芥川竜之介氏の死 水上滝太郎  昭和二年七月二十四日芥川竜之介氏|逝去《せいきよ》。その日私は朝から他出して、夕方帰宅した。入浴し、 食事をして、机にむかおうとしているところへ久保田万太郎氏から電話がかかった。  「芥川さんが薬を嚥《の》んで死にました。」  久保田さんの声はふだんよりも高く、ふだんよりも一層せき込んでいた。私は電波を全身に感 じた。  「自殺ですか。」  「そうです。九時に新聞社の人に集ってもらって発表します。」  久保田さんの昂奮《こうふん》している様子を感じて、私は多く訊《き》く事を差控え、直に芥川さんの御宅へ出 向く事にして電話を切った。  「誰か、どうかしたんですか。」  最初に電話を取次いだ家内は顔色を変えていた。  「芥川さんが自殺したそうだ。」  私は直に出かける身支度《みじたく》をした。  「芥川さんが? どうなすったのでしょう。」  たった一度、拙宅へ来られた時しか御目にかかった事はないのだが、家内は平生《へいぜい》芥川さんを尊 敬していた。もとより文学なぞはわからないのだが、宅へ集まる人々の口から伝えられる氏の風 格を敬慕していた。しきりに事の顯末《てんまつ》を訊《き》こうとするのだが、私とても何も知らない。想像をた くましくして人の死を噂《うわさ》するのは礼を失する事だと思って、一種の不機嫌《ふきげん》な沈黙をつづけた。  先ず御近所の泉鏡花先生に御しらせしなければならないと思いながら、家内の揃《そろ》えてくれる衣 類を前にしているところへ、泉先生の奥さんがいらっしゃった。先生の方へもたった今久保田さ んから知らせがあったので、これから里見諄《さとみとん》氏を誘って芥川氏の御宅へ行くというのであった。  真暗な夜で、雨がしきりなく降っていた。泉先生のところで里見さん、中戸川さん、小村|雪岱《せつたい》 さんを待合せた。  田端《たばた》までの道は遠かった。おまけに道を間違えて、大変手間取った。その間、みんな言葉数は 少なかった。  私はさまざまの事を思い、心持は沈んで行った。久保田さんが電話で「芥川さんが薬を嚥《の》んで 死にました。」といったのに対して「自殺ですか。」とききかえした事が変に気になった。あたり の人をはばかる心づかいではあろうが「薬を嚥んで死にました。」というのは、いかにもおもい やりの深い言葉だ。それだけで自殺という事ははっきりわかったが、私はつい「自殺ですか。」 と露骨にたしかめた。なんという言葉づかいの荒さか。恐らく私が久保田さんと位置をかえてい たら、私はいきなり「芥川さんが劇薬を嚥んで自殺しました。」という言葉で電話をかけたであ ろう。私は久保田さんの奥床《おくゆか》しいひととなりに比べて、いかにもがさつな自分を恥じた。さすが に久保田さんは生れながらの芸術家であると思った。  芥川邸へ着く頃はいとど雨がしげくなった。今、近所の貸席で、新聞記者に対して事の次第を 発表しているところだという事で、御宅の方は割合に人数が少なかった。夫人や母堂に対しては、 ただ頭をさげる外に言葉がなかった。悲歎の底にありながら、とりみだしたさまを見せまいとつ とめるけなげな心には涙を誘われた。奥の間に安置された遺骸《いがい》にむかって焼香した後で、二階の 書斎で貸席の方へ行っている人々を待った。  昨夜まで、主人のいた書斎だ、机の上には読みかけた本や、読捨てた手紙が雑然としていた。 インキの瓶《びん》にはペンがささっていた。それによって命を絶った二種の催眠薬が並んでいた。机の 上には、薬が多量にこぼれていたそうである。  私は芥川さんとのおつきあいを回想した。常々口にするのだが、私は文学は好きだけれど文壇 は好きでない。文壇のおつきあいは努めて避けている。知名の文学者でも、お互に知らない人の 方が多い。芥川さんとの御つきあいも決して深いものではなかった。ただ私は、この人だけは進 んでおつきあいを願いたいと思った。今になって殊《こと》にその感が深い。  最初に芥川さんと逢《あ》ったのは大正六、七年頃かと思う。麹町《こうじまち》富士見町の新詩社の短歌会の席上 だった。生田長江《いくたちようこう》、高村光太郎、佐藤春夫の諸氏が出席したように記憶するが、それは別の時か も知れない。遅ればせに席に加《くわわ》ったのが芥川さんと江口渙《えぐちかん》氏だった。両氏とも初対面だった。芥 川さんは私の隣へ来て坐った。  芥川さんは歌についても一家の見を持っていたようだが、その歌風はアララギ派に属するもの と称して差支《さしつかえ》ない。新詩社の短歌会は互選だった。芥川さんは僅《わず》かに二、三首を投じただけだっ たし、歌風も違うので、多くは選ばれなかった。  席上僅かの会話のうちで、私が当時『三田文学』につぎつぎに発表していた外国を舞台にした 小説をほめてくれた。  「近頃あなたのおかきになる外国物はいいですなあ。」 というような言葉だった。敢然とものをいうという態度を示しながら、ひどく羞《はずか》しそうな様子を 伴った。羞しがりをまぎらすための敢然たるものいいであったかもしれない。  文壇の人は好んで「いいですなあ。」とか「感心するですなあ。」とか「怪《け》しからんではないで すか。」とかいうような言葉を使う。軍人が、東京生れたると東北生れたるとを問わず、「そうじ ゃ」「いっちょる」というような九州弁を使うほどあさましくはないが、文壇人の「ですなあ」 訛《なまり》も随分耳ざわりである。『新潮』の合評会の速記なぞを読むと、すべての人が「ですなあ」訛 だ。速記者の癖ばかりでもないらしい。芥川さんの「ですなあ」もひどく似合わないものであっ た。その不似合な言葉と、特異の美貌《びぽう》——殊に素晴らしい魅力を持つ眼の印象が長く残った。  その後、大勢集まるところで二、三度逢った事はあるが、親しく話をする事はなくて、久しく 過ぎた。  偶々《たまたま》大正十三年に『鏡花全集』上梓《じようし》の計画が立って、小山内薫《おさないかおる》、谷崎潤一郎、久保田万太郎、 里見弾、芥川竜之介の諸氏と共に、私も参訂者として御相談にあずかる事になった。これが機縁 となって、しばしば芥川さんと談笑する喜びを得た。  『鏡花全集』の相談会では、芥川さんは一番年少だったし、また他の入同志のつきあいほどへ だてのないつきあいはなかったためか、一座の中で一番言葉数少なく、慎み深かった。全集とい う大きな仕事を中心にして、めいめいの異なる性格のあらわれるのを、小説家の興味をもって見 ている態度だった。本屋の番頭さんを相手に、里見さんや私がずばずば口をきくのには驚いたと いった。芥川さんや久保田さんは、東京人のつつましやかな心づかいから、面とむかっては本屋 側の心持をいたわる事に多く心が働くのであろう。里見さんや私は、仕事のためなら何をいって も許してもらえるつもりで、将棋にいわゆる王手を次から次と打ったのだ。番頭さんが口惜泣《くやしな》き に泣き出すという場面さえ現出した。  その頃から、先方ではどう考えていたか知らないが、私の方では非常に親しい心持で芥川さん に接した。常に久保田さんが間にあって、度々会合の機会をつくってくれた。拙宅へも来てくれ た。招かれて自笑軒《じしようけん》で御馳走《ごちそう》になった。酒は飲まなかったが、芥川さんは痩《やせ》っぽちに似合わぬ健 啖《けんたん》だった。よく喰い、よく談じた。やはり敢然とものをいう態度と羞《はずか》しさとのまざったかたちで 「ですなあ」訛《なまり》をさかんに使った。議論めかしい事に及ぶと、機智と諧謔《かいざやく》で巧みに論旨をまぶし てしまう話振りだった。  最後に逢ったのは昨年の三月で、その時は、しばらく病気で鵠沼《くげぬま》に行っていた芥川氏の帰京を 迎える意味で、久保田さんが二人を誘ったのであった。場所は日本橋の浪花家《なにわや》で、久保田さんと 私は例の如く酒を飲んだが、芥川さんは何時もほど健啖でなかった。ひどく元気がなく、その不 元気に誘われてわれわれも活撥《かつばつ》に喋《しやべ》る心持にならなかった。  「あなたは大変疲れている。毎月『文藝春秋』で拝見する「侏儒《しゅじゅ》の言葉」にもその疲労があら われています。文字に気力がありません。」  私はよほど前から芥川さんの書くものに気力の衰えを感じていたので、敢てそういった。  「ええ全く疲れています。身心共に疲れているんです。」  芥川さんは直に応じて、肉体の強壮でない事を嘆じた。  「生存力を失ってしまったんですなあ。」  それにはやはり敢然とものをいうという態度を示した。  強い体をもって酒を飲むのが羨《うらやま》しいというような話から、しきりに酒客の噂《うわさ》が出た。近いうち に斎藤茂吉氏と私とを一座させようと芥川さんは予約した。  それっきり芥川さんには逢わなかった。『三田文学』が復活してから、私は一層世間へ顔を出 さなくなった。いよいよ暇もなくなったのだ。ただ時々著書を送ってくれたり、手紙をくれたり した。  芥川さんは死ぬかもしれない1私は浪花家の日以来、時々そう思った。引続いて芥川さんの 書くものには気力がない。最近超人的の馬力で書くものにも、焦躁《しょうそう》の気が著しくて充実した力が 乏しかった。「文芸的な余りに文芸的な」——この題は実にいやだ。「ですなあ」以上である。芥 川さんともあろう人がどうしたのだろうと、私は雑誌を手にすることに不愉快に思った。——の 如きも、あせりにあせっていて感心出来なかった。谷崎潤一郎氏との論戦の如きも、論旨|如何《いかん》は 別として、気力|旺《さか》んなる相手に対して、芥川さんは呼吸が切迫しているように思われた。私の不 吉なる予感は消えなかった。しかし、それは病弱の人の体を心配したのであって、決して自殺を 予知したのではない。  芥川さんが倚《よ》り馴《な》れた机の前で、劇薬を嚥下《のみくだ》した場所に坐して回想しているうちに、私は段々 感傷的になった。最も親しく出入していた人の話によると、芥川さんは二年位前から死を決して いたという事である。自殺未遂とも見るべき行為もあったそうである。よく観《み》、よく知り、よく |味《あじわ》った事を自ら痛感して、生を惜む心がなかったという事である。今貸席の方で、新聞記者に対 して読みあげている遺稿にも、その事はうかがい知られるという事であった.果して二年前から 死を決していたとすれば、私とのおつきあいはその決心の後であったかもしれない。この世の中 に執着を失った人の目の前に、私の存在が何であったか。私の心は一層暗くなった。  やがて貸席の方から、次第にみんなが帰って来た。誰も異常に緊張した顔つきで、口々に憤慨 しているのは、半ぺらの原稿紙十八枚に認《したた》めてあった遺稿を、新聞記者の乞《こ》うがままに写させ、 写真をとらせている間に、二枚紛失したというのである。盗まれたというのである。故人が死ぬ 前に「ある旧友へ送る手記」と題して認めたものである。故人が最後の呼吸の一字々々に通って いるものである。家族の方々にとっても、友人にとっても大切なものである。委員は辞を低くし て返戻《へんれい》を求めたそうだが、誰人のポケットの中に納まったのか、行方《ゆくえ》はわからなくなってしまっ た。しかも、新聞社の人々も、 一座の者がポケットに入れた事を認めていて「とったのはあっち の方だ」などと指さして叫ぶ者もあったそうだ。新聞社独特の、手段を択《えら》ばぬ所業《しわざ》である。他を 出抜《だしぬ》いて特種《とくだね》を競わんとするものか、単なる蒐集癖《しゆうしゆうへき》から出たものか、後日珍品として他に誇示せ んとするものか、あるいは芥川氏崇拝の極この無分別を敢てしたのか、動機の如何《いかん》にかかわらず、 余りといえば乱暴である。近来世間で「新聞社に対抗するには暴力の外に手段がない」という声 を聞き、また実行に及ぶ者もあると噂にきくが、なるほどその外に手段はあるまいと思われた。 世の中は益々悪くなる。芥川さんが見限ったのも無理はない。  夜半、われわれは家人の疲労を加うる事を惧《おそ》れて辞去したが、あらためて焼香し、芥川さんの 死顔を拝した。  芥川さんの死相は荘厳だった。劇薬は人の相貌《そうぼう》を醜くすると聞いていた私には、劇薬で死んだ というのは間違ではないかとさえ思われた。芥川さんほどつきつめて死の境地をのぞんだ人は、 死のうと思うおもいだけで、静かに息を絶つ事が出来るのではないだろうかーそういう拠所《よんどころ》の ない考が、ひとつの信念のような力をもって浮んだ。安心と満足が死顔に美を加えた。安らかな る眠りという言葉そのままであった。しかも凜然《りんぜん》たるところがあった。何ともいえない厳粛な感 じが胸に迫った。  かくまでに端正なる死顔を保ち得た事を知ったなら、恐らく芥川さんは、死後その作品の永く 世に残る事よりも深く喜んだであろう。死の手段を冷静に考え、縊死《いし》や轢死《れきし》に対しては美的|嫌悪《けんお》 を感じた人だ。生前、文人としての態度、言語動作、衣服の事に至るまでたしなみを忘れなかっ た人だ。何らとりみだしたあともなく、美貌生けるが如くして死に得た事は何よりの満足であろ う。  芥川さんは何故死んだか。誰しもこの悲報を耳にした時、直に思い浮べた疑問であろう。新聞 に遺書として発表されたのは、われわれが普通に考える「かきおき」ではない。恐らくほんとの 「かきおき」は、夫人|宛《あて》のものと、友人菊池寛氏宛のものであろう、それは発表されていないか らわからないが、それを読んでも何故死んだかはわかるまい。文字に残されたものによって死の 原因を知る事は困難である。よく、「私は今喜んで死んで行く」というようなかきおきがあるが、 だからといってその人の心が歓喜のみでみたされていたと考えるのは無理だ。  「ある旧友へ送る手記」は一篇の随筆と見てしかるべきものと思う。一般にいう遺書としては 余りに文学的である。私はむしろ遺稿と呼びたい。その中には、自殺者自身の心理をはっきりと 伝えたいと書いてあるが、また直ぐ後に「もっとも僕の自殺する動機は特に君に伝えずとも宜 い」と明言している。この遺稿が自殺の動機を明かにしようとしたものでない事は疑う余地がな い。その点について僅《わず》かに下の如く記されているばかりである。  「少なくとも僕の場合は、唯《ただ》ぼんやりした不安である。何か僕の将来に対する唯ぼんやりした 不安である」  これに対して、いろいろ忖度《そんたく》するのは慎むべき事であろうが、しかしその死を悼《いた》む事深く、ま たその死のやむなき事をも痛感する者が、世俗の疑惑誤解を解くために、一言を費す事は許して もらえると思う。  古今東西にわたって、芸術家の自殺は他の仕事に従事するものよりも遥《はる》かに多い。生活難で死 んだものもあろう。恋愛の破局のために死んだものもあろう。気ちがいになって死んだものもあ ろう。生よりも死を択ぶ人生観をつきつめて死んだものもあろう。それを細かに分《おか》つ時は際限が ないが、何故《なにゆえ》に芸術家は他の仕事に従うものよりも多く自ら命を絶つのであろうか。人にすぐれ て敏感なのも、神経質な事も数えられるであろうが、それよりもその仕事を生命とする念の強さ が第一の原因ではないだろうか。  芥川氏の死後、某新聞に某実業家の談として「働く事に徹すれば死ぬ事なんぞ考えない」とい う意味の言葉があった。芥川氏の死を嘲《あざけ》ったものである。小説家なぞというものは、のらくら遊 んでいるものだときめてかかっているような言葉もつけ加えてあったが、作家の生活はそんなも のではない。殊《こと》に芥川さんの如きは、もう少しのらくらしていてくれたら、死ぬ事なぞは考えな かったに違いない。真剣に生きんとしたために、死んだのである。親分子分の関係で出世をした り、閨閥《けいばつ》で引立てられたりする事の多い政界や実業界とは違う。一度重役になれば、存外頭が働 かなくてもその地位を保つ事の出来るのとは違うのだ。心をくだき骨を削る苦心は、トタン板の 如くかけがえがありあまり、安価に間に合う人間にはわからない。  芥川さんの生涯は僅かに三十六年で終った。その最後の十年間が文学者としての活動に捧《ささ》げら れた。はなぱなしく世に出て、その名声の頂点において死を択んだ。尾崎紅葉先生は三十八歳で 世を終り、樋口一葉女史は二十五歳で死んだ。いずれも短い一生であるが、しかしその生涯を充 分に生きた人である。芥川さんもまた短い月日の間に、彼が芸術家として恵まれた一切を表現し て死んだ。命数においては憾《うらみ》があるが、最もよくこの世に生きた人の一人である。芥川さんは死 に臨んでこの点をかえゆみ、安らかな心境に到達し得た事を疑わない。  芥川さんは明晰《めいせき》な頭脳を恵まれたかわりに、虚弱な肉体を与えられた。常に病気に脅《おびや》かされ悩 まされた人である。もし一身を打込む精神的活動がなかったならば、この世は最初から住みにく いところだったに違いない。  もし芸術-殊に文学がこの世になかったならば、芥川さんの一生は、氏にとって生甲斐《いきがい》のな いものであったろう。芥川さんは文学に遊び、文学のために死んだといい切っても差支えあるま い。私は芥川さんの死の原因を徹頭徹尾文学そのものにあると見る。文学によって生きた人が、 文学のために殺されたのである。文学と心中したのではない。あまりに偉大なる「文学」は、冷 酷につっぱなして、唯一人死んで行く芥川さんの姿を厳《おごそ》かに見守っていたのだ。  仮にもし、芥川さんが自分の芸術境の行き詰った事に心を労して死んだとするならば、芸術至 上主義者の死として私は讃美したい。  当今多くの文士は、自分の仕事に対して真剣な心持を失ったように見える。商売とでしゃばり だ。麻雀《マージヤン》だ。将棋だ。花合《はなあわせ》だ。野球だ。競馬だ。カフェだ。本屋のひろめやだ。通俗小説の美 名?にかくれて低級小説を売るのだ。芥川さんにしてそういう気散じに浮かれる事が出来たな らば、ゴシップ的名声を一身に担《にな》って天寿を全《まつと》うする事が出来たであろう。悲しいかな芥川さん は、余りに文芸的であった。  芥川さんの死は人々に反省を強《しい》るものである。私は芥川さんの荘厳な死顔を拝した時、はげし い鞭《むち》をもって発止《はつし》と打たれた感があった。芸術家の生涯は遊びではない。死に面したる真剣の仕 事である事を痛感した。 (昭和二年八月四日) -『三田文学』昭和二年九月号