『鏡花全集』の記 水上滝太郎  去年三月初旬の或夜、泉鏡花先生の御招きをうけて、或ところで御馳走《ごちそう》になった。その時先生 から、  「実は御相談があるんですが……」 とあらたまった御挨拶《ごあいさつ》に接した。そういう時には必ずきちんと正した膝《ひざ》の上に、行儀よく手を置 くのがおきまりで、かつあらたまった時には、羞《はず》かしさをまぎらすためでもあろうか、あらたま った語調で話し出すのもまた先生のおきまりである。  御相談といったところで、決してほんとの相談ではない。何事にも信念の強い先生は、処世の 上にも独特の方式があって、他人i殊《こと》に私の如きものに相談なんかあるべき筋ではない。単に 時々ー1たとえばわれわれ程度のへぽ将棋で端歩《はしふ》を突く位の事で、要するに言葉づかいに特殊の つつましさを保持される先生の洒落《しゃれ》と見て差支《さしつか》えないのである。その晩の御相談は『鏡花全集』 を春陽堂から出版する約束をしたという御報告であった。  しかしながら、私としては、この御相談を原稿の事とうけとって、  「原稿ならば、私の手許《てもと》にあるのを何時でも御用達《こようたし》致しましょう。」 と答えた。多年並ならぬ苦心をして集めたものではあるが、地震の後の事とて、東京の本の大半 は焼失したろうと思われたし、また私以上に集めている方もあるにはあるだろうが、最も平生《へいぜい》親 しくつきあいを願っている者がこれを提供するのが、万事につけて一番よかろうと思ったのであ る。地震でひどいめにあった春陽堂が、この大仕事にとりかかる奮発に対しても出来るだけの援 助を与えたいと思った。  正直のところ、私は春陽堂の商売|振《ぶり》を好まない。明治文学の興隆には少からぬ貢献をした老舗《しにぜ》 ではあるが、今は仕事に熱が足りなくて、愚痴っぼくて、何彼《なにか》につけて不満足だった。しかし私 をしてこの店に多大のなつかしさを覚えしめるのは、紅葉露伴鴎外鏡花その他の諸先輩の名作を 出版し、当時の私の感激の問屋の如き観があったためである。『多情多恨』『青葡萄《あおぶどう》』『心の闇《やみ》』 『五重の塔』『即興詩人』『月草』『かげ草』も其処から出た。私が愛誦《あいしよう》した藤村先生の『夏草』 も『落梅集』も其処から出た。就中《なかんずく》泉先生の諸作は、殆どすべて春陽堂版である。  『なにがし』『錦帯記』『湯島詣《ゆしまもうで》』『照葉狂言《てりはきようげん》』『通夜《つや》物語』『三枚つづき』『黒百合』『田毎《たごと》かが み』『風流線』のむかしからの馴染《なじみ》である。幾度も読み返し、あるいは感激の涙を流し、また自 分の人生観さえこれによって築きあげたといっても差支えないようなこれらの本を出版した春陽 堂だ。最も光輝ある歴史を有する老舗に対して、私は数えて少からぬ不満を有しながら、なおか つ先生の全集を出すのに最もふさわしい店だと思わざるを得なかった。  全集の売行から考えると、近頃売出しの出版屋に任せた方が、遥《はるか》に成績を挙《あ》げるであろうが、 泉先生と春陽堂との多年の関係を、むざんに切捨《きりすて》るのは惜い気もする。もっとも今日までの春陽 堂は、先生の著書の出版で大儲《おおもう》けをしながら、酬《むく》いるところは極めて薄かったらしい。かつてそ の店の不心得な人間は、泉先生が近頃の原稿の市場価格を知らないのをいい事にして、当時かけ 出しのわれわれに酬いるよりも更に低い稿料を差上げていたような事さえあったのだから、反省 を促すために他に全集を持って行った方がよくはないかという気もした。この考えは敢て私に限 らず、ほかにも同感の人の頗《すこぶ》る多い事は後に知った。春陽堂は速《すみや》かに悟って、全集の発行を許さ れた泉先生のため、また第一には店のそろばんのために、奮励努力すべきであろう。  いずれにしても私は、全集出版の御話をうかがって、先ず盃をあげて祝意を表した。  「ところが、其処で、ひとつ御願があるんです。」 と先生はまだ膝を崩《くず》さない。  その御願というのは、私の名前を貸してくれという意外なものであった。小山内薫、谷崎潤一 郎、久保田万太郎、芥川竜之介、里見弾五氏と共に、私の名前を並べたいというのである。  「編纂者《へんさんしや》とでもいう事になるんですか。」  私は実際原稿を差上げる以外には自分の役目はないと思っていたので、全く腑《ふ》に落ちなかった。  「いえ編纂者などといっては失礼です。御贔負《ごひいき》という事にでもして頂きましょう。」  先生の言葉通りとすれば、「御贔負」という文字を冠《かぶ》せて、六人の名前を並べるというのであ る。  「御贔負はおかしいでしょう。」  これも泉先生の辞令に過ぎないとは思いながら、私のしつこい性分《しようぶん》で、「御贔負」はいけない という事を繰返しながら、何時の間にか酒たけなわとなったのである。  その後小山内、谷崎、久保田、芥川、里見五氏も名をつらねる事を承諾されたとは聞いたが、 さてそれが「御贔負」なのかどうか、また全集が何時になったら出るのか何もわからなかった。 久保田さんや里見さんに逢《あ》うと、いったい全集はどうなったんでしょうと、互に聞きあうばかり で、肝心の泉先生と春陽堂の思惑《おもわく》がわからないという事であった。  この全集は誰が考えても、出版|書肆《しよし》としては引受けさせてもらいたいものに違いないが、泉先 生と春陽堂の多年の縁故を知っていて差控えているのもあるだろうし、仮に申出たとしても先生 は春陽堂との間柄を重んじてうんとはいわないだろうし、いずれから考えても春陽堂としてはあ りがたいものに違いない。しかし、そういう縁故があるからといって、うんともすんとも挨拶も なく長い時間を過ごすのは面白くないと思っていた。春が来て、夏が来て、秋が来て、最初の話 では第一巻が出るというはずだった十二月もやがて押詰ってしまったのである。  突然、泉先生から、全集の事でいよいよ立入った相談をしたいという御案内をうけたのは暮の 二十八日であった。  小山内さんは差支《さしつか》えがあり、谷崎さんは上方《かみがた》に住んでいるので不参だったが、他の四人と御主 人と外に春陽堂の当主和田利彦氏が席につらなった。  其処で正式に、泉先生からわれわれに対し、全集出版に関しいろいろ相談したい事もあるから よろしく頼むという意味の御挨拶があった。  頼まれた方は、その時互に顔を見合せたのである。何故といって誰一人自分たちが如何なる事 を頼まれたのか見当がつかなかったからで、事実泉先生の流儀では、こういう場合に「あなた任 せ」の手を用いられるのである。また春陽堂はわれわれをどういう風に考えているのか、これは 一層わからなかった。この方は名前だけ利用すれば充分で、あまり立入って冂を出されては迷惑 なのではないかと1少くとも私は想像した。  結局われわれの相談で、あるいは名前だけでいいのかもしれないが、万一真剣に心配すべき役 目なのならば理想的の案を作って提出して見ようという事になった。協議の上で定めた覚書は左 の如きものである。       鏡花全集相談会に関する覚書   一、小山内薫谷崎潤一郎久保田万太郎芥川竜之介里見弾水上滝太郎を以て編輯《へんしゆう》相談人とし出     版|書肆《しよし》は事務の万端に亙《わた》り右相談会の決議を経べき事   一、経済方面の決定にも相談会の口出しを許容する事   一、相談会の常任責任者を水上滝太郎と定め同人の招集に応じて随時会合相談する事   一、相談会会員は無給かつ会合に要する費用総て自弁の事   一、別紙提言書の他に事務の進捗《しんちよく》に従い随時提言すべき事   一、相談会会員の名は全集中にこれを録せざる事     但し他の機関を以て発表することは差支えなし   一、相談会の決議は会員三名以上の出席を以て決定せらるべき事      鏡花全集に関する覚書(相談会より提言)   一、鏡花全集と命名する事   一、作品の全部を収録する事   一、小説脚本随筆(俳句を含む)の三部に分ち各年代順に並べる事   一、巻数は全作品を集めたる上一部の収容枚数を定めしかる後これを確定する事     従而《したがつて》一冊の頁《ぺ ジ》数、活字の号数等はそれ以後に定むる事   一、広告発表の時期を以て収録すべき作品を打切る事   一、書型は菊判の事   一、装幀《そうてい》は岡田|三郎助《さぶろうすけ》氏を煩わす事   一、題字は著者の筆跡を用うる事   一、作品年表を附する事   一、肖像は出来るだけ各巻に附する事   一、自序広告の作品に附随すべきものはその作品に附し置く事   一、発表の時期は大正十四年三月とし締切は五月五日とする事   一、全集の広告文は相談会において引受けてもよろしき事   一、編輯事務取扱者として浜野英二氏を推薦しまた小村|雪岱《せつたい》氏に万事の配慮を煩わす事  この覚書はわれわれから泉先生に手交し、先生は和田氏に示して、大体の方針はこれを守る事 に定まった。  もっとも、装幀を岡田先生に委嘱《いしよく》する事は、泉先生の御希望である。明治四十一年の正月に出 た傑作『草迷宮《くさめいきゆう》』の繊細|優婉《ゆうえん》を極めたる装幀は岡田先生苦心のもので、その作品と共に読者の忘 れがたく思う所である。泉先生が全集の装幀に岡田先生を煩わしたいと申し出られたのは故《ゆえ》ある 事である。  小村雪岱浜野英二両氏に編輯その他の事を委嘱したいと申出たのはわれわれの提議した事の中 で、全集出版の実行方面における最も有意義な事であった。春陽堂は、主人も番頭さんも一生懸 命で働き、かつまた特に熟練無双の校正係を雇い、決して手落はないから安心して下さいという 事であったが、われわれとしては職業的義務心を超越した人に是非とも仕事を見てもらいたかっ た。  小村さんは多年泉先生に親炙《しんしや》しこのところ十余年間先生の著書の殆ど全部の装幀を担任した人 だ。先生の気心をこれほどよく知悉《ちしつ》している人は、先生の奥さんの外にはない。浜野さんは泉先 生を崇拝する事神の如く、献身的熱情を捧《ささ》げて先生の作品の研究|蒐輯《しゆうしゆう》に努め、人もし誤って先 生の人あるいは芸術について聞違った事をいわば、命がけでこれを説破しなければ承知しない人 である。或雑誌の出鱈目《でたらめ》欄に、この人の噂《うわさ》を掲げ、泉先生の悪口をいう者があると決闘するそう だと記したのも、案外出鱈目ではないかもしれない。今日まで全集の仕事を滞《とどこお》りなく運んで来た のは、偏《ひとえ》にこの両所のいかなる事をも厭《いと》わない誠意の賜《たま》ものである。  さて正月も松の内が過《すぎ》ると、直に全集編輯事務は始まった。明治二十六年から三十余年間不断 の努力をもって五百余篇の作品を発表した泉先生の原稿を、遺漏なく集めろのは至難である。春 陽堂がいかに力んでも、浜野さんが命を捧げても、短時日にこれを全くする事は不可能である。 そこで先ず私が二十余年間に集めたものを提供し、これを土台として不足のものは広く探し求め る事にした。広からぬ私の住居《すまい》の一室で仕事をする浜野さんの手助けをして、押入の中で埃《ほこり》を浴 びていた雑誌を整理して見ると、意外にもなくなしてしまったものが十指にあまった。長年下宿 住居をしていた問、本を預けて置いた本家にも移転の事があり、その後自力で所帯を持ってから も、何時も借家住居のこととて、あっちこっち引越して廻るうちに、私にとっては大切な品でも、 心ない者には汚《きたな》らしい古雑誌に過ぎないのだから、何時の間にかなくなしてしまったのであろう。 泉先生に対して甚《はなは》だ申訳ない気がする。  とにかくある限りの物を整理し、散逸したものは浜野さんの手で集める事になった。春陽堂の 番頭木呂子君も浜野さんと共に拙宅の狭い一室で、埃《ほこり》で鼻の下を黒くしながら、枚数を合せるた めに算盤《そろばん》を弾《はじ》いた。木呂子君の熱心と、主人おもいには私も感激した。時には全集の完全を望む あまり、われわれは激論に及ぶ事もあった。私が春陽堂の仕事|振《ぶウ》を忌憚《きたん》なく難じた時の如きは、 忠義一図の木呂子君は泣いて口惜《くや》しがった。  「万一今度の仕事をしくじったら、この首を差上げます。」 と悲痛なる声を挙《あ》げた。  「そんな首なんかいるもんか。」 というと、  「そんなら切腹して見せます。」 とこの在郷軍人は力んだのである。  泣いたといえば、もう一人の春陽堂の番頭さん、林君も泣かされた一人である。この方は一月 二十三日第二回目の相談会を開いた席上、われわれの質問が何処までも打切りとならず、遂には 主家の事にまで及んだ時、さめざめと泣いた。こうまでみんなに熱情を示されると、この人々の ためにも尽力しなければ済まない気になるのであった。かかる主人おもいの人を集めている春陽 堂はいよいよ勉強しなくては相済まないわけである。が、これあるいは主人和田君|並《ならび》に静子夫人 の徳望のしからしむるところであろうか。  この第二回目の相談会で、われわれもようやく「御贔負《ごひいき》」ではなく、「参訂」という名目の下 に名をつらねる事にきまった。この時の覚書は左の通りである。   一、編輯相談人を参訂者と呼ぶ事   一、内容見本案文は芥川竜之介引受る事   一、新聞広告案文は里見弾引受る事   一、小説と随筆を区別する事は水上滝太郎引受る事  参訂という文字は芥川さんが探して来られたもので、私の耳には全く新しいものであった。  芥川さんの引受た内容見本は、夙《とう》に出来上って、御希望の方には春陽堂から差上《さしあげ》ているから、 御承知の方も多かろうと思うが、その苦心のほど察するにあまりある名文で、これがために内容 見本は独立したる芸術品となった。ここにその全文を掲げるのは、既に知っている方には無駄《むだ》な 事であるが、まだ知らない方には是非とも読ませたい私の願から、特に拝借した次第である。芥 川さんも許して下さい。    鏡花泉先生は古今に独歩する文宗なり。先生が俊爽《しゆんそう》の才、美人を写して化を奪ふや、太真   閣前、牡丹《ぼたん》に芬芬《ふんぷん》の香を発し、先生が清超の思、神鬼を描いて妙に入るや、鄒湛《すうたん》宅外、楊柳《ようりゆう》   に啾啾《しゆうしゆう》の声を生ずるは已《すで》に天下の伝称する所、我らまた多言するを須《もち》ひずといへども、その   明治大正の文芸に羅曼《ローマン》主義の大道を打開し、艶《えん》は巫山《ふざん》の雨意よりも濃《こまやか》に、壮は易水《えきすい》の風色よ   りも烈なる鏡花世界を現出したるは啻《ただ》に一代の壮挙たるのみならず、また実に百世に炳焉《へいえん》た   る東西芸苑の盛観と言ふべし。    先生作る所の小説戯曲随筆等、長短錯落として五百余篇。経《たて》には江戸三百年の風流を呑却《どんきやく》   し、万変|自《おのずか》ら寸心に溢《あふ》れ、緯《よこ》には海東六十州の人情を曲尽して、一息|忽《たちま》ち千載に通ず。真   にこれ無縫天上の錦衣《きんい》。古は先生の胸中に輳《あつま》つて藍玉|愈温《いよいよ》潤に、新は先生の筆下より発し   て蚌珠益粲然《ぼうしゆますますさんぜん》たり。加之《しかのみならず》先生の識見、直ちに本来の性情より出《い》で、夙《つと》に泰西輓近《たいせいばんきん》の思想   を道破せるもの尠《すくな》からず。その邪を罵《ののし》り、俗を嗤《わら》ふや、一片氷雪の気天外より来《きた》り、我らの   眉宇《びう》を撲《う》たんとするの概あり。試みに先生等身の著作を以て仏蘭西《フラソス》羅曼主義の諸大家に比せ   んか、質は攣天《けいてん》七宝の柱、メリメエの巧を凌駕《りようが》すべく、量は抜地無憂の樹、バルザックの大   に肩随《けんずい》すべし。先生の業また偉《おお》いなる哉《かな》。    先生の業の偉いなるは固《もと》より先生の天資に出《い》づ。然りといへども、その一半は兀兀《こつこつ》三十余   年の間、文字|三昧《ざんまい》に精進《しようじん》したる先生の勇猛に帰せざるべからず。言ふを休《や》めよ、騒人清閑多   しと。痩容豈《そうようあに》詩魔のためのみならんや。往昔自然主義|新《あらた》に興り、流俗のこれに雷同するや、   塵霧《じんむ》しばしば高鳥を悲しましめ、泥沙|頻《しきり》に老竜を困《くる》しましむ。先生この逆境に立ちて、隻手   羅曼主義の頽瀾《たいらん》を支《ささ》へ、孤節|紅葉山人《こうようさんじん》の衣鉢《いはつ》を守る。轗軻《かんか》不遇の情、独往大歩の意、倶《とも》に想   見するに堪へたりと言ふべし。我ら皆心織筆耕の徒、市に良驥《りようき》の長鳴を聞いて知己を誇るも   のに非《あら》ずといへども、野に白鶴《はつかく》の迥飛《けいひ》を望んで壮志を鼓せること幾回なるを知らず。一朝天   風|妖氛《ようふん》を払ひ、海内《かいだい》の文章先生に落つ。噫《あ》、嘘《あ》、先生の業、何ぞ千万の愁《うれい》なくして成らんや。   我ら手を額に加へて鏡花楼上の慶雲を見る。欣懐|破顔《はがん》を禁ずべからずといへども、眼底また   涙なき能《あた》はざるものあり。 云々。私はこの荘重華麗なる文章の、いたずらに荘重華麗ならずして、一藷一句に誠情|溢《あふ》れ、し かも総《すべ》て芥川竜之介氏が平素抱懐するところの泉鏡花論なる事に驚くものぐある。顧《かえりみ》れば私は、 十余年間数千万言を費して泉先生に対する思慕の情を寄せた。しかしその言葉数は徒《いたず》らに多くし て要を尽さず人を感ぜしむる事|能《あた》わざりしは自ら認めて恥《はす》る所である。しかるに芥川さんのこの 一文は、よく泉先生の芸術の特長を明かにし、またわれわれ参訂者が先生の芸術に傾倒する所以《ゆえん》 を述べて余すところがない。私はこの文を読む事既に幾百回、常に感激の涙を催すのである。こ ういう心持を抱くものは私のみではない。四谷《よつや》通りの某書店の主人の如き、この内容見本を読ん で涙禁ずる能わず、店頭に泣面《なきつつら》をさらしたという事である。  新聞広告を引受けた里見さんの苦心もまたひととおりではなかった。如何に氏が苦心したかは、 |頃日《けいじつ》泉先生が朝日新聞に書かれた「献立小記」の中に詳しい。しかし里見さんの場合は、結果に おいて芥川さんの場合とは違った。苦しみ苦しんで、しかも出来上らなかったのである。最後の 日限も切れたので浜野さんと私の計らいで、同じく芥川さんの筆になる内容見本の一部「鏡花全 集の特色」中の一節を借用して、第一回の新聞広告とした。第二回目のは大急ぎで私に書けとい うので、一度は断ったが、全集出版のための必要|止《や》むなきものだという浜野さんの説に服し、一 夜づくりで左の如きものを草した。ここに最も私の苦んだのは、前に記した芥川さんの文章の中 に、泉鏡花論は総て尽されているので、これ以外の一言たりとも贅言《ぜいげん》でないものはないように思 われる事である。また、広告の事であるから、字数に制限があって、四百字の原稿紙の最後の二 行ばかりは残してもらいたいという註文にも閉口した。それらの苦心を察して、拙文を読んで頂 きたい。    泉鏡花先生の芸術は憧憬と反抗の芸術なり。その憧憬の念たるや、あらゆる美と真とを求   めて止まず遥《はるか》に神秘の境に及び、その反抗の精神たるや、あらゆる社会人心の醜悪なる一面   を嘲罵《ちようば》して止《や》む事無し。幼時の追憶と江戸の讃美と、女人崇拝と意地と任侠《にんきよう》と、数ふればい   つれも燃ゆるが如き憧憬の対象ならざるはなく、権柄と野暮と不粋と慾張と髭面《ひげづら》は、冷嘲熱   罵を浴る運命の下《もと》にあり。義理人情は作者の懐《ふところ》にはぐくまれ、不義理不人情は作者の足下に   踏躙《ふみにじ》らる。恋は何ものよりも強く、恋愛至上主義は作者が一生涯の芸術を貫いて永遠に輝く   ベし。憧憬と反抗の精神を基調とする羅曼《ロー7ソ》派の巨匠が筆に成る幾百篇、断簡零墨に至るまで   収めて此全集にあり。げにその作品は色調並び優《すぐ》れ、あたかも文字を以て描ける絵画なり、   音楽なり。古今東西かくの如く自在に文字を駆使し得たる人ありや否や。我ら作者と時代を   同じうする幸を有するもの、この全集を得て歓び更に新なり。  私はこれを、浜野さんの列する席上で泉先生に見て頂いた。由来泉先牛はいわゆる外づらのよ すぎるほどいい方である。われわれの如き取るに足りない者に対しても、ひとまずは結構々々と 涼しがらせて下さる。但しあれほど「すぐれた癖」のある芸術家の事だから、底の底には、誰が 何といっても自分の好みに適《かな》わない以上は承知しない強さを持っている。しかもその好みたるや |頗《すこぶ》る細かい。大ざっぱにそっくりかえって顎《あご》を撫《な》でている人間とは違うのだ。極度の近視|眼鏡《めがね》を 幾度も拭《ぬぐ》って物を見る癖そのまま、自家一流の近眼鏡で、隅《すみ》から隅まで見透さなくては承知しな い。今度の全集にして見ても「献立小記」などに拠《よ》ると、総て「あなた任せ」らしい事をいって いらっしゃるが、実はなかなかさにあらずで、内容見本の最後にある作品見本の如きも、あれは 私が選ぶ役廻りで、何分よろしくとの事だったが、いざとなって見ると、私の選んだものの大半 は御意《ぎよい》に適わなかった。  その他総てその通りで、芥川さんの文章も、仮名を振らない方が一層ひきたつというみんなの 意見にもかかわらず、作者の好みに従ってこれを振った。即ち今度の全集は、決して泉先生は炬 燵《こたつ》にあたってちいさくなっているのではなく、全く先生が隅から隅まで気を配り、好みを通して おられるのである。もう一つ重ねて例をひけば、全集の校正も先生自身でなさるし、字つかいの 如きは必ずしも正字法に拠らず、万事先生の好みに従うはずである。例之《たとえば》文法上正しいという事 は第二で、先ず第一には作者の心懸《こころがけ》る音色の最もよく現われる文字を使うのである。くだくだし くいう必要はない。要するに全集は泉先生の編まるるもので、われわれはその御相談の一端にあ ずかるばかりなのである。この点は後日のために明かにして置きたい。作者自身の好みにより、 作者自身が力を尽してこそ、この全集の価値はあるのである。  そういう風に作者の好みを主とする全集の事だから、広告文といえども一応は先生の目を通し て頂かなければならないと思ったのである。  「いや結構です、結構です。」 と果して手際よくほめて下さるのを、後の怖さは承知しているから、しつこくせっついて、文字 つかいを二、三カ所直して頂き、これでいいというので安心した。  ところがその翌日、下谷《したや》の火事で、小島政二郎小村|雪岱《せつたい》両氏の見舞に行き、両家とも無事だっ た喜びを伝えるために泉先生のところへ寄ると、たまたま浜野さんも来ていたが、先生はさもい いにくそうに、昨夜の広告文中の一カ所に消してもらいたいところがあるというのである。言下 に浜野さんが、全集の仕事が始ってこのかた、寝る時は枕元《まくらもと》に、酔払って往来でころぶ時もしっ かり抱いていて、自分の顔や手足は擦《すり》むいても、これだけは身をもって守る折鞄《おりカバソ》を開いて取出し たのは拙文である。  「ちょっと此処のところを……」 と眼鏡をかけ直して先生は近々と原稿紙に顔を寄せたが、  「おや、もう消してあらア。」 といって私に示された。   権柄と野暮と不粋と慾張と髭面は、冷嘲熱罵を浴る運命の下にあり というところが、赤い鉛筆で抹消《まつしよう》されていた。先生の御意のままに、理も非もなく浜野さんが手 を下したのであろうが、私はむらむらと不愉快になった。即座に寸断して叩《セた》きつけようかと思っ たが、あやうく我慢した。だから一度目を通してもらったのではないか。何故最初から、此処が いけないとはいってくれないのだ。結構々々といって置きながら、このありさまは……私は目頭《めがしら》 が熱くなった。私の書いた無類に下手《へた》な字のみすぼらしい原稿のまん中に、赤々と引かれた鉛筆 の暴虐を見ていると、万感胸をついて漲《みなぎ》った。  「なあにちょっとここだけ消して頂けばいいのです。」 と事もなげに先生はいわれるけれど、私としてはそうはいかない。先生の芸術は憧憬と反抗の芸 術なりと真向《まつこう》からふりかざし、対句《ついく》のようにたたみかけて来たのを、其処だけ削られては浮ばれ ない。一度帰宅して、考えた上で書直しますといって辞去した。  その晩私は、頭に血が上って眠られなかった。書直すとはいったけれど、如何《どう》しても駄目《だめ》だ。 やけになってこう書いた。    (鏡花全集)出《い》づ。「冠弥左衛門《かんむりやざえもん》」(明治二十六年作)のむかしより今日に至るまで、小説、戯   曲、随筆、五百二十四篇、いつれも永遠に伝ふべきもののみなり。長篇小説には「誓之巻《ちかいのまき》」   「貧民|倶楽部《くらぶ》」「照葉狂言《てりはきようげん》」「七本桜《ななもとざくら》」「髯題目《ひげだいもく》」「辰巳巷談《たつみこうだん》」「黒百合」「通夜《つや》物語」「錦帯記」   「湯島詣《ゆしまもうで》」「三枚|続《つづき》」「式部小路《しきぶこうじ》」「風流線」「続風流線」「無憂樹《むゆうじゆ》」「婦系図《おんなけいず》」「草迷宮《くさめいきゆう》」「神鑿《しんさく》」   「白鷺《しらさぎ》」「参宮日記」「星の歌舞伎」「日本橋」「炎《ほのお》さばき」「鴛鴦帳《えんおうちよう》」「芍薬《しやくやく》の唄《うた》」「由縁《ゆかり》の女」   いつれも紳士淑女の讃嘆するところ、短篇の傑作としては「女客《おんなきやく》」「祝盃《しゆくはい》」「さΣ蟹《がに》」「外科   室」「夜行巡査《やこうじゆんさ》」「妙《たえ》の宮《みや》」「化鳥《けちよう》」「清心庵《せいしんあん》」「波がしら」「国貞《くにさだ》ゑがく」等枚挙に遑《いとま》あらず、   戯曲には「愛火《あいか》」「恋女房《こいにようぽう》」「夜叉《やしや》ケ池《いけ》」「天守物語」「海神別荘《かいじんべつそう》」「山吹《やまぶき》」等|夙《つと》に万人の知る   ところなり。随筆俳句また比類なき事今更いふを俟《ま》たざるべし。(鏡花全集)出《い》づ。(鏡花全   集)出づ。  これでいけなければ泉先生御自身御書きになるのが一番いいでしょうという言葉を添えて差出 した。勿論《もちろん》没書と思っていたところ、意外にもこれが採用された。冷静に考えて見ると、これが 採用になったのは、私に対する先生の御遠慮だったのであろう。私はむかっ腹を立てやすい私の 性質を恥じた。  「紳士淑女の讃嘆するところとは何事だ。」 と憤慨した人があったそうである。その事を聞いた時、私はあさましくも知己を得た感を禁じ得 なかった。  私の値打のない憤りは間もなく覚《さ》めた。兀々《こつこつ》三十余年間小説道のために苦心を積まれた先生が、 一生の記念たるべき全集のために、われわれは一切の小感情を捨てて、力を尽さねばならない。 あってもなくても、いいような私の広告文案の如きは、一行削られようとも二行消されようとも、 何らの差支《さしつか》えはない。先生の好みのままにしてあげるのが、われわれ芸術道に勉励する後輩の、 せめても捧《ささ》ぐる花冠であろう。  先生の文壇生活は誰よりも長い。二十歳にして早くも天才の名をほしいままにし、三十余年間 第一の詩人として嘆称されては居るものの、その間には随分苦しい日を送られたのである。今こ そ文筆の士も衣食に事を欠かぬ程度の報酬を受けるようになったが、それは永年奮闘してくれた 諸先輩の賜《ナまもの》である。泉先生の如きも、衣食に窮して生の難《かた》く死の易《やす》きをおもい、自ら命を断たん とした事もあったそうである。名作「鐘声夜半録《しようせいやはんろく》」の成りし頃、先生は郷里金沢にあってその師 紅葉山人に書を寄せて苦境を訴えた。それに対する紅葉山人の手紙は、涙なくして卒読する事は 出来ない。(全文は写真版として全集中の一巻に載せるはず)   (前の方を略す)果然今日の書状を見れば作者の不勇気《○○○》なる貧窶《ひんる》のために攪乱《こうらん》されたる心麻   の如く生の困難[#「生の困難」に傍点]にして死の愉快なるを知り[#「死…り」に傍点]などと浪《みだ》りに百間堀裏《○○○》の鬼《○》たらむを冀《こいねご》ふその胆の   小なる芥子《かいし》の如くその心の弱きこと苧殻《おがら》の如し。(略)破壁断軒の下に生を享《う》けてパンを咬《か》   み水を飲む身も天《○》ならずや。その天を楽め! いやしくも大詩人たるものはその脳《◎》金剛石《○○○》の   如く、火に焼けず、水に溺《おぼ》れず刃《やいば》も入る能《あた》はず、槌《つち》も撃つべからざるなり、何ぞいはんや一《いつ》   飯《ぱん》の飢をや。汝《なんじ》が金剛石の脳|未《いま》だ光を放つの時|到《いた》らざるが故《ゆえ》に天汝に苦楚《○○》の沙《○》と艱難《○○》の砥《○》と   を与へて汝を磨《みが》き汝を琢《みが》くこと数年にして光明千万丈|赫《かつかく》々として不滅を照らさしめむがため   也。(略)汝の脳は金剛石《○○○》なり。金剛石は天下の至宝なり。汝は至宝を蔵《おさ》むるものなり。天   下の至宝を蔵むるもの是豈《これあに》天下の大富人ならずや。(略)近来は費用つつきて小生も困難な   れど別紙|為換《かわせ》の通り金三円《○○○》だけ貸すべし倦《うま》ず撓《たゆ》まず勉強して早く一人前になるやう心懸くべ   し。  当時の泉先生を洞察《どうさつ》した紅葉山人の手紙は泉先生の命を救った。やがて金剛石は燦然《さんぜん》として輝 いたのである。  その後先生の文名一時に高く、既に動かしがたい地位を占められたが、それでも一飯の食事さ え事を欠く事も稀《まれ》ではなかったと聞く。殊《こと》に自然主義が提唱され、党同伐異を事とし異色ある作 家を排斥した頃は、最もひどかったそうである。はっきりいえば、原稿を買う本屋はなかったの である。泉鏡花の作品を掲げる雑誌には圧迫を加うべしと公言したものもあったそうで、それが ために、一度依頼した先生の原稿を、出来上った後で断った編輯者もあった。  しかも先生の天才と異常なる努力は、その間永遠に伝うべき幾多の名作を出し、誰が何といっ ても今日文壇の一枚看板として、押も押されもしない地位をきずかれた。それが、何らの党派的 勢力によらず、全くの筆一本で残した芸術の力である。この天才作家を有し、その優《すぐ》れたる芸術 を有する事は、われわれの国民的の誇である。我ら時代を同じくするもの、先生多年の功績と、 三十余年間の悲痛なる努力の成果なる全集を讃《たた》うるために、感謝の念と祝意を表したいのである。  かつては秋声《しゆうせい》、花袋《かたい》両氏の誕生五十年、英吉利《イギリス》の戯曲家シェクスピアの三百年祭も盛大に挙行 され、近く伊太利《イタリア》の小説家ボッカチオのための芸術祭も行われるという事である。われわれは今 泉鏡花先生の全集の出版を機とし、この国民詩人の壮挙をさかんにしたい。「鏡花全集の記」を つづる所以《ゆえん》である。  鏡花全集は既に蓿々進行している。泉先生は後から後から出て来る校正に追かけられて、神経 衰弱になりそうだとの御話。春陽堂も、主人番頭小僧さんまで、殺到する申込の受附に多忙を極 めているそうである。浜野さんは『新小説』臨時号「天才泉鏡花」の編輯を終って、全集の原稿 中只今私の手許《てもと》にないものの蒐輯《しゆうしゆう》に、朝から晩までかけ廻っている。  その手許にない原稿というのは左の如きもので、もし御所持の方がありましたら、是非とも一 時拝借させていただきたいのです。  (一)窮鳥《きゆうちよう》、明治廿六年八、九月頃北海道の新聞に出《い》でたるもの。新聞は北海道毎目と聞き、特  志家明治生命保険株式会社札幌支店副長石岡致誠氏は、熱心にこれを探し求められたれど、同  紙二十六年八、九月分には掲載|無之事《これなきこと》明白となり、目下新聞名不明なるため当惑しおれり。  (二)黒猫、明治二十八年七月頃金沢市の北国新聞に出ず。  (三)怪語《かいこ》、明治三十年八月雑誌『太陽』第三巻十四号掲載。  (四)監督喇叭《かんとくらつば》、明治三十三年新声社版『秋風琴』の中にあり。  (五)海浴雑記《かいよくざつき》、明治三十五年九月雑誌『文藻』寅の八に出《い》ず。  (六)書斎の花、明治卅五年十一月頃何かの雑誌に出《いで》しものの如し。   但レ泉先生自身も記憶せられず、あるいは広告のみにて本物はないのかも知れずとの事。  (七)満洲道成寺《まんしゆうどうじようし》、明治三十七年三月錦文堂発行『日露戦誌』第一巻二号に出でたりという。  これも泉先生の記憶になし。  (八)隅田《すみだ》の橋姫、明治三十七年十月雑誌『時代思潮』第十一巻九号に出《い》ず。  (九)たそがれの味、明治四十一年三月雑誌『早稲田文学』に出ず。これは私の不注意で紛失し  ました。  (十)雅号の由来、明治四十一年十一月雑誌『中学世界』第十一巻十五号に出ず。これも私の不  注意で紛失しました。  (十一)『お伽《とぎ》花束』の序、明治四十二年九月宇野一氏編むところのお伽ぱなしの本の序文です。 これは誰かに貸したまま戻って来なくなりました。 (十二)内輪話《うちわぱなし》、明治四十五年三月雑誌『日本婦人』に出《い》ず。 (十三)若松家|挨拶《あいさつ》、大正七年五月赤坂の待合《まちあい》若松家のために書かれしもの。これは泉先生から 頂いて持っておりましたが、いくら探しても見当りません。甚《はなは》だ申訳なく思っております。  幸いに御貸与願えるものならば、下記|宛《あて》に御知らせ下さい。麹町《こうじまち》区|下《しも》六番町二十九番地|阿部 章蔵《あべしようぞう》。 (大正十四年四月二十六日) 1「時事新報」大正十四年四月三十日・五月一日・二日・三日・五日・   六日・七日・八日・九日・十日・十二日