人真似 水上滝太郎  ほんとの話か嘘《うそ》の話か知らないが、はなした人はほんとだといった。  或人が並ならぬ苦心をして育てた九官鳥を、差迫る入用のために人手に渡してしまった。よく しこんだ鳥だったから、多くの人間の言葉を、正しい発音で囀《さえず》ったそうである。殊《こと》に飼主は江戸 がった人だったので、「そいつあいけねえ」とか、「おらあ知らねえよ」とかいうような言葉をわ ざと覚えさせて、それが殊の外|御愛嬌《ごあいきょう》になった。手放した人は、いつくしんた鳥を忘れなかった。 約一年たって、九官鳥の品評会に行って見た。自分のしこんだ奴ならば、一等賞は間違いないの だがと、かえらぬ事を心に繰返していたが、はからずも其処でかつて自分の育てた烏にめぐりあ った。さすがにこの鳥の言葉数の豊富なのには、集まった愛鳥家も驚嘆したそうで、例の巻舌の 「おらあしらねえよ」などは、満場の楽しい笑声の中に、幾度となく繰返された。ところがこの 鳥は、むかしの主人の手を放れてから覚えた、更に手の込んだ芸当を、何よりも得意にしている のであった。それは流行唄《はやりうた》のひとくさりをうたうのであるが、折角の芸ではあったけれど、すっ かり東北|訛《なまり》なのだそうである。どんなうたをうたうのか聞漏《ききもら》したが、「さんざすぐれか、かや野 の雨か」とか、「君と別れて、まちばら行けば」とか、「花の咲かない枯ししき」とか、「シトト ンシトトン」というたぐいであろう。満場の愛鳥家は、ひとしくこれを惜しんで、この訛がなけ れば、天下の名烏だと異口同音に嘆じた。投票の結果、僅《わず》かにサシスセソの発音が正しくないた め、第一席を他の鳥に譲ったのである。むかしの主人は腹立たしいほどなさけなかった。我慢が 出来なくなって、もしも自分にこの鳥を貸してくれたら、きっとサシスセソの発音を正しく直し て見せると申出た。現在の持主は洒脱《しやだつ》な人で、何のこだわりもなく、自分の失敗を笑ってのけて、 ものはためしだから、むかしの主人の申出を承知した。十分自信を持つむかしの主人は、久しく |行方《ゆくえ》の知れなかった、我子にめぐりあったような喜びで、九官鳥をあずかって帰ったその日から、 夢中になって訛の匡正《きようせい》にとりかかった。しかし、いったん覚え込んだものを忘れるのは難《むずか》しいも のと見えて、さすがの名鳥も如何してもいう事をきかない。全く新しい外の言葉ならば、いくら でも覚えるけれど、一度|沁《し》み込んだ訛の匡正は遂に成功しなかった。  この話をきいた時、座に居るものは一斉に九官鳥の間抜《まぬけ》を笑った。  「いくら悧巧《りこう》でも鳥は鳥かな。」 などとすまして葉巻の煙を吹く人の言葉にも、歴然たる九州訛はあったが……  私は、この話をきいた時、ゆくりなくも、前夜読んだ雑誌『文藝春秋』に載っていた一文のほ んの僅《わず》かなる文句を思い出した。   赤門は友情、三田は師弟、早稲田《わせだ》は数で押す というのである。九官鳥の話とは、少々趣は違うけれど、人真似《ひとまね》の哀れと可笑《おか》しさにおいては全 く同一なので、はからず思い出したものであろう。  赤門は友情、三田は師弟|云々《うんぬん》という言葉は、『文藝春秋』の寄稿家の文中に見出すよりも、数 カ月前に報知新聞の文芸欄に、加藤武雄氏の寄せた感想文申にあった。それは、私が雑誌『随筆』 の大正十三年八月号に書いた「はじめて泉鏡花先生に見《まみ》ゆるの記」「永井荷風先生招待会」「或日 の小山内先生」を読んだ事を最初に記し、三田は金力を背後にしょっていうためか、師弟即ち縦 の関係で、赤門は友情即ち横の関係だが、ひとり早稲田は数ばかり多くて、一致団結していない というような意味のものであった。加藤氏の用いた言葉をそのままに記憶していないが、大体間 違いはあるまいと思う。それを読んだ時は、「何を出鱈目《でたらめ》をいってるんだ」と一笑に附したが、 驚いた事にはその後何かの新聞か雑誌で、赤門は友情、三田は師弟云々という文句を発見し、更 に『文藝春秋』で、三度目の驚きを重ねたのである。  『随筆』に寄せた私の文章は三つとも独立のものであるが、いずれも平生《へいぜい》尊敬する文壇の先輩 に対する思慕《しぼ》の一端を書きとめたものである。  まだ小学校に通っている頃から、私は泉先生の作品を愛誦《あいしよう》した。著しく暗い心持に悩まされた 時代にも、人間の情熱の詩を描く天才の芸術によって生甲斐《いきがい》を感じ、救いの道をひらかれた。従 って先生に対する私の尊敬と感謝とは、筆にも言葉にも尽くせないものである。殊《こと》に最近十年間、 親しく先生の御宅にも出入し、日常生活においては、始めて所帯を持った時にも並ならぬ御世話 を頂き、毎度御菜の御裾分《おすそわけ》にもあずかっている。  けれども、先生と私との関係は、果して師弟の関係であろうか。尾崎紅葉先生と泉先生、ある いは小栗風葉《おぐりふうよう》、柳川春葉《やながわしゆんよう》諸氏の関係は、まさしく師弟の関係である。幸田露伴《こうだろはん》先生と、米光関月《よねみつかんげつ》、 |田村松魚《たむらしようぎよ》諸氏の関係は、確かに師弟の関係であった。けれども、泉先生と私との関係は、全然そ れとは違う。私が先生に教を受ける事は頗《すこぶ》る多いが、それは日常おつきあいを願っているうちに |自《おのずか》ら学ぶところのもので、先生もまた取るに足りない私如きをさえ、友達としてつきあって下 さるので、決して弟子にのぞむ師匠の態度ではない。心持の上から、私は先生の弟子であると名 のりをあげても差支ないが、それは余りに芝居がかった見栄《みえ》に過ぎないであろう。  また、泉先生が三田の人でない事は今更申すまでもないが、私以外の三田の人も、決して私と 同じ態度をもって先生を見てはいない。もとより一切の偏見を捨ててかかれば、誰しも泉先生を われわれの時代の巨匠として尊敬しないではいられないはずだから、いわゆる三田派の久保田君 も宇野君も南部君も小島君も井汲《いくみ》君も水木君もその他の諸君も、先生の芸術を尊敬するには違い ないが、その中の多くの人はiーもっとはっきりいえぱ久保田君以外の人はー平素親しいおつ きあいのない人ばかりである。どうしてそれが師弟の関係といえるだろう。  それならば永井荷風先生はどうであろう。明治大正文学史を胸に描く時、最も華々《ほなばな》しい活動を した人の一人として、明瞭《めいりよう》に先生の姿を思い浮べる。小島政二郎《こじままさじろう》君のいわゆる自然派横暴時代に 敢然として他になお広き芸術境のある事を力説し、豊麗|極《きわ》まりなき作品のうちに、犀利《さいり》透徹せる 社会批評を盛って、われわれの生活を豊かにした功績は、他に比ぶべき人を見出さない。文学史 上の運動としては、外にも特筆すべきものは沢山あるが、永井先生の場合は、徹頭徹尾、集団の 力を借りない一騎うちだった点において類がない。私は先生の作品に感服すると同時に、その人 格を限りなく尊敬するものである。幸《さいわい》にも先生は、三田の文科の教授として数年間居られたので、 当時理財科の生徒だった私は、傍聴生として親しく先生の講義を拝聴した。「永井荷風先生招待 会」の中に書いてある通り、私が小説を書くようになったのは、全く永井先生が三田に御出《おい》でに なり、『三田文学』が目の前に出現したからである.、この意味において、私は先生の弟子だとい うを憚《はばか》らない。もしそれが師弟の関係と言うべきならば、夏目漱石先生とその教を受けた赤門の 人々、島村抱月《しまむらほうげつ》氏とその講義を聴《き》いた早稲田の人々との間にも、師弟の関係はある。否々、関係 はもっと深いものであろう。とりわけて三田は師弟といわるべき筋合ではない。殊《こと》に私よりも後 に学校に学んだ人の多くは、不幸にして永井先生に親しく教を受ける機会さえ持たなかった。も しもほんとに永井先生が、師の弟子にのぞむ態度をもってわれわれを導いて下さったなら、われ われの幸これに越した事はなかったろうが、遺憾ながら先生は永く三田の山の上に止《とど》まらなかっ た。  三田は師弟の関係だという言葉、文壇における処世の型として見ても、永井先生と私並びに他 の三田の諸君との間には、殆ど脈を引いていない。永井先生は党同伐異を極端に嫌《きら》う方である。  小山内先生に対しても、私は限りなき感謝の念をいだいて居る。先生は我が劇壇の先駆者で、 いわゆる新しい芝居の運動は、先生の力によって始めて実際上の効果を挙《あ》げたというべきで、今 日いっぱし劇を論じ、脚本の制作に従う人の多くは、小山内先生の呼吸《いき》のかかった人間ばかりだ といっても差支ない。  先生も暫《しばら》く三田の山の上で近代劇の講座を担当された。久保田君も水木君も宇野君も三宅君も、 その他多くの人が直接教を受けた。しかしながら先生は、決して三田派の統領ではない。『三田 文学』との関係も、永井先生のように密接ではない。教授としても、外様《とざま》たる事を免れなかった。 何事にも拘泥しない先生の性質は、三田とか赤門とかいう、狭い意味の言葉で呼ばるべき立場に はいないのである。久保田君や私は、久保田君のいわゆる小山内党の有力なるものであるかもし れないが、それでも師弟の関係と特に呼ぶべき間柄であるかどうかは疑わしい。もしわれわれが 小山内先生の御弟子ならば、吉井勇氏も、長田秀雄氏も、久米正雄氏も、あまり違わない程度に おいて、師弟の関係のある人といわなければなるまい。ましてやわれわれより若い三田の人々は、 |遥《はる》かに先生とは縁が遠くなっている。そこまでひっくるめて、師弟の関係を押広めて行くならば、 『新思潮』の人々も、師弟の関係にありといわなければならない。早稲田の島村、相馬《そうま》、中村の 諸氏と、後進の人々の関係の如きは、更に遥かに密度の濃い師弟の関係にあるものといわなけれ ばならない。  もしも三田は師弟の関係云々という言葉が、『随筆』に載せた拙文を読んでの思いつきならば |甚《はなはだ》しい間違いである。他に三田は師弟の関係という言葉のあてはまる事実があるだろうか。世 間でいわゆる三田派といえば、久保田君と私を古参として、あとは南部、小島、宇野、三宅、井 汲、水木その他の諸氏であるが、この顔触を見渡して誰が師匠で誰が弟子であるか、みんな一列 に並んで勉強しているので、むしろ加藤氏がいう所の横の関係にありといわなければ当らない。  もっとはっきりといえば、私の如きは、友達同志集って互に研究しあう事は別として、文壇処 世術として、縦だろうが 横だろうが、政党屋の心|懸《が》けるような関係などは大嫌いだ。芸術に志 す者は、ひたすら忠実におのれ一個の道を拓《ひら》いて進むべきだと思っている。  何時までもくどくどとこんな事をいうのも面白くない。加藤氏のふと思い浮ぶがままに用いた 言葉が当を得ていなかったとて、さしたる問題ではない。三田は師弟の関係だとさと笑って済む 事である。  しかし、この不用意の言葉が、忽ち人真似をする連中によって、広められるのは寒心に堪えな い。平生《へいぜい》、雑誌や新聞を余り沢山は読まない私の目にも、既に上記の如く、一度ならず発見され たのだから、あるいはまだ外にもかかる言葉を何らの反省もなく用いている人があるかもしれな い。そして、東北|訛《なまり》を覚え込んだ九官鳥が、遂に正しからぬ発音を忘れる事が出来なかったよう に、一度誤り伝えられた言葉が、存外根強く広まって、遂に消しがたきに至らないとも限らない のである。些細《ささい》な事のようではあるが、後日のために一言弁じて置きたい。 (大正十三年十二月 二十一日)                            1『三田文学』大正十四年一月号