独逸《ドイツ》皇帝万歳 水上滝太郎  国と国とのつきあいの親疎ほどあてにならないものはない。昨日の敵が今日の味方、今日の味 方が明日の敵となる事は、歴史を繙《ひもと》くまでもなく、私どもの眼の前で、いやになるほど見せつけ られた。今日我国において、英吉利《イギリス》は蛇蝎《だかつ》の如く忌み嫌《きら》われているが、明治三十五年日英同盟締 結当時の我国民の有頂天の有様を思い出すと、まことに夢のようである。もっとも、かつてはか しこきあたりで御進講の栄に浴した博士が国賊と狙《ねら》われたり、赤の運動はなやかなりし当時、あ らゆる嘲罵《ちようば》を浴びながら敢然これと闘い、国家から勲章でも授けられるのではないかと思われた 教授の著書が、実は共産主義を内に潜ませているものだと解釈されて発禁となる世の中だから、 昨日の淵《ふち》が今日の瀬となる事、これぞ浮世の実相と観じなければならないのであろう。  たしか一月の寒い夜風に吹かれながら、同盟慶祝の提灯《ちようちん》行列は、二重橋をめざしてつづき、宮 城をめぐって歓呼の渦を巻いた。私は慶応義塾普通部の学生であったが、義塾自慢のかんてら行 列の一員として、油煙に鼻の穴までも黒くし、満身に塵埃《じんあい》を浴びながら、福沢社中|文藻《ぶんそう》第一と称 された小幡篤次郎《おばたとくじろう》先生作る所の祝賀の歌をうたって練歩《ねりある》いた。   旭《あさひ》輝く日の本《もと》と   入日を知らぬ英吉利《イギリス》と   西と東にわかれ立ち   同盟契約成るの日を   世界平和の旗揚と   祝《ことほ》ぐ今日の嬉《うれ》しさや  その後|欧羅巴《ヨ ロツパ》大戦には、日英同盟の大義に基き、我国は英仏露の聯合軍側にたち、独墺《どくおう》同盟軍 を向《むこう》に廻し、青島《チンタオ》を攻略した事は、誰も知る通であるが、今日は独伊と防共協定を結び、英仏を 罵《ののし》らざるものは人にあらずという有様となった。  その大戦の大建者《おおだてもの》、独逸《ドイッ》皇帝ウィルヘルムニ世は、夙《っと》に黄禍論を唱え、日本の恐るべく憎むべ き事を宣伝し、その後政権を掌握した人物も、日本を罵倒《ばとう》し、日本人を猿とそしり、独逸娘と日 本人との結婚を禁じ、日本の書籍絵画の類《たぐい》を焼却するとかしないとか伝えられ、これに激昂《げつこう》した ものどもは、排虎《ヒツトラ 》などというあて字を考え出して僅《わずか》に鬱憤をもらしたが、今や彼《か》の国の認識はあ らたまり、堅き盟約に国民は酔い、その国の青年団が大和《やまと》島根を訪れると、熱狂的歓迎をもって これを迎える仲となった。まことに目出度限《めでたいかぎり》である。  伊太利《イタリア》にしても同じ事で、つい先頃エチオピアとたたかった時は、強きを挫《くじ》き弱きを扶《たす》ける仁《にん》 鱗精神から、一部熱血の男児の中には、エチオピア出兵説さえ唱えられたという・悲憤籘の 書生は一団を成して伊国大使館に赴《おもむ》き、大使に面会を強要し、決議文をつきつけて帰ったという 噂《うわさ》もあった。それもこれも総《すべ》て昨日の事で、ひとたび釈然手を握れば、防共協定祝賀の提灯行列 の先頭にたち、大使館の前で心の底から万歳を唱えたのも同じ書生たちであったであろう。まこ とに目出度|極《きわ》みである。  あれこれ考えあわせると、いったい我国の一部の人たちは、日英同盟の昔から、実は独逸|贔屓《びいき》 だったようにも思われる。商売人は別として、官吏は明白に独逸贔屓だったようだ。昔々、私が 倫敦《ロンドン》へ渡つた頃、あたかも欧羅巴大戦の勃発《ぽつばつ》に、命からがら独逸を引上て来た同朋が沢山いた。 殊《こと》に官吏が多く、彼らは口を極めて窮屈な倫敦を罵《ののし》り、居心地のよかった伯林《ベルリン》を恋しがった。お もい見よ、日本は英吉利と共に独逸と戦っているのだが、人の感情というものは、これを如何《いかん》と もする事が出来ないのである。彼の黄禍論を唱えたカイゼルの国が、何故そんなに恋しいのか。 ひそかに思うに独逸の婦人は英吉利の婦人よりも日本人を毛嫌いしなかったのであろう。  しかし、英吉利は我が同盟国である。活動写真館に入っても、聯合国側の元主大統領の写真に 拍手を送ると同時に、おそれおおくも大日本帝国の天皇陛下の御肖像を映写したてまつり、旺《さか》ん なる喝采《かつさい》を以て迎えたてまつるのであった。即ち英吉利人も心から歓喜の情を示していたのであ るが、どうも英吉利は虫が好かない、独逸の方がいいという人が少なくなかった。それはまこと に根ざし深く、今にして思えば画一を好む人々の当然の傾向であったのだ。  私は大正五年の秋、喜望峰を迂廻《うかい》して日本へ帰る船に乗った。我が商船が地中海において、敵 国独逸の潜航艇に撃沈された後で、平生《へいぜい》の航路を通るのは危険が著しかったのである。乗客の多 くは英吉利人で、仏蘭西亜米利加《フランスアメリカ》が少々、日本人は陸軍中尉某氏と学生私であった。中尉は倫敦 で神経衰弱のために自殺したといわれる某少佐の遺骨を持って帰る任務を負わされていたが、夜 な夜な白骨にうなされて安眠出来ないから、別の船室に寝かしてくれと申出て船員たちの憫笑《びんしよう》を 招いたが、私はその正直な申出に好感を持った。いかにも良家に育った坊ちゃんらしく、負惜み のないのが心地よかった。この人は酒好きで酔うと無邪気な自慢をはじめ、自分の父親が明治の 功臣である事、永田町の家の庭には大きな池があって、これに船を浮かべて月見をしようとか、 |美貌《びぼう》の妹がいるからお前の女房にやろうとか、無責任な事をいう上戸《じようご》であった。われわれ如きは、 そういう身分の高い人の女と結婚すべきものではないと固辞しても、酔った中尉は承知せず、我 輩の命令だ、いやとは言わさんぞといよいよ御機嫌になった。独艦の襲撃の心配はあったが、ま ことに楽しい航海で、生涯忘れられない思い出である。  船が新嘉坡《シンガボ ル》、香港《ホンコン》につくと、倫敦《ロンドン》からの連中は大概下船し、客の顔が大分変った。新しい客も 多くは英吉利《イギリス》人だったが、日本人も乗った。異色のあるのは海軍軍人数名の一行と、京都帝国大 学法学部教授市村光恵博士であった。博士はフロックコオト姿で乗船したが、忽ち浴衣《ゆかた》に変り、 |裾《すそ》をまくって越中褌《えつちゆうふんどし》を自慢そうに見せ、平手で尻を叩《たた》き、酒場に陣取って酒を飲みながら、英 吉利罵倒に終始した。私どもが倫敦から乗船したのに反感を持ち、しきりに喧嘩《けんか》を売ろうとし、 中尉はよく我慢し通したが、私はあわやウイスキイの壜《びん》を振上げて渡合おうとした。  日本はその時独逸を敵として戦っているというのに、この博士は大戦の結果は必ず独逸が勝利 を得、英仏露の聯合軍が敗北すると確説し、或時は英人を集めてその手に手に杯を持たせ、麦酒《ビ ル》 をつぎ、円陣を作り、自分はその中央に立って、独逸皇帝万歳を叫んだ。聯合軍の万歳が叫ばれ るものと予期していた英吉利人どもは、あっけにとられて為《な》す所を知らなかった。  帝国大学教授は官吏である事、敢《あえ》て文部大臣荒木陸軍大将の号令を俟《ま》たずともわかっている。 市村博士もまた自由主義の英吉利を好まず、統制的の独逸が贔屓だったに違いない。不幸にして 博士の予言は当らず、独逸は敗戦国となり、黄禍論を唱えた独逸皇帝は隠棲《いんせい》の身となり、幾度か の政変を経てヒットラアの天下となり、今は旧怨《きゆうえん》を忘れて我国と防共協定を結ぶに至り、かつて は同盟の誓をかわした英吉利は、少なくとも感情の上において、かえって敵方に廻ってしまった。 その後中尉は少将まで栄進したが、比較的若くして世を去り、市村博士も沢山の逸話をのこして 死んだ。  私は日本における独逸贔屓の代表者として市村博士の独逸皇帝万歳を思い出す。当時の世の中 には何といってもゆとりがあった。英吉利こそは同盟国であり、共同策戦にあたっているという のに、当面の敵独逸皇帝の万歳を、英吉利人及我が海陸軍人の面前において叫び、周囲の人々は これを笑って済ませたのである。もしも今日英吉利皇帝の万歳を叫ぶものがあったと想像して見 るがいい。狂人と認められれば幸いで、正気の沙汰《さた》と考えられたら、非国民か売国奴として、忽 ち袋叩きにあうであろう。 (昭和十三年十二月五日)                            il『三田文学』昭和十四年一月号