鈴木三重吉氏の酒の上 水上滝太郎  鈴木三重吉《すずきみえきち》氏が死んだ。個性の豊かな、独自の作風に徹した、すぐれた作家であったが、晩年 は小説の筆を執らず、童話と小学生の作文の指導に力を尽し、この方面においても十分の功績を のこした。文壇の垣根《かきね》は自然派の手によって完全にきずかれ、泉鏡花先生は時代遅れとして虐《しいた》げ られ、森鴎外先生はディレッタントとして軽蔑《けいべつ》され、新星夏目漱石先生も遊戯文学として排斥さ れた時代に、鈴木氏の「千鳥《ちどり》」「山彦」は出た。人生の真実を探求するといいながら、単調なる 日常生活の平面的記録に堕せんとする小説のはびこる中に、稚拙といってもいいほど純粋清新な 若き憧憬のみちあふれる作晶のあらわれた事は、新文学を求めるわれわれにとっての喜びであっ た。もとより、垣根の中の連中がこれをけなす事に努めたのはいうまでもないが、いつの間にか 垣根の外には春が来ていて、氏の文学は立派に生育した。やがて氏の作風は次第に空想を去って 現実的傾向に進み、単純な夢は深刻なる嗜慾《しよく》と変り、遂には病的な神経と感覚の文学にまで行き ついたが、私は自分の少年の日の夢をはぐくんだ氏の第一著作集『千代紙』を何時までも愛読し、 その美しい幾節かは暗誦《あんしよう》している位だった。後年幾度となく蔵書を整理し、或ものは売払って小 遣銭《こつかいせん》とし、生活費とし、或ものは図書館に寄附し、或ものは友達の救済費としたが、そのかみの 思い出のなつかしさから、『千代紙』は手放す事が出来ず、今日なお本箱の隅《すみ》に美しい装幀《そうてい》を見 せて、つつましく納まっている。  私が処女作「山の手の子」を書いたのは明治四十四年で、たしかその年の秋の三田文学講演会 に鈴木氏は出演され、晩餐会《ばんさんかい》後われわれ学生と親しく談笑された事があ(、た。私の幼稚な作品を 大変ほめてくれたので、羞《はず》かしくて口がきけなくなった。後進に対していたわりのある、よき先 輩だと思ったが、それから十幾年たって再び逢《あ》った時は、あやうく喧嘩《けんか》になろうとした。  それは、私が長篇「大阪の宿」を雑誌に連載し、ようやく完了を告げた時だから、多分大正十 四年の暮であろう、思いもかけない、鈴木氏から、「大阪の宿」完成祝賀会を開くから来てくれ という案内をうけ、日本橋の灘家《なだや》に行った。灘家は先年なくなったようだが、うまい酒を飲ませ る家で、殊に大関を売物にしていた私の馴染《なじみ》の飲屋だったから、鈴木氏の予て御贔負《ごひいき》ときいて大 変|嬉《うれ》しかった。相客は泉鏡花先生と久保田万太郎氏で、平生《へいぜい》私一人の時は土間で飲むのだが、特 に二階を借りて酒宴となった。  鈴木氏は言葉を尽して拙作をほめ、殊に結末に篇中の主要人物を一カ所に集めた手際は見事だ ったと大におだてさかんに盃をくれた。話が文壇の事に及ぶと、当時流行児の誰彼を罵倒《まとう》し、甲 はお目出度《めでた》い馬鹿野郎だとか、乙は天をおそれない根性がいけないとか、丙は卑俗極まる商売人 だとか、丁はとっちゃん小僧に過ぎないとか、一言のもとにけなしつける。  久保田氏は今日の如く大家の風格を備えるに至らず、高飛車《たかびしゃ》にきめつける流儀の奥義には達し ていない時代だから、あたらずさわらずの挨拶《あいさつ》をし、三重吉贔負の泉先生は既に頗る御機嫌《ごきげん》で、 「そりゃあ今じゃあ谷崎と三重吉が一等うめえや」と相槌《あいつち》をうつ。しかるに主賓の私は、さんざ んおほめの言葉は頂いたけれど、一々鈴木氏の説にも服しかね、異説もたてるし、口返答もする ので、こいつがもともと酒癖の悪い御主人の疳《かん》にさわり、段々言葉はあらくなり、眼は据《すわ》り、顔 色は蒼《あお》くなって来た。かねてこの人の酒の上の悪い事はきかされていたが、何しろこっちは招か れた客だから、まさか酒乱の犠牲にはなるまいと多寡《たか》をくくっていたのだが、つい今しがたまで、 お前はうまいそとほめてくれたのが、忽ち下手糞《へたくそ》だときめつけられる事になると、私も些《いささ》か考え なければならなくなった。  鈴木氏の作品には「千鳥」のむかしから、必ず一人の無智なしおらしい女がいて、初期のもの では、これをいとおしみなつかしむ感情にひたって満足していたが、後期のものになると、そう いう女を自分の我儘な思想感情に絶対忍従させようとあせり、女が思う通りについて来ないのに 苦しみ悩み、時にはいじめ、踏みつけ、呪《のろ》い、一生をだいなしにしてしまわなければいられない 嗜虐的傾向を示して来ていた。なるほどこれだなと気がつくと、私には自分の立場がはっきりわ かった。鈴木氏は無智な、あわれな境遇の女を好んで描いたと同じ心持で、文壇のはじっこに、 いるかいないかの私なればこそ目をかけてやろう、いたわってやろうと思いたったのだ。作中の 女が、作中の男の思いのままについて行かなければならないのと同じく、私もまた鈴木氏の一言 一行にひたすら賛成し、感服し、時には我慢しても、堪え忍んでも、随従していなければならな い役目を背負わされていたのだ。誰もかまいつけない凡庸作家を、わざわざ招いて喜ばせてやろ うというのに、その態度は何事だ、ありがたがり方が足りないそ、もっと感謝して然《しか》るべきだろ う、よし、そんならこいついじめてやれ、やまいつかせてやれと、持前の酒癖がむらむらと湧上《わきあが》 ったのだ。少し大袈裟《おおげさ》だが、山雨欲来風満楼という雲行となった。  さあ、もういい加減に切上げようじゃあないかと、泉先生が煙管《キセル》を筒にしまわれると、もう一 本飲もうと鈴木氏は私の方に向いていう。私も飲むという。それが空《から》になると、また一本飲もう という。私も飲むという。これはいけないと思ってか、泉先生は久保田氏を促して、行こう行こ うと立上られた。二人の姿が廊下へ出たと思うとたんに、貴様は生意気だぞと鈴木氏は立上った。 別段暴力を振うつもりはなかったのだろうが、それだけ内訌《ないこう》するものがあって、苛《いらいら》々して堪《たま》らな い焦躁《しようそう》のさまは、どんよりと濁ったままに凄味《すごみ》を加えた眼の色にもはっきりとあらわれた。私も 立上らなければならなかった。鈴木氏は、こいつどうしたら一番手きびしく踏んづけてやる事が 出来るかと考えているように、餌食《えじき》を前にした悪獣の身の構えで、喘《あえ》いでいた。  運よく小婢《こおんな》が、おつれさまがお待ちになっていらっしゃいますといいに来てくれたので、私は 助かった。どうも今日はありがとう御座いましたと挨拶して、おつれさまの後を追った。暫《しばら》く三 人でおもてに待っていたけれど、鈴木氏はなかなか出て来ないので、そのまま失礼してしまった が、それっきり、相見ざる事十年余に及んで・突然その評をきいた。もっとも・その事のあって から数年後に、数寄屋橋《すきやばし》の上で擦《す》れ違った事がある。もともと不健康な人だったが、一層病的の 度を加え、おまけに歩行困難の様子だった。先方は心づかず、こっちはさわらぬ神に崇《たた》りなしと 思って知らぬふりをして過ぎた。読者はあくまでも読者で、作者には逢わない方がいい。私は今 も変らぬ鈴木三重吉氏の愛読者である。 (昭和十一年七月五日)    ー「時事新報」昭和十一年七月十一日・十二日