牧野信一 吊籠と月光と  僕は、哲学と芸術の分岐点に衝突して自由を欠いた頭を持てあました。息苦しく悩ましく、砂 漠に道を失ったまま、ただぼんやりと空を|眺《なが》めているより他に始末のない姿を保ち続けてい仇。  いつの頃からか僕は、自己を三箇の個性に分けて、それらの人物を架空世界で活動させる術を 覚えて、幾分の息抜きを持った、でなく、あの|迷妄《めいもう》を|一途《いちず》に持ち続けていたらあの|遣場《ヤちやりぱ》のない情 熱のために、この身は風船のように破裂したに相違あるまい、  僕の三箇の個性というのはこうだ、  Aは、 「|諸《むろもろ》々の力が上昇し、下降して、黄金の|吊籠《つるべ》を渡し合う。」           のんき                                のこ  言わば、その流れの呑気な芸術家である。だからAは、その言葉を吾々に遺したあの中世紀の 大放蕩詩人の作物を愛諦して、いとしみからと思えば憎しみで、憎しみからと思えばいとしみで、 あれからこれへ、これからあれへ、|転《ころ》がそう転がそう、この|樽《たる》を、セント.ジオジゲイネスの樽 のように、- とか、兵士の歌だよ、今日は白パン、明日は黒パン・.--そんな歌ばかりを|口吟《くちずさ》み ながら、昆虫採集で野原を駆けまわったり、「マーメイド・タバン」の一隅で詩作に|耽《ふけ》ったり、 手製の望遠鏡で星を眺めたり、浮気な恋に|憂身《るきみ》を|竃《やつ》したりしているのであった、、  Bは、   `                       なんじ                           あた 「その父・母・妻・子・兄・弟、そして汝自身の命をも憎まざる者は吾が弟子たる能わず。-一  1ーの聖人の忠実な下僕であった。そして彼は、「マルシアス河の悲歌」の作者ユウリビデス を退けたストア学徒の血を|享《う》けて、悲劇を|畷《わら》い、ひたすら神と力を|遵奉《じゆんぽう》した。論理的技巧を棄て て理性の統一から最も明瞭なる健全な生活を求めなければならなかった。  Cは、ピザの斜塔の頂きに引き籠って、大小数々の金属製の球を地上に落下して、「落下の法 則」を発見したあの科学者の弟子である。Cは、いつも悲しそうな顔ばかりしていた。なぜなら 彼がいか程熱心に多くの球を投げ出して、その落下状態を研究したところで、決してあの|科《ちち》学者 の発見に|依《よ》る「落下の法則」以上の定理を見出し得ないばかりでなく、ただ|徒《いたず》らに落下した球を 拾っては再び塔の上に昇り、また落し、注視し、また拾い;ーを繰り返すに過ぎなかったから。  或日この三人が、諸国遍歴の旅に出かけようという相談をした。どこへ行ったところてどうせ これ以上のことはないというあきらめを持っている憂轡なCは、|厭《いやいや》々であったが、持物といって                      きむ北か は金属性の球だけをポケットにして、饒舌なAや気難し屋のBと共々打ち連れて、先ず都をさし て旅にのぼった。言うまでもなくこの三人の者は常々不和の仲で、途上で出会っても|砥《ろくろく》々挨拶も 交したことのない程の問柄なのである。  これだけの糸口を考えつくと僕は、急に愉快になって寝台から飛び降りた。僕の頭は梅雨期を 過ぎ.て初夏の陽が輝いたかのように|爽《すがすが》々し、\なったc  僕は名状し|難《がた》い|嬉《うれ》しさに|雀躍《こおど》りしながら、壁飾りに掛けてあるアメリヵ・インデアンの鳥の羽 根のついた冠りを取り、インデアン・ガウンを羽織って(全くそんなことでもしなければ居られ なかった、一体僕は馬鹿で、悲喜の現れが露骨で、例えばこの頃でも、おそらく生活には要がな いにも|拘《かか》わらず|梢《やや》々ともすると幾何や代数の解題を試みるのであるが、極く|稀《まれ》に自力で問題が解 ける場合に出会うと、狂喜のあまり不思議な音声を発したりするのである。その声があまりに突 拍子もなく大きくて、夜中などであると、吾家の熟睡にある同人連は|霧《おぴただ》しい迷惑を|蒙《こうむ》り、翌朝 それがために寝坊を余儀なくされ、そして僕は朝飯が待ち切れずに停車場の待合室へ|赴《おもむ》いて汽車 売の弁当を喰べなければならなくなったりする。・-…で、今も、思わず歓呼の声を挙げかかった のであったが、|咄嵯《とつさ》の間にそれに気づいて、幸うじて口を絨したわけである。が、どうして、幾 日も幾日もの轡屈の床で、光明に|目醒《めざ》めてじっとしていられよう!)|節《ふし》面白くインデアン・ダン スを試みずには居られなかったのである。  僕は、これから三人の旅人が不思議な旅路をたどり、様々な出来事に出会うであろうことを空 想し構想し得るのがこの上もなく愉快であった。あまり長い問僕は「無」の放浪に、そして、彼 等の、これ以上進みようのない不和の姿を|切《せつ》なく見守り続け過ぎた。僕は、「兵士の歌」のAを、 バンヤンの|瞼路《けんろ》に向けて悪魔と戦わせてやろうか、気難し屋のBをラ・マンチアの紳士と相対せ しめて問答させてやろうか、ピザの学生をスイフトの飛行島に赴かせて、ラガト大学の科学室を 見学させて|度胆《どぎも》を抜いてやろうか・-…などと思うだけでも、面白さに吾身を忘れた、 「|呪《のろ》われた原始哲学よ、喧うべき小芸術よ、|惨《みじ》めな昨日までの|感情《アつエクテ》の国土よ1」  僕はこんなことを|眩《つぷや》きながら、|不図《ふと》気づくと村の街道に降り立っていた。僕は、|鞭《むち》のように細 長い剣を持っていた。これも壁に.、≦》田∪》..のペナントの下に、十字を切って|懸《か》けてあった 練習用のτ言畠ω≦・三の一つであった。これは|伊達《だて》に飾ってあるのではない、僕は朝夕これ を執って、吾家の同人の誰でもを相手に剣術の練習をする、|堪《たま》らなく気が|滅入《めい》って始末のつかぬ 時には、これで戦争ごっこをして気分を晴す、武者修業物語を読んで興奮すると、これを振り廻 して作中人物に想いを擬する、  月の輝き渡った白い街道である。丘の中腹にある吾家の窓を振り返ると、鳥が|脱《ぬ》け出た後のよ うに窓の扉が伸々と夢幻的に外に向って開いている。  僕は剣を振り|繋《かざ》しながら明るく平坦な街道を駆けていた。頭の鳥の羽根が、バサバサという音 をたてて馬鹿に心地好く|堀爽《ごつそう》として風を切っているc 「詩人も続け、哲学者も物理学生も俺に続けー!っ国境の丘まで見送ろう、、」  と僕は叫んだ、、そして僕はこんなことを思った..(,お前達を修業の旅に送ってしまった後の、 孤独の俺こそ、本来の俺の姿だ。今夜限り俺はお前達とも縁がないのだ、」 「マーメイド・タバンの|酌婦《ウエ トしス》には、お前から俺の言葉を伝えておいて呉れ-i玉虫を見つけた ら旅先から届けるからに、俺の君に寄する複雑な愛の|徴《しるし》として胸飾りにしてくれーーと。」  と詩人が僕にささやいた。あんな薄ぎたない居酒屋を、おそらくキイッの詩か何かで形容した ことなんだろうが、マーメイド・タバンだなどと呼び|馴《た》れて、|現《うつつ》を抜かしていた詩人のお目出度 さにはあきれたものだ-1と僕は苦笑を|湛《たた》えながら、 「桂冠詩人よ。」  と|煽《おだ》で.で、やった.、一、都に行くとお前は宝石店の飾り窓に|七宝《しつぼろ》の|翅《はね》を牛}た黄金の玉虫を見出す であろう。マーメイドの恋人の愛をつなぎたかったら宝石店の玉虫を送り給え。」 詩人は僕の別れの言葉を上の空に聞き流して、例の、 「これからあれへ、あれからこれへ!」と声高らかに歌いながら意気揚々と月明の丘を降って行 った。 「不安は事物に対する吾等の臆見がもたらすものであって、本来の事物に不安の伴うものではな い。愚人にのみ悲劇が生ずる。俺はオディセイに従って、森を抜け出た野獣の如くに・誰俺自 体の力を信じて行こう。」  とBは、万物流転説を遵奉するアテナイの大言家の|声色《こわいろ》を|捻《うな》りながら未練も残さず出て行った。 不安も悲劇も自信も僕にとっては馬耳東風だ、あまりBの様子振った態度が|滑稽《こつけい》だったから、 「馬鹿な自信を持って|却《かえ》って不安の|淵《ふち》に足を踏み入れぬように用心した方が好いだろう。この弓 をやろうじゃないか、腹の|空《す》いた時の用心に  」  と、注意しようかと思ったが、振り向きもしないので止めた。で僕は、弓なりにした剣の間か ら、敬うとも畷うともつかぬウインクスを投げただけだった。  Cは、無言で、ポヶットの中の球を金貨のようにジャラジャラ鳴らしながら、とぼとぽと行き 過ぎて行った.」 「さあ、これで俺は|愈《いよいよ》々俺ひとりの天地になった。1ーベリイ、ブラィト!」  僕は、薄明の|彼方《かたた》に消え失せる彼等の姿を見送って、丘の頂きで|双手《もろて》を挙げて絶叫したコ  昼間は野山を駆け廻って糧食を求め、夜は炉辺に村人を集めて爽快な武者修業談を語ろう。僕 は、「|思惟《しい》の思惟」に依って|撒檀山《かんらんざん》を夢見る哲学者を憐れみ、ヂオヂゲネスの樽をおしている詩 人を軽蔑し、統一のための統一に無味無色の階段を昇り降りし続けている物理学生と絶交して|快 哉《かいさい》の冠を振った。  そして彼等の、どんな憂目を見るであろう旅の空を想うのが痛快であった。  こんな想いに有頂天になった僕は、ホップ・ステップで山を駆け降り、Aの|所謂《いわゆる》マーメイドの 前に来かかると、 「あら、マキノさんだわ。」         さけつぎおんた                         ふさ                しぱら  と叫んで、あの酒注女が駆け出して来て僕の行手を塞いだ。そして梢々暫く僕の姿を不思議そ うに眺めた後に、 「そんな恰好で、あたしの眼をごまかして通り過ぎようとしたって駄目よ。」と甘えながら僕の 胸に|兜《よ》りかかった。…-「よう、どうしたのよ、いつものように折角お迎えに出たあたしを、抱 きあげて早く店の内へつれてって頂戴よ、」 「あんな詩人の真似は出来ない、僕には  」 「とぼけるない!」 「決して  c僕は今夜、七郎丸に頼んだ夜釣りにつれて行って貰うつもりで、他に適当な着物 が見つからないので、それでこんな装いをして来たんだよへ、」 「じゃ、これから七郎丸の家へ行くつもりなの?」 「猟があってもなくっても帰りは|屹度《きつと》寄る、手柄話をお待ちよ。」  僕は、胸を張って得意そうに剣を振った。すると女は、いきなり僕の胸を力一杯の|拳固《げんこ》で突き 飛したご 「|嘘吐《うそつ》き! こんな月夜の晩に夜釣りがあって堪るものか。」 「おお、そうか!」  と僕は、たじろいだ。「夜釣りは|闇夜《やみよ》に限ったのだったかな?」 「きまっているじゃないかね。」  その時酒場の窓から赤く満悦げな顔が現れた。見ると七郎丸だ。「さっきから君が来るのを待 っていたんだ。そんな|処《ところ》で、お月様なんかに見せつけていないで入らないかね。」 「七郎丸、君がいるんなら僕は無論入るよ。」  僕は何だか不機嫌になって、つかつかと酒場の中へ入った。 「七郎丸、もうこんな嘘吐きとは友達はお止めよ。そして、これからは、あたしと仲好くしよう じゃないか。」  僕に続いて靴音高く駆け込んで来た娘は、いきなり僕達の間を割って七郎丸の首玉にぶらさが った。  七郎丸というのは彼の家に伝わる漁家としての家名とそして持舟の名称である|筈《はず》なのだが、今 では持舟はなくなって家名だけが残っている僕の友達である。i秋になって夜釣りがはじまっ たら今年こそ是非ともつれて行って欲しい……ということを僕は常々彼に話していたのである。 「折角|支度《したく》をして来たのに気の毒だったね。」  彼は娘をそっと|傍《かたわ》らに退けて僕に、コップの酒盃をさすのであった。  僕は、決して道楽でやろうというのではなかったから、釣りの話になると飽くまでも七郎丸の 忠実な弟子だった。1今日は、あんな理由で部屋を飛び出したのであるが、常々七郎丸は仕事 に行く時には|是《これ》を着けて行くと好いということを主張していたので、僕もさっきこの|身装《みなり》のテレ 臭さの余り娘にああ言ってしまったのではあったが、勿論、今|直《す》ぐ舟を出すからと聞けばこの|儘《まま》 出発するに違いないのである。 「僕はたった今君を探すために君の部屋に行ったところが---」  七郎丸は何か息苦しそうに|喉《のど》を詰らせて熱い手で僕の手を握った.「ああ、君に|遇《あ》ってしまっ たらどう話をはじめて好いやら解らなくなってしまった。」  不図見ると彼の真ん丸に見張って僕の顔を目ばたきもしないで|膿《みつ》めている|目皆《めじロ》から、|忽《たちま》ちコロ コロと球のような涙が|浪《まろ》び出て、と突然彼はワッと声を挙げて僕を抱き締めた、僕は|鍾値《しようき》につか まった小鬼のように|吃驚《ぴつく》りした。七郎丸はその|盤《まま》オイオイと声を挙げて泣くのであった。 「七郎丸!」  と僕も、理由も知らずに胸が一杯になって叫んだc「誰がお前のような善良な人間をそんなに 悲しませたんだ。事情は一切聞かないで好い。、悪人の名前だけを言え。」 「違う違う。」  彼は、涙をのんで辛うじて言い放った。「七郎丸の|旗標《はたじるし》を再び舟に立てることが出来る幸運に 俺は廻り合ったんだ.」    漁場の納屋の屋根に|魚見櫓《うおみやぐら》というものがあるコ舟を持たない七郎丸は久しい前からこの展 望台観測係を勤めていた。稀には舟を借りて沖へ出かけることもあったが、舟主との間が面白く ないので、彼は大方この展望台に籠って、天候の次第に依って幾通りかの旗をかかげたり、魚群 の到来を村人に知らすサイしンのスイ チを握った"しf.、|遣瀬《やるせ》な,L、腕を|拒《やく》してハた、僕のcは、 実際には「落下の法則」を実験していたわけではなく、この観測室に来ると七郎丸の仕事の手伝 いをしていたのであるが、例えば望遠鏡で見張りしている彼が、 「来たぞ、合図だ!」  と叫ぶと、僕はサイレンのスイッチを下す、村人が|湧《わ》き立つ、海上には忽ち|目醒《めざま》しい活劇が捲 き起る。  そんな時には僕は面白くて思わずメガホンを執って荒武者達に声援を浴せたりするのであるが、 舟ばかりを欲しがっている友達の胸の中を思い返すと直ぐに僕も変になって、事務的に旗の上げ 下しを手伝ったり、黙々として気象観察や潮流図の日誌を記したりするのであった。そして、ピ ザの斜塔の物理学者の助手にでもなったかのような冷たさに|鎖《とざ》され続けたのである。二人は、魚 見櫓の窓から、ただ強そうな顔を現して村の騒ぎを仔細に見物するだけだった。 「おお、それはー」  僕もそれより他は声が出なかった、そして二人は、互いの名前を呼び合って、手に手を執って 踊っただけである。  それから魚見櫓に駆け戻って興奮状態が梢々収ってから、 「で、ね、俺は君の家に駆け込んだのさ、するとドアには錠が下りていてー1誰もいない。が、 君の窓はすっかり開け放しになっているんで、庭から廻って、|覗《 のぞ》いて見ると、|灯《あか》りは満々と|点《つ》け ッ放して、君の姿も見えないんだ。まるで大喧嘩の後のようにあたりは散らかっているじゃない か:・…。」  などということだけを彼は語るのであった、どうして舟を持つ身になれたか、家名を実質上に 取り戻し得ることになれたかーーというようなことには触れもしないのである一、僕も|亦訊《またたず》ねる余 裕を持たなかった。 「だが、不図気づいてみるといつも壁に懸けてあるそれがtー《ちち》|」  と彼は僕の身装を指差した..ー「それが見あたらないので、こいつは|屹度《まろど》俺と行き違いにな ったんだろう、と思ったからあわててマメイドに引っ返して、張番をしていたんだが、その間の 切ない気持と言ったらなかった。君のけはいを外に聞くと娘はあんな風に飛び出して行ったんだ が、俺は身体中が無性に震えあがるばかりで動けなかったんだよ。そして俺は妙に落着いた口調 で、君に、折角支度をして来たのに気の毒だったなーなんて言ったが、実はその恰好の君を見 つけると俺は一層嬉しくなって、なんにも言えなくなって、言葉を間違えてしまったんだよ。」 「この旗が再び海の上に|醗《ひるがえ》ることになったのは何年振りなの?」  いつからともなく|其処《そこ》の壁に掛っている『七郎丸』の旗標を僕は、感慨深く見あげながら質問 した.一僕達は、その旗に関しては七郎丸が大酔をした時に、たった一遍話材にした以外には、不 断は言い合せたかのようにそれに|就《つ》いては口を絨して僕も、見て見ぬふりをして来たものである、 「---で俺は、この部屋を舟に見立てて意気を鼓しているんだよ。ちゃんと|此処《ここ》に、こう旗をお し立ててあるつもりで……」  その大酔の時に彼がこんなことを言って、壁にある旗の前に腕組みをして立ちあがったことを 僕は憶えている。 「それだけに情熱があれば、間もなくそれはほんとうの海の上に醗ることになるに相違ないよ。」  と、その時僕も言って、彼の傍らに並んだことを僕は忘れ!-、いない。 「そうなったら俺達は『七郎丸』を共有して大奮闘をしような。」 「約束する。」  と僕は|頷《うたず》いた。「やあ、俺はとても面白い、ペガウサスに打ちまたがって雲を|衝《っ》いて行くかの ような気がする。」  僕達は「ひらひらと打ちはためく旗」の傍らに、(酔っていたから、ほんとうに部屋が舟のよ        あたか                             きつりつ うに思われた。)恰もギリシャ彫刻にある『大言家の像』のように屹立して、両手を拡げて海の 歌をうたった。 「その時が来るまで俺達は結婚しまいぜ。」 「勿論だ。俺には、あらゆる女という女は|悉《ことごと》く|怪物《メジユ サ》に見えてならないところだ。俺はパーシウ ス(女怪退治の勇者)の剣を、ジウスに授かって…-。」  だが、この誓言は、その後間もなく互いの和議を持って了解した。i-二人が学校を出て(七 郎丸は水産講習所)間もない頃の、印象の|鮮《あざ》やかな僕の記憶であ6しなんでも、その晩は、二人 とも|怖《おそ》ろしく興奮して、東の空が白む頃おいまで、 「帆をあげろ!」 「オーライ  」 「旗をたてて---、ランラ、ランランラ!」  などと声をそろえて狂い廻ったのであったが、その時、二人で、 「朝の掲旗式!」  で、「七郎丸」の旗を壁に懸けたのが、未だにそのままそこに|在《あ》ったのだ。  ヒ郎丸は、それ以来引つづいて、この観測台に勤め続けて来たのである。|何故《なぜ》か僕達は、その 一度だけで、まるで痛いものを避けるが如くに旗に関する一言ずつの会話も取り交さなかったの である。  二言弁明して置くが、僕のAは飲酒家であるが、七郎丸との交渉は大方僕のCのみである。僕 等が大酔のあまりかかる超現実性を帯びた興奮状態を|露《あら》わしたのは、その|凡《およ》そ十年近き以前の一 夜だけで、今日まで僕達の間では平調を|脱《はず》れた音声すら一言だって交された|験《ため》しもないのである、、 七郎丸の涙などを見たのは僕にとっては、さっきの居酒屋の騒ぎが空前の奇蹟に違いなかった。 「ねえ、七郎丸、あれはおそらく十年も前のことになるだろうな。今晩は、ひとつ旗に|絡《から》まるお 前の夢に就いて……」  語らないかー-と僕が、静かに目を|瞑《つむ》りながら|徐《おもむ》ろに首を|傾《カし》げると彼は、 「スリップスロソプ!」  と吟心りながらあわてて洋盃を傾けると、立ちあがって壁の旗を取りおろしにかかった。 …,今急に、何もその旗を取り下さなくっても好さそうなものじゃないか、.この祝盃は旗の下で挙 げようじゃないかね!一 【君の見ている前で一度下すのだ- それから|君《ヤち》、これをどうにでもしてくれ.--思い出だけは 勘弁してくれよ。」 「おお -船が動く動く!」 「動き出した動き出した!中々波が高いぞ。」  僕も立ちあがると、二人とも怖ろしく足がフラフラとして止め難く、二人は一|硫《りサう》の旗の両端を つかんだまま、 「いや、まあこれは|君《ちち》の手で!」 「いけない、今夜とそして進水日にはどうしても友達である君の手で1一 「志はありがたいが、俺にはそんな形式張ったことは柄に合わないからー.」 「だって他に人が無いことは解っているじゃないかー.一  などと譲り合いつつ、酔いに酔った遠慮深いアメリヵ・インデアンと美しいマイハイを|纏《まと》った 大男とは、|牡丹《ぼたん》に戯れる|連獅子《れんじし》の舞踊ででもあるかのように狭い部屋の内をグルグルと追い廻っ た。 (註一。スリップスロップ。ーこの間投詞は僕が若者間に流行させているもので、知らるる通 り「汝の感傷癖を嘘うよc」というほどの意味である。) (註二。マイハイ。ーこれは豊漁の時に村中の人々に配布されるドテラ様の上着で、祝着と書 いてマイハイと振り仮名すべきが適当であろう。多くは浅黄地にて|裾《すそ》まわりに色とりどりの図案 にて七福神の踊りとか|唐子《からこ》遊戯の図などが染出された木綿の|長儒伴《ながじゆぱん》のようなものである,祝着と 言うても祝祭日に着るわけでもない、村人は薄ら寒い夕べの散歩時にも、部屋着にも、四季の別 ちなく自由に着用している。余談だが、僕はアメリカ人である知合の一女性と毎年クリスマス・ プレゼントの慣例を持っているのだが、去年の時は所持金が皆無で当惑の余り、七郎丸から貰っ た新しい|祝着《マイハイ》に、貴女の国にては近頃|物数奇《ものずき》者間にて吾等が国の労働着がハッピイ・コートとや ら呼ばれて用いられている由なれど、これこそ吾等が海辺の村の誠のハッピイ.ガウンなれば、 試みに着用して茶友達の評を仰いで見給え1 などと|勿体《むつたい》をつけて贈り、絶大な感謝をうけたこ とがあるっ)  そんな風にして言い争っていたが、七郎丸は不意に手を離してじっと息を殺したかと思うと、 片手の平を耳の傍らに|緊《かざ》して、 「聞えるだろう!」  と力を籠めて|囁《ささや》いた。  外は|隈《くま》なく|直《さ》え渡った月夜である。で、僕は|和《たご》やかな波の合間に耳を澄して見ると、|逼《はる》かの|彼 方《かなた》からカチン、カチンとしきりに響いている|馨《のみ》の音が伝って来る。僕は吸い込まれるようにその 音の方に耳をそばだてた。  あたりの漁家は既にもう一様に燈火を消して眠りに就いたらしい中で、浜辺近くの松林の傍ら にある船大工の工房だけが夜業に励んでいるさまが|窺《うかが》われた。その工房は屋根だけで周囲の囲い がなかったから、その上仕事場の前の広場に|焚火《たきぴ》があがっているので、働いている人達の姿がく っきりとシルエットになって浮び出ている。 「もうやっているのか?」  僕は眼を見張って訊ねた。なんとも名状し難い爽快な嵐が僕の胸のうちには更に新しく火の手 をあげた。 「    」  七郎丸は深く頷いてから、重々しい口調で説明した。 「丸源はね、先々代の七郎丸の友達でねーー半ば|義侠《ぎきよう》的にこの仕事を完成してやるという意気込 みなんだよ この月のあるうちに大方を仕上げてしまうと、今日力んでいたが、まさしく取りか かったじゃないか。あそこには十五人ばかりの弟子が働いているけれど、八人までは丸源の|伜《せがれ》な んだぜ。そろいもそろって屈強な舟大工さ。そらそらあの焚火の傍で何か叫んでいるらしい赤鬼 のような老人が指揮者の丸源だよっ---どうだい。」  焚火の炎が、月明の真中にともされた大提燈のように輝いて、働いている人達の姿が、提燈の 画になって見える。 「惜しい|哉《かた》、声がとどかないな、」 「それは無理だ。」 「それが一層|神《こうヂコつ》々しい眺めとなって、見えるじゃないか1」  僕は、仕事場の壮麗な遠望に魂を奪われて|固唾《かたず》をのんだ、僕は、振りあげられた|槌《つち》が、打ち下 され、更に打手の頭上に構えられた時分に、打たれた音がこっちの耳に響いて来るほどの距離で あるにもめげず、かがりの火の明るさをすかして、彼等のどんな微細な動作をも|見逃《みのが》さぬように 努めた。  月光の、静寂な大気のー無限大に|蒼白《あおじろ》いスクリーンの中央に、世にも不思議な巨大なランプ の月の|量《かさ》の如く八方に放った光芒が澄明な黄金の輪を現出して、その一区劃の中ばかりが戦闘準 備のように花々しい活気を呈している面白い光景に僕は魅了された。  …・するとーおそらく僕が余りに凝然と眼を見張って|眼《ま》ばたきもしないでいるために起る視 覚の錯誤なのだが、その巨大な提燈は、活躍を続けている花々しいシルエットをはらんだまま、 スーッと音もなく滑走し、宙に浮んで、小さく、明るい月に変った。それでも其処に立働いてい る人達の姿は相変らずはっきりと見え、丸源の太郎、二郎、三郎の顔かたちはおろかどんなこと を話しているのか、その口の動きで想像も出来るくらいにまざまざと差別出来るのだ。 「月のあるうちに急いで置かないと、後はかがり火だけじゃ仕事が出来なくなるからな。」 「そうですとも、お父さん、七郎丸の仕事なら私達は昼夜の差別も知りませんよ。」  いろいろと僕は彼等の会話を想像していると、(|鳴呼《ああ》、僕は夢に駆られ出したのを自ら気づか なかったのか!)丸源の太郎、二郎、三郎を、目ばたきをして見直すと、驚いたことには、その 三人は、僕が、「国境の丘」まで見送ったところの、あの三人ではないか1  彼等は、旅の第 一夜をあんな処であんな風に過しているのか。あのかがり火を村里の灯とでも慕い寄ったことな のだろう。  Aは、未だに、「あれから、これへ」を|口吟《くちずさ》みながら、それでも懸命に櫓を振りあげている。 Bは、燃えあがる焔の傍らで時外れにも弁当を喰っている「りCは、うつむいてばかりいるので仔 細な顔は解らないが、物差を取って、一心に木片の寸法をとっている様子であるc 「第一夜からして、あの勢いでは頼もしくはあるが、一言その労を|稿《ねぎら》う言葉だけでも贈ってやり たいものだな。」  僕は三人の無銭旅行者のための幸福を祈った。しかし僕は祈るべき言葉を持たなかったから、 Bの恩師の言葉を引用して、ひたすら彼等の旅路のまどかなるべきを|希《ねが》うのであったc 「汝等の旅は全世界へ向っての遍歴であり、空間のあらゆる空所に於いて営まれつつある全建造 の視察であり、万物の物理的復帰を包括しながら、壮麗なる無限大へ向って進むものである。」  かく祈りながら僕は彼等に向って、胸の切なさをつかんでは投げ、つかんでは投げつける|心算《つもり》 で、その通りに腕を振り動かせているのてあ一た 胸先を握二-、、|拳《こぶし》をつくη、空間に腕を突き 出しては拳を開くのであった。  そうこうしているうちに向うの円光の中には様々な人影が次第に増して来て、焚火のまわりを グルリと取り巻いて、景気の好い仕事を見物している。彼等は、口々に|悦《よろこ》びの言葉を発している らしい⊃ 「おやおや1」  と僕は、もう.度目ばたきをして眩いた。その八だかりの中には七郎丸の祖父と父親が紋附の 羽織を着て控えている。僕の父親も同じような姿で、|酷《ね ヰど》く|武張《ぷぱ》った顔つきをしている。|祝着《マイハイ》を着 た若者連が焚火のまわりを踊り廻ったりしている、ー-僕等が既にこの世で永久の別れを告げた 筈の祖父達が、そんな風に現れているので僕は幾分馬鹿馬鹿しくもなったが、彼等の姿が現世の それと寸分も違わず、そして、あの丸源達と一緒になって談笑もしている様子を見ると、僕は別 段そこになんの不思議もない、在り得べきことを見ている通りな心地になって、なんということ もなく、 「まあ、好かった。」  と思ったりした。 「有りがとう- 」  僕は七郎丸に肩をたたかれて吾に返ったが、向うの仕事場の明るみのうちに見た幻が、中々幻 と思い切れなかった。ーー七郎丸は、僕の肩をたたきながら続けた。 .ありがとうIl俺は、君が、其処でそうして丸源の仕事を眺めている怖ろしく真剣な姿に感謝 せずには居られない、俺は、君の、その情熱の|溢《あふ》れきった素晴しい姿を永久に忘れることは出来 ないだろう…・-もうこっちが苦しい、卓子に戻って呉れ⊃L  こう言われたので僕は、その自分の姿勢を調べて見ると、自分は|窓枠《まどわく》に片脚をかけ、右の拳を 月光の中に、悪人の|脇腹《わきぽら》を突いた荒武者のそれのように力一杯に突き出し、上体を虎のように前 方に乗り出し、そして左手の拳で自分の|願《あご》を突きあげているままの生人形に化していたのである。  ベルが鳴った、  来訪者だ。 「どなた?」と七郎丸が通話口に顔をあてて訊ねた。 「エレベーターを降して頂戴な。」  僕の妻の声だった。  ここの部屋は「係員以外の出入厳禁」であったから、係員である僕達は部屋に戻ると|縄梯子《なわげしご》を 捲きあげておかなければならなかった、、また荷物を携えている来訪者は、係員にエレベーターの 下降を|乞《こ》うのであった。  滑車に綱を|垂《た》らし、綱に木製の箱を結び、これを|釣瓶《つるべ》仕掛で、部屋の中から人力で捲きあげる エレベーターである、、人力ではあるが、捲き上げの部所には大小二箇の歯車がつけられ、大輪の ハンドルを|把《と》って捲きあげる工合になっていて、恰も自転車の理に似て、機械は与えられたる動 力の幾倍かの仕事能率を現すわけだったから、|仮令《たとえ》酔漢であろうともこのエレベータi係りは |容易《たやす》く果されるわけだった、 「おひとり?」 「いいえ、大勢  マメイドさんも一緒よ、一てこ、↑出会ったの、し  そこで僕は、七郎丸に代って通話口を覗き込んで吟心った。 「どんな意味であろうとも僕等に反感や不快を抱いている者があったら、今夜だけは失敬する。」 「お|神楽《かぐら》の|稽古《けいこ》の邪魔になって?-…遠くから皆見えたわよ。」 「どうしようか?」  と僕は七郎丸に|諮《はか》った。 「見られたら見られたで、決して臆するところはないよ。  降そう。」 |鍵《かぎ》を外すと、ゆるやかな音をたててエレベーター・ボックスが静かに降りて行った。 「御存知でしょうが、ひとり|宛《ずつ》でなけれぱいけませんよ。」 「六人も、で、大変じゃありませんか?」 「御遠慮なくー。乗り込む度にベルをおして下さいよ。」  ベルが鳴った。 「オーライ.、  それっ1」  と七郎丸が合図すると、二人は、至極もの馴れた動作で、 「ヘッヴ・バゥ! 捲け捲け! ヘッヴ・ハゥ・ハヴ捲け捲け」と掛声勇ましく、吊籠を引きあ げるのであった。  最初に箱から現れたのは、登山袋を背にして片手に醤油らしいものの|瓶《ぴん》や|葱《ねぎ》の束などを携えて いるBだった。(B・R・Hなどの若者は僕の妻と弟の友達で其処の僕の村の住居で共和生活を 続けている同人である。次々のR・H・妻、そして弟等も一様に重そうなリュック・サックを背 にしていたことを先に述べて置こう。) 「今日は荷車を|曳《ひ》いて町へ行き、あなたの本を大方売却しましたよ。」 「そいつは|酷《ひど》い。あれらの書物は僕の生命についで  し  と僕は赤くなって詰問しようとすると、次のベルがなって、再び僕等はハンドルを把らせられ るーと、Rが、|蓮根《れんこん》や|牛葵《ごぼう》を|抱《かか》えて現れ、 「あなたの時計を質屋に預けて弾丸を買って来ました。当分肉類の心配はありません。」  と申し立てた。Rは鉄砲の名手で、常々僕等を鳥をもって養っていた。 「鳴呼1」  僕は悲鳴をあげた.「あの時計がなくなったら僕は観測台の仕事が---」 「僕はガソリンを買って来ました。これで当分の間町通いにオートバイが使えることになりまし た。どんな|類《たぐ》いのあなたの用事でも一時間以内で果せるでしょう。」  とHが、モビロイルのブリキ罐を僕の目の先に誇らかに突きつけた。 「そして、その資金は?」  僕は痛い胸を押えて眼を見張ったが、答えを待つ間もなく、次のベルで、 「兄さんだけが着物を持っていることもなかろうと相談して、...-一 「その先は聞かすな、.俺は悲しくなる。」  僕は弟に向って激しく手を振った。中々の|酒落者《しやれもの》である僕は着物を奪われてしまったかと思う と泣きたくなるのであった、が泣く間もなく、バンの棒を小脇に抱えた妻がマメイドに続いて現 れ、 一あなたは、|否応《いやおう》なく、当分の問は、その|装《なリ》ていなけれはなりませ人よL  と宣告を与えた、それを聞くと同時に僕は一途の嘆きがこみあげて来て、 「ああ、どうしよう? どうしよう?」とばかりに声をたてて泣きくずれてしまったこ  一同の者は僕の女々しい醜態に接して|唖然《あぜん》とした。何故なら僕は常々所有の物資に関してはお そらく|悟淡《てんたん》げな高言を持って彼等に接していたからである。 「なんぼなんだって、この身装でこれから俺は毎日を送らなければならないなんて---」   「皆さん。」   と七郎丸が言い放った。   「安心して下さい、マキノ君は今夜は常軌を外れた或る歓喜に酔っているが為に、思わずも感情  が不思議な処へ|外《そ》れてしまったんです。彼ばかりとは言いません、この私も-」   「七郎丸さん、あなたもお酒を飲む人なの?」   「そんなことは…:・。」   と彼はそれとなくおしのけて、「七郎丸」に関するいきさつを熱弁をもって吹聴した、  `「御覧なさい。船は既にあの通りの花々しさを持って造られつつあります.『七郎丸』が海上に  浮び出ると同時に、諸君は、これまでの共和生活を挙げて吾等の船の上に移して下さい。」   この演説を聞くと、一同の失業者連は手に手に携えているものを思わず高くさしあげて、   「嬉しいな1」   と叫んだ。   「はじめて解った、うちの人が、あんなことくらいで悲しんだりするなどというわけはないと思   っていたんですよ。」 壮  と妻は胸を|撫《た》でおろしながら僕の傍らに駆け寄って、 月 「その恰好はあなたにとても好く似合うわよ。誰も変になんて思う人はないでしょうから、平気 籠 で、それで働きなさいよ。」 吊          すが   と言って胸に纈りついた。 鵬 「一体、その皆の背中の袋の内には何が入っているのさ?」  僕が訪ねると、一同は生徒のように声を揃えて答えた。 「米。」 「町へ行って、お米を買って来たのよ。」  -妻はマメイドと連れ立って酒を買いに行くことになった。  身軽だからというので二人を一緒に吊籠に乗せて、僕は、鍵を外しハンドルを把った。そして、 |徐《おもむ》ろに降って行く箱の調節をとるべくハンドルを廻しながら、 「たしか|昨夜《ゆうべ》も、今朝もジャガ|薯《いも》ばかり喰っていたかな。  道理で胸の工合が|変挺《へんてに 》で、酒の利 き目が|奇天烈《きてれつ》になったのかしら?」  などと考えた、一  妻の口笛が、遠く聞えた。  部屋のうちは明るい談笑に満ちていてどれが誰の言葉やらも区別出来なかったが、誰かが誰か を、 「スリップ・スロップ1」  と嘲笑したりしているのが、仕事中のエレベータi係りの耳に聞えた: