我家のドゥガル 水上滝太郎  バアネット夫人の「小公子」は、本を読む事の好きな少年少女の、誰しも一度は夢中になって 読み、大人になってもなつかしく想い出す際の物語である。その物語の中に一頭の名犬があらわ れる。どうしたものか、私はその犬をセント・バアナアド種だと思い込んでいた。そのむかし若 松賤子《わかまつしずこ》の翻訳で読んだ時以来「小公子」は深い感銘をのこし、当時女学校へ通う姉が、絵入の原 書をならっていて、気どった発音で小公子の名を呼ぶのを、ひそかに羨《うらやま》しく思ったものである。 その本の口絵にも、巨大なる犬に寄添う可憐《かれん》なる小公子の姿が描いてあったが、年を経て私の記 憶には、ふさふさした金髪がゆるやかな波をうつ襟《えり》もとや手首に白いレエスの飾のついた服を着 た小公子と、その小公子を守護するものの如く想われる巨大なる犬が、この小説一篇の絵看板と して大映《おおうつし》にあらわれるのであった。  セント・バアナアド種の犬について、手許《てもと》にある教科書には下の通り記述してある。   本種は瑞西《スイス》国セント・バアナアド山(アル.フス山脈中)の原産なり、元来この地は海抜七千八   百八十尺に達し冬期長くかつ甚《はなは》だ寒冷にして積雪三十尺|乃至《ないし》四十尺に及び年々巡拝者の餓死   凍死するもの少なからず、ここにおいて第八世紀以来旅人の救助は僧侶《そうりよ》の勤となり一方堅固   なる石室を設けて宿泊を便にし他方においては則ち本犬により遭難者の探索を行うに至れり。   通常捜索には二頭の犬を用い一は温暖なる毛布を背に纏《まと》い一は飲料食物薬品等を入れたる籠《かご》   を頸《くび》に提《さ》げ山中を跋渉《ばつしよう》し遭難者を発見する時はこれを寺院に運び力及ぱざる時は帰りて僧侶   に告ぐかくの如くにして人命を救うこと多きが中にバリイと称する犬は一生中四十余人を救   助せりという、我国にてもかの八甲田山の遭難に使用せりという、本種は現今各国に散在し   その主なる用途は伴侶及警戒にして被毛により短毛種及長毛種に区別す、性よく寒国に適し   勇敢にしてしかも嗅力《きゆうりよく》強く捜索に巧なり、   一般形態  犬族中体格最も強大にして体尺一尺七寸乃至三尺、体重百三十乃至百七|十磅《ポソド》に   達す、   頭は重大、頭蓋《ずがい》高く、頂大にして円隆す、眼は適度に大きく慈愛の相を呈し下|眼瞼弛垂《がんけんしすい》し赤   色の瞬膜露出す、耳は下垂し大さ中等とす、口鼻部よく発育して広くその末端方形を呈し   唇《くちびる》やや下垂す、   頸は長く強く厚く、胴は強大にして胸広く腰強く、臀部《でんぶ》の発育佳良なり、   四肢《しし》は筋骨強大にして足また大なるを要す、   毛色赤白、橙黄《とうこう》色、白等の斑《まだら》にして、額、口鼻部、頸、前肢等白色なるを普通とす、  八甲田山の雪に埋もれた兵士を捜索に行ったというのは、何処から連れて行ったのかしらない が、果して純粋種であるかどうか疑わしく思われるほど日本には数が少ない。従って何がセン ト・バアナアド種であるか知らない人が多く、しばしば作品の中に犬を描き、またいかにも犬通 らしくおもわれる室生犀星《むろうさいせい》氏さえ、かつてセント・バアナアド種の狼犬などと書いていたほどで、 それではラテン人種の日本人というようなとんちんかんである。  私が日本で見たセント・バアナアドの逸物は、ひとむかし前青山辺で、一人の書生さんが二頭 引張って歩いていた奴だ。牡《おす》の方が殊《こと》に大きく、素晴しい身長を有していた。今は故人となった |中村是公《なかむらぜこう》氏の飼犬だという噂《うわさ》だった。ああいうやつを引きつれて歩いたらさぞ愉快だろうと思う につけ「小公子」を聯想したものである。  ところが昨年、伊勢は津でもつ津は伊勢でもつの旧家川喜田家の御主人から、自分のところの セント・バァナアドが十一|疋仔《びぎこ》を生んで、一疋はあやまって親犬が踏殺してしまったけれど、十 疋は完全に成育している、恐らく日本でこの種類の犬の安産ははじめての事だろうというお話を 承った。  その御話を犬きちがいの弟に伝えた。この男は年中数頭の犬を飼育し、先頃お嫁さんを迎えた が、花嫁はその日から、気むずかしい亭主と、それにも増して手のかかる犬どもの世話に日も足 らぬ新居を営まなければならない身の上となった。はたで見ていて、お嫁さんが気の毒に思われ るのだが、別段苦にもしないで、寝藁《ねわら》をとりかえ、食餌《しよくじ》を与え、お産のとりあげも上手《じょうず》にやって いるのを見ると、正に良妻にして将来賢母たるべき素質を備えているに違いない。その弟のいう には、日本うまれのセント・バアナアドだっていない事はない、よく品評会にも出ている、しか しいいやつは見当らないとの事だった。恐らく川喜田家のは優良種に相違なく、しかも十疋も成 育しているのはまことに御目出度《おめでた》い事だから、せめて写真でも頂いてはくれまいかという。  その後川喜田さんに御目にかかる度に、仔犬の成育の状態を聞かされ、私はまた弟に受売りし、 弟は羨望《せんぼう》に堪えぬものの如く、しきりに実物を見たがっていた。送って頂いた写真によれば、正 に逸物に違いないと弟は信じていた。  川喜田さんは、珍しく十疋も育っているのだから、残らず手許で飼って見るつもりだといって おられた。伝えきく津市郊外|千歳《ちとせ》山の川喜田邸は、山あり池あり林あり田圃《たんぼ》もあるという広大な ものだそうで、その広い屋敷内を巨大なる十二頭の犬が悠《ゆうゆう》々と漫歩する風景は甚だ雄大なものに 想われる。  しかるに今年の春四月、川喜田家には再び御目出度があり、九疋の仔犬が生まれた。いかに邸 内が広くても二十一頭のセント・バアナアドを飼育するのは手がかかり過《すぎ》る。しかも他の種類の 犬も数頭いるというのだから、犬口過剰といわねばならぬ。さすがの川喜田さんも相手をえらん で譲りたいという御話だったので、直ぐさま弟に知らせてやった。是非一頭譲って頂きたいとい うので、川喜田家犬係の方へ書面で申入れると、折返して御主人から、今年うまれの九頭のうち から一頭をよりどりさせるから、本人に来てもらいたいという御返事だった。弟は雀躍《じやくやく》して、早 速《さつそく》出向くという。私は、弟を御存じない川喜田家の方々のためにあらかじめその面構《つらがまえ》を御知らせ して置いた。   身長五尺七寸余、顔色あくまでも黒く、眼光鋭く、極めて無愛想なり云《うんぬん》々  そんな人相書が廻っているとも知らずに、弟は良妻と共に東京を立った。翌朝川喜田邸に到着、 取次の方にむかって直に犬舎へ案内を乞《こ》い、どれでもよりどれといわれて選定に迷い、思召《おぼしめし》のあ る二頭を見比べて終日を尽したそうだ。  犬を頂戴《ちょうだい》して帰って来たから見に来いという案内をうけ、愚妻はお土産《みやげ》に頸輪を買い求めて持 参した。弟の新居は、家は立派ではないが犬舎は頗る壮大なもので、殆んど一木一草もない犬の 散歩|向《むき》の庭に、それが座敷へ尻をむけて立っているのである。  其処には独逸《ドイツ》シェパアドの親子がいる。猟につれて行く英吉利《イギリス》ポインタアの親子がいる。而し て、川喜田家から頂戴して来た生後三ヵ月のセント・バアナアドがいるのである。それは同じ頃 に生れた他の犬の何倍ともいいがたいほど肥大なものである。何故比べる事が出来ないかという と、まるっきり形態が違うからで、もしも同じ頃に生れた熊の子がいるなら、それと対比してど っちが大きいかという方が適切であろう。先ず頸というものがあるといえばあり、ないといえば ないといっても差支《さしつかえ》ないほど太く、愚妻が持参した頸輪の如きは腕輪にする外|為方《しかた》がない位であ った。それほど四肢も太く、どこにも細い部分のない、ずんどの如き姿である。往年|亜米利加《アメリカ》の 大統領ルウズベルトに擬したテディ・ベアと呼ぶ玩具《おもちや》がはやり、日本にも渡来したが、仔犬はあ たかもその熊のおもちゃの形だった。  名前は「小公子」の中に出て来るセント・バアナアドを襲名させうと、はたで騒いだが、弟は マダム・テレルと名づけた。テレル夫人とはつい先頃日本へも来た大女の芸人である。いしくも つけたりと一同感心した。  テレルは一木一草もない庭をよたよたかけ歩き、お相手役のシェパアドの仔犬の敏捷《びんしよう》なのにか らかわれ、追かけ、しばしば自分自身のからだの重みに堪え兼《かね》てつんのめった。  その頃拙宅には弟の世話でシェパアドの仔が二疋来ていた。牝《めす》の方は骨格に欠点があって、誰 の眼にも感心しかねる姿だったが、牡の方はなかなかの尤物《ゆうぶつ》で、犬好きのおかっちゃんは、朝晩 散歩につれて出て、通りすがりの人や、犬猫病院の院長さんにほめられ、大得意で帰って来た。 ねえ、おばさん、この犬は随分いい男なんだとさと、耳の遠い相手に大きな声で報告しているの であったが、その尤物も、ひとたびテレル夫人にまみえてからは、俄《にわか》に安っぽく、げすっぼく見 えて困った。  九月になって、久々で川喜田さんに御目にかかった時、もし望みなら君にも一頭やるがどうだ というお話だった。私もかねての望みだから、一度はセント・バアナアドを引張って歩きたいの だが、何分借家住居の事ではあり、家の向《むき》が西北むきで日あたりは悪いし、外に男手はないし、 かつ従来の経験で犬を飼う事には自信がないから、万一名犬をむざむざ殺しては申訳ないという 気もあって、一度は辞退してみたが、欲《ほし》いと思う心がおもてにあらわれると見え、再び御勧《おすすめ》をう けた。先ず愚妻に話してみると、これは忽ち懐《ふところ》に抱きとらんばかりに喜び、即座に犬舎の心配を はじめた。待て、待て、お前がいくらほしがっても、一番世話をかけるのはおかっちゃんとおば さんだから、この二人の同意がなければいけないというと、愚妻は直に立って行った。おかっち やんの曰《いわ》く、その犬が来て、ショウやジンが見捨てられるような事がなければ異存はありません。 この返事には私も感動した。なるほど、前にいるのよりもいいのが来れば、その方に寵《ちょう》を奪われ、 とかく一方がないがしろにされがちであろう、これはまことに尤もな一言だと思った。しかし結 局二人とも同意してくれたので、早速川喜田さんには頂戴致しますと返事をした。それでは誰か |寄越《よこ》してくれ、どれでもいいのをやるからという事で、兄弟の多いのはふだんはうるさいと思っ ていたが、こういう時には便利で、名古屋にいる弟に頼んで、津まで出張してもらった。   身長五尺七寸余、体重二十三貫余、血統の事とてこれまた無愛想なれど、この前のよりはや   や凄味《すごみ》少なし云々 とまた人相書を送った。  弟は無事に使命を果し、私の希望する牡《おす》を一疋えらんでくれた。話にきくと、弟より一足遅れ て、三井一族の誰かの依頼をうけ、東京で有名な犬医者が、三井家の秘書をしたがえて乗込み、 弟が私のために選定したのを最もよしとして選び出したそうだ。しかし、川喜田さんは先約を重 んじ、私の方へ廻して下さった。不幸なる犬よ、お前は三井家の犬になりそこない、狭い庭に飼 われる身の上となったが、恨んでくれるな、運命とあきらめてくれ。   アスアサ六ジハンイヌツク という電報を手にして、愚妻は有頂天になってしまった。川喜田さんから食事その他の注意書を 頂いたのを暗記し、またおばさんやおかっちゃんのためには、半紙に写して壁に貼《は》った。  名前は何としましょうといわれ、私は勿論《もちろん》「小公子」の犬の名をつUたかったが、どうしても それが思い出せない。さりとて愚妻まかせにするのは甚だ危険だ。私はかつて二疋の犬にウイス キイとジンと名づけ、また或時はシェリイというのもいたが、セント・バアナアドにはそんなふ ざけた名前はつけられない。シェパァドの方は愚妻が勝手に牡をショウとし、牝《めす》は第三代目のジ ンとした。或人の談に、どこかの意気地《いくじ》のない月給取が、常々怒鳴りつけられる社長の名前を犬 につけ、ひそかに快としているのがあるそうだ。愚妻の説明によると、ショウはバアナアド・シ ョウのショウだという事だが信用出来ない。親が私に与えた名はショウゾウである。亭主の名を 犬につけて、叱《しか》ったり、ひっぱたいたり、お廻りさせたり、ちんちんさせたりして、ひそかにこ ころよしとする女房だっていないとは限らない。私は断然「小公子」の犬の名を襲わせる事に決 心した。  そこで記憶自慢の久保田万太郎氏に訊《き》いたところ、さすがに犬の名は覚えていなかったが、直 に調べて報告してくれた。   小公子の中に出て来る犬は若松|賤子《しずこ》の訳本にはダガルとあります。外の本はドゥガルとよん   でいます。右まで匆《そうそう》々  久保田さんはむかしをなつかしがる事極めて深いひととなりから、こどもの頃読んだ若松賤子 の訳本に愛着を持ち、ダガルにしろと勧めるのであったが、声に出して呼んでみると呼び悪《にく》いの で、ドゥガルときめてしまった。ダガルにしてもらいたかったなあと、久保田さんはその後も |口惜《くやし》がっていた。  九月二十三日の朝、愚妻と共に東京駅に出迎えた。汽車が着くと間もなく、檻《おり》に入れられた我 がドゥガルは、小荷物受取所にあらわれた。若い駅員が檻《おり》の戸をあけたが、出て来ない。頸《くび》に結 んだ細引《ほそびき》を引張っても身動きもしない。あまりに動かないので薄気味悪くなったらしく、駅員は 私の方に、大丈夫ですかと念を押した。大丈夫です、まだ子供なんですというと、へえこれで子 供なんですか、さぞ飯を喰うだろうなあと同僚をかえりみて笑った。私はドゥガルの後足をつか んで檻の外へ引出した。四肢の太い事、頭の大きい事、一見して大ものだという事がわかるので、 そこいらにいた駅員も、第三者も、一斉に驚嘆した。  歩かせようとしても歩かない。長途の旅の疲労と、狭い檻の中に閉籠《とじこめ》られていた不快のため、 心細そうにとぽんとしている。やむをえず抱きあげ、自動車の中へ運び込んだ。  教科書に書いてある通り、我がドゥガルは額、口鼻部、頸、前肢が白色で、橙黄色に黒をまじえ た斑が美しい。柔和な容貌《ようぎう》、悠揚迫らざる挙姿は、種族の高貴なる血統をおもわせ、彼《か》の英吉利《イギリス》 の貴族の城か、我が三井家の広き庭園に飼われてふさわしいものであった。だが、不幸なるドゥ ガルは、十数分の後、我が借家の庭に放たれたのである。  犬きちがいの弟は、あたかも勤務先の用命を帯びて遠地へ出張中だったが、その良妻は即日か けつけて来て、テレル夫人と比較し、テレルの方が遥《はる》かに発育がいい、しかし尻尾《しつぼ》に悪い癖がつ いたからその点はドゥガルの方がすぐれていると、あちらを立てこちらを立て、どっちにも花を 持たせた口上《こうじよとノ》を述べて帰ったそうだ。いよいよもって良妻といわねばならぬ。  こころみに近所の運送店の計量器を借《かり》て体重をはかってみたところ、五貫五百匁あったが、そ れではテレル夫人よりも三貫五百匁ばかり少ないのである。念のためその道の名医を聘《へい》して健康 診断をうけたところ、十二指腸虫がいるというので、直に下剤をかけて駆除をはかった。この疾 患のために発育が遅れたのであろう。うちのも負けずに育てましょうよと、愚妻は多分の競争心 を起し、良妻とうでを比べる覚悟を定めた。  二疋のシェパアドはのべついたずらをし、土を掘り、木の根を噛《か》み、自分たちの住む犬舎の屋 根を破壊し、塀《へい》の外を通る人に吠《ほ》え、寸時も静かなる心境を楽《たのし》む事を知らないのであるが、我が ドゥガルはゆったりと寝そべり、悠然《ゆうぜん》と歩を運び、いたずらに吠えず、みだりにかけ廻らず、王 侯の威風を示しているのである。  私は川喜田さんに、ドゥガル到着後二日間の動静と、あわせて小説「小公子」の中にあらわる るセント・バアナアド種の名をとってドゥガルとつけた事を報告した。  ところがその後近所に住む甥《おい》に「小公子」を借て来て読んでみると、私の記憶は全然間違いで、 気むずかしい老貴族と共に古城に住む巨大なる犬は、セント・バアナアドではなくてマスチフだ った。おっかない老貴族と共に人をおそれさせている犬としては、慈愛深きセント・バアナアド よりも、性|獰猛《どうもう》にして飼養|宜《よろしき》を得ざれば兇暴となるおそれありというマスチフの方が効果的で あって無理がない。おい「小公子」の犬はマスチフだった、しまった、しまったと愚妻に話すと、 だってメリイ・ピックフォードの小公子といっしょに出て来たのは、たしかにセント・バアナア ドでしたよと愚妻ながらも亭主をかばって、有力なる史料を提供した。そうだ「小公子」のよう なやさしい物語には、セント・バアナアドの方が情景あわせ得たるものがあるはずだと、勝手な |理窟《りくつ》をつけて、自分の失敗を少しばかり慰めた。  我家のドゥガルはまだ二週間しかいないのだが、今やめきめき発育し、確実に二貫目位は体重 を増したろうと思われる。犬好きのおかっちゃんは、ショウを曳《ひ》き、ジンを曳き、またドゥガル を曳いて散歩に行ってくれる。往来の人が目をつけ、ほめてくれるので、曳く人も相当得意らし いが、何分巨大なる犬の事だから、いたってかぽそいおかっちゃんの痩《やせ》うででは、引擦《ひきず》られる惧《おそれ》 がある。嫁入前の大切な娘さんに怪我《けが》があっては申訳がないので、今後犬の散歩は私の役目とす ると自ら買って出た。  ところが我家のドゥガルは、狭くて騒々しい往来を好まない。彼は街《まち》っ子の性質を持っていな い。それがこの種族の犬の先天的の特性なのか、あるいは広い所で生れ広い所で育ったドゥガル の習性なのか、とにかく門外へ出る事を欲しない。無理に木戸の外に引ずり出し、曳綱《ひきつな》を引張る のだが、自動車自転車荷車に脅《おび》えて、ちっとも散歩を享楽しない。そこへ行くとショウやジンは 散歩好きで、往来をかけ廻り、かぎ廻り、何か落ちているとやみくもに喰ってしまう。著しい相 違である。  その上不思議なのは、我家のドゥガルは大きな家を見ると、いきなり門内へかけ込もうとする 癖がある。番町の事だから、近所には大臣だの、元帥《げんすい》だの、大将だの、偉い政治家だの、偉い実 業家だのがずらりと並んでいる。その家々の門を見ると、安息所でも見つけたように足をはやめ て入ろうとする。やっと曳綱を引きしぼって方向を転換させるのだが、何処まで貴族的に出来て いるのか驚く外はない。あまり真剣に大家の門内にあこがれる姿を見ると、我家へ曳いて帰るの が気の毒になる位だ。  散歩区域の中では、四谷《よつや》から市《いち》ケ谷《や》へつづく見附《みつけ》の土堤《どて》が一番気に入っている。我家を出て四 谷へ向い、双葉《ふたば》女学校の角を曲ると、忽ちドゥガルは勢いづく。緑め土堤は、恐らく津市郊外の |千歳《ちとせ》山荘を想い出させるのであろう。歩度をはやめ、いそいそと歩き出す。犬が喜べば私も嬉し いから、散歩は土堤ときめているが、この頃の夜の土堤には、ぴったりと寄添っている男女が少 なくなく、中にはお湯屋へ行くふりをして家を出て来たらしく、湯道具を胸に抱いている女もあ るから、寸時も惜い逢瀬《おうせ》なのだろうとおもいやって、こちらの方で遠慮する場合もある。  ドゥガルが道行く人の目を引く事はいうまでもないが、時には人を驚かす事もある。既に川喜 田邸においては、電灯工夫が獅子《しし》と間違えて、はだしのまま台所口からかけ込んだ事件さえあっ たそうだが、この間の黄昏《たそがれ》に四谷駅前の石段の上に立っていると、下から上って来た細君同伴の 微酔の洋服子は、あ虎の子だと口走った。  我家のドゥガルはその性質も容姿も全く貴族的だ。いい犬ですなあと、称讃の辞を浴せて行く 人はいくたりとなくある。ただ主人ばかりがふさわしくないようだ。彼《か》の「小公子」フォントル ロイは、亜米利加で乾物屋や靴磨《くつみがき》と仲よしだったが、やがて英吉利の貴族の城のあるじとなるべ き品格はふたばよりあらわれていたそうである。だから、老貴族の城に飼われた獰猛《どうもう》なる犬も、 初対面からぴったりはまった伴侶《はんりよ》であり、主従であった。それなのに我家のドゥガルは、彼のド ゥガルにも劣らぬ名犬に相違ないのだが、主人は主人と見えない程度の主人なのだ。  どこのじいさんか知らないが、土堤《どて》の散歩の帰道で、もしもしと呼びかけたのがある。大変立 派な犬ですが、どちらさまので御座いますかと訊《き》くのだ。私のですよと中腹《ちゆうつばら》で答えたが、じじい は信じがたい顔をして、犬とあるじを見くらべた。そこいらのおやしきの犬の世話役と見たので あろう。だが腹は立たなかった。はなったらしの子供でも、いいおこさんだといわれれば喜ぶの が親心だ。ましてや我家のドゥガルは、もったいないほどのきりょうよしだ。主人が見劣《みおとり》する事 我家のドゥガル によって、確実に犬はほめられたのである。 (昭和五年十月五口)        il『一一面文学』昭和五年十一月号