紅蓮洞 水上滝太郎  人を呼ぶのに「氏」とか「さん」とかいうのは普通であるが、或場合にはこれあるがためにひ どくそぐわない感じを伴う事がある。紅蓮洞《ぐれんどう》坂本易徳氏の場合も正《まさ》にそれだ。もしやむをえずさ んづけにしなければならない時は、略してグレさんという外はない。世間は悧巧《りこう》だ。紅蓮洞さん と呼んだ人を私は知らない。グレさんで通った。稀《まれ》に坂本さんと呼ぶ人もあったかと思うが、そ んなら誰がそう呼んだか私も記憶しない。私自身が、時々そう呼んだ事だけはたしかであるが。  紅蓮洞自身が人を呼ぶのに、敬称を用いるのは福沢諭吉先生だけだった。福沢先生だけは、福 沢先生とか、あるいは単に先生といった。若い時に三田の山で親しく教を受けた時のならわしが 消えなかったのであろう。外の人はすべて呼びつけだった。第三者の話をする時は、その名前を いうか、しからざれば「あいつ」だった。面とむかって居れば「あいつ」が「お前」に変るので ある。  私は紅蓮洞の閲歴を知らない。明治以前の出生か、明治|生《うまれ》かも審《つまびら》かにしない。明治二十一年に 慶応義塾を卒業した事だけは、手近にある同塾の卒業生名簿で知った。これによって推測すると、 明治以前の出生らしい。  出生地については、  「俺は江戸子じゃあないよ。」 と自分でいっていた。そんなら何処の産《うまれ》だと訊《き》くと、  「麻布《あざぶ》だ。」 と羞《はずか》しそうに答えた。紅蓮洞は人一倍羞しがりで、かかる時酒さびの滲《にザ》み出ている顔面にうすく 紅を潮するのであった。  「麻布なら江戸でしょう。」 と重ねて訊くと、  「べら棒めえ、麻布なんざあ江戸のうちにゃあへえらねえんだ。」 と吃《ども》りながら見栄《みえ》を切った。  十数年前、われわれが学生時代に聞いた話では、紅蓮洞は塾の文学部長川合貞一氏などと同時 代の秀才で、就中《なかんずく》数学の天才と称されたという事だった。誰から誰に伝《つたわ》ったのか知らないが、意 外な話だった。当時、紅蓮洞は既に酒毒の廻った人間になっていて、数学などとは縁もゆかりも なさそうな柄だった。  紅蓮洞の名は夙《つと》に雑誌や新聞で承知していたが、親しく風貌《ふうぽう》に接したのは、明治四十三年に 『三田文学』が生れてからである。文学会の講演会や茶話会には欠かさず姿を見せた。九代目団 十郎に比べた人のあったほど異色ある長面《ながおもて》で、その筋肉のすべてが病的に弛緩《しかん》し、爛《ただ》れていた。 |甘郎《あまろう》の一族然たる顎《あご》を撫《な》でながら、何時も着流しで、よいよいじみた足どりで瓢然《ひようぜん》とあらわれる のであった。  慶応義塾の学生は、むかしは和服の着流しだった。嘘《うそ》かまことか、学生に袴《はかま》なんか無用の贅沢《ぜいたく》 だと福沢先生がいったというのである。大学部は申すまでもなく、普通部の生徒さえ袴をつけず、 中には絹物ずくめで雪駄《せつた》をちわ.らつかせて教場へ出る者も見かけた。紅蓮洞もその時代の心持を 失わなかった。  「袴なんか穿《は》く奴は神田《かんだ》の書生だ。」 とすくなからぬほこりをもっていい切っていた。  先輩紅蓮洞の慶応義塾の昔話は面白かったが、いかなる会に出て来ても、会費を払ってくれな いのには弱った。もともと切詰めた会費だから、一人でもたかられては閉口する。したがって紅 蓮洞の出現は歓迎出来なかった。どうして嗅《か》ぎつけて来るのだろうとか、何とかして会のある事 を知らせない工風《くふう》はないものかというような冗談をいいあったものだった。かまうもんか、無理 にも会費を取ってやれというので、一人が近々と進んで請求した事があった。紅蓮洞は色をなし て、  「ねえ。」 と一言の下にしりぞけた。恐らく彼は何処へ行っても木戸御免で、会費なんか請求された事はな かったのであろう。しかし、さも威勢よく「ねえ」とはいったものの、間の悪さはかくせなかっ た。前にも書いた通り、私は紅蓮洞を羞しがりと睨《にら》んでいた。「ねえ」という一言も、その外に 手がないからいったまでで、紅蓮洞の本音ではないと思った。  そういう風に敬遠しながら、われわれの仲問は紅蓮洞を嫌ってはいなかハ、た。落魄《らくほく》の一生では あったが、肚《まら》の底には旧幕時代の武士の持っていたような意地があった。痩我慢《やせがまん》があった。私は そこが好きだった。  紅蓮洞が、どういう風にして衣食の資を得ていたのか今以て私にはわからない。学校を卒業す ると、ちょっとの間土佐の中学の先生になったそうだがつとまらなかった。  「教師なんて、俺の性分に合わねえんだ。」 と自ら称していた。  その後はたぶん文筆をもって稼《かせ》いだのであろうが、国木田独歩氏などと共に『戦争画報』の記 者たりし外に何を職としたか知らない。新聞や雑誌に時折短い雑文を書いたのは見たが、かさだ かな稿料の酬《むく》わるべき質でも量でもなかった。勿論《もちろん》まとまった著述などはなく、何時かあらわし たはずの短文集の如きも、本文よりは文壇知名の数十氏の序文によって有名だったのだ。ここに あらわしたはずとしたのは、私はその広告を見たばかりで、実物を見ていないのである。果して |上梓《じようし》されたかどうか一脈の疑さえ持っているからである。  紅蓮洞は小説も戯曲も書かなかった。批評も筋の立ったものはなかった。徹頭徹尾雑文に終始 したのである。若い時はいざ知らず、後には文学そのものに興味を持っていたかどうか疑問であ る。彼の興味は文壇劇壇だったらしい。しかしその文壇を罵《ののし》っても、女優の内輪話をしても、堂 々と圧《お》して行く力がなかった。息が続かなかった。持崩《もちくず》しただらしのない生活と、病気のためか 酒のためか、しゃっきりしない体とは、到底努力を要する仕事には堪えられなかったのである。  結局紅蓮洞は、文筆の士だったかどうか疑わしい位だが、文壇の人ではあった。こういう不思 議の存在は他にも例がある。何ら筆の上の功績はなくても、単に文壇づきあいの上で、いっぱし 大家らしく思われ、自分でも大家らしく振舞っている人がある。しかし紅蓮洞の文壇における存 在は誰よりも寂しかった。彼はどんな会合にも顔を出す事と、その特殊の風采《ふうさい》と、家を成さない 事と、のんだくれと、その他文学そのものには何の関係もない奇行逸話によって文壇の人だった のである。  したがって紅蓮洞の文学談は文壇人の噂《うわさ》が多かった。誰某はけちん坊だとか、誰某は何とかい う女文士に手を出したから怪《け》しからんとか、誰某は義理知らずだから嫌《きら》いだとか、誰某は偽善家 だから面罵《めんば》してやったとかいう類《たぐい》の事ばかりだった。何処で探して来るのか、そういう種類の材 料はふんだんに持っていた。  「まさか、そんな事はないでしょう。」 と信じがたい噂に反問すると、  「ううんや、ほんとだ。おおおれが知ってる。」  大きな口を堅く結んで力んで見せる。一度で信じないとひどく自説をけなされたように思って、 |俄《にわ》かに巻舌の度を加え、手を振りながら喋《しやべ》るのであった。そういう時、外の人だとうるさい感じ を与えるはずだが、紅蓮洞の姿はやはり寂しかった。世の中を罵る事によって僅《わず》かに自分の立場 に安心を見出そうとするのに、それを否定しまたは疑う者のあるのは許しがたいに違いない。彼 の吊歡する心持は講ヴべきである。私は常に同情をもって紅蓮洞の伊ガを聴いた。 紅蓮洞は慶応義塾を愛した。恐らく文壇よりも彼の心に触れるものが多かったのであろう。そ のためか、文壇の話よりも慶応義塾の古い話の方が面白かった。誰彼の容赦なく悪口をいった彼 が、福沢先生の事になると、心中の尊敬をかくし切れなかった。  小泉信吉氏が一時塾長となり、改革ぶりが学生の喜ばぬところとなって騒動の起った時の話も 紅蓮洞得意の出物《だしもの》だった。彼は小泉塾長の宅を訪れたのである。  「おおおれは小泉の味方だったのだが、せんせい酔払ってるもんだからみさかいがつかねえん だ。ブランデエの壜《びん》をひっつかんで玄関に出て来て、俺をぶんなぐろうとするのには驚いたよ。」 としかたぱなしで聞かせた。紅蓮洞は小泉家の当主信三氏を知っているために特別の面白さを感 じるらしく、度々この話を繰返した。  私はこの騒動の真相を知りたいと思っている。或人の説によると、一度小泉氏を塾長にして見 たものの、福沢先生にも多少姑根性があって、学生側の不平に油をそそいだ形がなくもなかった という。私にはそれが戯曲的の面白さを覚えさせた。  小泉氏がブランデエの壜を手にしてあらわれたというのは、有名なる酒豪で、一冂一壜を傾け たといわれ、比較的に若くて死んだのもそのためだという位だから、紅蓮洞が訪問した時、たま たま杯を手にしていたのであろう。非常なる美丈夫だったと聞くから、玄関に立ちあらわれた姿 は凄《すご》かったろう。未だ若かりし紅蓮洞がいちもくさんに逃げて帰ったのを想像すると愉快である。  慶応義塾は偉い実業家を沢山出したので、紅蓮洞もその方面の先輩の名前や顔をよく知ってい た。同時代の人の批評をするのもひとつの楽みだった。  「藤山は頭がよかった。」 などと顎《あご》を撫でていた。  そうかと思うと、或大会社の主脳者をつかまえて、  「おめえ今何している。」 と問いかけ、その人が会社に勤めていると答えると、  「外交員か。」 とたたみかけ、重役だという返事に驚いた話もあった。  「あいつは頭の悪い奴だったが、会社なんてものはあんな奴でも結構つとまるんだなあ。」 と、私が会社員なのでいやがらせをいったものだ。  慶応義塾には評議員というものがあって、それが亜米利加《アメリカ》などのように金を寄附する役目をし ょって甘んじているのではなく、常に姑の位置を保ってうるさく口を出すものらしい。大分近年 は非難の声が高く、騒動|好《ずき》の学校なら夙《とう》に問題を惹起《ひきおこ》しているはずだが、事を好まないこの学校 では精神的怠業の形をとっているようである。その評議員の選挙に、我が紅蓮洞は多大の興味を もっていた。あんな奴を選挙してはいけないとか、もっとわけのわかる奴を出せとか、かげで力 んでいるばかりでなく、自ら選挙開票に立会った事もある。自分も評議員になりたかったらしい。 文学部出身者が気を揃《そろ》えて投票したらどうかなる位の夢は見ていたらしい。開票に立会った時、 紅蓮洞の外にはたった一人しかいなかったそうである。  「どうも塾の奴は不熱心でいけねえ。」 と慨嘆していたが、それでも、  「俺に投票した奴もいやあがった。」 |そうごう《くず》 と相好を崩した。私は常に紅蓮洞のために清き一票を惜まなかった。  紅蓮洞がどうして暮らしていたかは私の不思議とするところだが、或人にきくと、女優たちの |巾着《きんちやく》からみつがれるのだという話だった。果して真か偽か、私は保証しない。彼は年中貧乏して いたにもかかわらず、他人にねだりがましい事をしなかった。勿論《もちろん》電車賃や烟草《タバコ》代や飲代《のみしろ》位はあ っさりねだったろうが、少なくとも、それをいさぎよしとしない所があった。だから、かえって みつがれる事になったのかも知れない。紅蓮洞と女とはよほど縁遠く思われそうで、その実彼は 女性愛護者の一人だった。女にはひどく親切だった。その味方だった。  或時代に、新しい女と呼ばれていたはねっかえりがあった。何の素養もないくせに音楽会を催 して独唱を聴かせたり、芝居をして見たり、そうかと思うと忽ち人の妾《めかけ》になったりして、しきり に噂《うわさ》の種子《たね》を蒔《ま》いた。その女を、紅蓮洞は言葉を尽してかばっていた。  「あいつは馬鹿だ。人がよすぎゃあがるんだ。」 というような事を繰返していた。その女はたやすく男の自由になる。或大劇場の重役と関係があ った。それで、普通ならば別れる時には金にこだわるはずなのに、何の要求もしずに綺麗《きれい》に身を 引く。紅蓮洞はそれを馬鹿だ、人がよすぎると荒々しい口調でいいつつ、心中|大《おおい》に称讃《しようさん》していた のである。  かつて私のところへ小説の原稿を持って来た女の人があった。その小説は十七、八の娘の手に なったものとしてはしっかりしていた。一、二の作は私が紹介して雑誌に載った。紅蓮洞はその 人を何処かで知って、何とかしてものにならないものかとしきりに力瘤《ちからこぶ》をいれていた。真面目《まじめ》に 勉強すればいっぱしの作家となるべき人だったが、雑誌記者になり、新聞記者になり、やがてぐ |ひきまゆげあつおしろいほおべに《じようせきどおり》 れてしまったらしい。一、二度、引眉毛厚白粉頬紅という定石通のモダアン・ガアルになりすま し、好みの悪い洋装で、金があって道念のなさそうな男とつるんで歩いているのを見たが、その 後の事は知らない。紅蓮洞に訊《き》いてみたら、  「あいつは淫売《いんばい》になりゃあがった。」 と忌《いまいま》々しそうにいってのけた。  或時、婦人雑誌の女の記者がたずねて来た。夏の事で、御手製らしいうすっぺらな洋服で、そ の洗濯《せんたく》もあまり行届いてはいなかった。中年の女の洋服を着ているのは大概|田舎者《いなかもの》に限っている が、その人も上野《こうずけ》か下野《しもつけ》かあっちの方の訛《なまり》のひどい言葉で、しきりに小説を寄稿しろと勧めた。  「あたくしまだこういう仕事に馴《な》れませんのよ、いったい如何したら書いて頂けるんでしょ う。」 などと、白粉の厚い顔を傾けて質問した。私は、多忙で執筆の時間に乏しくかっ婦人雑誌は好ま ないという理由で断った。その翌日、紅蓮洞がひょっこりやって来た。  「おい、昨日洋服を着た女がやって来たろう。あいつは俺が差向けたんだ。」  新米の女の雑誌記者にからかい、またその女の様子を私がいやがるに違いないというところに 興味をもって、あいつに書かしたら偉い、うんといわせたら一人前だなどとけしかけたのであっ た。  「変な奴だったろう。え、変な奴だったろう。」  さも面白そうに笑っていたが、  「けれどもなあ、書く気があるなら書いてやれよ。」  不馴《ふなれ》な女記者のために承知しろと、しまいには真面目になっていった。紅蓮洞の本音なのだ。 その時は、彼が私に対するたった一度の訪問だった。  紅蓮洞は、何時も洗いざらした着物に兵児帯《へこおび》をしめ、ちびた下駄をひき擦《ず》っていたが、たった 一度背広の服を着たのを見た。昔のものをつづらの中からでも引張り出したのか、あるいは誰か に貰《もら》ったのか、借着か、色の褪《あ》せた紺無地で、ネクタイは茶色のを結んでいた。ひどく似合わな かった。平生《へいぜい》の紅蓮洞にはありあまるほど異色があったので、あたりまえのみなりをしてはかえ って可笑《おか》しかったのである。本人もひどく羞《はずか》しそうに、置きどころのない手を、しきりにネクタ イに持って行った。  その後ルパシカを着て歩いている時代もあった。最初その姿を見たのは報知講堂で、新派の若 手の勉強芝居のあった時だ。やや濁りを帯びた緑色のルパシカを着て、労農|露西亜《ロシア》然たる面魂《つらだましい》に 見えた。紅蓮洞は子供のようににこにこして、大勢に取巻かれていた。新しいこの服装は、某夫 人からの贈物だという事であった。どうも女の人に可愛がられる性質をもっていたようである。  大正十二年の夏の事であった。浅草の公園劇場で岡田夫人の「黄楊《つげ》の櫛《くし》」を上演した時、私は 作者や久保田万太郎氏と共に見物した。場内で紅蓮洞といっしょになった。開演中に、誰が聞込 んだのか、有島武郎《ありしまたけお》氏が軽井沢で心中したという噂がわれわれの耳に伝えられた。有島氏はかね がね謹厳な人として通用していた。文壇の消息通こそ、彼《あ》の女|此《こ》の女と怪しいと、三、四の人の 名をつらねて話のたねにしたようだが、女性の崇拝者の多い作者に対する嫉妬《しつと》か、からかって面 白がろうという無責任ないたずらだろうと思っていた。殊《こと》に心中とは突飛《とつぴ》過ぎて信じられなかっ た。  「まさか。」  私ははっきりそういった。  「いいえ、読売新聞の記者から出た話なんです。相手は例の夫人だそうです。」 と一大事に遭遇した人に特有の呼吸の切迫した様子で確説する人もあった。当時二、三の新聞が 堂々と誤報した如く、美貌《びぼう》で聞ゆる某代議士夫人が相手だというのであった。その夫人と有島氏 との間がただ事ではないという噂はしばしば聞いていた。やはりほんとだったのかとつぶやく人 もあった。  幕問《まくあい》はその話で持切った。久保田さんの贔負《ひいき》にしていた浅草のうまいもの屋先代まるきの亭主 は奇声の持主だったが、平生有島氏を崇拝していたものか、すっかり昂奮《こうふん》して、  「えらい方《かた》ですねえ。どうも実に偉い方ですねえ。」 と上《うわ》ずった調子で繰返し繰返し、人々の問を泳ぎ廻った。あれだけの資産とあれだけの声望のあ った人が、女のために命を捨てて惜まなかったのが偉いというつもりだったらしい。  「べら棒めえ、俺ああいつはでえ嫌《きれえ》だ。」 と一方では紅蓮洞があたりを憚《はばか》らず有島氏を罵《ののし》っていた。  「あいつは女郎買をする勇気がねえからいけねえんだ。金を出さねえでこっそり他人《ひと》の女房な んかに手を出しゃあがるからいけねえんだ。」  これもひどく昂奮して吃《ども》りながら弁じていた。紅蓮洞の解釈は頗る簡単|明瞭《めいりよう》だった。慾情があ るなら廓《くるわ》へ行け。其処には天下御免の公娼がいる。それなのに世間をはばかって、こっそりいた ずらをするのは怪しからない。殊に他人の女房と関係するが如きは許せない。もしも亭主に見つ からなかったら、何時まで人をあざむいたかわからないと罵るのだ。  「けけけちだからいけねえんだ。こごこん性《じよう》が汚《きた》ねえんだ。」  全然恋だとか愛だとかいう事は問題にしなかった。予《かねがね》々私は、紅蓮洞は定木《じようぎ》にあてはまらない 生活はしているが、根本には旧道徳を重んずる事極めて厚いのを知っていたが、この時は彼の道 徳観念から、どうしても有島氏を許す事が出来なかったらしい。他人事《ひとごと》ならずとする気勢を示し た。偉い偉いと繰返して奇声を発していたさすがのまるきも、紅蓮洞の激越なる怒罵《どば》の前ではけ げんな顔をして口をつぐんだ。まるきは、文壇的の見方をすれば誰しも有島氏のとった道を是認 するものと思っていたらしかった。  紅蓮洞は酒のみ、私も酒のみであるが、大勢の会合は別として、二人きりで飲んだのはたった 一度しかない。私は紅蓮洞の旧幕精神を好み、何時か一度ゆっくり飲みながら話したいと思って いたが、機会がなかった。たぶん地震の前と思うが、夏の夕方、私が平生独酌を試《こころみ》る銀座の岡田 へ紅蓮洞を誘った。格子縞《こうしじま》の単衣《ひとえ》はつんつるてんで、はだけた胸からのぞかれる肋《あばら》の辺の骨だっ て見えるのが、ひどく哀れっぼかった。紅蓮洞は名だたる豪酒と想像していたところ、一向飲め ないのは意外だった。昔は飲めたのだが、体の衰えと共に弱くなったのかもしれない。その日は |僅《わず》かに二、三合しか飲まなかった。喰べるものには殆んど箸《はし》をつけなかった。  「俺は喰えねえ。喰うものは何もいらねえんだ。無駄だからよせ。」  何か口に合う物はないかと心配するのを、手を振って止めた。酒さえあれば何もいらないとい うのだ。  これよりさき、紅蓮洞が博覧会だか共進会の飲食店を廻り歩いて試食した記事を婦人雑誌で見 た事があるので、私並に旺盛《おうせい》なる食慾を持っているものと思っていた。  「あいつにはさすがの俺も弱ったよ。雑誌の奴が引張廻しゃあがって、酒を飲むと歩かなくな るというので、ちっとも飲ませずに喰わせやあがるもんだから、腹がはってたまらなかった。ほ んとにひどいめにあわせやあがった。」  今でもお腹《なか》がいっぱいで苦しいというような顔をして、さも不平らしく話した。  紅蓮洞は酔顔を崩してのべつに饒舌《じようぜつ》を振《ふる》っていたが、ふだんから怪しい舌は直ぐにもつれて、 話はいよいよ筋が通らなかった。いい御機嫌《ごきげん》で同じ話を繰返していた。数々の御しゃべりの中で、 私が今でも覚えているのは、彼がむかし数学の天才だといわれた自信を、いまだにはかない自慢 にしている事だった。  「数学ほど下らねえ学問はありゃあしない。あいつは学問とはいわせねえよ。どうして世間に は数学の出来ねえ奴がいるのか、いまだに俺にはわからねえんだ。二と二をよせれば四つになる って事は、開闢《かいびやく》以来変りはないだろう。だから外の学問と違って、数学には進歩ってものがねえ んだよ。」  最初私は、紅蓮洞と飲むのもいいけれど、あんまりだらしなく長々とお相手をさせられてはか なわないと、内心びくびくしていたが、いざとなると私の方が長尻《ながつちり》で、紅蓮洞に促されてその家 を出た。しかし紅蓮洞はそのままでは別れなかった。私を引張って近くの露西亜《ロシア》屋に行った。そ こには御定連《こじようれん》が大勢いて、紅蓮洞は忽ち一座の中心になり、火酒《ウォツカ》を二、三杯ひっかけて、共《ともども》々に |夜更《よふけ》の銀座に出た時は、すっかり足もとが危なくなっていた。  地震後、私はしみじみ紅蓮洞と話した事がなかった。時々芝居などで顔を合せる事はあったが、 肉体の衰えが目立ち、口をきいてもとんと気勢があがらなかった。何処か体が悪いのではないか しらと、かげながら心配していた。  紅蓮洞が病気で、よくないそうだと聞いたのは去年の夏だった。ひとりもので下宿住居に違い ないから、さぞかし困っているだろうとは思ったが、つい見舞にも行き兼《かね》ているうちに、中央新 聞で見舞金を募る企てが発表された。報ずるところによると、重態の紅蓮洞は、友人の尽力で築 地の聖路加《せいろか》病院に入院しているが、あるいは再び毒舌を振う事はむずかー,)いかもしれないという のであった。久保田さんも御見舞を贈りたいというので、御一緒に願う約束をしていたが、忙し さにまぎれて新聞社へ金を届ける時を逸してしまった。  見舞金は相当に集まった。一時あやういといわれた紅蓮洞はまた盛返し、この分なら助かるか もしれないという記事が出た。筆者は、紅蓮洞は見舞金の集まった時に死んでくれなくては困る。 |本復《ほんぶく》して病院を出て来ては困るなどと手きびしい諧謔《かいぎやく》を弄《ろう》した。  その記事に促されて、久保田さんと私は十月のはじめに病院を見舞った。水に近い秋の空はあ かるく澄んで、築地の焼跡の草原にある病院をめぐって涼風が立っていた。  紅蓮洞は看護婦に守られて寝ていた。一時よかったのはほんとだけれど、その頃はまた微熱が 出て、あまりいい容体ではなかった。目に白く薄い膜がかかっていた。附添《つきそい》の看護婦がいやな奴 で、病人の前でつけつけと気になりそうな事を喋《しやべ》った。  紅蓮洞は元気がなかった。何か口を動かしても、何をいっているのかわからない事が多かった。 それでも医者や看護婦を罵《ののし》って快とした。  「あいつらは病気をあつかう事は知ってるかもしれねえが、人間をあつかう事を知らねえ。」  枕《まくら》もとには女優に贈られたカステラの箱があった。  あまり長居はよくないと思って、看護婦のいない時に、両人からの御見舞を紙に包んで出した。  「いらねえ。金なんかいらねえよ。」 紅蓮洞は力のない声で拒んだ。  「貰《ユもら》ったって酒が飲めるわけでもなし、つまらねえ。使いみちがねえんだ。」  しきりに繰返していたが、  「そんなら石井って男に渡して貰おう。そいつが俺を此処に入れてくれたんだ。」 といってようやく受けてくれた。石井氏というのは、竹本綾之助《たけもとあやのすけ》の良人《おつと》で、紅蓮洞の学校友達で ある。綾之助との恋物語は、誰も知る話だが、その人が病院の事務に携《たずさわ》っていたのだ。  辞去しておもてに出ると、二人は紅蓮洞の命数《めいすう》のもう長くない事を語合《かたりあ》ウた。果して間もなく 死んだのである。  紅蓮洞は家を成さず、仕事をしず、放浪者として一生を終った。世間はだらしのないのんだく れと思ったり、豪放|磊落《らいらく》な人だと思っていたようだが、そうではない。彼は極めて小心、神経質 なモラリストだった。あらゆる因習を意に介さないような顔をしながら、全くそれにとらわれて いた。  其処にあの人の味があった。旧幕時代の名残《なごり》、明治初年らしい精神をもっていた。ただ性格の 弱さが、その精神を積極的に生かさないで、一種のすね者らしい形となって現われてしまった。 そのために寂しい一生だったのだ。失敗は失敗で仕方がない。紅蓮洞は人となり極めて善良で、 誰からも愛され、不思議な容貌風采《ようぼうふうさい》をいたる所にあらわして、身をもって一篇の小説を描いた。 私は何時までもなつかしく想うのである。 (大正十五年六月二十七日) i『三田文学』大正十五年八月号