我が飲屋 水上滝太郎  昔から飲む打つ買うと一口にいうが、私は打つ方も買う方も不器用で、飲むだけが先ず道楽と いえばいえる。勝負事は好きだが、賭《かけ》る興味はない。御ほうびという物が子供の時から嫌《きら》いだっ た。遊びも真の味を知らない。おいらんは見た事もない。芸者もさほど面白い相手とは思わない。 私自身どどいつひとつ歌えない。十年|越《こし》顔見知りの芸者もいるが、その連中は私を目《もく》してどしが たい野暮だときめている。たまに何かいうと、「あら、貴方《あなた》でも洒落《しゃれ》をいう事があるんですか」 と真正直に驚く老妓《ろうぎ》さえある位だ。  飲む方は血筋だ。亡父は昔慶応義塾で講義をしながら、机の側《そば》に土瓶《どびん》を置き、番茶と見せて飲 んでいたという位で、家では毎晩寝しなに燗酒《かんざけ》二合の後で、こっぷで一杯|冷酒《ひや》をあおった。宴会 に行っても、家に帰るとおきまりの寝酒は飲んだ。膝《ひざ》も崩《くず》さない酒だった。母の兄弟は皆一升酒 で、早く死んだ叔父《おじ》の如きは、下宿の昼飯に酒をかけて喰った。私はそれほどの量ではないが好 きだ。昼は会社|勤《つとめ》、夜は書物《かきもの》をするので、晩酌は一合ときめている。気の合う友達ならいてもい いが、お酌はいない方がいい。飲みたければ飲む。盃を下に置くと直ぐ勧められたりするのはい やだ。独酌党だから自宅が一番気楽でいい。尤も、書物が完了すると、自分慰労の心持で飲みに 出かける事にしている。何処でも構わず馴々《なれなれ》しく入っては行けない性質《たち》だから、自然方角はきま っている。我飲屋があるわけなのだ。  一番|始《はじめ》の馴染《なじみ》は銀座の「加六」だ。赤坂に独《ひとり》所帯を張った頃は、会社の帰《かえり》には必ず寄った。酒 量も多い時代で、七、八合飲んで帰って原稿を書いた。ああいう家にはきまった客があるもので、 西山さんという人などは、二百六十五日欠かさず来た。酒精《アルコオル》中毒の症状を完備していた。西久 保弘道さんも握太《にぎりぶと》の杖《ステツキ》をつき、巨躯《きよく》を運んで来た。当時帝大在学中の息子さんもいける口と見 え、友達を誘って来るのであったが、先ず窓から首だけ出しておやじの在否を確め、いる時はこ っそり引返して行った。加六には随分通ったが、かみさんが客の前で養子をひっぱたくのが不愉 快で喧嘩《けんか》をし、それっきり行かない。  加六と縁が切れてからは、日本橋|槙《まき》町の「灘家《なだや》」に通った。小粒の女中が桃われに結い、白粉 気《おしろいつけ》はいっさいなく、木綿《もめん》ずくめで、紺がすりの上張《うわつばり》を着ているのが、べたつかない風俗でよかっ た。おかみさんがいい人と見えて皆よくいつく。喰《たべ》る物も相当だった。若槻礼次郎《わかつぎれいじろう》さんの御贔負《ごひいき》 ときく。総理大臣になった時、新聞に大きく写真の出たのを見て、槙町辺の小僧さんが「このじ いさんならよく灘家で飲んでらあ」といったそうだ。私の好《すき》な家で今でも行き、酒を分《わけ》てもらっ ているが、正直にいうと、喰る物はいぜんより落《おち》たようだ。  灘家はいいのだが、私には足場が悪い。それで一時は新橋の「江戸銀」に通った。だが「何か うまい物をくれないか」という客があると「俺《おれ》ん所《とこ》にはうまくねえ物はねえんだ」と拳固《げんこ》で鼻の 頭をこすろうというのだから、忽ち御免こうむった。  一番足場のいいのは銀座の「岡田」だ。酒は菊正宗《きくまさむね》だが、素晴らしくいい樽《たる》にぶつかる時と、 余り感心しない時とある。この頃それがひどくなった。おやじは酒呑《さけのみ》だけれど無頓着《むとんしやく》で、自分の 家の酒は無類だと信じている。もう一樽別銘のを置いて競争させて見うと勧めてもきかない。年 中|鉢巻《はちまき》をしていて、自らはち巻岡田と呼ぶ。それを気障《きざ》だという人もあり、むっつりした男なの で誤解して、あのおやじが癪《しやく》だから行かないという人もあるが、そんなに深いたくらみのある人 間ではなく、震災後、銀座一帯が砂漠《さばく》だった真中に小屋を建て、すいとん時代を尻目にかけて刺 身で飲ませ「復興の魁《さきがけ》は食物にあり、滋養第一の料理は岡田にある」と大書して貼《は》り出した人物 だ。銀座から勲章をやってもいい位だ。おかみさんの柔かみのある客扱いは、亭主のぶっきら棒 をかばっている。  この家の困るのは夕五時から始めるので、銀行は三時諸会社は四時|退《びけ》の当節、わざわざ小一時 間も待つのは馬鹿らしく、つい家の方へ足が向く。  近所では、飲屋というのはおかしいが、四谷見付のすしや「みさご」が、素敵な白鷹《はくたか》を飲ませ る。鮨《すし》も山の手第一とほめて差支《さしつか》えない。但しおやじが楽をして職人まかせの時は駄目《だめ》だ。  最近足|繁《しげ》く通うのは富士見町の天ぷらや「たから」である。主人は昔私の同僚だった。ませた 口をきくかわりにそろばんも達者という若者だったが、上野の宿屋に養子に行き、間もなく地震 で叩《たた》きつけられた。家業がなくなれば養子はいらない、離縁という事になったが、本人同志は別 れないという。いろいろ揉《も》めたあげく、連《つれ》て逃げてもいいでしょうかと相談に来たから、よかろ うと答えた。廻り廻って天ぷらやになった。素人《しろうと》のくせに器用で、家は狭いが魚がよく、粉がよ く、油がよくてしかも安い。泉鏡花先生が来る。岡田三郎助《おかださぶろうすけ》先生が来る。和田三造さんが来る。 久保田万太郎さんが来る。喜多村緑郎《きたむらろくろう》、花柳章太郎《はなやぎしようたろう》という顔も見える。主人もすっかり天ぷらや さんになり切って、若禿《わかはげ》の頭を光らせ、一生懸命だ。この方が会社勤めよりも働き甲斐《がい》がありそ うだ。皆さん一度ためして下さい。  この原稿を清書して都新聞に届けたら、ゆっくり飲み廻ろう。我飲屋に幸あれ。 (昭和四年十 二月二十九日)                            ーi「都新聞」昭和五年一月一日