その後のドゥガル 水上滝太郎  昨年九月、三重県津市郊外|千歳《ちとせ》山荘のあるじ川喜田久太夫氏からセント・バアナアド種の牡犬《おすいぬ》 生後五カ月にして体重五貫五百匁という逸物を拝領し、ドゥガルと名づけ、我家の自慢とした事 は、その年十一月の『三田文学』に書いた。全く拝領という文字をもっていいあらわす外には、 適切なる表現を見出さないほど身分不相応に壮大なる犬である。平生《へいぜい》、小説をかき、戯曲をかき、 批評をかき、随筆をかき、時には三十一文字《みそひともじ》の歌の真似《まね》もして見せるが、ついぞほめられた事は ないのに、我家のドゥガルの消息を伝うる一文はいたって好評で、常日頃息子がろくでもない事 を書きつらね、ひとさまに御迷惑をかけはしないか、風教上よろしくない事がありはしないかと 心配している母も、あれならいいとほめてくれた。  その後、人にあうとよく訊《き》かれる。ドゥガルはどうしました、無事ですか、病気はしませんか、 発育はよござんすかと、あたかも御宅の皆様は御変《おかわり》もありませんか、奥さんは御丈夫ですかとい う見舞の言葉に代用されるものの如く思われる。一度拝見したいという人もあり、現に来て見て、 あなたの書いたもので想像したよりも、実物はもっとよござんすと、手きびしいお世辞をいう人 も少なくない。  さてそのドゥガルは、伊勢の国から来た時は十二指腸虫で些《いささ》か元気が乏しかったが、麻布《あざぶ》畜産 学校長中村道三郎先生の丹誠と、我家のおばさんおかっちゃんの熱心なる努力で、完全に健康を とり戻し、十月六日には八貫五百匁、十一月二十二日には十貫の体重となり、威風近隣のむく犬 を圧するものがあった。  ドゥガルの讃美者は頗《すこぶ》る多く、久保田万太郎氏もその一人で、あたしはドゥガルの態度を学ぶ よと、またかと思うほど繰返す。但し飼主の側から見ると、この人とGの犬では、まるっきり品 行が違う。久保田さんは、あたしは酒は嫌いですと、いわなくてもいい事をいい、また実際私の ように晩酌を楽む風もないが、さて飲んだとなると、二次会となり三次会となり、身長|僅《わず》かに五 尺二寸にして体重十九貫にあまるという始末の悪い体をもちあつかいながら、深更|滞《とどこおり》なく我家 に帰るのは上出来の部で、時には我家近くの交番のあるじに管《くだ》を巻いて馴染《なじみ》となり、翌日|短冊《たんざく》を 書かされたりしている位で、おとなしく自宅に引籠《ひきこも》っている方ではないが、我がドゥガルは目下 の体重こそやや久保田氏に劣るかもしれないが、我家をよそにー.)た事は一度もなく、天性極めて 内気で、おもてへ出る事を好まず、したがって交番のあるじを悩ます事もない。  尤も、久保田さんも幼少の頃はおばあさん児《こ》で無上に可愛がられたものだそうで、古来おばあ さんというものは孫を弱虫にするものであるから、家にあっては蛤《はまぐり》だが、外へ出ると蜆貝《しじみがい》だった と聞く。あるいは我家のドゥガルも長じては世間の広い、あっちこっちと引張凧《いつばりだこ》になる人気もの となるかもしれないが、只今のところは、中村先生の推定体重十九貫というずうたいで、甘った れ、よだれを垂《た》らし、羞《はずか》しがり、甚《はなは》だ意気地《いくじ》がないのである。 拙宅にはドゥガルより先に、シェパァドが二頭いた。その名はショウとジンで、ショウの方は 佐藤春夫氏のような剽悍《ひようかん》な風貌《ふうぼう》を備え、先頃全国畜犬共進会において、総裁伯爵|清棲《きよすみ》幸保と署名 のある優等賞状と銀メダルを拝受した程度の犬だ。しかしながら、彼は優等生に似もやらず、頗 るつきのいたずら者で、植木を噛《かじ》り、塀《へい》を噛り、自分の住むべき犬舎までも噛りこわしてしまっ たほどだ。  やがてはその配偶者となるべきいいなずけのジンは、発育不良か、先天的|畸形《きけい》か、ちいさくか たまって、きりょうは決してよろしくなく、しかも毛色が狐《きつね》に類するので、近所をつれて歩くと、 やあ狐が来た狐が来たと、腕白《わんぱく》どもがはやしたてる。こいつは人間の前では頗る柔順で、おべっ かをつかうが、人間の姿の見えないところではショウにも劣らぬ不逞《ふてい》の徒で、隣家との境の高塀 の板をはがして噛《か》み砕いてしまったほど歯が強い。  この二頭のシェパアドは、最初はドゥガルと同じ庭に放たれ、仲よく遊びたわむれていたが、 或日心たけきショウはドゥガルに喧嘩《けんか》を売り、しつっこく体あたりを喰わせるので、さすがに温 厚のドゥガルも遂に堪忍袋の緒をきって、本気になったと思う瞬間、ただ一撃で相手を組敷き、 鼻柱をわんぐりやった。あ、あ、大変々々々々と、愚妻が声をふりしぼるので、あわててかけつ け、棒でひっぱたいたり、縁台でなぐってみたが、既に眼が据わり、ここを死場所と思い極《き》めた ショウは捨身になり、夢中になってかきむしる。犬の決死の喧嘩は両後脚を持って引離す外には 引分る事が出来ないと、予《かね》て川喜田さんからきかされていたので、自分がドゥガルの両後脚をつ かみ、愚妻がショウの両後脚を持って、やっとの事で引分けた。。それ以後、ショウの方はおもて の狭い庭に監禁した。その後日を経て、試にいっしょにしてみたところ、ショウは旧怨《きゆうえん》を忘れず、 再びドゥガルに喧嘩を売り、危く命を落しそうになった。  元来ジンはいいなずけの事だから、ショウといっしょにして置くべきだが、ドゥガルは身が重 く、寝そべっているばかりで、ひとりで遊ぶ術《すべ》を知らないから、当分ジノを御相手につける事に した。同じ年同じ月に生れたのではあるが、小智恵の働くジンは、大器ドゥガルをからかい、無 器用者に悪戯《いたずら》を教え、庭のまん中に穴を掘ったり、木の根を噛《かじ》ったり、裏の大家さんのところへ 出入《でけい》る人たちに吠《ほ》えたり、何から何まで手本を示し、ドゥガルは一生懸命に真似《まね》をしている。二 頭の犬はのべつに仲よくふざけているが、たまにジンをドゥガルの側《そば》から離し、ショウの方へ連 れて行くと、ショウは忽ちジンをいじめ、ジンはショウを嫌い悲鳴をあげて逃廻る。  ドゥガルとショウが喧嘩してからというものは、犬の散歩が一層大仕事になった。三頭が仲よ くいっしょに歩いてくれれば一度で済むのに、どうしても二度に分けて出かけなければならなく なった。ショウとジンは散歩|好《ずき》で、ショウは行儀悪く主人を置去《おきざり》にしてかけ出し、往来の犬を脅《おびゃ》 かし、ジンは主人の足下に匍伏《ほふく》してはなれず、あまりひっついて来るのでしばしば踏《ふん》づけそうに なる。しかるにドゥガルは、門外へ出る事が大嫌いだ。いやがるやつを無理に引張り出すと、大 道のまん中にどっかり腰を据え、獅子頭《ししがしら》のような巨大な頭をいやいやして、いっかな動かない。 なだめてもすかしても駄目《だめ》だ。しかたがないから力任せに引擦《ひきず》って、約半丁位行くと、ようやく あきらめて歩き出すが、自動車が来たり、自転車が来たり、子供がかけ出したりすると、すっか り脅え上って、手近い大邸宅の門内へ避難しようともがく。やっとの思いで四谷の土手まで行き、 曳綱《ひきつな》を放すと、俄《にわか》に元気になり、ジンともつれあって草土手をかけ廻る。  散歩はいつも夜分だ。四谷見附から市谷の方へ土手づたいに行くあとさきに、ドゥガルとジン が引添っているわけだが、しばしば暗い木蔭《こかげ》にひそむ男女を驚かす。そういう時、きまって男の 方はちいさくなり、羞《はずか》しそうにうつむいているが、女の方はさもあやしまれまいと努めるように、 さりげなく何かつぶやくのである。あら星が見えるわ、というような事をいう。すると男は、そ のあさはかな女のたくみにいよいよ閉口したかたちになる。靄《もや》が深いわねえといった女もある。 いい犬だわねえとほめた大胆不敵な女もある。土手の夜更《よふけ》の男女の多くは、会社員風の男と職業 婦人風のが多い。月給取は逢引《あいびき》までもつましいのか。  ドゥガルは寒さを知らないらしい。川喜田さんからは、夏になったら背中の毛を刈込んでやら ないと暑気に負《まけ》るかもしれないという御注意があり、今に夏が来たら、その通りにする手筈《てはず》にな っているが、冬の間はこっちがはらはらするほど気候には無頓着《むとんじやく》だ。雨が降っても平気で濡《ぬ》れて いるし、雪が降っても大地の上に寝そべり、背中に白く積っても驚かない。そんな事をして、万 一風邪でも引かれては困ると思い、犬舎に入れと命令すると、いやいや起上り、腹から氷柱《つらら》をぶ ら下げたまま、霏《ひひ》々と降る雪中をかけ廻り、なかなか犬舎には入ってくれない。  ところが、これが風と来ると、全く魂も身に添わぬ様子で、忽ち縁の下へもぐり込み、飯も喰 わず、終日出て来ない事もある。拙宅の縁はあまり高くなく、ドゥガルのからだは極めて大きい ので、この頃は入るにも出るにも大変な騒ぎだ。古い家の事だから、ドゥガルの出入のたびごと に、家鳴震動するのである。  それは全く嘘《うそ》ではない。彼がジンを追かけて庭中をかけ廻る時は、ずしんずしんと地響がし、 夜中しばしば夢を破られる。おかげで植木は枝を折られ、草花は踏まれて枯れ、私が好きで植え た連翹《れんぎよう》は莟《つぼみ》を持ってまさに薄黄色い花が、春に魁《さきが》けて咲こうとしていたのに、むざんや根元から 折られ、数年間つづけて咲匂《さきにお》った山百合《やまゆり》は、僅かに芽を吹いたと思ったら、踏つぶされ、岡田三 郎助先生から一|鉢《はち》頂き、それが庭中にひろがり、ひろがり過ぎた位に思われた月見草も今年はか げを見せない。毎年春先には庭に下《お》りて、私が抜いても抜いても抜きれなかった雑草も出ない。 皮肉な事に、犬が進出しないようにと、はり廻した金網の外には春が来て、蕗《ふき》が萌《も》え、野蒜《のびる》が伸 び、もろもろの草の若芽が、今やさかんにはびこっているのに、我家の庭はかたくかたく踏みか ためられ、緑の色はちっともない。ただドゥガルのぬけかわる毛が、綿のように春風に舞ってい るばかりだ。みなさん、我家のドゥガルは、来《きた》る四月十五日満一年の誕生日を迎えます。 (昭和 六年四月七日)                             ーー『三出文学』昭和六年五月号