もののふのみち 水上滝太郎  夏の長旅に疲れた体を任せた船には、戦地から帰還する軍人も多勢《おおぜい》乗っていた。支那の某地方 から、日本へ御挨拶《ごあいさつ》に行くという親善使節の一行もいた。軍人たちはさかんにデッキ・ゴルフを し、私は終日椅子に寝てぼんやりしていたが、その甲板を手を組んで歩き廻る異人夫婦が人目を 引いた。女の方が年上に見え、長身肥大|頗《すこぶ》るつきの醜婦で、亭主は去勢されたような猫背《ねこぜ》の柔和 な男で、それがぴったり体をくっつけ、足並を揃え、幾度も甲板を往復した。この夫婦には三人 の子供があり、姉は八歳位、弟は六歳位、妹は四歳位で、末の子は足に繃帯《ほうたい》をして跛《びつこ》を引いてい た。夫婦はお国ぶりか、濃厚な情愛を遠慮なく見せつけ、散歩が済んだと思うと、ひとつの椅子 に二人で腰かけ、互に肩へ手を廻した姿勢でうっとりし、我が国の良風美俗に反し、一向子供た ちには構わなかった。親が相手になってくれないので、おのずから自主独立の風を養うのか、子 供たちはいじけず、はにかまず、大人の間に立ちまじり、舳《へさき》から艫《とも》まで我家のように馳《かけ》廻った。  たしか航海二日目の事であった。私は相変らず寝椅子に伸びて日光を浴び、海気を吸っていた。 例の異人夫婦は規則正しい歩調で散歩していたが、いつか亭主の方は見えなくなり、女房の方は 私の隣の空椅子に来て、毛糸の編物をはじめた。間もなく、三等船室の客たちがぞろぞろ上って 来て、物珍しそうに歩いていたが、異人の女の姿に興味を寄せて、遠巻にして眺《なが》めていた。その 中から、浴衣に細紐《ほそひも》をしめただけのおかみさんが、編物の手ぶりを見るためか、近々と異人の後 に来て、のぞき込んだ。あんまり近くにひっついて来たので、異人の女もおっかない顔に微笑を 浮べて振仰いだ。  「奥さん、何処へ行くの、東京?」  異人と口をきいて見たくて堪《たま》らないという様子だった。  「東京でない。わたし生れた国に帰ります。」  「奥さんのお国、亜米利加《アメリカ》?」  おかみさんは、異人が日本語を解し、十分話の出来るのに満足し、遠巻にしている連中の方に、 得意らしい風を示した。  「亜米利加でない。英吉利《イギリス》です。わたし英吉利人。」  異人の女は突然興奮の色を見せ、反抗するもののように毅然《きぜん》として答えた。おかみさんは何の 気もつかず、益々へだてのない態度で、  「旦那さんもお子さんもみんないっしょに帰るの。」  「いいえ、旦那さん帰らない。旦那さんおつとめある。帰れない。わたし、子供帰ります。旦 那さん神戸まで送って行く。」  声は震えを帯び、調子は高くなったが、おかみさんは無頓着《むとんじやく》で、あくまでも会話を楽むように、  「どうして奥さん、旦那さんと別れて、そんな遠いところへ帰るのさ。」  異人の女は一瞬返事に躊躇《ちゆうちよ》する風だったが、つと立上ると殆んどヒステリカルな声で、  「あぶないから、わたし子供つれる帰る。こわいから……」  遠巻にしていた人たちを押分け、編物の毛糸の玉の甲板に踊るのを引擦《ひきず》りながら、  「子供たち可哀そう。わたし可哀そう。旦那さん可哀そう。みんな可哀そう。」  うしろの者に聞けというのか、自分自身をなだめるのか、いい残して立去った。  とり残されたおかみさんは、何のことか少しもわからず、ただ会話のたち切られたのが気に入 らない風で、異人の女の後姿を見送ったが、やがて仲間の中にまじって甲板を降りて行った。  私は不愉快な気持を抱いて目をつぶった。目をつぶっても、あの異人の子供の四歳位の、かぼ そくひよわい女の子の繃帯した足を引擦って歩く姿が、まざまざと見えてしかたがない。まさか とは思うけれど、英吉利人をやっつけうと教えられているに等しい悪童どもが金髪|碧眼《へきがん》の子供を つかまえて、どんなことをするか知れたものではない。  あたかも日英会談の真最中といってもいい時だった。まだ独逸《ドイツ》にだまされたと気のつく前のこ とだ。国体の相違も忘れて、むやみに独逸を盲拝し、何でも彼《か》でも独逸の真似《まね》をしそうな危機で、 往年|不逞《ふてい》の徒が、我国よりも露西亜《ロシア》を尊しとするかの観のあったのと同じような雲行を見せ、心 ある者をして眉《まゆ》をひそませたが、その一方、英吉利の老獪《ろうかい》性を剔抉《てつけつ》し、よくもこう津々浦々まで 徹底的に憎悪《ぞうお》の念を行き亙《わた》らせたものだと感服する時代だった。  私は商売用で各地を旅行するたびに、排英の示威の強さに驚いた。「英吉利人には売りません」 これは某地の百貨店の入口に掲げた自布に、墨黒々と書かれた文字だ。「英吉利人お断り」これ は、凡そ英吉利人なんか住んでも歩いてもいそうもない田舎の町の場末の映画館の貼紙《はりがみ》だ。或地 方の温泉場では英吉利人の宿泊を謝絶する決議をし、或ダンス・ホオルでは、英吉利人とは踊ら ないと定めたとか伝えられた。露をだにいとう大和《やまと》の女郎花《おみなえし》の精神を発揚したものであろう。何 しろ、たださえ挙国一致の精神に富む日本の、しかも国民精神総動員時代だから、はからずも大 和島根の風光にあこがれて来たり、こうまで排英親独の機運の濃厚でなかった頃に招かれて来た 英吉利人どもも驚いたに違いない。もしも「英吉利人には売りません」が、もっともっと拡大さ れたら、彼らは食うに食なく、着るに衣なく、住むに家なきものとなるであろう。これは日本精 神ではないであろう。武士道ではないであろう。それでは何だ。敵方のものに情をかけるが如き 手ぬるい人道主義は、自由主義と共に排撃すべく、ヒットラアが猶太《ユダヤ》人を追放したのと同じやり 方を学ぶつもりでやっていたのか。  しばらく、日清戦争時代の追憶にふけらしめよ。玄武門一番乗の原田重吉、弾丸|咽喉《のど》をつらぬ くもなお喇叭《ラツパ》を吹きやめなかった白神源次郎、その他数々の英雄の武勇談は、主として三枚続の 錦絵によって伝えられたが、われわれの子供心に最も深い印象を残したのは、砲煙弾雨の下、左 手に敵国の幼児を抱き、右手に日本刀を振りかざして奮戦する樋口大尉の英姿ではなかったか。 我が日の本のもののふは、敵の子供でも可愛がるという人道主義的感激は純粋だった。  今度の支那事変でも、日本の兵隊さんは蒋介石《しようかいせき》をこそ憎め、武器を持たざる民衆を愛し、老幼 をいたわり、彼の北清事変や欧洲大戦に西洋異人が行ったような、掠奪《りやくだつ》、暴行、虐殺を働かない というのがほこりであり、日本人としてはそれが当前《あたりまえ》となっているのだ.、それがもののふのみち なのだ。  それなのに、何故武器を持たざる英吉利国の多寡《たか》の知れた旅行者に対し、物を売らないとか、 宿泊を断るとかするのであろうか。元より、英吉利国の異人は、世問知らずで、無愛想で、自負 的で、面憎《つらにく》いものどもには違いないが、それでも、そのものどもが日本国土にいる限は、衣食住 の安全を保ってやらなければ、日本精神に恥るのである。  何処に行っても、激越な文字で英吉利をやっつけうという建札が、並木の樹々と数を競うよう に並んでいる。到《いた》る処で排英演説会が開かれ、満員の盛況を呈している。われわれは国を憂うる の士に感謝するものであるが、これに導かれる大衆が「英吉利人には売りません」では、あまり に低調であり、あまりに末節に走り過ぎ、かえって日本精神に反し、もののふのみちを踏み違え たものではないのか。この船に乗っている夫婦者の英吉利異人も、日本人の高き志を知らず、街 上の示威に驚き、ひたすら迫害の身に及ぶ事を恐れ、先ずかよわき女子供を本国へ帰そうとする のではないだろうか。まことに遣瀬《やるせ》ない心持だった。ああもののふのみちはすたれたるか。  ところが一日、二日とたつうちに、船中一番の人気者になったのは、芙吉利人の男の子だった。 いたずらっこで、人おじをせず、誰にでも話かけ、殊《こと》に軍人たちに可愛がられた。一人の飛行将 校が私にささやいた。  「西洋人というのは、子供の時は可愛いが、大人になると憎々しくなりますねえ。」  折から目の前を、いつもの通り腕を組んで大またに歩いて行くその夫婦を見送って、私たちは 笑った。親たちに倣《なら》って、誰も彼もジョンと呼んだが、ジョンは父親に別れて故国へ帰る事の意 味を、十分には知っていないらしかった。神戸につくと別の船に乗り、加奈陀《カナダ》に行き、また別の 船で英吉利に行く、其処には自分たちのおばあさんがいると、得意そうに話した。  「どうも日本の子供のようにはにかんだり、いじけたりしないのは、親たちがほったらかして 置く結果ですかな。」 と感心している人もあった。この子供たちの評判がよく、皆に可愛がられているのを見ると、私 は丁度安心に似た心持になった。  短い航海の終の日に、海の日の出を見ようと思い、暗いうちからふなばたに椅子を寄せて待っ ていた。水平線の上の空がほのかにあかるくなったと思うと、忽ち真紅な日輪が登って来た。待 構えていたのは私だけではなかったと見え、反対の側の甲板から、船室から、あらわれて来た人 たちが、てすりにずらりと並んだ。日輪はぐんぐん登り、あれあれといううちに、完全に水を離 れてしまった。爽《さわや》かな景観で、五、六人一斉に拍手した。全く万歳を叫びたいような瞬間だった。  ゴッド セイブ アワア グレシアス キング と英国国歌を唱《うた》い出した人がある。びっくり して見ると、陸軍中尉の制服を着た+官がジョンの手を引き、足並揃えてあらわれて来た。子供 はまだその歌を十分教えられていないと見え、士官が唱うのに連れて唱おうとしながら、ついて 行かれない程度だった。おもちゃの日本陸軍士官の礼式の日の帽子をかぶり、おもちゃの剣を腰 に釣り、得《とくとく》々として靴音《くつおと》高く練り歩いた。  センド ヒム ヴィクトリアス ハッピイ エンド グロリアス  わが日の本の武勲|赫々《かつかく》たる士官は、英吉利異人の子供と手を組んで、高らかに唱いながら、新 鮮な日光の灘があふれる甲板を踏鳴らした。それは英吉利国の繁栄を醤驟するのではない、親英 の心持をあらわしたものでは勿論《もちろん》ない。罪なき子供に対しては、たといその国は敵性を有するも、 たからかに愛撫《あいぶ》…の手を差延ばす日本精神のあらわれである。民衆よ、はきちがえるな。もののふ のみちはかくこそありたけれ。 (昭和十四年十二月二十五日) 1「東京日日新聞」昭和十五年 月六日・七日・八日