はせ川雑記 水上滝太郎  ひと昔前の事、たまではあるが籾山《もみやま》書店へ行くと、眼つきの凄《すご》い、異様に顔の赤く、ひとくせ ある番頭さんが、いつも挨拶《あいさつ》してくれたが、それが誰だか、ながいこと知らなかった。たまたま、 大場白水郎《おおばはくすいろう》宗匠の句集|上梓《じようし》をよろこぶ会が田端《たばた》の自笑軒で催された時、このひとくせある面魂《つらだましい》の 人物を、世話人の中に発見した。  「あの人誰だい、始終籾山書店で見る顔だが……」  「長谷川春草《はせがわしゆんそう》。」  隣席の久保田|傘雨《さんう》宗匠は、あれを知らないのかというように、きっぱり答えた。  「ああ俳人か、うまいのかい。」  よくない事だが、俳句のことは何も知らないので、私はしばしばこういう頭の悪い質問をする。 たとえば、甲宗匠と乙宗匠とはどっちがうまいのかとか、大場白水郎宗匠はほんとにうまいのか とか、現在生きている俳人では誰が一番うまいのかという類《たぐい》である。いずれも傘雨宗匠にきくの であるが、最後の質問の場合だけは実にはっきりした回答を得た。曰《いわ》く、  「久保田万太郎がいっとううまいのであります。」  考えるまでもなく、めいめいの持味が違い、芸風が違うので、はっきり優劣をきめる事は無理 だし、善玉悪玉のように、うまいまずいのふたつに分《わけ》るのは不可能に相違ないのだが、素人のか なしさで、かんたんにきめてかかりたいのである。またひとつには、大方の俳句の面白さがわか らず、反対にいやみの方ははっきり感じるところから、反抗心がこういう口をきかせるのであろ う。たしかに不心得な事で、よくないとは思いつつ、永年のかたぎとなった。  その時傘雨宗匠がうまいと答えたかまずいと答えたか、うまいけれども自分よりはまずいと答 えたか記憶しないが、その後『俳諧雑誌』や『春泥《しゆんでい》』——われわれの仲間はひそかに「はるど ろ」と呼んでいる——で、春草宗匠の句を拾って見るが、もとより私にはわからない。沢山ある 中から、わざわざ拾いあげるのは、あのひとくせある面魂の人間は、どんな句を作るのだろうと いう好奇心のさせるわざである。  その宗匠が籾山書店を勇退しておでんやをはじめるからよろしく頼むと、傘雨、白水郎二宗匠 に紹介され、元来のみくいは好きだから、爾来時々御世話になる。この方もいたって散文的で、 むやみに分量を多く頂くだけで、うまいかまずいかは他人にきかなければわからない。尤も、先 頃或多人数の会合で卓を共にした食通甲と乙が、しきりに銀座|界隈《かいわい》のうまいものやを論じたあげ く、甲がはせ川で喰《く》えるのは釜飯《かまめし》だけだというと、乙は心外に堪えぬ面持《おももち》で、  「困るなあ、こういう男は、江戸前の料理がわからないんだから。」 と歎息《たんそく》するのを聞いた。信頼して然《しか》るべきであろう。  上方料理をよろこんで喰い、江戸前の料理の何なるかをわきまえない私がはせ川へ行くのは、 あのひとくせある面魂の人間が、どんな様子で商売をしているかという好奇心に、一番強く誘引 されるためらしい。  いったい小説家、えかき、役者といったような種類の人の経営するたべものや、のみやの類は、 開店早々の新聞雑誌の宣伝は賑《にぎや》かで、ひとしきり義理と面白ずくの客でたてこむが、元々芝居気 と自惚《うぬぼれ》ばかり強くてどっとしないのが本質だから、あまり長続きしないのを例とする。よく見る 景色で、主人が客と友達づきあいで飲んでいて、ふりの客をかえりみないのなどは、何のための 商売か本心がわからない。  「俳人のおでんやなんて感心したものではないぜ。」  はせ川の場合にも先ず憎まれ口を叩《たた》いてから出かけた。うちは奇麗で、静かで、場所がいい。  銀座の無秩序無反省な雑沓《ざつとう》をはなれた出雲橋《いずもばし》のたもとで、窓をあけると三十間《さんじゆつけん》堀が目の下に澱《よど》 んでいる。もろもろの汚物の沈んで流れない川底のどぶどうの発散する臭《にお》いは、私を幼時の追懐 に誘惑する。この臭いは、昔東京の到《いた》る処でかいだ臭いだ。明治のはじめまで、三十間堀には蓮《はす》 が咲いたそうだがそれは時代が違う。私どもが知ってからは、あれから木挽《こびき》町|築地《つきじ》へかけては、 新興日本のハイカラな洋風と、つめたい水の香をほのかに感じさせる寂しさをないまぜにした景 色だった。私を可愛がってくれた母方の祖母が、木挽町の河岸《かし》に住んでいたので、祖母や伯父に 手を曳《ひ》かれてこの辺を歩いたものである。私ははせ川へ行くと、冬でも必ず窓をあけて、向河岸《むこうがし》 の家々を眺《なが》め、橋の上を通る人を見、どぶどうの臭いを深く吸い込むのである。その臭いは、あ まりに強く濃くない限りは、決して悪いものではない。支那料理の前菜に出る皮蛋《ピータソ》の香気と同じ だ。  おでんやとはいうものの、わん、さし、酢の物ひととおりは出来て、お酒も結構だ。ただ私の 経験では、甚《はなはだ》しく出来不出来があり、一番評判のいい釜飯さえ、ぐしゃぐしゃのに出会《でくわ》した事も ある。或時は甘く、或時は辛く、味のきまらない傾向もある。これは、ここに集まるお客の中心 が、いずれも一見識ある宗匠連で、ああでもないこうでもないのおさしずがうるさい結果ではな いかと邪推する。というのは、或日の栄螺《さざえ》の壷焼《つぼやき》のつゆがあんまりあまからいので不審をうつと、  「壷焼というものはこうあるべきが本格だと、さるお客さまがおっしゃいますので……」 と宗匠は持前のいんぎんていねい過《すぎ》るものこしで答えた。察するところその客は、縁日の夜の大 道で幼い日に喰べた壺焼の味をなつかしがる江戸子《えどつこ》であろうが、酒の肴《さかな》となるべき場合、殊《こと》に料 理屋風のぎんなんだのみつ葉だの景物の多い壷焼は、当然うす味でなければならないのではない だろうか。  とはいうものの、これは春草宗匠の直接負うべき責任ではない。何故ならば宗匠はお茶を汲《く》ん だり、お燗《かん》をつけたり、サアヴィス専門で、みずから庖丁《ほうちよう》はとらないからだ。但しそのサアヴィ スぶりについても、私は満点を与えない。何がいけないかというと、いんぎんていねい過ぎ、腰 の低|過《すぎ》る事が、私どもをくつろがせない。おでんやのあるじの腰の低いのが悪いはずはないが、 どうもあのひとくせある面魂で、  「へいさようでござんす。」 などと揉手《もみで》をされたり、膝《ひざ》っ子の下まで手をさげて挨拶《あいさつ》されると、正直のところうす気味が悪い。 御近所の御婦人方が沢瀉《おもだか》やにそっくりだと評判するそうだが、なるほど肩幅の広い、がっしりし た、四角い感じのするからだつき、殊にあの凄《すご》い眼つきは猿之助《えんのすけ》だ。だからふた心をいだいてい るのではないかなどという悪態をつくのではない。野人礼にならわず、いんぎんていねい過る相 手は苦手なのだ。  はせ川の柱かけに岡本癖三酔《おかもとへきさんすい》宗匠の句がある。   坐れば沈丁花《じんちようげ》の風がまともに  例によって私には、うまいのかまずいのかわからないが、ここに癖三酔宗匠の筆蹟を見るのも なつかしかった。  岡本さんは私の兄の、慶応義塾幼稚舎から本塾へかけての友達で、よくうちに遊びに来た。兄 と私とは七歳違うので、その友達どもは私を馬鹿にしてからかい、怒らせて喜んだ。かんしゃく 持の私は縁側のうすべりのおもしにかってある鉄の棒を振廻して、泣きわめいた。五歳か六歳頃 から小学時代へかけての私の記憶にも、岡本さんの姿は他の人々と違う特別のものとして残って いる。角力《すもう》をとったり、陣取をしたりしている仲間を、岡本さんだけは築山《つきやま》の上にしゃがんで、 冷かに見下していた景色がはっきり想い浮ぶ。画をかいたり、歌や句を作る事がはやり、岡本さ んは皆から一枚|上手《うわて》の役者として尊敬されていたようだ。岡本さんはよほどませたこどもだった らしい。早くも外のこどもたちと同列の事は馬鹿々々しくなってしまったらしい。学校なんかに は、まるっきり興味を失ってしまったらしい。よくうちに泊って、翌朝兄は几帳面《きちようめん》に登校するの に、岡本さんはそのままうちにいて、朝飯をくい、昼飯をくい、兄の帰るのを待っている事もあ った。今でも岡本さんの話が出ると、  「あの子は憎らしい口をきく子だった。せっかくお菓子を持って行ってやっても、三人に三つ ずっというように割切れるのは気持が悪いなんていってね。」  母はきまってそれをいって笑う。  塾の運動会の時、学生がくじを売り、当りくじの人には、菓子をくれるというような事をやっ ていた。岡本さんはかけっこが早いので、きっと勝つから岡本さんのくじをひけと兄がいうまま に期待をかけた記憶がある。その時岡本さんはだん袋のようなシャツにだぶだぶの下ばきという 異風で、びりっこだった。子供心にそれが岡本さんの芝居で、わざと負けたもののように思われ た。同じく運動会当日学生が新聞を作って売ったが、これも岡本さんの仕事だったと覚えている。 「児戯珍報」というのだった。  その後兄たちは廻覧雑誌風のものをつくっていた。勿論《もちろん》岡本さんが筆頭で、既に本気になって 俳諧の道に入っていたのだろうと思うが、小説もかかれた。その頃の私にとって、小説をかく人 というものの偉さは、絶大のものだった。兄の友達にそういう偉い人があるという事だけで、胸 が躍《おど》るようだった。  中学の頃、机を並べた疋出《ひきた》朱泉さんから、岡本癖三酔がいかにすぐれたる俳人であるかをきか され、かつてその人を自分も知っていたという事にほこりを感じ、わかりもしないのに『癖三酔 句集』を買って長く所蔵した。そういう因縁で、坐れば云《うんぬん》々の句にもなつかしさを感じたのであ る。  昨年の冬、親類の親のないこどもたちをつれてラグビイを見に行き、帰りにはせ川でおでんと |釜飯《かまめし》をおごる事になった。同勢十二人がぎっしりつまり、こどもたちは靴《くつ》を脱いで、窮屈に坐っ た。最初のうちこそ遠慮もあり、脚《あし》がしびれて参っていたが、外の御各の帰った後で、みんな土 問へ下《お》りると、一度|箸《はし》を置いたのまで元気をとりかえし、釜飯のおかわりをし、おでんのしこみ も残らず平げてしまった。  翌日こどもたちから、それぞれ礼状をよこした中に、小学六年生のが色鉛筆ではせ川内部の絵 を描き、   坐ればしびれて見えず沈丁花 とふざけて来た。  後日春草宗匠にその事を話したところ、  「いや、この方がうまい。」 と、ひとくせある面魂に似ず、いとも朗《ほがらか》に響く声でうけて笑った. (昭和七年四月十八日) 1[、春泥』昭和七年五月号