七時〇三分 牧逸馬 輪転機の哲人  およそ何が雑然混然紛然としているといって、大新聞社 の編輯局ほど、いつでも騒然轟然たるところはあるまい。  そのもっとも代表的なのが、この、有楽町東都毎日新聞 社楼上の社会部の机《デスク》だ。  この机の上は、なんてでたらめをきわめた景色! 赤イ ンキだらけの原稿の山の中から、食い散らしたざる蕎麦《さもそば》が 覗いている。天丼の海老の尻尾が、4Bの鉛筆と接吻《キツス》して いる。今そのざるそばと天丼と、原稿と赤インキの真ん中 に、途轍《とてつ》もない大きな靴が一足、にゅうっと載《もちヤム》っかってい るのだ。君臨といった感だ。  空《から》の靴ではない。まさしく足が入っているのだ。長さ一 尺もあろうと思われるそのどた靴から、破れ靴下の足首、 よれよれのズボンの膝、腰と、だんだんその二本の足を辿 って行くと、そこに、わが「輪転機の哲人」鱈間垂平《たらまたるへい》君が、 悠然泰然荘然として、椅子に掛けて、その椅子を引っ繰り 返りそうに背《ラし》ろへ押し反らして、つまり、わが鱈間垂平は、 机の上へ彼の巨大な靴をどさっと載せてi眠っているの ではない。  有名な愛玩《あいがん》のパイプを、火事みたいにやたらに吹かして いるのだ。そして、眼の前の机で鳴る電話のベルを、いと も心静かに聴いているのである。  さっきから、彼の机のどこかで、焦げつくように卓上電 話が鳴りつづけている。机上は、ありとあらゆる物質が雑 居して、どこに電話機があるのか素人には全然わからない が、むろん鱈間君は、その潜伏場所を承知しているにちが いない。そのくせ、いつまで経っても受話器を取ろうとせ ずに、彼はこの電話の悲鳴を楽しんでいるのだ。  靴とパイプの鱈間垂平君は、この東都毎日の杜会部記者 だ。二十六、七だから、少壮とか気鋭とかいうのだろうが、 このシティ・オブ・トウキョゥの提供するあらゆる刺戟と 興奮と異常事に、神経がすっかり慣れっこになってしまっ て、何もかももう飽き飽きしていて何があっても断じて樗 かない。だから、こんなに若いのに、こんなに退屈して、 こんな悲しい眼の色をしているのだ。が、いざとなると、 この東毎第一の敏腕家で、すべての特種《スクウプ》はこの鱈間垂平君 が嗅ぎ出してくるし、大事件はみな彼が手掛ける。大変な 博識家で、哲人で詩人で、それにも増して大変な物臭太郎 で、独身者でー大石良雄が昼行燈《ひるあんどん》なら、わが鱈間君は正 午のネオンだ。  普段は、こうして欠伸ばかりしている。だが、いくら欠 伸を連発したって、電話というものはその性質上、鳴り止 みはしない。 「こん畜生。五月蝿《うるせ》え野郎だ!」  と彼はとうとう我を折って、机から足を下ろした。不幸 な電話機は、その偉大な靴の下の原稿紙の堆積の底に、か わいそうに埋没されていたのだ。 「ううむ、おおう、ああうー」と鱈間君は、やおら口か らパイブを外して、あくびの延長みたいなことを送話器へ 吹鳴った。 「ああ東毎、社会部。ああ鱈間だ。誰だお前さ んは。ええっ・・宮本武蔵だ? 何を言やあがるー」  宮本武蔵から、この東京有楽町東都毎日新聞社へ、電話 がかかって来た。昭和十年八月二十六日、木曜日の夕方の ことだった。 「おい、ほんとに宮本武蔵か? どこにいるんだお前さん は」  鱈間垂平君は、大臣をつかまえても、お前さんという敬 称を使うのである。  編輯局の窓の向うを、疲れたサラリーマンと夕陽を満載 した省電の高架線が、金切声を揚げて閃き過ぎた。 景気測候所  丸の内仲通りに、信栄杜というちょっと得体の知れない 事務所がある。そこの杜員宮本得之助氏は、宮本武蔵と自 称他称するオフィス街の疑問符だ。丸の内の名物男だ。  景気観測、相場通信、信栄社と、ちゃんとこの雲母硝子《きららガラス》 の扉《ドア》に金文字が入っているし、宮本氏の名刺には、景気測 候所員宮本武蔵とある。  だから立派に宮本武蔵で通っているのだ。唇の上を剃り 込んだ細い口髪、素早く動く黒瞳《くろめ》勝ちの眼、靴と頭髪《あたま》をて かてかに光らせて、白麻の背広に青いワイシャツ、なかな かモダンな街の紳士宮本武蔵氏ではある。あの、だぶだぶ の古洋服に開襟シャツの鱈間垂平たどから見ると、この武 蔵こと宮本得之助君のほうが、よっぽどスマアトた事務所 街の青年貴族だ。年齢《とし》は、同じく二十七、八だろう。 「おい鱈間か。どうした。きな臭えぞ。相変らずパイプを ぷかぷかやってやがるな」  とこの宮本武蔵が、今この景気測候所信栄社の自分の机 の上へ、へたばったように上《さちもち》半身を葬《もた》せかけて、卓上電話 に取りついているのだ。 「明日は府中の日本|優駿競馬《ダににオヒィ》だ。今夜あ前景気に、いつも のところで一杯やるんだがどうだ、鱈間も来ないか。え? 銀座裏の酒場《バア》カメレオンさ、やって来いよ、九時ごろに。 なに、おれが著るんじゃないよ。君にたかろうと思ってる んだ。無一文だ? しようのねえ奴だた。まあ、いいや。 何とかなるさ。じゃ、九時にカメレオンで」  がちゃりと受話器を掛けて、昭和の宮本武蔵は、ひょい と机に腰を載せた。そして、上着のポケットから競馬の雑 誌を取り出して、にやにやしながら、熱心に頁をめくりは じめた。  明二十七日は、府中の大競馬なのである。ところで、こ の宮本得之助が、宮本という姓を擬《もじ》って丸の内の宮本武蔵 と呼ばれるのは、ただそれだけのたんなる偶然な緯名《あたな》では けっしてない。じつは宮本得之助は、草分時代からの古い 競馬ファンなのでIIというよりも、もう半玄人《はんくろうと》の競馬ご ろで、アメリカあたりでいういわゆるコ厩舎《ステイブル 》の蝿《フライ》」なのだ。 日本中の大競馬はもちろん、草競馬にいたるまで、およそ 馬と名のつく物のちらちらするところには必ずわが「競馬 界の宮本武蔵」の姿があらわれる。宮本君を見かけて、ひ ひんと仁義をしない競馬馬があったら、其馬はもぐりだと いうくらい、競馬場では宮本君はとてもいい「顔」なので ある。  また、よく勝つ。かと思うと、盛大に負けもするが、と にかく競馬に強いというので、宮本武蔵の名のある所以《ゆえん》だ が、とかく賭け事は水物だから、さすがの馬の宮本武蔵も、 ここもとちっとも大穴を当てず、いささかならず腐り気味 なのである。本名得之助どころか、このところ損之助と改 名の必要がある。 「混沌たるアラブ界の形勢か、ふうむ」と宮本武蔵が、競 馬雑誌を読んで、感心とも冷笑ともつかず眩いている。 「明日の第一回は、アラブ特ハンデ二○○○メートルだな。 こいつは多分オタケビ号の勝ちだろう。それとも、スナッ ピイ・ボウイが案外稼ぐかな?ー第二回の古呼特ハン二 ニ○○、この競馬《レイス》はむろんキング・オブ・キングス号のも のだ。こいつあ問題にならねえ。さて、明日の大呼び物の 二歳馬のダアピイは?はてな1天気はどうだろう。馬 場の調子は? そちはどう思うり.」  そちはどう思うというのは、彼の口癖なのである。こう いって武蔵は、この時、窓の外へ眼をやった。夕暮れの色 にしっとり包まれた鈴懸の街路樹に、いつかしとしとと夏 の小雨が煙っている。  さっきまで、夕焼けの空が赤かったのに、夏の天候は気 まぐれで、いつの間にか雨だ。ビルディングと舗道と通行 人を黒く濡らして降る黄昏《たそがれ》の雨だ、雨だ1都に雨のふる ごとく、わが心にも雨が降る。 「占めた! この分だと、明日の馬場は泥澤《ぬか》るぞ!」武蔵 は独りで横手を打って、 「雨、馬場悪シか。たとい明日ま でに霧れたところで、 「曇、馬場やや重シ」とくる。こう なると、吾輩の白眼《にら》んでいるアジアプリンス号が、いよい よ本領を発揮するに相違ない。彼馬《あいつ》ときたら、馬場の調子 が悪くて泥が深いと、ますます力走するという変り物だか らな。うむ! このあしたの優駿競馬《タアビイ》は、もう迷わずにア ジアプリンスに賭けるとしよう! ありがてえ雨だな。明 日あ大穴の連発だ。当分飲めるぞ。雨よ、降れ降れ!」  机に腰をかけて、脚をぶらんぶらんさせて、武蔵は夢中 で明日の競馬に賭ける策動を立てている。  この武蔵君の切なる心願に応ずるがごとく、宵とともに 雨は浦然と落ちて来た。 団長と女優と拳闘家  信栄社というのは、通信社の一種には相違なかろうが、 何をするところか誰もよく知らない。頭髪《あごひげ》の生えた怖い社 長さんがいるのだが、その社長が、普段の怖さにも似ず、 あの先日《このあいだ》の小栗さんの暴力団狩りの時には、かなり心配し てどこかへ雲隠れしたというから、人は、ははあと解った ような、わからないような顔をするのである。  それでも、杜員は三、四人いるから、豪勢なものだ。こ の宮本武蔵をはじめ、社員だか拳闘家だかどっちが本職だ かわからないボディ辰村。これは、リングに上ると、相手 の腹《ボデイ》ばかり狙うからだ。第三は、しじゅう紋付の羽織を着 ている万年応援団長の清水三角。それから、タイプライタ アってどんな恰好をしてる物? というタイピストのリリ アン・ハアヴェイ嬢。これはあのハリウッドの女優に、ち っとばかり顔が似ていて、洋服の着こなしなど、なかなか 垢抜けしているから、その名があるのである。 「こらこら、武蔵! 貴様さっきから、さかんに独り言を いうちょるようじゃが、また競馬のことを考えちょるのと 違うかね?」  と一本調子の口調で、正面の自席から頭髪杜長が言った。 「はあ? ア系古抽障碍二四〇〇メートルでは、本命馬は タカラノヤマだろうと思うんで。なにしろ、騎手が平尾で すからーはあ、そうであります。一じつはその、目下その、 明日の府中の競馬を研究中であります」 「いかんね。わしゃその君の競馬狂には、大反対じゃ!」  頗髪杜長は、どんと机を叩いた。インキ壼が、一寸二分 ほど跳び上った。 「社務に精励して貰わにゃ困る」 「しかし、何もすることがないのであります」 「無くても、忙しいような顔をして、机に向っていたまえ。 そうして儂《わし》んところへ客が来たら、杜長、あの五万円はす ぐ支払ってよろしゅうございましょうか、なんかと訊きに 来るんじゃ。いつも言うて聞かせてあるじゃないか」 「ちえっ! そちはどう思う」  武蔵は低声《こごえ》に舌打ちして、椅子についた。  隣席の清水三角が、そっと私語《ささや》いた。 「おい武蔵、貴様が競馬でどか儲けしたら、何か会社を起 せ。そして吾輩を用心棒に使ってくれ。犬馬の労を厭わん ぞ、いひ、いひ、いひ!」  と彼は、こんた侮辱的な笑い方をするのだ。右側のボデ ィ辰村も、黙っていない。ひしゃげた鼻を突き出して、 「僕あね、思うんだがね、この武蔵だがね、競馬で大穴を 当てる日が、はたして来たらばだね、その日はだね、この 僕がだね、世界選手の栄冠を戴く日だよ。つまりだね、そ ういう日は、永久に来ねえんだよ。うふふ、なあミス・リ リアン、そちはどう思う」  向うの窓際から、リリアン・ハアヴェイが、 「わしはその意見には反対じゃ。いつかきっと武蔵さんは、 競馬で一釜おこすと、あたしは観察してるわ。そして丸ビ ルぐらい、バット買うみたいに、ぽんと買っちゃうと思う わ。そして、あたいをマダムの椅子に据えるわよ、きっ と」  そう言ってリリアン・ハアヴェイはもりもりと武蔵ヘ秋 波を送ったものである。彼女は武蔵の楓爽たる容姿におお いに好意を寄せているのである。 「駄弁中止! 第一巻の終りじゃ」  と言って、頭髪杜長が、起ち上った。 「余はこれから高橋さんを訪問じゃ。もう皆、兵隊どもは 帰ってよろし」  暑いのに、モウニングのしっぽをひらひらさせて、杜長 は廊下を出て昇降機《ヱレヴエタア》の下りの釦《ボタン》を押した。  高橋さんというのは、蔵相のことかどうか、そこまでは 社長も言わなかった。とにかく、万年応援団長清水三角が すぐにつづいて、 「彼女が待っとる、失敬」  と、紋付の肩を揺すって、のっしのっしと帰って行った。  もう暗くなった窓外に、夏の夜の雨は、いっそう降りし きっている。 |魑魅魍魎《ちみもうりよう》とビルディング 「僕あね、今夜ね、倶楽部でね」とボディ辰村も、階段を 駈け下りた。 「トレイニングがあるんだ。あばよ」 「そちも帰ったらどうだ」  と武蔵は、ミス・リリアンヘ顎をしゃくった。 「ああら、つまんないの! わしはあんたと一緒にかえる んだ」  二人きりになると、リリアン・ハアヴェイはたっぷりと |媚態《しな》をつくって、武蔵に寄り添うのだ。 「止せよ。おりゃあすこしい残って、明日の勝馬を考える んだから」 「じゃ、あたしも一緒に考えたげるわ」 「許してくれよ。一人でねえと、頭脳《あたま》が纏《まと》まらねえんだ。 こういうことは、思考力集中のインスピレイションだから な」 「邪魔にするのねえ。しどいわ! じゃ、戸外《ちちヤもおもて》へ出て待っ てる」 「ああ、そうしてくれ。だが、雨が降ってるぜ」 「かまわないわ。数寄屋橋んとこに立ってるわね。あんた、 傘は?」 「無い」 「此傘《これ》置いてくから、さして来たまえね」  と、リリアンが武蔵の眼の前ヘつき出したのは、いった いこの事務所のどこに、そんな傘があったのだろう? お よそビルディングなどとは縁の遠い、ぼろぽろの渋蛇《さしさムしぶじや》の目 だ。おそろしく破れて、埃に塗《まみ》れて、山奥の古寺で手足が 生えて踊っていそうな傘。 「誰んだい其傘《そいつ》は。見たことがないな」 「知らない。ただ、今見ると、漫然とここにあったのよ。 この帽子掛けの横に。さっきまで、たしかに無かったわ」 「漫然とね」 「うん。漠然と立てかけてあったの。誰んでしょう」 「ま、何でもいいや。そんな傘でも、無えよりゃあ増しだ ろう」 「待ってるわよ。橋の被《たもと》で」  出かかった戸口から、そう一声残して、リリアン・ハア ヴェイは靴音高くビルディングを出て行った。  武蔵はひとりになった。同じ建物内のほかの事務所も、 もうすっかり退《ひ》けたらしい。ぼんやりと電燈の点っている のは、この景気測候所信栄社だけで、いま全ビルディング は、上から下まで、四角い闇黒《やみ》の塊りだ。しんしんと雨《ちもちさ》の 音がする。昼間いっばい、物慾の取引の渦巻いていた近代 商業の怪物《モンスタア》だけに、夜のビルディングの静寂は、人間の喜 怒哀楽と慾望が一つに凝った息づまるような複雑なしずか さだ。椅子と帳簿が、曝きを交す。金庫がぺろりと長い舌 を出す。計算器が、自分で動く。電話帳は表紙と裏表紙を 翼にして、愉《たの》しく空中を飛行し、一階上の化粧品会杜の包 装紙のところへ、逢曳きに行くのである。けたけたと笑う |算盤《そろばん》、社長の秘密を饒舌《しやべ》りだす灰皿。空気は、それら小悪 魔の喚声で満ち満ちているーような気がするのだ。  どこかで、ばたあんとドアが開閉した。  明日の大競馬の出馬表を前にして、予想に余念もなかっ た宮本武蔵は、ぎくっとして顔を上げた。  その眼の前の壁に、電気時計が懸かっている。何心なく 見ると時計の針がせっせと忙しそうに逆に廻っているのだ。 八時から七時、六時、五時-見る間に、三時、二時、一 時と。 「おんや! 変な晩だな。こんな馬鹿なことってあるか。 そちはどう思う」  武蔵が、そう声に出して独り語を言った時、何階か上層 の無人の事務所で、とても鮮かにりんりんと呼鈴が鳴った。 「どうかしてるぜ、今夜は。なにもかも間違ってやがら」  もう帰ろう1武蔵は起って傘を掴んだ。と、どうだ! その傘が、買いたてのような真新しい男持ちの洋傘《こうもさリ》に変っ ている。たしかについ今しがたまで、恐縮するような破れ 蛇の目だったのに、いつの間にIl。 インバネスの老人  だが、好く変ったのだから、武蔵は文句を言うところは ない。ありがたく其傘《それ》を持って、廊下へ出た。後ろ手に強 く扉を締めると、もう錠が下りてしまった。しかしこれは エイル鍵だから、自動的に締まるのに、まず不思議はない と、彼は自分に言い聞かせたことであった。  端のほうは、薄暗い電燈の明滅している廊下だ。WCの 前を通ると、人のいない水掃便所で、ごうっと水の音がし た。空の昇降機《エレヴエタア》が、おそろしくゆっくり、ゆっくりと上っ て来て、こちんとビルディングの頂上《ちちちてつべん》で停まったIいや、 これは正確に言うと、そんな気がしただけで、わが宮本武 蔵の幻想《フアンタベシイ》だったかもしれない。  その名のごとく、武者修業者みたいにいやに緊張して、 真っ暗たビルディングを出た彼を、雨の煙る夜のオフィス 街が、しんとして待ち受けていた。  蛇の鱗《うろこ》を想わせる濡れた舗道に、街燈の光りが、黄色い くの字を幾つも繋いだように流れている。闇黒のなかに、 雨脚は細く白く、一面に水の紗の幕で、まるで、水族館の 硝子張りの桶の底をひとりで歩いて往くようだ。  上衣の襟を立てて、雨のなかに歩を拾う武蔵の頭脳《あたま》は、 まだ明日の勝馬予想で一ばいだ。数寄屋橋に待っている和 製リリアン・ハアヴェイのことなんか、けろりと忘れてい るのだ。これから銀座裏の酒場《バア》カメレオンヘ行って、友人 の東毎記者鱈間と、一杯|飲《や》るつもりー。 「宮本さん」  丸の内仲通りを半ばほど来て、とあるビルディングの前 を通りかかった時だ。誰かが、横合いから武蔵を呼んだ。  が、傘を打つ雨の音で、武蔵の耳にははっきり聞えなか った。  で、そのまま行き過ぎようとすると、 「やあ、宮本さんじゃありませんか」  武蔵はびっくりして、立ち停まった。雨の穂を透かして 見ると、閉まっているそのビルディングの玄関《アロント》の凹みに、 なんだか黒い人がもぞもぞ立っている。白い長い髪がすぐ 眼に入ったので老人だということがわかったが、見たこと のない人だ。 「誰だ」  傍へ寄ってよく見ると  老人の侍《た》っている入口の上に 小さな電燈が一つ雨に瞬いていて、13、十三号と、その ビルディングの番号が読める。その光りで、老人の顔姿は わりに明瞭に見えるのだが1黒いトンビのような物を着 た、みすぽらしい年寄だ。雨が掛からないようにと、狭い |玄関《フロント》の窪みに、扉に背を貼りつけて立っているところを見 ると、傘が無くて雨宿りをしているのだろう、と武蔵は思 った。  それにしても、どう考えても見覚えのない人物だが、ど うして自分の名を知っているのだろう? 武蔵は奇異な思 いで、 「何だよ老爺《おやじ》さん、誰だったかね君あ」  答える前に、老人は咳払いをした。 「よく降りますね。いまお帰りですか。え? 儂《わし》かね? わしは老人ですよ。はい、ただの年寄ですよ」  と変に慣れなれしく言って笑った。武蔵はなおも、自分 の相識《しりあい》のうちに、こんな白い髪を生やしたおっさんがあ《ヤ  さ》っ たかどうかと、忙しく記憶の抽斗《ひきだし》をあちこち開けてみたが、 どうも思い当たらない。が、顔の売れた宮本武蔵である。 |先方《むこう》でだけ識っているのかもしれない。ルンペンみたいな |装《なり》をしてるから、ことによると、こいつあ電車賃頂戴とお いでなさるぞ。武蔵がちらとそう思った時、 「夜はわりかた冷えるね」  にこにこして老《ちもヤち》人が言った。武蔵はすこし五月蝿《うるさ》くなっ て、 「何か用か、おい」 「べつに用があるってわけでもありませんがね、どうです、 新聞一枚買ってくれませんか」 「なんでえ、夕刊売りか。夕刊なら、もう見ちゃったから 要らんよ」  老人は追いかけるように語を早めて、 「新聞といっても、普通の新聞じゃありませんぜ、宮本さ ん」 「みょうなことを言うじゃないか。普通の新聞じゃないっ て、じゃ、どんな新聞なんだ」 「明日の夕刊じゃよ」  と老人はにっと笑《ちし》って、雨を庇《かば》ったインバネスの袖の下 から、すうっと一束の夕刊を覗かせた。 「明晩の夕刊です。いかがです一枚」 幼稚園の論理《ロジツク》  その瞬間武蔵は、水を浴びたように、脊髄がぞっとした。 が、それは、傘の骨を伝わった雨が、襟頸から流れ込んだ せいだったろう。彼はげらげらっと笑いだしていた。 「おいおい、冗談いっちゃいけないぜ。気がどうかしてる んじゃないのか。雨の中のこんなところに立ってないで、 早く木賃ホテルヘでもしけ込んだらどうだ。落ちはこんな ことだろうと思った。厄介な奴だ。ほら!」  舌打ちをした武蔵は、ポケットから十銭白銅を一つ取り 出して、老人の鼻の下へ突きつけた。 「そら、こいつを与《や》るから、早く行って寝な。手を出しな よ。おい、どうしたんだ」 「どうもこうもありませんよ。新聞を買わないかと言って るんです」 「それが明日の夕刊だというんだろう。はっはっは、いや、 こいつあ大分変ってる」 「まあそこらにざらにあるという新聞じゃないね」 「嫌だぜおい。戯《ふざ》けるなよ。明日の夕刊が今夜出てたまる かい」 「とにかく、明日の晩の夕刊なんですからね。珍しいもの ですよ。世界に二つとないやね。銭を出して買おうたって、 買えるもんじゃあねえんです。一日先の新聞なんじゃから な」 「明晩の夕刊を、今夜おれにだけ特別に一枚売ってくれよ うというんだね。ははははは、奇抜な話だ。かわいそうに こいつあ真物《ほんもの》のき印《ヤじるし》だ」 「明日の競馬の結果が、すっかり載《で》てますよ」  老人は欠伸のような声で、しごく平々凡々なことのよう にけろりとしてそう言った。  競馬と聞くと、武蔵は思わず釣り込まれf、、 「いいかげんにしろよ。どこまで人を馬鹿にするんだ」  とちょっと向気《むき》になると、老人は冷やかに小脇に抱えた 新聞を一枚ひょいと抜き取って、それで武蔵の顔を撫でた。 「自分で見るにかぎらあね。ほら! そちはどう思う」  この見知らぬ老爺《おやじ》の口から、出しぬけに自分の口ぐせを 聞かされて、武蔵はぎょっとしたが、明日の勝馬が出てい るというので、夢中でその新聞を掴んだ。すると老人は、 |代金《かね》を請求するでもなく、いま武蔵の来た丸ビルの方角へ、 雨のなかをぶらぶら歩《ヤちヤ 》き出して、たちまち闇黒《やみ》の奥に呑ま れ去った。  もう老人のことなど、どうでもいいのだ。そんなことに 構っていられない武蔵だ。がさがさと新聞を開いたが、そ こは光線《ひかり》が不十分なので、急に足を早めて近くの街燈の下 へ急いだ。そして、傘の柄《え》を肩にして、両手で新聞を灯に |繋《かざ》した。  まず、最初に日付だ。 「昭和十年八月二十七日、金曜日i」  と、武蔵は、口のなかで読んだ。ばちばちと眼を瞬いて、 もう一度、睨むようにその欄の上の日づけを見た。が何度 見直しても同じことだ。ちゃんとそう印刷してある。これ は紛れもなく、明晩発行の夕刊なのである。  ふと気がつくと、横降りの雨が傘の下から吹き込んで、 全身は冷汗を掻いたように、しっとり濡れていた。武蔵は じっと不気味な感覚に襲われた。しっかり眼をつぶって自 問自答した。 「今日何日だ。八月二十六日、木曜日だ。ほんとに今日は 木曜日か、二十六日か?I戯談《じようだん》いうない。誰がなんてっ たって、きょうは八月二十六日木曜日。するとこの新聞は、 どう見ても明日の夕刊だが、そちはどう思う」  雨に映える街燈の下で、武蔵はそそくさと手帳を取り出 して繰ってみた。間違いではない。今日は断然、まさに、 たしかに、八月二十六日木曜日。そうすると明日は、自然 に二十七日の金曜日。この論理《ロジツク》は、幼稚園の生徒にだって 朝飯前だ。 われ明日を覗けり  いんちきにしろ、いやしくも相場や財界通を扱う信栄社 員である。日日《ひにち》をとりちがえるようなことはけっして無い。 こうなると、これはまったく明日の夕刊である。武蔵は、 夢のなかにいるような気持ちで、夕刊を折り返して中の社 会面へ眼をやった。 「や! 府中の結果が出てやがる! そちはどう思う」  どう思うたって、このとおりちゃんと載《ちちしで》ているのだから、 争う余地はたい。明々白々たる事実だ。すでに過ぎ去った 「今日」の競馬の結果として、堂々と報じられているので ある。勝馬の名が、ずらりと並んでいる。武蔵は、もう一 度眼を閉じて額へ手をやってみた。額部《ひたい》は、火のように熱 かった。氷のように冷かった。 「こいつあどこかで理窟を外れてるぞ」と彼は、落ちつこ うと努めながら、自分に言い聞かせるのだ。 「明日の晩の 夕刊が、今夜、こんなに立派に印刷されて出ているなんて そんな大べらぼうな! そちはどう思う」  昭和十年というのが、九年か八年の誤植ではあるまいか。 八月二十六日というのが、七月か六月の間違いではなかろ うか  武蔵は、一枚の新聞をあっちへ引っ張り、こっち へ透かしして、色いろの角度から眺めた。が、どう見たっ て、断然決然、明日の夕刊なんだから仕方がない。武蔵の まだ知らない明日の出来ごとが、みんな過去の出来ごとと して報道されている。  大急ぎで、全体の紙面に眼を通してみた。  まず、一面の外国電報-伊工両国間に突如微笑外交展 開。イタリイ首相ムッソリニ氏は、昨夜突然エチオピアに 対して友好的声明を発し、云々《うんぬん》ー犬と猿のムッソリニと エチオピアが友達にたるなんて、誰が予想しえたろう! これはたしかに今日までは無かったことだ。  宋鉄源《そうてつげん》抗日軍再ぴ列車に発砲。関東軍幹部重大決意を余 儀なくせらる。これも今日の人間はまだ誰も知らないこと だ。鈴木政友会総裁関西遊説の途に就く。その車中談「政 党は無力じゃというけれども、国民は現内閣に何の望みも |嘱《しよく》しておりゃせんじゃないか。なに、政友会の屋台骨が緩 みおるって? そりゃ大世帯になれば、いろいろと五月蝿 い問題もあるさ。親の心子知らずでな、わっはっは」l これも、今日の新聞には、出ていなかった。  社会面-武蔵は、あっと樗きの声を揚げた。トップに 延焼中の建物と、その周囲にホウスを握って活躍中の消防       、…               みだし 隊の写真が、でかでかと載っていて、特大活字の標題は、 「銀座裏の名物|酒場《パア》カメレオン焼く。夜明けの出火に寝乱 れ姿の女給連、三階から飛ぶ落花の風情に、野次馬連顔負 け」 「何だって? おいおい! 明日の朝、カメレオンが焼け るんだって? うわあ! そちはどう思う」  酒場カメレオンは、武蔵の行きつけの家で、マダムをは じめ女給連ともみんな馴染だし、今夜もこれから、そこで あの東毎の鱈間垂平に会うべく、いまその途中なのだ。そ う呆れ返ったような叫びを洩らして、武蔵はその記事に喰 い入った。ナンバア・ワン山路美代子が、顔に大火傷をし て商売道具の美貌を台無しにしたと出ている。美代子は、 武蔵がひそかに思いを寄せている女なのだ、こいつあいけ ねえ、早く行って知らせてやろうと思って、彼は、新聞を 読みながら歩き出した。  と、四、五歩行って武蔵の足は、またぴたりと地流れの 歩道に吸いつけられてしまった。  景気観測所長も、己が運命の観測は不可能1という、 こんた大きな活字の柱が立っている。 神魔  こいつあ見覚えのある順髪とモウニングだと思ったら、 なんと! 景気観測所信栄杜社長殿の写真が載っていてi 「財界打診、係争調停などと称して、長らく丸の内に悪の 巣信栄社を経営して富豪名士等のいわゆる奉賀帳によって 衣食しきたった大河原某は、本日正午、乾児《こぶん》万年応援団長 事清水三角、並びに紅一点の緯名リリアン・ハアヴェイこ とタイピスト嬢の二名とともに、岡本津村両刑事の手によ り警視庁へ連行され、即刻伊予田警部の取調べを受け、う んぬんー因みに、同所員の拳闘家崩れボディ辰村は、今 朝妹の急死に郷里静岡へ出発したので、ただちに同地警察 へ取押え方を電頼した由」  どういうわけか、同じ信栄社員の自分の名が洩れている ので、武蔵はほっとしたが、 「そうか、とうとう社長《おやじ》の奴、年貢の納め時が来たか。も ういいかげん食らいこんでも仕方が無え。あのモゥニング を着て引っ張られる社長《おやじ》の面《つら》が見てえもんだ。しかし、団 長とリリアンが傍杖《そばづえ》をくうとは、かわいそうだな。それは そうと、ボディ辰村は明朝妹が死んで、静岡へ発つんだ と? なるほどあいつの故郷は静岡で、妹があると言って たっけ。こいつあ嘘じゃあねえ。とにかく、景気測候所も 明日でぺしゃんこか。いやはや!」  ざあざあ降りの中を傘を担いで明日の夕刊を読みながら、 武蔵は白痴のように独りでにやにや笑って歩いてゆく。擦 れ違う通行人が、狂人《きちかい》か酔っばらいかと、気味悪そうに路 傍に避けて、やり過ごすのだ。  人間は、今日のことさえ満足にはわからないものだ。眼 隠しされて闇夜の野道を歩いているのが、人間の運命であ る。安全と信じて進むこの一歩に、次ぎの瞬間何を踏みつ けるか、それは誰にもわからない。お互いに一寸先は暗黒《やみ》 なのだ。将来を見通し、明日を知るは神のみである。  ほんとうに、明日の出来事が、すべて鏡にかけて見るよ うに前の日にわかったとしたら、神のごとく大きく強く、 高らかな人間になるに相違ない。そして、悪魔のごとく皮 肉に、誇らかになるであろう。  今の宮本武蔵君が、それだった。彼はこの一枚の明日の 夕刊によって、二十四時間後の近い未来を、神のように、 悪魔のように、すっかり知りつくしてしまったのだ。明日 を覗いた男、それはわが宮本武蔵だ。彼は今、自分の精神 がだんだん花火のように昇華して、全智全能の神となり、 同時に、冷徹にして不遜なる悪魔《メフイスト》に近づきつつあるような 気がして、もう天地のあいだに何ものをも怖れない、変に 傲然昂然たる態度で雨中を闘歩して行くのだった。  明日を見た男の頬には、一種不思議な、不敵な笑みが拡 がっていた。宮本武蔵が、ほんとうに、めちゃくちゃに強 い宮本武蔵になりそうだ。 「うふっ! そこらを歩いてる野郎どもー.明日のことは 何も知るめえが。馬鹿な奴らだー.」  武蔵は好い気持に眩いて、歩きながら一人で、えへらえ へらと笑ったものである。  その明日の夕刊には、ほかに、今日はまだ何人《だれ》も知らな いことが、いろいろ載っているのだ。  その一つは、新宿発府中ゆきの調布多摩河原線の汽車が 脱線して競馬場ゆきの数名が重軽傷を負ったと出ている。 それから、東都毎日の論説に憤慨した壮漢が一名、ヒ首《あいくち》を 閃かして同社編輯局へ暴れ込んだが、杜会部記者鱈間垂平 に眼潰しの赤インキを投げつけられて、難なく取り押さえ られ、丸の内署へ引き渡されたという報道も、大きく出て いた。  ばかに弱い壮漢だが、この記事を見つけた時は、武蔵は したたか雨に濡れるのも忘れて、躍り上って喜んだ。 「鱈間の奴、明日自分がこんな武勇伝を発揮するとも知ら ずに、今カメレオンで俺を待ってるだろうなあ」  が、たちまち彼は、惰気《しよげ》返って、 「うん、そういえば、明日そのカメレオンが火事を出して あの美代っぺのやつ、顔に火傷をするんだったなあ、何に も知らずにいるだろうが、かわいそうにー」 大穴ドンナモンジャ号  明朝八時三十六分に神田|連雀町《れんじやくちよう》の済生堂薬局の前で、 製本材料を積んだオートバイと円タクが衝突して、双方大 破することになっている。これもちゃんと夕刊に載ってい るのだ。宮本武蔵は、神田連雀町に住んでいるので、この 事件は自宅の近くだから、その時刻に済生堂の前へ行って、 試してみようと思った。それから、小石川|小日向《にびなた》のある会 社員の家へ、今暁三時二十分に強盗がはいるはずになって いる。そしてその一時間ほど前に、一人の与太者めいた青 年紳士が、わざわざその家を叩き起して、三時二十分に強 盗が押し込むからと、注意して行ったというのである。家 人が薄気味わるく思っているところへ、はたしてその時間 に強盗が推参したというのだ。で、その筋では、その警告 に来た洋服の男が犯人だという見込みで、家人の認めた人 相、着衣を手懸りに、極力厳探中だと、この明晩の夕刊に 書いてあるのだ。  今日はまだ封切されていなかったPCLの新映画や、雑 誌「日の出」の広告なども、大きく載っている。  武蔵は急に気がついた。  今まで、この夕刊全体に対する検査的な興味に紛れて、 肝腎の、競馬の結果を見るのを忘れていた。  彼は、早くその報道を見なかったことが、途方もない損 をしたような気がして、雨のなかを急いで、ちょうどその 時来かかっていた有楽町駅へ小走りにはいり込んで、明る い電燈の下で改めて夕刊を開いた。そして今度は、異様に 光る職業的な眼で、明日の府中競馬第一日の勝馬へ、注意 深い視線を凝らしたのである。 「府中競馬第一日、馬場|稽《やや》重シ」とあって、第一アラブ特 ハンデ二○○○メ1トル、1着ワレラガエイユウ号l。 「ややっ! なんだって?」と武蔵は、頓狂な声とともに、 眼を擦った。 「ワレラガエイユウ号が第一着か。ううむ! こいつは凄え番狂わせだ」  この第一|競馬《レ ス》で武蔵が必ず勝つと白眼《にら》んでいたオタケビ 号も、スナッピイ・ボゥイ号も、見事一敗地に塗れている ではないか。 「いや、危ねえところだった。怖《おつ》かねえ、おっかねえ。と ころで、第二回の古呼《こよぴ》特ハン二二○○メートルではIこ いつあキング・オブ・キングス号は外れめえ」  と思って見ると、あに計らんや、第二|競馬《レごス》の第一着はハ ナヨリダンゴ号! 「うへっ! あの与太馬のハナヨリダンゴ号が一番とは、 驚いたねどうも。素敵もねえ大穴だね。そちはどう思う」  第三ア系古抽障碍二四〇〇メートルーーヒマラヤ号。 「なに! ヒマラヤ号が勝つのかいおい! このレースじ ゃあ、おりゃあ、タカラノヤマが断然抑えると思っていた がな。いや、わからねえものだ。それよりも、府中第一 の大呼物、明日の優駿競馬《ダアビイ》はどうだ? 俺の狙いでは、ど うしてもアジアプリンスのものだと踏んでるんだがIえ っ! なにっ1 こいつは不可《いけ》ねえ!」  舐めるように夕刊を凝視《みつ》めながら、武蔵は跳び上った。 「第四レース日本ダアビイ結果、ドンナモンジャ号」とあ って、武蔵が動かぬところと見たアジアプリンスは、一番 は一番だけど、最後《ビリ》から数えてである。 「そうかっ、ドンナモンジャが勝つのか。あののらくら馬 のドンナモンジャが一着とは、へっ、お釈迦さまでも気が つくめえ。こいつあ豪えことになった! だが、おれの馬 が片っ端から外れるとは、この夕刊を見ずに行ったら、す っからかんの大損だったがーうむ! 占め占め! この とおりに賭ければ、明日こそは大穴の当てつめで、もりも り儲《ム》けちゃうぞ! 一躍|大富豪《ミリオネア》だぞ! そちはどう思う。 ありがてえた。とうとう運が向いてきたんだ」 将軍とその愛嬢  雨を吸って、灰色に重く湿っている新聞だ。有楽町駅の 入口で、長いことその紙面に見入っていた武蔵は、押し戴 かんばかりにそれを丁寧に畳みかけたが、ふと、そもそも 最初の疑問が、心の隅を掠《かす》め過ぎた。  それは、どう考えても解くことのできない気味の悪い疑 問符1「明日の夕刊が、どうして今日出ているだろう ?」という、この「?」だ。 「冗談じゃあねえ。こいつあたしかに、どっかに間違いが ある。明日の競馬《レ ス》の結果が、今夜わかってたまるもんか。 はてな、俺はどうかしてるんじゃねえかな。そちはどう思 う」  口の中に独語《ひとりごと》を転がした武蔵は、つかつかと駅の改札ロ ヘ進み寄って、 「ちょっと伺います」 「はあ 「今日は何日でしたかね」  改札係は不思議そうな顔で、ちらりと武蔵を見た。 「何ですか?」 「きょうは何日だか、君、教えてくれないか」 「二十六日でしょう」  と、駅員は、事務的に、不愛想に答えた。 「ほ、ほんとに、ほんとに、二十六日だね! え? 八月 二十六日、たしかだね」 「邪魔しないで下さい。私は忙しいんです」 「忙しいたって君、僕の真剣な質問に答えてくれたってい いじゃないか。ね! 君、僕あ気が狂いそうなんだ。頼む から君、この胸が納得するように、教えてくれたまえ。ま ったく、実際、事実、今日は八月二十六日だね?」 「ふん、気がちがいそうだなんて、あなたはもう立派に気 が違ってるんですよ。あっちへ行って下さい」 「そして君、たしかに今日は、木曜日だったねっ-・え? 君、え? 今日は八月二十六日木曜日であるんである、と、 大きな声で言ってくれ! 頼む! 後生だ!」 「貴様、公務を妨害する気かっ! 公務員を嘲弄するのか ー.」  とうとう改札係は滴癩を起して、鋏《バンチ》の尖《さき》でくいと武蔵を 押した。  押された武蔵は、よろよろと踊蹴《よろめ》いて、どしんと柔《ムもヤ》かい |肉体《からた》にぶつかった。定期を見せて改札口を通ろうとしてい た、羅物《うすもの》のお嬢さんだ。  武蔵は、その山の手令嬢に、抱きつかんばかりに、 「お嬢さん! 助けて下さい、教えて下さい! 今日はた しかに、八月二十六日木曜日でしょうか?」 「ああびっくりした! 何さこの人」 「宮本武蔵です。今日は八月二十六日1」 「まあ! 狂人ね。怖いわ、あたし」  とお嬢さんは蒼くなって、改札口を走り抜けた。そこへ 来かかったのは、前世紀の太い口髪をぴんと牛やして、ご りっとした薩摩上布《さつまじようふ》に握り太のステッキを携えた、退役陸 軍将軍なにがし閣下の宵の散歩姿とも、見れば見得る品威《ひんい》 のある老紳士。  容麗《みめうるわ》しき一個の若き婦人をば、後《しり》えに従えぬ。それと見 るより、こなたは馳せ寄りて、 「今晩は!」 「おお、何でごわす」 「今日は二十六日なら、明日は何日でしょうっ-・」  中将はおおいなる髪を捻りて、やおら背後《うしろ》なる愛娘《まなむすめ》を顧 みたり。 「浪さん、だしぬけに禅の問答な喰《くら》いおったよ。わっはっ は、いや、狂人かもしれぬ」  三軍を叱吃する老将軍の怒声に、武蔵はきょとんとして 傍らに寄りき。浪子は楚々としてその面前《まえ》を駈けぬけつつ、 「見ればまだお若いのに、お気の毒なーそれはそうと、 ねえお父様、武雄さんは今ごろ、どうしていらっしゃるで しょうねえ」  という声、ぽかんとして後見送る武蔵の耳に残りぬ。 橋の上の会話  雨の下町から郊外へ帰る人々で、夜の有楽町駅はごった 返していた。宮本武蔵は、その雑沓の中を人に小突かれな がら、片手に問題の夕刊を握って、泳ぐようにあちこち訊 き廻っているのだ。 「もしもし! 今日はたしかに八月二十六日の木曜日です か? すると明日は八月二十七日の金曜日ですね? 誰か はっきり賄に落ちるように答えてくれる人はありません か」  ピールのにおいのする四、五人の学生が、武蔵を取り巻 いて笑い崩れるのだ。 「そりゃあ君、無理だよ。そんた難しい質問をしたって、 即座に答えのできる人は無いよ、君」  長靴を穿いたい次《しヤち》せな印半纏《しるしばんてん》は、どんと武《さも》蔵を突き飛ば して、 「こん畜生! この非常時に、カフェなどで酔っばらいや がって、くだらねえことを訊きゃあがる。殴るぜ、この野 郎!」  武蔵はほとんど泣きだしたかった。縄りつくように次ぎ の人に訊くと、 「わしゃ知らんです」  そこへ来合わせた若奥様は、武蔵の必死の問いを浴びる と悲鳴を揚げて改札口へ逃げ込む騒ぎll武蔵は、独楽《こま》の ようにきりきり舞いをしながら、また雨の舗道へ飛び出し た。  出会い頭に、円タクがすっと寄って来て、 「いかがです、行きませんか」  その運転台へ、武蔵は首を突っこんだ。 「おい、ちょっと訊…くがー」 「どこです旦那、の井ですか?」 「何を言やがる。今日はほんとに二十六日かどうだ」 「へっ、ちゃっかりしてんの!」  運転手はいきなり発車機《スタアタァ》を引いたので、窓硝子の間に首 を取られた武蔵は、一、二間|腕《もが》きながら引き摺られた。  やっと無礼なタクシと自己を引き離した彼は、ふたたび 傘をさして、夢を踏むような気持で歩き出したのである。  雨の数寄屋橋が、眼の前に浮かんでいる。重油のような 濠の水は、点々たる雨脚を受けて白く騒ぎ、その向うの空 いっばいに、銀座のネオンは熔鉱炉の照返しのようI武 蔵は思い出した。そうだ。あのリリアンと約束したっけ。 |彼女《あいつ》め、此橋《ここ》に立って待っていると言った。  見ると、橋の真ん中辺をしきりに往きつ戻りつしている、 人待ち顔のリリっぺの姿がある。足早に駈け寄った武蔵だ。 「やあ、だいぶ待った? ところで、そちはどう思う、今 日が八月二十六日なら、明日はーー」 「あら、何いってんの?」  と振り向いた顔は、リリアンではない。ドレスから帽子 から持ち物いっさい、たしかにあのリリアンだけれど、た だ、顔だけ別人なのだ。リリアン・ハアヴェイは、待ち草 臥《くたぴ》れて帰ったものだろうが、それにしても、こんなに、な にからなにまで同じ服装《なり》ってあっていいものだろうか。今 夜はよっぽど妙な晩だ。一つ間違うと、すべてが少しずつ 調子が狂ってくるのだ。楽器で言えば、ほんの一音階だけ 1まるでピアノの鍵《キ一》が、たったひとつ調律を外れている ような。 「や! 人違い。失礼」 「待ってよ、どっかでお茶飲まない?.」  女は武蔵と並んで歩いて来る。  いつもの彼なら、来たな! と興味をもって女を観察す るのだが、今夜の武蔵は、それどころではない。 「駄目今夜は。友達が待ってる」 「髪の長いお友達でしょ? なら僕だってそうじゃない の」  とこのストリート・ガールは、鼻を鳴らして、その弾力 のある若い身体を、これでもか、これでもかと、ぐんぐん 武蔵へ擦りつけるのである。 「ねえ、ねえってばさ! いいじゃないの。雨の晩は、し んみりするわ。あたしのアパアトヘ来ない」 「じゃあね、お前に訊くことがある。今日は八月二十六日 で木曜日だろう? そうすると明日は、二十七日金ーIお や! 変な面して、どんどん逃げてきやがった。そちはど う思う」     佐々木君との歴史的試合  七色の灯きらめく銀座裏の雨。その雨の交番に、所在無 げに立ち番している若い警官り傘を傾けて来かかった一人 の男が、この交番の前で立ち停ったので、警官は、道でも 訊くのだろうと、 「何かね?」 「警官!」と男は、何か頗る昂奮の体《てい》である。 「警官は、人民に何かと教えるのが、務めでありますか」 「まあ、そういうことになっとるね。何という家を尋ねち ょるのかね?」 「いえ、銀座ああっしの縄張りだ。この辺の家なら、一軒 一軒心得てまさあ」 「何だと? 与太者かお前あ」 「いえ、僕の探してるのは、家ではないんです。日付なん です」 「何をさがしとると?」 「日日《ひにち》」 「解らんねえ」 「日なんです」 「ははあ、暦かね? そうさね、ここらで暦を売っとる店 はー」 「警官! 伺います。今日ははたして八月二十六日でしょ うか。もしそうとすれば、明日はどう考えても、二十七日 になると思うんですが、警官の御意見はいかがでしょう。 私はこの難問題で、非常に迷っているのです。じつに、じ つに、たまらんです! 助けて下さい!」  瞬間、ばかんとした巡査は、すぐ次ぎに、人民保護の大 任に眼覚めたらしく、急に、にこにこ笑顔を作って、 「君、君、さあ君、こっちへはいりたまえ。まあ、いいか らその椅子へ掛けたまえ。自家《うち》はどこっ・・どっちの方角か ら来たのっ-・松沢という地名に、記憶《おぼえ》がないかね? いい かね、ようく落ちつけて考えてみるんだよ」 「ぼ、僕は、狂人ではありません。宮本武蔵です」 「そうだとも! 誰が宮本武蔵先生を狂人だなどと、そん な失敬なことを言う奴があるものか1弱ったな、保護者 を呼ばにゃならんが、自宅《うち》はどこかしらんーたあ武蔵君、 君と佐々木厳流氏との試合は、素晴らしい評判ですなあ。 やっばりなんですか、大衆作家の書くように、ちゃんちゃ ん、ばらばらーおいこら、武蔵先生! 逃げるとは卑怯 じゃないか。待て! 待たんか」 「おかあしくって聞いちゃいられねえや。そちはどう思 う」 「べつにどうも思わんから、もうすこしここにいたまえ。 本署へ連れて行って、保護を加えにゃならん」 「明日のことなんか何にも知らねえ癖に、人間って、みん な大きな面をしてやあがる。警官《だんな》、明日この先の酒場《パア》カメ レオンが焼けますからね、どうか、狼狽《あわて》ないように願いま すよ」 「うむ! さては放火狂だな。こら! 待てっ!」 「わっ! いけねえ! 追っかけて来る」  警官の靴音を背中に聞いて、武蔵は高麗鼠《こまねずみ》のように、一 散に、雨の中を走った。わが家のように勝手知った銀座通 りなので、細い露地を二つ三つ出たりはいったり、庇合《ひあ》い を潜り抜けたりしているうちに、もう法律の靴音はしなく なった。見失った警官は、なんて素疾《すばしこ》い奴だろうと、感心 したがら、呆れながら、交番へ引っ返したのだろう。  逃げて来た吾が宮本武蔵の眼前《まえ》に、酒場《パア》カメレオンの気 分的な、乙《おつ》に神秘めいた扉《ドァ》がある。 「あああ! この建物も今夜かぎりか。さりとは老少不定 の世の中じゃなあ」  武蔵は科白《せりふ》のようにそう言いながら、ドアを押した。  むんと鼻孔《ヤさはな》を衝く酒の香と、白粉のにおいの甘酸っばい カクテルだ。狭いボックスに漂う夢幻的な照明と、咽ぶが ごとき蓄音器の音譜の交流だ。 「おい武蔵、何だいその傘は。人を食ってるな、相変ら ず」  はいると同時に、この声が武蔵の額部《ひたい》を打った。鱈間垂 平だ。 パンは朝早く焼くです 「まあ! ほほほ、きっと彼女のでしょ? 其傘《それ》。憎らし い人!」  ナンパア・ワン山路美代子が、ばっと飛んで来て、武蔵 の腕にぶら下がるのだ。 「え? 傘?」  と武蔵は、いま自分が水を切ってつぼめている手の傘を 見た。なんと毒々しい桃色の女持ちのパラソルー・先刻《さつき》、 信栄杜から差して出て来る時は、たしかに立派な新調の男 用|洋傘《こうもり》だったのに! もっとも、その前、最初あのリリ《も》っ ぺが発見《しみつ》けた時は、化けそうな破れ蛇の目だったが、さて は、また変ったか。此傘《こいつ》、短時間に二度も化けたか。 「や! 呆れたね。そちはどう思う」 「あっ! 血、血! ほら! 傘から血がi」  美代子が洋髪のてっぺんから叫んで、額えあがってパラ ソルの点滴《しメえく》を指さすのだ。見よ! なるほど真っ赤な血が、 そのパラソルを伝わって、モザイクの床にしたたり落ちて、 はや、小さな池のように溜っているではないか! 「はっはっは、パラソルの色が落ちたんだよ。どうせ武蔵 の愛人《アミイ》の所有《もちもの》物だ。此男《こいつ》あ安価《やす》ものしか買ってやらねえん だから。なあ武蔵」  と鱈間垂平が笑った。実際、その血のような赤い液体は その粗末な洋傘《パラソル》の染料が流れたのであった。そうとわかっ て、武蔵をはじめ一同は安心して、ははは、ほほほと笑い 合ったことではある。  はっと武蔵は思い出した。そして、いきなり美代子の手 を掴んだ。 「君、明日お店を休むんだぞ! どんなことがあっても、 明日は休め! いいか」 「痛い! 手を放して! まあ、乱暴ねえ。駄目よ。明日 は競馬帰りのお客が崩《なた》れこんでくるから、かきいれだわ。 休むたんてとても、とても! どんなことがあっても休め ないわ」 「大火傷《おおやけど》して、その資本《もとで》の顔をだいたしにしてもいいか」 「何いってんのさ。この人」 「嘘じゃないぞ。まあいいや。鱈間、君あどうしてそんな |階下《した》のボックスになぞいるんだ」と武蔵は、鱈間を促して 階段を上りかけた。 「二階へ納まろうじゃたいか。そちは どう思う」  いつも二人は二階と決まっているのに、今夜にかぎって 鱈間が、ふいの客のように、扉《ドア》に近い席で自分を待ってい たのが、武蔵にはちょっと奇異に感じられた。 「まあ、いらっしゃい武蔵さん、ちょいと、今夜はお二階 はだめよ」  と、カウンタアの横から、若年増の縞麗なマダムが、に っこり現れた。 「なぜって、模様替えをはじめたの。うんとお金をかけて 二階をとても立派にするのよ。壁へ英国材のチイクを張っ てね、天井はロココ風に、思いきった金色の彫刻にしてー ー」 「ふうむ、明日焼けるとも知らずに、かわいそうに希望に 燃えてi人間の運命は、すべてこうしたものであるです。 はかないものじゃなあ!し 「え! あした焼けるって何のこと! 嫌なこという人 ね」 「いや、なに、こっちのことさ、うん、そうそう、パンは 朝早く焼くんだってね」 「鱈間さん、あんたの友達、今夜どうかしてるわよ」 「そいつあいつもどうかしてるんだよ」 「どうかもしようさ。この豪華版の酒場《パア》が、みんな灰にな るのに、神ならぬ身の知るよしもなく、嬉々としているか と思うと、わしゃ心底から泣けて来るです。知らぬが仏と は、よく言ったものじゃなあ。とほほほほ!」 「あら嫌だ。この入ほんとに泣きだしちゃったわよ。ちょ いと! どうしたのさ」 「マダム! この家は火災保険に加入《はい》ってるだろうな!」 「いいえ。それがね、今月こそはと思いながら、ついつい 延ばして、まだ入ってないの、保険に」 「工、そいつあいけねえ」 予言者の悩み 「はいはい、では、 御忠告に従いまして、明日さっそく必 ず加入いたしますでございます、はい」  と、マダム・ヵメレオンは、冗談っぽく、愚勲なお低頭《じき》 をするのだ。 「いや! 明日じゃあもう後の祭だ。泣いても喚いても追 いつかねえ。ぜひ今夜のうちに、早く保険をー」 「武蔵、お前さんすこし五月蝿《うるせ》えぞ。まあいいから、ここ へ来て坐れよ」  鱈間垂平が、面倒臭そうに、自分の前の椅子を指して、 濠々漠々たるパイプの煙りの中から、例のゆっくりした口 調で、 「お前さんはいつから保険の勧誘員になった。ううむっ-」 「何? 垂平は東毎第一の腕っこきか知らねえが、明日の ことは何にも知るめえがーそういう貴様は、あした社で |怖《おつか》ないお兄さんへ、赤インキをぶつけるはずになってるん だぞ、しっかりやれよ。なあおい、マダム、悪いことは言 わないぜ。今夜のうちに、十万円でも、二十万円でも、早 く保険に入れよ。そちはどう思う」 「どうも思わないわよ。今夜はもう遅いわよ」 「ああ万事休す。手おくれじゃ」  と武蔵は、倒れるようにボックスに掛けた。そして、 「こら、美代っぺ! こっちへ来い」とナンバア・ワン美 代子を傍へ坐らせて、「ああこの花の顔《かんばせ》が、もうじき二 た眼と見られねえ面になるかと思うとー」 「気持の悪い人! 何だか知らないけど、この人のそばへ 行くとぞっとするわ」  と美代子は起って、武蔵の抱擁を逃れ出ようと腕《もが》いた。 彼の手に、大事そうに一枚の夕刊が握られているのを見る ると、美代子はひょいと取って、 「なにさ、こんな新聞!」  ぽいと土間へ拠った。取り巻いていた四、五人の女給た ちが、どっと笑《ちち》って唯《はや》したてた。たいせつな明日の夕刊で ある。その時の武蔵君の周章《あわ》てようったらなかった。ラグ ビイのタックルのように身を屈めてすばやくその夕刊を拾 い上げた。 「ひでえことをするなよ。明日の競馬の虎の巻だあ。こら っ、女給《おんな》ども! 何がおかしい。貴様たちは夜明けに、三 階の寝部屋の窓から飛ぶんだぞ。落花の風情と、ちゃんと この新聞に出てらあ。落花はいいが、花って面《つら》かい。それ よりちゃんと穿く物は穿いて寝て、おかしな恥をかかねえ ようにしろよ。そちはどう思う」  女給たちは呆れて、遠のいて行った。武蔵は、大事な大 事な虎の巻を、内ポケットの奥ふかく納《しま》いこんで、頭を抱 えてテエブルに術伏した。 「明日ありと思う心の仇ざくら、夜半に嵐の吹かぬものか はーこいつあ西郷隆盛の辞世じゃ。じつに、真理じゃ ね」 「お前さん大分アルコールが廻ってるな」  と、冷然と。ハイプをくゆらしながら、鱈間垂平が言った。 「酔ってなんかいやしねえよ。このとおり、いくら飲んで も酔えねえんだ。おい! 鱈公、君に明日の特種《スクゥプ》をやろう。 一日先のニュースだ、いいか、ムヅソリニとエチオピアが がぜん仲直りするぞ。それから、また支那に抗日事件が起 って、関東軍は重大決意を余儀なくせらるべし。社会記事 としては、あのおれの勤めてる信栄社が、社長はじめばっ さりと捕《や》られることになるんだがーははあ、お前、何を 言うって顔をして、ろくに聴いてもいないな、ふふん! 明日になって樗くなよ。ああ、何を言っても、人は誰も俺 を真面目に相手にしてくれんです。やんぬる哉じゃ1 わ れ笛吹けど人の子踊らず。予言者は辛いです」 「ばかにお饒舌《しやべり》だな、今夜の武蔵は。それはそうと、その 予言者で思い出したが、明日の府中の予想はどうだ」  ウイスキー・ソウダをぐっと岬って、にこりともしない で鱈間垂平が訊いた。 「うむ! そうだ! 明日の準備がある。こりゃこうして おられん」 椅子の上からいきなり錐《きり》で突かれたように、武蔵は、が たんと棒立ちに突っ起ったものだ。 モウルス信号SOS 「なんだ、来たと思ったら、もう帰るのか」 「うん。明日の競馬で、俺あ大ブルジョアになるんだ。す まないね。鱈間、君との交際も、今夜かぎりと思ってくれ。 なにしろ、明日からは身分が違うからね」 「そうか」と鱈間垂平は、平気で、 「貧乏記者などの接近 を許さん、大金持になるというわけだね。ははははは、結 構だ」 「これから、その競馬に賭ける資本の金策だ。今夜はこれ で失敬する」  ボックスを離れた武蔵は、急に立ちどまって、 「おや! あの女は何だ」  と、灯の薄暗い酒場《バア》の一隅を凝視《みつ》めた。そこに、壁のほ うを向いて、洋装の女がしょんぽり立っているのだ。まる で、みんなにその存在を忘れられたかのように、そして、 誰にも顔を見られたくないといったように。 「何だ彼女《あいつ》は。そちはどう思う」  武蔵はそう言って、そっと鱈間をかえり見た。パイプの 煙りと一しょに、鱈間は欠伸をして、 「何だか知らんが、先刻《さつき》からああやって、壁のほうを向い て立ったきりなんだ。ここの酒場の女じゃないようだ。な にかわけがあって、顔を隠してるんじゃないのか」 「気味のわるいやつだな。おい! 姐《ねえ》さん、お嬢さん、そ れとも奥さんー」呼びかけて、二、三歩そっちへ近づい た武蔵へ、女は出しぬけに振り返った。 「ねえ、どっかでお茶飲まない?あたしのアパアトヘ行 きましょうよ」  さっき数寄屋橋の上で会った女だ。 「いけねえ。また会っちゃった」と武蔵は、わざと騎士的 なおじぎをして、兵士のように、くるりと廻れ右をした。  ナンバア・ワンの美代子が、説明するように言った。 「その女すこし変なのよ。二階《あたま》がお留守なんだわ。このご ろ毎晩のようにやって来て、男の人を見るとそんなことを 言うのよ」  あちこちのボックスを占めている酒場中の客が、一時に どっと笑った。すると、鱈間のほうへ別れの手を振った武 蔵が、出口をさして歩き出した途端である。ばっと電燈が 消えたのだ。 「おや、停電」  暗い中で、さっそく誰かが女給に悪戯をしたらしく、笑 いを含んだ消魂《けたたま》しい悲鳴が走った。と、たちまち電燈が点《つ》 いた。が、またすぐ消えた。二、三度、長短の間を置いて、 電燈はついたり消えたりした。それは、何かの合図のよう な意味ありげな複雑な点滅だった。  最後に、やっと電燈が常態に復した時、 「武蔵!」と口からパイプを放して、ボックスから鱈間垂 平が呼びとめた。 「今の停電は、ありゃ君、ちゃんと言語《ことま》を作《ま》してるんだ ぜ」  ドアを出かかっていた武蔵は、不思議そうに、 「へええ! 電気が口をきいたのかい。そちはどう思う」 「まったく、そちはどう思うだね。とん、つうーとんと ん、つうーこういう風に消えたろう? ありゃあ万国共 通のモウルス信号なんだ。しかも、SOSーわれ危険に 瀕せり。急ぎ救いを求む。武蔵、そちはどう思う」 「よせやい! お前そのモウルス信号が解るのか」 「わかるとも。今のはたしかにSOSだ。誰かの命が危 い」  他の客も、女給たちも、変に不気味に黙り込んで、顔を 見合わせた。が、 「明日の歴史」を知っている武蔵だけは 自分の超人間的た力を信ずるかのように、ことも無げに笑 うのだ。 「誰か変電所でいたずらでもしたんだろ。じゃ、鱈間、失 敬。明日は府中から、わんさと金を持ってくるぞ。おん ヤ! 傘が無い」 死人とアベック・ドライヴ  あの薄紅色《ピンク》のパラソルが、影も形もないのだ。  が、失くなったのは、傘だけではない。あの数寄屋橋の 女が、いつの間にか消え失せたのだ。今の停電騒ぎに紛れ て、きっと行きがけの駄賃にあの武蔵のパラソルを持って そっと出て行ったのだろう。 「盗《や》られた! そちはどう思う」  眩いて武蔵は出口の扉を押した。  と、どうだ! いくら押しても開かないのだ。武蔵が真 っ赤になって、全身の力を軍めて戸を押していると、見つ けた美代子が飛んで来て、 「あら、武蔵さん、ドア壊しちゃうじゃないの。その戸引 くのよ」 「あ、そうか」  引くとすぐに開いた。なるほど、戸外《そと》から押すドアは、 内側からは引くべきだ。それにしても、毎晩のように来て いるこのカメレオンの扉で、こんなに間誤《ま こ》ついて醜態を演 ずるなんて! 「俺は今夜、よっぽどどうかしているぞ。そちはどう思 う」  ひとり言をいって、武蔵は、夜中の銀座の横丁へ出た。 鱈間垂平は、音響と人いきれと、煙草のけむりで騒然たる 深夜の酒場で、女給どもを遠ざけ、酒瓶を近づけて、例の 巨大なパイプを横にくわえて、「一八八一年のインド総督 ヘンリイ・フレミング卿が大英帝国綿花協会総会席上にお いてなしたる報告演説」というインド語の小冊子《パンフレツト》をつまら なそうに欠伸をしながら、読み耽っていた。  あの、正体のしごく不明瞭な傘などは、無くなってかえ ってよかった。戸外へ出てみると、雨はいつしかからりと |霧《あか》って、いささか古風な表現を使用すれば、それは、星の 降るような美しい静夜《せいや》であった。  あの酒場《バア》カメレオンの連中をはじめ、まだそこらを泳ぎ まわっている、利口そうな顔をした銀座人種が、みんな、 来るべき二十四時間内の出来事をなにも知らないのだと思 うと、武蔵君は、自分以外の人間が、じつに愚劣な軽蔑す べき阿呆に見えてならたかった。彼のポケットには「明日 の夕刊」がある。その夕刊には、明日の競馬の勝馬が、す っかり載っているのだ。そのとおりに賭けさえすれば、あ したこそは大穴の当てづめで、一挙に大財産を掴むことが できるのだ。半与太者なこの長年の貧乏生活とも、今夜で グッド・バイだ。武蔵は、天下を取ったような大きな気で、 反っくりかえって鋪道を悠歩《ゆうほ》してゆく。だが、彼にその明 日の夕刊を売った、あの髪の白い老人のことを、その後武 蔵が不思議と一度も思い出さないのは、それこそ、そちは どう思うである。  武蔵の家は、神田連雀町だ。彼は、ファシストの挨拶み たいに、横柄に片手を上げて、流しの円タクを惹き寄せた。  そして、郷里へ錦を飾る総理大臣のように、もったいぶ って座席に腰を下ろした時だ。ふと気がつくと、そのタク シイの番号が、なんと422591死《シニニイク》にに行く! 「わっ! こいつあいけねえ!」 「これ、旦那、何がいけねえんでしょう」  と、眼を丸くした運転手は、気のせいか、死神みたいな 額え声を発するのだ。 「ちょ、ちょっと下ろしてくれ。忘れ物をしたんだ」 「人生に忘れ物はつきものでさあ。この自動車は、走り出 したが最後、ちょっくらちょっと停まらねえんです。制動 機《ブレ キ》がきかねえんでね」 「驚いたねどうも。嫌だねまったく、そちはどう思う」 「呼びとめたのが因果だと諦めて、乗って下さいよ。仏も 浮かばれますから」 「えっ-・ほ、仏? 冗談じゃないぜおい。いやだよ俺は」 「旦那あ」 「変た声出すなよ」 「仏といったので、御不審でしょうが、ちょいとその坐席《シ ト》 の隅を見てやっておくんなさい。骨壷《こつつぼ》がござりましょうが ー」 「うヘヘヘ! ある、ある! まさにあります。なんだか 白い布《きれ》で包んだ四角い箱が置いてあるが、お骨かい、こり ゃあ!1ううむ、おい! ストップ! 下りるよ俺あ。 下ろしてくれ! 頼む! 後生だ! 助けてくれ!」 礼に来た女  骨壷を積んだ深夜の自動車だ。運転手はハンドルを握り ながら、独り語のように、ぽそぽそと話しつづけるのだ。 「話せば長いことながら、旦那様あ、まあひととおりお聞 き下さいましー」 「嫌だなあ。その旦那様あだけはよしてくれよ、ぞっとす るよ」 「そのお骨は、わっちの嗅《かか》あでごぜえますが、去年の秋の |患《わず》らいにー」 「き、君の細君かい、此骨《これ》は」  と武蔵君は、自分と、その小さな白布包の箱との間に、 あたうかぎりの距離を置こうと、座席のこっち側にぴった り貼りついて、 「それはどうも御愁傷なことで、さぞお力落しで」 「薬石効なく、ついにこんな変りはてた姿になりました。 いよいよいけねえという時には、まるで、四谷怪談のお岩 様のような顔になってねえ旦那、糸のような手を合わせて ー」  武蔵はしっかり眼を閉じて、 「うわあっ! 桑原桑原! 南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》1」 「土へ埋めてしまうに忍びねえので、こうして毎晩|自動車《くるま》 へ載せて、一緒に流しておりますんで。二世までも、これ がほんとの夫婦共稼ぎでございます。お哀れみ深い旦那様 あ下りる時に、決めの料金の他に、幾らでも香璽《こうでん》をやって 下さいまし。思召しで結構でございます。故人もどんなに かよろこびましょう。御焼香もして下さるようなら、お線 香の用意もござります」 「うむ、香璽なんかいくらでも弾むから、早く下ろしてく れよ、おい! 安全地帯に乗り上げちゃ、危いじゃない か」 「私やもう涙に眼が掻き曇って、先が見えませんから、旦 那よく前方《まえ》を見ていて、もしトラックでも来たら、教えて 下さいよ。私は家内の傍へ行くんですから、死んでもかま いませんがね」 「呆れたねどうも!驚いた自動車だね。ここでいい。俺 あここで下りるんだから」 「旦那あ、まだ神田連雀町まで来ませんよ」 「おや! どうして君あおれの家を知ってるんだ」 「さっき旦那がお乗り下すった時、往先をおっしゃったじ ゃありませんか」 「あ、そうか。それはそうと、ここはまだ日本橋だね。ず いぶん遅い自動車だな」 「へえ。すこし急がせると、関節がばらばらになりますん で。何しろ、二六年型ですから」  それでも、やっと連雀町の露地の前に辿り着いて、武蔵 はふうふうになって自動車を降りた。全身にびっしょり汗 を掻いていた。賃金のほかに、十銭を香璽に投げるが早い か、武蔵は、自宅の格子をあけて駈け込んだ。二間きりの ちゃちな長屋住いなのだ。 「ああ愕いた。変った運ちゃんもあったものだ。寿命が縮 まったよ。そちはどう思う」  起きて待っていた武蔵夫人|閑子《かんこ》が、そそくさと迎いに走 り出た。つい先頃《こたいだ》までダンサアをしていた、眼のくりっ《さしヤ》と した可愛い細君だ。 「お帰んなさい。あんた、何か慈善をしたでしょ?」  武蔵は土間で靴を脱ぎながら、 「慈善?」 「ええ。だって、たった今、病人みたいな女の人が、お礼 に来たわよ」 「病人みたいな女? はあてな」 「うん。四谷怪談のお岩みたいに、凄い顔した女。何だか |良人《たく》の自動車に乗ってくれてありがたいとかって、そこの 玄関に立って、何度もお低頭《じぎ》してたわ」 「わっ! 来たかあ?」 「こんな、糸のような手つきをしてIl」 「止せよ! 脅され続けで、俺はもういいかげん降参《まい》って るんだ。今夜のような可怪《おか》しな晩はない。そちはどう思 う」 空想航海  大急ぎで跳び上がった武蔵だ。だしぬけに、細君の腕を ぐっと掴んだ。 「おい、閑助! その指輪を取れ。腕時計も外せ。それか ら、おれとお前のありったけの着物を持って、質屋へ行っ て来い! 良人の命令じゃ」 「何いってんのさ、藪から棒に」 「閑ちゃん! 長いあいだ貧乏させたね。すまなかった。 宮本武蔵みたいな意気地のない男と、夫婦《いつしよ》になったばかり に、若い身空に貧の苦労をさせて、まったく吾輩は不甲斐 なかったよ」 「あらら! 急にしんみりしちゃったのね。どうしたの さ」 「しかし、閑坊、その長の貧乏とも、今夜でお別れだよ。 気を落ちつけて、いま俺の言うことをよく聞いてくれ」 「あんたこそ落ちついてよ」 「馬鹿。これが落ちついていられるかてんだ! 明日から 俺たちは、ブルジョアになるんだぞ。何だ、そんな剥《は》げち ょろけの寝巻なんか、脱いでしまえ!」 「あら、これ脱いだら、裸体《はだか》になっちゃうわよ。ねえ、《 》む さ公、それより、明日の府中の当りついた? 明日はあた し連れてってね」  と、この武蔵夫人閑子も、じつは、夫君に負けない競馬 きちがいなのである。ダンサアだったころ、閑ちゃんのは フォックス・トロットじゃない、ホゥス・トロットだなん て言われたものだ。武蔵君とホゥルで躍りながら、競馬の 話に花が咲いて、実を結んで、馬の取り持った縁で結婚線 ヘゴール・インした競馬夫婦なのだ。  武蔵は頼母《たのも》しそうに、 「うむ、閑坊、よく言った。それでこそ宮本武蔵の女房だ ぞ。そこで、その明日の府中競馬だが、俺は今夜偶然ある ことから、もう今、明日の勝馬がすっかりわかったんだ」  と自信に満ち満ちて言ったが、あの「明日の夕刊」のこ とは、現在連れ添う女房にも、秘密にしておきたいーし きりにそんな気がしたので、あることでとだけしか、深く は明かさなかったのである。  閑子は笑いだして、 「あんたったら、いつもそんなこと言《ヤもち》って、耗《す》ってばかし いるじゃないの。今度こそはってのが、むさ公のお定まり 文句だわ。明日も損するにきまってるわよ」 「ふふふふふ、知らねえもんだからそんなことを言う。明 日こそ外れっこないよ。たにしろちゃんと新聞に、過ぎ去 った事実として載《で》てるんだからな。そちはどう思う」 「え? 新聞に? 何のことっ-・」 「いやなに、こっちのことだが、閑ちゃん、お前は亭主を 信ずることはできねえのか」 「あら、信じてるじゃないの、こんなに」 「なら、文句無しに旦那様の言うとおりにしろ! なあ、 お閑、君昨日どっかのデパートで好きなジゴーゼヅトを見 たとか言ってたな。さっそくそいつを買ってやるぜ」 「あら! ほんと?」 「ダイヤは何店《どこ》がいいんだ。真珠はお前、嫌いかい?」 「あらっ、きらいじゃないわよ!」 「酒落た洋服《ドレス》着て、旅行したいって言ってたね。いっそ、 延ばして来た新婚旅行《ハネイム ン》に、上海《シャンハイ》かハワイヘでも伸《の》すとする か。夏の大洋の旅。一等船客。月に甲板《デッキ》でダンスは、悪く ねえぜ」 「あらっ! 素敵! ハワイの椰子の下で、ギター弾きた いな」  と閑子夫人は、指をいっばいに開いて、お乳《つばい》のところで ばちばちと手を叩いた。 「とにかく、こんな雨洩りだらけの裏店《うらだな》なんか、すぐ引き 払って、どこかスマートなアパートヘひっ越すんだぜ、閑 子」  武蔵は意気昂然として、 「だから、明日の賭ける金を大 至急今夜のうちに作らなくちゃならん。それがみんな、何 十倍になって返って来るんだからな。伊勢辰はもう閉まっ てるね」  伊勢辰というのは、横丁の、行きつけの質屋なのだ。 「あら嫌だ。何時だと思って? もう十二時よ」 「うん、いいことを思いついた! この露地の奥にいる源 爺さん、あれは古道具屋だったな。そうだ、彼奴《あいつ》が好い。 よし! おれが行って、叩き起して引っ張って来る。夜着 から鍋釜までそっくり売って、全財産を明日の競馬に賭け るんだ。元金《もと》が多ければ多いほど、儲けが大《でか》いからな。そ ちはどう思う」 「賛成!」閑子は、寝間着の袖からにゅっと白い腕を突き 上げて、高く高く万歳をした。 「そう決ったらむさちゃん 早く源爺さんを呼んで来たまえよ!」 真夜中の集金人 「急に大阪の支店長に栄転して、明日赴任することになっ たんでね」  寝呆け眼を擦りこすり何事が起こったかと引っばられて 来た源爺さんへ武蔵は莞爾《かんじ》たる説明顔でそんなことを言っ たものだ。  裏長屋から支店長に浮び出た時のような顔をして、源爺 さんに、妻の閑子のチビた下駄まで売り払った宮本武蔵は、 明日の競馬にかける金を漁って、深夜の大東京を駈けずり 廻っていた。  都会! それはたんという残酷な代名詞だ。表は人なつ かしい顔。裏を返せば、冷淡な能面の二つの表情をもった 都会人の棲家だ。 「おい! 中野! 起きろよ! 金策にきたんだ。宮本だ。 武蔵だ」  手から血が出るほど戸を叩くが、しいんと沈まりかえっ ている。門標を見ると、今の今まで飲み仲間の中野の標札 であったのが、高利貸の只野にかわっている。 「ひゃっ! 記っかねえ、おっかねえ。たしかにさっきは、 中野だったがー今夜という今夜は、みょうなことだらけ だ」  武蔵は、厚い圧力でせまってくる霧を泳ぐように、次の 友達を訪ねると、やっと五十銭玉が手に握らされただけだ。  熔鉱炉のような都会の灯に溺れながら、与太者の宮本武 蔵は、やはり、個人だけが、バラバラに住む都会の僅《はかな》さと いうものを考えて、付け元気に口笛を吹いていた。  するとすべるように霧の中に流し円タクが現われた。  みょうな気分が手伝って、指で招くと、 「旦那、どちらへまいりましょう」と運転手が云った。 「俺の友達はあるようでたいんだよ。東京市中、勝手に運 んでってくれ。なにかまやあしねえ」 「じゃあ、小日向台町へまいりましょう」  宮本は、例の夕刊のことをおもい出してぎょっとした。 「やだよ。小日向台町だけは」 「だって旦那はどこでも勝手に行けとおっしゃったじゃあ りませんか」  こうして、ま夜中の二時ごろ、小日向台町の会社員風の 家の前に、武蔵は立たされていた。 「夜分、おさわがせ申しますが、お宅へは三時二十分に強 盗がはいることになっているんだ。だから戸締りを厳重に しておくんだね。誰が何といっても、はいることになって いるんだから」  ふるえあがる家人に武蔵はこう云った。 「これで一役すんだ。次も勝手に行ってもらおう」  やがて、五、六十銭ほどの掃きよせた金を握って、三時 二十分ごろ、ちょうど前の会社員風の家の前で降されてい た。  するとその時、待っていたと言わんばかりに、玄関から 出て来た強盗にばったり会ってしまった。 「畜生!」  宮本武蔵は、その男の首を締めあげると、じつに簡単に のびてしまった。 「何もかも俺がやっているようで、俺がやっているとおも えねえ。なんだか、他人《ひと》にあやつられているような気だ。 何?俺は人を殺すもんか。第一あんなに弱く首をしめあ げただけで、人間一匹がへたばるもんか。おい強盗君1 暁方ごろには目を醒ましなよ」  こうして宮本は、強奪したばかりの強盗の懐中を、巻き あげてしまった。 「八時三十六分I八時三十六分。たしかに八時三十六分 だ。こいつあ物凄えぞ! 今日の競馬は大当りだ」  どうせ、競馬師はみょうな縁起をかつぐものである。そ れにしても、昨夜《ゆうべ》からの宮本の行動を、彼女は怪しく思う のであった。  都会も雀で夜があける。  一晩ねなかった宮本は、閑子とあっさり朝の食事を了《お》え て、どんよりとした空模様の鋪道を済生堂薬局に急ぐので あった。 「むさ公! これでもう百遍以上よ。お百度じゃあるまい し、何の用があるんだ」  何も知らない閑子は頬っぺたに風をいれて云った。 「黙っていろよ。今にわからあ」  武蔵の目はすっかり血走り、喘ぎ喘ぎ腕時計と首っ引で 済生堂の前を見ていると八時三十四分! 突如製本材料を 積んだオートバイがダッダッと現われると、見る間に、風 のように現われた円タクとまさに見事に正面衝突だ。 「あっ!」  閑子が武蔵を振り返ると、宮本は科学者のように冷然と 胸を張った。  省線は府中行きの人々で一杯だ。  あっちからも、こっちからも、手を振ったり、ちょっと、 首だけの挨拶をして宮本武蔵の「顔」に敬意を表するので あった。 「競馬の舞台に乗せればむさ公も相当なもんね」  と同じ競馬狂の閑子がはしゃいだ。  それにしても武蔵は、美代っべの奴、今ごろは、大火傷 でどこかの病院に坤吟しているのだと思うのであった。 「キング・オブ・キングス号で、二百円を当てた精研杜で ござい。穴馬を狙うなら精研社……」  競馬場の入口に旗を立てて、ずらりと台を並べた予想屋 が声を優《か》らしている。一枚五十銭、一円の謄写版に羽が生 えて売れ、競馬場は玩具をひっくりかえしたような賑かさ だ。  この間を縫うように呑《のみ》屋、運送屋、スウィッチというイ ンチキ連が泳ぎまわっている。  宮本武蔵は、馬さえひひんと仁義する競馬場の顔役だ。  したがって生死をともにする取巻きも多いというものだ。  鉄傘《てつさん》のスタンドに囲まれた府中の競馬場は、慾の踊る円 板だ。でっぷり太った体を明石で包んだ待合のお内儀《かみ》の傍 らに、シングルカットのお嬢さんが、オペラグラスを覗い ている。  二号館は大衆の見本市だ。八百屋の親方、役場の助役、 下級サラリーマン、赤ん坊を括りつけた下町の年増。  この渦の底1それは集金を俊ってきた小憎さんをめそ めそさせ、生活に疲れた夫婦の夜逃げの相談をさせ、有名 な代議士を監督席によじのぼらせ「いまの審判官を誠首《くび》に しろ」とどたらしたりするのである。  宮本夫妻は、この一隅に取巻き連をひきつれて席をとっ ているのである。  アラブ特ハンデ二○○Oメートルで開始された。  閑子はオタケビ号が必ず一着だと頑張り、取巻き連はス ナッピイ・ボウイだ、やれオタケビだと、争うのだった。 しかし宮本武蔵は、意外! ワレラガエイユウだと頑張る のである。  だが、結局、皆んな宮本武蔵の主張にいやいや同意して 馬券を買ったのであったが、はたしてワレラガエイユゥ号 が、断然、第一着であった。  宮本武蔵自身にさえ意外な大穴だった。  しかし、第二回の古呼特ハン二二○○メートルで宮本が 与太馬のハナヨリダンゴ号に決めたおりは、さすがの閑子 もすねて先へかえると駄々をこねだし、取巻き連は、宮本 武蔵の頭が少しバネがゆるんだと思ったほどだ。  ところが、こいつも勝負はじつに意外であった。内藤騎 手のキング・オブ・キングスがトップを切っていると、馬 場の三分の二を過ぎたころ、猛烈な勢で内藤騎手の派手次 縞の服が空間に投げ出され、キング・オブ・キングスが、 大もんどりうって倒れると、雁行していた馬は畳みこまれ るようにひっくりかえってしまった。  こうして一番ビリのハナヨリダンゴ号が一着でちょっと 類のない大穴をあけてしまった。  こうなると、武蔵の人気はすさまじいものである。  宮本武蔵は、自分の王国が一歩一歩と、近づいてくるの を感じた。  今晩は十分飲まされた上、当分の遊び金にありつけると 独りぎめの取巻き連は、武蔵の喜びに拍車をかけるのだ。 「細君《さいくん》! 今日の当りは俺自身も呆れている。そちはどう おもう」 「もち、ぼくもよ」  配当場との連絡をやっている通称スウィッチの猿公が、 「ちょっと、デカらしいですぜ、親方」  これには宮本も、ぎょっと顔色を変えて、 「何をくだら ないことを言うんだ」と、たしなめるのだったが、昨夜の 強盗は馬鹿に脆かったが、ひょっとすると、あのまま参っ てしまったのかとも思われるのである。そして強盗から 「ちょっと借りただけじゃないか!」と、自分の心に言い ふくめても、スタンド全部の視線が、刑事のような顔にみ え、かりたてられるような不安に追われたりするが、次の |競馬《レ ス》が開始されると、頭の中はただ、馬で一杯になるので ある。 「地球を三十五尺のボールとすれば、富士山は二分、海な んざあ塵紙に水をしめらせたようなものさ。針の穴ほどの 競馬場で、大将面アするのはよして貰いてえ。上海あたり へ行って見ろ、このバクテリア野郎」  部厚い唇が、すっかり酒にまいった男が、凄い眼を武蔵 に投げると、 「たのむ、その眼だけはよしてくれ、夕刊売のおやじの眼 付だけはやめてくれ、ときに君、上海はいいだろうね」  とみょうに神妙に、武蔵は札ビラを切ったものである。  シャンハイ! ハワイ!  今すぐにも飛んでゆきたい衝動にかられる武蔵だった。  と、湧きあがるレースの昂奮は、すべてを消しとばすの である。  慾の澱《おり》のぎらつく顔、顔、顔。魂まで賭けた人。運命の 背馳に面を覆うている男。皮膚で恋も賭ごともする近代女 性-東京に向う競馬がえりの省線は、こんな顔で埋って いるのだった。  ポケヅトというポケットを札束をふくらまして、取巻き に、大将、大将と煽《おだ》てあげられているのは、吾らの英雄、 宮本武蔵夫妻だ。  しみじみ武蔵は言ったものである。 「閑坊、もう省線に乗るのも今日かぎりだ。今日といえば 金曜日だな」 「やに縁起の悪いことをいうのね。今日かぎりなんて」 「明日からは自家用さ」 「まあうれしい、むさ公。シャンハイ、それからハワイ。 椰子の蔭で月と踊ろう」 「人生はだね。とにかく、夕刊は憂患に通ず。そちはどう おもう」 「ボク、そんな漢語しらないわ。ヤに詩人になったもんね。 今晩思いっきり飲みましょうよ」  取巻きは大仰に拍手をおくるのであった。 「でも、明日からまたお務めね」 「冗、冗談じゃねえ。宮本武蔵は天下の浪人さまだ。ここ に種本があらあ」  くしゃくしゃになった「明日の夕刊」をポケットからう やうやしく引き出した。  開いた夕刊に閑子が手をかすと、武蔵は太い指で、 「これだ。景気測候所長も己《おの》が運命の観測は不可能1だ とよ。社長も、団長も……」 「あららら、リリアンもね、かわいそうに。それにしても これは八月二十七日の夕刊ね。いつ、あなた買ったの」  閑子が尋ねると、 「まあ、そんなことはどうでもいいさ。ここに、鱈間のこ とが出ているぜ。東部毎日の論説に憤慨した黒衣社の幹部 |時代不迷《ときしろふめい》(二十七)が、午後二時五十六分、突如|七首《あいくち》を閃 めかして、編輯局に乱入したが、杜会部記者鱈間垂平の眼 潰しの赤インキに難なく取り押さえられ……」  「アラ、マアあの鱈間さんが」 「みょうな駄酒落はよせよ。ほほう、こりゃあまり活字が 小さいので、見落していた。競馬狂が札に埋まって列車中 に頓死か……。下らねえ野郎が一匹いやがる。しかし極楽 往生だな。閑ちゃん聞きなよ。こんなおめでたい奴がいる ぜ。  本日、午後七時〇三分、府中競馬帰りの車中で、神田連 雀町十二宮本武……わあっ……なんだって、大穴を見事に 当て続け、細君や、取巻き連に囲まれながら……嘘だ! 俺は、俺はな、生きているじゃねえか。下らねえ。……突 然狂いだし:::」 「あなた、どうしたの。そんな、バ、ばかなことなんか、 ・…・札をばらまきながら心臓麻痺で、……えっ心臓麻痺で  …」 「偽《うそ》だ。宮本武蔵は強いんだぞ。ピチピチしていらあ、あ 見ろ、あいつが夕刊売のおやじだ」 「何いっているの、そりゃ『明日の勝利』という映画の広 告の絵よ」 「いや、たしかに、たしかに夕刊売のおやじだ。嘘だ。こ の新聞は全部出鱈目にできていあがる。嘘つき野郎め」  宮本武蔵はこう叫びながら立ちあがった。電気にうたれ たようにー。 「いつだ。あッ七時だ。七時だ。もうあと三分だ。莫迦野 郎……ああ……俺は生きたい。生きたい」  死ぬるまで、もう三分なのだ。ただ、生きたいという本 能ばかりが、喉に突きあげる。  眼はじりじりやける。  その眼に大きく夕刊売の老人がクローズ・アップされる。 「美代っぺ。閑子夫人、鱈間。たのむ、どうか俺を生かし てくれ」 「この紙幣《さつ》さえ捨てれば助かる」  微風のような声が武蔵の耳に閃めいた。はっとした。 「そうだ」  途端に右手がポケットに……夢中だ。  バラバラバラバラー紙幣《さつ》は電車の窓から飛び出した。 床にも、クッションにもI。 「あっ」  同時に武蔵の左右から声がかかった。 「あなた!」  眼の前が紫色に昏《くら》んだ。  誰かが肩をつかまえた。それを払いのけようとしたが、 腕が思うとおり動かたかった。 「やっ、金だ。やっ、札だ」  騒がしい耳もとの声が、あだかも海底のように急速に遠 |退《の》いてゆく。 「オイ、夕刊を買わぬか、明日の」  はっとした。あの老人の声だ。 「くそ! ばかッ」  力のかぎり罵ったが、それは言葉をたさぬ捻《うめ》きである。 閑子の顔が白く浮んだ。瞬間鱈間に変った。 「おお」  手をあげて、それを抱こうとしたが1真暗な底に沈ん で行った。 「ううう」  最後の痙璽が襲った。  乗客の中から不安におびえた声がした。 「七時〇三分だ。七時〇三分だ」 「心臓麻癖だ1」 「あ、あ……」 「とうきょう! とうきょう!」  府中帰りの列車が最後の軋みをあげて止まった。心臓に 着いた静脈の血のようにー。  大東京に夜の幕かおり、星屑とビルディングの灯がひと つにぼやけると、蝙蝠《こうもり》みたいに昼間は屋根裏に寝ていた猟 奇者たちの群が、どこかに何かしら面白いこと、変った事 件があるような気がして、ただもうじっとしていられない。  「ねえ、随分待った?」  斜に帽子を冠った娘が、ベンチに待っていた青年に、足 ばやに近づきながら言った。  「や、なに、−‐‐‐銀座へでものそうか」  男は立ち上って、若い女の腰に手をかした。  二人の愛人同士の靴先に踏みにじられた「死の夕刊」を、老駅夫は、パタンと掃除器に掃きこんでしまったのである。