はじめて泉鏡花先生に見《まみ》ゆるの記 水上滝太郎  十一月二十七日は記念日である。大正五年のその月その日、はじめて泉鏡花先生に御目にかか った。  小学時代に「誓之巻《ちかいのまき》」を読んで以来、先生の作品によって、自分はこの世に生れて来た甲斐《かい》の ある事を痛感した。其処に描かれたる純情の世界は、しばしば暗い心持に囚《とら》われて、捨鉢《すてばち》になろ うとする自分を救ってくれた。その感謝の意を表するためにも、一生に一度は御目にかかりたい と思っていたが、心置《こころおき》なくおつきあい願えようなどとは空想した事もない。その後自分が下手な 小説を書くようになってからは、かえって自分の鈍根を恥じて、この願望を押える心持が強くな ってしまった。未見の人、殊《こと》に先方が自分の尊敬する人だと、一層おたずねしにくいのである。 田舎から出て来るいわゆる文学青年などが、何処にでも大きな顔をして押かけて行くのを見ると、 自分などには到底及びがたい生存力を持っているように思われて不愉快になる。  なまじ小説なんか書かなかったら、存外気安く御目にかかる気になれたかも知れないが、紅葉 先生時代の作家のような苦心も為《せ》ず、それだけの腕まえもないのに、雑誌濫発時代の余沢《よたく》か、何 時の問にか一人前の小説家らしく扱われるようになったのは、かえりみて冷汗を覚える事である.、 冷静に考えてみて、自分の作品の中にひとつたりとも後世に残るべきものがあるか。どうせ一生 の修行には違いないが、それにしても余りに前途が遠過ぎる。処女作を発表してから足かけ十四 年になるこの頃でも、自分は人前で自作の小説の話をされると、不覚にも顔が赤くなる。幾年の 間、泉先生に御目にかかる事を恥じ怖《おそ》れていたのも、こういう心持が密《ひそ》かに潜在していたためで もあった。大正五年の秋十一月、外国から帰って来て間もなくの事、『三田文学』の産婆役の一 人だった慶応義塾幹事石田新太郎氏に対する謝恩会というものが、丸の内の中央亭で開かれた。 自分は旅疲をやすめるために湯河原に行っていたのだったが、沢木梢《さわきこずえ》氏から是非出席してもらい たいという手紙を受取って、その日あわただしく帰京した。集ったのは籾山庭後《もゐやまていご》、沢木梢、小泉 信三、孺耽躍、蔚灑釁畷、久保田万太郎、グ彩黏混、山崎俊夫の諸氏で、主として『三田文学』 をどうするかという問題について相談した。  その晩、久保田さんから、近いうちに泉先生を訪問しないかという誘《さそい》を受けた。その時の会話 は今でもよく記憶している。   「だって変じゃありませんか。僕なんかまるっきり御存じないんだから。」   「いいえ、泉さんはあなたを知ってるんです。」  久保田さんは自分の方が先達《せんだつ》である場合に必ず示す子供らしい嬉しさを顔にも声にもあらわし た。自分の留守中、泉先生の作品が出ると、漏れなく求めて送ってくれるのが久保田さんの引受 けてくれた役目だった。久保田さんは手落のないようにと常々心配していたので、何かの席で泉 先生に御目にかかった時、その事を御話して、万一漏れた物がありはしないかただしたそうであ る。その時自分の事を泉先生に事|細《こま》かに御聞きに入れたらしい。  「泉さんはあなたの帰って来るのを待っていたんですよ。」 と久保田さんは繰返していった。まさかにそんな事があろうとも思われなかったが、久保田さん の、ちっともわだかまりのない意気込んだ話振《はなしぶり》に、自分もすっかり嬉しくなってしまった。少し 厚かましい気もするけれど、では思い切って連れて行ってもらおうかという気になって、万事を 久保田さんに御任せした。  それから二十日ばかりたった二十七日に、久保田さんをたよりにして下《しも》六番町の先生の御宅へ 推参した。途中で久保田さんと待合せて電車に乗ってからも、麹町《こうじまち》の大通で電車を降りて中六番 町の方へ曲ってからも、自分の胸は平静でなかった。自分のような愛想気のない書生っぽは、一 度で落第してしまいはしないだろうかという不安があった。一芸に秀《ひい》でた人の前に出る自分の、 人間の出来ていない事はなさけないものであった。  遠くから見える大銀杏《おおいちょう》をゆびさして、  「あの樹《き》の下なんです。」 と久保田さんにいわれると、いよいよ動悸《どうき》が高くなった。  久保田さんの開《あ》けた格子《こうし》の中について入《はい》ると、玄関の障子《しようじ》をあけて取次に出たのは、銀杏返《いちようがえし》に 結ったちいさい女中で、それが引込むと直ぐに、先生が御自分で出ていらっしゃった。  「水上君を連れて来ました。」 と久保田さんがいってくれたが、先生はわれわれのようにぬうっと一カ所に足をおちつけて立《たち》は だかるような恰好《かつこう》はなさらない方で、おそろしく小刻《こきざみ》の足取りで、絶えず動きながら、  「さあ、まあお上り下さい、さあ。」 とこれもやや早目にいわれて、われわれが御免こうむって上ると、今度はまた非常なる勢で、と んとんとーんと二階に駆上ってしまった。決して広くない、随分急な梯子段《はしごだん》なのだが、その速い 事、非凡なものであった。  長火鉢《ながひばち》をはさんで、先生と奥さんが差向《さしむかい》でいらっしゃる景色の想像される茶の間を通って、二 人も二階へ上った。  二間つづきの三畳の方には、籐《とう》の寝椅子《ねいす》があって、その上に掻巻《かいまき》と枕《まくら》が、今まで人のいた温《あたたか》み の残っている形のままであった。あとで知ったのだが、これは万年床で、先生が毎日日課のよう に昼寝をし、また楽々と体を延ばして1読書もなさる場所なのである。  池田輝方《いけだてるかた》氏と蕉園《しようえん》さんの筆になる、桃の枝をつっこんだ塗手桶《ぬりておけ》を提《さ》げた若衆《わかしゆ》と、男人形を膝《ひざ》に のせて物思う娘のーたぶんお七吉三《しちきちざ》だろうというiー対幅《ついふく》のかかっている床の間には、籠《かご》花い けに投入れの秋草がさしてあった。  違棚《ちがいだな》には紅葉先生の御写真と全集が飾ってあって、お供物《そなえもの》がしてあったが、その中の盃《さかずき》にたた えてあるのはお酒かと思ったら、そうではなくて、紅葉先生の御好きだった緑のお茶だという事 であった。  あらためて久保田さんに紹介されて御挨拶《ごあいさつ》をしたが、その時不思議に思ったのは、泉先生のお じぎをなさる時の手つきだった。両手とも拇指《おやゆび》と他の指で軽い輪をこしらえ、甲の方を畳につけ て頭をさげるのである。これも後で知ったのだが、極端なきれい好きでかつもろもろの黴菌《ばいきん》を誰 にも増してこわがる先生は、畳の上に手をつく事を避けておられるのであった。  光琳《こうりん》風の楓《かえで》の葉が、朱や群青《ぐんじよう》や萌黄《もえぎ》の漆で描いてある大きな桐の火桶《ひおけ》をはさんで、口不調法な 自分は、先生が誘いをかけて下さる御話に持前の切口上《きりこうじょう》を気にしながら、気の利《き》かない事をいっ ていた。けれども自分が怖《おそ》れていたような窮屈なおもいや、身を恥じる心持なんか起させないよ うに、先生の御話は面白く練れたものであった。  東向の二階の縁側に近く、硝子《ガラス》のはまった障子《しようじ》にぴったり寄せた小机に、裸のままの硯《すずり》と、筆 が一本のっていた。それが先生の御仕事をなさるところで、ちいさい机は紅葉先生の遺品だとう かがった。  驚いたのはこの室の兎《うさぎ》だった。違棚《ちがいだな》にも、本箱の上にも、小机の上にも、数限りなく、耳をつ ったて、眼をくるくるさせてかしこまっている。手焙《てあぶり》がある、状さしがある、文鎮《ぶんちん》がある、香水 の瓶《びん》がある、勿論《もちろん》おもちゃは多勢《おおぜい》である。陶器のもある、木彫のもある、土細工もある、紙細工 もある、水晶のもある、硝子のもある、あらゆる種類の兎公《うさこう》だ。「女仙前記《じよせんぜんき》」や「後朝川《きぬぎぬがわ》」のよ うな兎の働く小説のあるのも無理はない。先生はステッキの頭にさえ、小村雪岱《こむらせつたい》さんの図案にも とつく銀の兎をつけて散歩の御伴を仰せつける。  先生は話|上手《じようず》だ。少しかすれた声が座談には持って来いで、紅葉先生御在世の頃の事をおたず ねすると、当時の文壇の有様や、作者の話をして下さる。水府《すいふ》の箱を膝《ひざ》のところに引つけて、合 間々々に吸われるが、とんと吸殻を灰に落して煙管《キセル》を手から放す時は、必ずその吸口に千代紙で こしらえた赤坊の小指ほどの筒をかぶせる。これもやはり黴菌《ばいきん》よけで、敢て煙管と限らず、鉄瓶 の口にもかぶせてある。もとより奥さんの御細工である。  お茶を飲む分量にも驚いた。焙《ほう》じた番茶の色も香も冴《さ》えたのを、幾度となく女中が連んで来る。 少しおかわりの時がたつと、先生は大きい声で催促なさる。尤《もつと》もこの番茶の焙じ方は、奥さんが 自得なすった秘訣《ひけつ》があるらしく、先生の御自慢である。誰が真似《まね》をしても、その色と香を出す事 は出来ない。  久保田さんは前に一度伺った事があって、その時はこの江戸っ子の口に合うようにと、鮪《まぐろ》のい いやつを刺身にし、外にも酒客の好物が数々並んだそうだが、あにはからんや久保田さんはなま 物を喰《た》べない人だったには驚いたと先生の御話だった。しかし久保田さんは人変酔って折からの 大雪に俥《くるま》を頂いて帰ったといっていた。  二時頃から伺って、余り長座は失礼だと思いながら、残り惜くて立てなかりたが、国貞《くにさだ》描くと ころの田舎源氏《いなかげんじ》の本の表紙の貼《はり》まぜの屏風《びようぶ》も暗くなったので、そろそろ御いとましなくてはなら なくなった。けれどもやはり帰りたくない。其処で先生が御用で階下《した》へ行かれた隙《すき》に、先生を何 処かに御誘いして、一緒に御飯を頂く事は出来ないだろうかと二人は相談した。  切出して見ると、先生はひどく困った様子で、実は今年は虎列刺《コレラ》が流行《はや》るので百日ばかりも外 には出た事がなく、殊《こと》に喰《た》べ物がこわいからうちでお豆腐と煮豆ばかり喰べて閉口しているのだ。 こんな場合でなければ勿論同行するけれど、もし差支《さしつかえ》がなければうちで何か差上げましょうと先 生はいう。無理に御勧めしても悪いと思ったが、そういう先生の様子に、誘われたのをきっかけ に思い切って外に出て見ようかしらという満更《まんざら》でもないらしいところが見えるので、黴菌の恐れ のない鳥でも煮て喰べるのなら間違いはないのではないでしょうかと思い切り悪く口説《くど》きたてて、 とうとう御一緒に出かける事になった。玄関で奥さんに御挨拶して、格子の外に出た。  何処に行こうというあてもないので、先生の御馴染《おなじみ》のところに連れて行って下さいというと、  「ほんとに鳥屋でよござんすか。」 と念を押して、昔から御贔負《ごひいき》だという大根河岸《だいこんがし》の初音《はつね》といううちに行く事にきまった。その頃の 初音は座敷の数も少く、女中もさっぱりしたみなりで、物静かに、客あつかいの親切なのが揃《そろ》っ ていて、大変気持のいいうちだった。胴の太い徳利の首のところの青いやつを、その後われわれ は青首と称して名物の一つに数えていたが、そのはかりのいいのには誰《、、、》しも感歎《かんたん》したものだった。 さもしい話だが、或時盃ではかって見たら、よその待合《まちあい》や料理屋などの一本半に匹敵した。  かねがね久保田さんは熱燗《あつかん》好きで、ぬるいのを好む自分はそれを「久保田燗」と称していたが、 泉先生のは熱燗を通り越した煮燗《にえかん》だった。ぐらぐら泡《あわ》を吹く青首の、とても素人《しろうと》には持てないや つを、指|尖《さき》でつまむようにして、  「なあに熱い方ならいくら熱くたって平気です。」 といいながら、お酌して下さるのであった。  お鍋《なべ》も強い火で煮詰めて、佃煮のようになったのに、多分に薬味をかけて、ふうふういいなが ら喰《た》べる。煮燗も佃煮も、案ずるに黴菌を怖《おそ》れる結果らしい。一体に生煮《なまにえ》が好きで、葱《ねぎ》なんかま だ真白いのに小口ばかりわりしたの滲《にじ》んだ位のが一番うまいと思うため、ついつい箸《まし》の動きの甲 くなる自分などと鍋をさしはさむと、先生はしばしば、  「こいつは僕のにして下ざい。」 と一区画しきって、ようやく思う存分煮くたらかしたのにありつく仕儀である。  誰に聞いたともなく、先生は非常な豪酒だときめていたところ、量は割ムロに少く、ほんのり御 酒が色に出ると、先生の御話はいよいよ面白くなり、自分はますます気が置けなくなって、何時 までもお別れしたくなくなった。  それで初音を出てから、もう一度何処かで飲まないでは納まらなくなった。  「弱ったな、また鳥屋なんだが、よござんすか。」 とその時往来のまん中で、少しふらふらしながら先生は立止った。この界隈《かいわい》ならどこでも御存じ なのだろうと思っていたので、実は意外だった。先生の小説で自分の閉口するのは、江戸趣味と いうのか江戸崇拝というのか、すくなからず気障《きざ》なところであるが、目《ま》のあたり御目にかかって 見ると、先生御自身には何の気取気もない、あけっぱなしの所がありがたかった。鳥屋で飲んで、 また鳥屋に行くというのも、つまらない事のようだが殊《こと》の外|嬉《うれ》しかった。  今度の鳥屋は金喜亭《ぎんきてい》というのだった。後藤宙外氏が『新小説』の主幹をしていた頃の御連中の 舞台だったそうである。  またお鍋がぐつぐつ煮詰り、熱燗の御酒の盃の数はいよいよしげくなったが、先生があの人と あの人と二人名ざした芸者はなかなか来なかった。それでは為方《しかた》がないから、その一人のうちの ちいさい子を呼んでくれと頻《しきり》に寂しがる。玄人《くろうと》讃美者として並ぶ者なき泉先生の御贔負《ごひいき》はどんな 人だろうという好奇心で、自分も少なからぬ期待を持っていた。「湯島詣《ゆしまもうで》」の蝶吉《ちようきち》「起誓文《きしようもん》」の し《しずおんなけいずつたしらさぎこ》|の お静「婦系図」のお蔦「白鷺」の小篠のような人でなければそぐわないと思うと、幾度となく繰 返して読んで、その人たちは生きて世の中にいるのと同じように親しくなっているのだから、今 晩こそめぐりあえるのではないかというような気もするのである。殊に「日本橋」と真正面から 看板をあげた大作は、舞台が舞台なので、清葉《きよは》もお孝《たか》もお千世《ちせ》も、其処いらの路地の奥から、駒 下駄《こまげた》を鳴らして、先生の御座敷と聞いて馳《か》けつけて来るのではないだろうかと想像していた。  とんとんと梯子段を少しせき心で上って来る気配がしたと思うと、すうっと襖《ふすま》があいて、若い 芸者が廊下に膝をついて行儀よく頭をさげた。  「しまった、こいつは勘定が違って来たぞ。」  裾《すそ》を引いて座敷にはいって来たのを見て、先生は仰山《ぎようさん》に驚いて見せた。お酌時分から刺身のつ まのようにはべったのが、何《、》時の間にかいっぽんになっていたのである。地蔵|眉《まゆ》の福徳円満な相《そう》 で、口数の少いおとなしそうなひとだった。年恰好《としかつこう》から押して行って、無理にもこの人をお千世 にしてしまいたかった。  間もなく、前後して二人のひとが来た。年は自分などよりも二っ三っ上らしく、一切のとりな りが一見してこの土地切っての大姐《おおねえ》さんに違いなかった。一人はすぐれて脊《せい》の高い、裾《すそ》を引いた 姿の素晴らしくいい人で、目にしおのある、鼻《、、》筋のいかつくなく涼しい線を見せた上品な人だっ た。   細《ほつそ》りした頬《ほお》に靨《えくぼ》を見せる、笑顔のそれさえ、おっとりして品のいい..rの姉さんは、渾名《あだな》を   令夫人という……十六、七、二十《はたち》の頃までは、同じ心で、令嬢といった。敢て極《きま》った旦那《だんな》が一   人、おとっさんが附いている。その意味を諷《ふう》するのではない。その問のしょうそくは別とし   て、爾《しか》き風采《ふうさい》を称《たた》えたのである。   優しいながら、口を締めてー透《とお》った鼻筋は気質に似ないと人のいうー1若衆質《わかしゆだち》の細面《ほそおもて》の眉《まゆ》   を払って…… と描かれている「日本橋」の清葉《きよは》に違いないと思った。  それは果してそうだったが、もう一人を同じ作中のお孝に比べて見たい興味から、そっと先生 に聞いて見たら、いいえ違いますという返事だった。この方は新橋とか赤坂とかいう官員や軍人 や成金の跋扈《ばつこ》している土地にはいそうもない、一口に芸者らしい芸者というような型の人だった。 話上手で、陽気で、目はしはききながら邪気のない、これは名だたる腕(、こきに違いないと思っ た。  前のは先生が十三年間変らずつきあっている人で、後のはそれよりももっと古く、むかし吉原 にいた十七、八の頃からの友達だと紹介して下さった。  「その頃この人が登張《とばり》に岡惚《おかぽ》れしましてねー」 などと先生はからかっていた。はっきりいえばこの二人は、日本橋の名妓《めいぎ》寿ゞ江《す え》とお千代である。  その晩先生はすっかり酔ってしまった。  「ちょっとでいいから鳴らして下さいな。」  これも後で知ったのだが、先生はよほど酔が廻って来ないと、そういう註文はなさらない。そ のかわり酔って来ると、どうしても音楽がほしくなるらしい。  坐り直して、真白ですべっこそうな膝子僧《ひざこぞう》のはみ出すのを、そばの人がかくしてあげる位いい |御機嫌《ごきげん》で、  「横寺町の先生は、何が悲しいといって、しののめのストライキほど悲しいものはないってい いましたよ。」  などといいながら、意外にも極めて通俗な、一時代前の流行唄《はやりうた》を、失礼ながら全くの無技巧で 一つ二つおやりになる。筆をとっては目もあやなる技巧派の本尊の、その無技巧がひどく嬉しか った。先生にもこうした所があるのかと思ったら、自分は尊敬の外に、限りない懐《なつか》しさを身に沁《し》 みて思ったのである。 (大正十三年七月四日)                             1『随筆』大正十三年八月号