覚書 水上滝太郎  泉鏡花先生は、天賦の才能を以て、極めて特異な思想感情を、あますところなく文字に表現し 尽しておかくれになった。凡そいかなる作家といえども、一作を成すや直に、何か表現し切れな いものの胸に残っている、あと味の悪さに悩むのが普通だろうが、泉先生にはそれがなかったら しい。あるいは、先生自身にはかかる悩《なやみ》があったかもしれないが、少なくともその作品には、そ ういう痕跡《こんせき》を止《とど》めない。作者と作品の間に過不足がない。読者の側で何か物足りなく思うならば、 それは先生の持合せていないものを求めているのであって、先生が持っていながら表現し残した ものではないのである。  明治大正昭和を貫く我国近代文学を、くまなくあさり求めても、先生ほど描写力の豊かな作家 は外にない。鴎外や漱石が、先生を第一位の小説家として推奨したのも、主としてこの素晴らし い描写力に敬服した故《ゆえ》であろう。西洋古今の小説家中、最も逞《たくま》しい描写力を持つと極附《きわめつき》のトルス トイは、あらゆる場面、あらゆる人間を描いて、しかも心理描写を伴う非凡の腕力を発揮したが、 絵画的描写の一面だけを比べるならば、泉先生もまた彼に劣らぬ鮮《あざや》かさを示された。但し、彼と これと、西洋画と日本画の相違の存する事は言うまでもない。  先生は、小説は物語であると考え、この点に多くの疑をさしはさまれなかったようだが、それ にもかかわらず先生の作品は、真直に筋を語るものではなく、描写に次《つぐ》に描写を以てする場面の 展開を辿《たど》り、決して口から耳に伝える風のお話にはならなかった。描写に自信を持つ先生の文章 は、暗示にかくれる形態でなく、豊富な文字の数をつくして、執拗《しつよう》に残りなく描かなければ承知 しない。どんな事でも描いて見せるぞと先生はきおっておられた。先生はよく昔の芸道の達人の 話をされ、何某の狂言師が狐《きつね》の声を発して飛上ると、あたりに獣の悪臭が漂ったとか、誰某の絵 師が墨を以て描いた牡丹《ぼたん》は、火焔《ほのお》の色に燃えたったとか、そういう類《たぐい》の芸談に及ばれた。いわん や文章の道においては、芸の極致に達する時、神業《かみわざ》か鬼神力か、花を描けば芬《ふんぷん》々たる香を発し、 草を描けば颯《さつさつ》々たる風のわたる事も、まのあたりだと説かれた。真実そういう境地に到り得るも のだと信じておられた。この場合、眼に見るままを、精緻《せいち》克明に写すのは芸道の真ではなく、先 生はしばしば物の風情《ふぜい》をつかんで真実を描こうとし、時には草艸紙《くさぞうし》や浮世絵や演劇や能や狂言が 幾代かを経て完成した姿に則《のつと》る方法をえらばれた。自然派以来、現実の真を追求するのが芸術の 本道だと信じられたのに対し、先生は理想世界にこれを求め、眼に見るべからざる境地に真善美 を創造された。また、心理探求の傾向を全然持っておられなかったため、人間はとかく類型的性 格となり、内的発展は乏しかったから、当然筋と場面の複雑怪奇が特徴となった。平凡にその日 その日の生活を送る隣近所には作者の感興をそそる芸術境はない。仲人《なこうど》が間に立って見あいをし、 夫婦になり、乏しい月給をかこちつつ、子供が生まれ、年をとり、ひそかに墓場に運ばれてゆく、 ありきたりの生涯にも、人生の深い悲喜哀楽は多分に暗示されるはずであるが、先生はかかる家 常茶飯事には携わらなかった。鏡花世界に登場を許される男女は、父母、先生、師匠、美人、達 人、あるいは芸道、恋愛に対して一途《いちず》に信仰憧憬し、驚くべき運命、境遇にもてあそばれ、虐《しいた》げ られ、しかも至純の感情をただ一筋に守り通すことによって生甲斐《いきがい》を与えられるのである。言葉 を換えていえば、ありのままの真実の記述は先生にとって芸術ではなかった。一般には、あり得 べからざる事のように思われる世界を、真実あるが如くに描くのが先生の芸術であった。先生の 豊富強烈鮮明な描写力は、完全にこれを遂行し得て、量と質と、共に並ぶものを見出さない。  泉鏡花先生こそは、自分の創造した世界に、自分の思うままの人間を生かし、我儘《わがまま》に遠慮なく、 自分の持っている限りの思想感情を流露しつくし、表現し切れぬ悩みを残さず、大往生を遂げら れたのである。羨《うらやま》しくも尊き生涯であった。 (昭和十五年二月八日) 『図書』昭和十五年三月号