『三田文学』編輯委員隠居の辞 水上滝太郎  私は、今度『三田文学』編輯《へんしゆう》委員を辞する決心をした。他人にとっては何でもない事であるが、 私には感慨深く、おもいは筆紙に尽しがたい。  私のはなやかならぬ文筆生活も二十二年の久しきに及んだが『三田文学』はその揺籃《ようらん》であり、 苗床であり、母の懐《ふところ》であった。明治四十四年の春、処女作「山の手の子」を、当時の主幹永井荷 風先生に見て頂き、掲載を許されたのがはじまりで、大正五年|沢木四方吉《さわきょもきち》氏が主幹となってから は、殆んど毎月休みなき、一番熱心なる投書家となった。いちど、大正卜四年にこの雑誌は取つ ぶされたが、同人の協力で翌年復活し、爾来私は一ヵ月も欠かさず書きつづけ、同時に雑用も引 受けて今日に及んだ。  かえりみれば、私の文筆生活は『三田文学』のおかげで芽を吹いたので、これがなかったなら ば、生涯かかわりのない事だったように思われる。私は自分の才能の乏しさを知悉《ちしつ》しているので、 進んで文士たらんとするこころざしを持たなかった。もしも『三田文学』創業時代の嵐《あらし》が身辺に 起らなかったならば、私には創作の筆を執る機会は遂に恵まれなかったであろう。全く人の一生 は、思いもかけないめぐりあわせに支配されるものである。  怖々《こわごわ》永井先生の御手許《おてもと》に差出した「山の手の子」が、意外にも世間受がよかったので、私のか どでは幸運だったが、自分自身にはその好評に何らの根拠がないように思われ、些《いささ》かの自信も持 てなかった。その上当時は、欧羅巴《ヨーロッパ》大戦後の文壇好景気時代とは違って、文学では飯の喰えない のがあたりまえだったから、私は勤人となって、いわゆる二重生活の道をえらんだ。かくする事 が、かえって自分の文学をけがさずに済む賢い方法だと考えたのである。私は勤人としても鈍根 を免れなかったが、決して怠惰ではなかった。だから自分では、文学のために勤の邪魔をされた とは思わず、また人並以上に精力はつづいたから、勤のために文学が邪魔されたとも思わなかっ た。勿論《もちろん》時間の乏しさは常にかこちつづけたが、そのかわりに心にもない無理をして筆で稼《かせ》ぐ苦 痛は受けずに済んだ。私が『三田文学』のために、永年ただ奉公をする事の出来たのも、二重生 活の賜《たまもの》であった。万一筆で喰う気だったら、私といえどもこの雑誌のために無報酬で働く事は出 来なかったに違いない。その意味で、学校が力を入れなくなってからの『三田文学』にとって、 私の如き型破りの人間のいた事は、不思議な縁ともいうべきである。  そもそも『三田文学』復活運動の起った時、同人の多くは、伝統にしたがい、結束力を強め、 かつ責任を明かにするために、主幹を置く方がよいという意見で、年長の故《ゆえ》に私がその候補者に 推された。しかし学校当局は、教職員にあらざるものは不可なりという理由で許可しなかった。 久保田万太郎氏はこのいきさつを三田山上の大ホオルで報告し、私を呼ぶに精神的主幹をもって した。やむをえず、われわれは形式として委員制度を採用し、石井誠、井汲清治《いくみきよはる》、西脇順三郎、 |横山重《よこやましげる》、南部修太郎、久保田万太郎、小島政二郎、水木京太、水上滝太郎の名を並べ、日常編輯 その他の事務を取扱う人としては勝本清一郎氏をえらんだ。委員は雑誌の出るまではしばしば会 合し、いかにすれば経済がたつかを主として論じ合った。或人の如きは、雑誌を背負って街頭で 売ろうと叫んだ。私どもは先輩を訪問して寄附金をせびり、広告の掲載を勧誘し、また三田関係 の人たちや親戚《しんせき》友人に前金購…読者となってもらう事を再三依頼した。「精神的主幹」は、何より も物質上の心配に一番頭を悩ました。当時私の友人の中には、私が何か言おうとすると、また 『三田文学』の話かと先手をうって笑う者さえあった。  表面は委員制度だけれど、忙しい人間が年中寄合ってもいられないし、同人間の諒解もおのず から私を中心とするのをいい事にして、学校当局の認めない私が勝手に事を運び、幸いに大過な かったばかりでなく、今日の隆昌を見るに至ったのは、実は編輯事務担当者の功績である。この 点で『三田文学』は非常に恵まれて来た。我儘《わがまま》で、自主共同の精神に乏しい文学青年に、のべつ 無理解な悪口をいわれながら、割の悪い仕事を一身に引受けて来た人々のおかげで、この雑誌は 存続し、次第に基礎を固めたのである。私は歴代の編輯担当者、勝本清一郎平松幹夫和木清三郎 三氏に対し、あらためて感謝の意を表したい。  全く、復活当初の『三田文学』は、どの方面からも相手にされず、黙殺されがちだった。殊《こと》に われわれは、この雑誌を主として同窓の後進のための道場としたいと思っているのに、かんじん のその人たちの中には、世間でうたいはやさない張合いなさから、先ず軽蔑《けいべつ》の眼をもって見る傾 向が強かった。あたかもうすっぺらな同人雑誌の簇出《そうしゆつ》しはじめた頃だったから、或る利口そうな 学生の如きは、自分たちの抱負を語り、今更『三田文学』なんかを復活させたからって、われわ れ若い者は相手にしやあしませんよと、私どもの愚さを嘲笑《ちようしよう》した。当時はなやかな夢をいだいて いた若人《わこうど》たちは、その後どうなったか知らないが、苦節幾年というのか、今日の『三田文学』は 純文学雑誌として、ようやく広く認められるようになった。  もう大丈夫、よくもここまで持ちこたえて来たものだと思う安心と同時に、私は自分が非常に 疲れているのをはっきり知った。勤人としての私も一年々々忙しさを増し、殊に最近は地方へ出 張を命ぜられる事が多いので、毎月雑誌へ寄稿するのが苦労になって来た。何も毎月書くにはあ たらないではないかといわれれば正にその通りだが、私が『三田文学』の前金購読者を勧説し、 先輩に援助を求める時、毎号必ず書く事を誓ったのである。よく考えてみれば無意味な約束であ るが、私の心持はこれを果さないでは済まなかった。手前勝手に考えれば、こういう強情が経営 難の『三田文学』を今日まで存続させたのだといえない事もないようである。  それが年一年と無理になり、月々苦痛がはげしくなって来た。どんなものでもいいから〆切日 までに書くという事だけが当面の目的みたようになって、おざなり原稿ばかりつづき、予て書き たいと思っている長いものには、何時までたっても手をつける事が出来ない。義理を果すという だけで、楽んで制作をする熱もなければ余裕もない。その上に、雑誌を廻《めぐ》っての雑用と人事の交 渉が一層私の時間を喰い、責任感を脅かす。原稿の選択は主として編輯事務担当者が責任をもっ て行うのであるが、いろいろの関係から、採るか採らぬか相談の意味で、私の手許へ廻って来る のも少なくない。また事情を知らない人は、一切の仕事を私がやっているものと誤解し、直接原 稿を送って来るのも沢山ある。それを読み、短評を添えて返送する役目は随分つらい。就中《なかんずく》煩わ しいのは身の上相談だ。金策、就職、恋愛、結婚ーどれもこれも出来る事ならかなえてやりた いが、大概は心配を分つだけで力になる事が出来ない。「精神的主幹」もしばしば精神の疲労に 堪え兼ね、自分の『三田文学』に対する仕事は、文学ではなくて人事ではないかと疑う事もあっ た。  悲しい事には、私の肉体も精神も著しく年をとり、衰え、疲れやすくなった。無理がきかなく なった。それを自覚して、こいつはうかうかしていられないそと、深く考えるようになった。元 来私は、下手《へた》の横好きのそしりをまぬかれないが、文学が好きでたまらないのだ。他人の仕事に も十分興味を持つと共に、自分の仕事も楽みたいのである。それが、名は文学であって、実は雑 用に過ぎないようなこの頃の文学生活を、何時までもつづけていては、悔てかえらぬ事になりは しないか、先ず『三田文学』の雑務と責任から逃《のが》れて、自由|気儘《きまま》な立場となり、追いかけられる 気持を忘れて制作にしたがいたいと、切に願うようになった。この心持は、この二、三年絶えず 私を悩ましつづけて来たが、みだりに口外しなかった。今度編輯委員隠居の決心をしたのは甚《はなは》だ 唐突のようであるけれども、実はながらく肚《ほら》にあった事なのだ。深厚なる援助を賜《たまわ》った方々は、 私の心持を御諒察下さる事と信じる。  即ち私が編輯委員を辞するのは、もっと文学に親しみたいという心から出た事であって、文学 と別れる意味は毛頭ない。また編輯委員はやめても『三田文学』と手を切ろうというのではない。 雑誌に関する雑用から解放され、責任者としての重荷をおろし、もう一度昔にかえって、投書家 として迎えてもらいたいのである。それが私の我儘な希望であると同時に、明日の『三田文学』 のためにもよい事だと思う。  私は同人中の年長者の故に「精神的主幹」に推された。ところが、雑誌の性質として、年々若 い同人が殖《ふ》え、私と多数の人との年齢の距《へだた》りは次第に遠くなるばかりである。こちらには何のへ だてもない気持でも、時代の差が、年輪の差が、先方をけむったがらせる。それが雑誌の撥刺《はつらつ》た る飛躍をはばみ、精彩をくもらせる事は当然である。私の存在は、たしかに雑誌の無事を保証し、 軽浮に流るる事を救ったであろうが、清新の感じを奪った事も疑ない。『三田文学』は幾度も取 つぶされそうになったが、同人の頑張《がんば》りで動かしがたいものとなった。たとえば、その根を張る 時代に、私という人間が必要であったといっても差支《さしつかえ》ないであろう。そして、完全にその任務を 果したといっても叱られはしないであろう。けれども、既に枝は伸び、葉はしげり、今後は花を っけ、実を結ぶ時代となった。疲れたものには休息を与え、野心と希望に燃ゆる若い人たちが、 かわって努力すべき時が来たのだ。ひと息ついたらば、私も新生の歓びをもって、はなやかなら ぬ私の文筆生活の最後に、ひと花咲かせて見たいと思っている。長年私のために後援を惜まれな かった方々、並に同人諸君よ、私の愚かなる夢を笑い給《たも》うな。 (昭和八年十一刀六日) ーー『三田文学』昭和八年十二月号