感謝 水上滝太郎  『小山内薫《おさないかおる》戯曲全集』の出版を記念するために批評を書かないかという勧説を受けたのは、た しか今年の初めであった。その時は、第一巻が出て間もなかった。  たった一冊出たばかりで批評なんか出来るものか、よしんば批評を求めるにしても私は適任で ない。むかしは向う見ずに劇評の真似《まね》みたような事もしたが、今は世の中が進んで、私の如き戯 曲構成の法則もわきまえない者が戯曲を評するような無鉄砲は慎むべきである。小山内さんの身 辺にはその道の研究者が沢山いるから、そういう人に頼むがよいと言って断った。  いいえ、そういう身内の人では正直な事をいわないからいけない。あなたのようなつかずはな れずの人に限るのですと、勧説者はあきらめない。  私はまた、一冊出たきりでは為方《しかた》がないといういいわけを繰返したが、その癖、もしこの際私 に人選をゆだねるならば水木京太氏か勝本清一郎氏が適任であると、友達の名を借《かり》て逃げた。ほ んとにこの二人の人は、ただに小山内さんの戯曲集を批評するのに適当であるばかりでなく、一 般演劇に関する学識と味到力《みとうりよく》において抜きん出て勝《すぐ》れている。いたずらにその背後にかくれよう としたのではないのである。  第一回の勧説は一時|逃《のが》れに逃れた。  数ヵ月後に第二巻が市に出た。熱心なる勧説者は再び訪れて、前言を繰返す。私は、たった二 冊出たきりでは材料不足だと抗弁したが、先方は頗《すこぶ》る口説上手《くどきじようず》で、遂に筆を執る約束をしてしま った。但し、私は批評は柄でないから、ただこの全集出版の機に際して、漫談か所感を述べるに |止《とど》めるという条件をつけた。  小山内さんは詩人として文壇に出で、短篇小説家として名を成し、戯曲作家演劇評論家として 聞え、殊に演出者として最も大なる力を示した。われわれの時代は、森鴎外先生によりて泰西《たいせい》の 戯曲を正しく紹介され、小山内さんによってその正しき演出を見る事を得た。このすぐれたる二 人の先達《せんだつ》がなかったならば、今日の戯曲、今日の劇評、今日の演出は、もっと幼稚であり、ある いはもっと邪道に踏迷っていたであろう。  まことに、自由劇場の運動は、我国演劇史上の革命であった。旧劇の衰勢を早からしめ、新派 に致命的打撃を与え、いわゆる新劇の簇生《そうせい》を促したのは自由劇場である。その運動が、当時芝居 に興味を持っていた文学者、文学青年に与えた影響は素晴しいものだった。泰西戯曲の演出の手 本だった。今まで文字によって理解していたイプセン以後の戯曲が、生きて動いてくれたのだ。 これを見た者は、生命の躍動を感じた。俄《にわ》かに戯曲作家たらんとこころざした人の数は恐らく少 なくないであろう。また人々は、始めて演出者の力を知った。芝居は役者さえうまければいいの だと思っていたのが、演出者の権威をはっきり認めたのである。  私個人の問題としても、一生の中で最も深い感激を受けた出来事であった。  かつて某雑誌の質問に対して、私は左の如く回答した。   問(一) 新劇運動の功労者は誰か。   答(一) 小山内薫氏。   問(二) 最も印象の深かった新劇。   答(二) 小山内薫氏の指揮監督したる自由劇場の抜群なりし事.、その他の劇団のいい加減な    りし事。   問(三) どんな俳優にどんな新劇をやらせて見たいか。   答(三) 小山内薫氏の指揮監督に絶対に服従する俳優をして小山内薫氏の選択する戯曲をや    らせて見たし。  これは今から五、六年前の事であるが、今日もなおこの間に対してこの答えは至当のものと信 じる。誰が、小山内さんの占める第一の座を譲れと主張し得るものぞ。  小山内さんは世にも稀《まれ》なる多能の人である。詩人で、小説家で、戯曲家で、評論家で、翻訳家 で、演出家である。どの方面においても勝れたる才能を示した。しかし、小山内さんの真の値打 と功績を、一言にしていいあらわそうとするならば、近代日本における演劇一切の指導者として のそれである。  もう一度はっきりいえぱ、小山内さんは、われわれの時代の芝居の指導者である。戯曲翻訳者 としての仕事、演劇評論家としての仕事、演出者としての仕事、戯曲作家としての仕事1それ らは総《すべ》て指導者としての仕事の一部である。  その一部の仕事だけで見ると、随分あきたりないところもある。たとえば、小山内さんは芝居 学の随一人で、学識と経験と味到力と併《あわ》せ得ていながら、理論を説く場合に脳裡《のうり》の総てを整然と 出し切れない憾《うらみ》がある。論争においては殊《こと》の外この欠点が著しい。正々堂々と押して行く論理の 道を辿《たど》らず、アフォリズムの易《やす》きについてかえって主張すべき事を主張し得ない事が多い。それ は都会人の弱味であり、詩人の弱味である。この点において、亡《なき》芥川竜之介氏と頗《すこぶ》る似ている。  小山内さんは詩人でありながら常に実行を尊び、実行に対する憧憬に熱情をそそぐ人である。 書斎裡の学者として閉籠《とじこも》ってはいられないのだ。自由劇場、土曜劇場、俳優学校、映画制作とそ の俳優の養成、築地小劇場などに力を尽し、犠牲を惜まないのはその精神のあらわれである。仕 事をするという事に対して、ひとつの宗教的熱情が燃え立つのである。同時にまた浪漫派詩人の 憧憬が伴うのである。かつて基督《キリスト》教を信じて内村鑑三氏に従い、戦時の昂奮《こうふん》に国民の熱狂してい る時、軍港に赴《おもむ》いて非戦論を説く師に一身を捧《ささ》げたのも同じ精神である。巣鴨の至誠殿とかにし ばしば歩を運んだのも、大本教《おおもときよう》に凝って正に綾部《あやべ》に立籠《たてこも》ろうとしたのも、身を以て描かんとする 詩と見て差支《さしつか》えない。一事に熱中してこれを行うためには、冷静なる判断と堅固なる意志を必要 とするが、小山内さんの場合には何よりも詩的情熱が湧《わ》き立つのである。この上潮《あげしお》に乗った時は、 一切他の事を顧みない。先年映画に熱中した頃は、極端にこれを讃美して戯曲をおとしめるよう な口吻《くちぶり》さえもらした。  そういう時には、ひどく浮気者に見える。しかし結局はまた芝居に戻って来る。芝居こそは小 山内さんの生れた家である。スウィト・ホオムである。米の飯である。長い年月の問には、時に 横道へ心のそれんとした事もあるであろうが、何といっても別れられないのは芝居だ。恐らく小 山内さんの今後の長い生涯においても、芝居と縁を切る事は不可能であろう。芝居がやがてその 墓標となるのであろう。  一般には、好きな道には溺《おぼ》れやすいものだ。溺れれば進歩は阻《はば》まれる。.ところが、小山内さん は常に新しい興味を求めて止《や》まない。今日もなお芸術に対して、少年の如き純粋の憧憬を失わな い。何か新しい演劇運動が起る。誰よりも早く、誰よりも正しく、理解し、歓喜し、そしてその 知識をわれわれぼんくらにも分かち与え、喜びを共にしようとするのが小山内さんだ。小山内さ んは我国の芝居の先達であるが、講壇で講義を売る教師の態度ではなく、全身をあげて自ら感激 し、詩をうたう陶酔をもって人に伝えるのである。  実行を尊ぶ小山内さんは、常に理想を持っている。明日の芝居だ。これは世上一般の実業家の 実行ではない。政治家の実行ではない。あくまでも詩人の冒険的精神にみちた実行である。愉快 に、しかし嶮《けわ》しい道を、小山内さんは今日まで踏んで来た。自由劇場も築地小劇場も、物質的に は恵まれないのだろうが、仕事としては成功した。われわれの時代の者は、ζれらの事業のおか げで、戯曲を見る眼、演劇を見る眼を開かれた。  それにもかかわらず、小山内さんの過去の姿を想い起す時、孤独な寂しさの中に立つのを見る。 世俗的には寂しいのだ。先駆者の免れがたい運命・であろう。彼《か》の文芸協会だの芸術座のように、 こっちから調子を低くして大衆の意を迎える事は詩人小山内さんには出来ない。詩人小山内さん の根本精神は、誰が何といおうとも、芸術至上主義だ。ジャアナリズムが今日の如く幅を利《き》かせ、 悪徳を瀰漫《びまん》させなかった時代の芸術家の持っていた生《き》一本の芸術尊重心が、世俗に媚《こび》る事を許さ ないのだ。ぼんくらはいくら馳出《かけだ》しても、先駆者の踵《きびす》に迫る事は出来ない。世間に理解がない。 自分には財力がない。頼《たよ》りにする仲聞が少ない。常に小山内さんを取囲むものは、実力なき若者 である。しかもこの若者といえども、先達の早い足並にはついてゆかれないで、何時の間にか置 いてきぼりになってしまう。そんな事には頓着《とんじやく》なく、小山内さんは前進する。時々は道に迷うか もしれないが、勇敢にかけつづける。行手には永久に満足を与えない理想が太陽の如くまどかで ある。小山内さんはそれを目あてにまっしぐらに進んで行く。追随者は息切れがして、大概途中 で道端《みちばた》の捨石に腰を下《おろ》す。  戯曲家としての小山内さんも、勿論《もちろん》我国の芝居の指導者たる事を裏書するものである。戯曲制 作にあたって、小山内さんの心には実行家としての興味と、詩人としての興味とが手を取って現 れる。実行家としての小山内さんは、戯曲構成の方法を理論から制作に移そうとする。余りに小 説的戯曲の多いのにあきたらないで、戯曲本来の性質から考えて、読物的要素の排除を企てる。 さまざまの形式の戯曲が試みられる。しかしその形式にぴったりはまる内容は、詩人小山内さん が提供する。戯曲全集を通読して、何よりも著るしい特徴だと思うのは、そのスタイルである。  かつて小山内さんの戯曲「第一の世界」の初演を見た時、私は蕪雑《ぶざつ》な批評を書いたが、その一 節を左に抜書する。   小山内さんは勝《すぐ》れたるスタイリストである。短篇集『窓』『蝶』『笛』その他を読めば、多種   多様の小説の形式が、模範的に示されている。.里見好みもあれば、芥川好みもある。菊池式   もあれば、久米式もある。平俗無器用鈍感を極めた作家の輩出した自然派全盛時代、平面描   写流行の第一の世界において、小山内さんが継子《ままこ》扱いにされたのはむしろ当然であった。小   山内さんにとっては、例之《たとえば》小説の材料甲乙丙は、各々その特殊の内容に従って、いずれも異   なる形式を自ら持っているのだ。その形式を適確に見出した時名作が生れ、その形式を見誤   った時、作品の出来栄《できばえ》は面白くない事になる。  これは小山内さんの短篇小説に言及したのであるが、戯曲においてもいろいろの形式が模範的 に示されている。『小山内薫戯曲全集』の面白さは、戯曲の形式にある。  旧劇畑の人は別として、いわゆる新しい戯曲の作者は、多くは小説家である。時に小説を書き、 時に戯曲を書く。一、二の例外はあるだろうが、大概は小説が本芸で、戯曲は余興めいている。 したがってその戯曲は小説的なのが多い。読むための戯曲だ。読む文学としては相当面白く、上 演すると構成上の破綻《はたん》があらわれて欠伸《あくび》の出るのが普通だ。其処に行くと小山内さんは、戯曲と 小説の異なる性質を悉《ごとごと》く知っていて、役者と演出者とその他の係の協力によって始めて完全なる 戯曲となる特質を明かにした。会話には動作と間《ま》が伴う事を、正確に予測している。読んではつ まらなくても上演すれば効果のあがる事が作者にはわかっているのだ。少し無理ないい方かもし れないが、戯曲は文学にあらずといっても差支えなさそうな際《きわ》まで進んでいる。  文字は極端に節約されている。その節約された文字に、いかなる動作が伴うかを想見する事の 出来ないものには、この全集を読んでも面白くあるまい。読みながら、舞台上の効果を想像し得 れば深い興味が湧《わ》く。白状すると、私は常に小山内さんの戯曲を雑誌で読んでさほど感心せず、 後に舞台で見るに及んで敬服する。私が、戯曲構成の骨法《こつぽう》を充分了解していないからである。  小山内さんの戯曲は、上手《じようず》のこしらえた建具の如く、ここちよく組立てられ、目的にしっくり はまる。多くの戯曲には、何処がいいとか悪いとか、一部分についていうべき事があるが、小山 内さんにはそれがない。どこもかしこも寸法がぴったりあっていて何のくるいもない。  『小山内薫戯曲全集』は啓蒙《けいもう》的意義を多分に持つ。かつて小山内さんによってイプセン以後の 戯曲の正しき演出を見せられたわれわれは、ここにまた戯曲の書方を教えられた。自由劇場の後 に幾多の新劇運動が起ったと同じように、近頃小山内さんの示した戯曲構成の手法を真似する亜 流の徒が頗る多い。模倣は概して卑しむべきであるが、正統なる戯曲構成法を学ぶことは結構で ある。私は小山内さんの戯曲を、小山内さんの多くの仕事の中の上位に置くものではないが、我 が国の芝居の指導者としての功績を、一層明かにしたものとして推称し、かつ深く、感謝するも のである。 (昭和二年十月四日) ー-「都新聞」昭和二年十月十八日・十九日・二十日・二十}日・二十二日