元禄屋敷 水上滝太郎  長い間の独身下宿生活に馴《な》れたからばかりでなく、生れつき衣食住の世話のかからない性分な ので、私は経済が許すならばホテル住居をしたいと願っていたが、その第一条件は何時までたっ てもみたされそうもなく、また今となっては愚妻が同意しそうもないので、一生|願《ねがい》は願のままで おしまいになるかもしれない。  大正八年の暮に大阪から帰って来て、赤坂の氷川《ひかわ》神社の前の坂の中途の新建の、まだ壁も乾《かわ》か ない家にひとりみの所帯を持ったのが最初で、翌年三田の慶応義塾の稲荷山《いなりやま》の裏手の福沢家の御 持家を拝借して移り住み、二年間いる間に愚妻がやって来た。われわれには分に過ぎた家で、家 そのものには決して不満はなかったが、何分車馬の往来のはげしいところで、暁方《あけがた》から深更まで 物音が絶えず、殊《こと》に自動車や荷馬車が通ると家鳴震動して神経を脅かし、勉強の妨《さまたげ》になるので、 たまたま知人が知らせてくれた青山二丁目の墓地に近い閑静なところへ引越した。家は古かった が相当の庭があり、いろいろの花の樹|果《み》の樹があって頗《すこぶ》る気に入っていたが、地方の市長をして いた持主が、原敬氏の急死がもたらした政変のために再選されず、俄《にわか》に帰京の事になったので、 突然追出される事になった。  家事に関しては極めてまめでない質《たち》なので、自分で借家を探したり、新聞の広告欄を見たりす る気はなく、ただただ困っていると、  「それはいい家があるのよ。」 と泉鏡花先生の奥さんが教えて下さった。ところは番町で、泉先生の御宅から半丁と離れていな い、室数《まかず》が十二、三あって、庭が数百坪あり、門長屋があり、瓦《かわら》屋根を頂く大門の如きはまるで お大名の御門のようだという話なのだ。それでは駄目《だめ》だとてんから問題にしないでいると、  「いいえ、それがそんなにお高くないのよ。」 と・奥さんは悉《ごとごと》く熱心だ。  「だって、そんな大きなうちが、そんなに安いはずがないじゃありませんか。」  だまされるような気持で警戒しながらいうと、  「でもね、うちがとても古いんですとさ。」  奥さんは魚屋のきよ公とかにきいた話を、そのまま伝えて下さった.、それでも私は半信半疑だ った。人をかつぐ事が好きで、かつまた御主人同様かなり話は大袈裟《おおげさ》を尊ぶ泉夫人の事だから、 うっかり引《ひつ》かかると笑われるぞと思ったのである。  しかし追立てられる日限は容赦なく切迫して来るので、或晩一杯|機嫌《きげん》で番町へ廻って見た。予 て泉夫人から聞いた町所をあてに行って見ると、煤《すす》けた門灯が暗く、番地を認《したた》めた木札も古くて はっきりとは読めなかったが、たしかにそれらしい家の前に出た。お大名の御門の扉《とびら》はしまって いたが、型通り格子《こうし》のついた出窓のある門長屋があって、正に旗本屋敷に違いなかった。門の中 は見えないが、少なくとも十以上の室数《まかず》があり、広い庭のあるらしい表構えに見えた。こいつは とても自分などの住むべき家ではない、万一これが泉夫人のお話のように中庸を得た家賃ならば、 恐らく何か曰《いわ》くがあるに違いない、番町皿屋敷《ばんちようさらやしき》とはこれだなと考えた。  夜分の事だから門を見ただけで引取ったが、間もなく愚妻は岡田八千代夫人を顧問に頼み、泉 夫人を煩わして、審《つぶさ》に家を拝見して来た。家はききしにまさる古さだが、室数は十位あり、台所 も広く、庭も広い、家賃も決して高くない、それはそれはいい家だという。  「庭なんて、何処まであるか、さきが見えない位ですわ。」 と岡田夫人もつけ加えた。これは凄《すご》いそと私も悦喜して、はじめのうちこそ半信半疑だったが、 門だけは自分でも見て来たし、こう生《いき》証人があらわれては、かえって大がかりな空想を逞《たくま》しくす る事になった。先ず芝生があり、植込があり、木立の茂みの向うには大きな池があって清水が湧《わ》 く、松杉|檜《ひのき》の大木は昼なお暗く、五位鷺《ごいさぎ》が群《むらが》って飛立つであろうなどと、浪漫派の小説の舞台を 想像して心|甚《はなは》だ楽しかった。  私は早速出かけて行って、門のそばに住む大家さんの御親戚《こしんせき》の方に拝借希望の趣を願出た。そ の方は寺崎広業《てらさきこうぎよう》氏について学んだ画家で、今は某校に勤めていると名告《なの》られた。偶々《たまたま》机の上に あったかきかけの仏画を見せて頂き、奥床《おくゆか》しく思った。その方の御話では、大家さんの先代は此 処で開業していた医師で、早世し、ふた親に別れた相続人は幼少の時から信濃《しなの》の国の伯父《おじ》さんに あずけられて成人したので、今はこちらにいないという事であった。とにかく家を拝見させて頂 く事になったが、なるほど古いもので、恐らく二百五十年位はたっているだろうというお話だっ た。以前はもう二つ三つ室があったが、それは朽廃して取毀《とりこわ》され、座敷の雨戸も腐って落ちたま まで、今は硝子戸《ガラスど》だけだという。その硝子戸をあけて見ると、折から梅雨の頃で、雨に烟《けぶ》る築山《つきゃま》 の讐には韓からしや黶げ欝いちめんに馴廻いまつわり、その向側はなるほどちょっと見透せ なかったが、私が空想したような林や池があるわけではなく、雑草の伸るに任せた空地があるの であった。何にしても結構なので、是非拝借させて頂きたいとお願いし、身柄を説明してまかり さがった。いずれ信濃の国に住む大家さんと相談の上返事をするという事であった。  やがて御許《おゆるし》が出て、私どもは夏の始《はじめ》に引越《ひつこし》た。それが大正十二年の事で、既に八年の歳月が完 全に過ぎた。  その八年の間にはいろいろの事があった。先ず引越した年の八月三十一口に、私どもは夏休の つもりで、かきかけの戯曲の原稿を鞄《カバン》に入れて鎌倉へ行った。愚妻の兄と妹が来る。私の弟が来 る。私の兄の子供たちが来る。十数人の同勢になって、明日は船を出してそうだ鰹を釣ろうと約 東したその翌日が、例の地震で、家はひとたまりもなく倒潰《とうかい》し、危く逃《のが》れて裏山の松林に野宿す る身の上となった。  その時私どもが一番心配したのは東京の家の事だった。何しろ二百五十年の家で、ふだん歩い ても根太《ねだ》があやしくきしむ位だから、到底助かるはずがない、それには留守番の少し足りないの と、むやみに気の強い二人の小娘が、共々命・を失いはしなかったろうか、足りないのは足りない ままに逃遅れ、気の強いのは気の強いままに無益な冒険をしはしなかったろうか、あるいは正午 の事だから、台所から火事を出して、大家さんはいうに及ばず、御近所に迷惑をかけはしなかっ たか、万一助かっても、行くあてがなく途方にくれていやあしないだろうかと、松林の梢遥《こずえはる》かに、 横浜か、まだそのさきか、何処かにあがる入道雲のような火の手を眺《なが》めながら心配したのであっ た。だが、十日たって帰ってみると、所々の壁が崩《くず》れ、お大名の御門の屋根瓦が落ちただけで、 二百五十年の家は無事だった。無事だったおかげで、泉鏡花先生の随筆には元禄屋敷の名をうた われ、有島生馬《ありしまいくま》氏の山の手風景には、永く保存すべき番町風景として記された。  震災直後は町内の申合せで戸ごとに一人ずつ夜警に出る事になっていた。無益な事とは知りな がら、私も応援に来てくれた弟と半夜交代で、お大名の御門の下で町内の義務を果した。  震災後の修理も迅速に済み、お大名の御門の屋根の瓦は亜鉛《トタソ》となったけれど、ついでに方々に 手が入って、家は一層がっしりした。その後も、私の家は小人数のくせに畳ざわりが荒いと見え て、そこいら中を損じ、汚《よご》し、金魚を飼うといってはやたらに池を掘り、犬どもは草木の根を枯 らし、殊に気の荒いシェパァドは板塀までも喰い破り、申訳のない次第だらけだが、大家さんは |寛仁《かんじん》で、あくまでも親切にして下さる。  地震の翌年には信濃の国にいた大家さんも結婚して上京し、築山の向うの空地の樹を移し、草 をはらい、近代風の日あたりのいい瀟酒《しようしや》な住居が出来て、若い御夫婦が住んだ。築山の植込を自 然の境にして、別に垣根はなかったから、若い奥さんの多彩の着物の色は、樹々の細かい枝をす かして、はれやかに見えるのであった。間もなく御子さんが出来、大変な難産だったそうだけれ ど、玉のような男子が生れた。奥さんは引つづき長く床を離れず、御子さんは滋養薬で育った。  私どもはこの家に越して来てから、いい事ばかり数えていた。出入は便利だし、室数《まかず》は多く、 庭は広く、いろいろの花の樹があり、隣近所は静かだし、町内には事がなく、大家さんはもった いないほどよくして下さる、いい家だいい家だといい合ったが、ただひとつ欠点としてあげなけ ればならないのは、夏暑く冬寒い事だった。お大名の御門は正に南に向いているのだが、座敷は 西向、茶の間は北向で、冬の風ははげしくあたり、西日は残りなく直射ー-vた。何故これだけの地 面があるのに、東南向の家を建てなかったのか不思議に思ったが、或人の説によると、昔は多く こういう建て方をしたもので、樹木には表と裏があり、その表を観賞するためには庭を南向にし なければならないというのであった。果してそうならば、昔の人は人よりも草木を深く愛したの であろう。私はふと、人間がむやみに権利を主張し、恭謙の心を忘れるようになったのは、南向 の家に住むようになってからではないか、あるいはその逆に、権利思想の発達が南向の家をつく るに到《いた》らせたのではないかなどと、無用な事を想い浮べた。  私はその南向の庭に安物の草木を植え加えた。紫陽花《あじさい》、連翹《れんぎよう》、萩《はぎ》、芙蓉《ふよう》、山吹《やまぶき》、紅蜀葵《もみじあおい》、蔓薔 薇《つるばら》の類である。また岡田三郎助先生に貰《もら》った月見草は、ひところ庭一面にはびこって咲いた。  庭の春は先ず連翹|椿《つばき》がまっさきに花の色を見せ、大家さんの家の前の二、三の大木の桜が咲い て散ると、つつじ山吹紫陽花の順に花を開く。庭の真中にそそり立つ槐《えんしゆ》は、白いかよわい花を持 ち、感じやすい若葉はあるかないかの風にもそよぎ、夏はその木に嬋《せみ》が来てなき、日ぐらしが来 てなく。この木は素晴らしく根を張るものだそうで、植木屋の話では、恐らく庭一面に足を伸ば していて、移し植《うえ》る事は不可能であろうという事だった。秋、落葉の頃は、霙《みぞれ》のように葉を散ら し、真冬の梢《こずえ》の枝のなりも悪くない。落葉といえば隣家との境にある朴《ほお》の木の広葉がかさかさに |干反《ひそ》って、枯葉と枯葉とがささやきかわすように風に鳴りながら、未練らしく散るのも風情《ふぜい》であ る。桜も桐も紅葉《もみじ》も散って、俄《にわか》に眼界が広くなると、真青に澄んだ秋の空に、あかあかと柿の実 の鈴なりになるのも毎年の眺《なが》めである。その頃はいろいろの小鳥も来て囀《さえず》り、冬から春へかけて は毎年忘れずに来る山鳩《やまばと》がいるし、春から夏へかけては、これも欠かさずに来て鶯《うぐいす》がなく。この 自然の恵《めぐみ》は、身にあまる仕事をしょい込んでへこたれがちな私をなぐさめてくれる。私は広い庭 を有する家を借りて住む幸いを常に感謝している。  それなのに、うちへ来る人i殊に私の近親の者などは、よくもあんな家に住んでいられるも のだと噂《うわさ》しあっているようだ。家が古く、歩くと根太《ねだ》がきしみ、箪笥《たんす》や本箱がかたこと鳴り、室 数は多いけれど間取が悪くてかくれ場所がない、朝日がささず夕日がさし、南風が通らず北風が つれなく吹きつける、暗い、陰気だ、しめっぽい、庭はあるにはあるが荒れほうだいに荒れてい ると悪い事ばかり数え立てる。  そういう相手とは、いくら争ってもはてしがないから、  「でも、これほどの大家さんは何処にもないだろう。」 と話をわき道へ持って行って結論をつけるのである。  ちょうど大家さん御夫婦が東京へ来られて、新居を構えた年の夏の事だった。私はまた金がな くて困り切っていた。保険証券を担保にして借りた金で所得税を納めたが、その月末の始末がつ かない。平生《へいぜい》は、自分の借金は忘れないように手帖に記して年申|懐《ふところ》に入れ、一日も早く返さな ければならない、他人へ貸した金は返って来ないものときめて忘れてしまうのを本意としている のだが、さてこうなると不覚にも、何処からか返済して来てもよさそうだなどと、あてにならな い事を考えるのであった。やむをえず小説を書いて売ろうと決心したが、短いのでは金高が少な いから、長いのでなければならない。真夏の暑気にげんなりしながら、夢中になって書いていた。 その日は日曜の朝の事で、風通しの悪い座敷の端近く机を持出して稼《かせ》いでいたが、少し疲れて足 を投出し、何とかして手取早く金の入る方法はないものかと空想していたところへ、裏木戸から 大家さんが入って来た。何の御用かと思っていると、かねて御預りしてある敷金をおかえししま すといって持参されたのだ。私はあまりの意外に大家さんの心の状態を疑った位だ。いいえ、も う気心の知れた方からこういうものを御預りしているのは気持がよくありませんからと、私の手 に一封を残して行った。その時の私の喜びというものはなかった。愚妻を呼んでともども感謝し た。だが凡夫のあさましさで、その後も金に困ると、縁側に足を投出して、何処からか思いもか けない金が飛込んで来やあしないだろうかと、あてもなく期待する事がある。  この話をすると、さんざん家をけなしたものも、一言もなく感服して引さがるのである。  大家さんの住居には離室《はなれ》があって、誰か独身者で借りてくれる人はないだろうかという御相談 があったので、多勢集った席上で、誰か借りないかと叫んだところ、言下に手をあげたのが勝本 清一郎さんだった。あたかも『三田文学』復活号を出す頃で、勝本さんはまだ左翼の闘士にはな っていなかった。時々踊の御師匠さんなどがたずねて来たが、とにかく非常な精力家で、その勉 強には驚かされた。勝本さんは、よく大家さんのところの御子さんを抱いて、往来を歩いていた。 清一郎さんが行ってしまった後には弟の英治さんが入り、英治さんの後には私のつとめている会 社の若い人がしばらくいた。  御子さんはすごやかに育ったが、奥さんは病床に就《つ》かれる事が多く、また御主人もしばしば風 邪《かぜ》を引かれるようで、時には御夫婦揃って寝ているときき、私どもはいつもかげながら心配して いた。私のような強突張《ごうつくばり》は、いくら体を虐使しても患《わずら》わず、ああいう方が揃って病気とは何たる 事であろうと、槐《えんじゆ》の梢の暮れかかる頃、木立の向うの灯影《ほかげ》をすかして、感慨に耽《ふけ》る事もあった。 それが去年の秋、長い間御主人の養育された信濃の国の伯父《おじ》さんの看護に赴《おもむ》かれた後で奥さんは |病臥《ぴようが》され、時折あわただしく馳《かけ》つける医者の姿に驚かされたが、しめっぽい雨の降る頃に、遂に なくなられた。  大家さんの方の御不幸にひきかえ、私どもの方は麹町《こうじまち》へ来てから愚妻も丈夫になり、近年久し く医者の顔を見ないで済んだ。同町内には泉先生がいる、有島|生馬《いくま》さんがいる、里見|弾《とん》さんがい る、吉井勇さんも引越して来た、隣町には小村|雪岱《せつたい》さんもいる、何かにつけて心丈夫だ。また附 近の町はすべておちついていて気持がいい。大きな屋敷が多いので、魚屋八百屋は不廉《ふれん》だという 事だが、一般に町内の人は、昨今越して来たのではなく、十年二十年三十年いついている行儀の いい市民だから、人気も至極|穏《おだや》かだ。私は大家さんの御都合の許す限り、元禄屋敷に永住したい と願っている。  近年引続く不景気に、諸方で家賃引下の争いが起ったが、私どもの方は、こちらからは何もお 願しないのに、あちらから多分に引下て下さった。実をいうと、私はここに越して来て以来一度 も家の事について煩わされた事がなく、何から何まで満足しているので、引下て頂かなくても結 構だったのだが、お断りすべき筋合《すじあい》でもないので、ありがたく御受けした。ところが今年の夏の はじめ、大家さんは庭の一部に二階建の東南向の日あたりのいい家を建増《たてまし》てやろうといって来ら れた。愚妻は元来からだが弱く、暑さにも寒さにも負る方なので、かねて出来る事なら大家さん の御許を得て、東か南を向いた二階を一室建てさせて頂きたいと念じていたが、私には懐《ふところ》の都合 があり、またあまり我儘過《わがまますぎ》る事なので、差控《さしひかえ》うと申含めていたところだから、愚妻にとってはか つての日の私における敷金の如く、思いもかけない恵《めぐみ》に見舞われた訳だ。よろしく御願い申ます と返事をしたが、もれきくところによると、なくなった奥さんが、生前あの家は西向で寒暑とも きびしく、気の毒だから、一室なりとも日あたりのいい室を建増てやりたいといっておられたの だそうで、私どもはそれを聞いて、なき人をまた新しく追慕した。折角の庭が狭くなり、元禄屋 敷を近代化するのは残念のようでもあるが、それよりも日常生活の要求は強く、私どもは喜んで 仕事師や大工の立入る事を歓迎した。  建増の家は今正に出来上ろうとしているので、或日の夕方、まだ壁の乾《かわ》いていないその二階へ、 愚妻といっしょに上って見た。東と南があいていて、その東の窓の外に、槐《えんじゆ》の枝が伸びて来てい た。今までの元禄屋敷の茶の間では、端坐していても汗が出るのに、ここは夕風が涼しく吹き、 広々とした夏の宵空が、いながらにして見晴らせるのであった。  こうまでして頂いては、もうこの家は引越せませんねえと、愚妻は心から感謝していった。何 とか御礼をしたいものだという心が一致した。  「せめて家賃でもあげてもらいたいなあ。あげるのが当然なんだ。」 と私は応じた。この夏も懐さびしく、多年の借金は少しも減らず、所得税の納期は迫り、また来 るべき冬の洋服も外套《がいとう》も満足なのは一着もない窮状にありながら、私はいくら家賃をあげて頂い たら適当であろうかをひたすら考えた。 (昭和六年七月六日)                             ー1『三田文学』昭和六年八月号