの奥.さんを帰らせて、あんた丈とめ て置いたら、あてが奥さんに済まんよってなあ、喧嘩 両成敗いいまっしゃろ。」  す.っかりいゝ気持になって、からからと笑った。殆 んど、豪傑笑という形容があてはまりそうな高笑だっ た。  随分気丈な女ではあるが、看護婦も流石《さすが》に一言も無 く、畳を見詰めて固く坐っていた。 「なんだい、帰れ帰れって、そんな野暮《やぼ》な事を言わな くたっていゝじゃあないか。」  大貫が見兼て、又横合から口を出した。 「まだ寝ているところに気ちがい女がやって来やあが ったもんだから、顔も洗っていないし、飯も喰べやあ しない、お小言は後程ゆるゆる拝聴する事にして、朝 飯だか昼飯だか知らないが、何かしらお腹《なか》のたしにな るものを喰わしてくれよう。」  どうにかして話をそらしてしまわないと形勢|益々《ますまナ》険 悪だと見てとって、努めて甘ったれたような物言いを した。 「よろしゅおま。御膳の支度やったら夙《とつく》に出来たるさ かい、何時《なんどき》なりと上っとくんなれ。そやけどなあ、御 ぜんが済んだら早うにいんで貰いまっせ。」 「なにを言ってるんだい、君んとこは宿屋じゃあない か。そんなに人を追い立てるやつがあるもんか。」  大貫は冗談めかした調子で出,凵った積りだったが、ど うしたものかおかみさんはぐっと癪《しやく》に障《さわ》った。 「へえ、あてとこは宿屋だす。宿屋は宿屋に違いおま へんが、逢引宿とは違いまっせ。」 「なんだって。おかみ、少し言葉が過やあしないか い.、」  意識して、うんとどすをきかした立日声で言った。 「なんでだんね。逢引宿や無いいうたのが悪《わる》おまんの か。えらい済んまへんなあ。」  相手の態度に、反発して、おかみさんも苛立《いらだ》って来た。 「あんたはうちの御客さんに相違おまへん。先月のも 先々月のも未だ御勘定は.頂きませんが、御客さんには 違いおまへん。けれど、此の御方はあ.てとこの御客さ んではおまへんで。ちょいちょい見えて泊って行かは る事は知ってはいれど、ついぞ宿料も御茶代も貰うた 覚えは無い。お客さんで無い人に泊って貰う事はいら んさかい、さっさといんで貰いまっさ。」 「馬鹿、な事をいうなよ。宿料も茶代も払ったら文句は 無いだろう。」 「あきまへん。外の御客さんの.障《さわ》りになるような騒ぎ を起されたら営業妨害や。あんたにもいんで貰わんな らん。し 「なにを甚、]ってるんだい。そう興奮してしまっちゃあ 話が出来ないよ。おかみ、今口はどうかしているぜ。」 「あてはどないにもあらしまへん。今凵言おうか明 旦、Hおうか思うていた事を言うた丈や。なあ、大.貫さ ん、今迄|滞《メ.」ど.4》った宿賃なんか一銭も貰わんかてよろし いさかい、今日限りいんで貰いまっせ。」  おかみさんの山咼調子は激怒に震えて、一際《伊ときわ》家中に響 'で・存又つ 「こO 丿ξ汐  ヲノ 「あては面倒な事は嫌いや。今|直《つぐ》に御膳を持って来さ せるよって、飯《まL》喰べたらいんどくんなれや。よろし か。」  いい切ると立上って、大貫の呼正めるのを振切.って 部屋を出た。廊下にはうちの者が、みんな怯《おび》えた顔色 で様子をうかゞっていた。 「さ、早う御膳を運ばんかいな。いつもの様に、御銚 子つけてな。」  おかみさんは、ぐっとおちつきを見せて、事も無げ に帳場へ下りて行った。 四の六  其の日の午後、大貫の方は愚図々々に済ませる積り でいたが、おかみさんは如何《どう》しても出て行けといい張 るので、大貫も真剣に怒り出し、何だ彼だと激論のあ げく、ニカ月余の宿料と酒代其他の借金を残して、看 護婦と一緒に出て行った。その後姿にむかって、おか みさんは仰山に塩花を撒きちらかした。 「これでうちもせいせいした。矢張三田さんみたいな 堅い人がよろしいなあ。」  おかみさんは女中を指図して三番を掃除させなが ら、何のかゝわりも無い三田に聞けが七の高声《たかごえ》で喋っ て居た。  その日から暫くの間、三田は此の宿のたった一人の 客だった。  久々の休暇にもかゝわらず、朝から夜更《よふけ》迄机にむか って、小説を書続けて居るので、肩や腰が痛む位だっ たが、それでも会社で機械のように齷齪《あくせく》働いて居るよ りはましだった。  ところが、休が三日たち五日たち、あの娘とあわな い日が続くうちに、三田は何となく心寂しくなって来 た。朝と夕方と、いつも娘と往来で擦れ違った時刻に なると、黙って机にむかっては居られない焦燥を感じ た。自分ながら荒しいと思いながら、彼は朝夕散歩.に 出かけるようになった。  夜更《よふ》かしの甚《はなは》だしい三田は、平生《へいぜい》会社に行くのに余 裕の時間が無く、起きる、顔を洗う、飯を喰う、洋服 に着換《きかえ》る、靴を穿くーというあわたゞしいものであ ったが、朝の散歩の為めには、特にふだんよりも早く起 きた。何時も出勤時間に娘と出あう場所は大概きまっ て居るので、早目に宿を出て其の地点を通り越し、電 車通迄出かけた。此の朝の散歩の二日目に、娘が南の 方から梅田へ行く電車を降りるところを発見して、そ れと無く尾行し、まんまと其の勤務先《つとぬさき》をつきとめた。  それは宿を出て、娘と出あう通り迄行かないうちに 南へ曲る一筋の路の、小半町とも無いところにある、 日韮洋行という金看板を掲《カ》げた、昔の大店《おしだな》を今風に改 造したような、大阪特有の店構だった。冬は硝子のは いった重い開閉扉がとりつけられるのだろうが、夏の 事とて目かくしにつけた葭戸《よしど》を押して、娘の後姿は暗 い店の中に消えた。それ丈でもおもいを達した気がし て、三田ははればれした顔つきで宿に帰った。 「三田さん、昨日鵡今日も、えらい早うから御散歩だ んな。」  女中が何かからかい度そうな口をきくのを、 「どうも休になってから、ふだんよりも運動が瓶心いの で、お腹が空かなくてしようが無い。」  といゝ加減な返事をして、さっさと二階に上ってし まった。  夕方又時問を見はからって出かけた。口盛《ひざかゆ》に働く為 めか、朝よりも全体に汗ばんだような、疲れた風情《ふばい》が ひとしおよかった。先方が何も知らないのに、あとを つけるというのは、申訳が無いような気もしたが、大 通迄ついて行って、満員の電車にようやく乗込んだの を見届け.た。  口華洋行というのは、雑貨を支那に輸出する店だと いう事を調べた外には、何の発展する事竜無く、三田 はたゞ往来で娘にあう事を楽しみにしていた。    五の一 三田の長編小説「贅六《ぜいろく》」が完成したのは八月の末だ った。大阪に舞台をとって、大阪という商業都市と、 大阪人という金儲甲心の特殊の性格に、多少皮肉な批 評を浴《あび》一せながら、 士衣ゴ悶は写実的描写を以て、 加郡八Aの口 常生活の幾揚面を展開したものである。三田は幾度と なく繰返して読んで、なおあき足り無い節もあるには あったが、差迫って金も欲《ほし》く、又暑甲をつめて勉強し た疲労が気力を奪って、只管《ひたすら》休息を求める為め、予而《がねコ》 寄稿の依頼を受けて居た新聞社に持って行って、金に 換えた。  いったん纏《庄と}》った金が入ると、忽《オちま》ち気が大きくなっ て、身の程知らぬ豪遊をきめるのが三田のおきまりだ った。またゝくひまに素寒貧《すかんぴん》になって、年中みすぼら しいみなりをして暮らすのはよくない性分だと常々知 っては居るのだが、どうしても直らなかった。  新聞社を出ると、町角の自働電話で田原の会社へか けた。 「なに? 例の長編が出来上ったって。おごれ、♪こ れ。」  車両会社の重役は、急《たちま》ち書生時代の態度に変って、 頓狂な声を出した・ 「それなんだよ。若し今晩君がひまなら、久し振りで ゆっくり飲もうかと思うんだ。」 「よおし、飲もう。場所は? わかった。例の所か。」  話を切って、外に出ると、三田は勇んで宿に帰っ て、紺サアジを一帳羅《いつち「よう・り》に着換えた。 「お出かけだっか。」 「今晩は少.し遅くなるかもしれません。たぶん十二時 迄には帰る積りだけれど。」 「十二時が.時でも、お泊りやしても大事おまへん。」 「おたのしみだんな。南だっか、北だっか。」 「お早う御かえり。」  女中達が口々に何かいいながら送り出すのを、三田 は無言で受けて宿を出た。日暮方の川の面には、中之 島あたりから漕ぎ下って来た貸|端艇《ポ ト》が、不規律にゆき かい、うすら青い空には、蝙蝙《こうもり》がしきりに飛んでいた。  二田は北の新地へこゝろざした。元来《がもらい》彼の生真面目《をまコしめ》 な性分は、所謂《いわゆる》遊びをありのまゝに郭楽する事が出来 なかった。粋《eき》がったり、通《つ う》がったりする趣味は全然無 かったし、女と見れば物にしないでは置かない人々の 所業も、彼の内部にひそむ人道主義が許さなかった。 芸者に対しても或人々のように理想化して賛美する事 は思いもよらず、さりとて頭から馬鹿にする事も出来 ず、友達として取扱う外におちつくところが見出せな かった。 「三田さん、あんた何が面白おまんの。うたうたわは るのんでも無し、おなごはんしやはるのんでもなし… ...」  彼と田原が時々行く席貸のおかみさんが、ずけずけ と訊いた程、みんな不思議がって居た。 「別段面白いとは思わないね。いゝお酒を飲ませてく れて、地人が邪魔さえしなければ、関東|煮《ださ》で結構なん だ。」  というのが三田の返答だった。ー座敷がきれい で、おちついて酒が飲めるという事の外に、新地のお 茶屋も左程の魅力は無かった。  しかし、三田は少なからずいそいそして、新地へ足 を踏み入れた。臼分の勉強が四百枚の長編をしあげ、 それによって多額の金を得たために、何の心配も無く 酒の飲めるという事は、彼にとって何よりも楽しかっ たのである。     五の二  きれいに掃《工k》いたあとに打水をした敷石を踏んで玄関 にかゝると、 「まあ、三田さん、えらいお久しおまんな。」  と、顔馴染の年とった仲居頭《なかいがしら》が出て来て、奥の座敷に 案内した。 「今に田原が来るQそれ迄僕は寝ているから、何も構 わないでくれたまえ。お茶もいらない。枕もいらな い。」 「社長さん見えてですの。ほしたらあちらさんが御出《おい》 でやしてから御酒だんな。」  三田の気性を呑込んでいる仲居は、客をうっちゃら かして引込んでしまった。  広い座敷の中庭に近い端っこに座布団を出して、三 田は柱にもたれながら狭く限られた町中の空を見て居 た。東京風のおもてつきばかり堂々としていて、融通 の利かない建て方で無く、広くもない地面に使える部 屋を奥深く上手にとった上方の建築だから、市中の物 音は聞えて来なかった。仕事を済ませた満足は、限り 無く三田の心を安らかにした。 「社長さん御越しやしたぜ。」  仲居の声を聞いた時、三田はうとうとしていた。 「やあ、遅くなった。」  田原は入って来ると直ぐに上衣《うわ.ぎ》を脱いで、 「三田公、例の済んだんだってなあ.。ひとはこ位はい ったか。」  指先で円《まる》をこしらえて冷かした。 「すっかりくたぶれちゃった、しかし、重役になった ような気持だ。」 「何をいってやがんだい。なった事も無いくせに。」  無駄口を叩いているうちに酒が出て、若い芸者があ らわれた。 「いよう、はしけやし葉牡丹《はほたん》さんか。」 「なんだんねはっけよいいいまんのは。」 「俺と四つに組もうっていうんだよ。」 「社長さん、いけずやなあ。」  とられた手を振払って、 「三田さんおひとついきまし・か。」 「あゝ、実にいゝ気持だ。田原のような有閑T階級には 此の味はわかるまいが、大仕事をしたあとの酒程うま いものは無い。」  三田は口をきくのもものうい陶然たる心持で、盃の 酒を楽しんでいた。 「そんなにおいしかったら夜どおし飲んでもかめしめ へんで。今にお葉さん姐さんも来やはるさかい、お相 手もおまっせ。」 「あゝ、あの蟒《うわばみ》はたしかに、三田公に惚れてるよ。」 「あほらしい、誰が三田公なんかに惚れるもんか。」  突然廊下で大きな声を出して、当の蟒がやって来 た。 「さ、飲もう飲もう。今も他所《よそ》で、三田さんとおかし い言われて来たのや。なんでやろうなあ。」  さも不平そうにつぶやきながら、田原のさす盃をう けた。 「あては三田公が好《す》っきゃわ。しかしやな、好きと惚 れるとは違いまっせ。よろしか。惚れるのやったら、 まちっと気の利いた男に惚れるわ。」 「なんだい、もう酔っ払ってるのか。」  三田も盃をさした。 「あかん、あかん、こんなちっぽけなもので飲んだか ておいしい事あれへん。葉牡丹さん、コップ貰うてん か。」  蟒のコップ酒にはいつも辟易《へきえき》する三田も、仕事をし まった思い残りの無い心持から、その晩は強いて反対 しなかった。 五の三  三田や田原が蟒と呼ぶお葉は、広島の生れで、其処 で芸者に出たのだが、大阪に来てからでも、最早十年 になる。外土地《ほかとち》から来たといういわれの無い毛嫌《けぎらい》で、 兎《と》に角《かく》一流の仲間入をした今でも、兎角陰口をきかれ るのであった。当人にして見ると、生来の負けぬ気か ら、毛嫌されると知れば知る程芸事にも人一倍|励《はげ》ん で、ひけをとるまいとするのが、時には喧嘩面になり 兼ない。いい出したら後へはひかず、お客だろうがな んだろうが、気に喰わなければぽんぽんやっつける。 酒を飲むと止度が無く、自分自身面白くなって、つと め気は無くなり、酔つぶれる迄飲もうという気性だっ た。その癖|頭脳《あたま》が明敏で、三田のような異種《かわりだね》を取扱う こつも心得、又|猩々《しようじよう》だとか蟒だとか言われる大.泗旧飲 みに似合わぬ親孝行兄弟おもいで、弟は東京の大学に 通っていて、問もなく学士になるという事だった。 「こう見えても武士のたねだっせ。あては芸者みたい なしょうむないもんになった体だから、一生一、一昧線持 って暮らすけれど、弟やみなはちゃんと教育して一人 前の人間にせんならん。」  と酔った口でいう事があるが、そういう時は白慢す る気色《りしき》は少しも無く、我が身を寂しがる色が見えるの であつた。  少し乱暴なのには閉日する事も多かったが、万事て きばきと切って回し、御世辞や御座《おざ》なりが無く、傍若 無人《ぼうじやくぷじん》な酔体も、三田の面白がるところだった。 「あゝ酔うた、酔うた。三田公、あて酔払っちゃった よ。」  蟒は熱燗《あつかん》のコップ酒が回って、蒼白い顔が一層蒼白 くなり、呂律《ろれつ》があやしくなってきた。 「ちっとも珍らしくないよ。」  それに引かえて、三田は最初こそ陶然とした気持だ ったが、充分酒が沁みて来ると、かえって体もきちん ときまって、膝も崩さずに盃を熏ねていた。田原はと っくに落城して、座布団を枕にして寝てしまった。 「なに、ちっとも珍らしくないだと。そんならそれで よろし。あてはあてで勝手に飲む。」  手酌《てじやく》でコップになみなみ酌《っ》いだと思うと、ぐぐぐぐ と一気に干した。 「さ、あんたも景気よく飲みいな。お店《たな》の小僧さんみ たいにお膝に手を置いて、かしこまっていられたら窮 屈でかなわん。」 「それで窮屈なのかい。あんまり窮屈らしくも見えな いぜ。」 「いゝえ、窮屈だ。人が何といおうとも、あては窮屈 で窮屈でたまらん。第一この着物《きりもん》や帯が窮屈だ。」 「そんなに窮屈なら裸体《ほだか》になるさ。」 「かめしめへんか。」 「かめしめへん。」  蟒の長身が立上ったと思うと、するすると帯を解 き、膚物を脱いで長襦袢《ながじゆ.ば人》の胴中に伊達巻《だてまき》をきつく締 め・足袋もと・て座敷の繭にほうり山した・ 「これでどうやらいきかえった。これからあてと三田 公と、あしたの朝迄飲みくらべや。」  蟒は又コップを取上げて、それを三田にさしつけ た。 「いやだよ。僕はコップは嫌いなんだ。どういうわけ だか猫と慈姑《くわい》と牛乳と生玉子とコップが嫌いなんだ。」 「あほらし。コップが嫌《いや》なら湯呑にしたらえゝ。」 「それぞれ、その湯呑も嫌いさ。」 「そんなら茶碗。」 「その茶碗も・:…。」 「えゝ男らしく飲みいな。」  蟒はしんからじれったそうに、なみなみついだコッ プの酒を、ゴ.田の鼻先につきつけた。     五の四  酔えば屹度《きつと》始まる蟒の無理強いに、三田も盃を捨て てコップで飲んだ。宵の口から賑やかに騒ぎつゞけて 居た二階の大一座も散会したと見えて、一二味線も歌の 声も聞えなくなった。時々お銚子のお代りを持って来 るおちょぼの外には誰も顔を出さず、葉牡丹も何処か の座敷に貰われて行ってしまって、家中がぐったり疲 れたような感じがした。 「あゝあ、寝た寝た。ぐっすりねちまった。」  狸《たぬき》なのかほんものか、二時間近くも眠っていた田原 がむっくり起きた。 「おい三田公、俺は失敬するぜ。」  田原は酔えぱ寝てしまい、目が覚めれば直ぐ帰るの がおきまりだった。 「いや待てよ。うどんを喰って行こう。素饂飩《すう・ど入》という やつをな。」  誰も相手にならないので、自分で手を叩いて注文、し た。それが来ると、さもうまそうに三つ平げて、思い 残す事も無く立上った。 「おい蟒、これから三田公を口説くのか。」 「あほらしい。あんたみたいなねむってばかり18る人 は、とっとといんで貰うた方がえゝ。今夜はあてと三 田公は御刀見や。」 「けなりい、けなりい。」  田原は大きな欠伸《あくび》をしながら行ってしまった。 「僕も帰るよ。十二時迄には帰ると宿に断って来たん だから。」 「帰さないよ。」  蟒は空うそぶいた。 「   あした  }廷`目  「あっ   言葉  どつこ  戸詞の  た。  「降参  るとこ  「あほ  しない  「それ   三田  た。  「あん  「帰る  「帚さ  丿   いう断三田の癲で・つ》は又勒〃があるんだからね。」 「あったって…構わないよ。」  言葉尻に「よーとつける時は、蟒は大阪人の所謂|江 戸詞《えどつこ》の積、りなので、これ込酔払ってから出す癖だっ た。 「降参してあやまるから帰してくれ。そんなに引止め るところを見ると、さては惚れてるな。」 「あほらしい。あんたみたいなへんちきちんに惚れは しないよ。あてには頭の禿《はげ》たえゝ人があるんだよ。」 「それじゃ共の禿頭によろしく。」  三田は始めから坐り通しで、癖《しびれ》の切れた足を起し た。 「あんた、ほんまに帰丱らはるのか」。 「帰るよ。」 「帰さん。」  いうかと思うと長いからだを半分起して、いきなり 三田の袂をつかんだ。酒で正体が無くなっているの で、つかむと同時に全身の孟昧で倒れかゝった。袖つ けから辛・分ぼかりびりゝと綻《ほころび》が切れ、三田もはずみ をくってよろよろと搬をついた。 「よし、それじゃあ一時迄と堅い約束をして飲もう。」 「けち臭い事いうてはるなあ。よろし、負けてやろ。 そのかわりコップで、こないして飲むのだっせ.あて が飲む、あんたが飲む、あてが飲む、あんたが飲む、 あてが飲む、あんたが飲む。おゝしんど。」  蟒は我意を通して三閏を引止めたので、すっかり機 嫌がよくなって、そこらに林立するお銚.十を集めて坐 り直した。 五の五 「おい三田公。今夜は夜あかしでお月見しましょう。」 「そんな奴があるもんか。午前一時迄とちゃあんと約 束したじゃあないか。」 「約束したにはしたけれど、あて面・目くなって来たの だもの。あ.んただって、たまにはつきあってもいエだ ろう。」 「これだけつきあう御客はまずあろまいぜご 「そこが三田公のえゝとこや。」 「そんなら惚れたか。」 「あほらしい。あてには……」 「禿頭のいゝ人がいるだろう。」 「ほんまにいな。そやけどなあ、あては三田公が好き なんやわ。三田公だって、あてが好きで無い事は無い のやろ。」 「好きだよ。大好きだよ。好いた同士さ。」 「そんなら好いた同士で飲みあかそう。よろしか。」  蟒はすっかり舌が利かなくなって、同じよう.な事を 繰返しながら、それでも手を叩いて酒を呼ぶのであっ た。三田も酔って、もう一滴も欲く鉦酬かった。口丁く宿 へ帰って寝たいと思うばかりだった。外の座敷の雨戸 をしめる音が、あてつけがましく聞えて来た。 「えらいお仲がよろしゅおまんな。」  しきりに蟒が手を叩くので、先刻《さツき》から姿を見せなか った仲居頭の年寄が、両手にお銚子を持ってあらわれ た。 「なんや、二本ばかしの御酒なら無いも同然や。もっ と仰山持って来とくれやす。」 「よろし、そんなら一|打《ダース》ぼかり持って来まっさ。」  気のいL仲居はもう一度台所へ引っ込んで、ほんと に沢出のお銚子を運んで来た。 「さ、三田公。あてが飲んで、あんたが飲んで、あて が飲んで、あんが飲むのだっせ。」  蟒は第三者が見ていると思うと、一段と勢いづい て、コップを干しては直ぐにさした。あまりのしつっ こさに三田も面倒臭くなって、さされれば飲み、飲ん では返した。 「えらいやっちゃ、えらいやっちゃ。」  夏祭の花車《だし》や神輿《みこし》を取巻いてはやすように、仲居は 団扇《うちわ》を叩いて驚嘆した。 「もういけない。もう全く飲め無い。約束の時問にな ったから帰るよ。」  三田は時計を出して見た。 「いかん、あ.んたが帰ったらあてが寂しゅうなる。」  蟒は又袂を捉えて放さない。 「よせよ。いゝ加減にしないと怒るよ。」 「怒るなら怒って見ろ。どうしても帰るというのな ら、頭からお.酒をぶっかけてやるよ。」 「それ丈けは堪忍してくれ。これがたった一枚のよそ いきなんだから。」 ユ《「聿崕ノ酒 ノ》|も 「坿詮し右《隔、》レよ」 「勝手にしろい。」  少々芝居がかったかなと、三田口身が思った程きっ ぱりしたが、蟒はぐっと癪にさわったらしく、いきな り熱燗の徳利を取ると、三田の頭から=凩にぶっかけ た。 「あれ、お葉さん、なんすんのや。」  仲居はびっくりしてとめようとしたが、蟒は止めら れるとかえって我意が強くなるたちだった。 「かめへん、かめへん。あてが寂しゅうなるから帰っ たらいかんいうのに、帰るいうような旋毛《つむじ》まがりの根 性を直してやる。」  いいながら又一銚子三田の頭にそ玉いでしまった。  三田は黙って坐っていた。着物を通し、孺袢を通 し、じっとりと素肌迄濡れてしまった。頭髪《あたま》の中を這 って、額や頬辺《ほつぺた》を伝う酒の雫《しずく》は、襟頚《えりくび》や懐に流れ込ん だ。怒るだろうと思った三田が黙っているので、蟒は 張合がぬけてしまった。 「もう帰ってもいゝだろう。これ丈けつとめれば許し てくれてもいゝ筈だ。」  三田は暫時《しばらく》して、冷静な態度で言うと、乱箱《みだればこ》にたゝ んであった羽織を.濡れた着物の上に着て立上った。 「三田さん、待って。あても一緒に行く。」  座敷を出ようとする時、後《うしろ》から蟒が呼び正めた。 五の六 つ二旧さん、よう堪忍しやはりましたなあ。」  廊下へ出ると、仲居が声をひそめて、気の毒そうに いうのだった。 「あの芸妓《げいこ》は酔わんとえゝのやが、酔うたらどもなり まへん。せんどもうちの御客さんがいやらしい事いう たとかで、えらい怒らはってなあ、横ずっぽうを叩い たりして弱らされました。それが警察署の何たらいう えらい御役人さんでなあ。」 「酔った時は為方が無いよ。お互に二三升ずつも飲ん でいるんだから。」 「そやけどなあ、あんた御気味悪い事おまへんか。う ちの獲と着かえはったらどうだっしゃろ・」 「夏の事だ。水を浴びたような竜のさ。」  三田はそのまゝ玄関に出て、一度しまった門の潜《く9り》を ・あけて貰って往来に出た。 「三田さん、待って。」  着物を着た蟒が、帯をしめながら追かけて来た。  月のいゝ夜だった。更《ふ》けた町を通る人影も少なかっ た。軒を並べる茶屋のおもても、 一様に大戸が下り て、宵のうちの賑やかさの後だけに、新地の真夜中は ・寂寞《せきばく》たるものがあった。 「君のうちはそっちだろう。僕とは反対だ。」  三田は蟒が酔のさめた顔をして、先刻の乱暴を恥 じ、自分に対して済まなく思っている心を見てとっ た。その心で送ってでも来られては窮屈で堪らないと 思った。 「三田さん、あ.んたほんまに川べりの雁木《がんぎ》へ行って、 あてと一緒にお月見しましょうよ。」  蟒はもう少し前迄の乱暴なところはなくなって、妙 に静かになってしまった。 「それは此の次にしよう。麦酒《ピ ル》とサンドウィッチでも ・とゝのえて、舟で淀川をさかのぼるのもいゝかもしれ ・ない。」 「今夜はどうして竜あきまへんか。えゝ月夜なのにな あ。」  感慨深い様子で、中空.に蒼白い顔を向けた。 「此の次にしよう。僕はすっかりくたぶれちゃった。」 「そんなら御宿迄送って行こ。」 「よそうよ。第一君の足もとは余程危ないぜ。」 「大事おまへん。」  何といっても送るというので、 「そんなら橋の所迄送って貰おう。橋のまん中で月を 見て、北と南に別れるのさ。」  それで蟒も納得して、二人は並んで歩き出した。夜 風が通る度に、頭から浴びせられた酒が肌であったま って、異様な香《か》を立てるのが強く鼻をついた。  新地を出て、電車路にそって、約束の橋の上迄来 た。一筋の川に砕ける月を、欄《らんか》.干《ん》につかまってのぞい て見た。川上も川下も、烟のように朧《牡ぼろ》に、水底《みなそこ》のよう に蒼かった。 「なんだか寂しいなあ。」  三田は酔がさめて、 腸迄《はらわた》月光が沁みるような気持 だった。 「ほんまに育膵うものは礬しゅ靈んな。あ鷹 雛窮嬬贋梅塾炉鋪補 頃に歌った妻んぞ思い出舅、んな。」   蟒は楼幼い時のまら、驚な倉迄を追想す、る らいく・何時迄も月を礪陰、佇んでいた。  「もう二時だ。さよならにしよう。」  「あけ力迄此処に斯うしていたいなあ、」   聽るように單につかまっ奈、奮い返して、  「そんなら握手しましょう。」   と手をさし出した。三田は固く握って振って、その  宦ゝ別れて歩き出した。      六の一   三田さん、今凵は休まはりまんの。起きんとよろし ゅおまっか。」  ついぞ讐事で、前後不覚に眠っているのを起され た・深酒と睡眠不足で、頭も上らな蠡疲れて居た。 綱噌欝撚謙軽つ蕨ゆ譲 かった。 「乍免よえらい悟うてでしたなあ。おもてをどんど々, 敷旧榔つて・く・りをあけると、古、あざつでっし 刷ろ・むうっと御.酒のかざがして、べべはぐしゃぐし. ・に濡れてあるし、えらいこってしたぜ。」 三田の枕もとに坐り込んで、おつぎはさも面臼そう に笑うのだった。あん・の沢山詰め込んである束髪 も、Fい変っている目も鼻も口も、三田の日にはたゞ 劇艦と映《ノコ ーノ;「》るばかりだった。 謂あM三田さん・ほんま採まはるのやったら奉 おまへんけどなあ、会社へ行かはるのやった、b起きん とあきまへんぜ。」 「よおし、起きるよ。」 り齢払礁鏃鱗睡駿当貿 らと倒れかゝった。  「危《あむ》ない。」  おつぎは又全身を波打たせて笑った。三田がよろけ か㌧た身を支義壁には、酒びたしになった一帳羅 の微総が・蕪拶両肩を張つて、四農.て懸. て居た。  三田は手拭をひっつかむと、逃るように地下室の洗 面場へ下りて行った。台所の連中からも、一斉に冷か された。頭から二三杯水を浴び、全身を冷水でごしご し拭いて部屋に戻ると、掃除も済んでお膳が出た。ま るっきり食欲は無かったけれど、ひけめを見せるのも 癪にさわるので、無理にお茶漬を流し込んだ。 「あんた蟒さんにつかまって、飲まされたのと違いま っか。三田さんも色男やなあ。」  おつぎはお給仕をしながら、しきりに昨夜の事を訊 き度がった。 「飲まされたには飲まされたに違い無いが、もう飲め ないと言ったら、頭からぶっかけられちゃった。」 「えらい女《おなご》はんですなあ。お客さんとらまえて、その ような事する芸妓《げいこ》はんがおますかいな。それでお商売 が出来るのやろか。男はんいうものはほんまに甘いも んやなあ。」 「どの男もどの男も、頭から酒を浴びせられるわけで はないんだ。僕のような特別御気に入りの男が、そう いう光栄に浴するんだよ。」 「へえ」、あんたが蟒さんの御気に入りだっか。」 「大好きなんだそうだ。」 「矢張り惚れていやはりまんのやな。そやけれど、惚 れた男になんで御酒かけたりするのやろ。」 「惚れてはいないそうだ。僕も惚れられているのでは 無いかと思われる節《ふし》があったものだから訊いて見た が、断然惚れていないという返事だった。どうせ惚れ るのなら、あんたみたいなへんちきちんで無く、まち っと気の利いた男に惚れますって言ったよ。」 「三田さん、あんた・-…」  おつぎは脇腹をおさえて笑い倒れた。三田にして見 れば、宿酔で参っているところを見せまいとして、強 いて言葉数も多く、冗談口もきくのだったが、平生だ. んまりやで通っているので、その冗談の効果は一段と 大きいのであった。おつぎはころがって笑った。     六の二 「あの着物《きりもん》このまゝにしといたら、着られしまへん、 で。仰山御酒が浸みたるさかい、洗張《あらいばり》にやって、縫直 して貰うたらどうでっしゃろ。」  よらやく笑い止んだおつぎは、着物の瓢になると他 人の竜のでも粗末にはしない女の根性で、真商昌に心 配するのであった。 「あれがたった一枚の他所行《よそいぎ》だったが、むざんなめに あわされちゃった。なんとかなるものなら、なるよう にして呉れ給え。近所に縫物をする人があるだろう。」 「へえ、別嫗《レつぴべ》ハさんの娘さんもわまっせ。」 「そんならその人に頼んでくれ給え。どうせなら汚な らしい婆さんの手にかけるよりも、別嬪さんの方がい いからねえ.」  三田は宿酔の重たい気分を鞭《むち》うって、会社へ出勤す る為めに洋服に着換え始めたが、おつぎはゆったりと 坐ったまゝ、なかなか御尻を持上げ無い。 「三田さん、あの娘さん知ってはらしまへんか。何時 もうちの裏の川べりで、洗濯していやはりまんが。」 「知らない。そんな別嬪さんがいるかしら。」 「なかなかえ}女《おなご》だっせ。細《ほつぞ》りした姿で、あれが柳腰 いいまんねやろ。」 「へえ、大したもんだね。何処の娘さん?」 「あんたが会社へ行かはる時通らはる、あこの耶蘇《ヤソ》の 真向《圭`ぴ》の家《らのり》に、お父さんと二人きりで住んでいやはりま す。」 「ついぞ、そんな娘さんを見た事が無いがなあ。」 「その娘さんいう人がなあ、いろいろ噂《うわさ》のある人です ね。」  おつぎは、ネクタイを結びながら、うわの空で聞い ている三田の態度にあきたらず、どうかして話に興味 を持たせようとするのであった。 「そりゃあ年頃の娘さんで、しかも柳腰と来れば、ち っと位の噂はあたりまえじゃあ無いか。岡焼《おかやき》半・分い」 人があるとか無いとかいうんだろう。」 「いゝえ、そんなんと違いますわ。もっともっとえら い噂ですが。」  話の根太・を手取早く出せばい瓦と思うが、 一方は出 し惜んで、なんとかかんとかもったいをつけて話すの であった。 「あては嘘やろと思うのやけど……」 「何がさ。」 「その噂ですがな。」  おつぎは矢張奥歯で噛み殺していて埓《らrち》があかない。 「なんだい、えらい噂って。まさか夜中に化けて出る とい2ー・のでも無いだろう。」 「ところが、それですがな。化けて出るいいまんね ぜ。」  相変らず笑の外には表情を知らない相手だから、噴 出《もきだ》すのを堪《こら》えているような顔付ではあるが、あまり意 外な返事に三田も驚いた。 「へえ、化けて出るって? 行灯《あんどん》の油でもなめるのか しら。」 「さあ.、何をなめるのかしりめへんけれどなあ、晩方 から綺麗に御化粧して、出て行かはります。」  おっぎは持前のほがらかな声で笑った。 「なあんだ、そんな事か。僕はほんとに化けるのかと 思った。」 「ほんまに化けるのと違いまっしゃうか。お昼間は御 仕事して、夜は御化粧して何処やらへ行かはるのだっ せ。」 「はっきりいえば淫売かい。」  出勤の時問を念頭に置いて、三田は話にきりをつけ ようと思った。 「まず、そんなところでおまっしゃろ。」 「よし、その淫売さんに頼もう。」  三田は壁に懸っている酒びたしの着物を指さして、 扨《さ》て紺…サアジの暑苦しい上浩を着て、宿酔のだらけた 頭とだらけた体を会社へ運ばなければならなかった。 六の三  三田が会社へのゆきかえりに通る、教会の真向の家 というのは、二階建の二軒長屋で、天井の低い二階も 階下《した》も、おもてく向いた方はすべて格子造《こうしづくり》で、それを 紅殻《べにがら》で塗り、入口のくゞりの中は土間になっていて、 裏日迄つきぬけているといったような古風なものだっ た。格子窓の障子のあいている事はあっても、内部は 光線が充分はいらないので、人が居るのか居ないのか わからなかった。屋根も廂《ひさし》も、恐らくは土台迄も傾い た古家で、此の新しいもの好きでは今正に東京を凌駕《りようが》. して.亜米利加《アメリカ》に追随しようという大阪に、不思議にも 多く残っている景色である。近松や.西鶴の描いた時代 から、今日迄山11{腐れつゝ焼残ったものであろう。  その長屋から前帯結んだおかみさんでも出て来るの なら似合わしいが、年ごろの綺麗な娘が住んでいると は・ついぞ慨わない事苳った。蕾騫3、の話を開 いてから・特に注意して見るようになった。今迄は気  が付かなかったが、窓の格チには、御仕立物と書いた  ち.いさい木札が出て居た。   1.日ばかりたって、仕立葭砂御召縮は、.二mの机の  上に載っていた。  「教会の翁向の,娘さんがしてくれたの?」   「へえ・あんさんが別嬪さんの手にかけ度いいわはっ  たよって、あてが行って頼んで来ました。」   おつぎは新しい興味を此の仕立直に持って、しきり  に微笑をつゞけている。   「僕は管気をつけているんだけれど、ついぞその娘  さんを見た事が無い。」   「ほんまだっか。あちら憎は一、.出さんを知っていやは  りまっせ・あんたとこの膩の大きい、紺の洋服着て、  薩に歩いて行かはる馨さんでっしゃうと、。ない   いうてはりましてん。」 鋸三田は顔蘓くなった。何時の問にか先方が知って 娵いたのが羞しいのでは無い。眼玉の大きいのを箜に 認められたのも為方が無い。人よりも.六跨なのも特徴 であろう。しかし紺サアジが印象を残しイ、・いる事はな さけ.無かった。 「そうかしら、僕は全く知ら.ないがなま.」  三田はそういうより、.口葉が無かった。 「あてはなあ、あの娘さんと、長い事かしゃべりして来 ましてん。お母さんは早うに.死なはるし、お父さんい う人は、心臓とかが悪うて、永い事寝てい画、はるさカ い、娘き・んも気の毒ですわ。きりょうがよろしいばか りで無く、ほん心だての優しそうな人でっせ。あのよ うな人が、なんで恥かしいお商売なんぞしやはるのか しら・ん。」  「そんな商売をしているかどうか訊いて来たのかい。」  「なんぼあたしかってその様な事は訊かれへん。それ でもあんまりおかしいから、夜分もおうちですかと、 こないいうて見ましてん。」  よくもそんな事が訊かれたものだと、,.語出は斯うい う連甲の押して行く力の強さに驚いた。  「ほしたらなあ、夜分は御稽古に行くと、こないいう てはります。」 「何の御稽古だって。」 「謡《うたい》の御稽古.だそうだす。」 「謡?」  三田はあんまり意外な話に、思わず笑が込み上げて 来た。どんな娘だか知らないが、病父を抱えて困って いるのが、色をひさがなければならないのは哀れであ る。特別の技能の無い女のうでで、一家を支える事は 外に方法があるまい。当人は世問の思惑《おもわく》を憚《はゞか》って、身 を恥じて居るに違い無いのに、つけつけと問糺《といた讐》されて は湛るまい。その場限りの出まかせに、稽古に通うと いったのを、.吏に立入って訊かれた為め、何を考える ひまも無く謡と答えたのだろうが、義太夫か常磐津《ときわず》な らばいざしらず、あんまりとんちんかんなのが可笑《おか》し かった。気の毒だとは思いながら、三田は失笑を禁じ 得なかった. 六の四  朝、会社に行く時と、夕方会社から帰る時と、大概 毎口出あうH華洋行の娘の事も忘れなかったが、昼は 仕立物をし、夜は謡の稽古に行くという教会の真向《ま8かい》の 家の娘も、三田の好奇心を離れなくなった。  或朝、三田は紺サアジの服と、ぶかぶかの靴を気に しながら歩いて行くと、その家の格子窓のところで、 針仕事をしている娘を見た。今迄にも、そういう揚合 はあったのだろうが、三田の方で気のついたのは始め てだった。ほんの一瞬間だったから、顔立ちも何もわ からなかったが、銀杏《いちようが》.返《えし》に結ったほっそりした娘で、 行人《こうじん》の足音に目をあげて往来を見た時、三田の視線と 視線が合った。おもいなしか、その娘が日乖洋行に通 勤する娘に似ているように思われた。  その時から、格子窓の中の娘を見かける事が多くな った。夕方、格子につかまって往来を見ていた時は、 三田に対して挨拶しそうな気もした。そんな事がある 屯のかと思いながら、仕立物を頼んだ事に結びつけ て、挨拶・をされても差支《ざしつか》え無いと、勝手な事も考え た。  日曜の事だったが、三田が机にむかって本を読んで 居るところへ、おつぎがあわたゞしく呼びに来た。 「三田さん、三田さん。早う来てごらん。」 「なんだい、何処に行くのさ。」  三田は折角夢中になっていた本を閉《とじ》る気にならない で、さも面倒臭そうにふり向いた。 「早う、早う。えゝもの見せてあげる。」  おつぎはいきなり三田の手を取って引起し、そうさ れるとわざとにも渋って見せるのを、ぐんぐん引っ、張 って縁づたいに、三番の部屋の前迄つれて行った。其 処の縁側のはず.れから、欄《ご ↓9》、号《り》につかまって身を延ば し、顔をつき出すと、隣の空地が見えるのである。 「さ、あこを見「てみなさい。し  後から背甲を押して、自分も三田と首を並べて突出 した。 「おみっつあん、洗濯してはりまんの。」  大きな声輪、呼びかける日の下の川岸《かし》にしゃがんで、 洗濯をしているのは教会の真向の家の娘だった。しゃ がんでいるまゝで振仰いだが、腰をあげて、端折《はしより》上げ た着物の裾をおろすと、かぶっていた手拭を取って軽 く頭を下げた。  三田ははしたない自分の居場所に面くらって、顔を 引込めようとしたが、おつぎは.御白がって大きな体に 重味を加えて放さない。 「あのなあ、三田さんがなあ、あんたに遊びに来てお・ くれやすっていうてはりまっせ。」  おつぎはすっかり調子づいて、生れついての刧《ほがらか》な 声でからかう。 「へ占ん、大.を」に。」  娘はしょう事無しに笑顔を見せて又頭をさげた。 「いけないよ、そんな事いってからかっちゃあ。」 「かめしめへんがな。「  何の積りか二田の背中をどしんと叩いて、又娘の方 に声をかける。 「ほんまだっせ。遊びに来とくれやすや。」  娘は何かいわれる度に、笑顔をつくってはおじぎを するのであった。下宿の二階から二三人の学生が顔を 出して、下の井戸端で洗い物をしている近所の娘など にからかっている景色をむかし見たが、丁度それと同 じだった。三田はすっかり閉日して、満身の力を籬《こ》め ておつぎの手の甲から逃れ出た。  日華洋行の娘に似ているような気がしていたが、そ れは銀杏返繕っている事と背の高い礁丈で・顔音節 違っていた。笑うと眼のなくなってしまうような、た だたゞ弱々しい可愛らしさで、美しさは比べものにな らなかった。けれども、顔色の蒼白く冴えない、胸の 病気でも出そうな体質などが、若しもほんとに夜のあ きないをしているとすれば一段と哀れが深く、そこに 三田の心を誘うものがあった。 六の五  貴夫人令嬢芸者ーすべてきらびやかなみなりをし て、無反省におもいあ.がって居る女.を、三田は好まな かった。芸者にはまだしも、身の上の哀れがともなっ ている丈いゝところもあるが、しかし大概は心懸が悪 く、さも贅沢な育ちをして来たような.顔をして、得意 そうなのが不満だった。おいらんはあまりに悲惨で、 彼には近づく事が出来なかった。享楽主義の文学が全 盛を極めた時代には、吉.原や洲崎を知らないでは恥辱 のように思う文学青年が多く、彼もしきりに誘われた が、持って生れた人道主義と感傷主義《センチメンタリズム》が承知しない で、遂に足を踏入れた事が無い。  そんな心持の多分にある三田の想像では、おみっつ あんという娘が、硯友社《けんゆうしや》時代の小説にでも出て来る、 親孝行で優しくて、身を売って病父の薬を購うという ような、古風な哀れっぼさで取巻かれている女主人公 になってしまった。かりに口分にどっさり金があると して、月々充分のしおくりをして親子の者を安楽に暮 らさしてやる。勿論白分は娘に対して何も要求しな い。好きな人があるなら一緒にしてやる。万一、先方 が自分の好意に感謝するあまり、本気で自分が好きに なって来たら、その時はいっしょになる。 一面極めて 理想派なる三田は、そんな空想をもほしいまゝにし た。 「三田さん、おみっつあんなあ、あんたの事を男らし い人やいうてはりましたぜ。」  おつぎは其後も面白がって、しきりに其の娘の話を した。たぶん先方に行っては、自分の事を話して居る のだろうと思うと、いゝ気持はしなかった。 「あの人なあ、ほんまに謡の御稽古していやはりまん ねと。むこのうちの前を真直に南へ行くと、ちっさい 橋がおまっしゃろ。あの橋のねきの饂飩《うどん》屋の路地をは いったところに、なんたらいう謡の先生があって、其一 処へ通うて行かはるのだっせ。」 「ふうむ、謡とは不思議だなあ。」 ㎜、それというのがお父さんが以前はえらい謡道楽にお ましてんと。そやさかい、みっちり御稽古して病気の お父さんに聴かせてあげるのやと、白身いうてはりま っせ。」 「そんなら淫売だなんていっては甲訳が無いじゃあな いか。」  三田は娘の為めに義憤を感じて、強い語調で謡《な し》っ た。 「いゝえ、それはそれですがな。」  おつぎはあわてて打消した。 「その謡の先生いう家が、た史の家とは違いまんね ・と。奥に離室《はなれ》座敷があって、おみっつあんみたいな娘 さんが、五人も六人も集まって来るしくみになってい ますそうな。うちのおっさんが、饂飩屋で聞いて来や はりましてん。」  その話を聞かされて、世の中に存在するいやな事に 憤《おこ》り度《た》い心持と共に、娘はひとしお気の毒に思われ た。  三田は夜涼《やりよう》にかこつけて、おつぎに聞いた橋袂の饂 飩屋の前を通って見た。路地の奥は袋地らしく、突当 りの家の軒灯に謡曲指南と書いてあ.った。ひと回り近 所を歩いて来ると、橋の上には団扇《,'》を手にした涼《ゴしみ》の人 が四五人佇んでいて、謡の声が聞えて来た、何気なく 欄干に身・を俺《よ》せると、丁度饂飩屋.の座.敷の向うに、謡 曲指由所の一室が突出ていると見えて、川添のあ.け放 した軒に簾《rだれ》をかけた甲で、ひとくさりずつ男の声につ いて、声最の極めて乏しい女の声で熊野《ゆや》を稽古してい るのであ.った。男は師匠であ.ろう、女は誰だかわから ないが、その声の弱々しさが、おみっつあんのように 思われてしかたが無かった。 `丶)▲丶  九月に入っても暑さはなかなかきびしかったが、夜 は流石に目に立って涼しくなった。長い悶大仕事にか かっていたので、それを済ませた安心から、ご、田は怠 け癖がついてしまった。本を読む事は怠らなかった が、筆を持つ気にはならなかった。会社から帰って、 湯に入って・晩酌の後で飯を喰うと・縁の籐椅子罎躍 かけて、川風をなつかしがりながら、舟のゆききを見 で暮らす事が多かった。淀川へ上る舟、河口へ下る舟 の絶え間無い問を縫って方々の貸舟屋から出る小型の 端艇《ポ ト》が、縦横に漕回る。近年運動事は東京よりも遥か にさかんだから、女でも貸端艇を漕ぐ者が頗《すこぶ》る多い。 お店《たな》の小僧と女中らしいのが相乗で漕いでいるのもあ る。近所の亭主と女房と子供と、一家総出らしいのも ある。丸髷《まるまげ》や銀杏返の、茶屋の仲居らしいの同士で、 .遊んでいるのもある。三田もふいと乗ってみる気にな って、一人乗の端艇を借りたのが病《やみ》つきになり、天気 のいゝ日には、大概晩食後、すっかり暮れきる迄の時  間を水の上に過した。 「三田さん、あても乗せとくんなはれ。」 「あたしも乗せて下さいな。」  と女中達がせがむので、かわるがわる乗せて僧い だ。  或日も、彼はおりかを艫《とも》に坐らせて一回り回って来 ると、岸には次の順番を待っていたおつぎの外に、お みっつあんが立っていた。 「三田さん、あてのかわりにおみっつあんを乗せてあ げとくれやす。」  端艇が雁木に着くのを待兼ねて、おつぎの朗な声が 響き渡る。 「あて、いややし。あんた乗せて貰いなはれ。」  娘はおつぎの背後に身をかくして、逃げ腰になって いる。 「そんな事いわんと一ぺん乗せて貰いなはれ。」 「あて生れてからお舟に乗った事あらしまへん。なん やら怖いわ。」 「三田さんと一緒やったら沈んだかてえゝやないか。」 「いやあ、そないな事いうたら、あていにまっさ。」  それをいきなり抱止めて、おつぎは水際迄引っ張っ て来た。陸に上ったおりかと一緒…に、強いて娘を舟に 乗せてしまった。 コ二田さん、後でたんとおごって貰いまっせ。」  おつぎは自分の思う通り、三田と娘とを相乗させた のに満足して、手を叩いてはやし立てた。  三田は娘と向あいの具合の悪さに、 一層力をこめて 漕いだ。フォアの時は、娘のきちんと揃えた素足の爪 先が気になり、バックの時は、羞しそうにうつむいて いる娘の顔が気になって為方が無かった。 「三田さあん。よう似合いまっせ。」  中流に糟ぎ出したのにむかって、…序の女はなかから かいやまなかった。宿屋の縁側にも、亭主とおかみさ んらしいのが、此力を指さして何か話合っていた。娘 は袂を顔にあてて、67心々うつむいてしまった。  端艇はどんどん上流に溯《弐かのぼ》った。橋をくゞると、もう 酔月は見えなかった。コ、r田は汗をかく迄踏張って、中 之島の方屮14漕いで行った。川面《かわも》も段々夜の色になり、 近々と腰かけてはいるのだが、娘の顔もほの白く見え るばかりだった。充分川幅の広いところで、三田は櫂《オ ル》 をあげて舟を流れに任せた。 六の七 「此間は有難う。」  先刻から何か口をきかなくては変だと思いながら、 何のきっかけも無くて困っていたが、三田は少なから ぬ努力で話かけた。 「え。」  ふいに声をかけられたので、娘は査ハ画口に顔をあげ て間返した。 「仕立物を御願いしたでしょう。」 「へえ、こちらこそ御礼を印遅れまして。」  それっきり途絶《 だ》えてしまったり時々擦違う外の端艇 は男と女の差向いと見て、わざと術突しそうな勢いを 見せてからかったり、 「よおよお、けなり.い、けなり「い。」  とあからさまにはやして行くの褶あった。何時か東 の空に月が出て、ぐんぐん中空にのぼって行った。そ の月光は川波に砕け、娘の額から肩のあたりを、蒼白 く照らした。 「あなたは早く帰らないといけないんでしょう。」 「いゝえ、大事御座いません。」 「御うちには御病人があるというのじゃあないのです か。」 「へえ、お父さんがわずらって居りまして。」  ひどく恐縮している為めか、言葉づかいも丁寧で、 宿の者が噂するような身柄の人とは思われなかった。 三田はさも自分のいたずらな心から、此の人を無理に 誘い出したような心誇しさを感じた。 「あゝ、いゝ月だ。此のまゝ何処迄も下って行ったら 」海に出るんだろうなあ。」  変に感傷的な気分になって、彼は大空を仰いで独語 した。女も誘われたように月を見た。細過ぎる凵が上 を向くとぱっちりして、いきいきした美しい顔になっ ・た。 「宿の連中は驚いてるでしょう。何処に行ったろうと 患って。一  そう言っても、娘はかすかに白い歯を見せて笑った 丈で、何とも答えなかった。端艇は次第に泥臭い川下 に流れ下った。 「あ.なたは謡の稽古をしているそうですねえ。」  そんな事を訊いては可哀そうだと思って我慢してい ・たが、娘の様子から考えて、ほんとに謡を稽古してい るのではないかと思われ、又何か自分の頭の中の邪魔 になるこだわりを除いてしまい度いと竜思って、思い 切って言ってみた。 「へえ、誰に御ききなさいまして。」 「矢張宿の人がそういっていたんです。」 「御稽古いいましても、ほん始めましたばかりで。」  何の混乱した表情もなく、すらすらと答えた。三田 は此の人に絡《まフわ》る忌々《いヰいユ》しい噂を打消したようなすっきり した気持で櫂《41川》を取十ると、折柄《ぷりから》さしかゝった橋の下 を、双腕《もろうで》に力をこめて漕いで過ぎた。橋を越えると酔 月の二階の灯火《ともしび》が、第一番に目に入った。  その二階の、自分の部屋の縁側に立つ人影は、端艇 の行方を不審がっている女中達に違い無かった。三田 はわざと知らんつらをして、次の橋の際にある貸船屋 迄|槽下《こぎくだ》った。 「三田さあん、三田さんと違いまっか。」  暗い中流を下る舟を認めて、おつぎの透通《りきとお》る声が呼 びかけたけれど、三田は返事・をしなかった。  川岸《かし》に上って、橋袂の氷店《こおりみせ》で、しきりに辞退する娘 を強いて氷菓《アイスクリ ム》を喰べ、わざと時間を消して宿に帰っ た。 七の一  二一国の創作「贅六」が新聞に…出始めたのは共の月の 末だった。自分の番いたものではあるが、印刷になる と全く目新しく、恐らく誰よりも一番熱心に夕刊の配 達を待つのは作者白身だったであろう。  三田が小説家としての文壇生活も既に十年になる。 同人雑誌出で、若々しい詩情のありあまる情緒主義の 作家として世に出た頃は、恰も白然派全盛時代で、こ っぴどく取扱われたものであった。その後年齢と共に 感傷癖は消失せて、社会批評を含んだ現実・主義の作風 に移り、じりじりと文壇の一〃川に地歩rを占めたが、会 社勤をして衣食の資を得ている為めか、或は彼の文壇 づきあいの下手な為めか、二重生活者だ、傍系作家だ と、ともすれば継子扱《まゝア一あつかい》にされて、 一種.不思議な地位を 保ろ作家となってしまった。作晶は黙殺されるのがお きまりで、たまたま批評するものがあると、当の作品 の批評よりも、仲間外れに対する漫罵《まんば》に類するものが 多かった。  そういう特殊の作家として、且執筆の時間も乏し く、又元来遅筆だったから作品の数も少ない為め、中 央は別として、地方の読者というものをまるっきり持 っていなかった。発行部数の多い婦人雑誌や投書家相 手の雑誌に寄稿しない為めもあったろうが、彼の筆名 樟喬太郎《くすの百をよ.勹たる〉》は、十年問文壇に介在しながら、大多数の 人には新しい印象を与えた。此の前大阪の新聞に小説 を書いた時の如きは、意外に読者うけはよかったが、 そんな名前の作家がいたのかしらと思った人も少なく 無かったらしい。新聞社に宛て、、樟喬太郎というのは 始めて'知った名前だが、今迄に何か著書でもあるなら 知らせてくれという手紙を寄越した人も多「かった。そ の時三田は、既に十数冊の短編小説集をあらわしてい たのである。  今度も亦新しい読者から、新悶社宛の投書がしきり だった。作中・に用いた大阪言葉が存外うまいとほめて 来るのもある。甚しくまずいと鷽.口って、一々丁富厂に訂 正して来るのもある。作者の大阪観が間違っていると いって、堂々と反対して来るのもある。贅六根性を痛 罵したところが気に入ったと称賛して来るのもある。 三田としては作品に人気があるという事も悪い気持は しなかったが、それよりも作晶に対する芸術的批評が 聞き度かった。しかし、新聞社としては、読者うけの いゝという事が第…だから、その為めに.二田は少なか らず感謝された。 会社の連中はいつもの通り・臨鯉寳として羨しが・踟 た。 一口分いくらだとか、資本なしでぼろい儲をする ら こんなうまい事は無いとか、口々に勝手な事をいっ た。  酔月では三田が小説を書く事は知らなかった。夜、 台所の洗いもの迄すませてから、おっさんだの、料理 番だの、女中達があかりの下に集って無駄話をしてい る事もあるが、時には誰かが新聞を読むのを、みんな で聴いているような事もある。講談物程人気は無かっ たが、一面の小説も朗読された。 「もひとつ面白く無い小説やな。」 「なんやら堅苦しゅうてあかん。」  などといいながら、きいている景色は、三田もくす ぐったい心持で目撃した事がある。     七の二  涼風が立ち始めると、酔月は俄《にわ》かに忙しくなった。 二番も三番も四番も五番も六番もふさがって、三人の 女中では手の足り無い事が多かった。多くは地方から 商用で出て来る人で、三日五日長くて一週間位の泊だ った。どうしてそんなに用事があるのだろうと不思議 に思われる位、あっちでもこっちでも手を叩いて女中 を呼ぶ。茶を持って来い、飯を早くしてくれ、お酒の おかわりだとせき立てられるので、何も用事をいいつ けず、うっちゃって置けば何時迄もおとなしく本を読 んでいる三田は、自然と閑却され勝だった。  客の中には、夜の.史ける迄女中に酌をさせて酒を飲 む者もある。みだりがましい話をしたり、手を握った り、晩に泊りに来てくれなどと言っている声は、三田 の部屋まで聞えて来た。時には芸者をよぶものもあっ た。東京では見られない景色だが、宿の廊下を裾を引 いた姿で通るのを誰も不思議とは思わない。壁か襖を 一重へだてた隣人には何のお構いも無く、三味線を弾 かせてうたをうたう者もあるし、騒々しいかけ声をし て、拳をうつ者もあった。勿論、泊って行く芸者もあ るのである。  そういう混雑の中に、或時新聞社から電話がか」っ て来た。取次に出たおりかは、 「え、くすのきさんですって。さあ、うちのお客さん にはそんな方はいないようですよ。」  と返事をして、なお念の為めに帳場にきいてみた。 「おかみさん、くすのきさんて方いますかねえ。今朝 おつきになった二番のお客さんは?」 「二番は篠崎さんや。くすのきさんなんていたはれへ ん。」  おりかは、そんな人はいないと先方へ答えた。けれ ども新聞社の方では、確かにいる筈だと不満そうな言 葉を使った。 「そうですかねえ。そんなら一度みなさんにきいてみ ましょう。」  気の軽いおりかは直ぐに室々《へやべや》をきいて回った。 「こちらにくすのきさんて方いらっしゃいますか。」  階下の六番から、二階の五番四番と順々にきいてい る声が、三田の耳にも入ったが、彼は黙っていた。自 分が小説を書くという事は、宿の人達には知らせない 方がうるさくなくていゝと思った。 「こちらにくすのきさんて方いらっしゃいますか。」  三番できき、二番できいて、 「矢張いやあしないやね。」  とつぶやきながら立去ろうとしたが、その場のいた ずらで三田の部屋の襖をあけて、 「こちらにくすのきさんて方いまあすかあ。」  と面皰面《にきびづら》をぬっと出し、みそっ歯の口を大きくあけ て言ったと思うと、ぺろりと舌を出して、ばたばた逃 げて行った。今では此宿で一番馴染の深い三田が、ど うして樟さんであって堪るものかと思っていたのであ る。 「あ玉、もしもし、お待たせしました。くすのきさん て方はねえ、いくらたずねてもいらっしゃいません よ。え、小説を書く人ですって? だっていないんだ もの、為方がありませんよ。どうもお気の毒さま。」  りりりりりりんと電話は切れた。 「ふんとにわからない奴だね。いませんて人が言って るのに、いるに違い無いなんて。」 「くすのきさんやったら湊川《みなとがわ》にいますう、いうてやっ たらえゝ。」  おかみさんが駄酒落《だじやれ》を出したので、台所の者迄どっ と笑った。 七の三  その次の日の夕方だった。三田が湯から上って、夕 刊を読んでいる時、昨夜電話をかけたというx×新聞 の記者がやって来た。  「あゝ、ゆんべ.電話をかけたのはあなたなんですか。」  取次に出たおりかは、いないというのにしつっこく たずねて来た男の.顔を、馬鹿にして見た。.顔色の冴え ない、不精髯《ぶしようひげ》をはやした中年者で、新聞社の肩書のあ る大型の名刺をさし出した。 「君はいないっていうけれど、僕はちゃんと調べて来 たんだ。道修町《どしようまち》の会社に勤めている三田さんという人 いるだろう。」  かくしたって駄目だぞというような語気で、記者は 言ったQ 「え、三田さんならいますがねえ。」  おりかは何を頓珍漢《とんちんかん》な事をいうんだといった風な返 事をした。 「その三田さんなんだ、樟喬太郎っていうのは。」 「あらやだ。三田さんは違いますよう。」 「違うもんか、うちの夕刊の小説を書いてるんだか ら。」 「へえゝ、そ、5ですか。そんならきいてみましょう。」  おりかはとんだ間違った事をいう人間だと、面白が って二階へかけ上った。 「三田さん、あんたくすのきさんですか。」  おかしくて堪らなそうに、面皰と笑で顔中いっぱい にして訊いた。 「何をいってるんだい。三田ざんは三田さんじゃあな いか。」  三田が苦い顔をして答えた時だった。 「やあ、樟さんですか。失敬します。」  と、何時の間に靴を脱いで上って来たのか、記者は ずかずか部屋に入って来た。三田も今更為方が無く、 おりかと顔を見合せて苦笑した。 「へえ、やっぱり三田さんの事だったんですか。へえ え。」  おりかは腑《オ》に落兼《おちかね》る様子でつぶやきながら、茶道具 を持って来るのと、階下の仲間に話して聞かせる為め に、急いで出て行った。 「御作は毎日拝見しています。大変評判がいゝので、 うちの社のものもみんな喜んでいます。」  巻煙草に火をつけると、一度窮屈そうに坐った洋服 の膝を胡座《あぐう》に直して、 「僕は学芸の方面では無く、社会部のものですが……」  いいながら、先刻おりかに渡した名刺の畳の上に置 っぱなしになって居たのを拾上げて、三田の前へ差出 した。××新聞社今宮正八というのであった。 「初対面で直ぐさまお願するのはずうずうし過るが、 うちの新聞に小説を書いてるあなたは、いわば親類の ような関係なんだから、ざっくばらんに話をするんだ が、どうでしょう、短冊に何か書いてくれませんか。」  彼は部屋の入口に置いた風呂敷包を引寄せて、中か ら数枚の短冊を取出した。 「駄目です。私は歌も句もつくれません。」  三田はすっかり不機嫌になってしまった。 「いや、格言でも座右の銘でも標語でも都々逸《どどいつ》でもか まいません。たゞあなたの署名があれぼ、それでいゝ のです。」 「ところが非常な悪筆で、筆を持った事がありませ ん。」  三田は生れついての悪筆を、平生深く恥じて居るの で、曽《かつ》て短冊などに笹を染めた事がないのであ.った。 「そんな事を言わないで書いて下さい。実はね、僕竜 少し困っているもんだから。」  彼は知名の文人の名を挙げて、誰にも彼にも書いて 貰った事があるが、今度頼むのは些《いさL》か遊び過て、方々 に借金が出来たから、三田に短冊を書かして、それを 売って金にしようというのであった。 「うちの新聞に出ている小説が素敵に評判がいゝか ら、今ならとても買手があると思うんだが。」 「わたくしは御免こうむります。」  三田ははっきり断って、堅く唇をとじた。それでも 相手はあきらめずに、しきりに自分の窮状を訴えて、 救済してくれと繰返し、しまいには、 「どうしてもいけなければ、名前を貸して下さい。僕 が自分で書くか、或は誰かに書かせて、あなたの名前 で売るから。但し儲は由分《やまわけ》ですよ。」  と虫のいゝ事をいい出したが、三田は強情に返事を しなかった。 七の囚 「おかみさん、くすのきさんというのは三田さんの事鋤 なんですとさ。」  階下《した 》に下りると直ぐに、おりかは帳場に注進した。 「なんやて、三田さんがくすのきさんという人と同じ 人だ? ふうん、さよか。」  これも腑に落ちない様子で首を傾けた。 「今のお客さんは×x新聞の人で、その新聞に小説書 いて居るくす.のきさんというのが、うちの三田さんで すとさ。」 「へ・え、××新聞?」  おかみさんのお尻のところに背中をまるくうずくま って、夕刊を読んで居た娘の手からひったくって一巡 目を通した。 「小説みたいなもんは、此の贅六たらいう好かんたら しい名前のと、荒木又右衛門の外に何もあらへん。く すのきいう字は木偏に南と書くのやでご 「そうかねえ、それでも今のお客さんそう言って居た けどねえ。」  仮名の外に何も読めないおりかは、白分の報告が間 違って居るぞと言われたように、途方にくれた顔をし て居た。 「此の小説書かはる人の名前は、なんと読むのかあて らにはわからへんが、木偏になんやらむつかしい字が 書いてある。此の字は何と読むのやろ。」 「あてもしらん。木偏に章魚《たこ》のたアの字やな。」  娘は義太夫でつぶした太いかすれた声で答えた。 「なに、たこという字は虫偏やで。」 「虫偏のもあるけど、此の字と魚という字のもあ.る。」 「おっさんにたずねて見たらどうだ。たこ安だたこ梅 だと、よく飲みに行くのやないか。」  結局何の事かわからなかったが、何《いず》れにしても三田 が、たゞの三田でないような気持丈は、みんなの心に 残った。  おりかは、外の部屋の御給仕に出て居るおつぎやお 米にも、台所で働いて居る料理人にも、地下室で風呂 を焚いて居るおっさんにも、顔を合せたものから順々 に話を伝えた。  やがて小一時間位は居たであろうか、新聞記者は仏 頂面をした三田に見送られて、二階から下りて来た。 「いや、どうも失敬しました。」  記者も機嫌のよくない顔つきで、ろくにおじぎもし ずに帰って行った。 「三田さん、三田さん。あんたくすのきさんという名 前もあるんですか。レ  何処かの部屋にお銚子のおかわりを持って行こうと して居たおりかは、梯子段を追かけて上って、息をは ずませてきいた。 「今の新聞の人、そういってあんたを呼んで居たじゃ ありませんか。」 「うむ、新聞社の人間なんてものは、大概人を符牒で 呼ぶんだよ。」 「へえ、そうですかねえ。」 「小川平吉っていうのをオガ平だとか、武藤金吉をム ト金だとか。」  うるさい事はきいて呉れるなという表情を露骨に見 せて、三田はさっさと部屋の中へ引込んでしまった。 七の五  三田のところへ御膳の出たのは最後だった。 「お待遠さん。ほんに今日程忙しい事はおまへんでし たぜ。・  おつぎはぶくぶくと白く肚广、た顔中に細かい汁をか いて、息切れのする様子であった。 「そんなに忙しい時に御酌なんかしてくれ無いでもい いよ。何時もいう通り、僕は一人で飲む方がうまいの だから。」 「そんなに嫌わんかてよろしρおま。樟先生。」  してやったといわんばかり、からだを波打たせて笑. った。 「お帳場ではみながえらい評判です。夕刊に出てある 賛六ですかいな、あれを書かはる人の名前が、木偏に 章魚のたアの字や、そんなけったいな字あらへんたら いうて争っているところへ、今さっき旦《だん》さんが帰らは って、此の字もくすのきと読むと言わはったもんで、 うわあ三田さんの小説や、えらいこっちゃえらいこっ ちゃとみなが騒ぎましてなあ。」  全く意外な事だったと言わんばかり、おつぎはつく つくと三田を見ながら、宿のものの驚《おどろき》を伝えるのであ った。  外の者は実の所、むつかしい小説だと思って時折拾 読みするばかりだったが・宿のあるじは大変愛読して脚 居たのだそうだ。 ・、樟という小説家は始めて出っくわしたが、うちの三 田さんとは思わなんだ。あの御方は一風変ってるとは 夙《とつく》に…睨んでいたが、矢張たゞもんではなかった。」  とふだんは無口のあるじもいっしょになって、今.日 の夕刊を引張合いながら噂をしていたというのであ る。 「よう小読みたいなものが書けますなあ。むつかしい 事でしょうに。」  おつぎはわけもわからずに感嘆の意を表して、愈々 三田をうるさがらせたo  丁度飯を済ませて、お茶を飲んでいるところへ、お 米が三番の客の使だといって、やって来た。外の部屋 の客は大概二三日中に立ってしまうのだが、三番の野 呂丈は、三田と同じく月極で、これからこっちの会社 に勤める入だという事だった。 「その野呂さんがなあ、あんさんの書かほる小説を読 んでいやはって、是非ともあって話がして見度い、ひ つれいでなかったら、こちらへ寄せて貰い度いと、こ ない言うてはりまんね。」  五六日前にその部屋はふさがったのだが、客の顔を 三田は知らなかった。大正化学工業株式会社とかの大 阪出張所長という肩書を、お米は多分の尊敬を含む語 気で、賣つた。 「折角だけれど、今晩は少し仕事がありますから失礼 しますと断ってくれたまえ。僕は知らない人には逢い 度くないんだ。」  来てから悶も無いのに、毎晩女中を相手に酒を飲ん で、遅く迄わいせつな事を爺.口ってふざけているのを、 三田は知っていた。いっぱい機嫌で、小説家とはどん なものだろう位の心持で冷かしに来られてたまるもの かと思った。 「それでもなあ、是非々々あんさんに御目にかゝり度 いと、熱心に出.薗わはるのんだっせ。」 「そんな事を言ったって僕は駄日だよ。面白い話なん か出来やあしない。」  なんてったって承知するものかという態度で、たゞ さえ怖い三田の眼つきが険《けわ》しくなった。 「どうしてもあきまへんか。弱ったなあ。」  お米は三田に対してよりも、先方に対して困ってい る様子でもじもじしていたが、 「そんなら又今度おひまの時に寄せてあげとくんな れ。」  といい残して立去った。  問も無く三番の部屋で、ひそひそ声で報告している のが聞えたが、それにつゞいて酒に酔った男の声で、 「なあに小説を書くといったって漱石や蘆花なんかと は比べものにならんさ。」  とうっちゃるようにいうのが聞えた。 七の六  ××新聞の夕刊の小説の作者が三田だとわかってか ら、宿屋のものの三田を見る眼は違って来た。  お坊ちゃん育ちの我儘《わがま」》な偏屈人《へんくつにん》だときめていたの が、口調こそ重々しいけれど時々は冗談もいうし、淫 売だという噂のある娘と相乗で端艇《ボ ト》に乗る位の洒落気《しゆロれつけ》 もあるし、段々気心が知れて見れば、見かけの怖《こわ》らし い程の事は無く、存外優しくて親切らしいところもあ ると思いかけていたところだから、小説を書くという 一つの特殊な色彩が、一層それを助長して、もう一つ 距てを取除いたのである。  たゞ、みんなが想像していた小説家というものζ は、まるっきり違って居た。大臣だとか金持だとか、 日頃えらい人だと思って居る人間は、曲りなりにも大 概見当はつき、頭の中にははっきりした型があった が、小説家なんかには、此の批の中で回《めぐ》りあおうとも. 思わなかった。だから、不意に目の前に現われた三田 の棹喬太郎は、宿の連中にとっては唯一の代表的小説 家でなければならない。たった一本の篁さきで、いゝ 男といゝ女とを喜ぱせたり悲しがらせたり、勝手気儘・ な運命をしょわせて死なせもするし、面白おかしい世 態人情を自在に物語る小説家というものは、矢張その 作中の人物の如くいゝ男で、粋《いき》で、世間馴ていて、人 一倍情愛が深く、一日にいえば粋《づい》も甘いも噛みわけた 人だろうと想い描いて居たのであったが、現実.の作家 は、骨組のたくましい髫男で、みなりなんぞはじゝむ さく、都々逸ひとつうたう亊も知らず、世間外れのだ んまりむっつりで、到底女に好かれそうな人間では無 かった。 示説なんぞ書かはる御方はどんな人かと思うと・た鋤 ら、うちの三田さんみたいな人かいなあ。」  と末は娘義太夫になるという大望をいだいて居る娘 迄、意外だった事を正直に発表した。 「あてら、今でもほんまかしら、嘘やないのかしらと 田心うていまっせ。」 「あんな怖《こは》らしい顔ろきしていやはって、若い女の事 書いたり、恋したとか好《す》いたとかいうような事、よう まあ書けたもんやなあ。」 「そういうたものでは無い。あゝいうどっしりとおち ついた人が、世の中の事をよう見ているもんや。此の 小説かって学のある人でなければ書かれへん。」  随一の愛読者なる酔月の主人は、三田の事になると ひどく買かぶって、ほめ方《かた》を一手に受るのであった。  兎に角あるじのいう事だから、おかみさんが先ず第 一に信じてしまい、自然に女中達も安くは取扱わなく なった。そればかりでは無く、外のお客の部屋へ行っ ても、 一番のお客さんは××新聞の夕.刊の小説の作家 だと吹聴《ふいちよう》して同った。 「まだ若い書生さんみたような方ですけれどねえ、そ の勉強ったらないんですよ。感心なもんですねえ。」  と隣の部屋の客の自慢をしているおりかの声を聞い て、三田は冷汗を流した事竜あった。 八の一  樹や草の少ない大阪の町は、東京程はっきりと秋の 景色をあらわさないが、それでも土佐堀の水も澄み、 酔月の二階に照つけた西日の色も日に日に薄くなって 来た。  三田の部屋の下の川岸を住家《づみか》とする泥亀は、夏の間 に相手を見つけて、何時の間にか梢《やゝ》形の小さいのと二 疋になっていた。水の干《ひ》る時には浅瀬の石の上に並ん で背中を乾かし、満潮の中高にふくらむ水に漂って は、からだを擦りつけて泳ぎ回った。三田は朝晩、そ の二疋の亀の子を見るのを喜んだ。 「あれあれ、亀さんが嫁さん貰わはった。」 「なんて仲のよいめおとやろ。三田さん、けなるい事 おまへんか。」  女中達は、何時迄も欄干《てナリ》の外に首を突出して見てい る三田のうしろに来てからかった。  さしもに盛んだった貸端艇も数が少なくなったが、 そのかわりに小舟で網を打つ人がちらほら見えた。雪 のように腹の白い魚が、網の中で光るのも、此の宿の 眺めだった。  三田は九ヵ月間着通した紺サアジ服に別れを告げ て、新聞社から受.取った原稿料の一部でつくった新調 の洋服を来て、相変らず…機械のような会社勤を励ん だ。靴の大きいのは気になるが、色の褪《さ》めた、肱《ひじ》や膝や 背中の光る古服と縁を絶ったので、気が軽くなった。 尤《もつと》も新しく洋服をあつらえる気になったのには、日華・ 洋行の娘と、教会の真向の家のおみっつあんの、本人 達は夢にも知らない影響があった。  口華洋行へ通勤する娘の方は、何時迄たっても此方《こち戯》 の存在を認めてくれないらしく、いつも梢伏目勝の瞳 を動かさず、些《いさ」》かも姿勢を崩さずに、さっさと行過て しまうのであった。何とかして一度でも此方《こつち》を見てく れればいゝと三田は念じていたのだけれど、先方にと っては、三田の如きは路傍の電信柱に等しかった。  それにひきかえて、おみっつあんとは、月明の夜の 端艇以来挨拶をするようになったQ三田が通りかゝる と、格子のところへわざわざ出て来て、声はかけずに 笑顔で会釈する。肉体の弱々しいのと同じく、その表 情も近代的の活発なところが無く、笑う時さえ寂しか った。三田は、もう一度この娘と親しく口をきいて見 度いと思いながら、もう端艇の時節も過ぎてしまった し、外には何のきっかけも無いので、残念ながらた黛 帽子をとって挨拶を返す丈だった。 「三田さん、おみっつあんがなあ、又あんたと遊び度 い、いうていやはりまっせ。」  おつぎをはじめとして、女中達はよくからかった。 「僕も遊び度いんだよ。」  半分は冗談らしく、実はそれをきっかけに、ほんと に連れて来て貰い度い気もあった。 「ほんまだっか。ほしたら、うちへ呼んで来てお・酌さ せましょか。」 「もったいない。お酌なんかさせるもんか。それより も一緒に箕画《みのお》か宝塚にでも行くか、それでなければ成 駒屋《なりこまや》はんの芝居でも見に行き度いなあ。」 「お芝居、よろしゅおまんな。あてもみい度いわ。」 「よおし、そんならみんなで見に行こう。」 「ほんまだっか。」 「ほんまさ。」  女中達は半信半疑だったが、三田はほん気だった。 何時か一度、実行してやろうと思っていた。 八の二  酔月は引続いて繁昌していたが、客の顔は絶えず変 っていた。たゞ、 一番の三田と、三番の野呂は、月極 の客だった。  年配は三田よりも上で、頭の薄禿を撫でつけた髪で かくし、鋏《はさみ》で刈ったちょび髭も手入がよく行届き、強 度の近視眼にふち無しの眼鏡をかけた、いかにも工業 会社の出張所長らしい様子の男だった。最初に三田と 話をし度いと申込んで来たのを断ったのが余程癪にさ わったと見えて、廊下であってもわきを向いて挨拶を しなくなった。結局それはうるさくなくて、三田にと っても幸《さいわい》だった。  野呂は酒飲みで、三田のように宿屋では一合ときめ て、さっさと切上げてしまうようなのでは無く、女中 に酌をさせながら、酔倒れる迄盃を放さない。その間 に、嘘かほんとか大げさな話を得意にしているのが、 一|室《ま》へだてた三田のところ迄、残らず聞えて来るので あった。彼の勤めている会社は創立後日は浅いけれ ど、儲かり過ぎて困る梶儲かるとか、野呂自身は他の 商売をしていたのだが、社長に懇望《こんもう》されて入社し、半 年で出張所を預かる地位になったとか、北の新地の何 とかいう家が宿坊で、芸者にもてて困るとか、すべて 景気のいゝ話だった。  彼は又、何事でも知らないという事が無かった。政 治でも経済でも、文学でも美術でも、万事心得ていて 女中達を驚嘆させた。殊に日本国内は勿論、支那朝鮮 亜米利加欧羅巴《アメリカヨーロツパ》、あらゆる国々の話を知っていた。就 中《なかんずく》彼の得意なのは、各方面の名士と何《いず》れも友達の如き つきあいがあるという事だった。従而《したがつて》床次《とこなみ》がどうした とか、西園寺が斯ういったとか、みんな呼びつけで、 如何《いか》に親しいかを示した。加藤はけちんぼでいくら勧 めても金を出さないとか、犬養は貧乏で閉口している、 とか、渋沢には未だに何人妾があるとか、大倉はあの 年で毎日|鰻《うなぎ》の大串を幾串喰べるとかいったたぐいの話 はふんだんに持っていた。  はじめのうちこそ三人の女中が、かわるがわる御給 仕に出ていたが、何時の間にか野呂の部屋はお米の受 持ときまったようになった。外の二人よりも若くてき れいで、小とりまわしだから、どの客もお米さんお米 さんと一番早く名を覚えて呼立てるので、本人もおり かやおつぎとは格がちがうような気持になっていた。 ちっともちやほやしてくれない三田のところが一番つ まらなく、お米でなくては納まらない野呂のところに 足の繁くなるのはあたりまえだった。  お米が野呂を独占したのか、野呂がお米を独占した めか、兎に角除外された外の二人は、連盟して三番の ・客とお米の悪口をいいふらした。 「お米さんは又野呂さんともおかしいんだよ。あた し、ちゃあんと現場を見届けたんだもの。」 「ほんまに野呂さんいう人はいやらしな。あてらみた いなもんにも、今,晩泊りに来んかとかなんとか言うて なあ。」 「あら、あんたにもそんな事を言ったの。あたしにも なんだよ。やだねえ。誰があんな大法螺吹《おゝぼらふき》なんかに。」 「お米さんもえらいなあ。大貫さんともちょんちょん やったし、以前にも誰彼と噂はあったやないか。」  そんな会話を、三田の部屋に来ても残して行った。  子供の学校の為めに女房は東京に置いてあるという 四十男のみだりがましさは、充分想像する事が出来 た。実際お米は夜更迄、酔って大言壮語をほしいまゝ にしで居る野呂の相手をして、三番に残っている事が 多かった。 八の三  三田は相変らず、田原を誘い出したり、田原に誘い 出されたりして、そっちこっち飲回っていた。そうい う時に、影の形に添うようにくっついているのは蟒《うわばみ》だ った。  蟒の説によると、三田と酒を飲むのが一番面白いの だそうである。お客と芸者という立場で無く、全く対 等の友達づきあいなのがよかったらしい。田原がいう 通り、蟒も三田公三田公と呼んでいた。此の友達は、 時折気まぐれに酔月を訪問する事もあった。凡そ南で も北でも新町でも堀江でも、一流の芸者ならみんな親 類づきあいのような口をきいている野呂は、同宿の苦 虫をかんでいる三文小説家のところに遊びに来る女が 跚 あるときいて、少なからず平《たい》らかでなかった。 「え、お葉だって。あゝ、お葉ならよく知ってるよ。 まあ北地《きた》では二流と迄も行かないところだろうね。」 「ようお酒飲まはる芸妓《げいこ》はんだっせ。」 「知ってるよ。あいつと飲っこしてね、ひどいめにあ うた事があるよ。」  野呂は密《ひそ》かに噂をしていた。三田なんかのところに 女が来るという事は、彼自身のうでのない事を証拠立 てられるような、理由の無い不愉快な事だったのであ る。だから、少しでもその女の値打を安くして置き度 かった。  それが、それからそれと三田の部屋迄伝って来た。 「あの蟒さんを三番の野呂さんも知っていやはるそう ですぜ。よう酒飲む女《おなご》やいうていやはりました。」  三田は何の心も無く耳に入れた。  ところが或時蟒が遊びに来た。近所の金光様《こんこうさま》へお参 りしたついでに寄ったといって、最初はひどく神妙だ ったが、お茶がわりに出した麦酒《ピーし》がお腹に入ると、急《たちま》 ち商売の事なんか忘れてしまって、 「三田公、いっぱい飲みましょか。」  と膝を乗出して来た。 「飲もう。」  酒のつきあい丈は存外いゝ三田の事だから、急ち酒 戦となったのである。  三番では今日も亦、野呂がお米に酌をさせて、よく もあきない猥談に夢中になつていた。 「今、向うの部屋でしきりに何か喋っている男がある だろう。あれが君を知ってるそうだぜ。」 「へえ、何という方ですの。」 「野呂さんていうんだ。」 「けったいな名前だんな。顔を見たらわかるのやろう けれど、思い出しませんな。」 「なかなかその道の豪傑らしいんだ。大阪中の芸妓は んはみんな友達らしいぜ。」 「へえ、いやらしい人やなあ。」  蟒はあんまり興味を持たず、しきりにコップ酒に夢 中になっていた。 「おい三田公、君もコップで飲み給え。盃みたいなち っぽけなものはけちくさい。」 「まあ許してくれ。コップはもうこりこりだ。又頭か らぶっかけられるのが落《おち》だからなあ。」 「ぶっかけられたって大事おまへんやろ。又淫売さん にあんじょう縫うて貰うたらえゝのやもん。」  ほんとに幾度でもこりずに浴せかけそうな勢で、な みなみとあふれるばかりのコップ酒を、とうとう三田 の手に受取らせてしまった。 八の四  見る見るうちに徳利は、狭い部屋の中に立ったり転 んだり、うつろの姿を並べた。蟒は顔色こそ蒼白くな ったが、心持は天上天下|唯我独尊《ゆいがどくそん》だった。自分で飲ん では三田にさし、三田が飲干すと奪い取って又飲む。 酒がなくなると手を叩いて女中を呼んだ。  三番でも酔払った野呂の高調子が、舌にもつれて聞 えて来た。 「おかしいな。あては自慢やないけれど、耳が悪うな いよって、知ってる人の声なら、よう覚えているがな あ。」  蟒は酒の気のない時は問題にもしなかったが、飲み 足りると気になり出したと見えて、野呂の声に耳を傾 けていた。 「姐《ねえ》さん、むこのお客さんなあ、あてを知っていると いうていやはりまっか。」  お銚子を持って来たおりかにも聞いて見た。 「えゝ、よく知ってる、お酒を飲っくらした事がある って言ってらっしゃいましたよ。」 「へえ、そうだっか。どないな顔つきの人でっしゃ ろ。」 「眼鏡をかけた、鼻の低い、髯のある……」 「顔の色は。」 「そうですねえ、赭黒《あかぐろ》いっていうのかねえ。」 「頭は? ちゃびんだっか。」 「ちゃびんて程でもないけれど。」 「ほしたら半ちゃびんやな。」  二人はいっしょになって笑った。 「あて、行《い》て見て来ようかしらん。」  蟒は自分自身すっかり乗気になって、いくら考えて も思い出さず、先方では知って居るという相手に興味 を持った。 「えゝ、いっしょに行きましょうか。」 「よせよ。酔払って他人の部屋になんか行ってくれる な。」[  三田はほんとに心配して引正めたが、とめられると 無理にもとまらないのが蟒の件分だった。ぐっと一息 にコップを干すと、半分崩れかけていた体を起して立 上った。 「まったくよした方がいゝぜ。第一これがきっかけ で、又僕に交際でも求められると厄介だ。に 「あんたの知った事やあれへん。あて一寸行て見て こ。一  蟒はいい残して、おりかを先だちに廊下に出て行っ た。 「今晩は?入っても大事おまへんか。」  問も無く蟒の酔った声でいうのが三田のところまで 聞えた。 「さあさ、お越しやす。」  とうけたのはお米だった。 「へえ、あんたですか、あてを知ってるいうてはるの は。あて知りめへんで。」  聞いている二.出が冷々《・やひや》する程、蟒の口のきき方は遠 慮が無かった。 「あゝ知ってるよ。いつだったかなあ、吉寅《よしとら》で宴会の あったのは。」 「吉寅? あてむこのうちはちっとも行きまへんが な。」 「そうか、そんなら千代本だったかしら。」  はなれてきいて居ても、野呂のいうのは出まかせら しかった。 「まあ、いっぱい飲みたまえ。君の気分が気に入っ た。に 「よろし、飲みまっさ。そのコップ貸しとくんなは れ。」 「コップか、えらいなあ。」  蟒がそこにおちついて、コップ酒となったらしいの を、心配半分面自半分の気持で聞きながら、三田は独 酌の.盃をなめていた。     八の左 「あんたの名前、野呂さんいいまんの。けったいな名 前だんな。」  そういう声につゞいて、うわっはっはっと豪傑笑を した野呂が、 「女に野呂さんだよ。」  と答えた。 「へえ、あては野呂間の野呂かと思うてましてん。」 「いや、実に愉快だ。君の気分が気に入ったよ。」  そう言って、又.酒を強いている様子だった。 「あんたあての気分が気に入った入ったいうて、どの ような気分だか知っていやはりまんのか。」 「そこが画白いんだ。客を客ともおもわないでね。」 「よしとくんなはれ。あてはあんたに芸者として呼ば れてるのとは違いまっせ。あての方から遊びに来てい るのやさかい、あてがお客でっしゃろ。」 「悪かった。あやまるよ。まあ気を悪くしないでいっ ぱい飲みたまえ。」  男の方はからかうつもりでいるのだが、蟒の権幕は 強過て、むざむざからかわれてはいなかった。 「よろし、いくらでも飲みまっさ。そのかわり、あん たも盃みたいなものほっといて、コップでつきあった らどうですか。あてがいっぱい飲む、あんたがいっぱ い飲む、あてが飲む、あんたが飲む。あてが飲む。あ んたが飲む。姐さん、お酒一|打程《ダロス》貰うて来とくんなは れ。」  三田は三番の部屋のなかの光景がはっきりわかっ た。あてが飲む、あんたが飲むが愈々出たところを見 ると、蟒が酔いつぶれるか、野呂が倒れるか、どっち にしてもあらけた結末になる事はたしかだった。いゝ 加減に切上てくれればいゝがと思いながら、そろそろ 野呂の方で相手が勤まり兼て来たらしいのを、密《ひそ》かに 痛快にも思って居た。 「さ、飲みなれ、飲みなれ。それが飲めんような事や ったら、えらそうな事いうのはやめて貰いまっさ。」 「まあ、待ってくれ。今飲んだばかりじゃないか。そ う女の方からせっつかれては堪らないよ。」 「姐さん、野呂さんは三田さんみたいにたんとあがれ へんのですさかい、かんにんしてあげとくれやす。」  蟒のたてつ穿けに飲んではさすコップに蹄易《、斥えき》して、 野呂が逃げるに逃げられなくなったのを、お酌をして いるお米が見兼て仲に入った。 「そんならあんた降参しや竺たのか・」 「降参はしないよ。しかしだね、君は三田君のところ に逢いに来た人なんだろう。それに違いないや。それ をだね、それを僕が占領していては第=二田君に済ま んじゃあないか。」  野呂はまるっきり酔わされて、言葉と言葉のつなが りがはっきりしなくなっていた。 「ほんまですがな。三田さん一人で寂しがっていやは りまっしゃろ。」  お米も共々蟒を追払おうとし出した。 「三田公なんかほっとけばよろし。あてはあんたがあ てを知ってる、一緒に飲んだ事ある言うてはると聞い たによって、遊びに来た。来て見たれば、あての方で は見た事も無いような気はするけれど、あんたが飲め いうから飲んでいるのだっせ。よろしか。」 「わかった、わかった。しかしだね、三田君の身にも なって見給え。折角君が顔を見せに来たというのにだ ね、僕のところに入りびたっていられては、面白くな かろうじゃあないか。それよりもお二人仲よくおやす みになった方がよくはありませんか。」 「阿呆らし。あんたはあてと三田公と何ぞあるとおも うていやはるのか。置いて貰いまっさ。はゞかりなが ら、そんなけちな三田公でも無し、あてでも無いわ。 飲めという酒が飲めんのやったら、男らしく降参した らえゝ。あてらのきよいつきあいを知りもせんくせ に、けったいな事いうのは置いて貰いまっさ。さ、ぐ っと飲んだらどうですか。」 「あ、あむない。」  お米が甲走《かんばし》って叫んだのは、蟒が立上ったところら しかった。 「さ、飲みなれな。」 「もう、いかんよ。」 「そんなら降参しましたといいなれ。いわんと頭から 浴せまっせ。」  三田はやったなと思うと、おもわず盃を下に置い て、襟首がつめたく感じた。 「あ、お姐ちゃん、手荒い事したらあきまへんがな。」  悲鳴に似た声と共に、皿小鉢の割れる音がしたと思 うと、 「あゝ、誰ぞ来てえ、おりかさん、おつぎさん、雑巾《そうきメ 》 持って来てえ。」  お米が一人で立騒ぐ音がつゞいた。  蟒はよろよろした足取で、三田の部屋に引あげて来 た。 「阿呆らしい。人を馬鹿にしくさったよって、頭から お酒をかけてやった。おゝしんど。」  と事もなげにいいながらお尻を下すと、長々と横に なって、急《たちま》ちぐっすり眠ってしまった。 八の六  酔倒れて寝てしまった蟒は、小一時間もたつとむっ くり起上って、人力車を呼ぱせて帰った。  三番では、頭から.酒を浴びた野呂が、強いられてす ごしたコップ酒を吐いて大騒ぎだったが、女中達に介 抱されて寝たらしく、宿中がひっそりしたのは十二時 過ぎだった。三田はいゝ心持に酔った体を椅子に托し て、天の川の目立って高い空を撫でて来る夜風に吹か れていた。 「えらい騒ぎでしたなあ。」  とおつぎが持前の笑顔を一層崩してやって来た。台 所番にあたっていて、二階の騒動にか瓦ずらわなかっ た丈、無責任の興味を多分に持っていて、狼藉《ろうぜき》を極め た部屋の中をかたづけ、床を敷きながら、しきりに三 番の出来事を話したがった。 「ほんまにえらい女《おなご》はんですなあ。さ、飲みなれ、飲 まんとかけまっせと、こない言いながら、野呂さんの 頭からあつうい御酒をじゃあとかけはりましてんと。 あの人酔わはったら、何時もあのようにいけずしやは りまんのか。」 「どうも、そうらしいね。僕だけが御|贔負《ひいき》分にやられ たのかと思っていたが。」 「野呂さんもあんたと同じですわ。着物も襦袢もずぶ 濡れにならはって、あげくが自身もどしはったさか い、その臭さいうたらおまへんでしたぜ。あゝ、考え ても胸が悪うなる。」 「又おみっつあんに頼んで仕立てて貰うといゝや。」 「ほんまにいな。」  さも.画白そうに朗かに笑ったが、急に真面目な顔を して、 「時に芝居行はどないなりました。おみっつあんも待 っていやはりまっせ・」 「なんだい、あの人に話してしまったのかい。」 「わるおましたか。あんさんがほんまにみなで行こう 言わはったよって、せんどおもてで逢うた時、いうて しまいましたがな。」 「かまわないよ。近いうちに行こう。その日はおみっ つあんに丸髷でも結って貰おうかな。」 「よう似合いまっしゃろ。」  おつぎは笑いながら出て行った。  三田は縁側の玻璃戸《ガラスど》をしめて、寝床の上に大の字に なった。風に吹かれている間は、すっかり酔もさめた 気でいたが、横になって見ると深酒《ふかざけ》の名残は蒸暑く胸 から上に押上げて来た。  ほんとに芝居に行こう。すべて世の中は何のこだわ りも無く、めいめい仲よく遊ぶのがいゝ。淫売だろう がなんだろうが、よさそうな人間ならつきあって見る に限る。おみっつあんと蟒と、日華洋行の娘と、おつ ぎとおりかとお米と、現在自分の身近にいる連中みん なといっしょに、芝居を見に行ったら面白いだろう。 その次にはお弁当を持って、山のぼりか、海辺にでも 出かけよう。そうだ、田原は是非とも誘ってやろう。 あのお調子ものは飛上って喜ぶだろう。三田はぼんや りした頭の中で、とりとめも無い空想に耽っているう ちに、段々と瞼《まぶた》が重くなった。 八の七 「三田さん、三田さん。むこの部屋におみっつあんが 来ていやはりまっせ。」  一週間ばかりたった日の夕方だった。会社から帰っ て、湯に入って、くつろいだところへ御膳を持って来 たおつぎが、声をひそめて言った。  此間蟒が酒をぶっかけた着物の仕立直しを持って来 た、おみつを、無理に自分の部屋に連れて来させて、 野呂は悦《えツ》に入って居るのだそうだ。 「野呂さんも女好《おなごず》きですからなあ、しっかりせんとお みっつあんとられてしまいまっせ。」  とおつぎは三田の給仕をしながら、おみつを女主人 公とする事件の複雑になるのを面白がる様子だった。 「困るなあ、何んだってあんな男の着物なんか縫わせ るんだ。もったいない。」 「あんたがおみっっあんに頼んだらえゝ言やはったの だすぜ。そないな事今になって言うたかてあきまへん がな。」  三田が冗談に、百った言葉がきっかけになって、おつ ぎがおみつの事を話すと、野呂は急《たち烹》ち乗気になり、是 非ともその娘に頼んでくれというのだったそうだ。年 が年中女の話ばかりして、此の宿に来て間も無いの に、正にお米は手に入れてしまった男だ。夜更に三番 をそっと出て行く魚の感じのするお米の姿は、三田も 二三度見た事がある。あゝいう臆面の無い四十男にか かっては、おみつなんか日の前でおっぷせられてしま うであ.ろう。薄禿のある頭も、荒淫の証拠のような感 じがして、三田はいたいたしい景色がちらちらして為 方が無かった。たとえおみつが客をとる身の上として も、野呂だけはやめて貰い度いと思った。  三番でも酒が始まったらしく、何時もの通りお酌に 侍《†甲く》るお米のへらへら笑う声の絶間に、野呂の相も変ら ぬ猥談が聞えるのであった。物静かなおみつの声は少 しも聞えないが、話の模様で、その席にいる事は確か だった。 「お米さんもけったいな人ですなあ。せんどの大貫さ んの時も同じ事でしたが、自分が仲ようなっていなが ら、その男が外の女はんにじゃらじゃらしゃはるの を、いっしょに面白がっているのですからなあ。」  大貫の場合にも、看護婦があいに来る時は、二人が 盃のやりとりしている前に坐って酌をし、それが済む と一つの床に二つの枕を並べるのも平気でやっての け、ついぞ嫉妬らしい顔をした事が無かったという9 「さばさばしたもんですなあ。」  おつぎはしんそこから感心したように言った。 コ君ならどうだい。」 「あてだっか。あてはやきもちやきだっせ。その為め に極道《ごくどう》の亭主を持って、辛抱出来んで出て来ました、」 「へえゝ、右は御亭主があったのか。」 「へえ、子供もおましたがな。」  おつぎは始めて身の上話をした。大阪の郡部の役場 に勤めている男のところに嫁に行き、子供も一人出来 たが、亭主が無類の道楽者で、とうとう喧嘩して出て しまったというのだった。本人はひどく悲劇がってい るらしかったが、笑の外には表情の無い女だから、少 しも憂いがきかなかった・ 「亭主には未練おまへんけどなあ、子供は矢張可愛う て忘られまへんなあ。」  いつ迄も親子の情あいを説いているのを聞流して、 三田は三番の部屋の人声にばかり気を取られていた。 八の八  その晩はそれで済んだけれど、四五凵たって又おみ つは、野呂のところへよばれて来ていた。 「今晩はなあ、お米さんとおみっつあん連れて、野呂 さん活動見に行かはるのですと。」  おつぎは多少羨しそうな様子はありながら、何時も の通りにこにこして、三田のお給仕をしながら告るの であった。 「審生、先手を打ちゃあがったな。」  三田は肚《はら》の中で、何の容赦も無く実行の歩を進める 野呂の遣口に憤慨しながら、さっさとおつもりの酒を 飲んで、飯を済ませてしまった。何を言って竜取合わ ない三田の態度に張合のぬけたおつぎは、 「よろしゅおあがり。」  と挨拶して、あ.っけなさそうに引きさがった。  机に向って本を開いても、集由-カが無くて一向身に 沁みない。ふだんよりもはし4,いでいるお米の声と、 粗.手がはしゃいでいると見てとって、無理にもおちつ きを見せようとするらしい野呂の声が耳をはなれな い。時々は、遠慮深いおみつの笑声もまじった。  外出の為めか、例の長ったらしい酒も始まらない で、間も無く連れ立って出て行った。三田は変に寂し かった。欄干《てすり》に近く遥々と見渡される澄み渡った星空 の下を、静かに下る川船の艪《ろ》の音が、ぎいと冴えて聞 えて消えて行く。秋の感じが深かった。 「三田さん御勉強ですか。お茶でもいれましょうか。」 「ひとりきりで、よう寂しい事おまへんな。」  おりかとおつぎが台所の仕事をしまって、遊びに来 た。宿に居れば必ず机にむかっている三田の部屋に は、ついぞ斯ういう景色はない事だったが、お米が野 呂につれられて行ったのに対して、平らかならぬ二人 が、味方ほしさに来たものらしかった。 「お茶はほしくないけれど、まあ御入《おはい》りなさい。」  平生ならばうるさがるところだが、本を読んでも頭 に入らない折柄、意地になって齧《かじ》りついていた机をは なれる丈でも救われる気がした。 「野呂さんやみなは、何処へ行かはったのでっしゃ ろ。」  二人の話は活動に行った三人にばかりかゝわってい た。 「洋食喰べて、それから楽天地に行くんだってお米さ んはいってたよ。」 「へえ、あてら洋食みたいなもん、よう喰べんわ。」  三田は二人を歓迎したものの、ちっとも話に乗る気 はなかった。野呂の女好きだという事、お米の淫奔な 事、二人の関係の日に余る事、その野呂が又してもお みつを物にしようとしている事、しかもお米はそれを 承知していて平気であるばかりでなく、寧《むし》ろ取持ちそ うだという事などを、女達は何時迄も話していた。 「お米さんは、三田さんは窮屈で嫌いだって言ってる んですよ。」 「そのくせ三田さんが、みなで芝居見に行こ言わはっ たら、あても連れて行って貰ういうてきかん、ほんま に気ま」な人やで。」  しまいには三田を味方に引入れる為めに、そんな事 迄もいい出した。 「ふだんは骨惜みして働かないくせに、面白い事だと 自分ばかりい峯めを見ようっていうんだからねえ。」 「いゝじゃあないか、君達もお米さんもみんな冖緒に 行けば。」  あんまりめいめいの心の山丁が見え過ぎて来て、きい ていてもいゝ気持で無い為め、三田はなだめるように 口をはさんだ。 「それだってうちの用事があるから、三人とも行くっ てわけには行かないんですよ。し  芝居に行くという事は全く女中達の心をとらえて、 すっかり真剣になっているので、三田にはひどく面倒 臭い事になってしまった。面倒臭いから早くかたづけ・ てしまう方がいゝという気にもなった。 「よしよし、君達のいゝようにしてくれ給え。今度の 14曜に行くときめるから。」 「ほんまだっか。何処の芝居にしましょか。」 「おみっつあんも連れて行くんですか。」  二人は忽《たちま》ち膝を乗出して来た。 ㎝、勿論さ。芝居は何処でも君達できめて、御苦労だけ れど桟敷《ざじ》を取って置いてくれたまえ。」 二等ですか。」 「特等々々。」 三山は話を打切って、露骨な欠伸《あくび》をした。 八の九  おりかとおつぎを追払う為め早寝にした三田は、翌 朝あけがたに目が覚めてしまった。平生夜更かしで、 一時二時迄机にむかっている事も珍しくないのが、無 理に凵「くから床に入ったので、いったん目が覚める と、いくら努めても再び眠る事は出来なかった。  いさぎよく起きて本でも読もうと、廊下のつきあた りのはゞかり(、行くと、その戸に手をかけた時、中か ら開《あ》けて人が出て来た。びっくりして道を開くと、先 方もあわてて通ったが、三田を見ると一層驚いて頭を 下げた。長襦袢にしごきをしめた姿は背丈をなお高く 見せた。直ぐに三番の襖の中に消えたのはおみつだっ た。 円田は部屋にもどって又床の中にもぐり込んだ・膣 |夜《く》夜中に野呂達が帰って来た気配《ナまへ》は知っていたが、う つゝながらも聞いた人声は野呂とお米のものだった。 それで安心したわけでは無いが、直ぐに又眠ってしま って、おみつが泊っていようなどとは微塵《みじん》も考えなか った。矢張売物だったのかと、兼々《かねがね》一分の疑を残して いた事がはっきりとわかったが、それにしても余り無 雑作なのが腹立たしかった。仕立物を頼んで、それが 出来上って持って来た時が初対面で、二度目が洋食と 活動で、それでもう万事済んだのか。いくらなんでも、 ゆとりが無さ過る。詩が無い。遊びが無い。なんとい う簡単な取引なのだ。しかも其の取引のきっかけをつ くったのは、蟒が酔払って見ず知らずの野出の頭に酒 をぶっかけた事に始まり、仕立物ならおみつに頼んだ らよかろうと冗談に言った自分の言葉も重大な役目を. つとめたのだ。そう考えると、三田は世の中の一切の 事が馬鹿々々しいような心持になった。  朝の御膳を運んで来たおつぎは、 「あんた知っていやはりまっか。」  とたっぷり意味のある笑を示して訊いた。 「何を?」  三田は自《おのずか》ら顔が赤くなるのを感じながら、空とぼけ てききかえした。 「昨晩《ゆうべ》おみっつあん泊って行かはりましたぜ。」  声をひそめながら、二番の方角を指さした。 「今朝早5いにましたがな、よう平気であて等に挨拶 して行けた屯のと感心しましたわ。」 「そりゃあ商売だもの。」  三田は平気をよそおって言ってのけたが、自分のハ.汽 葉ながら不愉快だった。もっと詳《くわ》しい事をきき度いよ うな、 …切何もきき度くないような、いりまじった心 持で、歯が悪くて上手には喰べられない御飯にお茶を かけて流し込むと、さも忙しそうに立上って、会社に 出かけた。往来で、いつもの通り日華洋行の娘と出会 った時は、その美しさによって不浄を払ったような気 持がした。  けれども、その晩は又一層深刻に、野呂とおみつの 事を女中達にきかされて参ってしまった。洋食を喰べ て、活動を見て、三人が帰って来たのは十二時.頃で、 お米が万事.取計《とりはから》って自分で寝床迄敷いてやり、おみつ を泊めてしまったのだそうだ。 「二円ですとさ。」  おりかは画皰《にきび》だらけの顔をあからめて言った。 「へえ、それが相場かい。」 「いゝえ、相場ってわけじゃあないんですとさ。野呂 さんがね、自慢そうにハ.日ってるんですよ。あの娘はち っとも.面自くないし、洋食も喰べさせてやったし、活 動もおごったから、一円五十銭位で沢山だと思ったけ れど、奮発して二円つかまして帰しただって。」  おみつは二度と野呂には呼ばれなかった。ニニ.旧た、 てつゞけに、皆《みんな》にからかわれていた野呂は、その娘が 何の感興も起さない特殊の人間に属する事を、.露骨な. 言葉であらわして、さも損をしたような口をきいてい た。 「矢張お米さんに限るよ。」  と当のお米にむかっていうのを、お米も一向平気 で、面白そうに笑いながら聞いているのであった。 八の十  日曜の芝居見物は、女中達を興奮させ、誰と誰とが 行くという事で、はしたなくいい争ったが、結局おか みさんが大きいところを見せて、三人とも行く事にな ㈱ った。 「よろし、野呂さんの外にはお客さんいてはれへんの やから、一日だけあてが働いてやろ。折角三田さんが 連れて行ってやる言わはるのやったら、みんな揃うて 行くがえゝ。」  その一言で、真剣に仲間割のしそうだった形勢も無 事に納まった。 「三田さん、あんたも物好きな人ですなあ。しょうむ ないうちの女衆《おなごしゆう》や、淫売娘みたいなもんを連れて御芝 居見に行って、何が面白いのでっしゃろ。」  おかみさんは三田の顔を見ると、男らしい日のきき 方をして、からから笑った。  女中達が択《えら》んだ芝居は、雁治郎《がんじろう》でも延若《えんじやく》でも無く、 此の頃|流行《はや》る剣劇という立回《たちまわり》を売物にする書生芝居だ った。  その日は朝のうちから、女中達はそわそわしていた が、めいめい他所行《よそいき》に薙換え、厚手に白粉を塗って、 三田を促してうちを出た。おみつもすっかり身じまい をして、留守居を頼んだ近所の婆さんと、格子のとこ ろに顔を並べて待っていた。 電車の中でも、道頓堀の人ごみの中でも、女中達は 事毎に面白そうに笑うのであった。自分達が年中あこ がれている芝居に行くという事で、世の中の万事が面 白く楽しくなったのである。けれども、おみつはとり すました口元に微笑を浮べる位で、日頃に変らぬ寂し さだった。野呂がしきりにいう様に、何か肉体的にも 欠陥があるように見えるのであった。  劇場の中に入ると、女達の心持は一層浮立ち、緞帳《どんちよう》 の縫取に感心したり、天井を見上て驚嘆したり、桟敷《ざ.しをL》. に坐ったまゝ、天上《てんじよう》してしまいそうな様子だった。三 田は、誰が見ても不思議な組合せに違い無い此の一連 を、みんなが好奇の眼《め》を以て見ているように思われ て、心がおちつかなかった。早く幕が開いてくれれば いゝと思いながら、目の前のおみつの銀杏返《いちようがえし》のかげ に、かくれるように坐っていた。  丁度幕が開こうという時に、隣桟敷へかけ込むよう に来た一組があった。おや、と思う間も無かった。 「おゝ、三田君か。」  先方も気がついて、軽くうなずいたのは三田の勤め る会社の支店長だった。一家揃って来たので、でっぷ り肥った夫人と、中学の制服を着た息子と、女学校の 上級生らしい娘がいた。その誰もが、三田の一連を、 さも不思議そうに盗み見るのであった。 「会社の三田君。筆名樟喬太郎先生。今夕刊に出てい る小説の作者さ。」  豪傑肌の支店長は、家族の者に紹介して、何がおか しいのか高笑をしたが、しかし鋭い眼《まな》ざしで、女連を 観察していた。三田はすっかり恐縮して、さかんに斬 合っている舞台の活劇も目に入らず、芝居の筋なんか てんでわからなかった。  幕間《まくあい》に女連が何処かへ行ってしまうと、 「どういうおつれだね。」  と支店長は直《すぐ》に質問した。 「宿の女中です。」  三田は夫人や令嬢の手前を気にして赤面しながら咎 えた。 「女中慰安か。」  又高々と笑ったが、さっぱりと話題を転じて、 「あんまり評判が高いので見に来たが、痛快だね。男 と女が泣いたりいちゃついたりするのよりは画白い。 今の立回なんか真に迫っている。」 と感服していた。 九の〕  涼しいと思った風もいつしか寒くなった。川に面し た縁側の玻璃戸《ガラスど》をゆする木枯《こがらし》の日もあった。夏中閉口 した西日も今は恋しいのに、日の暮が早くなって、そ れもさして来なかった。束京のようにはげしくはない が、矢張|塵埃《じんあい》の舞上る往来を、三田は外套の襟を立て て会社に通った。新聞に出ている小説も間も無く終り に近く、暫く休息したので又燃えて来る創作欲に駆ら れて、夜は火鉢を抱えて新規の作品に取かゝった。  往来であう日華洋行の娘は、手編らしいオールド・ ・美の長い瘰の肩かけをしていた。寒そうな後姿 に、寒、の日の風情があった。おみつの家の前を通る事 も、三田にとっては一つの期待を伴っていた。格子の 中に障子がはまったので、夏の頃のように姿を見かけ ないのが物足りなかった。張合の無い、内気とい5よ りも無神経な娘は、自分が色をひさぐ事さえ、何の反 省もなく従っているらしかった。大阪には、嫁入道目パ 躍 をこしらえる為めに、そういう稼ぎをする娘も少なく ないと聞かされた事など思いム日せて、三田は持前の、 みじめなものに対する愛憐《あいれん》を感じていた。芝居に行っ てからは、先方は一段と親しさをましたか、以前より も微笑を深く湛《た」》えて挨拶するのであ.った。 「三田さん、あんたおみっつあんをどう・そしてあげた らどうですか。三田さん、三田さんとよう噂していや はりまっせ。」  男と女とは必ずくっつくものと思い、くっつける事 にも多大の興味を持って居るお米は、腑に落ちない三 田の態度を歯がゆがった。  そのおみつの家の二階に、或日宿のおっさんの姿を 見出した。肱かけ窓に肱をついて、三田を見下してに たにた笑っていた。 「今日ね、おみっつあんの家の二階から、うちのおっ さんが顔を出していたがどうしたんだろう。」  と何か心にかゝるものがあって、三田は直ぐさま訊 いてみた。 「おっさんですか。あすこの家に問借しているんです よ。」  おりかは満面の面皰《にきび》を笑で動揺させながら、意味あ りげにいうのであった。 「へえ何時《いつ》から。」 「つい一週間ぼかり前からです。おっさん、若い女と 一緒にいるんですよ。」 「おみっつあんかい。」  三田は唇の厚ぼったい、舌が長過て涎《よだれ》のたれそうな 薄汚ないじいさんの顔を思い出して胸が悪くなった。 「いゝえ、おみっつあんじゃあないの。何処の娘だ か、身投しようとしたのを助けて、その人といっし.出 に住んでるんです。」  嘘のようなほんとの話を、おりかは三田の酒の肴に した。  つい此間の大雨の晩、おっさんは何処かで引《ひつ》かけて ふらふら帰って来る川岸《かし》っぶちで、正に身を投げよう とする女を抱きとめた。びしょ濡れになっているのを うち迄連れて来たが、うっかり引擦《ひ費ず》りこんでおかみさ・ んに叱られてはつまらないと考え直し、おみつのうち に談判して、その晩から二階を借りる事になった。女 は近在の百姓の娘で、いろ男に捨てられたのを悲観し て死ぬ気になったのだそうだ。 「まだ十九か二十《はたら》位だろうね。それをおっさんはいう 事をきかせようって大変なんですよ。」  おっさんは折荊自分が授かって来た女を逃しては大 変だと思って、おみつの家の二階にとじ籠ったまゝ一 歩も外出しない。宿の風呂をたく事もしないので、お かみさんはもう寄せつけないと怒っているというので あった。 「それじゃあ無理にその女を監禁しているんだね。」  三田は驚いて膝を乗出した。 九の二  三田は、おりかに聞かされたおっさんと、おっさん が助けて連れて来た女齟の事がひどく気になった。あん まり手近に起った事件なので、かえって嘘らしくも思 われたが、万】事実だとすれば黙視出来ない。警察に 訴えるのは面白くないが、何とかして救い出してやら なくてはならない。三田は、活動写真の主人公のよう に勇敢な自分を空想した。木枯《こがらし》の吹き荒《すさ》ぶ夜半《よわ》に、教 会の建物のかげから忍び出て、おみつの家の廂《ひさし》に手が かゝると、身軽に屋根に飛上る。雨戸を押破って忍び 込む。誰も気の付かないうちに娘を抱いて出て来る。 そうで無ければ、間一髪《かんいつばつ》というところにあらわれて、 おっさんと格闘したあげく、女を奪還する。そういう 冒険の幾場.画が、無数に口の前に映じるのであった。  話を聞いた晩には、わざわざ散歩に出て、おみつの 家の前を通って見たが、二階の雨戸はしまって、灯影 ももれて来なかった。  それ以来、三田は会社のゆきかえりに注意して見る が、時々おっさんが間抜な顔を窓にさらしているばか りで、ついぞ女の姿を見無かった。けれでも、女がそ の二階に居る事は、外の者の口からも確かめられた。 「おっさんが鉦晩々々その女《のなご》はんを冂説《くど》いて居るの が、とてもおかしゅうて堪らんと、おみっつあんが話 していやはりました。」  おつぎもおりか同様に、此の事件を年とったおっさ んの演ずる喜劇として笑って居た。男に捨てられて身 を投げようとした若い女が、救われたじいさんに監禁 されて、いう事をきけと攻められている悲劇だとは考 えていなかった。 「それで、どうしてもおっさんのいう事をきかないの かしら。」 「へえ、いやや言うて承知しやはれしめへんのです ・と。」 「そんなにいやがるのを、いゝ年をしてよせばいゝの に。最初助ける時は、助けようという気持丈で、別段 後でものにしようという考は無かったんだろうじゃな いか。」 「それはそうでっしゃうがな、おっさんにしてみれ ば、着物を買うてやらはったし、喰べる物も喰べさせ たし、何やかやともの入りもおましたよって、たゞで かやしたらつまらんと、こないにまあ、思うていやは るのでっしゃろ。」  そういうおつぎの態度にも、命を助けてやり、衣食 も与えたものだから、その代償として要求するのは当 然ではないかといい度そうな様子がありありと見え た。おりかにしても、お米にしても、みんなこれと同 じ考えらしかった。 「いったい其の女の人は毎日何して暮らして居るんだ ろう。まさか朝から晩迄おっさんに口説《くど》かれて居るわ けでは無いだろう。」 「へえ、昼間はおみっつあんといっしょにお針してい やはります。うちへ帰って百姓するのはいやだし、今 更親達や村の衆に.顔を合せる気もないから、大阪で何 処ぞへ塞公したいとも言うていやはるそうです。」 「ふうむ。」  一人の女が、せっぱ詰った苦艱《くげん》に遭辿して居るのだ から、どうしても救い出さなくてはならないと考えて 居た三田は、存外登場人物が平気らしいのに驚いた。 世の中は広くて深いなあと、彼は自分の一本気を顧《かえり》み て恥じる心持さえ起した。 九の三  それでも三田の心の底には安んじないものがあっ た。何といっても、若い女を監禁して居るのは許し難 い。いくらおっさんが日説いてもいう事をきかないと いうけれど、それも何時迄持|堪《こた》えるかわからない。万 一暴力に訴えたら、それっきりではないか。どうして も其処に至る前に救い出さなければならない。三田は しきりに機会をうかゞって居た。  或晩散歩に出て、それとなくおみつの家の前を通り、 あかるい町の方へ行った時、小問物を売る店から、湯 上りらしく、ふだんよりも白粉の濃いのがくっきりと 夜の町に浮んで出て来たのはおみつだった。笑.顔を傾 けて行過るのを、三田は思い切って呼止めた。 「何ぞ御用ですか。」 「一寸話があるんですけれど。」  呼止められて、日和《ひより》下駄の音をとめたおみつが、女 らしい不安を浮べて居るのを見て、三田は不図《ふと》日こも った。何処へつれて行って話をしたらいゝか迷ったの である。 「あなたこれから何処かへ行くんですか。謡の稽古で すか。」 「はあ、いゝえ、別段急ぐ事も御座りません。」 「そんなら暫くつきあって下さい。決して長くは引止 めませんから。」  三田はそのま玉おみつの家とは反対の方へ歩き出し た。往来の人があ.やしんで見て過るのがいやだったの である。おみつはつゝましく一間ばかりの間隔を置い てついて来た。  西洋料理屋だの鳥屋だの蕎麦《そば》屋だの、いれごみのう ちは避けて、三田は小料理屋を選んだ。 「おいでやす.。お上りやす。」  帳場に坐って居るおかみさんが、じろじろ客種《きやくだね》を観 察しながら、不精《ぶしょう》ったらしく迎えるのをうしろにし て、急な梯子段をLると、右《あが》と左に一室ずつある座敷 の往来に面した小さい方に通った。壁の上に品書の貼 つけてあ.る程度の小料理屋で、求められればさのさ位 はうたいそうな女中が、これも二人をうさん臭そうに 見ながら注文をきいた。  みつくろいのさかなに酒が出て、御酌には及ばない というと、 「そんならよろしゅうお願いしまっさ。」  とおみつに挨拶して引さがった。 「実はね、あなたにききたい事があってね。」  三田は手酌で飲みながら話をきり出した。小ちんま りとして綺麗な顔ではあるが、何時も物足りなく思わ れるのはおみつの表情の無い事だった。往来で呼止め られて、小料理屋の二階に連れて来られても、別段何 の動揺も無い、きめの細かい薄皮の顔をあかりの下に 絢 はっきり見せて、行儀よく坐っていた。 「あなたのうちの二砦に、酔月のおっさんが居るでし ょう。」 「へえ、いやはります。」 「そのおっさんの外に、若い女の人が一人いやあしま せんか。- 「へえ、いやはります。」  何の話かと思っていたら、おっさんの事なので意外 らしかった。 「私はよくは知らないのだが、その女の人は、男に捨 てられて身投しようとしたのを、通りかゝりのおっさ んに助けられたとかいう話だけれど、ほんとですか。」 「そうやそうでして。」 「ところが其後おっさんは、その人をあなたの家の二 階から外に出さず、いう事をきけと言って責めて居る という事だけれど、そんな隆《け》しからない事があるんで すか。」  それが事実ならば許して置けないと思うので、自然 と語気が強くなった。おみつは自分が咎《とが》められて居る ような驚《おどろき》を見せた。 「何とか彼とかいうていなさるようですけれど……」 「それでおっさんは無理にどうしようとかいうような 事は無いのですか。手芒抽な事でもするというような。」 「手荒な事をなさるような事はおまへんでっしゃろ。」 「だって一週間も二週間も根気よく口説いて居るとい うのだから、どうしても駄口だと見たら乱暴しないと も限らないでしょう。」  頼りにならない相手の返事に少々|苛々《いらいら》して、食台に ついた肱にも力が入った。 「そない言わはりますけどなあ、女《あなこ》さんの方が体も大 きゅうて、おっさんよりも強そうに見えま」、ー'よって、 大古甲おまへん。」  三田ははり詰めた気が弛《ゆる》んで吹出しそうになった。     九の四  女を監禁している悪漢1それがよぼよぼの涎《よだれ》の垂 れそうなおっさんなのは張合が無いがーに対し、自 分は義血侠血に富むひとかどの役柄を引受けて、目出 度く救い出そうという緊張した場面を想像して居たの に、話が進めば進む程劇的要素の減って行くのは喰い 足り無い事であった。三田の心持は、少なくとも当の 女は逃げようにも逃げられず、絶間無い責折檻《せめせつかん》に苦し められ、悲歎にくれている位の事は当然ある可き事だ と思っていた。けれども、根掘葉掘訊き糺《たf》しているう ちに、段々それは裏切られて行った。 「けれどもねえ、何故《なぜ》女の人は逃げ出さないんだろ う。おっさんが手荒な事をしないのなら、逃げられそ うなものじゃあないかと私は思うけれど。」 「それは逃げようと思うたら逃げられん事はおまへ ん。けれども、逃げたかて行くところも無いさかい、 えゝ奉公先でも見当る迄は、辛抱していた方がよろし ゅうおまっしゃろ。」  どうしても親もとには帰らないと、その女.は言って いるそうである。 「では別段泣かされているわけでも無いのかしら。」 「はじめは泣いていやはる事もおましたが、それかっ ておっさんがいじめるからというわけでも無いので す。やっぱり女《おなご》ですからなあ、身を投げ・ようと思うた り、知らぬうちに連れて来られたりして、心細う思う たのでっしゃろ。」 「そんなら今は泣いてはいないのですか。おっさんが 見張をしているから、何処にも行かれないというわけ でも無いのです.か。」 「見張はしていやはります。そないせんかてよろしい のに。」  三田には何の事だかわからなくなってしまった。 「では、おっさんと一緒にいるのはいやではないのか しら。自 「いゝえ、いやはいやですわ。けれども、命は助けて 貰うたし、着物を買うて貰い、御飯も喰べさせて貴う た義理もおますよってなあ。」  三田は又してもぎゃふんと参った。おつぎやおりか 同様、此の娘も衣食の為めにもの入りをかけたからに は、むげに振《ふり》もぎって逃げては済まないという考えを 持って居るのであった。 「そんなら其の義理を果す為めには、おっさんのいう 事をきく義務があるともいえそうですね。」  自分の道徳観とあんまり違い過るので、三田は皮肉 な質問をした。 「それですがな・本人は大阪で奉公したいいうていや跚 はるので、そんならえゝところに奉公させてやるから と、おっさんが又|自説《くど》かはるのでっせ。」  心持、顔を紅《あか》くはしたが、おみつはあたりまえの事の ように話した。つまり、たゞ口説いたのでは女も承知 しないが、奉公口を探してやるという交換条件で、完 全に落そうという事なのだ。そして女の方も、奉公口 さえ探してくれれば、うんといいそうな話だった。三 田は世の中の広いのに驚嘆した。  おみつはいくら勧めても遠慮して箸《はし》を取らなかっ た。 「えらいすみませんけれど、頂いて帰っても大事おま へんか。」  病気の父親《匸・おや》に土産《みゃけ》にするというのであった。最初か らその積りで、ちっとも箸をつけなかったのかもしれ ない。三田は女中を呼んで勘定を命じた。  おみつは、自分の分と、三田が喰べ残したのとを一 つの折に詰めて貰って大事そうに提げた。天ぷら塩焼 はいう迄も無く、お椀の甲の魚もあった。 九の五 おみつの家の二階にいるおっさんと、おっさんが助 けて来て且《かつ》1ー説いている女にかゝわる、二国の心配は少 しは滅ったけれど、、一人の関係はいう迄も無く、おつ ぎ、おりか、おみつなどの態度も、三田の潔癖が承認 しがたいところだった。どうにかして、おっさんの手 から女を解放して、面自くない.取引の行われないよう にしてやろうと思っていると、或日会社の帰りに、お みつの家の二階の窓に顔を出しているおっさんを見つ けた。何時もにたにた笑いかけるのを、知らん面して 通過《とおりすぎ》るのであ・ったが、三田はその日思い切って此方か ら声をかけた。 「おっさん、いっぱい飲もうか。蛸安はどうだい、」 「よろしいな。」  もう酒の香が鼻をつくように相好《そうごう》を崩して応じた。 「今晩行こうか。」 「行きまほ。」 「それじゃあ.後で誘いに来るよ。」  しめたと思いながら、三田は宿に帰った。急に他所《よ〃》 で飯を喰う事になったからと断って、湯に入ると直ぐ に支度をして出た。暗い夜で、つめたい風が埃を吹き つけた。  おっさんは待兼て、寒いおもてに.顔を吹きさらして いた。 「こない寒い晩は、御酒《こしゆ》の事だんな。」  鳥打帽子を目深《まぶか》にかぶり、毛糸の襟巻に顎《あご》を埋め、 背中をまるくしながらしきりに水洟《みずつばな》をすエり込む。川 岸に出ると風はなお更強くなった。 「旦さん、あんた蛎《かき》嫌いだっか。」 「嫌いじゃあない。」 「蛸安もよろしいが、どうで御馳走になるのやったら、 蛎船《かきぶね》よばれましょか。」  おっさんは突然|立停《たちどま》って提議した。 「蛎船やったら、あてがえゝとこ知っていますがな あ。」 「僕は何処でもいゝ。蛸安に限るってわけでは無いの だから。」 「ほしたら蛎船にしまほ。どて焼や、からまぶしや、 酢蛎、みなよろしいな。」  おっさんはすっかり満足して、今来た方へ91返し た。酔月の前をこっそり通り抜け、次の橋袂にある蛎 船に三田をつれて行った。 「今晩は。」  川岸から渡した踏板を踏んで、馴染《なじみ》らしく声をかけ た。 「ようお越し。誰かと思うたらおっさんだっか。」  水に近い食台を占めた二人のところへ、年増《としま》の女中 が来て挨拶した。 「旦さん、あんた何あがってだっか。酢蛎いいまほ か。」 「何でも君の好きなものをあつらえてくれ給え。」  おっさんはあれこれと自分の好みを言った。 「あのなあ、お兼いたらなあ、ちょと呼んどくれん かD」  あつらえを聞いて立って行く女中を呼止.めて、頼み なぶら、楽しそうな笑を満面に浮かべて、厚ぼったい 唇をなめた。 し).丶 」ノα,ノ  お銚子を持って出て来たのは、がっしりと肥った若 い女中で・健康そう魚濯の亀笑わない時にも伽か錨 な皺の寄っている目尻、くゝり顎の線のはっきりし た、何純 から見ても善良で、生活力にみちみちてい た。客馴れない事は、薄べりを踏む足つきにも歴然と あらわれていた。 「いよう、今晩は。」  おっさんはしまりの無い口尻から涎をたらしそうな 相好をして、頓狂な声を出したが、相手はまるっきり 無感動で、食台の上にお銚子を置いて、別段お酌をし ようともしない。もう一人の年増の方が、どて焼の鍋 や、生蛎の大皿を運んで来て、あんばいよく並べて行 `3た。 告こちらは酔月のお客さんや。」  自慢そうに三田を紹介し、 「お酌もようせん仲居さんも画白おまっしゃろ。」  と三田の方には女中の事をそれとなく引合せた。そ う言われてお銚子を取上げて、女は不器用な太い手で 酌をした。 「旦さん、この仲居さんはまだ新米だすさかい、気《きい》の きかんところはかんにんしておくんなはれ。」  おっさんは盃を大切そうになめながら、素晴しい機 嫌だ。 「お馴染かい。」 「お馴染もお馴染、うちの娘みたいなものですが。」  へらへら笑いながら、おっさんは手持無沙汰に悩ん でいる女から目を放さない。 「旦さん、許して貰いまっせ。ひつれいとは思うけれ ど、きっちり坐っとったらお酒がおいしゅうないわ。」  堅く膝を合せ、足のうらにお尻を乗せていたのが胡 座《あぐら》になると、 一層酒の味がたちまさるのであった。  三田は悪酒に閉口していた。喰べさせる物はうまい けれど、年中口中に涎のたまっているおっさんと、ひ とつ鍋をつッつくのもいゝ気持はしなかった。  おっさんは舌たらずの口で一人で喋った。無言で、 どっしりと坐っている女中を促しては三田にも自分に も酌をさせ、その酒の味をほめながら、押頂くように して飲んだ。たるんで皺の寄った顔.にも脂肪《あぶら・》が浮き、 お金を出さないでいくらでも飲める.酒の嬉しさは、か くす事が出来なかった。 「旦さん、えらいひつれいですが。」  先刻《さつき》から手放さない盃を、さして来た。三田は涎の たれそうな厚唇のあ.ったかみの残っていそうなのに辟 易したが、受取らないわけにも行かなかった。 「僕は麦酒《ヒー哩》の方がい玉なあ。」  =.田は全く弱って、逃口上を考えながら、受けた盃 を下に置いた。 「麦酒だっか。あのような苦いものがなんでおいしい のやろ。天下にお酒程結構なもんはあれしめんがな あ。」 「兎に角僕は麦酒だ。」 「そうだっか。旦さんは麦酒がえゝ言うてはるさか い、早う持って来てあげなれ。」  女中はせき立てられて立って行ったが、その後姿を 見送って、おっさんは声を落し、 「旦さん、あの女《おなご》なあ、男に捨てられたいうて、川に はまって死のうとしたのを、わいが助けてやったのだ っせ。し  と一大事を打あけるように言った。 「え、あれが?」  三田は不意うちを喰って息を呑んだ。 「ほんまだっせ。若い女のくせに、むちゃしよる。」  おっさんは、功名話がしたくてうずうずしている厚 韓をなめて一膝乗出した。 九の七  おっさんの話は、おつぎやおりかに聞いたのと同じ で、大雨の夜の川端で偶然助けた女を連れて帰り、身 の上をきいて見ると男に捨てられた口惜しまぎれに死 のうとしたというので、なだめすかして思い止.まら せ、その後衣食の阯話をしていたというのであった。 たゞ違うところは、無理口説きに口説き通していたと いうこと丈である。話のなかばにお兼というその女は 麦酒と酒のおかわりを持って来て、二人の間に坐った が、別段自分の話をされているという事に特別の色も 動かさなかった。まるっきりの山だしだけれど、はち きれそうな健康な顔つきには、つくろわない愛嬬があ って、助平な年寄が愛撫の手を出したがりそうなとこ ろは認められた。 「どこぞ大阪で奉公し度い言うので、よろしい、命を 助けたついでに、それも世話してやろうとこない言う てなあ、あちらこちら聞合せたあげくに此のこゝのう 跚 ちへ連れて来ましてん。」  折角さした盃をうけっぱなしにされた形で、何時か えって来るかと待っていても埓《らち》があかないのに我慢出 褒無くなり、そうっと手を延ばして取.灰して、又ちび りちぴり飲み始めた。 「しょんべん臭い百姓の伜《ごがれ》にだまされよって、えゝ事 した迄はよかったが、犬ころみたいに捨てられたかっ て、川にはまるいうのは阿呆らしいやないか。広い大 阪には、お日いさんも照れば花も咲く、色こそ白うは ないがまんざら捨てたきり.出うでも無し、よう分別す るが利口というもんやぜと、此のおやじが説法して聴 かせました。」  酔えば酔う程おしゃべりになるおっさんは、長過て あつかい悪《にく》い舌で土下《うえした》の唇をなめながら、くどくど繰 返して自漫をする。 「人間一人救うた心持は何ともいわれまへんな。これ も大子様の赤子《せきし》の一人やさかい、おかみから御ほうび が下《さが》ってもよかろうと思うけれど、まだ下らん。」  三本四本徳利が空になって、おっさんのろれつは 愈々あやしくなって来た。三田は時折麦酒に口はつけ るが、心持が重たくなって、いたずらに煮詰まる鍋を 見ている事が多かった。身投しようとする女を助けた という丈でも緊張した話なのに、その女を監禁して口 説いているという驚く可き事件に興奮して、ひどく悲 痛な人生の奥底に直面したように感じていた三田は、 案外何の葛藤《かつとう》も無く、当事者は当事者相応の考えで、 すらすらと解決して行くのに驚く外は無かった。可哀 そうなめにあっているだろうと思った女が、存外壮健 な肉体と無頓着な精神をもって日の前に坐っているの も、本来ならば目出度い筈なのだが、なあんだ下らな いと思う心を禁じ兼た。それにしても、おみつが話し たように、此の女は塞・公口を求め、おっさんがいくら 口説いてもたゞでは応じないので、その奉公日を見つ けてやるからいう事をきけと昌.日ってたというのがほん となら、此の女も結局蛎船の女中に世話して貰って、 うんと言ったのかしら。果してそうなら、何処迄世の 中は単純で複雑なんだろう。全く無神経らしい健康な 女を見ていると、おっさんのようなじいさんでも、何 の交換条件も無しに身を任せそうな気もして、三田の 心は呑気《のんき》になった。彼は川波に少し揺れる舷《ふなばた》に肱を ついて、つかれた肚《はら》の底から欠仲《あくび》の出て来るのを噛み 殺した。  そんな事には頓着無く、おっさんは相手にしても面 白く無い三田をうっちゃらかして、女の方にしきりに 話しかけていた。 「なあ、二度と浮気したらあかんぜ。悪い奴にだまさ れたら、又身を投《な自》るような事になる。うゝい、死んで はなみが咲くものかいう事知ったるか。」  冷たくなった徳利の底の酒をしたんで飲んだが、も う体の上半分の重みが支え切れないで、 「旦さん、もう飲めまへん。若い時は家倉も飲んだお やじだが、もうあ.かん。」  といいながら、ずるずると滑るように横に足を技出 し、 「ひつれいさせて貰いましょ。」  とぐったり倒れると、まるまるとはちきれそうに盛 上った女の膝を枕に寝てしまった。 十の一  年の洋になると、 一年の総勘定の決済に集って来る のであろう、諸国の商人で酔月も忙しさを極めて居 た。酔月が忙しいばかりでは無い、大阪甲が何となく. ざわざわして、ぼろい儲《まうけ》をしたのか儲けそこなったの か、何れも興奮して血眼になって居るようだった、  ついぞ懐にありあまる金のはいらない月給取さえ、 誘い込まれて多忙がっていた、三田は別段平生と変っ た事も無かったが、新聞社から受取った長編小説の原 稿料も夙《と う》につかい呆し、月末に賞与金を貰うのを楽し みにしながら、逼塞《ひつそく》していた。そういう時には、半分 はやけになって勉強するのが、彼の精神修養の方法だ った。たまには酒を飲みに行き度い衝動もあったけれ ど、何をいうにも懐中が承知しないので、只管《ひたづら》机にむ かっていた。  月のなかばに、田原に誘われて同窘会に.顔を出した のが、久々《 さびき》で人中へ出る事であった。 ホテルの広間を 借りて、安い会費で催す、あたじけないものではあ.る が、時々出席}して置くと、寒、唇の挨拶状などを出さな いでもいメような気がするのであった,  つきあい下手《r》の三田でも、珍しいというのが一徳《しつとく》 で・会場では存外もてた・殊に最近迄新聞に連献され鄰い ていた小説の作者だというのが、人々の好奇心をそゝ った。食堂では田原と並んで席に着いた。丁度向いあ わせて、見た事のあるような、無いような、大兵肥満 の男がいたが、田原とは知あ.いらしく、ことぼをかわ していた。柄こそ大きいが、ぶよぶよ肥りの色白で、 いかにも大阪育のぼんちらしいところのある、善良そ うな人だった。 「井元さんは三田君知っていませんか。」 「へえ、御山高名はかねがね承《うりたまわ》 って居りますけれど。」 「そうでしたか。それでは御紹介しましょう。三田君 です。井元さん、日華洋行の大将さ。」  双方に凵をきいて、ひきあわせた。 「樟先生ですな。せんど新聞に御作の出とります時 は、毎日楽しみにして愛読して居りました。私よりも 家内の方は殊にあなたの御作が好きでして……」  自分達よりは確かに三四年先輩に違い無いのに、ま るっきり商人らしいへりくだった態度に出られて、口 の重い三田は殆んど何もいえなかった。それよりも、 相手が日華洋行の大将だという事が、彼の胸をどきつ かせた。 「日華洋行といいますと十佐堀の……」 「そうです。どうして御存じで。」 「私は御近所に下宿して居るものですから、散歩に出 たりして記憶にあるのです。」 「へえ、さよですか。ちと御立寄下さい。むさくるし い所ですけれど。」  三田は征…心でいう相手の言葉にも顔が赫《あが》くなった。 しかし此の人の店に彼《あ》の娘がいるのだと思うと、話を していても嬉しかった。他人で無いような気もした。 こんな素姓の知れている人の店に彼《あ》の娘がいるという のが安心だった。 「井元さんなんざあ.、大したものなんだ。全く自分一 人の店で、思うように経営出来るんだからなあ。」  田原は、あんまり思うに任せない自分の会社とひき くらべて、心から羨ましそうだった。  会のおしまい迄田原と三田は一緒だったが、井元は つきあいが広いと見えて、あっちこっちと人中を回っ て歩いて居た。大男に似合わない細い声で笑うのが、 その特徴のひとつだった。 十の二  三田の心には楽しい空想の花が開き始めた。日華洋 行の主人井元安吉と知合になったのが手蔓《てつる》になって、 何というのか名前は知らないけれど、その店に勤めて いる美しい娘と凵を聞く機会が出来そうな気がした。 此の半年の間、日曜祭日を除いては、大概一日に一度 か二度は往来で擦違い、先方こそついぞ振向いて見た 事も無いが、此方にとっては大阪中で一番[忘れ難い人 なのだ。いったん近づいたら、極力いゝ印象を与える であろう。交際する。土佐堀に端艇《ボ ト》を浮べて月を見る 景色を、年の暮だというのにはっきりと想い描いた。 それから父母を説いて結婚に同意させる。仲人《なこうど》には田 原夫妻を頼もう。共処迄考えた時、最も頑固にありき たりの社会の掟を守る両親が、おいそれと承知しない 事で空想はつまずいた。しかし、両親が反対するとい う甫.軍も亦、結局それに打勝ってしまえば、かえって後 の宣口びを深くするだろうと思いかえした。  就中《なかんずく》緊張したのは同窓会の翌日の朝、会社へ行く途 ⊥で当の娘に出あった時である。今日はと呼びかけ て、いきなり帽子を取って挨拶しても差支無《さしつかえ》いような 気がした。  けれども、三田の空想は長くは続かなかった。同窓 Aムで始めて紹介されてから僅《わす》かに一二凵目に、井一兀安士冂 は自殺してしまった。  その日、何も知らないで執務している三田のところ へ、田原が突然やって来た。 「おい、井元が、死んだよ。」  と興奮して調節を失った声で言った. 「死んだ?」 「やっちゃった。」  田原は額に短銃の筒口を押当てる形をして見せた。 「今暁一時、天王寺の自宅でやったんだ。先刻知らせ があったものだから一寸行って来たが、悲惨だよ。細 君と、子供が三人、六十幾歳だかになるお母さんが居 る。」  井元は日華洋行の営業成績が面白く無く、方々へ不 義理が出来た上、最近不渡手形を出したのが世上の噂 になると、根が善良過る位善良な人間だから、おもい つめて自命《みずから》を絶ったのだ。彼は養子で、先代が一代 に築き上げた商売と身代を、自分の失敗で失う申訟・な 朏 さが、遺書に認めてあったそうだ。 「それにしても同窓会に出て来た時は、如何にも世の 中が面白そうな.顔をしていたじゃあないか。」  色白のぶよぶよ肥りの大男の笑顔は、はっきりと目 に浮ぶのであった。 「ところがね、同窓会に出たのも、みんなに決別を告《つげ》 るつもりだったらしい。細鱈の話によると、此の一週 間ばかり、のべつに親類や友達のうちを訪問していた そうだ。」 「死を決してから、あれ程|柔和《にゆらわ》に笑っていられるもの かなあ。」  三田は、たった一度口をきいたばかりだけれど、其 の人の動かし難い覚悟をもって行《おこな》った死を惜んだ。従 容《しようよう》として死に就くというと、おそろしくいかめしく聞 えるが、たよりの無い大阪弁で、柄に似合わぬ細い声 で笑いながら人々の間をあちらこちらと愛嬌を振まい ていた井元にも、しっかりした肚《はら》はあったのだ。  連立っておもてに出ると、夕刊の新…聞には写真入り で、人の不幸をいゝ材料にして書立てあった。 「どう褶俺は他人事《ひとごと》とは思えないよ。日華洋行ってい えば、 一時は素晴しいものだったからなあ。俺だって 何時なんどき変な羽日に陥《おちい》らないとも限らないんだ。 げんに、今度の決算次第で、専務さんもまた失職者と なるかもしれないんだ。」 「そんな事があるものか。」 「いゝや、あるんだ。今夜話すから聞いてくれよ。」  田原は友人の死に深く感動していた。三田は田原が しきりに繰返す井元の死に関連する事柄に耳を貸しな がら、一方には彼《あ》の娘が今後どうなるかという事を心 配して居た。    十の三  田原と三田は、北の新地に近い金ぷらや千種《ちぐさ》の二階 で、又新しく井元の死をいたみながら酒を飲んでい た。昼間井元の家に駆つけて、無惨な死体を見て来た 閏原は、酒が胸に間《つか》え、それをまぎらす為めに飲むの で、 一層酔ってしまった。 「三田公、俺はほんとに又失職だよ。」  酔いは酔っても、ふだんのようにはしゃがないで、 田原は自分の会社の業態の面白くない事、それよりも 内輪の重役や大株主の問に意見がもつれて困って居る 事を、彼には似ない愚痴っぽい調子で話すのであっ た。田原を専務取締役とする車両会社は、創立後左程 の年月も経ていないので、比較的に営業費は嵩《かさ》み、積 立金も少ないから利息収入も多く無く、・堅実な遣冂《やりくち》で 行けば、当分無配当で押通し、後日の発展を待っ可き 警である。しかし、事業そのものに熱情を持って居る のは田原以外には一人も無く、大阪式の口先の金儲ば かりを考えて居る連中は、三期も四期も無配当を続け て行く辛抱は出来兼る。そこで田原を圧迫して、其の 年の上半期には無理に四分の配当をさせた。ところが 此の下半期の決算には、六分の配当をさせようという 株主間の意見で、総会を間近に控えながら、田原は極 力反対しているが、金力の差は如何《いかん》とも為方《しかた》が無く、 あく迄自説を雫張すれば、彼は辞表を提出する外に途 が無いというのであった。 「そんならどしどし配当をして、みんなを喜ばしてや ればいゝじゃあないか。収支相つぐなわないという訳 ではないんだろう。」  三田は、年中理想論に悩まされて居る田原を、面倒 臭く思っていた。職工の待遇の改善を何よりも急務と する彼の雫.張には同感するが、外の会社との競争に堪 えられ無いのはわかり切って居るのだから、先ず儲け て後に志を行えばい』と考え、又あからさまに注意も した。田原が理想家としての美点は、実業家としての 弱味だった。 「そり・やあ多少の利益はあるんだ。しかしその利益た るや到底六分の配当は不可能な位けち臭いものなの だ。俺はあと二年間無配当で我慢してくれれば、その 後は八分の配当を保証してもいゝと言ってるんだが- ...」  彼は無理にうわべ丈の利益勘定を捻出《ねんしゆつ》して蠕《たこ》配当を する事は、結局何時迄も会社の状態を不安ならしめる ものだという事と、例によって職工の待遇改誰冂の急を 説いて正まなかつた。 「しかし、我華と雖《いたど》も失職の苦しみを再び繰返すのは 実に辛《つら》いんだ。」 「再びなもんか。もう四度《よたび》か五度《いつたび》は失職したろう。」 「ほんとだ。だが三田公、冗談じゃあないそ。毎日毎 日会社へ出かけて行った者が、いちにち中うちでぼん 躑 やり暮らしているのは堪らないそ。女房は段々不機嫌 になる、子供は最も敏感で、お父さんどうして会社に 行かないのって聞きゃあがるんだ。あの苦しみ丈はと ても堪らない。」 「そんなら株主の望み通り削当をしてやるのさ。」 「それが俺に出来るかい。」  田原は酔って重たくなった頭を横に振った。 十の四  翌日三田は何時もよりも早く宿を出た。日華洋行が どんな様子になっているか知り度かったのだ。会社に 行くのとは全く方角が違うのだが、同窓の先輩とし て、一度でも口をきいた人の死を弔《とむら》うのは当前《あたけまえ》だとい うような言い訳を心の中にたゝみ込んで居た。  店の入口には本日休業と書いた紙が貼ってあった が、中には頻《しきり》に話声がしている。一瞬間|踏躇《ちゆうちよ》したが、 三田は思い切って重たい開閉|扉《ドア》を押して中に入った。 躯然と机は並んでいるが、店の人達は仕事なんか手に つかないらしく、あっちこっちにかたまって、興奮し て話していた。主人の並ならぬ死に驚いたのと、今後 の店の運命と、自分達の生活の心配と、入りまじった 混乱が、誰の顔色にもあらわれて居た。  三山は身震いするように固くなって帽子をとった。 目の前の、受付と書いた札の出て居るところに、あの 娘がつゝましくひかえて居るのを見たのである。 「私は井元さんと同窓の者ですが、此度の事について は深く同情して居ります。御宅へ伺《うかゞ》うのがほんとう泥 とは思いますが、御近所に居りますので、こちらへ御 悔《くやみ》に伺いました。」  ついぞ使った事の無い名刺を出して、兵隊のような 切.口上で述べた。 「えなみさん、何の御用?」  奥の方の机に坐っている中年の社員が、椅子から立 上ろうとするのを見て、受付の娘は受、取った名刺を持 って行こうとした。 「たゞ御悔に伺ったばかりです。よろしく。」  三田は呼虚めるように声をかけて、もう一度|丁寧《ていねい》に 頭を下げておもてに出た。方々の家の屋根には露霜の 置く朝だったが、額に汗を覚えた。人の不幸を弔《とむら》う為 めとはいうものの、あの娘を見に行った事は否《いな》まれな かった。それが三田の心をたしなめた。  けれども、長い間たゞ途hで擁違うばかりだった娘 と日をきき、自分の名刺を残して来たのは少なからぬ 満足だった。えなみさんという苗字《みようじ》も知ったが、江南 かしら、榎並かしら、江波かしらーと考えながら、 銀杏返の生際《はえぎわ》のいゝ優しい顔だちを想った。  次の日の朝は何時もの通り、 一筋道の向うから急い で来るえなみさんの姿を見て、三田は胸を躍らせた。 昨日《さのう》日華洋行の店さきで口をきいたのだから、今日は 帽子をとって挨拶しても失礼ではあるまいと思った。 よした方がいゝかしらとも勿論考えたが、間近く来る と明かに先方でも自分を認めている様子なので、彼は 黒い中折の出に手をかけた。けれども、えなみさんは 明かに此方の視線を避けるようにうつむいて、知らな いふりをして通り過ぎてしまった。三田は振かえって、 遠ざかって行く後姿を見送った。五六間行過たえなみ さんは、何と思ってか半身を柔かくくねらせて振向い た。幾月の間、往来であう度に三田は立どまって見送 るのだったが、先方はついぞ振かえった事が無かった のだから、三田は不意うちを喰ったようにあわてて歩 き出した。  それっきり、その娘を途上に見る事も無くなった。 朝夕の物足りなさに駆られで、三田は又わざわざ日華 洋行の前を通って見たが、店はすっかりおもてをしめ て、商号の金文字で書いてあった看板も取はずされて 居た。     十の五  その年も愈《いよいよ》おしつまって、田原はとうとう辞表を提 出した。前期の四分さえ無理だったのに、秋になって から一般の不景気のあおりを喰って業績はおもわしく 無いにも拘らず、どうしても六分の配当をしろという 一派の大株主の圧迫に、死物狂で戸別訪問迄して対抗 策を講じたが、結局力尽きて敗れたのである。反対派 の手強《でこわ》い圧迫の底には、単に一期や二期の利益配当を 欲しがる欲得ずくばかりで無く、事毎に社会思想家が って、理想論を振回す田原を、小《こづ》、面《ら》憎く思う姑根《しゆうレ め》混 が潜《ひそ》んで居た。月の始めから再三軍役会を開いて懇談 しても、ねちねちと意地悪く絡《から》んで来る相手方の態度 に憤慨して、田原も自分の背後に控えている筈の父親 鋤 や親類の関係を辿《たど》って一味を糾合《きゆうこら》し、華々しく決戦し ようとした。しかし、味方と思う人の中にも、あまり に理想に走り過て居る所論をあやぶむ者も多く、殊に 興奮して来ると激越な調子になり度がる田.原を危険思 想の持主かと惧《おそ》れる者もあって、うまく纏《まと》まらなかっ た。おまけに、反対派は田原の戸別訪問を陰謀と見做《みな》 して反対宣伝を試み、此の方はうまうまと効果を収め たのであった。その為めに、田原の失脚は株主間の不 信任の結果だといわれても為方の無い形になってしま った。 「おい三田公か。今最後の重役会で思うさま奴等を罵 倒したあげくに辞表を叩きつけてやった。今晩は引退 祝をやるから出て来てくれ。」  その日田原は電話をかけて来た。受話器をあふれる ような高調子で、如何に彼が憤懣《ふんまん》に堪え無いでいるか は推測する事が出来た〇  三田は此問田原自身から、地位を保つ事が難かしい 状態に陥っていると聞くよりも前から、密《ひそ》かに今日あ る事を心配して居た。今時珍しく明るい性質で、物の 一面しか見る事をせず、陰影には全く気の付かない美 点といえぽいう可き特性が、到底現在の商売人として 成功させない事は、人問性に眼を光らせている小説家 の見逃さないところであった。殊に普通の勤人として は再三失敗したのが、有力な身内の者の後援で、突然 専務取締役の要職に就いたという事も不自然だった。 加之《しかのみならす》此の天降《あまくだ》りがおとなしく従来のしきたりを踏襲 して行かない。事の成否は頓着無く、よくいえば一歩 進んだ施設を実行しようとするのだが、悪くいえば先 走った事をやろうというのだから、反感を持たれ、あ やぶまれるのはわかり切っている。三田は田原の竃話 が切れた後、しばらくの間、如何に善良なる人聞にと って、現在の世の中は住みにくいかを考えさせられ た。  一度宿に帰って、湯に入って和服に清換え、田原の 指定した曽根崎新地の茶屋に行くと、田原は既に蟒《うわば・が》を 相手に酒を飲んで、真赤になって居た。 「どうもあんまりむしゃくしゃするもんだから、蟒姐 さんのお勧めに任せて先に始めちゃった。三田公、今 晩は痛快に飲むぞ。」 「何いうて。社長さんは何時も宵の口には威張くさっ て、あてがそろそろえゝ心持に酔うて来る頃には、僕 帰るよか、それで無かったら、葉牡丹さんの膝枕で高 鼾《たかいびき》ときまっているわ。」  蟒は既にコップを手にして、うまそうに咽喉《のど》を鳴ら して居た。 「おいおい、もう社長さん社長さんと言ってくれる な。今口から廃業だって今話したじゃあないか。社長 どころか、失業者だ。」 「かめへん、かめへん。社長さんみたいなやゝこしい 御商売せんかてよろし。そないな事にくよくよせん と、おいしいおいしいお酒を飲む方が利日だっせ。」 「そりゃ蟒さん姐さんのように禿頭がついていれば安 心だけれどね。」 「大きに。あんたの御父さんはちゃびんと違いまっ か。当分その毛脛《けずね》を噛っていたらえゝ。」 「いやあ、こいつは参った。」  後へひっくりかえりそうな格好をして、田原は自分 の頭を両手で抱えた。  田原がむきになって車両会社に対する不平不満をぶ ちまける事と想像し、如何に慰めなだめようかと考え ていた三田は、意外に陽気な座敷の景色に安心して、 蟒の差しつけるコップを受けた。 「田原の社長廃業を祝して乾盃しよう。」 「よかろう。」 「プロジット。」  蟒が柄にも・ない事を言って、コップとコップを触曾《ふれあわ》 せた。     十一の一  三《さん》ガ日《にち》と新年宴会の五日は、会社も休みだった。大 晦日《わ・みそか》迄はたてこんでいた酔月も、元日には客といって は三田一人で、三番の野呂も休暇を利用して東京にい る妻子のところへ行ってしまった。  宿の娘とお米は島田に結《ゆ》い、外の者も小ざっばりし たみなりに化粧をして、一人々々丁寧に年頭の挨拶に 来た。  三田は、無闇に厚ぼったい新年の雑誌の幾冊かを、 此の休みのうちに読んでしまおうと思って、元旦から 机にむかって居た。あいにくうそ寒い曇日ではあった が、往来には羽子《はこ》をつく者もあった。 「三田さん、あんたも羽子つきしませんか。」  と女中がかわるがわる呼びに来たが、三田は相手に ならなかった。 「三田さんみたいな人見た事無いわ。お正月の元凵か ら、机にかじりついて勉強していやはる。」  と話しているのが、三田の耳にも聞えて来た。 「三田さん、おみっつあんが遊びに来ていやはるさか い、 一寸御いでやす。」  午後になって、又おつぎが呼びに来た。丁度長々し い小説を読終ったところだったので、三田も気分をか える為めに、 「よおし。」  わざと元気よくこたえて本を閉じると、勢よく立上 った。 「げんきんなものですな。おみっつあんが来やはった いうたら、直ぐにこれや。」  先に梯子段《はしごだん》を下りたおつぎは、階下の連中にむかっ て笑いながら報告した。あけ故した玄関前の往来で、 みんなは羽子をついていた。根の高い島田に結ったお みつもまじっていた。 「さ、今度は三田さんとおみっつあんやし。」 「三田さんの御尻《おいど》叩いてやらんならん。」  無理に二人を向いあわせに立たせて、追羽子《おいはご》をさせ ようというのであった。 ひとめ みあかし いつやの ななやの ここのつ ふため よめ.こ むかし やくし とおオ  上方らしい悠長な節でうたうのにつれて、三田は不 器用な格好で羽子をついた。  夕方からは熨《みぞれ》が降出したので、三田の部屋隣の一番 広い座敷で、双六《すごろく》や歌留多《かるた》が始まった。は13めのうち こそ、正月気分で遠慮の無くなって居る女中達になぶ られているのも面自かったが、三田は長くおつきあい をして居る根気は無かった。それでもなかなか解放し て呉れないので、お酒を世貝って一隅で飲んでいた。  夜遅く迄無礼講の遊びは続いた。三田はお椙手にあ きあきして、酒に酔ったのを口実にして引さがり、床 に入って雑誌を読んでいたが、そのうちに眠ってしま った。  不意に、どたんばたん音をさせて侵入して来た人数 に驚いて目をあくと、女中達がおみつの両手をとり、 後からは一人が押して、無理やりに三田の部屋へ連込 んで来たところだった。 「三田さん、おみっつあんを一緒に寝せてあげとくん なはれ。」 「おみっつあんはな、三田さんが好きやいうていやは りまっせ。」  口々に勝手な事を喋りながら、おみつを二田の夜着 の中へ押入れようとする。おみつはそうはさせまいと して、畳の上に膝をついてあらがっている。三田が半 身起しかけると、女中達はおみつ一人を残して、ばた ばた廊下(、逃出した。 「おいおい、一寸待ってくれ、ちょっと。」  三田は寝たま餌で声をかけた。 「あのねえ、おみっつあん一人では可哀そうだから、 みんなで雑魚寝《ざこね》しよう。」  忍び足でもどって来たお米が首を出して、 「え、雑魚寝? あたしらおかみさんに叱られますが な。」  と口ではいいながら、いかにも面白そうに反問し た。 「叱られるかどうか、ためしに聞いて来てごらん。僕 の御使だと矗.薗って。」 「ほんまだっか。」  念をおして、げらげら笑いながら駆けて行った。し ばらくたって、三人の女中は一緒に帰って来た。 「おかみさんにたずねましたらなあ、ほんまに三田さ んみたいな物好な人はあらへん。うちの女衆《わなごしゆう》で間に合 う事でしたら、どないになりと御随意に願いますと、 こない言うていやはりました。」 「よし、そんならお隣の部屋で雑魚寝だ。僕はこのま ま寝ているから、布団の四隅を持って運んで行ってく れたまえ。」  女連はげらげら笑いながら、隣座敷に床を敷き、や がて三田のいう通りに、おみこしの如く運《甲》んで行っ た。  えらいやっちゃ、えらいやっちゃ、えらいやっち ゃ・えらいやっちゃと口々にはやし奈ら・ 十一の二  三田が目を覚ました時は、女達は一人残らず起きた 後だった。夜具もすっかりかたついて、たゞ何となく 女臭いいきれの漂っているのが名残だった。  顔を洗いに階下へ下りて行くと、女中達が一斉にお 早うをいうのといっしょになって、おかみさんも声を かけた。 「三田さん、昨晩は女衆の寝言や歯ぎしりやおならを きかされて、ようやすまれへんでしたやろ。」 「僕は何《なんに》も知らないで寝ていたが、頭の一つや二つ蹴 飛《けと》ばされたかも知れない。」 「三田さんのいわはること。おみっつあんの方ばかり 向いて寝ていやはったくせに。」  お米が横あいから口を出し、どっと笑うのを背中に して、地下室へ下りた。 「旦さん、御目出度うさん。」  思いもかけないおっさんが、洗面器をごしごし洗い ながら頭を下げた。 「せんどはえらい御馳走さんになりまして。」 「どうしたの、又此処のうちへ帰って来たのかい。」 「へえ、ようやく勘当《かんどう》がゆりましてん。」  今にも涎のたれそうな口を開《あ》いて、げらげら笑っ た。 「お兼さんか、蛎船のあの人はどうしたい。」 「うふゝ、しょうむない田舎者ですが、旦さん又今度 行《い》てやっとくんなはれ。」  三田はばりばりの髭にかみそりを当てながら、正月 らしい呑気な心持を感じた。年があけると同時に許さ れて、再び閾《しきい》をまたぐという事が、ひどく面白かっ た。  昨日につゞく寒い日で、霙《みぞれ》から雨になってなお降っ ていた。終日雑誌を読む積りで机に向ったが、おちつ かない。田原のところへでも行って見ようかしら。・寂 しがりの弱虫だから、失職の打撃の後の正月を、さぞ かし悄気《しよげ》て暮らして居る事だろう。今から行って誘い 出して、晩には一ぱい飲もうかな。三田は間も無く心 を決めて、机の抽出《ひきだし》にしまってある蟇口《がまぐち》を出して見 た。確にその中にあった筈の十円札が一枚なくなって いた。  盆暮の賞与か、たまにはいる、原稿料の外には、まと まった金を持った事の無い三田は、銀行との取引は無 かった。銀行預金としたところで、どうせ短時日に引 出してしまうのだから、ろくに利.+のつく筈も無い。 それよりも手数のかゝらない方がい瓦というので、現 に暮の賞与金は手っかずに、押入の柳行李《やなぎ・こうh・》の底にしま ってある。征日の小遣は蟇口に小出しにして、これは 無雑作《むぞうさ》に机の抽出にほうり込んで置くのであった。そ れが十円札一枚と一円札二枚と、銀貨銅貨をまぜて都 合十円なにがしかあった。年中ぴいびいして居る癖が ついて、なかみがいくら残っているかは、よく承知し て居るのである。念の為めに柳行李の方も調べてみた が、これは新聞紙に包んだまゝどん底に入れてあっ て、無事だった。  前にいた下宿では、盗癖のある小婢《ζ蔚んな》がいて、時折間 違があったが、此処に来てからは安心して居た。たし かに盗られたに違い無いが、昨日の晩床に入る時には あったのだから、雑魚寝《ざこね》の為めに隣の部屋へ行ってか らの出来事でなければならない。真夜中の事かしら、 朝になってからの事かしら、何れにしても疑うべき人 間は、女中達とおみつの外に無かった。  数ヵ月の間、 一度も斯うした…間違いは無かったのだ から、冷静に疑の糸を辿って行けば、他所から来たお みつを第一に数えなければならない。仮におみつの所 業《しわざ》として、夜中にみんなの寝息をうかゞって雑魚寝の 部屋を抜出したとすると、あんまり度胸が太過ぎる。 又、三田の机の抽出に蟇日がほうり込んである事を知 っているわけは無いと考えると、疑は第二の人間にか かるのが至当である。そんなら女中達の中の一人か。 三田は忌《いま》わしい嫌疑に濁った頭を転換させる為めに も、此の部屋に居るのがいやになって、田原の家をこ ころざして出た。    十一の三  御影《みかげ》の田原の家はひっそりして、あるじの悄気《しよげ》てい るのに引込まれ、子供達迄つまらない姿をしているだ ろうと想像していたのにひきかえ、方々の酒蔵の問を ぬけて海辺に出ると、早くもその家の騒ぎが聞えて来 た。小雨の横なぐれに降りそゝぐ海を見はらす二階に は、沢山の人数が酒を飲んでいて、三田は門をくゞる のを躊躇した位である。 「どちらさんです。」  出迎えたのは酒びたしになったような男だった。ず るっこけそうな袴《はかま》を引ずって、坐っても体中ふらふら していた。 「三田さんですな。」  念を押して、とっつきの梯子段を、あぶない格好で 玉って行った。 「まあ、三田さんですか。どうぞ御上り下さいまし。」  いれちがいに田原の細君が、空の徳利を両手に持っ で下りて来た。 「大変な騒ぎですね。」 「えゝ会社の職工さん達が年始に来てくれまして、殺 風景では御座いますけれど、兎に角|御屠蘇《おとそ》だけで竜祝 って頂きましょう。」  女学校出とは思われない、旧家に育った面影のある 綯君は、正月の儀式をおろそかにしない風があった。 「折角みんなが愉快に騒いでいるところへ、私のよう なものが飛込んでは面自くないでしょう。又出直す事 にしましょう。」 「そんなことは御座いませんのですよ。三田さんさえ 我慢して下されば、あの人達は……」  そういって押問答をしているところへ、 「よお、三田公。どうしたんだ。あがらないって事が あるか。」  と大きな声を梯子段の中途からかけて、朱面のよう に酔った田原が下りて来た。 二寸でもいゝから上ってくれよ。工場の奴等が失脚 専務をなつかしがって来ているんだからな。とても愉 快なんだ。」  彼はいきなり三田の手をつかんで、力任せに引上げ ようとした。 「あぶない。」  細君が声をしぼったと同時に、足駄の足下《あしもと》のしっか りしない三田は友達を支え兼て二人は一緒に玄関の三 和土《たたき》の上へ倒れた。 「大丈夫だ、大丈夫だ。」 「あなたは大丈夫でもゴ、田さんはたまりませんよ。ど うかなさりはしませんかo」 「いゝえ。」  三田は友達を扶《たす》け起し、細君に心配をさせない為め に、相手を抱上るようにして二階へ上った。 「諸君、僕の竹馬《ちくば》の友三田公です。御紹介します。」  田原は自分の隣に三田を坐らせた。 「御日出度う御座います。」 「始めまして。」  十畳の座敷からはみ出して縁側にいる者迄、一斉に 坐り直して挨拶した。中には脱ぎすててあった紋つき の羽織を着る者もあった。折角水いらずで飲んで居た ところへ、自分達とは様子が違い、しかも正月だとい うのにふだん着の着流しという形を見て、 一座はしば らく声が止んだ。 「おい、みんな飲.め飲め。酒ならいくらでも其処いら の酒庫《くρり》にある。三田公なんかに遠慮する必要はない。 こいつはタンクというあだ名のある男なんだから、み んなで盃をさしてやってくれ。」 「へい、そんならえらいひつれいですが。」 先ず一人年長者らしいのが盃をさすと、急《たちま》ち十幾人 が、あっちからもこっちからも、献盃に集まって来 た。 「大将、話せらあ。」  最初玄関に取次に出たのが、さっさと返盃する三田 の手際を称賛したので、 一座はどっと笑った。直ぐに 一人の異分子は、殆ど存在しないものの如く、失脚し た重役を取り巻く職工連の、何のくったくも無い酒盛 となった。 十一の四 「大将、大将はうちの専務さんとは友達だという事だ が、今度の事についてはどういう御意見です。」  中では一番年の若いのが、盃を持ってやって来て、 ぴたりと三田の前に坐った。 「僕は一介の職工であります。しかし、生意気なよう ですが、生れながらの職工ではありません。多少学事 にごゝろざした事もありましたが、今は生産的労働者 たる事を天職と心得、田原専務の理解ある指揮の下に 働いているものであります。否、働いていたもので す。」  少し出歯で、おまけに酔払っていて唇が乾く為め、 演説口調で喋《しやべ》ると、唾が飛散する。悪い相手につかま ったものだと、三田が苦り切っているに竜拘らず、田 原は頗る満足の体で、 「此先生は中学出でね、第一の新思想家なんだ。八時 間労働.要求の時なんか、僕もさかんにいためつけられ たんだ、勿論《もちろん》こっちも率先《そつせん》して実施しようとは思って いたのだが、外の重役の奴等が同意しゃあがらないん だから……」 「専務さん、それは吾々にもわかっていました。専務 さんの立場はわかっていたけれど、既に吾々も世界的 に目覚めて……」 コやい、学者よせやい。旦那方はそんな事あみんな御 承知なんだ。」 二文に嘱ならん演説なんぞせんと、御酒を祝うのが 正月や。みんなして歌でもうとうたら、専務さんも喜 ぼはるやろ。」  二一二八年とったのが、若い中学出をたしなめた。 「何を言ってるんだ。そんな幇間根性《ほうかんこん.巳よう》でいるから結束 した運動が出来ないんだ。吾々が父とも思う専務さん が、横暴なる資本家に圧迫されて辞表を出すという時 に、吾々が懐手《ふところで》して見ていられるか。うたなんかうた っている場合じゃあ無いそ。」 「何いいくさる。口ばかり達者でも、工場へ出て見 い。 一人前のうではあ.らへんやないか。」 「馬鹿な、問題が違うわ。」 「違う事あらへん。仕事も出来んおぬしみたいなもん に、口ききづらされたらえらい迷惑や。」 「何だと。貴様達が意気地無しで、労働者の生活を改 善する事を知らんから、何時も日をきいてやるんだ。」 「阿呆、何ぬかす。わがのような若僧《わかぞう》に頼まんかて俺 達は困る事あらへんぞ。」 「低能ッ。」 「阿呆。」  突然殺気だった二三人が立上った。 「待て、待て。待ってくれ。」  夙《とつく》にべろべろに酔って、すべて其の場の事は自分を 思う人々の熱情のあらわれだと考えていゝ気持になっ ていた田原も、愕然《がくぜん》として目の前の御膳を蹴飛ばしな がら立上った。すんでの事に修羅場となりそうだった 座敷の真中に、田原はどっかりと胡座《あぐら》を組んだ。 「諸君、まあ静かに聞いてくれたまえ。」  もとより演説は学生時代から飯よりも好きで、殊に おだてのきく大衆相手の芝居がかったのは御手のもの だから、正になぐりあいそうだった者も席について、 一瞬間座敷は緊張した。 「諸君、諸君の熱情には感謝する外に言葉がない。私 は諸君と仕事をするようになってから、一日たりとも 諸君の為め、会社の為めによかれと念ずる事を忘れた 事は無い。私は馬鹿だ。世間見ずだ。書生っぽだ。御 坊ちゃんだ。低能だ。阿呆だ。しかし、自ら恥じない のは、私は誠心誠意を以て、諸君の為め、会社の為め に尽した事である。労働時間の制限、賃銀の増額、養 老積金の創設、寄宿舎の改善等、未だ理想的とは申兼 るが、少なくとも或程度迄は目的を貫徹した。不肖田 .原が微力を以て、頑迷|不霊《ふれい》の金力主義者等に対抗し、 鋭意諸君並びに会社の幸福繁栄をはかるために日も足 らざりしは、諸君の認むるに吝《やぶさか》ならざるところと敢《あえ》て 信じます。然《しか》るに今回会社百年の為めに正論を唱え、 飽迄《あくまで》も初志の徹底を期して奮闘したるも力及ぼず、 遂に辞表を提出するの止むなきに至り、再び会社に於 て諸君と見《まみ》ゆる事の出来ない身の上となりました- :・」  田原は何時の間にか自分自身の雄弁に感激して、涙 を一ぱい眼に溜めて居たが、我慢が出来なくなり、職 咽《えつ》して言葉も途絶えた。膝に手を置いて固くなって聴 いていた職工達も、酔った時の感傷性も手伝って、水 洟《みナリばな》をすゝり始めた。 「わかつた。専務さん、もう何も言って下さるな。吾 吾は団結して専務さんを擁護するんだ。未だ遅くは無 い。諸君、団結せよ。」  中学出の職工はいざり出て、田原の手をとりながら 叫んだ。感動の極、おいおい泣出した大の男もあっ た。  三田はこっそり劇的場面をすべり出て、細君にだけ いとまを告げておもてに出た。雨は益々《まづま寸》しげく、風に 飛ぶ潮《うしお》のしぶきと共に吹きつける。小石のごろごろす る浜辺を、傘を斜めにして通る頭の上で、 「田原専務万歳。」  と、二階をゆるがすムロ唱が聞えた。この酔払いの声 を、三田は不思議に寂しく聞いた。絶間無く岸を打つ 浪の音よりも、万歳の声は長く耳の底に残った。 十二の一  机の抽出の中にほうり込んで置いた慕口の中の十円 札が一枚紛失した事は誰にも話さずに三田の肚の中に しまってあった。若しいい出して誰彼に嫌疑がか玉っ ても面白く無い。盗んだやつが舌を出している事を考 えると癪にさわるけれど、盗みもしない人問が疑われ たり、調べられたりするよりは我慢が出来る。第一机 の抽出に蟇日をいれて置くというのがよく無いのだ と、結局三田は白分の不注意を戒《い庶し》めたばかりだった。  松の内も過ぎて、東京から帰って来た三番の野呂 は、毎晩お米を相手に酒を飲んでいたが、何時盗まれ たのか財布の中の五円札が一枚なくなったと騒ぎ出し た。 「僕の財布の中の札が一枚消えてなくなったのだが、 誰か心当りは無いか。鼻.紙だの半甲《ハンケチ》と一緒に床の間に 固いて、一寸風呂に入っている問の出来事なんだ。た しかに五枚あったのが四枚しか無い。」  女中三人を部屋に呼びつけて、大きな声で怒鳴るよ うに訊くのであった。 「野呂さん、ほんまだっか。うちでその様な間違のあ ったためしが無いのに、どないしたんでっしゃろ。」 「あんさんのおもい違いではおまへんか。」  お米とおつぎが交々《こもごも》いうのにつゞいて、おりかの声 も聞えた。 「だって野呂さんおかしいじゃありませんか。どうせ とるのなら財布ぐるみ持って行きそうなものですね え。五枚あると思っていても、ほんとは四枚だったの ではないでしょうかねえ。」 「そんな事があるもんか。今日帰りに買物をした時、 十円札三枚を五円に両替して貰って、その中の一枚丈 払ったんだ。」 「そんならその時落しはったのと違いまっか。」 「誰が落すもんか。大枚五両だぜ。」  口さきで訊いたからとて埓《らちア》のあかない事はわかり切 っているのだが、その埓のあかなさに野呂はじれった がって居る様子だった。 「お前達の中で、僕が風呂に行ってる時此の部屋に来 たのは誰だ。」  おどかせば白状させる事が出来るとでも思っている のか、 一段と居丈青同《いだけだか》になった。 「あたしは来やしません。台所が忙しくて、そんなひ まはありませんでした。」 「おっぎさん、あんた二階にいたんやないか。」 「いゝえ、階下《した》で干物《ほしもの》取入れていた。あんたこそ野呂 さんの洋服たゝんでいたのやないのんか。」 「何いうて。野呂さんが御風呂場に行かはる前に、あ てら階下に下りてん。」  三人とも互に無関係な事をあきらかにしようと、と りとめも無い事をいい合った。 「お客さんいうても三田さんの外にはいてはらへん し-…」  先刻から耳をすまして聞いていた三田は、自分の名 前が出たのでどきっとした。つい此間自分も蟇口から 札を一枚抜取られたので、他人事《ひとごと》とは思われなかっ た。入物《いれもの》ごと取るので無く、口立たないように一枚ぬ き取る方法迄同じだとすると、同一犯人である事は確 かだ。一番深い疑をかけていたのはおみつだったが、 あれは全く見当違いだったと思うと、その人は殊に犯 人にし度くなかったのだから、安心に似た心持もあっ た。しかし、自分の名前が不図耳に入った時は、三田 も流石《さつが》に胸が騒いだ。まさかに嫌疑をかけられようと は考えられないが、相手が自分に対して好意を持って いない人間だから何ともいえない。三田は十円札を盗 まれた時に、いち早く問題にしなかった口分の手ぬか りを晦いた。 十二の二 「そうするとお前達は、一人も此の部屋には足踏しな かったというんだな。」  野呂は又同じ詰問を繰返した。 「五円札一枚はあきらめてもいゝけれど、此の部屋で 金がなくなったとあっては、安心して酔月に止《レ、ま》ってい る事は出来ない。場合によってはおもて沙汰にしても 調べて見なくてはならん。」  女中達はすっかり脅かされてしまって、何の意味も 無い事をくどくどとつぶやきあっているばかりだっ た。その時、 「みな二階で何してる・ぺちゃくち嘆って居らん躍 で、早う来て御膳だてせんならんで。」  梯了の下で、おかみさんの叫ぶのが聞えた。 「へえ、△,直《すく》に行き謙よす。」  お米の細い声が廊下に出て答えた。 「何してんのや。三人ともかたまって。」 「今、野呂さんのお金が失《う》せた碁、口わはってなあ。」 「何? お金がのうなった?」  仰山に驚いた様子で、とんとん梯子段を上って来 た。 「野呂さん、あんたとこでお金がなくなりましたの か。」 「あ玉、一寸風島に行った間に、財布の甲から五円札 を一枚ぬかれてしまった。其処のところに置いといた のだが。」 「へえ、ほんまだっか。あんたの思い違えではおまへ んか。あ.たしとこでは開闢以《かいびやく》来そのような事はあらへ んのやがなあ。」  おかみさんは口分のうちに悪名をつけられたように 思っているらしく、中腹《ちゆうつばら》な口のきき亠力だ。 「悶闢以来ない事だと憩.口ったって、現に僕の部屋で、 僕の財布の金が盗まれたんだから為方が無いじゃあな いか。」 「ほしたら誰ぞ盗んだと言わはるのですな。」 「まあそう考える外に為方が無いじゃないか。」 「そんなら誰がとったかわかっていますか。うちでお 金が紛失したと言われては、そのまゝにはして置かれ へん。」 「誰がとったかわかっていれば文句は無いさ。わから ないから訊いているんだ。」 「お前達覚えはあるか。」  おかみさんはかみつくように女中達に訊いたが、そ の実野呂に対する敵意を示す為めに意気込んでいるの であった。 「覚.えは無いというのだよ。誰も此の部屋に足踏しな かったと、百うんだ。不思議じゃあないか。此の三人の 外には、 一番の三田さんという人しかいないんだから ねえ。」 「野出さん、置いて貰いまっさ。お金は尊いものには 違いないが紙でこしらえたものでっせ。何時何処で落 さんものでも無し、又勘定違いという事もおまっしゃ ろ。滅多にうちのお客さんの事なんぞ言うて貰うたら 凩りますがな。」 「誤解してはいかんよ。僕は一番のお客を疑うなんて 事はないんだ。たゞね、此の三人の外には二階にいる 人はあの人丈だと言った迄さ。」  聞いている三田は坐ってはいられなかった。野呂の 言葉には確かに自分を疑う調子は含んでいないで、矢 張女中を怪しんでいる事は明白で、自分の外は即《つなわ》ち三 人の女中だといい度い為めに引合に出しているのだと は思うが、それにしても不愉快だった。 「よろしゅうおま。あんたの念ばらしにみんな裸にし て調べて貰いまっさ。お前達せんぐり着物からおこし から振う・てみせてあげ。」  突然おかみさんの男性的な声が、 一際強く響いた。 十二の三 「お米、力前から着物ぬいだらえゝ。お前が野呂さん の一番お気に入りらしいからなあ。」 「おかみさん、裸になるのはかんにんしとくれやす。」 「何も恥しい事なんぞあらへんがな。お前は何処から 何処迄野呂さんにお日にかけた筈やないか。それ位の 事はわかって居る。お客さんの念ばらしにすっぱり脱 いだらどうだ。」  我儘《わがま丶》で癇癪持のおかみさんは、自分の気に喰わない 事にぶつかると、ふだんのあけすけな心持に、意地の 悪さを加えて、散々に当り散らかさなければ承知しな いのであった。 「さ、早う帯解いたらえゝ。愚図々々していたら埓が あかんわ。」 「おかみ、何もそう迄いわなくたっていゝじゃない か。誰も女中達を裸にして見せうとは言やあしない。 た黛|心当《こレろあたり》は無いかと訊いたばかりなんだ。」  見るに見兼るというよりも、全く自分を目ざしたお かみさんのあ.てつけに辟易《、きえさ》して、野呂はなだめる態度 になった。 「いゝえ、あんさんはよくてもこちらが心持が悪い。 酔月でお客さんの物がなくなったとあっては、うっち ゃっては置かれまへん。あての気の済むように詮議《せんぎ》せ んならん。」 「そんな事を言われては僕が迷惑だよ・たかが五円札脚 一枚で、みんなにいやな思いをさせるのは僕の本意で 無い。君が詮議したいのなら此の部屋を出て行ってや つてくれたまえ。」 「ほうだっか。えらい御邪魔しましたなあ。あては、 あ・んさんがうちの女衆《おなごしゆう》になくなったお金の行方を訊ね ていやはるのやと思うて、お客さんの手をからんで も、自身たずねてあげるのがほんまやろと考えまして なあ、一.一人とも裸にむいてお目にかけようとしたので す.が、そんならとっとと去《い》にまっさ。さ、みなも早う 階下《した》に行って働かんと又どのような事が起るかもしれ へんぜ。」  捨ぜりふを残して廊下に出たが、何と思ってか、三 田の部屋に肥大な体を運んだ。 「大きな声出してつまらん事いうて済んまへん。さぞ 御きき苦しい事《こつ》ておましたやろ。」  ほんの挨拶のつもりで、襖を半分あけて顔を出し た。 「お金が無くなったとかいうんですね。」  三田も知らん面《かお》も出来ないので、机に向っていた体 を掃向・けた。 「へえ、三番の野呂さんの財布の中から五円の御札《おさつ》に 羽が生えて飛びましてん。あたしとこではついぞ其様 な事はおまへんのでしたが、不思議な事があるもんで すなあ。」  大きな声を出して済まなかったと詫に来たのが、一 層大きな声で、明かに野出の部屋迄聞えよがしにいう のであった。三田は勝ほこったおかみさんの態度が面 白くなかった。 「不思議だねえ、僕の部屋でも蟇口の中の札が一枚羽 が生えて飛んで行きましたよ。」  魔がさしたように皮肉な言葉が唇をついて出た。 「え、ほんまだっか。何時です。矢張今日だっか。」  急に声を落しておかみさんは部屋の内に入って来 た。大きな声を出されて、野昌に聞かれては困るとい う顔色が正直にあ.らわれていた。 「僕のは正月の元日か二日なんです。鍵もかゝらない 此の机の抽出にほうり込んで置いたんだからこっちが 悪いと思って黙っていた。けれども又向うの部屋で同 じ事があったとすると、ちっと面白くありませんね。」  三田は机の抽出の中の蟇冂から、十円札一枚ぬきと られた時の事を、手短かに話した。おかみさんは何も いわず、引呼吸《ひきいき》になって聞いて居たが、 「三田さん、あんたのお話でちっと思い当る事もおま ナよって、ひとつ洗い立てて見まっさ。それ迄は何も 言わんとみていとくれやす。」  とひどく決心した様子を示した。 「しかし、あんまり荒立てない方がいゝかもしれませ んよ。どうも僕は人間を調べるのは嫌いだ。」  折角の平和がみだれ、みんなに気まずい事が起りそ うな予感があって、三田は喋った事を後悔した。 十二の四  次の日から、おりかの姿が見えなくなった。おかみ さんは気まりの悪いような、又一面には迅速《じんそく》に審《さば》いた 手際をほこるような様子で、三田のところへ挨拶に来 た。 「えらい申訳の無い事《こつ》てして……」  と前置しての話によると、犯人はおりかで、昨夜遅く 迄責め糺したあげく、すっかり白状させたのである。 「あの女《おなご》はちと足りん方でおましたが、心根は悪い者 では御座りません。人さまの物に手をつけるような事 は、滅多にする筈はないのですが、あのような面皰《にきび》だ らけの野猿坊《や 瓦んぼう》みたいなもんでも、近頃|情人《おとこ》が出来《でけ》てあ ったそうで、そやつに唆《そレの》かされて悪心が萌《きざ》したものと 見えます。」  その情人というのは此の宿の料理人で、年齢《とし》はおり かよりも二つ三つ若い、苦味《にがみ》走ったいゝ男だというの であった。それも勿論暇を出された。  三田はその料理人の後姿だけしか見た事が無かっ た。随分長い間の事だけれど、余程|変物《かわりもの》と見えて、つ いぞ他人と口をきいて居るのを見た事も無く、何時も 薄暗い上方風の土間になっている台所で、歯のある下 駄を穿いて包丁の手を動かしている姿丈が記憶にあ る。  その男と、つい近頃いゝ仲になったらしく、おかみ さんも気がつかなかったが、朋輩の者は、何となくあ やしいと睨んでいたそうだ。料理人は道楽者で、給金 を貰うと松島の遊郭に遊びに行ったが、おりかを手に 入れたのは、金回《かねまわゆ》の悪い時の問に合せの意味と、もう ;には遊びの鑾を毘がせよう為めだったらしく・跏 おりかは頭の物迄取られた事もかくさずに話したそう である。とうとうしまいには、男のあく事の無い要求 に拠処無《よんどニろ》く、三田の蟇口から十出盗み、それがわから ないのに安心して、今度は野呂[の財布から五円とった のだそうである。 「ほんにお恥しい話ですが、なんせあのような馬鹿者 のした事ですさかい、こらえて頂こうと思いまして な、此の通り頭を下げまっさ。」  おかみさんは丸髷のあたまを畳に近くして、ほっと 一息ついたが、直ぐに帯の間から十円札を一枚出し て、それは自分が弁償するから納めてくれというので あった。 「そりゃあいけない。君に弁償して貰うなんて筋違い だ。金を盗むのはよくない事だが、随分長い間世話に なったのだから、おりかさんに御礼にやったと思えぼ いゝ。それは絶対に御断りします。」  三田は少しく不機嫌になって、きっぱり断った。 「ようわかりました。あんたの気性を知らん事も無い のに、あてが悪《わる》おました。かんにんしておくんなは れ。」  おかみさんはもう一度丁寧に頭を下げて、三田が突 返した札を帯の間にしまって部尽を出て行った。  行ったと思うと、直ぐに三番の野呂の部屋で、今迄 のひそひそ声とはうって変った高調子で、 「野呂さん、今日はあてあやまりに来たのだっせ。」  と言うのが聞えた。此処でも一部始終を残らず話し た上で、帯の問に用意してある札を出して受取らせよ うとするのであった。 「そりゃあいかんよ。本人が改心して返却するのなら 兎に角、おかみに損をかけるという理屈は無いからな あ。」  あれ程威張ったおかみさんが、頭を下げて詫に来た ので、野呂は完全に復讐した得意の体だった。 「それではこちらの気が済みません。うちのお客さん の物がなくなったのを知らん顔していては、責任いう ものが明かでなくて面自く無い。あての性分として、 これ丈はどうしても納めて貰わん事には、気色《らしよく》が悪う て堪らん。何だ彼だといわんと、しまっといておくん なはれ。に 「そうか。そんならおかみの気の済むように取って置 こうか。」 「そうしておくんなはれ。これで気分がすうっとし た。」  わざとらしい男笑を高々と響かせて、おかみさんは 梯子段を下りて行った。  三田は聞いていて驚いた。こっちと向うと、全く人 を見て扱いを別にしているおかみさんのやり口は、あ んまりはっきりし過ぎていた。 卜二の五  正月が過ぎると、宿屋は又忙しくなった。各室とも ふさがって、今日も又幾組断ったという事をおかみさ んも女中達も自慢にして話した。料理人のかわりが来 ないので、おかみさん自身重たい体で台所の土間に立 ち、たゞさえてんてこ舞して居る女中にのべつ幕無し の小言を浴せかけながら働いていた。斯ういう場合に も、やがては高座《こうざ》の芸人にしたてる娘丈は、決して客 の前に出さず、又水仕事などもさせないで、ロハ管《ひたナら》芸事 ばかりを励ませているのだった。  おりかのかわりも見つからなかった。一人めみえに 来たのはあったが、腋臭《わさが》がひどいという理由で採用に ならなかった。お米とおつぎとは二月の寒さにも、二 階と階下《した》の客の用で、.額に汗を流して居た。 「えらいなあ。」 「ほんに、二人ではやり切れへん。」  廊下で顔を合せて、ほっと息をつく二人の口をつい て、忙しさをかこつ言口葉が出るのであった。 「お前達、ほうびはたんと貰えるのやよって、もちっ と辛抱して、骨おしみせずと働いておくれ。」  叱るのだかなぐさめるのだかわからない調子で、お かみさんも頻《しきり》に手不足を気にしていた。  そういう状態が一ヵ月近くも続いたが、二月の末に なって、おかみさんの姪《めい》だという二十三四の女が手伝 に来る事になった。それ程濃くない髪なのに、前髪も 鬢《びん》もふくらませる丈ふくらませ、女中並の粗末な着物 ながら、抜衣紋《ぬきえもん》の形にたゞ者で無いところを見せた、 色の冴えない平顔ながら二重瞼《ふたえ慮ぶた》のはっきりした利口な 目つきの、誰が見ても一寸い曳女として許せる柄だっ た。 「おときさんはなあ・うちのおかみさんの姪で・先頃鄒 迄|生駒《いこま》で芸妓《げいこ》に出ていやはったのだっせ。」  とおつぎはいちはやく三田に話した。生駒の聖天様 には、三田も山上りの意味で出かけた事がある。山の 下の町は両側に料理屋が並び、あやしげな芸者が出入 する景色は凄いものだった。おときは其処で稼いでい たのだそうだが、近頃すっかり体を壊してしまって、 商売も出来ない為め、養生の積りで手助.に来たという 事だった。  おときは三円の部屋にも給仕に来た。平気で人の顔 を正面から見守るところにも、しょうばい人らしいと ころがあった。三田がだんまりで居る為めか、差向い では多く口をきかなったが、おつぎやお米は、 「おときさんは三田さんが好きやいうていやはりまっ せ。」  といってからかった。冗談とは知りながら、その事 を思い出して、三田は愈々口がきき悪《にく》くなるのだった が、女の方は三田の意気地の無いのを見透《みとお》したよう に、じいっと顔を見ながら、口元に皮肉な微笑を漂わ せているのであった。  朝は外の女中と一緒に馳く起きて、縁側や廊下の拭 掃除迄しなければならないのだったが、そういう事に は馴れない為めか、体を壊しているので体力が続かな いのか、大儀らしく縁側に横坐りに身を崩して、ひま を盗んだり、時には三田の部屋の前の籐椅子に腰を下 して、捨鉢になって怠けて居る事もあった。 「あたし、あのような商売していたものですから、悪 い病気になってしまったのですよ。」  とあけっぱなしに話しもした。     十二の六 「三田さんも因果やなあ。おときみたいな女《メ・ノ.ご》に好かれ たらかなわん。」  とおかみさん迄もあたり憚《は『カ》らぬ冗談をいうようにな った。 「あてはほんまに三田さん好きやわ。えゝ男やないけ れど、無駄な口はこればかしもきかず、いやらしい事 は少しも言わんし、男らしゅうてよろしいな。」  すれっからしは自分から.面白がって、怪い口を叩い た。わざと三田の給仕役は自分ときめていたが、変っ た女が目の前にあらわれると、急《たちま》ち好奇心を動かす野 呂は、部屋を距《へだ》てた向うから、 「おときさあん、おときさあん。」  と尻を長く引張って呼ぶ事もあった。 「好かん奴。」  舌うちして、返事もしないでいると、お米が野呂に そゝのかされて迎いに来るのである。 「おときさん、一寸来てほしいわ。野呂さんがあんた の御酌でないとおいしい事無い言わはるよって。」 「あたしら行かんかてあんたがいたらえゝや無いか。 あては一番の受持ときめた。」 「はあん、えらい御邪魔しました。済んまへん。」  何がおかしいのか、きゃらきゃら笑いながら野呂の ところへ復命に帰って、又|仰山《ぎようさん》に笑うのであった。  おときは、今迄見た男という男のすべてが、直ぐに 物にする機会を作ろうとぼかりするのに馴れて、男は みんなそうしたものときめて居たところ、まるっきり 型の違う人問に出っくわしたので、珍しいもの好きの 心から、からかったりからかわれたりして、退屈を忘 れようというのだった。何とかして相手にも気を持た せる為め、又一面にはほんとに真面目に聴いてく丸そ うなので、これからの身のふり方を如何《り う》したらいゝか と相談する事などもあった。  出来る事なら十分養生をして一兀気な体になり、生駒 なんぞはこりこりしたから、今度は大阪に住替てしょ うばいをし度いと思うけれど、自分のような芸無しで は、此の望はかないそうも無い。今、或人に勧められ ているのは、山陰道の米子《よなご》で、芸者を抱え度がって居 るのがあるから行って見ないかという話で、此の方な らば何時でも先方から実物を見に来るという位乗気な ので、直ぐにも纏まるに違い無いが、鳥取県なんてど んな処だろうと考えると心細い。いったい自分のよう な女は、どうするのが一番いゝのだろうというような 話なのだ。勿論三田には返事のしようも無い。どうせ 何処の土地へ行ったって、此の病毒の沁みた体を売る 外には途が無いに違いないのだ。生駒だろうが、米子 だろうが同じ事だ。三田にとっては、斯ういう風に、 全く浮ぶ瀬の無い人間を見る事は気の毒で堪らない。 しかし、それを救う力も無いのだから、結局気持が重 苦しくなるばかりだった。 「ねえ、三田さん、あんたならどないしやはります・ 自分の事にして考えて見とくんなはれ。」  たゝみかけて無理な注文を出されて、三田は愈々閉 口するばかりだ。 「だって僕にはわからないよ。自分の事にして見うっ たって、芸者になった事も無し、生駒だって米子だっ て、君なら抱えようと言う人もあるだろうが、僕では 誰も買いもしまい。」  三田は苦笑の外に手を知らなかった。     十二の七  二月の末から二月へかけて、暖い日には宿の玻璃《ガラスど》尸 の外を、海の方から来る鵬《かもめ》の群が、、雪白の翼をひるが えして飛ぶ.長閑《のどか》な日もあったが、終日その琅璃戸をが たがた鳴らして吹く風の日嘱多かった。びしょびしょ 雨の降る日には、川の水も白けて寒く、見ている丈で も底冷がして、なかなか火鉢は手放せなかった。  風の日には頭痛がし、雨の凵にはお腹《なか》や腰が痛むと 言って、おときは客の居ない部屋の幌につっ伏して居 る事が多かった。早+仆らしい青空の日には、縁の日当《ひあたり》 に長々と眠っている事もあった。そんなだらしの無い 格好をして居るところを、おかみさんに見つかると、 肚ではそれ程怒っていなくても、言葉の調子の男尚 うに耽」凡いのが、家中《うちじゆう》に響く小言を浴せかける。 「なんぼお前は寝て稼いでいたというて、昼日甲尉 べっていられては、うちのum行が悪う見えてか光 ん。」  などと、相手の弱点を無遠慮にさらけ出すのを… ていると、いったん沈んでは浮び上れ無い女は蕭 哀そうだった。しまいには足腰も利かなくなり・、旧 肉も腐って来るのだろうと思われた。  それでも、酒飲の客の前にでも出ると、外の女宀 は違って、お酌のしぶりも型.に入ったところがあワ で、おときさんおときさんとおだてあ.げ、うまく引 たらものにしようとする気振《ナ》を見せる者褶あった。 「知らん事故為方も無いが、あのような女にかゝ・ うたらえらい目にあわされますがな。」  とおときを嫌うおつぎは、陰口をきいて居たが、 れが亨実になって現われた。 「三田さん、あんた知っていやはりまっか。野呂距 がなあ、おときさんからえゝ物貰わはったのだっ化 白肥《しろぶとり》の顔中笑いにして、さも小気味よさそうに鑑 のだった。女と見れば機会をうかゞって一度はどうに かし度いという好みの病的に強い野呂は、最初からお ときに目をつけて居たが、おときの方では嫌ってい た。ところがおときも小遣にも不自山する身の上なの で、とうとう野呂の望をかなえさせたが、驚く事には 其の仲立《なかだち》は、今でも引続いて野呂のお伽《とぎ》をつとめてい るお米だった。しかも野呂は、お米の口から相手が病 気の体だと聞かされながら、たかをくゝって引張込ん で、結局今では医者に通っているというのだった。 「おかみさんの言う事がどうでっしゃろ。野呂さんい う人は、コレラの虫の居る魚を知りながらも喰べる人 ですと。」  おつぎは朗かな声で、面白おかしい男女情事の光景 迄描写した。  三田はその後廊下で野呂にあう度に、人間の世の中 の掟をおかして、天罰をこうむった人を見るような、 一種痛快な感想を禁じる事が出来なかった。 十二の八 「三田さん、あたしとうとう米子の方へ行く事になっ てしもうたんですよ。」  おときが給仕に来て、遂に決心した事を話したの は、三月もなかばを過ぎてからだった。何とかして大 阪を離れ度く無いと思って愚図々々して居たけれど、 もう目の前に花時も迫って来て居るのに、着物をこし らえる事さえ出来ないので、思い切って知らぬ田舎に 行く決心をしたと言う。 「だって君は体がほんとで無いっていうんじゃあない か。それで差支無いのかい。」  今でも医者に通って居る野呂をまのあたり見て居る ので、此の女が山陰道の町に行ってからの事が、はっ きり想像されるのであった。おときは妙にむすめらし く羞《はにかみ》を含んだ表情をして、心持.顔を赤くしながら、 「何が差支る言やはりまんの。」  と首を傾けて、習慣性の微笑に、いたずらと捨鉢を まぜてききかえした。 「何がって、困るだろう。」  三田は言いにくくて、頬張った飯を不器川にもぐも ぐ噛みながら、自分の方が顔の赤くなるのを感じた。 「いやな三田さん、何も困る事なんぞあらしまへん。」  そういう話をきっかけに、もっと冗談口をきいて居 たいのがおときの肚だったが、三田はそれっきり箸を 置いてお茶を請求した。 「どうせ汚《よご》れた体ですもん、どうなろうとかまうもん ですか。御客だってそうですわ。たかのしれたお金で 人をおもちゃにするのですさかい、ちっとやそっとの むくいは当前《あたりまえ》でっしゃうが。」  突然何か癪にさわったような口をきいて、自分を嘲《あざけ》 るよう・に笑った。三田は、そういう運命の下に居ない 臼分なんかには、何をいう亊も許され無いような気が して、胸が重くなった。  米子の芸者屋の主人だという六十近い婆さんが、隣 の十畳の部屋におちついたのは、それから間も無かっ た。生際《はえぎわ》のあだ白く抜上った、黒眼鏡の下の鼻の、婆 さんらしく無くつんと高いのが、根性をよく見せ無か った。磨き込んだ為めか、いやに赤味の失《厂つ》せずに光っ て居る顔色も、かえって邪険に見えた。それが猫撫声 で話をしているのを、三田は忌々しく思って居た。婆 さんはおときの外にも一人二人抱える為めに土阪した めだという事で、五六日滞在していたが、愈々|明日《あ・丁》は 帰るという晩には、仲に立って口をきいた男などを呼 んで、酔月で酒盛をした。おときと、もう一人米了に つれて行かれるという女が、二人とも島田に結って立 働いて居た。おときよりも年上の女は、三味線を弾い て流《はや》μ付唄《りららへ》をうたった。 「三田さん、あたし明日立つ事にきまりましてん。」  酒が回って乱雑な騒ぎになった座敷をぬけて、これ も飲まされたらしいおときが挨拶に来た。 「それについて、あんさんにお願がおますが、かなえ てくれはりまっか。」  三田の机の側にぴたりと坐って、ひどく真剣だっ た。三田は何を言い出されるのか少々不気味に思っ て、黙って相手を見守った。 「なあ三田さん、これが一生の御願ですがな。」 「御願って何さ。御願にもいろいろあるからね。」 「あのなあ、あての名前をつけておくんなはれ。」  何かと思って内心びくびくしていたところ、米子に 行ってから、何という名で出ようか考えてくれと言う のだった。 「駄日だよ、僕なんかにそんな事を頼んだって。それ よりも生駒に居た時の名がいゝじゃないか。何ていう んだか知らないが。」 「生駒ではおかしな名前で、供奴《ともやつこ》いうてましてん。」 「供奴! い墨名じゃあ.ないか。」 「いゝえ、お供の奴さんでは出世しまへん。なんぞ縁 起のよろしい名前を考えとくんなはれ。」 「おときっていう本名がいゝじゃないか。仮名の名前 は優しくていゝぜ。」 「おときだっか。本名はいややわ。」 「そんなら小登喜《ことぎ》さ。のぼるよろこびなら縁起もい」 や。」 「小登喜?」  矢.張満足はしない様子だったが、しばらくして、 「三田さん、頂いて置きまっさ。」  と丁寧に頭を下げた。  翌日、三田が会社へ行っている間に、おときは米子 の芸者屋の婆さんにつれられて立った。三田の机の抽 出の中には、半紙に鉛筆で走書《はしりがさ》したものがはいって居 た。  三田さん、あたしは行きます。小登喜という名は大 切に致.します。 あなた様も早くよい奥さんを貰うて末永く御栄え遊 ぼされ度候。 十三の一  花の少ない大阪の市民の口にも、造幣局の桜の噂が のぼる頃となった。酔月はおのぼりさんで賑って、何 時も手不足で困っていたが、漸《ようや》く料理人も新規に雇入 れ、女中の補充には蛎船《かきぶね》からお兼を連れて来た。ぼか ぼか暖くなると蛎は禁漁になり、蛎船は貸端艇屋《かしポ ト》や、 氷屋にかわってしまうので、それを機会におかみさん は、おっさんと堅い約束をして、お兼を働かせる事に なったのである。約束というのは、一切お兼には手を 出さないという事で、その代償として当分の飲代《のみしろ》をつ かませた。  お兼はまるっきり気が利かなかった。大きな体の取 回しが悪く、何処か心にもうつろなところがあるらし く、お膳を落したり、瀬戸物を割ったりして、のべつ におかみさんの小言を喰って居た。人間は極めて善良 で、いくら叱られても黙々として働いて居た。着物の 益こなしが下手なのか、つんつるてんの感じの消えな い、あく迄も山出しだったが、邪気の無い健康な肉体 にはち切れる程|漲《みなざ》って居る若々しい血色は、好色者《すざもの》の 好奇心を唆《そゝ》るところがあると見えて、おときに貰った 記念の悩みから漸く救われたぼかりの野呂は、早くも たゞならぬ冗談をいいかけるのであった。 「野呂さん、あんたもあきれたものだんな。おときさ んの事で亀う懲々《こりこり》しやはったろう思うてましたがな。」  おつぎが大きな声で.言うのが聞えると、 「おときさんには懲々したさ。だから今度は健康無比 のお兼さんにしようと言うんだ。いくら俺がちゃびん だって、おっさんよりはましだろうじゃあないか。」  と野呂の答えが続いた。  その野呂の竜の好きに助勢するのは、相も変らぬお 米だった。お米が夜更にこっそりと三番から出て来る のは、今でも三田の目にふれるのだハ、たが、それにも 拘らず男と女とをくっつけて見る異常な興味を持って いるらしかった。 「お兼さん、ちょっと来て。野呂さんがえゝ物あげる いうてはるし。」  全く相手を馬鹿にしながら、野呂と共々にからかっ て居るのであった。  三田は野呂という男の、大法螺を吹く威張やで、女 と見れば相手の人格を無視して直ぐに手に入れようと する態度を憎んでいたので、此の田舎女が何んとかし て肱鉄砲《ひじでつぼう》を喰わせてくれればいふのにと念じていた が、事実は雑作も無く裏切られてしまった。  何時も銀杏返に結っていたお兼が、大きな束髪に変 った日の事である。おつぎは話をする前に顔中笑にな って、おかしくて堪らなそうに呼吸《いぎ》をはずませたもの であ.る。 「三田さん、三田さん。あんたお兼さんのつむりの大 きい櫛見やはりましたか。あれなあ、野呂さんからの おつかい物ですと。」  三田滝不似合なお兼の廂髪《ひさしがみ》のうしろに、大き過る位 大きい西班牙櫛《スインぐし》のさゝって居るのを、おかしいと思っ て居たが、それが特別の意味のあるものとは知らなか った。いったいあのカルメンの用いそうな図でかい櫛… は、思い切って野蛮な風をしない限りは、どんな髪に も似合わないものとして三田は忌々しく思って居た が、その時以来一層嫌いになった。 「あの人、前から束髪にしい度い言うていたのですが、 櫛が無いのんで、よう結ぶ事|出来《でけ》へんのでした、そこ がそのなあ、お米さんのとりもちで、あの櫛ひとつで 野呂さんとひと晩仲ようしやはりましてん。」  三田はあまりの不愉快にそれっきり取あわなかっ た。  だが、野呂がお兼をためすのに成功した事は、お米 とおつぎの口から、此の宿のみんなの耳に伝わった。 「おっさん、あんた此の様な事聞かされてどない思う たるねん。」  何も彼もかくしておけないおつぎは、おっさんに迄 話を持って行った。 「へえ、ほんまか。」  流石におっさんも驚いたが、 「たっしゃなつもりでいても、年とったらかなわん。 お兼みたいなもんでも、少しでも若い男の方がえゝと 見える。」  よだれの乖れそうな大口を開いて、何のくったくも 無く笑ってのけた。 十三の二  寒いうちは石垣の問にでも冬籠して居たのか、ちっ とも姿を見せなかった亀の子が、ぬるみ始めた水に夫 婦でぽっかりと浮び出した。 「三田さん、次の日曜にお花見になと出かけまほか。」 「行こう。おみっつあんを誘って。」 「おときさんよりもおみっつあんの方がよろしゅうお まっか。」 「そりゃあ.いゝさ。あたし三田さん好《つつ》きゃわ、なんて 人前で大きな声を出さない丈でもいゝ。」 「そしたらお弁さげて行きまほ。」  そんな話をしている頃であった。陽気がよすぎるの で、会社の勤にはみが入らず、誰も彼も懐中の乏しさは 気《け》ぶりにも見せないで、吉野に行こうとか、奈良の方 がいゝとか、しきりに遠足の計山も提案されて居た。  或日、三田が事務室の机の上に積まれた書類を整理 して居ると、 「三田さん、面会です。」  と給仕の子供が、室の入口に顔を出して、いけぞん ざいに叫んだ。三田は洋筆《ペン》を置いて立った。 「女の人ですよ。」  少し低能の癖に体ばかり年に似合わず発育して居る 給仆は、いやみな笑を口許に浮べてさゝやいた。  女の訪問者なんか思いもかけない事なので、全く見 当がつかなかったが、応接問の扉《ドア》を開けると、意外に も共処に立って居るのは、此の正月|情人《トとご》の為めに盗み をして、酔月を退出されたおりかだった。洋風の室に ・駲れ無い為め、何処に体を置いていゝか見当のつかな い様子だった。 「三田さん、御機嫌よう。御変りもありま.せんか。」  一見して下宿か安料理屋の女中としか見え無い女 に、勤先へやって来られて不機嫌な三田を見ると、元 来金を盗んだひけ目のあるおりかは、 一層身の置所に 困った風で、てれかくしに愛想笑を見せた。 「まあ、かけたまえ。」  三田は白分が先に手本を示して、無理におりかを腰 かけさせた。ちんちくりんの女だから、卓子《.プーブん》の上に面 皰《かけさせた。ちんちくりんの女だから、卓子《ア フん》の上に面《にセ》び》だらけの顔を載せたようで、足は床につくかつかな い形だった。 「酔月の人達、お米さんもおつぎさんもみんな達者で すか。」 「達者だ。」 「おかみさんも?」 「あゝ。」 「野呂さんどう.しました。」 「いるよ。〜  それっきり話はきれてしまった。其処に給仕がお茶 を運んで来た。どんな客でも、応接間へ通った人には 茶を出すのが会社のならわしだった。 「済みませんねえ、あたしなんかうっちゃっといて下 さればいゝんだのに。」  そんな事を言いながら、二三度|縮毛《ちfれつけ》の頭を下げた。 給仕は吹出しそうな顔をして引さがった。     十三の三 「あたしねえ、今御霊《ごりよう》さんの裏手の牛屋《ぎゆうや》にいるんです よ。洋食もありますが.ねえ。」  根比《こんCら》べのように三田は黙って居るので、わりかけ為 方が無く[を切った。 「へえ、あの人も一緒かい。」 「あの人って?」 「君のいゝ人さ。」 「あらやだよお。誰があんな奴と一緒にいるもんか。」  みそっぱをあからさまに、ひどく力んで否定した が、急《たちま》ち声を落して、 「三田さん、実はねえ、あいつのことで是非々々あな たにきいて頂き度い事があって来たんだけど、どうで しょうねえ。随分あたし気まりは悪いんだけど、大阪 では外に知ってる人もないし、それに三田さんはなさ け深い方《かた》だから……」  おりかは料理入ともろともに酔月を追出されると直 ぐにその牛屋の女中に住込んだが、梅田の駅近くの宿 屋に口を見付た男の為めに年中いたぶられて、折角の 客からの貰いも巻あげられ、おまけに昼日中呼出しに 来られるのに辟易していたが、その牛屋の主人という のが顔役で、おりかの打あけ話を聞いて、男と手を切 らせるように話をつけてくれる事になった。 「それについて少しばかしお金が入るんだけど、三田 さん、何とかして頂けないでしょうかねえ。」  おりかは流石に額から汗を流して頼むのであったQ  「つまり手切金かい。」 「いゝえ、手切金なんて程沢山は入らないんですよ。 二十円も貸して下さればいゝんですがねえ。あいつと きれいさっぱり別れてしまえば、あんたにも長く御迷 惑はかけないで、直きに御返し出来るんですがねえ。」  大阪には外に頼る人もなく、又三田程親切な人は無 いので、気まりの悪いのをがまんして来たのだと、繰 返し繰返し、結局二十円の金を貸して呉れというので あった。  三田はその話を信じなかった。情人《あとこ》にみつがせられ て困って居るのは事実に違い無いが、牛屋の主人の顔 役というのが仲に立った以上、手切金も主人が立替て くれそうなものである。殊に二十円という僅な金高 が、ほんとの手切金らしく思われなかった。こっちを 御人よしだと思ってやって来たんだろう。つい此間人 の金を盗んで置きながら、よくものめのめ出て来られ たものだと、ぺらぺら喋るみそっぱの口を、忌々しく 思った。断然悔てやろうと思っていると・ろへ・給躑 仕が呼びに来た。 「三田さん、支店長さんが御呼びです。」  三田は胸がどきんとした。何時迄もこんな女と差向 いで話をしているのは面白くないと思った。それで、 「話はわかったがね、僕は今忙しいから、いずれ君の 奉公している牛屋に行って見るよ。」  と言いながら立上った。 「何時来て下さいます。なるたけ早くね。」 「あゝ、今晩行くかも知れない。」  …刻も早く追出そうと思うばかりだった。 「では待ってますよ。」  何というずうずうしいやつだろう、本来ならば来ら れた義理ではないじゃあないかと思いながら、彼はう たずいて置いて、さっさと事務室に引上げた。  支店長室に入って行くと、 「三田君、誰か女の御客さんだそうだが、どういう人 だね。」  いきなり意外な質問に三田はすっかり面くらわされ た。 「以前宿にいた女中なんですが・-…」 「それが何か用事でもあるのかね。あまり私行上の事 に迄立入って匿話は焼き度くないが、会社に迄たずね て来られるような…悶柄ですか。」 「いえ、私もずうずうしいのに驚いたのですが、金を 貸してくれと言って突然やって来ましたのです。」  かくすにもかくす丈のいいわけは無いので、いっそ 正直に一部始終を話してしまったQまさかに金を盗ん だやつだとは言わなかったが、料理人とくっついて追 出された事、その情人にいたぶられて困っている事を 詳しく述べた。 「しかし、特に君のところへ無心をいいに来るという のはおかしいじゃあないか。」  支店長は疑のとけない様子でつっ込んで来た。 「どういう積りなんですか、私を=益親切な人問だと 思うと言ってやって来たのですが・・…・」 「コ.田君、いゝ加減にせんといかんぜ。親切は結構だ が、あまり度が過ると馬鹿になる。」  そう言って、さもおかしそうに全身に波を打たせて からからと笑った。 十・.三の開口  会社の営業時間が終ると、三田は誰よりも先に仕礁 をしまって退出した。昼間突然おりかにやって来られ て、ふだんから会社員の型にはずれて居る為めに、三 文文士だとか内職つとめだとか、兎角陰日をきかれ勝 だったのが、一段と噂の種になったところへ、支店長 に呼びつけられた事迄も残らず知れ渡ったので、数十 人の社員の眼は、 一様に嘲笑の色を帯びて、三田の一 身に注がれたのである。彼は全く敗走する兵卒の如 く、人目を避けて退出した。  先刻おりかと別れる時は、何でもいゝから早く其場 をきり上げ度い一心で、こっちから牛屋をたずねる 約束をしたが、斯うなってはいっそ直ぐにも出かけて 行って、手取早《てつとりばや》くけりをつけた方がいゝ。愚図々々し て居て又押かけられては堪らないと思った。三田は御 霊《て居て又押かけられては堪らないと思った。三田は佃《こりよ尸り4リががーハ》さんの境内《けいだい》の文楽座の前を通って、裏手の狭い道に 出た。直ぐ目の前に、かなり大きいすきやき屋があっ た。三田は麟躇《ちゆうちよ》せずに入った。階下は土間になってい て、洋食部と書いた黒塗の看板がかゝって居た。三田 は靴を脱いで、二階に上った。  広い二間つゞきの座敷には二列に食台が並んで居た が、時間の関係か、客は一組も無かった。 「おいでやす。お誂《あつらえ》は?」  いかにも牛屋の姐さんらしい大柄の女中が、後にく っついて来た。. 「あのねえ、此のうちにおりかさんという人います かQ」 「おりかさん?」  女中は折角誂物を訊いたのには答えないで、思いも かけない事をいう客をうさんくさそうに見ながら、首 を傾けた。 「おりかさん? そのような人は居たれしめへん。」 「いない? いない筈は無いがなあ。くりくり肥った、 背の低い、縮毛の、みそっぱで、面皰だらけの女の人 なんだが。」  全く心当りの無い様子なので、三田は即座に尋人《たずねびと》の 特徴を描出した。 「あゝ、いてはりま。その人やったらおりかさんやお まへんで。おちかさんですがな。」 「おちかさん?違う・僕のきいてるのはおりかさん踊 ていうんだ。」 「いゝえ、違う事あれしめへん。ちっこいくせによう 肥った、癰髪《くせげ》で面皰のあとの仰山《ぎようさぺ》ある人でっしゃろ。 その人やったら、うちにいてはりまっせ。」  一.一田の描写はすっかり効・果をあらわして、女は名前 の違う事なんか問題にしないで立上った。 「おちかさんでしたら、今直ぐに呼んで来てあげま す。」  梯.十段のところで、三田の人相をしっかりと頭にた たみ込む為めに振かえって見たが、そのまゝ階下に下 りて行った。  間もなく姿をあらわしたのはおりかだ4、た。 「あらやだ。三田さんじゃあないの。お松さんたら、 役者のようないゝ男があんたを尋ねて来ているよな んて、すっかりかつがれちゃった。」 「なんだい、僕だってい餌男じゃあないか。」 「あ.らやだ。三田さんはい餌男っていうんじゃなくて、 頼母《たのも》しい男なんですよお。」  おりかは、昼間の約束を守って三田がやって来た ので、すっかり悦喜してしまった。面皰つらを皺だ らけにして、げらげら笑いながら、一人ではしゃい だ。 「今の人におりかさんて言ったら、そんな人はいまゼ んと去、口ったが、此処ではおちかさんていうのかい。」 「えゝ、その方が呼びいいだろうと思ってねえ。」  おりかは名前なんか何だってい玉じゃあないかとい い度そうな無雑作を以て答えた。 「三田さんは御.酒でしたね。牛肉《にく》ですか、かしわです か。かしわの方がい餌でしょう。牛《ぎゆう》は臭くていやだね え。」  一人で心得て、いそいそ立って行った。 十三の五  煮つまる鍋を前にして、三田はおりかの酌で飲んで 居たが、どう考えても臼分の立場は不思議だった。金・ を盗まれた女にまた金を貸してくれと頼まれ、うかう かと呼出された形で此処に来て居るのは、決していゝ 役で無かった。全く御人よしと見くびられているのだ と言われても否《い魯》め.ない。その馬鹿々々しい役回を、何 とか気の利いた方に転換する事は出来ないかしらと考 えていた。断然要求をしりぞけるのが男らしくていお かしら。黙って二十円ほうり出してやる方が、かえっ て大きいかしら。 「どうしたのさ、三田さん。たんとあがって下さい よ。うちの御酒悪くないでしょ。」  おりかは三田の黙々としているのを不機嫌と思っ て、しきりに酒を勧めた。 「酔わせて口説《くど》二うというのかい。」 「あらやだ。三田さんも人が悪くなったねえ。」 「そりゃあ悪くなるさ。おりかさんみたような凄いの とつきあっているんだもの。今日も会社で君の為めに 叱られちゃった。」  支店長に呼びつけられて、油を絞られた話をした。 「あらまあ、済まなかったねえ。会社は女が行っちゃ あいけないんですか。」 「つまりみんなが焼餅やくのさ。」 「よかったなあ。」  ひとに迷惑のか」る事なんか何とも思わないらし く、面白そうに笑うのであった。 「それであんた何ていったの。」 「君がいろ男にせめられて、金を借りに来た事を話し てしまった。」 「やだよ、三田さん。」 「そうしたら、そんなふしだらな女に一文も貸すなっ て支店長が言ったよ。」  つい飲まされた、悪酒の酔が出て、三田は割合に上 機嫌になってしまった。厚顔無恥《こうがんむち》なのか、無知の極罪《きよく》 が無いのかわからないおりかに対しても、とるにも足 りないものに向う時の、ゆとりのある心持が湧いて来 た。 「ふんとにあんたきいてくれないの。あたしの後生一 生の御願なんですけどねえ。」  三田が冗談をいう丈の心持になったのと反対に、お りかは相手が頼りにならなくなって、不安心らしく真 面目に訊いた。 7今その御金が無いと、あたしあいつの為めにどんな 目にあわされるかしれないんですもの。きっと御返し しますから、何とか助けて下さいな。御恩は死ぬ迄忘 れません。」 ほんとの涙か嘘の涙か・目の中を濡らして真剣に膝絣 を進めた。 「だがねえ、どういうわけで僕がそういう役を振られ るのか、それがわからない。お人よしだとか、甘いと かいうので目星をつけられたのかしら。」 「まあ、三田さんたら:…・」  画皰だらけのおりかの頬をつたって、涙が落ちて来 た。困った事になったぞと思っていたところに、どか どか二階に上って来た、三人連の会社員らしい客があっ た。衝立《ついたて》竜何も無い部屋だから、妙な場面に陥ってし まった三田とおりかを、先方では早くもおかしく思っ たらしく、しきりに視線を集めては、さゝやき合って 居た。三田は一層弱ってしまったが、おりかは別段の 動揺も見せないで、目頭に残る涙を袖で拭いて、しば らくなおざりになって居たお銚子を取上げた。 「もう御酒はやめる。僕は帰るから勘定してくれない か。」  一刻も居たたまれない気持がして、盃を拒《こば》んだ。 「まだいゝじゃありませんか。御飯もあがらないくせ に。」  おりかはあわてて引止めようとしたが、三田は頭を 横に振った。 「それじゃあ.どうしても帰るんですか。三田さん、怒 ってらっしゃるの。」 「怒っていやあしない。たゞ帰るんだ。」  それが性分なのだが、ひとつの事を繰返しているの が嫌いなので、おもわず語気が強くなった。おりかも 為方なく立上って、勘定書を取って来なければならな かった。  勘定をすまして帰るばかりになったが、つれなく帰 って行く白分の態度を弁解するような心も動いた。そ の瞬間に三田は拾円札二枚をちいさくたゝんで、おり かの目の前にほうり出した。 「それでいゝんだろう。」  驚いているおりかにはかまわずに、三r出は勢よく立 上って一文字に梯子段を下りた。 「三田さん、済みません。」  おもて迄おりかは追かけて来たが、三田はさっさと 歩き出した。大きな朧月《かぼノリづき》が、うすら明るい空にぼやけ て浮んでいた。ありもしない財布から、二十自を無恵 味に投出した後の心持は寂しか一.た。 「矢張俺はお人よしだなあし」  此のせち辛い世の中に生きて行くのが心細いような 感慨さえ胸に湧いて来た。 十三の六  なまぬるい夜風に吹かれながら、ぼかりぼかり白分 の靴の音をきいて歩いて居るうちに、味の濃過ぎた酒 の臭いも消えて、白々とした心持になった。 「今日は大層遅い御帰りですな。何処ぞへ寄って来て でしたの。」 宿の格子をあけると、靴を脱ぐひまも無く、おつぎ が出て来て訊いた。 「今日は不思議な人に逢った。」 「不思議な人ですって?」 「おりかさんさ。」 「え、おりかさん? うちに居たおりかさんだっか。 あの人何処に居てはります。」 「御霊さんの裏手のすきやき屋の仲居さんになって居 る。」 「ほんまですかいな。」  たっぷり好奇心は持ちながら、全く信じられない顔 をして居るおつぎに、三田は多少の嘘をまぜて話し た。まさかに会社にたずねて来て、情人と別れる為め に入用の金を貸してくれと言われたとはいい兼て、偶 然往来で逢って誘われて行った事にした。あ・んまりみ んなに憎まれ過ぎて居るおりかをかばう心持も、その おりかに甘く見られている自分自身をかばう気竜あっ た。 「おりかさん、あんたに逢うてどないして居やはりま した。途法《と巳つ》ない困って居りましたやろ。」 「そうでも無かった。相変らず面皰だらけの.顔をして、 げらげら笑っていたっけ。」 「へえ、逃げもかくれもせんと。」  まだまだいろいろ訊き度がって居るのを振切るよう にして二階へ⊥って行く後から、帳場で耳を傾けて居 たおかみさんが、わざわざ廊下へ出て来て声をかけ た。 「三田さん、おりかのやつ、ようあんたに顔が合わさ れたもんです.なあ。」  人の物に手をかけた根性の曲ったものを、手ひどぐ どついて来て貰いたかったような意気込で、何か痛快 な事を期待して居るのは、言葉のいきにも現われて居 た。 「僕もそう思ったんだが、本人は存外平気らしかっ た。おかみさんを始め、 こ玉のうちの人達はみんな 無事かってきいて居ましたよ。」 「ようその様な口がきかれたもんや。それであの料躁 人の男も同じ家に奉公しているのだっしゃうか。し 「いゝえ、あの男は梅田の駅の近所の宿屋にいて、A, でもお金をねだりに来て困るとこぼして居ました。」 「そうでっしゃろ。もともとおりかみたいな女《おなご》に誰が 好んで手を出すもんで。これをみつがせよう為めのわ るさですがな。」  母指《おやゆび》とひとさし指で円《まる》をこしらえて、一寸痛快らし く笑った。 「そしてあんさんはおりかの居る家へ行かはりました のか。」 「来ないかって言うもんだから、おりかさんのお酌で 飲んで来た。」 「まあま、あんさんもよう出来《でづ》たお方です.なあ。」  家中に響き渡るような大きな声で、仰山に驚いて見 せた。台所…で働・いて屠冖る者も、 に笑った。 十四の一 帳場に居る娘も、一斉  お花見の計、画も、陳甲の乏しさにずるずるに延びて 居るうちに、花は遠慮なく散ってしまった。水の流も 深くなって、またゝくひまに貸|端艇《ボ ト》が、中之島付近が ら土佐堀へかけ、又道頓堀のどぶ泥のような水面に も、無数に浮ぶ時節となった。三田が酔月へ来てか ら、自+くも一年になったのである。最初のうちこそ、 だんまりむっつりの、とっつきにくい人閲として気ふ つせいに思って居たが、今では気心も漸くわかって、 おかみさんも女中も、それ程|変物《かわりもの》あつかいにはしなく なった。しかし、未だに手を叩いて用事をいう事は一 度も無く、食事と食事の間には茶も飲まず、部崖は少 しもちらかさず、全く手のかLらないのが、かえって 一脈不気味な、気心の知れない感を宿の者にいだかぜ るのであった。  三田は一番の古顔だったが、それに次ぐものは野呂 だった。野夙口は此の宿に来た頃、三田につきあいを求 めたが、相手にされなかったので、それ以来顔を合せ ても、二人は挨拶をしなかった。三田はそんな事は無 頓着だったが、野呂は明かに含んで居た。此の男も酒 のみで、飲めば必ず助平になるたちだった。お米は引 続いてお酌に佐円り、夜・もこっそりその部屋に忍んで来 て居た。女中を相手に大言壮語をもてあそぶのは野呂 の好むところだった。如何に自分が大正化学工業株式 会社にとって欠く可《べか》らざる働手であるか、如何に社長 に信用されて居るか、如何に部下に怖れられて居るか という様な、お山の大将のほこりを得々としてひけら かした。  その野呂と、のっぴきならぬ事になって、三田は冖 緒に酒を飲まなけれぼならなくなった。或日の事で、 三田が退出時間の近づく事ばかり念じながら仕事をし て居るところへ、支店長が呼んで居ると給仕が言って 来た。又何かお小言かと思いながら、ふてくされた肚《はら》 で行くと、存外支店長は上機嫌で、 「三田君、君は今晩何か先約でもあるかね。若しひま ならば一緒に飯を喰おう。」  という意外な話だった。支店長の同窓の友達で、大 正化学工業株式会社の社長をして居る大河原というの が来阪中なので、その宿をたずねたところ、何かと世 話をしていたのが野呂で、いろいろ話の末に、三田と 同宿だという事がわかった。久々でうちとけた話をし ようというので、支店長が大河原を招く事になった時、 その場のついでで野昌も誘ったから、その話…相手に三 田にも出てくれというのであった。よくない役回だと は思ったが、別段用事も無いと言った乎前、今更断る わけにも行かなかった。 「どうも私は口不調法《くちぶちようほう》で、とても接待役はつとまり兼 ますが……」 「いやあ、どうしてどうして、北の新地は僕なぞより は地の理を知ってる筈じゃあないか。大分君の私生活 については野呂君から面白い報告があった。今晩あら ためて拝聴する事にしましょう。」  と大《おゝい》に意味のありそうな事を言って、三田をいやが らせた。 十四の二 夕方、三田は支店長と肩を並べて歩きながら、今朝 出がけに気の付いた靴下の両方の踵《かムと》に大きな穴のあい て居るのを思い出した。支店長にその事を話して、途 中で買って穿きかえる方がいゝかしらとも思ったが、 何となくいい出し悪《にく》くて、新地の茶屋に蓿くまで愚図 愚図になってしまった。靴を脱ぐと、踵から全身に風 の沁み渡る気がして、人しれず赤面した。  広い座敷で暫く待っていると、大河原が野呂を従え てやって来た。支店長に引合わされて三田は大河原に 挨拶・した後で、野呂とも口をきかなけれぼならなかっ た。 「やあ、三田さん。今日は私迄支店長さんの御招《おまねき》にあ ずかりました。」 「始めまして。わたくしは三田です。」  同時に双方が頭を下げたが、野呂はすっかり馴染の ような口をきき、三田は一年近く略同宿で顔を合せて いるくせに、初対面の挨拶も変なものだと思いなが ら、正式には初対面に違い無いので、あらたまった口 上を述べた。 「なんだ、三田君は野呂さんとは始めてかい。」  野呂の口から、三田とはよく知合って居る様に聞か されていた支店長は、すくなからず意外な様子だっ た。 「えゝ、ついかけちがいまして。」 「左様《そう》か。僕は親しくつきあって居るように聞いたも のだから……」 「いや、三田さん。あなたの事は洗いざらい支店長さ んに御話してしまいましたよ。はっはっはっは。御互 にざっくばらんがいゝです。」  野呂はその場のゆきちがいをつくり笑でごまかし て、 つぼにはまらない事を言うのであった。  ぬけめのなさそうな骨相の大河原大正化学工業会杜 長は、如何にも親しげに旧友の支店長と話をして居る し、又めいめいの地位の相違もある為め、白然に三田 は野呂の相手をつとめなければならなかった。  酒と一緒に芸者があらわれると、野呂は第一に活気 づき、支店長や大河原から三田に迄、 一々盃を貰って 歩き、おかしくも無い事にも仰山な高笑を酬《むく》いて、 一 座を賑かそうと心懸けていた.三田は、自分41ちっと は取持役として働かなければならないのだとは感づき ながら、どうしても気軽に座を立つことが出来なかっ た。 「三田君、君は酒豪なんだから、遠慮なく飲んでくれ たまえ。」  と支店長は見るに見かねるというよりも、あんまり 気の利かないのが腹だたしそうに、二度三度同じ言葉 を繰返した。その肚の中は、底の底迄わかって居るの だが、三田は自分の性分を、どうする事も出来なかっ た。平生酒に対しては随分意地の汚ない方なのが、御 馳走、酒ではうまくなかった。いくら勧められても、兎 角盃は膳の上に冷い酒をたゝえていた。 「三田さん、ちっとも上らんではないですか。あなた の御手並は兼々聞及んでいるのですが、例のそら蟒先《うわばみ》 生ですな、あれを盛つぶすのはあなた丈ですよ。」  段々酔の回って来た野呂は、顔中|脂肪《あぶら》でぬらぬら光 らせ、若い芸者の手を握ったり、助平たらしい冗談を 言ったりするあい問には、何彼と三田をいやがらせる のであった。 「そうそう、三田君の御気に入だという蟒というのを 呼んでくれ。」  野呂にきかされて名前を知っている支店長も、面白 そうに相槌をうった。 「蟒? けったいな名前だんな。そのような芸妓《げいこ》はん は、新地にはいたれしめへんぜ。」  大丸髷を頂いて、どつしり構えている仲居頭は意地 の悪そうな太い眉毛を寄せて首をひねった。 「なんとかいいましたなあ、三田さん。背のおそろし く高い、真青になってコップ酒を飲む……」 「わかりました。お葉さんでっしゃろ。」 「それぞれ、お葉さん即ち蟒さ。三田さんのところへ しけ込んで来ているのがやけて堪らんから、からかっ てやったところが、えらい女でなあ、俺の此の茶瓶《ちやぴ凶》に ざあと酒を浴せやがった。」  野呂は大河原や支店長への座興に、自分の薄禿の頭 を叩いて笑わせた。 十四の三  蟒があらわれた時は、大河原も野呂も十分に酔い、 量を節している支店長さえ誘われて声が高くなり、三 田丈が妙に白けた心持で不機嫌をおしかくして居た。 「いよう、蟒姐さん。」  お約朿の座敷に出ていたのであろう、すぐれて背の 高いので裾を引いて、一段とひょろ長く見えるのを、 見上げる形で野呂がはやした。 「A,晩は。此処のうちの逢状《あいじよう》に三田様故はやはや御越 しと書いてあったので、あんたが此のうちを知ってる 筈は無いがと不思議に思うて来ましてん。おゝしん ど。姐さん、コップ貸しとくんなはれ。」  酔った時にはおきまりで、傍《かたわら》に人無きが如き我儘を 極める蟒は、外の客には口もくれずに、三田の前に坐 って、直ぐさまコップ酒をあおりつけた。 「おいおい、なんぼ三田さんがいゝからって吾々にも 御、一.門葉を下し賜《たま》わってもいゝだろう。」 「初対面の方は羞しおますさかいな。」 「初対面だって。驚いたねえ、俺の此の茶瓶に酒をぶ うかけたのは、よもや忘れは致すまいが。」  わざと芝居めかした太い声を出して、野呂は禿頭を つき出した。 「へえ、あんたの茶瓶にお酒をかけましたかいな。あ んまり度々なので、何時何処でやったかよう覚えませ ん。」 「冗談いっちゃあいけないぜ。お前が三田さんのとこ ろへ忍んで来た時さ、忘れたか。」  蟒は始めて思い出した。 「あゝ、あんたでしたかいな。あても阿呆やなあ。そ のようなしょうむない茶瓶に、おいしいお酒かけるよ うなもったいない事、なんでしたのやろ。」 「まあ、お葉さん姐さんのいわはる事。」  若い芸者や舞妓は、よく訓練されたかしましい声を はり・あげて笑った。 「さ、みなしてコップで飲みまほういな。あんたも床 柱しょってえらそうな顔していないで飲んだらどうで すか。」 「僕は弱卒だ。その上茶瓶仲悶だから、酒でもぶっか けられてはかなわん。まあ、お前と二田君の合戦を拝 見していよう。」 「へえ、大けな体して、おまわりさんみたい・な髯はや した男が、御酒もよう飲めへんのか。そんな事《(つ》て、 御役所だか病院だか知らんが、よう勤まるもんです な。」  蟒はたて続けにコップ、酒をあおりながら、支店、長を 尻目にかけて、口から出まかせの毒口をきいていた。 ふだんから決して愛想のいゝ方で無いのが、殊に御機 嫌斜めだった。 「おいおい、むちゃいうなよ。そちらは三田さんとこ ろの大将だぜ。」  野呂は蟒の放言をさし止めようと気を揉んでいた。 「大将だろうが兵隊だろうが御酒のよう飲めんような 男は一人前とはいわれへん。さ、三田公、飲まん人は ほっといて、こちらはこちらで飲みまほ。おゝ暑《あ》つ、 足袋脱がして貰いまっせ。」  いきなり・脱いだ足袋を座敷の隅へ投げて、飲み干し たコップを三田に差した。 「さかんなものだねえ。」  と大河原が苦々しげにいうと、 「ききしに勝る豪の者だよ。」  と支店長も興ざめた.顔をして答えた。 十四の四  三田は自分の一身の処置に困ってしまった。本来な らば支店長の下役として、客の接待につとめなければ ならないのが、生れついての気重の為めに、盃を貰っ たり返したりする事さえ満足には出来ないで、内心ひ どく参っていたところへ、我儘気儘な蟒が出現して、 傍若無人に振舞うので、座敷はちぐはぐな心持でいっ ばいになってしまった。前から来ていた若い芸者や舞 妓《ばいになってしまった。前から来ていた若い芸者や舞《まい》こ》は、型にはずれた蟒の振舞に調子が合せ切れなくな って、一人減り二人減り、残っている者は膝に手を置 いて、所在なさに難渋《なんじゆう》していた。.三田の心になって見 ると、 一座の不興に対する責任は、みんな自分がしょ わされたようだった。 「三田公、あんたなんで飲みなれへんの。そのコップ 返してほしいわ。」  一向頓着無く、蟒がせめ立てるので、愈々酒を飲む 気は無くなるのであった。 「今日はいけないよ。場所を考えろよ。」  小声で言いながら手を振って見せたが、かえって気 勢を山高めてしまった。 「なんで今日はいけないのか聞かして貰いまほ。三田 公ともあろうものが、今口も明日もあるものか。」 「よせよ。今日は接待役なんだ。君も、あっちに居る おれきれきの方に行って、御機嫌をうかゞって来てく れ。」 「阿呆らしい。御酒を飲まんような人間の御機嫌がう かゞえますかいな。第一あんたみたいな。不精者を接待 役に択《えら》ぶのが間違いのもとや。なあ、大将。三田公は 三田公らしく気軽に御酒を飲ませて置いたらどうでっ しゃろ。」  折角三田は声を落してさゝやいていたのに、蟒はわ ざと高調子で、あまつさえ支店.長の方へからんで行っ た。 「三田君、気儘に飲んで貰い度いね。此の姐さんのお 相手は君でなければつとまらんよ。」  支店長は心の甲の不満を声に出して、怒鳴るように 一.藁った。 「大将。あんたよう物のわかった御方だんな。此の姐 さんの御相手はほんまに三田公に限るのだっせ。三田 公は男ぶりがえゝというのでも無し、芸事も出来へん し、不粋《ぶすい》の親玉みたいなもんやけれど、酒の飲みっぷ りがよろしいなあ。ようてようてたまらん。」  蟒はコップと徳利を両方に捧げて、ふらふら立上る と、支店長と大河原がしきりに話をしている前に行っ て坐った。 「おいおい、そう手放しでのろけられてはそれこそた まらんぞ。」  すっかり虎《とら》になりながらも、蟒の横暴を懲《こ》らしてや ろうという肚《はら》で、横っちょから野呂が声をかけた。 「えらい御世話さん。あんたのろけいうのはどないな 事か知っていやはりまっか。三田公とあたしのような きれいな交際をして居る電のが、友達をほめるのはの ろけとは違いまんがな。なあ、大将。そうでっしゃ ろ。」 「そうそう。」  支店長はうるさそうに、冷かすようにうなずいて見 せた。酒癖を露骨にあらわして来た蟒は、相手が自分 をうるさがっていると見てとって、愈々つむじを曲げ てしまった。 「ふゝん、あんた此のあてをうるさい、邪魔な奴やと 思うている。邪魔なら邪魔でいにまっせ。」 「なあに邪魔なものか。珍しい芸者もあるものだとつ くづく感心しているのだ。」 「ほんまだっか。」 「ほんとさ。」 「そんなら此のコップを受けとくんなはれ。」 「そりゃあ困るよ。酒丈は許してくれ。」 二杯受けたってよろしいがな。折角差したコップを つき戻されたら、心地悪うてかなわん。」  蟒は酔えば酔う程蒼ざめて、それが此の女の取柄《とりえ》と もいう可き澄んだ眼が、どんよりとすわって来た。 「心地悪うてかなわんと言われても、飲めないものは 為方が無い。そんなに飲ませ度いのなら三田君に飲ま せたらいゝだろう。」 「いゝえ、あんたに是非とも飲んで貰い度い。」  なみなみとついだ酒の光るコップを鼻さきへつきつ けて、どうしても飲ませようとする気勢《けはい》を見せた。 「いかんいかん。何と言っても飲まんよ。」 「これ程頼んでも拝んでも飲みなれへんのか。」 「飲まん。」  支店長の声は叱るように力強く響いた。  、飲まんというても飲ません事には肚の虫が承知せ ん。」 「承知す.るもしないもあるか。勝手に管《くだ》を巻いてい ろ。」  癇癪筋を額に立てて、支店長は更に大きな声で怒鳴 った。 「怒らはったな。面白い。怒られてへこむようなんと は違いまっせ。飲まんと言うなら、こうして飲まして やる。」 あっという間も無かった。蟒はコップのふちに盛上 っていた酒を、支店長の頭からぶっかけた。 「あれえ、姐ちゃん。」  はらはらしながら、取さばく力も無く膝に手を置い て居た若い芸者の立騒ぐ中を、蟒は一文字に部屋の外 に消えてしまった。 十五の一  三田は突然東京の本店へ復帰を命ぜられた。支店長 につれられて北の新地のお茶屋へ行き、蟒が酒癖を出 して支店長に酒を浴せてから間も無かった。誰から誰 に伝ったのか、事の次第は大袈裟に、社内の者の噂と 卿 なった。支店長と三田とが一人の女を張合って、三田 のカが若い丈肩利になり、女は三田の為めに支店長の 面前で啖呵《たんか》を切ったあげく、怒ってつかみかゝろうと した支店長に、酒をぶっかけたと.言うのだった。まる で新派の芝居でする「通夜物語《つやものがたり》」の一場面の如き話に なってしまった。しかも支店長はその女に未練がある ので、本店に=一田をかえした後でゆるゆる掌中のもの にしようという魂胆だというのであった。  三田は何の弁解もしなかった。再び東京に帰るのは 嬉しくない事もなかったが、何といっても突然の転任 のうらには、馬鹿々々しい出来事が潜んでいるのだか ら、なさけなかった。支店長は本店にむかって、如何《どう》 いう理由を述べて転任の申請をしたのだろう。そうい う事を追及して考えると、全く東京なんかに帰る気は しなくなった。  それでも、転任の命令が下《くだ》ると、一週間以内に出立 する内規だったから、直ぐにそれぞれ手配《てくばり》をした。 一 年半大阪に居た悶に、自分の周囲にいた人々に別れを 告ける為め、その人達を招待する事にした。酔月の主 人とおかみさん、娘、女中三人、おっさん、田原、 蟒、冶みつの十人を選び、場所はおりかの奉公してい る牛肉屋の二階ときめた。既に野呂の口から、新地の 一夜の出来事は、残らず宿の者に伝えられ、みんなは 蟒の狼藉《ろうぜき》を憎み、三田の災難に同情して居たので、今 度の転任も勿論それに起因するものと推察していた。 「ほんまにえらい災難ですなあ。あの蟒さんいう人 は、もともと評判のようない人では撫㌔のでっしゃう か。なんであんたあのような人を御贔負にしていやは ったのか、ほんまに冂階《くちおし》いと、みなで些.口うてまっせ。」  おつぎはさも腹立たしそうに蟒を罵《り」i》った。 「僕の転任は、蟒のしわざの為めでは無いよ。第一酔 った時の間違いなんか、咎《とが》む可き事では無いさ。」  三田はさり気なく言ってのけたが、あんまり人に兎 や角いわれるのが面白くなさそうなので、宿の者も陰 で評判する丈で、一切その事は口にしなくなった。  けれども、三田の催すお別れの会に、蟒も招かれて 来るというのは、何としても合点が行かなかった。 「あてにはどうしても三田さんの御腹の中がようわか らん。矢張惚れていやはるのんやろか。」 「あのような怖い顔うきしていやはっても、此の道は かりは別や碧.口うよってなあ。」 「それかというて、何も蟒さんのような酔いたんぼの 女《おなご》はんに惚れはらんかて、外にどっさりえゝ女があ.り そうなもんやないか。」  卩々に各白の意見をのべて、三田の物好を笑った り、蟒のような女を友達扱いにするだらしの無さに憤 慨したりした。 旨お前達のいう事はみな違うて居る。三田さんは怒り っぽいように見えて、その実あの人程心の広い方は珍 しい。」  一度も口をきいた事も無いくせに、ひどく三田贔負 の酔月の主人は、自ら信じるところあるらしく、たゞ 一人三田の肚の中迄飲込んだような事を言って居た。     十五の二  愈々翌朝は出立という日の晩、三田が主人《あるじ》の別れの 会は、おりかの奉公して居る御霊さんの裏の牛肉屋の 一、 階で催された。宿の主人は折角ながら外出《ぞとゼ》は嫌いだ という理由で、おかみさんは女中達を出してやると後 で困るから自分とお兼だけは留守番をするという理由 で不参だった。お米とおつぎとおっさんと、珍しくも 後日娘義太夫になる筈の娘が、途中でおみつを誘って 来た。他所《よそ》ゆきの.顔つきをして、此の人々が二階へ通 ると、三田は一足先に来ていて、おりかと話しながら 待って居た。 「まあ、みなさん御揃いで、あたし羞しいよ。」  おりかはいろいろ弱味のある身を羞じてか、真赤に なった面皰だらけの顔に袂を当てた。  女同士は御互にしっくりとは結びつかない話を喋り 合って居たが、結局は三田の身の上に落て行った。 「三田さんも急に御帰りなさる事になったんだってね え。」 「それがあの蟒さんのわるさの為めいう事知っててだ っか。」 「へえ、あののんだくれの芸者?」  苦い顔をして腕ぐみしたまゝ感慨に耽って居る三田 には頓着無く、おつぎとお米はおりかが真相を知らな いのに優越感を起して、かわるがわる左右から話すの であった。此の場に臨んでは、もう遠慮も我慢もいる ものかという勢だった・ 「よし給え。今その蟒も来るんだから。」  三田は堪り兼て話を両断してしまった。恰《あたか》も其の 時、 「やあ、皆さん、遅くなりました。」  と梯子の中段から大きな声をかけて、田原がせり上 げの様《よう》にあらわれると、後には蟒がつゞいた。 「今途中ででっくわしてなあ、道行《みちゆき》のように並んで来 た。」  田原は何時もに変らぬつけ元気で、何となく固くな っている一座を賑かにしようとするのであった。 「噂をすれば影さ。待ちくたぶれて悪口をいってたと ころ.だ。」 「あてのでっしゃろ。」  蟒も流石に真.画目な顔をしていたが、商売人だけに 気を取り直して、急《たちま》ち田原と調子を合せて、室内の陽 気を一高めようとするのであった。 「あの女故に二田さんも東京へ帰らはる事になった。 あいつが来たら、みなでどついてやろ、こない言うて いやはったのと違いまっか。」  度胸を定めて先手を打って、たしかに異心《いしん》のある外 の女達の方に、腹蔵なく笑いかけた。 「全くその通りだ。さ、おりかさん、御馳走を頼む よ。今口こそは蟒の頭から熱燗《あつかん》一合ぶっかけてやるか ら。」  三田の冗談に一座は腹をかゝえた。笑と酒は人と人 との問に横《よこた》わる邪魔を直ぐさま追払って、めいめいの 話声も高くなり、話題の少ないのをまぎらす女達の笑 声は絶問がなくなった。 十五の三  三っ四っ食台をつなぎ合せた上に、 一斉に濃い湯気 を立てて居る牛鍋を両側から挾《さしはさ》んで、口亀箸も忙し く動いた。 「おい三田公、あちらにいらっしゃる御老体はどなた だ。紹介して呉れなくちゃあいけないじゃあないか。」  酒量の無い癖に最初に馬力をかける田原は、見る間 に赤く額を染めて、ふだんから人一倍高い調子が更に 高くなり、 一人で喋っていたが、飲干した盃をおっさ んに差した。 「酔月のおっさんでね、そもそも僕があの宿へ行く事 になったのは、天神橋の蛸安で、此の人と落合ったお かげなんだよ。」 「そんなら御話は兼々三田公から承って居ります。僕 は田原です。何分よろしく。」  真面目くさってつきつける盃を、おっさんはにたに た笑いながら、両手で受けて押.頂いた。 「社長さんの御盃を頂いてはもったいないわ。」 「何言やあがるんだい。昨日の社長、今日の浪人だ。 束京に迫かえされる三田公の方が、喰扶持《くいぶち》に離れない 丈まだしもましだ。此のおっさん隅に置けねえ悪者だ ぞ。」  田原は下手な巻舌で、がらりと砕けたところを見せ て、おっさんに親しい心持を持たせてしまった。 「おつぎにいらっしゃるのは酔月の娘《とう》はん、豊竹小呂 昇はんと承知して居るが、こちらにいらっしゃるも一 人の娘はんはどなた様です。」  お米とおつぎの間に、特に今日結ったばかりの島田 の首を行儀よく捉えて、っゝましく笑っているのに、 田原は先刻から目をつけて居た。 「そちらはおみっつあん。」  三田は何といっていゝか一寸踏躇したが、 「何時か蟒女史の大嵐の時、びしょ.濡《ぬれ》にした一張羅《いつちようら》を 仕立直して貰った人の話をした事があったろう……」 「あゝあの……」  横合から蟒が感嘆の声をあげたが、あゝあの淫売か といおうとしたので、あわてて白分の口を押えて、 「へえ、あんたでしたか。その節うちの三田公のくた ぶれた着物を縫うてやらはったのは。」  とあやうくきり抜けた。 「おい蟒。俺の頭からざぶりとやってくれ。おみっつ あんに着物を縫直して貰えるなら、酒でも水でもなん でも構わん。」  円原は頓狂な形をしておみつを拝みながら、ざんぎ りの頭をぴょこぴょこ下げた。  最初のうちこそ敵意を持っていたが、悪酔さえしな ければ目端《めはし》の利《き》く蟒は、誰にもへだてを忘れさせ、全 く水入らずの会合となった。おっさんは好物の酒にあ りついたので、口尻に唾の垂れそうな格好で盃を含 み、お米もおつぎもおみつも、田原と蟒に強いられて お白粉の顔をほの紅くした・ 「君はちっとも飲まないようだが、コップでも貰おう じゃあないか。今晩は僕も首を横に「振らないで、最後 迄つきあうよ。」 「三田さん、今夜丈はかんにん。」  蟒はあわてて手を振って拒んだ。 「此処でコップで飲み出したら、折角の御別れの会 を、又むちゃにしてしまいまっせ。」  しんそこから訴えるような真面目な顔をして、どう しても鳶かなかった。 十五の四  とはいうものの、ほろ酔は次第に度を過して来た。 殊に田原は調子に乗って女連に盃をさし、酔わせる積 りが、かえって自分が酔ってしまった。 「三田公、お前はどうせ大阪の人間ではないと思って いたが、斯う早く引上ようとは思わなかったよ。お前 のおふくろに、 一人前の人間にして呉れと頼まれてい たんだが、未だ半人前にもならないうちに俺の目の屈 かないところへ手放してしまっては、仏つくって魂入 れずだ。」  何か一演説やらなくては納まらないような感慨深い 心持が襲って来た。それを無理に振捨る態度を見せ て、彼はいきなり立上った。 二諸君。三田公の為めに乾盃しましょう。」 「よろし、ひとつしめましょか。」  第一におっさんが応じた。めいめいの盃に酒をた函 えて、 一斉に飲干すと、しゃんしゃんしゃんと〆《しめ》たの である。  三田は不意に、鼻の頭《さき》に水洟《みずばを》がたまった気がして、 眼の中があっくなった。 「有難う・。わたくしも皆さんの健康を祝します。」  居ずまいの崩れていたのが、きちんと坐り直して、 三田はサイダアを飲んでいる宿の娘の前に空っぽにな っているコップを取ると、手酌でいっばいにして一息 に飲んだ。ぐぐうっと腹の底迄酒が沁みると、胸に込 み上《あげ》て来る酔と共に、何か心にたまって居る事を、残 らず吐出してしまい度くなった。 「少々遅れぱせながら、 一寸挨拶を甲述べます。」  少し酔ったかなと考える余裕は十分あったが、それ を押切ってしまう感激が燃えて居た。 「謹聴々々。」  田原は自分の御株を奪われたようにも思われ、又自 分の舞台が回って来たようにも感じて、さかんに拍手 した。 「今晩はそれぞれ御忙しいところを繰合せて御出で下 さって、満足に思います。今度突然東京に帰る事にな りましたが、此の大阪の一年有半は、皆さんの御陰で いゝ修業を致しました。その間に、最も親切にかたく なな私をよき友達としてつきあって下さった皆さんに 別辞を述べるには多少の感慨があります。酔月の御主 人夫婦の欠席は遺憾ですが、娘《とう》はんもおっさんもお米 さんもおつぎさんも来てくれ、又我が飲友達蟒さん は、ひくてあまたの御座敷を断って来てくれ、その蟒 さんにお酒をぶっかけられた為めにはからずも御友達 になったおみっつあんもいるし、揚所はおりかさんの 奉公しているところで、考えて見ると此の座敷の中に、 私の一年有半の大阪生活は、そのまゝ生きて鋤いて居 るように思われます。」 「ひやひや。」  田原はだんまりの三田の意外な雄弁に感興をそゝら れて、又しても拍手しないではいられなかった。 「たゞ一つ残念なのは、私が会社のゆきかえりに殆ど 毎日すれ違い、ひそかになつかしく思いながら、遂に 機会を失して友達となる事の出来なかった無名の美し き人を此の場に見る事の出来ない事であります。」 「へえ、三田さんにその様な人がおましたの?」 「誰だ誰だ、そいつは。」  蟒と田原は同時に左右から詰寄った。 「三田さん、それはあんさんが今日は逢わなんだので 気色《きしよく》が悪い、今日は逢うたので縁起がえゝいわはった 何処やらの御店につとめている娘さんの事でっしゃ ろ。」  おつぎは三田にからかった頃のことを思い出して、 得意そうにいった。 「ふうむ。初耳だね。」 「初耳なものか。君はその娘を見た事がある。一度往 来で見る光栄を有した事がある。」 「そうかなあ、俺の記憶には無いよ。しかしほんとに 三田公がおもいを焦《ごが》したとすると実に愉快だ。いった い全体何者だ。」 「日華洋行の受付なんだ。」 「へえゝ、意外千万だなあ。」 「私は正直にいうと、若し機会があればその娘さんに は真剣になったかと考えるのであります。」  三田はひどく真面目な顔をして、ずばりといい切っ て、もう一杯コップの酒を飲干した。 十五の五  三田は一息ついてから、そもそも靴屋のおやじと不 愉快な交渉をした事、ぶかぶかの靴を穿いて裏通を歩 いて行く向うから、つゝましやかに来ては擦違う銀杏 返の娘の事、その娘に対してどういう心持を持ってい たか、日華洋行の主人の悲惨な最期の為めに、ふたゝ ぴ逢わなくなった事を話した。どういうものか、愈々 大阪を去るという時になって、その娘の姿は、最も明 かに彼の心によみがえって来たのだ。 「ふうむ、そいつは.面白いなあ。」  小説でも読むような興味で、田原はしきりに詳しく 聞き度がった。外の者も、三田にもそんな心持があっ たのかと、半信半疑で呼吸《いき》を呑んだ。 「その娘さんを此処に見る事の出来ないのは、たった 一つの遺憾であります。し  三団は又繰返していった。 「けなり、けなり。その娘さんの話もうやめてほしい わ。名前も知らず、何処の人かも知らんで、なつかし いとか忘られんとかいう柄かいな。」  蟒はわざと怒った様子を見せて話を遮《さえぎ》った。 「まあ、そうやくなよ。三田公の一目惚《ひとめぼれ》なんか全く話 だ。黙って…賜いてやれよ。」 「あかん。あてがあかんいうたらあかん。」  田原と蟒の争うのを、みんなが面白がって見てい た。 「あかんも何もないよ。話し度くてももう種は尽《つき》てし まった。たゞ遺憾々々と繰返しまして、扨《さ》てその遺憾 はあるにはあるが::」  三田は立てつゴけに飲んだ酒で高くなった声で続け た。 「その外のお友達とは斯う迄親しくおつきあいをし、 私としては一生忘れられない人々となりました。私は 字が下手なので手紙を書くことは大嫌いです。だから 東京へ帰ったが最後手紙なんかは恐らく書きます.ま い。年賀状さえ出さないだろうと思います。けれども、 どうぞ三田という男がいた事を忘れないで下さい。み なさんからも手紙を頂こうとは思いません。たゞ忘れ ないで下さい。私も忘れません。青二才の口からいう と変だからいゝ加減にして置きますが、みなさんの友 情に対し、心の中ではしみじみ感謝して居ます。怒る 言葉は楽に出るけれど、感謝の言葉という奴は、いや みになっていけません。だからこれでおしゃべりは止《や》 めて、もう一度皆さんの健康を祈ります。」  三田は又なみなみと酒をみたしたコップを高く捧げ て、美事《みごと》に干した。 「三田さん、あたしにも飲ましとくんなはれ。なんや ら涙みたいなもんが眼の底から湧いて来てかなわん。」  ・今日ばかりはコップ酒は御免だといっていた蟒は、 何かに感じて涙で目の中を濡らしていた。それをまぎ らす為めであろう、いきなり三田の手からコップを奪 い取ると、 「さ、誰ぞお酌。」  と甲《かん》・走《ばし》った声で叫んだ。 「来たぞ、来たぞ。斯う来なくては面白くないんだ。」  田原は直ぐに調子を合せて、徳利を.取あげた。蟒は 咽喉《のど》を鴫らして、 一息に流し込んだ。 「あゝおいしい。もう数珠《じゆず》切ったからはあとの事は知 りまへんで。三田公、今晩は夜どおし飲みまほうい な。」  無理に控えていた酒だから、もうひとつ続けさまに あおったが、あかりの下で振仰いだ頬辺《抵ワペた》には涙が光っ ていた。     十六の一  大阪らしくどんより曇った朝、三田は宿酔《ふつかよい》のはれぽ ったい顔をして、梅田まで見送るというおっさん、娘《と(ノ》 はん、お米、おつぎ、おみつに取囲まれて、荷車を従 えながら、今.更なつかしい川岸を歩いて行った。めい めいいろいろな感慨はありながら、変に胸のふさがっ たような気持で、誰一人はかばかしく目をきく者も無 かった。  駅にはおりかも来て待っていたが、三田が必ず来て いると思って居た田原と蟒の姿は見えなかった。  切符を買ったり、荷物を預けたりしていると、もと もとぎりぎりの時…間だったから、直ぐに改札口は開い た。 「田原さんと蟒さん姐さんはどないしやはったのや ろ。」  と三田が我慢して言い出さない言葉を、さも不平そ うにいうものもあつた。 「昨晩の飲過《りみすぎ》で頭があがらないんだろう。田原なん か、あんなに酔払って居て、無事に御影まで帰れたか どうかわからないぜ。」  しまいには足腰の立たなくなる迄コップであおりつ けた蟒と、前後不覚になって牛肉屋の床の悶を枕にし て寝てしまった田原の前夜の姿を、三田は寂しく思い 出した。  沢山な人の群《むら》がる歩廊《アフツトァオ ム》に立っても、三田は田原 と蟒を心待に待った。ほんとに口分を知っているの は、広い世の中に此の二人きりのような気がした。い くら咋晩は酔ったからって、今口はどうしても来なけ ればならない筈だと、遂には不平に思ったが、時間は 刻々に迫って、三田の乗る可き汽隼は轟然と駅の中へ 侵入して来た。 「さあ、愈々御別れだ。」  急に名残惜《なごりおし》さが深くなったが、否応《いやカう》なしに乗込ん だ。  窓から頭を出して、其処に一列に並んでいるみんな とそれぞれ挨拶をかわしているところへ田原と蟒がか けつけた。二人とも両手に麦酒瓶《ビ ルびん》を持って、いきせき 切って来た。 「あぶない、あぶない。もう少し寝ていた6間に合わ ないところだった。昨夜は夜中に目が覚めたら、一人 で知らないうちに寝ているんだ。驚いたねえ、それが 堂島裏町の宿屋なんだ。」  田原は窓に近く寄って、手に持っていた麦酒瓶を腋 の下に挾んで、三田と握手した。あんまりひどい酔い 方なので、まだしも本性のある蟒が、近所の宿屋へ連 れて行って、荷物のように預けて来たのだそうだ。 「今朝かって、あてが起しに行ってあげなんだら、よ う間に合いはしませんでしたぜ。」  蟒はそういうひまに、これは両、手の麦.酒を側に居る おりかに渡し、素早く自分の袂から紙製のゴップを.取 出した。それを三田にも田原にもおっさんにも、外の 女達にもひとつ宛持たせ、帯の間から栓抜を出して、 手擦よく瓶の口を取り、みんなのコップになみなみと っ 酌いだ。 「いゝか、三田公の為めに別れの乾盃だ。そうして万 歳を三唱する。」  部下に命令するような態度で田原がいった時、発車 の合図の汽笛が高く響いた。送る者と送られる者と、 あたりの人の好奇心に輝く視線を残らず身に浴びなが ら、 一斉に乾盃した。 「三田公万歳。」  田原は音頭を取って声を張上げたが、これは流石に 誰も応じなかった。 「万歳。」  田原は構わずに三度叫んだが、その時汽車は既に人 人を後に残して滑り出した。  うす汚なく曇った空の下に、無秩序に無反省に無道 徳に活動し発展しつゝある大.阪よ、さらばさらばとい う様に、烟突《えんとつ》から煤烟を吐き出しながら、東へ束へと 急走した。                   (大正十五年)