鏡花世界暼見 水上滝太郎  鏡花泉鏡太郎先生は明治六年十一月四日加賀の国金沢市新町に生る。父は清次、政光と名告《なの》る 金属の彫工にて、母は鈴、江戸|下谷《したや》の出生、葛野《かどの》流の鼓の家、中田氏の女《むすめ》、能楽師松本金太郎の 小妹なり。  十一歳の時母にわかれ、二十二歳にして父に死別す。  明治二十三年十一月上京、二十四年十月尾崎紅葉先生の門下たることを許され、二十六年五月 「冠弥左衛門《かんむりやざえもん》」を京都|日出《ひので》新聞に連載す。年|僅《わずか》に二十一。  泉先生の文学上の活動はこの時に始まって、爾来三十有余年、今なお不断の制作を続けている。 明治文学はじまって以来、先生の如く制作期の久しきはなく、芸術作品の質においてすぐれたる と同時に、量においても圧倒的に群を抜いているのは、その比を見ない所である。  父方も母方も芸術家の血筋だった事は、先生の芸術至上主義をはぐくむ上に、決定的の運命で あった。先生の芸道に対する信仰は、いにしえの名工の如く深く、今日の幾多の文学志望者が、 即成出世の方便と考えているような不心得はもっての外の事である。  「冠弥左衛門」は甚《はなは》だ不評判だったそうだ。先生みずからその事を記していう。   明治二十六年五月、京都日出新聞に「冠弥左衛門」を連載す。うけざる故《ゆえ》を以《もつ》て、新聞当事   者より、先生(紅葉先生の事)に対し、その中止を請求して止《や》まず、状信二十通に余る。しか   れども少年の弟子の出端《でばな》を折られんをあはれみて、侠気《きようき》励烈、折衝を重ねて、その(完)を得   せしめらる。 尤もこの作は、翌年転売されて北陸新報に掲げられ、大に喝采《かつさい》を博したという。今日これを見 れば、この時代物は作品としては極めて幼稚で、その後間もなく発表された同じく時代物「乱菊《らんぎく》 物語」「秘妾伝《ひしようでん》」などと共に、泉先生の作中最も特色のないものである。  作者の親しく物語るところによれば、北陸新報に連載中、毎日その社の前に佇《たたず》み、掲示板に貼 出される新聞紙上の自作を、心をふるわせて読んだものだそうだ。文学にこころざす者にとって、 今日よりももっと、自作の印刷になる事のむずかしかった時代だから、その喜びと心配の入りま じった感情は、さこそと推察されるのである。  この年少の作者は、翌二十七年には、早くも「予備兵」「義血侠血《ぎけつきようけつ》」の如き、今日もなお多く の人の記憶に残る作品を発表して、非凡の才能を認められた。  日清戦争当時は、国を挙《あ》げて外敵にあたる意気の最もあがった時代だが、文学は全く顧みられ なくなった。芸術は平和の世でなければ尊重されない。国家的社会的不安の時代には、花より団 子がもてはやされる。当時一流の大家も、米塩《べいえん》の代《しろ》に窮する事極めて甚《はなはた》しかったという事である。 ましてや未だ大に売出したとはいえない泉先生の如きは、全く衣食の途《みち》を見出し得ず、郷里金沢 の旧|城趾《じようし》の御堀に身を投げて死のうとおもい詰めた。  当時成ったものに「鐘声夜半録《しようせいやはんろく》」があるが、これを郷里から紅葉先生に送ったところ、編中の |み《まなでし》 人物を描く筆に鬼気の迫れるを看て取って、師はその愛弟子の命を捨てん事をあやぶみ、書を送 って激励した。   (略)「鐘声夜半録」と題し例の春松堂より借金の責塞に明日|可差遣《さしつかわすべき》心得にてこの二、三日 |さんじゆんそうろう《み》   に通編刪潤いたし申候巻中「豊島」の感情を看るに常人の心にあろず一種死を喜ぶ精神病   者の如しかかる人物を点出するは畢竟《ひつきよう》作者の感情の然《しか》らしむる所ならむと私《ひそか》に考へ居《おり》候ひし ひんるこうらんヘヘヘへ   に果然今日の書状を見れば作者の不勇気なる貧窶のために攪乱されたる心麻の如く生の困難   にして死《、、》の愉快《ヘヘヘ》なるを知《ヘヘヘへ》りなどと浪《みだ》りに百間堀裏《     》の鬼《 》たらむを冀《こいねご》ふその胆の小なる芥子《かいし》の如   くその心の弱きこと苧殻《おがら》の如し。(略)破壁断軒の下に生を享《う》けてパンを咬《か》み水を飲む身も   強ならずや・その天を楽め!いやしくも大詩人たるものはその鑾馨の如く、火に焼け   ず・水驫れず響入る艦はず・樵も撃つべからざるなり・何ぞいはんや一飯の飢をや。.灘 |いま《いたゆえ        みが》   が金剛石の脳未だ光を放つの時到らざるが故に天汝に苦楚の沙と艱難の砥とを与へて汝を磨   き汝を琢《みが》くこと数年にして光明千万丈|赫《かつかく》々として不滅を照らさしめむがため也《なり》。(略)汝の   脳は金剛石《   》なり。金剛石は天下の至宝なり。汝は至宝を蔵《おさ》むるものなり。(略)近来は費用   つづきて小生も困難なれど別紙|為換《かわせ》の通り金三円《   》だけ貸すべし倦《うま》ず撓《たゆ》まず勉強して早く一人   前になるやう心懸くべし。  この秘蔵の手紙を筐底《きようてい》より取出す時、泉先生は眼底に感涙を湛《たた》え、必ずおし頂いてから披見さ れる。  厚きなさけの籠《こも》る師の手紙は、年少の弟子の死を希《ねが》う心を烈《はげ》しく鞭《むち》打った。金剛石の脳は艱難《かんなん》 の砥《といし》に磨かれて、光明千万丈、数年をまたずして赫々の光を放っに至った。  その頃『新小説』と対峙《たいじ》して第一流の文芸雑誌だった『文芸倶楽部』に「夜行巡査《やこうじゆんさ》」と「外科 室」の出たのは二十八年の事で、清新にして力ある文体は先ず人の目を奪い、主題を把握《はあく》する事 の強く、熱情を以て至純の感情を描いて世人に是非を問う挑戦的態度は、感傷的写実主義時代の 文壇に大なる驚異をもたらした。作者は忽ち新進作家中の第一人者に数えられ、撥溂《はつらつ》たる制作力 は潮《うしお》の如くあふれて来た。  先生みずから二、三の作品の名をあげて、   世評皆|喧《かまびす》し。褒貶《にうへん》相半ばす。否、むしろ罵評《ばひよう》の包囲なりし。 と書いているが、それは一部分真実で、一部分は謙遜《けんそん》に出る嘘《うそ》である。褒貶相半ばした事は本当 であろうが、これを貶《けな》す側の評者といえども、最も注目すべき作家なりとした事は疑う余地がな い。  この新進作家の特異の作風に対して、時の批評家は観念小説あるいは深刻小説の名を与えた。 尤も、広津柳浪《ひろつりゆうろう》、川上眉山《かわかみびざん》の如き先輩もこの派の中に数えられた。観念小説とは、当時の文壇の 主流をなす写実主義に対して、ひとつの理想主義と見る事も出来るし、後年大に流行《はや》ったテーマ 小説の先駆を為《な》したものと見ても失当でない。例を泉先生の出世作にとれば、「夜行巡査」は職 務のためには人情も、恨も、愛も捨てて一身を犠牲にした。その結末の数行を抜けば、観念小説 の何たるかは容易に了解する事が出来るであろう。   あはれ鵡貯は警官として、社会より磯へる負債を消却せむがため、あくまでその死せんこと   を、むしろ殺さむことを欲しつつありし悪魔を救はんとし、氷点の冷《れい》、水|凍《こお》る夜半《よわ》に泳《およぎ》を知   らざる身の、生命《いのち》とともに愛を捨てぬ。後日社会は一般に八田巡査を仁《じん》なりと称せり。ああ   果して仁なりや、しかも一人《いちにん》の渠《かれ》が残忍|苛酷《かこく》にして、恕《じょ》すべき老車夫を懲罰《ちょうばっ》し、憐《あわれ》むべき母   と子を厳責したりし尽瘁《じんすい》を、讃歎《さんたん》するものなきはいかん。  もうひとつなぞって「外科室」を例にとると、これは医科大学の学生が、植物園の内で高家の 姫を見る。やがて九年、医学士は病院の外科科長になっていたが、疾患を癒《いや》すべく雪の肌に刀を あてた美しき伯爵夫人は、彼が心に忘れぬ植物園内の姫であった。夫人も医学士をおもっていた ので、みずから胸にあてた刀に手を添えて、乳の下深く掻切《かきき》った。医学士もその後を追ったので ある。   青山の墓地と、谷中《やなか》の墓地と所こそは変りたれ、同一日《おなじひ》に前後して相逝《あいゆ》けり。   語を寄す、天下の宗教家、渠《かれ》ら二人は罪悪ありて、天に行くことを得ざるべきか。  今にして見れば、テーマは幼稚だといい捨てられそうだが、当時においてはその熱情のはげし さにおいて、常識以上|遥《はる》かなるものであった。夫ある妻が他人を想い、夫ある妻を他人が恋する、 その熱烈なる至情を咎《とが》むるなと、この恋愛至上主義の作者は、道学者に対して勇しく叫んだので ある。  更に大胆極まるのは「海城発電」で、主題はやはり職務の神聖を説くもののようであるが、一 篇を構成する事件としては、愛国心と人道主義の対立を取扱っている。時はあたかも日清役《につしんえき》直後 だ。月琴を弾《ひ》いても国賊呼ばわりされたり、石つぶてを打たれたりした時代に、作者は敢然とし てあやまれる愛国心を非難したのである。   予は目撃せり。   日本軍の中には赤十字の義務を完《まつと》うして、敵より感謝状を送られたる国賊あり。しかれども、   また敵愾心《てきがいしん》のために清国《てきこく》の病婦を捉《とら》へて、犯し辱《はずかし》めたる愛国の軍夫あり。  小説といえば、支那《シナ》伝来か、江戸時代から持続きの、架空物語を文章の綾で読ませるものと思 っていたところへ、少なくとも自分たちの当面の問題となり得《う》る人生の矛盾や葛藤《かつとう》を端的に把握 し、力強い表現力で描写し、熱情を籠《こ》めて読者の賛成を求めたのであるから、今まで考えていた 小説の概念とは甚《はなは》だ違うものが出現したわけだ。当時の知識階級の代表者たる大学生が、就中《なかんずく》こ の作者を讃美したのは当然であろう。  しかし泉先生の持って生れた浪漫趣味は、長くこの境地に止《とど》まる事を許さなかった。現実世界 に感激の純情をもって呼びかける態度をとったのは束《つか》の間《ま》で、やがて作者の情熱は、他の対象を 求めて遠く去った。それは何であるかというに、超自然の神秘境に憧憬のおもいを寄せる事であ った。「妙《たえ》の宮《みや》」「蓑谷《みのだに》」「竜潭譚《りゆうたんたん》」の如きがそれで、やがて両者は打ってひとつとなり、泉鏡花 先生の作風を定めたのである。  現代の文章の普通の体をなす言文一致は、二葉亭四迷《ふたばていしめい》と山田美妙斎《やまだびみようさい》によって始められたものだ と伝えられるが、明治二十年代には、小説は多く文章体だった。尾崎紅葉先生は「豆腐と言文一 致は大嫌いだ」と揚言していたと聞くが、そのお弟子の泉先生も、二十年代には殆んどすべて文 章体で書いていた。尤《もつと》も個性の強い先生の事であるから、同門の他の人々のように、紅葉先生|張《ばり》 の文章を書く事はせず、森鴎外《もりおうがい》先生や森田思軒居士《もりたしけんこじ》の翻訳調をとり入れた自分一流の雅俗折衷体 を用いた。   夜半|渠《かれ》の如き姿態《すがた》と気色《けしき》とは、最も良く自殺に適せり。予は直ちに「貴女《あなた》身を投げるのでは   ありませんか。」と問はむとせり。かくいはば、戯《たわむ》るるに似たらむ。他《た》に人なき時、諧謔以《かいぎやくもつ》   て生面《せいめん》の婦人に萢《のぞ》むべからず。あるいは「もし姉様《ねえさん》気を着けておいでなさいよ。」こはまた   要《い》らざる御世話なり。予は若年男子の身、老婆にあらずして奚《なん》ぞ這般《しやはん》の深切を説くべき。   (鐘声夜半録)  見本を示すとこんなものだが、しかし御大将紅葉先生さえ後には言文一致を採用するようにな った位だから、泉先生も明治三十年前後から文体を一変した。  私の詮索《せんさく》にあやまりがなければ、三十年四月の『新著月刊』の巻頭を飾った小説「化鳥《けちよう》」が、 泉先生の言文一致体の最初のものであろう。そのかき出しはこういうのである。   おもしろいな、おもしろいな、お天気が悪くって外へ出て遊べなくってもいいや、笠《かさ》を着て、   蓑《みの》を着て、雨の降るなかをびしょびしょ濡《ぬ》れながら、橋の上を渡って行くのは猪《いのしし》だ。  続いて翌月の『文芸倶楽部』に出た「堅《かた》パン」になると、すっかり手に入ったもので、思い切 って力強くたたみ込み、ひた押しに押して行く急調子のものとなった。   「入らっしゃい!」   権《ごん》の野郎がその声といったらない、腸《はらわた》を絞《しぼ》り出して打《ぶ》っつけるような音《おん》であるから、客を呼   ぶような容易なことではない、乗車を勧めるというような手軽なものではない。   まるでその九段の上に群《むらが》ってる人を、坂下の総井戸の処にいて、引掴《ひつっか》んで胸倉《むなぐら》を取って、ず   るずると馬車の中へ引摺込《ひきずりこ》もうとする声だ。恐しい声だ。  ここまで来ると、その後三十年たった昭和時代の小説の文体と何らの変りがない。  ところが先生は、言文一致体の文章を意のままになし得ると同時に、更に飛躍を試みた。文章 の音律を第一とする事である。   僕はかの観音経を読誦《とくしよう》するに、訓読法を用いないで、音読法を用いる。けだし僕には観音経   の文句ーなお一層適切にいえば文句の調子iそのものがありがたいのであって、その現   してある文句が何事を意味しようとも、そんな事には少しも関係をもたぬのである。(略)   僕は唯《ただ》かの自《おのずか》ら敬虔《けいけん》の情を禁じ能《あた》わざるが如き、微妙なる音調を尚《とうと》しとするものである。そ   こで文章の死活がまたしばしば音調の巧拙に支配せらるる事の少なからざるを思うに、文章   の生命はたしかにその半以上|懸《かか》って音調の上にあることを信ずるのである。  こういう信条から、先生は文章体と口語体との融合を試み、全く独特の文体を創設した。   射損じたり、第一矢《だいいつし》   清滝《きよたき》の女房、柳眉《りゆうぴ》を逆立て、控えの二の矢を、   「貴方《あなた》!」と取ってさし出《いだ》すを、屹《きつ》と見て、打頷《うちうなず》き、新三郎は取直して、再び丁《ちよう》と番《つが》えたの   である。   思い切って一歩を進み、更に秋水の瞳《ひとみ》を凝《こら》し、姫神の御名《おんな》を胸に、鎧《よろい》の袖《そで》を揺直《ゆりなお》せば、白気   再び空《くう》を射て、放たずして疾《と》く貫く的《まを》、矢頃|可矣《よしい》、飛禽《ひきんつ》の翼《ばさ》縫うべき也《なり》。   曳固《ひきかた》め、きりりと〆め、兵弗《しひようふつ》と切って放す、弓は大浪《おおなみ》を打って返した、矢|響《ひび》き高く白羽の神《しん》   箭《ぜん》、遥《はるか》に霏《ひひ》々として、風と相打つ雪一片。   さて手応《てこたえ》は胸にあった。新三郎は見る見る中《うち》、豁然《かつぜん》として、心《しん》ひらけ、鏘然《しようぜん》として文字声《もじこえ》あ   り、腹案成んぬ、立処《たちどころ》に。(白羽箭《はくうぜん》)  これよりさき、泉先生は素晴しい創作力を示して幾多長短の名篇を世に問い、浪漫派の大道を 打開した。当時第一流の雑誌の創刊号、正月号の巻頭には、争って先生の作品を載せ、老舗《しにせ》春陽 堂が自慢の年頭初刷には、必ず先生の単行本を市に出した。  森鴎外先生の小説「灰燼《かいじん》」の中には、慶応義塾の学生二人が、互にまだ口をきいた事はないの だけれど、一人の読んでいる小説が、「春陽堂で出した、見覚えのある鏡花の小説」なので、他 の一人がいきなり声をかけるところが書いてある。   (略)そして、すぐに「君は鏡花をどう思っています」と畳み掛けて問うのである。   節蔵は「君も崇拝家の一人ですね」と反問して、自分の意見はいわなかった。   「そうです。大好きです」相手は熱心に答えて、「露伴とはどうでしょう」と、是非鏡花に対   する賛否の声を聞かなくては気が済まないらしい様子で附け加えた。   節蔵は少しもどかしいような感じがしたが、窮屈な着物をやむをえず着たつもりで使う敬語   と同じ心持で、無造做《むぞうさ》にいった。「そんな比較論がどこかの新聞にあったっけねえ。僕は鏡   花も好きだが、露伴も好きだ。どっちが好いの悪いのということは出来ない。僕はそれの出   来ないのが当り前ではないかと思っている。露伴は第一の詩人といわれた時が過ぎている。   鏡花は今丁度第一の詩人といわれる時が来ているのだ。これも今に過ぎ去ってしまうのだね。   見てい給え。これからいろんな人が代るく第一の詩人に擬せられうから。(略)L   「そんな物ですかねえ。僕は鏡花の作に限って面白くて溜《たま》らないものですから。」  この小説は明治四十五年の『三田文学』に連載されたのであるが、その中に描かれている時代 は、泉先生売出しの頃に相違ないのである。  「君も崇拝家の一人ですね」とある通り、当時泉先生の崇拝者はその数|頗《すこぶ》る多く、かつその熱 度は恋愛か宗教に等しいものであった。先生の門に集まる者も多く、また沢山の模倣者があらわ れ、その頃の新聞雑誌の懸賞小説というと、必ず鏡花|張《ばり》の作品がいくつとなく集ったものだそう だ。けれども、泉先生の芸術は、到底他の模倣を許さない。模倣は誰を模倣しても詰らないのが |当前《あたりまえ》だが、外の人の場合には、やがてその域を脱して並行して行く道が開かれるであろうけれど も、泉先生の模倣者には、この一筋の道の外に別路もうら道もないのである。先生の門下から遂 に一人の作家もあらわれなかったのは、極めて自然の事であろう。  はなしは些《いささ》かそれたが、明治三十年代のはじめにおいて、泉先生は我国文壇の第一の詩人とな った。しかし「灰燼」作中の人物がいう通り、この王座は長く一人の独占する事を許さない。明 治三十六年には尾崎紅葉先生|逝去《せいきよ》せられ、その頃からさかんになった自然派の運動は、独立独行 の浪漫派の詩人を迫害する事極めて手きびしくなって来た。自然派の運動は我国文学史上最も目 覚《めざま》しく、最も有意義のものであった。その功績の第一に数うべきは、荒唐無稽《こうとうむけい》を本質とするが如 く認められていた小説に、人生の真実を取入れた事にある。美辞麗句を文学の第一義と思い違え ていたのに対して、客観的描写の方法を示した事にある。勿論《もちろん》その一面に、科学と芸術との誤れ る認識と、ゆき詰った人生観から、成長飛躍の道をとざした憾《うらみ》はあるが、我国の文学が急速に著 しい発達を遂げたのは、自然派の努力に負う所多大である。  しかも、この派の運動は、かつてない組織だったものだった。紅葉露伴時代には、個人の偉さ が一派をひきいてゆく基となったが、自然派は、主義を共にする者が、ともにせざる者に対して たたかいを宣した。文壇において、多数者の力の素晴しく発揮される時代が来た。ほんとか嘘《うそ》か 保証の限りではないが、或人の話によると、来月は誰某の作品をほめたたえよという伝達が、そ の派の参謀本部から四方に発せられたという事である。既成作家は、自然主義的観点から、何ら の価値なきものの如く批判された。かつては一代の寵児《ちょうじ》だった紅葉先生の如きも、反動的の過酷 なる批評を受けねばならなくなった。泉先生もまた同じく、黙殺か、然《しか》らざれば古いという一語 を以ていい捨てられる運命を免れなかった。昨日までの第一の詩人も、その穿物《はきもの》を揃えた若者に まできびしい言葉を浴せられた。こういう時代だから、文学青年の大半は自然派の亜流であり、 既に一家を成した者も、今日のいわゆる転換を試みて、命脈をつなぐ事に腐心した。  伝うる所が真ならば、或る有力なる雑誌の編輯者《へんしゆうしや》は、泉先生に創作を依頼し、その出来上るに 及んで俄《にわ》かに掲載する事を拒絶した。理由は簡単で、自然派にあらざる大家の作品を載せると、 自然派の連中にボイコットを食うおそれがあるというのである。  しかし、泉先生は他人に学ぶ作家ではなく、己《おのれ》の信ずる道をまっしぐらに進む方の選手だから、 たやすく転換する事は不可能である。かなり長く続いたこの受難時代に、一層塁を高くして一人 鏡花世界に閉籠《とじこも》ってしまった。  けれども、自然派の天下も何時までも続くわけがない。なすべき事は相当にしとげ、数人の代 表作家を世に出したが、やがて亜流の徒は本質を離れて、平俗凡庸の作品をもって安んじ、身辺 雑記的小説の単調に陥ってしまった。その一方に、新しい傾向の文学は、自然主義に対抗して起 って来た。主として『三田文学』『スバル』『白樺《しらかば》』『新思潮』に拠《よ》る作家が擡頭《たいとう》して来た。かつ ては泉先生を崇拝してその門を叩《たた》き、後には自然派前線の闘士の一人として先生を価値なきもの のようにいいならわした一文人は、時の非なるを知って遠く郷里へ落ちて行くに際し、先生の前 に頭を垂《た》れて、記念の揮毫《きこう》を求めたときく。泉先生の真価は、更にまた新しい時代の認めるとこ ろとなった。  明治以後の文学も幾多の変遷を経て来たが、殆んどその最初から今口まで、泉先生は常に別格 の一枚看板で、その作風は全然類を絶している。大体論として、明治以後の文学の特徴は、その 以前のものに比して写実的である。時代々々に従って、さまざまの傾向は示しながらも、少なく ともその描写法は、写実に即しているものが多く、然《しか》らざるものは極めて少ない。ところが泉先 生は「冠弥左衛門」の昔から、写実を旨としないのである。多くの作家が希《ねが》う、あるがままを描 いて真実感を出す事は、先生にとっては第一義の問題でなく、先生としては、むしろあるべから ざる事を描いて迫真感を出そうとするのである。  先生は見たものをそのまま再現させようとはしない。それよりも、自分の欲する世界をつくり |上《あげ》る事に努めるのである。客観世界の散文的真実には何らの興味がなく、理想世界の美を讃美《さんび》す る事に忙しいのである。これが先生の一切の心的活動の方向を決定する。好きと嫌いと、いい事 と悪い事と、憧憬と反抗と、美と醜と、善玉と悪玉と、讃美と罵倒《ばとう》と、すべて極端なる対立を成 して鏡花世界を形成する。信仰するものは極端に尊く、然らざるものは乱離忽敗《らりこつばい》である。  先ず先生の信仰讃美の著しいあらわれは、神仏、父母、紅葉先生、江戸っ子、美人、芸術、恋 愛に対する熱情である。神仏の存在は、極端に臆病《おくびよう》で神経質の先生に、大なる安心を与えている。 麹町下六番町十一番地の先生の御宅の茶の間、即ち先生と奥さんが長火鉢《ながひばち》をさしはさんで、他の 家では決して見られない泉家独特のいろいろの流儀で、日常生活の営まれている神聖にして濃厚 なる情愛世界には仏壇があって、朝夕先生の信仰心を預っている。往来を歩いていても、神社仏     すぎ     めがね                           ばけ 閣の前を過る時は、一々眼鏡をはずして礼拝する。神も仏も、先生にとっては、大好きなお化と 共にあきらかに存在するのであって、目に見えない存在だから、一層美しくなつかしく、おもう がままの信仰の対象となるのである。   僕は明《あきらか》に世に二つの大なる超自然力のあることを信ずる。これを強いて一纏《ひとまと》めに命名すると、   一を観音力、他を鬼神力とでも呼ぽうか、共に人間はこれに対して到底不可抗力のものであ   る。  「おばけずきのいわれ少々と処女作」と題する談話筆記の中にこういう一節がある。二つの超 自然力の前には、人間は全然無力なのであると堅く信じれば、観念小説時代のような対社会的態 度を持続し得ないのは当然である。  異常なる神経の所有者泉先生は、常に鬼神力に対して畏《おそ》れをいだいている。鬼神力は宇宙聞に |瀰漫《びまん》しているのだ。雷の鳴る時は前以てお腹が痛み、ひとたび雷鳴が聞えれば、見栄《みえ》も外聞もな く蚊帳《かや》の中へもぐり込む。泉家における蚊帳の必要は、蚊の出る時節には限らない。知らない家 で会合でもある時は、其処に蚊帳の用意があるかないかが大きな心配になる。雷の次にこわいも のには犬がいる。散歩好きの先生も、これあるがためにままにならない。そこで太いステッキを 持って出かけるが、そのステッキを犬が見つけて、かえってあやしみはしないかという心配が起《おこ》 る。即ち向うから犬が来ると、折角のステッキを袖《そで》でかくして逃出さなければならない。犬はよ く人の心を読む、黙って通り過る人には目もくれないが、真青になって逃出す人間を見れば、追 かけたくなる本能が猛然と起って来る。先生の恐怖は倍加される。やむをえず女中を連れて歩く 事を考えたが、これは万一犬が襲って来た時、身がわりになってもらおうというのだから、人道 上許せないと反省して、おやめになる。次には奥さんといっしょに散歩することを企てたが、夫 婦いっしょに歩く事は野暮とされているので、この手も稀《まれ》にしか用いられない。屈強な車屋でも 雇って散歩しようかと考えていると、しみじみ歎息《たんそく》しているのを聞いたが、実行されたかどうか 未だ審《つまびら》かにしない。  蝿《はえ》も恐《こわ》い。既に「蝿を憎むの記」がある位だから、泉家においては、鉄瓶《てつひん》の口、煙管《キセル》の吸口、 その外いろいろのものに、奥さん手製の筒が着せてある。中には千代紙で出来ているのもある。 みんな蝿よけなのだ。生《なま》ものはあたると恐いから一切食べず、御酒はぐらぐら煮立てて飲む。海 老《えび》は溺死人《できしにん》を食うからいけない、あれもいけない、これもいけないで、食物の種類は極めて少し に限定され、それも奥さんの手にかかったものでなければなかなか信用しない。宿屋に泊っても 食べる物は自分の部屋で煮かえし、汽車の旅で、車中アルコオル洋灯《ランプ》で饂飩《うどん》を煮て食べるという はかなさである。殊《こと》にコレラとか赤痢でもはやって来ようものなら、豆腐と煮豆の外にはお菜《かず》が なくなってしまう有様だ。  先生の恐がる物を数えていてはきりがないが、もう一つ附加えれば、世間もこわいもののひと つであろう。前にも書いた通り、夫婦いっしょに家の外を歩く事を憚《はば》かるのも、世間の口を恐れ るのではないだろうか、旅行はしたいが、夫婦揃って留守にしては町内の人に申訳がないという ような言葉は、先生の口からしばしばきくところである。  そういう風にこわい物が多く、それがいずれも全身震え上るほどのこわさなのだが、ありがた い事には一方に観音力があって、これにお縋《すが》りすれば、安心して長火鉢を向う前に、番茶の香高 く、神聖にして濃厚なる情愛世界に安住していられるのである。こわい物がこわければこわいほ ど、観音力を信仰する力も強い。その点において、神も仏も信じない代りに、何事も科学の力で 解釈出来ると心得ている現代一般人は、先生のような情熱をもって感謝する心を知らないのであ る。  先生が浪漫派である事は、科学者が自然主義者であると同様当前の事だ。だから、写実派の大 家尾崎紅葉先生の門下となり、神の如く崇拝しながら、なおかつ個性の赴《おもむ》くがままに、異なる道 を踏んだのである。  超自然力に対する信仰を持つ先生は、神かくしにあう子供、幻を見る人、深山の夜更《よふけ》には草木 も禽獣《きんじゆう》も人語を解して不思議を物語る場面をこそ描け、自然派以後の日本文学の一特色となった 家常茶飯事、身辺雑事を平面的に描く事は、全く顧みない所である。理想世界を構成するために は、ありのままの世の姿は往々邪魔になるから、とかくきびしい嘲罵《ちょうば》を加えられがちだ。理想世 界の唯美境を讃美する一方に先生の心は常に現在の世の中の醜悪面に対して反撥《はんばつ》する。例を初期 の作品にとると、うでの修練に対する尊敬から「取舵《とりかじ》」が生まれ、義挾心に対する熱情から「義 血侠血」が生まれると同時に、衆俗に対する反抗から「予備兵」が生まれ、威張った奴を叩きふ せる精神から「金時計《きんどけい》」「大和心《やまとこころ》」「鐘声夜半録」が生まれた。極端な例は「貧民倶楽部」で、上 流貴族に対抗する四谷鮫《よつやさめ》が橋《はし》の貧民窟の一団を描き、作者は後者に味方して前者の秘事をあばき、 偽善を罵《ののし》り、遂に彼らを屈服せしめるのである。  先生の観音力を頼む心は、対人関係においても同じ力を以て発表される事がある。父母に対す る信頼は、神仏にむかうと等しく、年下の少年が年上の美女を慕《した》う心持にも、神仏に縋《すが》るような 絶対信頼が伴う。師に対する弟子の信仰は、紅葉先生をモデルにした人物をかりてあらわされる。 万一紅葉先生または紅葉先生の作品に対して悪《あ》しざまにいう者があるなら、泉先生は生涯その者 と盃のやりとりをしないであろう。  だが何といっても、鏡花世界の本舞台で、作者の理想を一身に荷《にな》ってはなぱなしく活躍するの は美女である。先生は頗るつきの女性讃美者だ。但し醜婦はこの限りでない。明治三十年に発表 された「醜婦を呵《か》す」という一文は、最も痛快明白にこの事実を宣言したものである。   村夫子《そんぶうし》はいふ、美の女性に貴《たつと》ぶべきは、その面の美なるにはあらずして、単にその意《こころ》の美な   るにありと。何ぞあやまれるの甚《はなはだ》しき。  こういう書出しで、男子が花鳥風月を楽むのは、畢竟《ひつきよう》するにいまだ美人を得ざるものか、ある いは恋に失望したるものの万《ばん》やむをえずしてなす負惜《まけおしみ》の好事《こうず》に過ぎない、宇宙間最も美なるもの は女で、女たる以上は美ならざるべからずと喝破《かつば》した。   薔薇《ばら》には恐るべき刺《とげ》あり、しかれども吾人《ごじん》はその美を愛し、その香《か》を喜ぶ。婦人もし艶《えん》にし   て美、美にして艶ならむか、薄情《はくじよう》なるも、残忍なるも、殺意あるもまた害なきなり。(略)   希《こいねがわ》くば、満天下の妙齢女子、卿《けい》ら務めて美人たれ、その意《こころ》の美をいふにあらず、肉と皮と   の美ならむことを、熱心に、忠実に、汲《きゆうきゆ》々として勤《う》めて時のなほ足らざるを憾《うらみ》とせよ。読書、   習字、算術等、一切《すべて》の科学何かある、唯|紅粉粧飾《こうふんそうしよく》の余暇において学ばむのみ。(略)   あはれ願くば巧言、令色、媚《こ》びて吾人に対せよ。貞操|淑気《しゆくき》を備へざるも、得てよく吾人を魅   せしむ。しかる時は吾人その恩に感じて、これを新しき床の間に置き、三尺すさつて拝せん   なり。  こういうような美人礼讃は、やがて先生の唯美主義的傾向を示すものであるが、これを以て直 ちに女は男のために美しければいい、男のおもちゃに過ぎないのだという意味に解釈するのは間 違いで、女性崇拝の先生は、女iあるいは美しき女に限るーを男に隷属するものとは考えな い。反対に、女も独立、自由、我儘《わがまま》、奔放でなければならないのである。これを許さず、手枷足 枷《てかせあしかせ》を強いる道学者は、しばしば作品の中に引摺《ひきずり》出されて、袋|叩《だた》きにあわされる。殊に、結婚によ って女の自由の束縛される事に対し、先生は熱烈なる語をつらねてその非を鳴らし、女の肩を持 つ。 明治二十八年に発表された「愛ど婚姻」という論文は、先生の恋愛観を知るべき合鍵《あいかぎ》だ。   媒酌人《なこうど》先ついふめでたしと、舅姑《きゆうご》またいふめでたしと、親類等皆いふめでたしと、知己朋友   皆いふめでたしと、渠《かれ》らは欣《きんきん》々然として新夫婦の婚姻を祝す、婚姻果してめでたきか。 冒頭にこういう疑問を提出して、当時二十三歳独身童貞の先生は、婚姻は当事者本人たちにと って決してめでたい事ではないと喝破した。   一旦《いつたん》結婚したる婦人は(略)吾人は渠《かれ》を愛すること能《あた》はず、否《いな》愛すること能はざるにあらず、   社会がこれを許さざるなり。愛することを得《え》ざらしむるなり。要するに社会の婚姻は、愛を   束縛して、圧制して、自由を剥奪《はくだつ》せむがために造られたる、残絶、酷絶の刑法なりとす。   (略)妻なく、夫なく、一般の男女は皆ただ男女なりと仮定せよ。愛に対する道徳の罪人は   那辺《なへん》にか出《い》で来《きた》らむ、女子は情のためその夫を毒殺するの要なきなり。男子は愛のために密   通することを要せざるなり。否、ただに要せざるのみならず、爾《しか》き不快なる文字はこれを愛   の字典の何ページに求むるも、決して見出すこと能はざるに至るや必せり。 結局恋愛の自由を主張して「婚姻はけだし愛を拷問して我に従はしめむとする、卑怯《ひきよう》なる手段 のみ」と叫んだ。尤もこの論文の最後には、結婚はめでたくはないが、社会のために身を犠牲に して行うものであるから、慇懃《いんぎん》に新夫婦に向って感謝すべきであると説いている。  生れながらの浪漫派なる泉先生の思想には、常に自由を欲し、束縛を嫌う心持が強い。従って 血の通わない道徳はいさぎよく踏破る事をよしとする。何を置いても讃美せねばならぬ女性の上 に束縛を加えるものは憎むべきで、世上の亭主が女房よりも大きな面《つら》をして威張っているのなど は、先生の任侠到底黙視してはいられないのである。鏡花世界においては、いかに多くの美しき 妻が絶大の讃称を受る一方に、いかに多くの亭主が極端なる嘲罵をこうむるか。妻の美を高調す るために、亭主は薄野呂《うすのろ》で、やきもちやきで、鼻の下が長い事になる。こういう幾多の御亭主が、 作者の後光を身に浴びて美しい女房に、面罵され、まおとこされ、間抜けよばわりされる運命を 背負わされる。通俗小説|常套《じようとう》の手段は、佳人に配するに才子を以てするのだが、鏡花世界の夫婦 は大概不釣合だ。それは作者が、婚姻によって結ばれた夫婦を讃美せず、惚《ほ》れた同志の恋愛ばか りを美しいものとするからである。そこで美しい妻を婚姻によって得た亭主は、当然手きびしく やられるのである。またこの世界においては、亭主は女房に惚れているが、女房は亭主になんか |もんもん《やるせ》 惚れないのが多い。亭主を嫌う美しい女房に対して悶々の情遣瀬ない亭主は、度々先生の描くと ころとなった。要するに美しい女は芸術品に等しく、一人の人間がわたくしするのを許しがたし とし、公憤おのずから叱咤《しつた》するが如き文字を成すのであろう。  既に、女は美しければよく、学問教養の如きは全然無用だというのだが、そのかわり女は、美 しきが上に情熱を多分に持合せていなければならない。  「湯島詣《ゆしまもうで》」の主人公|神月梓《こうづきあずさ》は、仏蘭西《フラソス》で教育を受けた夫人を捨てて、数寄屋《すきや》町の妓《おんな》と共に死ん だ。その親友竜田若吉は、二人の女を対比して夫人を罵り、蝶吉《ちようきち》をたたえている。曰《いわ》く。   先方《むこう》じゃあ巴里《バリぎ》で、麺麭《パソ》を食ってバイブルを読んでいた時に、こっちじゃあ、雪の朝、顫《ふる》え てるのを戸外《おもて》へ突出されて、横笛の稽古《けいこ》をさせられたんだ。(略)同じ我々同胞の中へ生れ て来て、一方は髯《ひげ》を生《はや》して馬車に乗った奴に尊敬される、一方は客とさえいやあ馬の骨にま で、その笛を以て、その踊を以て、勤めるんです、この間《かん》に処して板挟《いたばさみ》となった、神月たる もの、宜《よう》しく彼を捨ててこれを救うべしじゃないか。(略) |総《すべ》て女学校の教科書が貴婦人に化けたような訳で、まず情話《のろけ》を聞かされると頭痛がして来る といやあ、生理上そういうことのあろうはずはない、といった調了だから耐《たま》った訳のもんじ ゃあない。 |鰹《かつお》は中落《なかおち》が旨《うま》くッて、比良目《ひらめ》は縁側に限るといやあ、何ですか、其処に一番滋養分がありま すか、と仰有《おつしや》るだろう。衛生|尽《ずく》めだから耐《たま》らない。やれ教育だ、それ睡眠時間だ、もう一分 で午砲《どん》だ、お昼飯《ひる》だ。お飯《まんま》だ。亭主が流行感冒《はやりかぜ》一つ引いても、真先に伝染性なりや否やを医 師に質《ただ》すような婦《おんな》を、貴婦人だって、学者だって、美人だって、年増《としま》だって、女房にしてい らるるもんか。(略) |然《しか》るに蝶さんに至っては、その今まで為《な》し来《きた》った総ての、いいかい。平ッたくこれをいえば 苦労だ。その苦労は殆ど天下に大名《たいめい》をなしたものの、堅忍苦耐した位なもんだよ、その閲歴 に対する報酬として、唯《ただ》、ひたすら、簡単に神月に見捨てられまいということを願ってまた 他意なきを如何《いかん》よ。その上に一意専念、神月のために形造るに到《いた》っては、男子|須《すべから》くこれが ために名と体とを与うべしさ、下らない名誉だの、財産だの、徳義だのに、毛一筋も払うも んか。  敢てそれは蝶吉のみではない。思う男のためには、一切をあげてたて引かなければならない。 何時でも命を捨てて惜まない覚悟が必要なのだ。  こういう女性にとって幸か不幸か、鏡花世界のいろおとこは、現代に生《いき》るべく余りにも無力で ある。意気地《いくじ》なく女に庇護《ひご》され、けしかけられ、励まされて、あやうく男の面目を保ち得《う》るよう なのも少なくない。恐らく、善玉と悪玉と、強い者と弱い者と、極端と極端を対比させる事を喜 ぶ先生としては、理想の女をこの上もなく引立たせるために、男を意気地なしにする事も必要な のであろう。  女性讃美者である泉先生が、今までに描いた女は幾百人か知らないが、先生の理想を身ひとつ に集める花形は芸者で、つづいてはおいらん、貴婦人、令嬢、おかみさん、むすめであるが、い ずれも若くて美しい事はいうまでもない。年寄は先生の好まないところだから、孫を可愛がり、 孫に慕われるおばあさんが稀《まれ》にあらわれる位のもので、大概は嫁をいじめたり、助平だったり、 強慾だったり、いい心がけの奴はいない。  初期においては、しばしば年下の少年に慕われる奥さんやむすめが、先生の思慕の情をほしい ままに受けていたが、特別に興味のあるのは、「照葉狂言《てりはきようげん》」や「髯題目《ひげたいもく》」の如き女芸人を主役に 持つものであった。それが明治三十年代になると、俄《にわ》かにおいらんが第一の座に直った。「風流 蝶花形《ふうりゆうちようはながた》」「辰巳巷談《たつみこうだん》」「通夜《っや》物語」などがその方の代表的のもので、案ずるに先生の新しい経験が、 取材の範囲を広めたのであろう。威張っている奴に反抗し、美しくして弱きものに同情する浪漫 派の詩人にとって、悲惨なるこの社会の女性は、哀切なる詩材を提供した。  おいらんの後を受けて、鏡花世界第一の人気者となったのは芸者である。「湯島詣」「起誓文《きしようもん》」 「舞の襟」にはじまって「嫩瀦麟」弛難課纏L「齔鷺」「日本橋」の如き名篇が生れ、その他芸者 がいい役廻《やくまわり》をつとめる作品は数え切れない。この連中もまた先生によって極端に美化され、いい 気持で鏡花世界を、我物顔に振舞っている。  江戸讃美、下町崇拝のあらわれとして、芸者の外に、挾《きやん》なおかみさんやむすめも描かれる。こ の階級の中でも「三枚つづき」の柳屋のお夏こそ、最も意気|旺《さか》んなるものであろう。無邪気で、 おきゃんで、我儘《わがまま》で、気が弱くて、そのくせ捨身になると何をしでかすかわからず、好きな人に は甘ったれ、嫌いな人にはつっかかるのが、その特質である。  そういう江戸下町の女に対して、一方には山の手の上流階級ー1時には郷里金沢の豪家1の 夫人や令嬢が、けだかい美しさをもって描かれる事もある。けれども、奥さん令嬢階級は、階級 として先生の讃美を受ける事芸者おいらんのようには行かない。まかり間違うと、忽ち嘲罵《ちょうぽ》の的 となる運命を免れない。即ち選ばれたる少数は素晴しくいいめを見るのだが、然《しか》らざる大衆は、 野暮と不粋の代表者としてやっつけられる。ましていわんや先生の嫌いな女学生は、人形芝居の おさんどんの如く人間ばなれをした取扱を受けねばならぬ。要するに、粋《いき》でたて引《ひき》を知っている 下町に対して、山の手は権高《けんだか》かったり、偽善だったり、みじまいが悪かったりして、作者の神経 を苛立《いらだ》たせ、公憤を燃え立たせるのである。何しろ、威張っている奴に対する反抗は頗る強く、 華族、金持、軍人、道学者などは、しばしば先生の筆端に揶揄翻弄《やゆほんろう》嘲罵冷笑される。それに対し て非現代的の英雄が一方にあって、白熱の意気をもって鏡花倫理を説き、さかんなる声援を受る 事、あたかも二つの超自然力即ち鬼神力と観音力の対立に等しい。  そうかといって、泉先生は必ずしも権力階級や金持に対し、ひたむきに反抗する心を持ってい る訳ではなく、理論的に攻撃する意志もない。むしろその反対で、二重橋の前を通る時は、どん なに酔っていても必ず脱帽し、貴族や金持に対しても、不当の尊敬を払うような危険さえ持合せ ているようだ。そうして見ると、先生の嫌うのはその連中の中にすっきりしない奴や威張る奴が 多く、そういう大面《おおづら》に対して、むらむらと癇癪《かんしやく》が起き、黙って許しては置けなくなるものらしい。  先生の心には、年季をかけた専門家に対する職業神聖論が潜んでいる。女の中で、特に芸者が 讃美の的となるのも、そのひとつのあらわれであるが、女の芸者におけるが如く、男性の中で最 上級の讃辞を浴《あび》るのは芸術家か、何か一芸に秀《ひい》でた人物である。「聾《つんぽ》の一心《いつしん》」以来名工は神の如 きうでを持ち、彫刻師広常の作った「ささ蟹《がに》」は、夜な夜な人の枕頭《ちんとう》を馳廻《かけまわ》る。「取舵《とりかじ》」の老船 頭の鍛練、「斧《おの》の舞《まい》」の老|棟梁《とうりよう》の意気、その他この一群に属する神人は頗る多い。やや近代的色 彩を帯びたのには、学士という一階級があって、その卵の官立大学生と共に、あやうく神にまつ り上られんとしている。傑作「風流線」の工学士|水上規矩夫《みなかみきくお》はその方の代表的人物で、脚本「日 本橋」四幕目第二場生理学教室は、その神人の道場の見本である。「婦系図」や「白鷺」に出て 来る紅葉先生の如き人物は殆んど尊敬の結晶で、その外めっかちの鉄砲の名人だの、庖丁《ほうちよう》とって は向うものなき魚屋だの、剃刀《かみそり》を持たせては無敵の床屋だの、それぞれの道における名人達人は 目白押に並んでいる。  鏡花世界に活躍する各種の人物を一々紹介していてはきりがないが、要するに先生の好きな人 問と嫌いな人間の対立で、一方が善玉ならば、片方は悪玉である。両花道からあらわれて、紛糾 せる境涯にさまざまの葛藤《かつとう》を演じ、一方は声援|喝采《かつさい》をうけ、片方は引込めくたばれと怒鳴られる 役廻を引受る。万一悪玉の力量絶群で、善玉の力及ばず、いつまでも舞台中央に踏みはだかって いると、作者は自身舞台にかけ上り、共に脚光を浴びながら、助太刀《すけだち》をして叩《たた》き殺してしまう。 登場人物は善玉か悪玉か、どっちかにきまっているのだから、その葛藤は事件としては複雑でも、 明治大正昭和へかけて幾多の小説家が苦心し、また得意とする心理解剖を伴わないから、解決に は手間を取らないで済む。彼らは素晴しく派手な衣裳《いしよう》を身につけて、色彩ゆたかなる絵画美を描 き出せば足りるのである。  先生は身辺雑記小説を書かないから、他の近代作家のように、生きている人間をつかまえてモ デルとし、写生的に描く事はしないが、そんならモデルは全然ないのかというと、随分大胆に使 っている。ただこれを描くにあたっては、自分の好むがままに善玉にし悪玉にしてしまうのであ る。自分は人生の従軍記者で、ただ目撃する事実を世に伝える事を職分とするといった自然派の 作家があったが、泉先生は冷かな観察者ではなく、また事実の記録者でもない。先生の態度は野 球競技の応援団のように熱情的で、活躍する選手を声援しないではいられなくなるのだ。しかも 先生の英雄崇拝は、一挙手一投足さえ美化しなければ止《や》まないのだから、先生の描く人間は、わ れわれと共に社会を営む人間のように、表裏陰影のある人間ではない。今日の社会状態には無関 .心、今日の政治には無関心、時には物を食う事さえないのではないかと思われるほど、穢《けがれ》を知ら ない人物が多い。ただ彼らは、強き感情の表現のために努力する義務を負わされているので、自 然性の如きはいさぎよく犠牲にしなければならないのである。  しかし、それだからといって、その人間が真実性をもっていないかというと、一概にそうとは 断言出来ない。彼らは精神的に生きる強い力を賦与されている。情熱世界におけるいき方を、わ れわれのために教えてくれる。だが、何といっても物足りないのは、あまりに単純なる善玉と悪 玉の対立に過ぎて、人と人との複雑な交渉、心理的の面白さを欠く点にある。殊に悪玉を描く段 になると、善玉に対する時のような熱情がないから、作者はいい加減にからかい、甚《はなはだ》しく滑稽《こつけい》化 して喜ぶ悪癖をあらわす。浪漫派の作者にとっては、熱情を失う事が何よりもおそろしいのであ る。  人間を思うがままの型にはめこんでしまう事は、先生の理想主義の結果であるが、既に性格描 写や心理描写にさほどの興味を感じない先生にとっては、それらの人聞を紛糾せる事件の渦中に 投じて、その場その場の驚くべき開展と共に活躍させなければならない。先生がヌウベルやコン トに大した面白味を感じないで、ロマンに終生努力を尽す所以《ゆえん》である。従ってその作風は、著し く物語風で、筋の変化を特徴とし、平凡人の日常生活には到底見出しがたい驚異的の事件が多い。 部分的には先生一流の主観客観いりまじった、自由奔放な印象の強い描写の筆をふるうが、全体 としては物語を主とする。たまたま大がかりな物語よりも、小品に近い小説もあって「女客《おんなきやく》」 「祝盃《しゆくはい》」の如き逸品があるのだが、先生自身はさほどに思っていない。それよりも話の筋で読者 を釣って行って、最後に得意の悲劇的頂点に引摺込《ひきずりこ》み、作者の感情を思う存分移入し、読者をし て鏡花世界の一員たらしむる事が目的なのだ。その点において、先生の素晴しい表現力は、いか なる場面をも意のままに描出《えがきだ》す。東西古今を通じて、泉先生ほど文字を以て自由に絵を描いた人 はない。色彩と香気と音楽と、巧妙に錯雑した描写は、人間|技《わざ》とは思えない。ただあまりに達者 |過《すぎ》るため、物語の頂点に辿《たど》りつくまでに、道草を食い、遊び過る感がある。殆んど無用に等しい 名文が、一篇の大部分を占める場合もないとはいえない。  先生が物語の作者であるひとつの証拠は、先生ほどのすぐれたる詩人にして、短詩形の詩の持 合せのない事である。先生の俳句は到底月並の域を出切れない。二、三の例をあげると、   撫子《なでしこ》やなほその上に紅さいて   ぽんぽりをかざせば花の梢《こずえ》かな   紅閨《こうけいか》に簪《ざし》落ちたり夜半《よわ》の春   よしありて卯の花垣のおもひもの  誰がこの生れながらの芸術家の息のかかったものと思う事が出来よう。そこには、もっとも安 手な型にはまったいうどりがあるばかりだ。短い詩形に盛るべき訓練を経ていないか、あるいは 先天的に、物語の筋をともなうにあらざれば、詩境に達する事が出来ないのであろう。先生は詩 人である。しかし小説以外の形式において、果して詩作し得られるかどうかは疑わしい。この事 実は先生が頭の天辺《てつぺん》から足のさきまで小説家であるという強味を示すものと見ても差支《さしつか》えない。  浪漫派の作家にとって熱情が生命である事は前にも述べた。しかし熱情は年齢と共に内部に潜 みやすくなるのが普通である。泉先生の場合にも作家生活の初期における如き一本気の熱情は夙《つと》 に力を弱めている。同時にまた感受性もその若さを失った。  人生における経験の浅い時代には、見るもの聞くものが珍しく、新しい事物はみんな栄養とな って肉となり、血となるが、その消化力はいつまでも続きはしない。たとえば泉先生の場ムロ、讃 美の対象たる女性は、年上の婦人、女芸人、おいらん、芸者と移って行ったが、時代の推移が新 しく生んだ女学生や、更にその次の時代の最も著しい特徴を持って生れた職業婦人やカフェの女 給は、遂に先生とは縁のない存在である。たまたま作中にとり入れられる事はあっても、先生一 流のいたずらをほしいままにさせる端役《はやく》に過ぎない。  おまけに一方では先生の理想主義が、早くも鏡花世界に立籠《たてこも》る事を要求するので、或時期以後 先生の作品の変化は消極的方面にしか開展しなくなった。空想は無限に延《のび》るといわれているが、 決して真実ではなく、その限界には直《じ》きにぶつかってしまう。むしろ現実は無限の進展を持つと いう方が真実である。  それは物語風の小説を作る人にとって、とかく伴いやすい危険であるが、泉先生の如き芸術至 上主義者さえ、あまりに読者を目安に置いていやしないだろうか。先生の談話筆記の中に、昔は 自分の作品を読んだ人が、嬲麗い、冷い感じに打たれて読後轡蹴を覚える事があっても一切御構 いなしだったが、それはよくないと気が付いて、なるべく快い心持を残すように努めているとい う意味の事があった。そのためであろう、時々とてつもないところに救いの神様が御姿を現わし て・結末を騨穿寛にしてしまう事があるが・先生の作品のひとつの特徴は、北国的の駿 と、錦絵や草艸紙《くさぞうし》に見るような残酷美の中に悩ましい詩境があるのであるから、先生本来の愛読 者はとってつけた幸福大団円などは望んでいないはずだ。もっともっと残酷でも、もっともっと 陰惨でも、構わないのである。鏡花先生独特の深刻美こそ、読者が待設けている所のものなので ある。  その他にもう一つ先生の敢てした間違は、本来の神秘主義を象徴主義へ進展させずに、怪談的 傾向に延長させてしまった事だ。それにはうでを頼む先生として、深山幽谷に神秘を描くのはわ けなしだから、ひとつ白昼日本橋の真中へお化《ばけ》を出して驚かしてやろうという心組があったので あろう。同時にまたこの傾向は、若々しい詩情を湛《たた》えた時代の憧憬は、容易に象徴世界に入って 行かれたが、年と共に心の柔軟性を失って、しかけ物のお化しか出せなくなったと考えてはいけ ないだろうか。  人は年をとるに従って感受性が鈍くなり、一本気の熱情を失うが、同時に観察の広さと省察の 深さを加え、人生を見る眼が円熟して来る。人生の味は老を加えていよいよ深まさるものらしい。 芸術家の中でも、肉体労働の最も少ない小説家の如きは、年をとってこそ始めて大きい仕事が出 来るのではないだろうか。それなのに、泉先生は年をとったといわれる事を何よりいやがる。た ぶん旅行先の宿屋では、十歳位さばをよむであろう。先生はいう、芸術家は年齢を口にしてはい けない、年をとったなんていう感じを読者に与えてはいけないと.、私はこの説に服さないもので ある。年齢に従って、書くものに色気のなくなるのは、如何にも防ぎきれないと思う。一方に失 うもののあるかわりに、他方に深き判断を得るのであるから、年をとってもちっとも驚く事はな こま《はずか》|や く、羞しがる事もない。世の味いはいよいよ深きを加え、豊かに細かなる観察と柔味《やわらかみ》を含む理解 同情は、作品に海の如き底力と、いぶし銀の光を与えるであろう。  しかし、色気を失うまいとする泉先生は、何処までも若々しい心持でいようと努めて居られる のであろう。そこに多少の無理があって、そのかみの純情の清さがなく、昔の熱情の本気がない。 感情のきめのこまかさがなくなり、しかも当然加わって来べき静寂の味があらわれない。  尤《もつと》もそれは小説の話で、感情の激越をめあてとしない随筆には、近来先生の心境のおちつきが |滲《にじ》み出して来て、この数年間に珠玉の如き名品が、つぎつぎにあらわれ、新たなる鏡花世界の魅 力を発揮している。  私はこの稿を起すにあたって、泉鏡花先生の作品研究と題し、出来るだけ多くの材料を集めた が、それを纏《まと》めるだけの時日を得る事が出来なかった。やむをえず題をあらためてその一部をこ こに記したのであるが、稿終って明治大正昭和にわたるこの巨匠の功績を数うる事の充分でなか ったのを何よりも残念に思う。 (昭和三年十二月二日)                            ー『中央公論』昭和四年三月号