根気くらぺ 水上滝太郎  昭和八年十月十八日の時事新報に「父と子の入れ替り」という漫画入の噂話《うわさぱなし》が出た。   宇野信夫といっても知っている人はあまりあるまい。苦節何年になるか、何しろ長い劇作の   隠忍時代から、いつまで経《た》っても浮ばれなかった人である。 というかきだしで、新潟にいる父親がリョヒオクツタスグカヘレとたびたび催促したあげく、勘 当の代りに禁足したところへ、築地《つきじ》座から電報で、戯曲「ひと夜」を上演したいという申《もうし》いれが あり、しかも師匠久保田万太郎氏が演出を引受けたから、息子よりもおやじの方が夢中になり、 即刻息子を引つれて上京し、目下毎日息子よりも先におやじが稽古場《けいこば》へ顔をだしては、久保田氏 に叱られているというのである。漫画の方は、久保田さんのつもりらしい肥った人物の前に、頭 をかいているのか顔をかくしているのか、おやじに違いない人間が、いずれも極めて拙劣な筆致 で描いてある。  宇野信夫君は、全く長い間勉強をつづけながら、認められない人であった。それはたしかにそ の通りだが、その外の事は例によって出鱈目《でたらめ》な捏造《ねつぞう》であり、現在父親は埼玉県熊谷にいる。新潟 は姉の嫁入先だ。今度「ひと夜」が上演される事は、もとより宇野君一家の喜びに相違ないが、 父親が息子を引つれて上京したとか、毎日稽古場に顔をだして叱られているなどというのは、大 嘘《おおうそ》である。凡そこの種の噂話は、面白さのためにはどこまでもうそっぱちを書くのがあたりまえ のように思われている。ついでにいえば、久保田さんは宇野君の師匠ではなく、彼にはむしろつ れない先輩だった。  宇野君がいつから、いわゆる苦節何年の勉強をはじめたのか知らないが、私のところへくるよ うになってからでも、既に数年は経つ。最初は突然戯曲の原稿を送って来たのである。当代には 珍しく、半紙に毛筆で、一字】句も書損じのない見事なもので、無類の悪筆に悩んでいる私は、 それを手にして驚歎《きようたん》した。読んでみると、江戸末期の芝居か草双紙《くさぞうし》の流れをくむものの如く、一 見|甚《はなは》だしく現代ばなれのしたものだった。しかし私には相当面白く思われたので、たしか鶴屋南 北《つるやなんぼく》の戯曲や月岡芳年《つきおかよしとし》の錦絵に比べて批評したように記憶する。直に、彼は別の原稿を持って来た。 驚いた事には、この能書家が、悪筆ぞろいの慶応義塾の学生で、国文学を修めているというのだ った。東京の下町の息子によくある型で、無意味にはずかしがったり、てれた風をしたり、頭を かいたり、叮嚀《ていねい》にかしこまっているかと思うと突然巻舌になったり、どこから見ても近代の学生 型からかけはなれた人物だった。私は、こいつエンコの与太者《よたもの》ではないかと疑った。  初対面のその翌日だと思うが、朝早くまたやって来た。私はつとめのある体なので、玄関で用 を済ませたいというと、昨晩はありがとうございました、これはつまらない物ですがといって、 ふろ敷を解き、紙に包んだ壜《びん》の形をしたものを差出した。私は、物品の贈答は面倒で大嫌いだか ら貰《もら》いたくないというと、いいえうちで出来たものですからといって、無理に置いて行った。あ けてみるとジョニイ・ウォオカア赤|標《ラベル》一本があらわれた。ウイスキイをうちでつくる奴がある ものかと家人と共に笑ったが、何かそうした出まかせも多分に持合せているらしく、いよいよ与 太者の疑を深くした。それ以来のおなじみで、度々遊びに来るようになり、来る時はきっと原稿 を持って来た。  彼には書きためた戯曲が沢山あるらしかった。浅草|界隈《かいわい》から隅出川《すみたがわ》へかけての風景をとり入れ たり、田舎のお寺を舞台にしたりして、おくみおとせといったような型の娘をまず登場させ、そ こに直助権兵衛や髪結新三《かみゆいしんざ》とつきあいのありそうなやくざがあらわれ、かどわかしだとか手込《てこめ》だ とかいう場面が展開され、無残に虐《しいた》げる事に深い興味を持っているように見えた。どこかに江戸 讃美論を高唱された頃の永井荷風先生や、嗜虐《しぎやく》性や変態|性慾《せいよく》に創作の基調を置いた時代の谷崎潤 一郎氏の影響もうかがわれ、浅草附近の市民生活の写生劇には、久保田さんにならうところもあ るようだった。その事を本人に話すと、実は最初久保田さんのところく、原稿を送って見てもらお うとしたが、相手にしてくれなかったというのだった。久保田さんに逢《あ》った時その事を話したら、 あああの筆で書いた原稿かと、それだけは覚えていたが、作品には全然感服しないもののようだ った。  私の所には若い文学者志望の学生が多勢《おおぜい》来るが、その人たちと比べて、宇野君は何ら共通のも のを持っていない。物腰、態度、趣味、嗜好、何から何まで右と左だ。試みに外国の作家の話を しても、殆んど何の知識もないように見える。わざと知らないふりをしているのかとも疑われた が、更に明治時代の我国の大家の作品を話題にしても、これまた何も知らないらしい。いったい 君はどういう作品が好きなのかと聞くと、西鶴《さいかく》や南北《なんぼく》は大分読みましたと答えた。突込んで聞い て見ると、近代の文学にはあまり興味を持たず、徳川期のものの方が心を引くらしく、談|偶《たまたま》々落 語講釈に及ぶと、待ってましたとばかり活気づき、完全に巻舌になって、蘊蓄《うんちく》を傾けた。口を開 けばプルウストを論じ、ジイドの言葉を引用する人々と、一致するはずがないのである。  ためしに彼の毛筆で書いた奇麗な原稿を、甲乙丙丁に読ませようとつとめたが、いずれもその 原稿の外形にあらわれている時代の古さに辟易《へきえき》して、手に取る事を肯《がえん》じない。たまに二、三枚め くって見ているかと思うと、忽ち放りだして、こう仮名を崩《くず》されては僕たちには読めませんよと 苦笑する。私は自分の認める宇野君の特徴をまず述べて、『三田文学』の編輯者《へんしゆうしや》に掲載を依頼し、 今日までに二っか三っは印刷になったが、いずれも編輯者の歓迎するものではなかった。私に対 する義理に過ぎないのである。あああの筆で書いた原稿ですかーこれが同人間の宇野君の作に 言及する時の表現となった。言葉の意味には価値判断はないが、その言葉を口にする時の態度、 語調には、軽蔑《けいべつ》するか、迷惑がるか、いずれかひとつを明示するのである。  しかし、宇野君の原稿で毛嫌《けぎらい》されるのは、ただにその毛筆、半紙、変体仮名のためばかりでは ない。作中に出てくる人物か当代の好みに縁遠いのである。ここには近代青年文士の好んで取扱 う種類の人間、たとえばダンサア、女給、有閑マダム、女学生、スポオッマン、会社員、労働運 動者、画家、詩人、小説家などは出て来ない。そのかわりに、人力車夫《じんりきしやふ》、行者《ぎようじや》、香具師《やし》、銭湯の 主人、映画館の下足《げそく》番、三味線ひき、お店《たな》もの、女郎あがり、だいこく、といった連中があらわ れる。それを戯曲の第一|頁《べ ジ》に見出す時、早くもうんざりしてしまう若人《わこうど》が多いのである。  いつの聞にか学校は卒業したが、いつまで経っても原稿はすらすらと活字になるに至らない。 大学校まで卒業して遊んでいてはいけないというので、父親の投資した丸之内の赤|煉瓦《れんが》の建物の 地下室の食堂の帳場に坐った事もあるが、もちろん失敗し、何とかいう大衆向娯楽雑誌の編輯局 員にもなったが、雑誌社がインチキで月給もくれない、八方ふさがりのていたらくだったが、そ の間いつも感心させられるのは実に書くことが好きなのだ。こんなのは駄目《だめ》だといって突返すと、 二度でも三度でも書直してくる。こっちが怠《なま》けて読まないでいると、忽ち五つ六つの戯曲が私の 机辺に積まれている。うまいまずいは別として、彼ほど制作を楽み、玉を磨くように自分の作品 をいつくしんでいる人は少ない。私はその熱心に同情し、何とかして世にだしたいと思い、若い てあいにはいくら勧めても駄目だから、年寄の方に目をつけて、久保田さんに頼んで見た。同じ く浅草に材をとり、これも今時の世の中のはなぱなしい表面には出て来ない人間を手がけるのだ から、多少のなさけはあるだろうとあてにしたが、いけなかった。あれは駄目ですよと一蹴《いつしゆう》され てしまった。この感傷詩人にとっては、宇野君の陰惨にしてややきたならしい感じのする戯曲が、 |疳《かん》にさわるもののように見えた。  そこで今度は手をかえて、『三田文学』以外の雑誌を目ざし『劇と評論』に掲載方を依頼した。 この雑誌の連中は、新らしがった事をいうけれども、根は古い教養に培《つちか》われた風があるから、密《ひそ》 かにたのむところがあったが、この方も何時まで待っても握りつぶしだ。どうでしょう、あの原 稿はいけませんかと、腫物《はれもの》にさわる気持で催促してみると、あああの筆で書いた芝居ですか、あ れは読みにくいのでつい見る気になりません、と極めてはかない返事だった。  手も足も出ないので、私も匙《さじ》を投げ、甚だすまない事だが、宇野君が原稿を持ってくると、思 わず舌うちをする気にさえなった。私は彼があくまでも戯曲の活字になる事を希望するならば、 まず明治大正昭和の我国の作家の小説を読み、西洋諸国の近代小説を勉強してみうと勧めた。あ まりに当代とかけはなれた彼の教養では、今日のジャアナリズムに迎えられる事は望めないから である。それはいいが、ここにおかしいのは、それと同時に今後原稿は、半紙に毛筆で書く事を やめて、普通原稿紙と呼ばれるものに、ペンとインキを用いて書く事を希望した。白い鴉《からす》は黒い 鴉より美しくとも、仲間はずれになる事を免れないから、せめては羽の色だけでも同じにさせよ うという老婆心だった。  宇野君は素直にこの勧告をいれ、図書館に通って読書し、ペンとインキをもって書くようにな った。次第に彼の作風も変り、今日この頃は、直助権兵衛の徒輩は出現しなくなり、世界は現代 日本になり切ったが、しかし彼が好んでつかんで来る市井《しせい》の悲喜劇は、常に陋巷《ろうこう》の無学文盲の連 中か、野心も贅沢《ぜいたく》もなく小体《こてい》に暮らしている小市民の、あと十年も経《た》てば完全にそういう型の人 間はなくなりそうな人々である。  そこで不幸にして世にあらわれない宇野君の戯曲の特徴をかいつまんであげると、時代は現代 に違いないが、丸之内や銀座の代表する新興現代ではなく、そういう新勢力に圧倒されて亡びゆ く前時代の名残《なごり》であり、場所は多くは浅草の裏手の方の路地の奥で、人物は無智で呑気《のんき》であると 同時に一面わるものの根性も持ち、助平でもあり、おしなべて道徳観が乏しく、久保田さんの描 く小市民ほど義理人情に拘泥せず、もっと卑俗|下賤《げせん》である。つまり社会の最下層の人生に、かな り鋭い眼を向けているのであるが、あまりに希望も野心も憧憬もない階級なので、明日に夢を持 つ人には、これが今の世の事とはおもわれないほどむかしの事のような印象を与える。彼はこの 湿地にうごめく人々に対し、義憤も発しなければ同情も示さず、あくまでも突放して書き、時に は悲劇を悲劇らしく見せず、わざとそらっとぼけたような態度で臨む事もある。  世の中なんてこんなものだぞ、どうにもなるものかという虚無思想もうかがわれるし、苦しん でいる人々の姿態の中に、嗜虐《しぎやく》性の満足を感じているのではないかと思われる節もある。従って、 彼の未発表の作品の中には、陰惨な人生のどん底の影の濃く漂うものが多い。しかし一面には江 戸児《えどつこ》の機智と諧謔《かいぎやく》を持っていて、裏長屋の人生にも、たくまないおかしさのある事を見逃《みのが》さない。 今日までの所、比較的評判の悪くないのは、この傾向の物のようで、今度の「ひと夜」の如きも、 陰惨の味に別れて、おかしさの明るさに移らんとする作者の一面を見せたもので、あるいはその 点が、築地座の好みにかなったのかもしれない。  場所は例によって浅草で、馬道《うまみち》辺の路地の奥と指定してある。登場人物は、日蓮宗《にちれんしゅう》の行者、銭 湯の主人(元は浪花節《なにわぶし》語り)、映画館の下足番、映画館の三味線ひき、三味線ひきの女房(元は牛 屋のねえさん)の僅《わずか》に五人だ。その五人の生涯にとって、恐らくは何ら重要な関係のない夏の一 夜のかかりあいを、写実風に取扱った味の軽い戯曲である。決して宇野君の代表作でもなく、力 作でもない。むしろ気楽な気持で書いたところに、淡い味があると見るべきものである。この戯 曲も、私の手許《てもと》に送り届けられた数十篇の中のひとつで、重量は乏しいが無難の作と認め『三田 文学』の編輯者に依頼して置いたので、近く掲載の運びとなっていた。ところが本人にしてみれ ば、いつも落第の不運に遭遇しつけているので、どうせ今度も駄目だろうと見切《みきり》をつけ、同じも のを『劇と評論』に投書し、それが珍しく採用されたばかりでなく、築地座の座頭《ざがしら》友田恭助《ともだきようすけ》氏と、 同座の文芸部員ともいうべき劇評家|大江良太郎《おおえりようたろう》氏の御眼鏡《おめがね》にかない上演と決し、同座の顧問格の 久保田さんが演出を引受ける事になった。  この話をきいた時、私は久保田さんにむかって宇野君の作品として「ひと夜」は決して上乗の ものではなく、あの程度のものなら十位あるというと、いいえ大江君の話では、今まで発表され たものは皆駄目で、今度のだけがいいのだそうだといってきかなかった。果して大江君は今まで の宇野君の作品を読んでいるかどうか、いささか疑わしく思うのである。しかし、本人の喜びは 非常なものだし、私としても長い間浮び上らなかったこの人の作品が、脚光を浴びる事になった のは何よりうれしい。来る原稿も来る原稿もいたずらに返送するばかりで、また来たかと眉《まゆ》をひ そめた私が、これでもかこれでもかと、ひたおしにおして来た宇野君に、根気比べで負けたよう な感じがする。「ひと夜」は傑作でも力作でもないが、この書く事の好きな、ねばり強い作者は 今度の上演を機として、ようやく世にあらわれ、将来もっといい仕事をしあげるであろう。 (昭 和八年十月二十一日)            i}東京朝日新聞」昭和八年十月二十八日・二十九日・三十日・三十一日